西村 祥治
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1911 | |
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生涯
[概要
[第 二 戦隊 司令 官
[1944
第 一 遊 撃 部隊 第 三 部隊 指揮 官 、戦死
[9月23
死後
[ただし、
- 「レイテで
本当 に真剣 に戦 ったのは西村 だけだった」[16] - 「
西村 は私心 のない智勇 兼備 の指揮 官 である」
とも
そして
- 「
日本 海軍 が米 海軍 に負 けたのであって、西村 司令 官 の責任 ではない。当時 の状況 下 においては、日本 海軍 のどの指揮 官 を持 って来 ても西村 司令 官 以上 の有効 指揮 は出来 なかった」 - 「
天下 の大勢 から達観 して西村 司令 官 の指揮 は最善 であり、今 でも西村 司令 官 や山城 艦長 を尊敬 している」
と
- 「あの
海戦 でほんとうに戦 ったのは西村 だけだったと小沢 が言 っています。大将 にしてあげたいですよ。」[20]
と
年譜
[- 1911
年 (明治 44年 ) - 1940
年 (昭和 15年 )- 11月1
日 第 四 水雷 戦隊 司令 官 に就任 。同 15日 に海軍 少将 に進級 。
- 11月1
- 1942
年 (昭和 17年 )- 1
月 24日 バリクパパン沖 海戦 に参戦 。 - 2
月 27日 - 28日 スラバヤ沖 海戦 に参戦 。 - 3
月 末 クリスマス島 攻略 作戦 に参戦 。 - 6
月 上旬 ミッドウェー作戦 に参戦 。 - 6月25
日 第 七 戦隊 司令 官 に就任 。 - 8
月 24日 第 二 次 ソロモン海戦 に参戦 。 - 10月26
日 南太平洋 海戦 に参戦 。 - 11月13
日 - 14日 ガダルカナル島 飛行場 砲撃 。
- 1
- 1943
年 (昭和 18年 )- 7
月 ニュージョージア島 の戦 い生起 によりブーゲンビル島 へ進出 、作戦 に従事 。 - 11月1
日 海軍 中将 に進級 。
- 7
- 1944
年 (昭和 19年 )- 9月4
日 大本営 海軍 部 、戦艦 長門 の第 二 戦隊 編入 を内定 。 - 9
月 10日 第 二 戦隊 司令 官 に就任 。第 二 戦隊 (同日 付 で編成 )は戦艦 山城 、戦艦 扶桑 の2隻 (第 二 戦隊 が編成 される前 は、第 二 遊 撃 部隊 (指揮 官 :第 五 艦隊 司令 長官 ・志摩 清英 中将 )に所属 [21]。)で構成 され、同日 付 で第 二 艦隊 (司令 長官 :栗田 健男 中将 )に編入 され、第 一 遊 撃 部隊 (指揮 官 :第 二 艦隊 司令 長官 ・栗田 健男 中将 )に部署 変更 [9]。 - 9月17
日 第 二 艦隊 司令 部 、長門 の第 二 戦隊 編入 を拒否 。 - 10月4
日 第 二 戦隊 、リンガ泊地 到着 [11]。 - 10月11
日 捷一 号 作戦 発動 。同 20日 、ブルネイにて燃料 補給 。 - 10月21
日 第 一 遊 撃 部隊 第 三 部隊 (同日 に編成 。戦艦 山城 (旗艦 )、戦艦 扶桑 、重 巡洋艦 最上 、駆逐 艦 4隻 (満潮 、山 雲 、朝 雲 、時雨 )の計 7隻 。)指揮 官 に就任 。 - 10月22
日 第 一 遊 撃 部隊 第 三 部隊 を率 いてブルネイを出撃 。 - 10月25
日 未明 スリガオ海峡 夜戦 において旗艦 「山城 」艦上 で戦死 。墓碑 は青山 霊園 にある。
- 9月4
人物 像
[旧制 秋田 中学校 時代 に、寄宿舎 で舎監 に不都合 があり、正義 感 の強 かった西村 少年 は見過 ごすことができずに問責 糾弾 して一 歩 も引 かなく、結局 秋田 中学校 を退学 させられた[22]。このことを、2クラス上 の小沢 治 三郎 に話 したところ「おれも退学 組 だよ。君 と同 じように中学 でナ。ガキ大将 で手 のつけられん暴 れん坊 だった。でも君 のほうがえらいよ。おれは不良 をブチのめして退学 になったが、君 は先生 を問責 したんだから」と笑 って答 えたという[22]。- バリクパパン
沖 海戦 での西村 について、千早 正隆 は"彼 一 代 の不覚 "としている[4]。 - レイテ
沖 海戦 での西村 について吉田 俊雄 は「元々 慎重 派 の武人 であり、綿密 に計算 した故 に飛 び込 み、後続 の栗田 艦隊 に後 を託 すべく突 き進 んだ。」と評 していた。 - レイテでの
出陣 前 での寄 り合 いで、部下 達 に隔 たり無 く付 き合 い、明 るく振 る舞 う姿 に、小柳 冨 次 は「西村 は死 ぬ気 だ」と感 じている[22]。 出撃 前 、西村 は西野 繁 中佐 (時雨 駆逐 艦長 )を旗艦 ・山城 に招 いて懇談 し、西野 は西村 の落 ち着 いて気負 いのない態度 に感銘 を受 けている[23]。三 人 の男子 があったが、西村 は大尉 時代 に次男 と三男 を失 い、長男 (西村 禎 治 海軍 少佐 (戦死 後 )、兵 65期 [24]。)は、1941年 (昭和 16年 )12月23日 、航空機 搭乗 中 に戦死 した[25]。第 二 戦隊 司令 官 に補 されてリンガ泊地 に向 かう直前 の西村 は、兵 39期 同期生 で親友 であった伊藤 整一 (当時 は軍令 部 次長 )と酒 を酌 み交 わし「今度 こそ、俺 は禎 治 のところへ行 くんだぞ、伊藤 ッ!」[1]と何 度 も繰 り返 したという[1]。
脚注
[注釈
[出典
[- ^ a b c d e “
西村 祥治 (にしむらしょうじ) -日本 海軍 、最後 の勇将 |校 史 資料 ”.秋田 県立 秋田 高等 学校 同窓会 (2014年 6月 6日 ). 2022年 2月 20日 時点 のオリジナルよりアーカイブ。2022年 2月 20日 閲覧 。 - ^ a b
防衛庁 防衛 研修 所 戦史 室 1972, pp. 270–274,第 1編 フィリピン沖 海戦 :第 5章 X日 (10月 25日 )の決戦 -聯合 艦隊 レイテ突入 作戦 成 らず:1第 一 遊 撃 部隊 支隊 、スリガオ海峡 に壊滅 す:旗艦 山城 の最期 - ^ a b 『
連合 艦隊 の栄光 』第 九 章 - ^ a b c d 『
日本 海軍 失敗 の本質 』第 三 章 - ^ 「
昭和 19年 8月 16日 (発令 8月 12日 付 )海軍 辞令 公報 (部内 限 )第 1565号 p.3」 アジア歴史 資料 センター Ref.C13072100600 - ^ a b c
有馬 馨 の遺稿 319頁 - ^ a b c
有馬 馨 の遺稿 320頁 - ^ a b 「
昭和 19年 9月 13日 (発令 9月 10日 付 )海軍 辞令 公報 (部内 限 )第 1592号 p.24」 アジア歴史 資料 センター Ref.C13072100900 - ^ a b
戦史 叢書 37 1970, p. 372. - ^
戦史 叢書 37 1970, pp. 568–569第 二 戦隊 の編成 - ^ a b c
戦史 叢書 37 1970, p. 569. - ^ a b
防衛庁 防衛 研修 所 戦史 室 1972, pp. 243–245,第 1編 フィリピン沖 海戦 :第 4章 Y日 ・航空 総 攻撃 日 -10月 24日 :4第 一 遊 撃 部隊 支隊 、順調 に進撃 す:悠々 スルー海 を進撃 :ブルネイ出撃 間際 に急遽 、部隊 編成 さる - ^ 『
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吉田 『指揮 官 と参謀 』「7責任 感 西村 祥治 」 - ^
佐藤 、艦長 たち 1993, pp. 241–242. - ^
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参考 文献
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頁 )空隙 と盲点 <駆逐 艦 「時雨 」艦長 ・西野 繁 中佐 の証言 >(レイテ沖 海戦 時 の時雨 駆逐 艦長 )
- (232-249
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