井上 いのうえ 成美 まさみ (いのうえ しげよし ,1889年 ねん 12月9日 にち —1975年 ねん 12月15日 にち ),宮城 みやぎ 縣 けん 仙台 せんだい 市 し 人 ひと ,與 あずか 塚原 つかはら 二 に 四 よん 三 さん 中將 ちゅうじょう 同 どう 為 ため 大日本帝國 だいにっぽんていこく 海軍 かいぐん 史上 しじょう 最 さい 后 きさき 兩 りょう 位 い 晋 すすむ 升 ます 的 てき 海 うみ 军大将 たいしょう 。
井上 いのうえ 成美 まさみ 于1889年 ねん (明治 めいじ 22年 ねん )12月9日 にち 出生 しゅっしょう 于宫城 じょう 县仙台 せんだい 市 し ,其父是 ぜ 经营葡萄 ぶどう 园的旧 きゅう 幕臣 ばくしん 井上 いのうえ 嘉 よしみ 矩 のり 。“成美 まさみ ”一名由来取自《论语 ·颜渊》:“君子 くんし 成人 せいじん 之 の 美 よし ,不 ふ 成人 せいじん 之 の 恶,小人 こども 反 はん 是 ぜ 。” 井上 いのうえ 成美 まさみ 从小立 おだち 誓 ちかい 不 ふ 愧为“海国 かいこく 男 おとこ 儿”。1906年 ねん 11月24日 にち 从中学 ちゅうがく 退学 たいがく 考 こう 入 いれ 江田島 えたじま 海軍兵學校 かいぐんへいがっこう 第 だい 37期 き ,成 なり 绩在181人 にん 中 ちゅう 排 はい 名 めい 第 だい 9,1909年 ねん 11月19日 にち 毕业成 なり 绩为179人 にん 中 ちゅう 排 はい 名 めい 第 だい 2,受赐奖品望 もち 远镜 。以少尉 しょうい 候 こう 补生的 てき 身 み 份先后 きさき 在 ざい 巡 じゅん 洋 よう 舰“宗谷 そうや ”、战列舰“三笠 みかさ ”、装甲 そうこう 巡 じゅん 洋 よう 舰“春日 しゅんじつ ”上 じょう 实习,于1910年 ねん 12月15日 にち 任海 とうみ 军少尉 しょうい ,海 うみ 军兵学校 がっこう 第 だい 37期 き 的 てき 最 さい 先任 せんにん 者 しゃ 。
1911年 ねん ,搭乘 とうじょう 战舰“鞍 くら 马”赴英国 こく 参加 さんか 英国 えいこく 国王 こくおう 乔治五 ご 世 せい 加 か 冕礼 れい 。1912年 ねん ,进入海 いりうみ 军炮术学校 がっこう 以及海軍 かいぐん 水雷 すいらい 学校 がっこう 普通 ふつう 科 か 受训,米内 よない 光政 みつまさ 大尉 たいい 和 わ 山本 やまもと 五十六 いそろく 大尉 たいい 曾任炮术教官 きょうかん ,在校 ざいこう 期 き 间晋升 ます 海 うみ 军中尉 ちゅうい 。1913年 ねん ,在 ざい 海防 かいぼう 艦 かん “高千穗 たかちほ ”、巡 めぐ 洋 よう 战舰“比 ひ 睿 ”服役 ふくえき 。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大 だい 战爆 ばく 发后,“比 ひ 睿”舰参与 さんよ 了 りょう 进攻德 とく 国 こく 胶州湾 わん 租借 そしゃく 地 ち 的 てき 青 あお 岛战役 やく ,日 にち 军成功 せいこう 击败德 とく 军并占 うらない 领青岛。1915年 ねん 7月 がつ ,调往第 だい 一 いち 水雷 すいらい 戰隊 せんたい 所属 しょぞく 第 だい 17驱逐舰队驱逐舰“櫻 さくら ”服役 ふくえき ,同年 どうねん 12月 がつ 13日 にち 晋 すすむ 升 ます 海 うみ 军大尉 たいい ,在 ざい 战列舰“扶桑 ふそう ”任 にん 分 ぶん 队长。1916年 ねん 12月,入 にゅう 日本 にっぽん 海軍 かいぐん 大 だい 學校 がっこう 乙 おつ 种班。1917年 ねん 12月,从专修 おさむ 航海 こうかい 科 か 毕业,后 きさき 调往部署 ぶしょ 在 ざい 印度 いんど 洋 よう 区域 くいき 的 てき 第 だい 一特务舰队,为协约国舰船提供 ていきょう 护航警备。
井上 いのうえ 的 てき 德 とく 語 ご 、法語 ほうご 以及英 えい 语水平 ひらた 非常 ひじょう 流 りゅう 利 り ,曾擔任 たんにん 駐 ちゅう 外 そと 武官 ぶかん 多年 たねん 。1919年 ねん 至 いたり 1921年 ねん ,派 は 赴駐瑞 みず 士 し 大使館 たいしかん 、駐 ちゅう 德 とく 国 こく 大使館 たいしかん 、駐 ちゅう 法 ほう 國 こく 大使館 たいしかん 等 とう 日本 にっぽん 駐 ちゅう 外 がい 機構 きこう ,以及在 ざい 和平 わへい 条 じょう 约实施 ほどこせ 委 い 员会,从事了解 りょうかい 德 とく 军武装 ぶそう 。井上 いのうえ 通曉 つうぎょう 德 とく 语,能 のう 不 ふ 須翻译官与 あずか 德 とく 国 こく 当局 とうきょく 交涉 こうしょう ,亦 また 能 のう 为英軍 えいぐん 军官做翻译。1921年 ねん 12月1日 にち ,晋 すすむ 升 ます 海 うみ 军少佐 さ 。1922年 ねん 3月 がつ 1日 にち ,任 にん 轻巡洋 よう 舰“球磨 くま ”航海 こうかい 长兼分 ぶん 队长,参与 さんよ 出兵 しゅっぺい 西伯 さいはく 利 とぎ 亚干涉 かんしょう 俄 にわか 国内 こくない 战的 てき 警备行 ぎょう 动。1922年 ねん ,入海 いりうみ 军大学 がく 甲 かぶと 种班第 だい 22期 き ,1924年 ねん 毕业时成绩在21人 にん 中 ちゅう 排 はい 第 だい 3名 めい ,后 きさき 入 いれ 海 うみ 军省 军务局 きょく 第 だい 一 いち 课任职。1925年 ねん 12月1日 にち ,晋 すすむ 升 ます 海 うみ 军中佐 さ 。1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )11月至 いたり 1929年 ねん ,在 ざい 日本 にっぽん 驻意 い 大利 おおとし 大使 たいし 馆任海 とうみ 军武官 かん ,直 ちょく 到 いた 40歲 さい 才 ざい 返 かえし 回 かい 日本 にっぽん 。1929年 ねん 11月30日 にち ,晋 すすむ 升 ます 海 うみ 军大佐 さ 。因 よし 井上 いのうえ 照 あきら 顾結核 かく 病 びょう 的 てき 妻子 さいし 要求 ようきゅう 在 ざい 陆上任 にん 闲职,1930年 ねん 转任海 とうみ 军大学 がく 教官 きょうかん 。
1932年 ねん 11月,出 で 任 にん 海 うみ 军省 军务局 きょく 第 だい 一 いち 课课长。1933年 ねん 3月 がつ ,为扩大 だい 军令部 ぶ 权力的 てき 军令部 ぶ 条例 じょうれい 及省部 ぶ 事 ごと 务互涉 わたる 规定改正 かいせい 案 あん 提出 ていしゅつ 的 てき 时候,作 さく 为海军省代表 だいひょう 的 てき 井上 いのうえ 成 しげる 美与 みよ 军令部 ぶ 代表 だいひょう 的 てき 南 みなみ 云 うん 忠一 ただかず 大佐 たいさ (时任军令部 ぶ 第 だい 二 に 科 か 长)发生激烈 げきれつ 冲突,南雲 なぐも 還 かえ 威 い 脅 おびえ 要 よう 殺 ころせ 死 し 他 た ,為 ため 此井上 じょう 在 ざい 辦公室 しつ 預 あずか 先 せん 留 とめ 下 か 遺書 いしょ ,但 ただし 作 さく 为主管 しゅかん 课长的 てき 井上 いのうえ 坚持不 ふ 同意 どうい 该案。當時 とうじ 自 じ 視 し 為 ため 「亞 あ 洲 しゅう 第 だい 一 いち 」的 てき 日本 にっぽん 朝野 ちょうや 上下 じょうげ 都 と 瀰漫 びまん 著 ちょ 一 いち 股 また 對外 たいがい 擴張 かくちょう 的 てき 意識 いしき ,但 ただし 井上 いのうえ 與 あずか 米 べい 內光政 せい 、山本 やまもと 五十六 いそろく 有 ゆう 類似 るいじ 的 てき 看 み 法 ほう ,在 ざい 陸軍 りくぐん 傾向 けいこう 與 あずか 德 とく 国 こく 、意 い 大利 おおとし 締 しめ 结軸 じく 心 しん 國 こく 的 てき 同時 どうじ ,米 べい 內等部分 ぶぶん 海軍 かいぐん 高層 こうそう 持 じ 激烈 げきれつ 的 てき 反對 はんたい 態度 たいど ,在 ざい 當時 とうじ 海軍 かいぐん 報 ほう 紙 し 記者 きしゃ 稱 しょう 這三 さん 人為 じんい 「海軍 かいぐん 三羽烏 さんばがらす 」。
最 さい 后 きさき 时任海 とうみ 军大臣 だいじん 大角 おおすみ 岑生 みねお 海 うみ 军大将 たいしょう 屈服 くっぷく 于军令 れい 部 ぶ 总长伏 ふく 见宫博 はく 恭 きょう 王 おう 海 うみ 军大将 たいしょう ,同意 どうい 扩大军令部 ぶ 权力。1933年 ねん 9月 がつ 20日 はつか ,井上 いのうえ 調 ちょう 任 にん 橫須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ ,山本 やまもと 被 ひ 調 しらべ 任 にん 第 だい 一 いち 航空 こうくう 战队司令 しれい 。同年 どうねん 11月 がつ 15日 にち ,井上 いのうえ 調 ちょう 任 にん 练习戰艦 せんかん “比叡 ひえい ”艦長 かんちょう 。1935年 ねん 11月15日 にち ,晋 すすむ 升 ます 海 うみ 军少将 しょうしょう ,随 ずい 后 きさき 调任横 よこ 须贺镇守府 ふ 参 まいり 谋长,得 とく 到 いた 横 よこ 须贺镇守府 ふ 司令 しれい 長官 ちょうかん 米 まい 內光政 せい 的 てき 信 しん 赖。在 ざい 「二 に 二 に 六 ろく 事件 じけん 」陆军皇 すめらぎ 道 どう 派 は 下 しも 级军官 かん 企圖 きと 发动政變 せいへん ,時任 ときとう 橫須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 長官 ちょうかん 的 てき 米 まい 內光政 せい 、與 あずか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 參謀 さんぼう 長 ちょう 的 てき 井上 いのうえ 成美 まさみ 命令 めいれい 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 警備 けいび 艦 かん 輕 けい 巡洋艦 じゅんようかん 木曾 きそ 快速 かいそく 出港 しゅっこう ,以防被 ひ 劫 こう 持 じ ,並 なみ 派遣 はけん 四個陸戰大隊警戒皇宮及海军省等机关。
1937年 ねん ,米 べい 內光政 せい 復 ふく 出 で 擔任 たんにん 內閣海軍 かいぐん 大臣 だいじん ,山本 やまもと 五十六 いそろく 調 ちょう 任 にん 海軍 かいぐん 省 しょう 次官 じかん ,井上 いのうえ 改 あらため 任 にん 海軍 かいぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局 きょく 局長 きょくちょう 。被 ひ 視 し 為 ため 「海 うみ 军省的 てき 左派 さは 三 さん 重奏 じゅうそう 」集結 しゅうけつ 在 ざい 代表 だいひょう 軍政 ぐんせい 的 てき 海軍 かいぐん 省 しょう ,避免与 あずか 美英 みえ 發生 はっせい 衝突 しょうとつ 。1939年 ねん 8月 がつ 30日 にち ,為 ため 了 りょう 避免在 ざい 陸地 りくち 上 じょう 被 ひ 暗殺 あんさつ ,山本 やまもと 五十六 いそろく 調 ちょう 任 にん 聯合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん ,1939年 ねん 10月 がつ 23日 にち ,井上 いのうえ 也被調 ちょう 往「支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 」参 さん 谋长,這段離 はなれ 開 ひらき 海軍 かいぐん 省 しょう 的 てき 期間 きかん 日本 にっぽん 加入 かにゅう 軸 じく 心 しん 國 こく 。11月15日 にち ,井上 いのうえ 晋 すすむ 升 ます 海 うみ 军中将 ちゅうじょう 。
1939年 ねん 至 いたり 1940年 ねん ,井上 いのうえ 成美 まさみ 参與 さんよ 策 さく 劃集结于汉口 方面 ほうめん 机 つくえ 场的海 うみ 军"第 だい 二联合航空队"(指 ゆび 挥官大西 おおにし 泷治郎 ろう 少将 しょうしょう )以及增援 ぞうえん 的 てき "第 だい 一联合航空队"(指 ゆび 挥官山口 やまぐち 多 た 闻少将 しょうしょう )與 あずか 陸軍 りくぐん 聯合 れんごう 进行轰炸重 じゅう 庆 作 さく 战,包括 ほうかつ 参与 さんよ 制 せい 订和指 ゆび 挥1940年 ねん “101号 ごう 作 さく 战”,井上 いのうえ 对101号 ごう 作 さく 战寄予 よ 很大期 き 望 もち ,飞到汉口前 ぜん 线激励 げきれい 部下 ぶか :借 か 此一役像当年对马海战一样“决定日本 にっぽん 的 てき 命 いのち 运”,企 くわだて 图通过空中 ちゅう 攻 おさむ 势使坚持抗 こう 战的蒋中正 せい 國民 こくみん 政府 せいふ 崩 くずし 溃。[ 1]
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1940年 ねん 10月 がつ ,出 で 任海 とうみ 军航空 こうくう 本部 ほんぶ 長 ちょう ,于1941年 ねん 提出 ていしゅつ 「新 しん 軍備 ぐんび 計 けい 劃論」,井上 いのうえ 是 ただし 以海军航空 こうくう 兵 へい 为主导论者 しゃ 之 の 一 いち 。同年 どうねん 7月 がつ ,日本 にっぽん 进佔法 ほう 属 ぞく 印度 いんど 支 ささえ 那 な 南部 なんぶ ,美英 みえ 隨 ずい 即 そく 凍結 とうけつ 日本 にっぽん 在 ざい 其國內資產 さん ,實施 じっし 石油 せきゆ 禁 きん 運 うん 、日 にち 美 び 关系迅速 じんそく 恶化,井上 いのうえ 曾提出 ていしゅつ “海 うみ 军航空 こうくう 战备的 てき 现状”指 ゆび 明海 あけみ 軍 ぐん 戰備 せんび 物資 ぶっし 遲滯 ちたい 與 あずか 短 たん 缺 かけ 的 てき 报告,向 こう 海 うみ 军首脑发出 で 警告 けいこく ,反 はん 对对美 び 战争,但 ただし 顯然 けんぜん 沒 ぼつ 能 のう 阻止 そし 日 び 軍 ぐん 擴大 かくだい 戰線 せんせん 向 こう 南洋 なんよう 攫取資源 しげん 的 てき 行動 こうどう 。
1941年 ねん 8月 がつ ,井上 いのうえ 成美 まさみ 轉任 てんにん 第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん 。太平洋 たいへいよう 战争 开战前 まえ ,第 だい 四舰队防区为日本委任统治的南洋群岛全境(马里亚纳群 ぐん 岛 、加 か 罗林群 ぐん 岛 、马绍尔群岛 等 ひとし ),但 ただし 兵力 へいりょく 薄弱 はくじゃく 。太平洋 たいへいよう 战争开战后 きさき ,第 だい 四舰队负责攻占威 い 克 かつ 岛作 さく 战,第 だい 一次进攻失败了,后 きさき 从攻击珍珠 たま 港 みなと 返 かえし 回 かい 的 てき 机 つくえ 动部队中抽调第 だい 二 に 航空 こうくう 战队支援 しえん ,确保制 せい 空 そら 权,才 さい 攻 おさむ 占 うらない 该岛。
1942年 ねん 3月 がつ ,井上 いのうえ 到 いた 拉 ひしげ 包 つつみ 尔指 ゆび 挥舰队攻占 うらない 新 しん 几内亚的 てき 莱城和 わ 萨拉莫阿的 てき RA作 さく 战。1942年 ねん 4月 がつ 至 いたり 5月 がつ ,該艦隊 たい 負 ふ 責 せめ 攻 おさむ 佔图拉吉 きち 岛 與 あずか 莫尔兹比港 みなと 的 てき MO作戰 さくせん ,日本 にっぽん 海軍 かいぐん 第 だい 五航空戰隊與第五、第 だい 六 ろく 戰隊 せんたい 歸 かえり 井上 いのうえ 指揮 しき 。該戰隊 たい 與 あずか 美國 びくに 艦隊 かんたい 接戰 せっせん ,即 そく 珊瑚 さんご 海 うみ 海戰 かいせん 。井上 いのうえ 被 ひ 己 おのれ 方 かた 戰 せん 報 むくい 誤 あやま 導 みちびけ ,下 した 令 れい 己 おのれ 方 かた 入 いれ 侵 おかせ 艦隊 かんたい 返 かえし 航 こう ,未 み 能 のう 擴大 かくだい 戰果 せんか ,因 いん 而被指 ゆび 责作战指导表现消极。有 ゆう 认为井上 いのうえ 更 さら 像 ぞう 学者 がくしゃ ,不 ふ 适合作 がっさく 战。
1942年 ねん 10月 がつ (53歲 さい 時 じ ),出 で 任 にん 江田島 えたじま 海軍兵學校 かいぐんへいがっこう 校長 こうちょう ,時 じ 因 いん 太平洋戰爭 たいへいようせんそう 引發民族 みんぞく 主義 しゅぎ 情緒 じょうちょ ,各 かく 級 きゅう 學校 がっこう 紛紛 ふんぷん 停止 ていし 教授 きょうじゅ 英文 えいぶん ,但 ただし 海軍兵學校 かいぐんへいがっこう 在 ざい 井上 いのうえ 的 てき 堅持 けんじ 下 か ,反 はん 而成為 ため 日本國 にっぽんこく 內極少數 しょうすう 仍公開 こうかい 教授 きょうじゅ 英語 えいご 的 てき 學校 がっこう (更 さら 難 なん 能 のう 可 か 貴 たか 的 てき ,在 ざい 於其為 ため 一 いち 所 しょ 軍 ぐん 校 こう )。
1943年 ねん 4月 がつ ,山本 やまもと 五十六 いそろく 的 てき 戰死 せんし (海軍 かいぐん 甲 かぶと 事件 じけん )給 きゅう 他 た 很大的 てき 震撼 しんかん ,使 つかい 他 た 有 ゆう 了 りょう 想 そう 儘早停止 ていし 戰爭 せんそう 的 てき 念頭 ねんとう 。繼 つぎ 東條 とうじょう 英機 ひでき 內閣垮台後 ご ,小磯 こいそ 國昭 くにあき 內閣1944年 ねん 7月 がつ 22日 にち 成立 せいりつ ,米 べい 內光政 せい 由 よし 預 あずか 備役再轉 さいてん 為 ため 現役 げんえき 大將 たいしょう 復 ふく 出 で ,成 なり 為 ため 內閣海軍 かいぐん 大臣 だいじん ,任用 にんよう 井上 いのうえ 。1944年 ねん 8月 がつ 5日 にち ,井上 いのうえ 成 しげる 為 ため 海軍 かいぐん 省 しょう 次官 じかん ;面 めん 对绝望 もち 的 てき 战局,由 ゆかり 於與陸軍 りくぐん 「御前 ごぜん 會議 かいぎ 」提出 ていしゅつ 「本土 ほんど 決戰 けっせん 」的 てき 主張 しゅちょう 相 しょう 衝突 しょうとつ 。兩人 りょうにん 開始 かいし 祕密 ひみつ 地 ち 為 ため 終戰 しゅうせん 做準備 じゅんび 工作 こうさく ,這些工作 こうさく 還 かえ 找了海軍 かいぐん 省 しょう 人事 じんじ 局 きょく 高木 たかぎ 惣 そう 吉 きち 少將 しょうしょう 協 きょう 助 すけ 。以生病 びょう 為 ため 由 よし 借 か 調 しらべ ,將 はた 高木 たかぎ 的 てき 工作 こうさく 地點 ちてん 設 しつらえ 在 ざい 海軍 かいぐん 大 だい 學校 がっこう 不 ふ 顯 あらわ 眼 め 的 てき 研究 けんきゅう 室 しつ 。高木 たかぎ 成 しげる 為 ため 聯 れん 繫人,協 きょう 助 じょ 井上 いのうえ 聯 れん 繫有相 しょう 同 どう 想 そう 法的 ほうてき 軍政 ぐんせい 要人 ようじん 。
1945年 ねん 2月 がつ 之 これ 後 ご ,繼 つぎ 日本 にっぽん 海軍 かいぐん 在 ざい 關 せき 鍵 かぎ 的 てき 菲律賓 まろうど 海 うみ 海戰 かいせん 敗北 はいぼく ,南洋 なんよう 往本土 ほんど 的 てき 石油 せきゆ 運輸 うんゆ 通路 つうろ 被 ひ 美 び 軍 ぐん 完全 かんぜん 切斷 せつだん ,海軍 かいぐん 的 てき 作戰 さくせん 艦艇 かんてい 、燃料 ねんりょう 、物資 ぶっし 均 ひとし 嚴重 げんじゅう 匱乏。對外 たいがい 失 しつ 去 さ 了 りょう 海上 かいじょう 作戰 さくせん 的 てき 戰力 せんりょく ,對 たい 內,也失去 さ 與 あずか 陸軍 りくぐん 軍 ぐん 力 りょく 平衡 へいこう 的 てき 態勢 たいせい 。依據 いきょ 陸軍 りくぐん 本土 ほんど 決戰 けっせん 的 てき 策 さく 畫 が ,海軍 かいぐん 將 はた 被 ひ 陸軍 りくぐん 吸收 きゅうしゅう ,這是米 まい 內和井上 いのうえ 完 かん 全 ぜん 不能 ふのう 接受 せつじゅ 的 てき 。1945年 ねん 4月 がつ 5日 にち ,小磯 こいそ 內閣總 そう 辭 じ 。4月7日 にち ,曾是海軍 かいぐん 大將 たいしょう 的 てき 鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 內閣成立 せいりつ 。井上 いのうえ 以海軍 ぐん 全體 ぜんたい 期 き 望 もち 的 てき 名義 めいぎ ,請表明 ひょうめい 倦勤的 てき 米 まい 內在鈴木 すずき 內閣繼續 けいぞく 留任 りゅうにん 海軍 かいぐん 大臣 だいじん 。5月15日 にち ,井上 いのうえ 在 ざい 多 た 次 つぎ 企圖 きと 說 せつ 服 ふく 米 まい 內拒絕 きょぜつ 大將 たいしょう 晉 すすむ 升 ます 的 てき 努力 どりょく 失敗 しっぱい 後 ご ,井上 いのうえ 升 ます 任 にん 大將 たいしょう ,並 なみ 以海軍 ぐん 大將 たいしょう 階級 かいきゅう 由 よし 海軍 かいぐん 省 しょう 次官 じかん 改 あらため 任 にん 軍事 ぐんじ 参議 さんぎ 官 かん 。
1945年 ねん 7月 がつ 26日 にち ,盟 めい 國 こく 發表 はっぴょう 了 りょう 《波 なみ 茨 いばら 坦 ひろし 宣言 せんげん 》,於8月 がつ 15日 にち 昭和 しょうわ 天皇 てんのう 發表 はっぴょう 終戰 しゅうせん 廣 こう 播,日本 にっぽん 投降 とうこう 。井上 いのうえ 於10月 がつ 15日 にち 轉入 てんにゅう 預 あずか 備役。
井上 いのうえ 在 ざい 战后教授 きょうじゅ 英 えい 语补习。担任 たんにん 海 うみ 军兵学校 がっこう 校 こう 长时,井上 いのうえ 就极力 りょく 反 はん 对英语教育 きょういく 废止论,坚持在 ざい 海 うみ 军兵学校 がっこう 推行英 えい 语教育 きょういく 。此外,井上 いのうえ 对教育 きょういく 方面 ほうめん 也有 やゆう 很独到 いた 的 てき 见解
井上 いのうえ 與 あずか 米 べい 內二 に 人 にん 雖受盟 めい 軍 ぐん 軍事 ぐんじ 審 しん 查,最終 さいしゅう 免 めん 於遠東 とおひがし 國際 こくさい 軍事 ぐんじ 法 ほう 庭 にわ 的 てき A,B級 きゅう 戰犯 せんぱん 起訴 きそ 。戰後 せんご 因 いん 日 び 軍 ぐん 被 ひ 解散 かいさん ,所有 しょゆう 軍人 ぐんじん 失業 しつぎょう 且沒有 ゆう 補償 ほしょう ,不 ふ 像 ぞう 一些將領利用昔日的人脈活躍於政商圈,井上 いのうえ 回 かい 到 いた 1933年 ねん 在 ざい 橫須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 任 にん 職 しょく 時 じ 所 しょ 置 おけ ,面 めん 海 うみ 的 てき 住處 すみか ,开始从事英 えい 语教学 きょうがく 工作 こうさく 。有 ゆう 記者 きしゃ 問 とい 他 た 為 ため 何 なん 這樣做,他 た 回答 かいとう :「我 わが 只 ただ 是 これ 個 こ 苟活的 てき 軍人 ぐんじん ,過去 かこ 軍部 ぐんぶ 的 てき 一意孤行曾帶給百姓無比的痛苦,對 たい 此我很慚愧 ざんき ……而今英語 えいご 已 やめ 是 ぜ 我 わが 們下一代立足世界不可或缺的工具,我 わが 這麼做,其實是 ぜ 在 ざい 贖罪 しょくざい !贖罪 しょくざい 啊!……」就這樣 さま 隱居 いんきょ 於橫須賀 よこすか ,直 ちょく 到 いた 86歲 さい 去 さ 世 よ 為 ため 止 どめ 。
1889年 ねん (明治 めいじ 22年 ねん )12月9日 にち - 宮城 みやぎ 縣 けん 仙台 せんだい 市 し 出生 しゅっしょう
1902年 ねん (明治 めいじ 35年 ねん )3月 がつ 31日 にち - 修 おさむ 畢宮城 みやぎ 縣 けん 尋常 じんじょう 師範 しはん 學校 がっこう 附屬 ふぞく 小學校 しょうがっこう 高等 こうとう 科 か 2年 ねん
1906年 ねん (明治 めいじ 39年 ねん )10月 がつ 31日 にち - 宮城 みやぎ 縣 けん 第 だい 二 に 中學校 ちゅうがっこう 5年 ねん 次 じ 中途 ちゅうと 退學 たいがく
11月24日 にち - 海軍兵學校 かいぐんへいがっこう 第 だい 37期 き 入校 にゅうこう 入校 にゅうこう 時 じ 成績 せいせき 順位 じゅんい 181名 めい 中 ちゅう 第 だい 8位 い
1909年 ねん (明治 めいじ 42年 ねん )11月19日 にち - 海軍兵學校 かいぐんへいがっこう 畢業 畢業時 じ 成績 せいせき 順位 じゅんい 179名 めい 中 ちゅう 第 だい 2位 い ・任 にん 職 しょく 少尉 しょうい 候補 こうほ 生 せい ・2等 とう 巡洋艦 じゅんようかん 「宗谷 そうや 」乗員 じょういん ・練習 れんしゅう 艦隊 かんたい 近海 きんかい 出發 しゅっぱつ 航海 こうかい 大連 たいれん ~仁川 にがわ ~鎮海灣 わん ~佐世保 させぼ ~鹿兒島 かごしま ~津 つ 方面 ほうめん 巡航 じゅんこう
1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )2月 がつ 1日 にち - 練習 れんしゅう 艦隊 かんたい 遠洋 えんよう 出發 しゅっぱつ 航海 こうかい 馬 うま 尼 に 拉 ひしげ ~安 やす 汶 ~棕榈岛 ~湯 ゆ 斯維爾 なんじ ~布里 ふり 斯班 ~悉尼 ~霍巴特 とく ~墨 ぼく 爾 なんじ 本 ほん ~弗 どる 里 さと 曼特尔 (西 にし 澳大利 おおとし 亚州)~巴 ともえ 达维亚 ~新 しん 加 か 坡 ~香港 ほんこん ~馬 うま 公 こう ~基 もと 隆 たかし 方面 ほうめん 巡航 じゅんこう
1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )1月 がつ 18日 にち - 巡 めぐ 洋 よう 戰艦 せんかん 「鞍馬 あんば 」乗員 じょういん 列席 れっせき 英國 えいこく 國王 こくおう 喬 たかし 治 ち 五 ご 世 せい 加 か 冕礼兼 けん 觀艦式 かんかんしき
1912年 ねん (明治 めいじ 45年 ねん )4月 がつ 24日 にち - 海軍 かいぐん 砲術 ほうじゅつ 學校 がっこう 普通 ふつう 科學 かがく 生 せい
1913年 ねん (大正 たいしょう 2年 ねん )2月 がつ 10日 とおか - 2等 とう 海防 かいぼう 艦 かん 「高千穂 たかちほ 」乗員 じょういん
9月26日 にち - 巡 じゅん 洋 よう 戰艦 せんかん 「比叡 ひえい 」乗員 じょういん
1914年 ねん (大正 たいしょう 3年 ねん )7月 がつ 19日 にち - 任 にん 職 しょく 第 だい 17驅逐 くちく 舰隊
1915年 ねん (大正 たいしょう 4年 ねん )12月13日 にち - 晋 すすむ 升 ます 海軍 かいぐん 大尉 たいい ・戰艦 せんかん 「扶桑 ふそう 」分隊 ぶんたい 長 ちょう
1916年 ねん (大正 たいしょう 5年 ねん )12月1日 にち - 海軍 かいぐん 大 だい 學校 がっこう 乙種 おつしゅ 學生 がくせい
1917年 ねん (大正 たいしょう 6年 ねん )5月 がつ 1日 にち - 海軍 かいぐん 航海 こうかい 學校 がっこう 高等 こうとう 科 か 第 だい 17期 き 學生 がくせい
11月27日 にち - 修 おさむ 畢海軍 ぐん 航海 こうかい 學校 がっこう 高等 こうとう 科 か
12月1日 にち - 砲艦 ほうかん 「淀 よどみ 」航海 こうかい 長 ちょう
1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )12月1日 にち - 在 ざい 日本 にっぽん 駐 ちゅう 瑞 みず 士 し 公使館 こうしかん 擔任 たんにん 海軍 かいぐん 駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん 進行 しんこう 德 とく 語 ご 學習 がくしゅう
1920年 ねん (大正 たいしょう 9年 ねん )7月 がつ 1日 にち - 凡爾賽 さい 條約 じょうやく 實施 じっし 委員 いいん 從事 じゅうじ 德 とく 軍 ぐん 武装 ぶそう 解除 かいじょ 確認 かくにん
1921年 ねん (大正 たいしょう 10年 ねん )12月1日 にち - 晋 すすむ 升 ます 海軍 かいぐん 少佐 しょうさ ・歸國 きこく
1922年 ねん (大正 たいしょう 11年 ねん )3月 がつ 1日 にち - 輕 けい 巡洋艦 じゅんようかん 「球磨 くま 」航海 こうかい 長 ちょう
12月1日 にち - 海軍 かいぐん 大 だい 學校 がっこう 甲種 こうしゅ 第 だい 22期 き 學生 がくせい
1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )11月26日 にち - 海軍 かいぐん 大 だい 學校 がっこう 甲種 こうしゅ 畢業 畢業成績 せいせき 順位 じゅんい 21名 めい 中 ちゅう 第 だい 3位 い
12月1日 にち - 海軍 かいぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局 きょく 第 だい 1課 か 英國 えいこく 担当 たんとう 課員 かいん
1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )12月1日 にち - 晋 すすむ 升 ます 海軍 かいぐん 中佐 ちゅうさ
1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )10月 がつ 1日 にち - 出仕 しゅっし 海軍 かいぐん 軍令 ぐんれい 部 ぶ
11月1日 にち - 在 ざい 日本 にっぽん 駐 ちゅう 意 い 大利 おおとし 大使館 たいしかん 任 にん 職 しょく 海軍 かいぐん 駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん ,兼 けん 艦 かん 政 せい 本部 ほんぶ 造船 ぞうせん 造兵 ぞうへい 監督 かんとく 官 かん ,兼 けん 航空 こうくう 本部 ほんぶ 造兵 ぞうへい 監督 かんとく 官 かん
1929年 ねん (昭和 しょうわ 4年 ねん )8月 がつ 1日 にち - 歸國 きこく
11月30日 にち - 晋 すすむ 升 ます 海軍 かいぐん 大佐 たいさ
1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )1月 がつ 10日 とおか - 海軍 かいぐん 大 だい 學校 がっこう 戰略 せんりゃく 教官 きょうかん
1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )10月 がつ 1日 にち - 出仕 しゅっし 海軍 かいぐん 省 しょう
1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )9月 がつ 20日 はつか - 任 にん 職 しょく 横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ
1935年 ねん (昭和 しょうわ 10年 ねん )8月 がつ 1日 にち - 任 にん 職 しょく 横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ
11月15日 にち - 任 にん 海軍 かいぐん 少将 しょうしょう ・横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 參謀 さんぼう 長 ちょう
1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )11月16日 にち - 出仕 しゅっし 軍令 ぐんれい 部 ぶ 兼 けん 出仕 しゅっし 海軍 かいぐん 省 しょう 進行 しんこう 兵科 へいか 機關 きかん 科 か 将校 しょうこう 統合 とうごう 問題 もんだい 研究 けんきゅう
1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )10月 がつ 20日 はつか - 海軍 かいぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう 兼 けん 将官 しょうかん 會議 かいぎ 議員 ぎいん
1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )10月 がつ 18日 にち - 出仕 しゅっし 軍令 ぐんれい 部 ぶ
1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )4月 がつ 29日 にち - 受頒勲一等 くんいっとう 旭日大綬章 あさひだいじゅしょう
9月25日 にち - 發出 はっしゅつ 電報 でんぽう 進言 しんげん 『反對 はんたい 進駐 しんちゅう 中南 なかみなみ 半島 はんとう 北部 ほくぶ 』
10月1日 にち - 海軍 かいぐん 航空 こうくう 本部 ほんぶ 長 ちょう
1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )1月 がつ 22日 にち - 提出 ていしゅつ 海軍 かいぐん 大臣 だいじん 及川 おいかわ 古志 こし 郎 ろう 之 これ 『新 しん 軍備 ぐんび 計 けい 劃論』
1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )10月 がつ 26日 にち - 海軍 かいぐん 兵學 へいがく 校長 こうちょう
1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )8月 がつ 5日 にち - 海軍 かいぐん 次官 じかん
8月 がつ 29日 にち - 開始 かいし 終戰 しゅうせん 工作 こうさく
11月4日 にち - 兼任 けんにん 艦 かん 政 せい 本部 ほんぶ 長 ちょう
11月18日 にち - 免除 めんじょ 艦 かん 政 せい 本部 ほんぶ 長 ちょう
1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )5月 がつ 15日 にち - 任 にん 職 しょく 海軍 かいぐん 大將 たいしょう ・軍事 ぐんじ 參議 さんぎ 官 かん
8月 がつ 27日 にち - 第 だい 五航空艦隊終戰事務査閲官
10月 がつ 10日 とおか - 待命 たいめい
10月15日 にち - 編入 へんにゅう 預 あずか 備役
1975年 ねん (昭和 しょうわ 50年 ねん )12月15日 にち - 神奈川 かながわ 縣 けん 横須賀 よこすか 市 し 長井 ながい 自宅 じたく 裡 うら 逝世,享 とおる 壽 ことぶき 86歲 さい
墓所 はかしょ 位 い 在 ざい 東京 とうきょう 都 と 府中 ふちゅう 市 し 多磨 たま 靈園 れいえん 。
演奏 えんそう 吉 きち 他 た 的 てき 井上 いのうえ
思 おも い出 で の記 き 井上 いのうえ 成美 まさみ 私 わたし 稿 こう
^ [《浴 よく 血 ち 长空》],陈应明 あきら 、廖新华,航空 こうくう 工 こう 业出版 しゅっぱん 社 しゃ ,第 だい 1版 はん ,2006年 ねん 。
^ [日本 にっぽん 侵略 しんりゃく 史 し : 日大 にちだい 將 はた 井上 いのうえ 成美 まさみ 的 てき 罪 ざい 、贖與不可 ふか 恕 じょ ]
日本 にっぽん 海軍 かいぐん 的 てき 奇特 きとく 將領 しょうりょう ——井上 いのうえ 成美 まさみ ,王 おう 光 ひかり 毅 あつし 著 ちょ
『戦史 せんし 叢書 そうしょ ・第 だい 79巻 かん 』 中国 ちゅうごく 方面 ほうめん 海軍 かいぐん 作戦 さくせん (2) (防衛庁 ぼうえいちょう 防衛 ぼうえい 研究所 けんきゅうじょ 戦史 せんし 部 ぶ 編 へん ・朝 あさ 雲 くも 新聞 しんぶん 社 しゃ )
『戦史 せんし 叢書 そうしょ ・第 だい 38巻 かん 』 中部 ちゅうぶ 太平洋 たいへいよう 方面 ほうめん 海軍 かいぐん 作戦 さくせん (1) (防衛庁 ぼうえいちょう 防衛 ぼうえい 研究所 けんきゅうじょ 戦史 せんし 部 ぶ 編 へん ・朝 あさ 雲 くも 新聞 しんぶん 社 しゃ )
『井上 いのうえ 成美 まさみ 』(井上 いのうえ 成美 まさみ 記念 きねん 刊行 かんこう 会 かい 編 へん )
『井上 いのうえ 成美 まさみ 』(阿川 あがわ 弘之 ひろゆき 著 ちょ ・新潮社 しんちょうしゃ ) ISBN 4-10-300414-2 C0093
『米内 よない 光政 みつまさ 』(阿川 あがわ 弘之 ひろゆき 著 ちょ ・新潮社 しんちょうしゃ ) ISBN 4-10-300413-4 C0093
『山本 やまもと 五十六 いそろく 』(阿川 あがわ 弘之 ひろゆき 著 ちょ ・新潮社 しんちょうしゃ ) ISBN 4-10-300415-0 C0093
『高松宮 たかまつのみや 日記 にっき 』(細川 ほそかわ 護貞 もりさだ ・阿川 あがわ 弘之 ひろゆき ・大井 おおい 篤 あつし ・豊田 とよだ 隈 くま 雄 ゆう 編 へん ・中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ ) ISBN 4-12-490040-6 C0320
『海軍 かいぐん の昭和 しょうわ 史 し 』(杉本 すぎもと 健 けん 著 ちょ ・光人 みつひと 社 しゃ ) ISBN 4-404-01662-X C0021
『高木 たかぎ 惣 そう 吉 きち 日記 にっき と情報 じょうほう ・上下 じょうげ 巻 まき 』(みすず書房 しょぼう ) ISBN 4-622-03506-5 C3031
『海軍 かいぐん 少将 しょうしょう 高木 たかぎ 惣 そう 吉 きち 語録 ごろく 』(藤岡 ふじおか 泰 やすし 周 あまね 著 ちょ ・光人 みつひと 社 しゃ ) ISBN 4-7698-0375-3 C0095
『海 うみ に帰 かえ る』(横山 よこやま 一郎 いちろう 著 ちょ ・原 はら 書房 しょぼう )
『一 いち 海軍 かいぐん 士官 しかん の回想 かいそう 』(中山 なかやま 定義 さだよし 著 ちょ ・毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ )
『日本 にっぽん 陸海 りくかい 軍 ぐん の制度 せいど ・組織 そしき ・人事 じんじ 』(日本 にっぽん 近代 きんだい 史料 しりょう 研究 けんきゅう 会 かい 編 へん ・東京大学 とうきょうだいがく 出版 しゅっぱん 会 かい )
『海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 沿革 えんかく ・第 だい 2巻 かん 』(海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 刊 かん )
『海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 出身 しゅっしん 者 しゃ 名簿 めいぼ 』(小野崎 おのざき 誠 まこと 編 へん ・海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 出身 しゅっしん 者 しゃ 名簿 めいぼ 作成 さくせい 委員 いいん 会 かい )
『最後 さいご の海軍 かいぐん 大将 たいしょう 井上 いのうえ 成美 まさみ 』(宮野 みやの 澄 きよし ・文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 社 しゃ )
『反戦 はんせん 大将 たいしょう 井上 いのうえ 成美 まさみ 』(生出 おいで 寿 ひさし 徳間書店 とくましょてん )
『戦略 せんりゃく 爆 ばく 撃 げき の思想 しそう ゲルニカ―重慶 たーちん ―広島 ひろしま への軌跡 きせき 』(前田 まえだ 哲男 てつお 著 ちょ ・朝日新聞社 あさひしんぶんしゃ 。新 しん 訂 てい 版 ばん 、凱風社 がいふうしゃ )ISBN 9784773630091
(批判 ひはん 的 てき な意見 いけん を述 の べた著書 ちょしょ )
明治 めいじ 時代 じだい 大正 たいしょう 時代 じだい 昭和 しょうわ 時代 じだい
1938年 ねん 2月 がつ 18日 にち -1943年 ねん 8月 がつ 23日 にち
人物 じんぶつ
机 つくえ 型 がた 惨 むご 案 あん 赔偿 纪念 相 あい 关电影 かげ