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ジョセフ・グルー - Wikipedia コンテンツにスキップ

ジョセフ・グルー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョセフ・クラーク・グルー
Joseph Clark Grew
生誕せいたん (1880-05-27) 1880ねん5月27にち
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくマサチューセッツしゅうボストン
死没しぼつ (1965-05-25) 1965ねん5月25にち(84さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく、マサチューセッツしゅうマンチェスター・バイ・ザ・シー
職業しょくぎょう ちゅうにちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大使たいし
国務こくむ長官ちょうかん代理だいり
国務こくむ次官じかん
など
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ジョセフ・クラーク・グルー(Joseph Clark Grew、1880ねん5月27にち - 1965ねん5月25にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく外交がいこうかん日米にちべい開戦かいせんどきちゅうにちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく特命とくめい全権ぜんけん大使たいしだい13だい)。

日米にちべい開戦かいせん回避かいひつとめた。開戦かいせん(1941ねん12がつこう日本にっぽん国内こくない抑留よくりゅうされ、日本にっぽん外交がいこうかんとの交換こうかんせんにより帰国きこく(1942ねん6がつ)。帰国きこく国務こくむ次官じかんとなり、日本にっぽんへの原子げんしばくだん投下とうか反対はんたいして天皇てんのうせい存続そんぞくうったえたり、終戦しゅうせん交渉こうしょう占領せんりょう政策せいさく立案りつあん尽力じんりょくした。終戦しゅうせん同時どうじ国務こくむ次官じかん辞任じにんし、私人しじんとして講演こうえん活動かつどうなどをつうじ、日米にちべい両国りょうこく親善しんぜんつくした。

吉田よしだしげるは、グルーは「本当ほんとう意味いみで、『しん日本にっぽんとも』であった」とたか評価ひょうかした[1] 他方たほう、グルーの日本にっぽん理解りかいには限界げんかいがあった[2]、あるいはかれ政治せいじてきにきわめて保守ほしゅてきであったことを指摘してきする見方みかたもある[3]

ち・学歴がくれき

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グルーは、マサチューセッツしゅうボストン西部せいぶのバックベイ (Back Bay)地区ちく[4] に、エドワード・スタージスおよびアニー・クロフォード・グルーのよん番目ばんめとしてまれた。2人ふたりあに(ヘンリーおよびランドルフ)とあね(エレノア)がいた。グルー祖先そせんがイギリスから渡米とべいしたボストンの名門めいもんで、貿易ぼうえき綿めんぎょう金融きんゆうぎょうなどでざいをなし、おなじく名門めいもんのパークマンやスタージスなどとつながっていた。

1892ねんあき人格じんかく指導しどうりょく社会しゃかい奉仕ほうし精神せいしん育成いくせい目指めざ全寮ぜんりょうせいのグロトンこう[5]入学にゅうがくした。同校どうこう卒業そつぎょう、ボストンの由緒ゆいしょある家庭かてい男子だんし通常つうじょう進学しんがくしたハーバード大学だいがく入学にゅうがくした。入学にゅうがくは、大学だいがく新聞しんぶん『クリムゾン』の編集へんしゅういんとして活躍かつやくするとともに、スポーツにも熱心ねっしんであった。もっとねつれたのが、「フライ・クラブ(Fly Club)」[6] であった。グルーはのちに「クラブでの活動かつどう社交しゃこう自分じぶんにとっての大学だいがく生活せいかつのハイライトであった」とべている[7]だい32だい大統領だいとうりょうフランクリン・D・ルーズベルトはグロトンとハーバードでグルーの2ねん後輩こうはいであったが、両人りょうにん当時とうじしたしく交流こうりゅうしていたという記録きろくはない。

グルーは、植民しょくみん時代じだい初期しょきにイギリスからマサチューセッツに移住いじゅうした「ピューリタン」(カルヴァン主義しゅぎながれを会衆かいしゅう長老ちょうろう)とはことなる、より自由じゆう主義しゅぎてき監督かんとく(エピスコパル)にぞくしていたが、勤勉きんべん責任せきにん奉仕ほうしなど、ニューイングランドながれる倫理りんりかんつちかわれ、生涯しょうがいつうじてそれをたもった。グルーは幼少ようしょう猩紅熱しょうこうねつにかかり、片耳かたみみ難聴なんちょうになった。このこと外交がいこうかんのキャリアをまっとうするじょうでハンディキャップとなった。大学だいがく卒業そつぎょう、1902ねん6がつから18ヶ月かげつ世界せかい旅行りょこうた。中国ちゅうごくアモイ)でとら狩猟しゅりょうするなどの体験たいけんのち日本にっぽん経由けいゆ帰国きこくした。

外交がいこうかん時代じだい—1932ねん以前いぜん

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修業しゅうぎょう時代じだい

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グルーが大学だいがく卒業そつぎょうしたころ、「職業しょくぎょうてき外交がいこうかん」の地位ちい確立かくりつしておらず、政治せいじてき功労こうろうしゃ大使たいし公使こうし領事りょうじなどに任命にんめいされていた。書記官しょきかんたち初任しょにんしゃ昇進しょうしん保障ほしょうされてはいなかった。グルーは、カイロのアメリカ総領事そうりょうじ書記しょきせいみちえらぶ(1904ねん7がつ同年どうねん11がつよりカイロ総領事そうりょうじ代理だいり)。

1905ねん10がつ、アリス・ペリーと結婚けっこん。アリスは日本にっぽん開国かいこくしたマシュー・ペリー提督ていとくあにオリヴァーのひまごにあたった。慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがくえい文学ぶんがくおしえていたちちトマス・ペリーに同行どうこう来日らいにちし、3年間ねんかん日本にっぽんごした。

そのグルーはセオドア・ルーズベルト大統領だいとうりょう口利くちききで、ちゅうメキシコ大使館たいしかんさんとう書記官しょきかん(1906ねん3がつ)・ちゅうロシア帝国ていこく大使館たいしかんさんとう書記官しょきかん(1907ねん5がつ)に採用さいようされた。1908ねん6がつちゅうドイツ帝国ていこく大使館たいしかん2とう書記官しょきかん、1911ねん1がつちゅうオーストリア=ハンガリー帝国ていこく大使館たいしかん1とう書記官しょきかんて、1916ねん9がつまつ〜12月後半こうはんドイツ代理だいり大使たいしつとめた。このころいち政権せいけん交代こうたいがあり(共和党きょうわとうウィリアム・タフト大統領だいとうりょうから民主党みんしゅとうウッドロー・ウィルソン大統領だいとうりょうへ)、民主党みんしゅとう支持しじしゃのはげしい猟官りょうかん影響えいきょうけることが予想よそうされたが、知人ちじんとう支援しえんがあり、留任りゅうにんできた。そして、ひっきりなしの歓待かんたいやヨーロッパの宮廷きゅうてい外交がいこう壮麗そうれいさを満喫まんきつし、外交がいこうかんとしてのスタイルをけた。

だいいち世界せかい大戦たいせんなかはアメリカ国内こくない居住きょじゅうしており、国務省こくむしょう西欧せいおう部長ぶちょうなど歴任れきにん。1918ねん10がつ、エドワード・ハウス大佐たいさ同行どうこうしてパリへ。パリ講和こうわ会議かいぎ期間きかんちゅうおよび終了しゅうりょう、アメリカ全権ぜんけんだん書記官しょきかんつとめた(1919ねん1がつ〜12月)。

1920ねん5がつ〜1921ねん10がつちゅうデンマーク公使こうし、1921ねん10がつ〜1924ねん4がつちゅうスイス公使こうし。このあいだ1922ねん11月〜1923ねん7がつローザンヌ会議かいぎへのアメリカ代表だいひょうだんくわわり、オスマン帝国ていこくわる新生しんせいトルコ共和きょうわこく基礎きそづくり(関税かんぜい自主権じしゅけん回復かいふく・ギリシャとトルコの住民じゅうみん交換こうかんなど)に貢献こうけんした(ローザンヌ条約じょうやく、1923ねん8がつ6にち締結ていけつ[8]

国務こくむ次官じかんだい1

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1924ねんのグルー。執務しつむしつにて

1924ねん2がつ国際こくさい連盟れんめいでのアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく代表だいひょうする任務にんむえ、本国ほんごくもどったとき、グルーは自分じぶん国務こくむ次官じかん任命にんめいされたという電報でんぽうった。グルーは予想よそうされる責任せきにん困難こんなんさをおもって躊躇ちゅうちょしたが、「よろこばしいものである」と日記にっきしるし、就任しゅうにん受託じゅたくした[9]

このころ、ロジャーズほう[10]成立せいりつし、外交がいこうかん制度せいど改革かいかくこころみがはじまっていた。外交がいこうしょく領事りょうじしょくあいだ格差かくさしつくすことが改革かいかく目指めざすところであった。その作業さぎょうすすめるうえで、グルーのようなキャリアのぬし適任てきにんであると見込みこまれた。しかしグルーは、改革かいかく必要ひつようせいみとめていたが、外交がいこうしょく領事りょうじしょく統合とうごうには熱心ねっしんではなかった。かれ外交がいこうしょくまもることにより熱心ねっしんであった。外交がいこうかんには特別とくべつ素養そよう経験けいけん必要ひつようとされ、昇進しょうしんりつられるような両者りょうしゃあいだ格差かくさ個人こじん能力のうりょくによるものとしんじていた。グルーの在任ざいにんちゅうなされた昇進しょうしん任命にんめいは、かれにとっては正当せいとうされるものであったが、たとえば1927ねん人事じんじリストには9にんだい公使こうしおよび国務こくむ次官補じかんほ指名しめいされていたが、東部とうぶエリート大学だいがく出身しゅっしんしゃへのかたよりが目立めだち、領事りょうじしょく1人ひとりふくまれていなかった。これにたいし、つよ批判ひはんた。どう事件じけん—「1927ねんのスキャンダル」とばれたーは、あきらかにグルーの失敗しっぱいであった[11]。このことならびに国務こくむ長官ちょうかんフランク・ケロッグ(Frank Kellogg)との不和ふわ沙汰ざたされ、グルーの転出てんしゅつ予期よきされた。

ちゅうトルコ大使たいし

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1927ねん5がつ、グルーはちゅうトルコ大使たいし任命にんめいされ、9月に就任しゅうにんした。この人事じんじかんして、議会ぎかいでは外交がいこうかん自己じこ昇進しょうしんであるとの批判ひはんこった。ケロッグ長官ちょうかんは、職責しょくせき能力のうりょくでグルーを推薦すいせんしたと型通かたどおりの援護えんごおこなったが、グルーは秘書官ひしょかんてた書簡しょかんで、「わたしコンスタンチノープルのぞんだわけではない。わたし印象いんしょうでは、政権せいけんわたしることをのぞんでいるのだ」としるした[12]

しかし、新生しんせいトルコへの最初さいしょのアメリカ大使たいしとして、グルーはケマル・アタテュルク大統領だいとうりょうおよびイスメト・イノニュ首相しゅしょう指導しどうした、トルコが近代きんだいてき国家こっかへとあゆ過程かていたりに機会きかいめぐまれた。かれは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく個別こべつにトルコと通商つうしょう航海こうかい条約じょうやくおよ居住きょじゅう営業えいぎょう条約じょうやく締結ていけつすること尽力じんりょくした(それぞれ1929ねんおよび1931ねん締結ていけつ、1932ねん5がつ批准ひじゅん成立せいりつ)。

ちゅうにち大使たいし穏健おんけんへの期待きたい

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アメリカ、たいにち道徳どうとくてき圧力あつりょくつよめる

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1931ねんあき、グルーはちゅうにち大使たいしつとめる意向いこう打診だしんされた。同年代どうねんだい職業しょくぎょう外交がいこうかんとして、主要しゅよう都市とし大使たいしになる最初さいしょものであることを意識いしきし、かれはそのにんけた。3月13にち、トルコをはなれ、あたらしい任地にんちかった。1932ねん6がつ6にち横浜よこはまこう到着とうちゃくし、6月14にち昭和しょうわ天皇てんのう謁見えっけんした。

グルーの日本にっぽん着任ちゃくにん前年ぜんねん満州まんしゅう事変じへん(1931ねん9がつ18にち)が勃発ぼっぱつし、日本にっぽんのアジア大陸たいりく進出しんしゅつ顕著けんちょとなった。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国務こくむ長官ちょうかんヘンリー・スティムソンは1932ねん1がつ7にち日本にっぽんによる満州まんしゅう軍事ぐんじ制圧せいあつは、パリ不戦ふせん条約じょうやく[13]違反いはんするとする声明せいめい(スティムソン・ドクトリン)を公表こうひょうした。日本にっぽん行為こうい不服ふふくとした中華民国ちゅうかみんこく提訴ていそけて、国際こくさい連盟れんめいはイギリスのヴィクター・ブルワー=リットン団長だんちょうとするささえ紛争ふんそう調査ちょうさ委員いいんかいリットン調査ちょうさだん)を派遣はけんした。調査ちょうさだん同年どうねん10がつ2にち報告ほうこくしょ公表こうひょうし、「日本にっぽん軍事ぐんじ行動こうどう正当せいとう自衛じえい措置そちみとめることはできない」と結論けつろんけた[14]

1932ねんから1933ねんにかけて、本国ほんごくでは共和党きょうわとうから民主党みんしゅとう政権せいけん交代こうたいした(ハーバート・フーヴァー大統領だいとうりょうからフランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょうへ)。グルーは共和党きょうわとう支持しじであったので通常つうじょうならば更迭こうてつされるところであり、慣例かんれいしたがって辞表じひょう提出ていしゅつしたが、年金ねんきん資格しかくられる翌年よくねんまで上級じょうきゅう外交がいこう官職かんしょくまりたいという希望きぼうあわせてつたえた。その結果けっか、グルーはちゅうにち大使たいし留任りゅうにんすることとなった[15]

このころグルーは、日本にっぽん国内こくないにおいては広田ひろた弘毅こうきひとし穏健おんけん軍部ぐんぶおさえることを期待きたいし、日本にっぽん国際こくさい連盟れんめいまることをのぞんでいた。しかし1933ねん2がつ、リットン報告ほうこくしょ国際こくさい連盟れんめい総会そうかい承認しょうにんされた。松岡まつおか洋右ようすけ全権ぜんけんはあらかじめ用意よういしていた宣言せんげんしょげ、国際こくさい連盟れんめい総会そうかいから退場たいじょうした。翌月よくげつ日本にっぽん政府せいふ国際こくさい連盟れんめいからの脱退だったいめ、正式せいしき通告つうこくした。

松岡まつおか洋右ようすけ宣言せんげんしょげた、グルーは日記にっきつぎのようにしるしたー「今日きょう内閣ないかくは、国際こくさい連盟れんめい脱退だったいすることを決議けつぎした。・・・わたし自身じしん推測すいそく間違まちがっていた。ごく最近さいきんまでわたし日本にっぽんがこれをやるとおもっていなかった。しかし、これは満州まんしゅうこくいそいで承認しょうにんしたことそのいままで日本にっぽんがやってきたあらゆることのせんに、ちゃんと沿っているのである。日本にっぽん政策せいさくひとつの『既成きせい事実じじつ』にぐに既成きせい事実じじつをもって、世界せかい相手あいてにしようというのである。ぐんはいまだに優勢ゆうせいで、いまだに恐怖きょうふ政治せいじ独裁どくさいせいかまえている」(1933ねん2がつ20日はつか)。

広田ひろた外相がいしょう就任しゅうにん

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1933ねん9がつ広田ひろた弘毅こうき齋藤さいとう内閣ないかく斎藤さいとうみのる首相しゅしょう)で外相がいしょう就任しゅうにんした。グルーは、広田ひろたの「政策せいさく礎石そせき日米にちべい関係かんけい改善かいぜんである。かれ態度たいどは、かれ本気ほんきであることをわたし確信かくしんさせる」として、かれ中心ちゅうしんとする日本にっぽん穏健おんけん日本にっぽん極端きょくたん行動こうどうはしることを阻止そしすると期待きたいしていた。しかし、1934ねん4がつ17にちの「天羽あもう声明せいめい[16]さかいにして、穏健おんけんたいするグルーの期待きたいはさらによわまっていった。

他方たほう情報じょうほう錯綜さくそうし、本省ほんしょう天羽あもう声明せいめい公式こうしき訳文やくぶんもとめてきたが、グルーは、どう声明せいめい外相がいしょう許可きょかていないので公式こうしき訳文やくぶんはないと返答へんとうする一方いっぽう日本にっぽんきゅうカ国かこく条約じょうやく遵守じゅんしゅし、中国ちゅうごく特殊とくしゅ権益けんえきもとめず、中国ちゅうごく貿易ぼうえき阻害そがいしないというのが天皇てんのう方針ほうしんであると本省ほんしょうつたえた。これは天羽あもう声明せいめい内容ないようことなるものであった。天羽あもう声明せいめいが、日本にっぽん政府せいふだれによっても「公然こうぜん否定ひてい」されていないこともあきらかとなり、本省ほんしょう困惑こんわくし、ちゅうにち大使館たいしかん能力のうりょく疑問ぎもんたれた[17]

条約じょうやく時代じだい

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5ヶ月かげつ休暇きゅうかのちグルーは、1935ねん12月17にち帰任きにんした。ちゅうベルギー大使たいしわって、グルーは外交がいこうだん主席しゅせきになることとなった。それは、様々さまざま宮中きゅうちゅう行事ぎょうじへの参列さんれつ意味いみした。

翌年よくねん早々はやばや日本にっぽんだいロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく会議かいぎほん会議かいぎ脱退だったいしたことなどを[18]、グルーのたいにち態度たいど強硬きょうこうなものになった。日米にちべい友好ゆうこう関係かんけいしんからのぞむグルーとしては、ひがしアジアにおけるアメリカの権益けんえき通商つうしょう自由じゆうさまたげる日本にっぽん行動こうどうについては、日本人にっぽんじんにアメリカじんかんがえをきっちりと理解りかいさせるべきである、とかんがえるにいたった。そのため、上院じょういん外交がいこう委員いいんちょうキー・ピットマンが議会ぎかいにおいて、日本にっぽん侵略しんりゃく政策せいさくはアメリカにとって危険きけんであるという内容ないよう好戦こうせんてき演説えんぜつおこなったさい日記にっきに「(このような演説えんぜつは)日本人にっぽんじんに、ものかんがえるためにまらせるやくつことはたしかだとおもう」とき、それを支持しじした(1936ねん2がつ11にちづけ日記にっき)。

1936ねん11月25にち日本にっぽんナチス・ドイツにちどく防共ぼうきょう協定きょうてい[19]むすんだ。グルーは日記にっきに「対外たいがい関係かんけいかんするかぎり、1937ねん日本にっぽんにとってくないとしである。(中略ちゅうりゃく国際こくさい連盟れんめいから脱退だったいしたことによってはじめられた日本にっぽん孤立こりつを、完全かんぜんなものにした」といた(1937ねん1がつ1にち)。

2・26事件じけん

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1936ねん2がつ26にち日本にっぽん陸軍りくぐんすめらぎどう影響えいきょうけた青年せいねん将校しょうこうらが下士官かしかんへいひきいてこした未遂みすいのクーデター(二・二六事件ににろくじけん)がこった。前夜ぜんやグルーはもと首相しゅしょう斎藤さいとうみのる内大臣ないだいじん夫妻ふさい鈴木すずき貫太郎かんたろう侍従じじゅうちょう夫妻ふさい大使館たいしかん晩餐ばんさんまねき、トーキーをたのしんだ。暗殺あんさつり、翌日よくじつグルーは岡田おかだ啓介けいすけ首相しゅしょう自宅じたく弔問ちょうもんした。

後任こうにん広田ひろた弘毅こうきえらばれ、組閣そかく着手ちゃくしゅした。グルーは日記にっきに「(かれは)合衆国がっしゅうこくとの友好ゆうこう関係かんけいほっし、その方向ほうこう出来できるだけの努力どりょくはらうこととおもう」と、広田ひろたへの期待きたいおおきいことをしるした。しかし広田ひろた内閣ないかくは、翌年よくねん1がつそう辞職じしょくし、後任こうにんはやしずくじゅうろうえらばれ林内りんないかく成立せいりつした(1937ねん2がつ)。

盧溝橋ろこうきょう事件じけん

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1937ねん7がつ7にち盧溝橋ろこうきょう事件じけん[20]こり、にちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつした。グルーは当初とうしょは、事件じけん日本にっぽんによる“謀略ぼうりゃく工作こうさく”の結果けっかだとするせつたいしては懐疑かいぎてきだったが、次第しだい事件じけん発端ほったん日本にっぽんがわ責任せきにんがあるという見方みかたわっていった。しかしかれは、アメリカの政策せいさく主要しゅよう目標もくひょうは、厳正げんせい中立ちゅうりつ維持いじし、極東きょくとう混乱こんらんした事態じたい局外きょくがいつことでなければならないとかんがえ、この段階だんかいでも、たいにち圧迫あっぱくさく無駄むだであり、そのうえ危険きけん破壊はかいてきであるとていた[21]

1937ねん10がつ5にちフランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょうは、世界せかい無法むほう状態じょうたい国家こっか隔離かくりされるべきであるとする「隔離かくり演説えんぜつ」とばれることになる演説えんぜつおこなった。交渉こうしょうつうじての紛争ふんそう解決かいけつのぞんでいたグルーは落胆らくたんした[22]

1937ねん11月7にち日本にっぽんぐん上海しゃんはい上陸じょうりくし、12月1にち南京なんきん占領せんりょうするいたっても、日米にちべい友好ゆうこう可能かのうというグルーの信念しんねんらがなかった。しかし、アメリカによる調停ちょうていによって和平わへい実現じつげんすることには、さらに悲観ひかんてきになっていく兆候ちょうこうかれ見逃みのがすことはなかった。

ちゅうにち大使たいし強硬きょうこう路線ろせん

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パネーごう事件じけん

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1937ねん12月12にち日本にっぽん海軍かいぐん揚子江ようすこううえにおいて、米国べいこくアジア艦隊かんたい所属しょぞく警備けいびせん「パネーごう(Panay)」を攻撃こうげきして沈没ちんぼつさせ、そのさい機銃きじゅう掃射そうしゃおこなったとされる、パネーごう事件じけんしょうじた。日本にっぽんがわは、事件じけん故意こい敵対てきたい行為こういではなく、一連いちれん偶発ぐうはつ事件じけん結果けっかだと主張しゅちょうした。日本にっぽんがわ広田ひろた弘毅こうき外相がいしょう大使館たいしかんおもむき、謝罪しゃざいする一方いっぽう、ワシントンDCの斎藤さいとうひろし駐米ちゅうべい大使たいしコーデル・ハル国務こくむ長官ちょうかんへの謝罪しゃざい訓令くんれいした。斎藤さいとう大使たいし訓令くんれいたずにラジオ放送ほうそうわくって、全国ぜんこく中継ちゅうけい謝罪しゃざい表明ひょうめいした。12月24にち広田ひろた弘毅こうき外相がいしょう日本にっぽん政府せいふ正式せいしき回答かいとう文書ぶんしょをグルー大使たいし手交しゅこうした[23]

1938ねん2がつ日本にっぽんぐん重慶たーちん爆撃ばくげきした(重慶たーちんばくげき)。近衛このえ文麿ふみまろ首相しゅしょうだい1近衛このえないかく)は帝国ていこく議会ぎかいで、日本にっぽんは「ささえ領土りょうどならびに主権しゅけんおよびささえにおける列国れっこく正当せいとうなる権益けんえき尊重そんちょうする方針ほうしんにはいささかもかわるところはない」と演説えんぜつした。グルーの本国ほんごくへの報告ほうこくは、この演説えんぜつしんけたもののようにおもわれた。すなわち日本にっぽんぐん行動こうどうたんなる軍事ぐんじてき逸脱いつだつではなく、経済けいざいけん確保かくほ目的もくてきであるとした。これにたいし、国務省こくむしょう極東きょくとう専門せんもんは、「グルーが日本にっぽんぎる」という批判ひはんてきなコメントをした[24]

斎藤さいとうひろし駐米ちゅうべい大使たいし遺骨いこつ送還そうかん

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1939ねん2がつ26にち斎藤さいとうひろし駐米ちゅうべい大使たいしワシントンD.C.において病没びょうぼつした。どう大使たいしは1934ねん着任ちゃくにんして以来いらい、パネーごう事件じけん(1937ねん12がつ)にさいし、直接ちょくせつラジオの全国ぜんこく中継ちゅうけい平和へいわてき解決かいけつうったえるなど、日米にちべい関係かんけい改善かいぜんつとめたことでられていた。アメリカ政府せいふどう大使たいししみ、またもと駐日ちゅうにち大使たいしエドガー・バンクロフトさいし、日本にっぽん政府せいふけい巡洋艦じゅんようかん多摩たま」によってどう大使たいし遺体いたいおくとどけたことへの返礼へんれい意味いみめて、巡洋艦じゅんようかんアストリア」に遺骨いこつせて日本にっぽんおくとどけた。グルーはこのような「米国べいこく政府せいふのジェスチャーが結果けっか」がまれることをのぞむと日記にっきしるした(1939ねん4がつ3にち)。どう4がつ17にち横浜よこはま山下やました桟橋さんばしにおいて受領じゅりょうしきおこなわれ、グルーは夫人ふじんとも列席れっせきした。 また翌日よくじつ築地つきじ本願寺ほんがんじおこなわれた葬儀そうぎにも出席しゅっせきした[25]

うまくちから一直線いっちょくせんに」演説えんぜつ

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グルーは1939ねんなつ休暇きゅうか本国ほんごく帰国きこくしているが、出発しゅっぱつ先立さきだち、「経済けいざい財政ざいせい商業しょうぎょう感情かんじょうのどのてんからても合衆国がっしゅうこくは、もし日本にっぽん米国べいこく同様どうよううならば世界中せかいじゅうのどのくによりも日本にっぽんのよい友人ゆうじんでありるのだ。どのてんからても日米にちべい戦争せんそうは、まさに骨頂こっちょうである」と日記にっきしるした。(1939ねん5がつ15にち)。しかし、本国ほんごくにおいて世論せろん日本にっぽんたいしてきびしくなっていることをった。

帰任きにん日米にちべい協会きょうかいにおいて、グルーは「うまくちから一直線いっちょくせんに」(「もっとたしかなすじからた」の意味いみ)とだいする演説えんぜつおこなった(1939ねん10がつ19にち)。そのなかかれは、アメリカ国民こくみんは「国民こくみん宗主そうしゅけん尊重そんちょうし、米国べいこく宗主そうしゅけん同様どうよう尊重そんちょうされんことをほっしています。(中略ちゅうりゃくべい国民こくみん商業しょうぎょうじょう機会きかい均等きんとうということをしんじています。おそらく米国べいこくほどこの原則げんそく時々ときどき発動はつどうさせた国家こっかはない」ことを強調きょうちょうした。それはあきらかに、日本にっぽん中国ちゅうごく宗主そうしゅけんおかし、機会きかい均等きんとう原則げんそくみにじっていると、批判ひはんしたものだった(1939ねん10がつ19にち)。

グルーの演説えんぜつたいする日本にっぽん反響はんきょうおおきかった。『読売新聞よみうりしんぶん』(1939/10/20ごう)は「重大じゅうだい発言はつげんわがたいささえ行動こうどう是正ぜせいもとむ」という見出みだしをけ、大使たいし任地にんちおこなうには異例いれい強硬きょうこうであったことを暗示あんじした。

野村のむら外相がいしょうとの会談かいだん

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グルーは、1939ねん11月4にちから12月28にちにかけて、野村のむら吉三郎きちさぶろう外相がいしょう阿部あべ内閣ないかく)と3かい会談かいだんした。この一連いちれん会談かいだんは、日米にちべい関係かんけい改善かいぜんのため積極せっきょくてき措置そちるべきは日本にっぽんがわであると説得せっとくするグルーの努力どりょくの「クライマックス」であった。しかし進展しんてんはなく、目立めだった成果せいかのないものであった[26]

有田ありた外相がいしょうとの会談かいだん

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1940ねん6がつ10日とおかから同年どうねん7がつ11にちにかけて、グルーは有田ありた八郎はちろう外相がいしょうべい内内うちうちかく)と5かいにわたり会談かいだんした[27]前回ぜんかい野村のむらとの会談かいだんにまして国務省こくむしょうはグルーにつよ指示しじあたえていたので、グルーは有田ありたたい明確めいかくに、日本にっぽんふたつのみち、すなわち(1) 秩序ちつじょ正義まさよし自由じゆう貿易ぼうえき国際こくさい協力きょうりょく領土りょうど保全ほぜん、それに国家こっか主権しゅけん尊重そんちょうしていくこと、(2)武力ぶりょく他国たこくへの内政ないせい干渉かんしょう貿易ぼうえき制限せいげん特権とっけんてき地位ちい、そして自給自足じきゅうじそく経済けいざいへのみちのいずれかをえらばなければならないことをさとらせる使命しめいった。

青信号あおしんごうメッセージ

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グルーは1940ねん9がつ12にちはつ通信つうしんにおいて、より明確めいかく強硬きょうこうてきたいにち路線ろせんてんじた。この時期じき以前いぜん通信つうしん融和ゆうわてき政策せいさくもとめ、強硬きょうこうてき政策せいさく推進すいしん直接ちょくせつ両国りょうこく衝突しょうとつまね危険きけんせいがあるので回避かいひされるべきであるー「赤信号あかしんごう」である―とされてたのにし、強硬きょうこう路線ろせん容認ようにんする通信つうしんは、以後いご青信号あおしんごう」とばれることになる。そのなかでグルーは、「ちからあるいは ちから示威じい」によってしか略奪りゃくだつこく行動こうどう阻止そしすることができないとし、報復ほうふく措置そち徐々じょじょ段階だんかいてき強化きょうかすることによって、日本にっぽんによる太平洋たいへいよう現状げんじょう変革へんかく抑止よくしするという政策せいさく勧告かんこくした。グルーは、8ねんにわたる日本にっぽん勤務きんむで、この電報でんぽうはおそらくもっと重要じゅうよう交信こうしんであると、みずかかんがえた[28]

同年どうねん11がつ11にちに、宮城みやぎ外苑がいえんおこなわれた「紀元きげんせんろくひゃくねん奉祝ほうしゅくかい」において奉祝ほうしゅく昭和しょうわ天皇てんのう奏上そうじょうした。

日米にちべい戦争せんそう回避かいひのための努力どりょく

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枢軸すうじくこくはこの戦争せんそうたない」

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1941ねんになり、グルーの姿勢しせいはより強硬きょうこうになった。かれ日記にっきに「愛好あいこうする同国どうこくじんといえども、宥和ゆうわ政策せいさく完全かんぜん絶望ぜつぼうてきであることを理解りかいするだろう。そんなときぎたのだ。(中略ちゅうりゃくてておけばこのがん[日本にっぽん急進きゅうしんろんしゃ]はおよぶかぎりいたるところに侵入しんにゅうし、ついにその惨害さんがい阻止そしすることが出来できなくなる。」(1941ねん1がつ1にち

日米にちべい首脳しゅのう会談かいだん提案ていあん

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1941ねん8がつ18にち、グルーは近衛このえ首相しゅしょういのちけた豊田とよだ貞次郎ていじろう外相がいしょうだい3近衛このえないかく)と会談かいだんした。豊田とよだ日米にちべい首脳しゅのう会談かいだん実現じつげんはたらきかけをおこなった。1941ねん9がつ6にち、グルーは近衛このえ首相しゅしょうまねかれ、秘密ひみつ会談かいだんった。近衛このえ日米にちべい首脳しゅのう会談かいだん開催かいさい実現じつげんけて、にちどくさんこく同盟どうめい事実じじつじょう無効むこうにする、ドイツぐんがアメリカを攻撃こうげきした場合ばあい日本にっぽんたいべい参戦さんせんしない、ただちに南北なんぼくふつしるしから撤退てったいすることなどを約束やくそくした。

これをけて、グルーは1941ねん9がつ22にち頂上ちょうじょう会談かいだん実現じつげん直接ちょくせつルーズベルト大統領だいとうりょううったえた。9月29にち、ハルあて報告ほうこくなかで、「日本にっぽん政府せいふ最近さいきんとみに増大ぞうだいし、真剣しんけんさをくわえてきた努力どりょくをもって、近衛このえ公爵こうしゃく大統領だいとうりょうとの会見かいけん遅滞ちたいなく準備じゅんびしようとしていることがかる。・・・大使たいしは、如何いかなる建設けんせつてき方法ほうほうをも援助えんじょしたいとおもい、・・・日本にっぽん政府せいふをして合衆国がっしゅうこく政府せいふ日米にちべいあいだ相互そうごてき了解りょうかいなりめなりをちきたらすために重要じゅうようだとおも手段しゅだん政策せいさくらしめることに努力どりょくしたい。」といた。しかし、日米にちべい首脳しゅのう会談かいだんたいする国務省こくむしょう態度たいどは、冷淡れいたんなものから、否定ひていてきなものにわっていった。10月2にちづけのハルの回答かいとう会談かいだん否定ひていしたものであり、だい3近衛このえないかくかんするかぎり、最終さいしゅうてきなものであった[29]

ルーズベルト大統領だいとうりょうによる昭和しょうわ天皇てんのうあて親書しんしょ

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1941ねん10がつ18にちだい3近衛このえないかくそう辞職じしょくともな陸軍りくぐん大臣だいじん東條とうじょう英機ひでき組閣そかく大命たいめいくだ東條とうじょう内閣ないかく成立せいりつ昭和しょうわ天皇てんのう意向いこう沿かたち再度さいど日米にちべい交渉こうしょう尽力じんりょくする政権せいけんとなった。

同年どうねん11がつ3にち東郷とうごう茂徳しげのり外相がいしょう野村のむら駐米ちゅうべい大使たいしとの恊働を意図いとして、来栖くるす三郎さぶろう特使とくしとしてワシントンD.C.派遣はけんすることをめる。翌日よくじつ来栖くるすはグルーを訪問ほうもん。「なにあたらしい解決かいけつあんっていくわけではない」とはなされ、グルーは失望しつぼうした。

同年どうねん12がつ7にち、グルーは短波たんぱ放送ほうそうで、ルーズベルト大統領だいとうりょう昭和しょうわ天皇てんのう親書しんしょおくったことをった(s:ルーズベルト大統領だいとうりょう昭和しょうわ天皇てんのうあて親電しんでん)。しかし、国務省こくむしょうからは、なに伝達でんたつはなかった。夕刻ゆうこくハル国務こくむ長官ちょうかんから、ちょう緊急きんきゅうでんた。親書しんしょ正午しょうご日本にっぽん郵便ゆうびんきょくとどいていたのにもかかわらず、午後ごご1030ふんまで配達はいたつされなかった。グルーは深夜しんや親書しんしょ東郷とうごう外相がいしょう手渡てわたした。わって12月8にち午前ごぜんれい15ふんまわっていた。午前ごぜん1外相がいしょうてい辞去じきょ。このころワシントンD.C.は12月7にち午前ごぜん11ちゅうべい日本にっぽん大使館たいしかんでは宣戦せんせん布告ふこく暗号あんごう解読かいどく清書せいしょ手間取てまどっていた[30]

開戦かいせん抑留よくりゅう交換こうかんせんでの帰国きこく

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真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきによる日米にちべい開戦かいせん、グルーおよびちゅうにちアメリカ大使館たいしかんいん大使館たいしかんない警察けいさつによる抑留よくりゅういられたが、オランダ公使こうし葬儀そうぎスイス大使たいしとの交換こうかんせんなどの交渉こうしょうなど、少数しょうすう外交がいこうかんとの外出がいしゅつもあった。

6がつアフリカポルトガルりょうマプートでの日本にっぽん外交がいこうだんおよ民間みんかんじんとの交換こうかんのために、横浜よこはまこうからアメリカの外交がいこうかん民間みんかんじん出港しゅっこうした。8月、リオデジャネイロ経由けいゆでワシントンD.C.に到着とうちゃくした。

国務こくむ次官じかんだい2

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全国ぜんこく講演こうえん

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帰国きこくやく2年間ねんかん、グルーは国務こくむ長官ちょうかん顧問こもん肩書かたがきをあたえられ、全国ぜんこく演説えんぜつしてまわった。演説えんぜつ骨子こっし当初とうしょ日本にっぽんぐん指導しどうしゃがいかに残虐ざんぎゃくであるかということをべ、アメリカ国民こくみん戦闘せんとう意欲いよく増進ぞうしんつとめるものであった。

1942ねん帰国きこく直後ちょくごのグルー演説えんぜつ一部いちぶ収録しゅうろくした『東京とうきょう報告ほうこく—アメリカ国民こくみんあたえるメッセージ』(Report from Tokyo/ A Message to he American People)が刊行かんこうされた。そのなかには、「わたし日本にっぽんっている。そこに10ねんんでいたからだ。日本人にっぽんじんしたしくっている。日本人にっぽんじんたおれない。(中略ちゅうりゃくかれらはベルトのあなひとつきつくなおして、食事しょくじこめいちはいからはんはいらし、最後さいご最後さいごまでたたかうだろう」と、日本にっぽん国民こくみんはあたかもおそれるべき戦闘せんとうマシーンであるかのようにえがいた箇所かしょもある[31]

演説えんぜつ活動かつどう邁進まいしんする一方いっぽうちゅうにち大使たいし時代じだいつづった日記にっき抜粋ばっすいからなる『滞日たいにちじゅうねん』の刊行かんこう準備じゅんびにかかっていた。同書どうしょ原題げんだいTen Years in Japan—は1944ねん刊行かんこうされ、前書ぜんしょ同様どうよう、ベストセラーになった(以下いかの『滞日たいにちじゅうねん参照さんしょう)。

戦況せんきょう圧倒的あっとうてき日本にっぽんにとって不利ふりになった1943ねんなつごろから、グルーの関心かんしんは、いかにして勝利しょうりするかではなく、どのように戦争せんそう終結しゅうけつさせるかに移行いこうしていった。1943ねん12月29にち、イリノイ教育きょういく協会きょうかいにおける「極東きょくとうにおける戦争せんそう戦後せんご問題もんだい」とだいされた演説えんぜつで、かれは、日本にっぽん神道しんとう基礎きそとなっている社会しゃかいであり、平和へいわてき指導しどうしゃめぐまれれば、神道しんとうは「負債ふさい」にはならない、むしろ「財産ざいさん」になるとべる一方いっぽう、「もし日本にっぽん国民こくみん戦争せんそう亡者もうじゃどもばっし、軍事ぐんじ政権せいけん転覆てんぷくするために革命かくめいこすのであれば、わたしたちも、日本人にっぽんじんみずからの政体せいたいえら権利けんりあたえなければならない」とべた。天皇てんのうせい存置そんちのぞかれたいにち戦後せんご構想こうそうしめすものであった[32]

天皇てんのうせい存置そんちけて

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1943ねん10がつ国務省こくむしょうないに「部局ぶきょくあいだ極東きょくとう地域ちいき委員いいんかい」(Interdivisional Area Committee on the Far East)が設置せっちされ、極東きょくとうにおける戦後せんご処理しょりかんするしょ問題もんだい検討けんとうされた。どう委員いいんかいは「」とばれたひとびとが、主要しゅようなメンバーであった[33]さきた、グルーがイリノイ教育きょういく協会きょうかいおこな予定よてい演説えんぜつ原稿げんこうかれらはまえもって機会きかいがあった。国内こくない世論せろんでは天皇てんのう懲罰ちょうばつろんつよく、国務省こくむしょう幹部かんぶあいだでも天皇てんのうせい否定ひていするかんがえが支配しはいてきであったときに、日本人にっぽんじんは「みずからの政体せいたいえら権利けんり」があるとグルーはいた。それは、天皇てんのうせい部分ぶぶんてき利用りよう有用ゆうようせい主張しゅちょうするどう委員いいんかいヒュー・ボートン(Hugh Borton)[34] ひとし意見いけんつうずるものであった。

国務こくむ次官じかん就任しゅうにん—「女王蜂じょおうばち演説えんぜつ

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1944ねん5がつ1にち、グルーは国務省こくむしょう極東きょくとう局長きょくちょう就任しゅうにんした。グルーの就任しゅうにんは「部局ぶきょくあいだ極東きょくとう地域ちいき委員いいんかい」の意見いけん支持しじされるのにおおきなちからとなった。

日本にっぽん敗色はいしょくくなるなか同年どうねん7がつ22にち東條とうじょう内閣ないかくサイパン陥落かんらく責任せきにんかたちそう辞職じしょくし、小磯こいそ内閣ないかく小磯こいそ國昭くにあき首相しゅしょう)が成立せいりつした。

同年どうねん12がつ20日はつか、グルーはさらに上級じょうきゅう国務こくむ次官じかん就任しゅうにんした。12月12にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく議会ぎかい上院じょういんでの指名しめいのための聴聞ちょうもんかいで、グルーはきびしい質問しつもんにさらされたが、グルーは、天皇てんのう日本にっぽん社会しゃかいにおける位置いちは「女王蜂じょおうばち」のそれにたとえられる、「もし、れから女王蜂じょおうばちのぞけば、全体ぜんたい崩壊ほうかいするであろう」、天皇てんのう戦後せんご日本にっぽんの「唯一ゆいいつ安定あんてい要因よういんであるとこたえた[35]

さんにん委員いいんかい

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1944ねん12月19にち戦争せんそう遂行すいこう戦後せんご処理しょりについて意見いけん調整ちょうせいするエドワード・ステティニアス国務こくむ長官ちょうかんヘンリー・スティムソン陸軍りくぐん長官ちょうかんジェイムズ・フォレスタル海軍かいぐん長官ちょうかんから構成こうせいされる委員いいんかい(The Committee of the Three, さんにん委員いいんかい)が設置せっちされた。長官ちょうかん不在ふざい場合ばあい長官ちょうかん代理だいりとして次官じかん出席しゅっせきするまりであった。ステティニアス国務こくむ長官ちょうかん業務ぎょうむわれて頻繁ひんぱん不在ふざいのため、グルーがどう委員いいんかい出席しゅっせきすることがおおくなった。

最後さいご説得せっとく—「たいにち声明せいめい天皇てんのうせい存置そんちを」

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1945ねんのグルー(中央ちゅうおう)。フランス協定きょうていむす様子ようす

1945ねん4がつ7にち日本にっぽんでは小磯こいそ内閣ないかくそう辞職じしょくし、退役たいえき海軍かいぐん大将たいしょう鈴木すずき貫太郎かんたろう組閣そかく大命たいめいくだ鈴木すずき貫太郎かんたろう内閣ないかく成立せいりつした。

同年どうねん5がつ28にち大統領だいとうりょう日本にっぽん降伏ごうぶくびかける声明せいめいはっすることがあるならば、降伏ごうぶく条件じょうけんとして、天皇てんのうせい存置そんちみとめる文言もんごんふくむことをハリー・S・トルーマン進言しんげんする[36]声明せいめいあんくわしく検討けんとうされ、「原則げんそくにおいて同意どういされた」が、「あきらかにされないある軍事ぐんじてき理由りゆうから、いまただちにおこなうことはこのましくない」と判断はんだんされた[37]

6月12にち、グルー国務こくむ次官じかん、スティムソン陸軍りくぐん長官ちょうかん、フォレスタル海軍かいぐん長官ちょうかんによるさんしゃ協議きょうぎにおいて、グルーは占領せんりょう必要ひつようとしながらも、より平和へいわてきかつ民主みんしゅてき政策せいさく採用さいようするため日本にっぽんのよりよい勢力せいりょく支持しじをとりつける可能かのうせい強調きょうちょうし、さらに説得せっとくこころみた。6月16にち朝夕ちょうせきかい大統領だいとうりょうい、日本人にっぽんじん自身じしん将来しょうらい政治せいじてき構造こうぞうみずかめることがゆるされると、たいにち声明せいめい早期そうき実施じっしうなが最後さいご説得せっとくこころみた。これにたいしトルーマン大統領だいとうりょうは6がつ18にち声明せいめいべいえいさん巨頭きょとう会談かいだんまでつと言明げんめい。グルーは落胆らくたんした。

7がつ11にち、グルーはラジオ演説えんぜつで、無条件むじょうけん降伏ごうぶく日本にっぽん国民こくみん根絶こんぜつでも奴隷どれいでもないということを痛切つうせつびかけた。あとは、スティムソンに期待きたいするしかなくなった。

1945ねん7がつ1にち、ステティニアスが辞任じにんし、7がつ3にちしん国務こくむ長官ちょうかんジェームズ・F・バーンズ就任しゅうにんした。トルーマン大統領だいとうりょういちぎょうドイツポツダムかった7がつ6にち、まだ省内しょうないにいたバーンズに、天皇てんのうせい存置そんち条項じょうこうをポツダム宣言せんげんれることをはたらきかけたメモを手渡てわたした。

バーンズは、原子げんしばくだんちから使つかえば、ソ連それん加勢かせいしてもらわなくても、本土ほんど上陸じょうりく作戦さくせんダウンフォール作戦さくせん)のまえ日本にっぽん降伏ごうぶくさせることが可能かのうだとかんがえた。もしそうなれば、戦後せんご世界せかいソ連それんちからおさえることもできるし、ベストの結果けっかとなろう。しかしこのタイミングで日本にっぽん降伏ごうぶく条件じょうけん緩和かんわした場合ばあい日本にっぽん降伏ごうぶくしてしまい、原爆げんばく投下とうか機会きかいいっすることをバーンズはおそれた。そこで「降伏ごうぶく条件じょうけん緩和かんわ日本にっぽん降伏ごうぶく促進そくしんする」という路線ろせんについては「原爆げんばく投下とうかまでは棚上たなあげすべし」とトルーマンにき、大統領だいとうりょう味方みかたにつけることに成功せいこうした。こうして降伏ごうぶく条件じょうけん緩和かんわすることで、日本にっぽん降伏ごうぶく促進そくしんすべしとくグルーやスティムソンの陣営じんえいと、原爆げんばく投下とうかし、その威力いりょくしめすまでは、降伏ごうぶく条件じょうけん緩和かんわすべきでないとするバーンズとトルーマンの陣営じんえいとにトルーマン政権せいけん分裂ぶんれつすることになった。

スティムソンは代表だいひょうだんいんからはずされていたにもかかわらず、別便べつびんマルセイユ陸軍りくぐん輸送ゆそうせんり、ポツダムかった。ポツダムでトルーマンに再会さいかいしたスティムソンは、天皇てんのうせい存置そんち保証ほしょうする一文いちぶん復活ふっかつさせるように説得せっとくこころみた。しかしトルーマンはがんとしておうじず、スティムソンにたいし「らなければ荷物にもつをまとめてかえったらいい」とまでいいはなったという[38]

広島ひろしま(1945ねん8がつ6にち長崎ながさき同年どうねん8がつ9にち原子げんしばくだん投下とうかされた。その日本にっぽん鈴木すずき貫太郎かんたろう内閣ないかく8がつ14にちポツダム宣言せんげん受諾じゅだく決定けっていした。ポツダム宣言せんげんだい12こう原案げんあんとはちがったものにえられており、「げん皇室こうしつしたにおける立憲りっけん君主くんしゅせいふくみうる」という文言もんごん削除さくじょされていた。ただし、コーデル・ハルもと国務こくむ長官ちょうかんがバーンズに、天皇てんのうせい存続そんぞくが「アメリカでおそれるべき政治せいじてき反響はんきょう」をこすことを警告けいこくしたからである。アメリカのような世論せろん選挙せんきょおおきく依存いぞんするくに政治せいじ世論せろんに(さらには国務省こくむしょうにまで)反対はんたいして天皇てんのうせい存続そんぞく容認ようにんするわけにはいかなかった。こうして7がつ23にちにトルーマンが中国ちゅうごく蒋介石しょうかいせきにポツダム宣言せんげん最終さいしゅう草案そうあん送付そうふした時点じてんで、天皇てんのうせい条項じょうこう削除さくじょされたのであった[39]

昭和しょうわ天皇てんのう自身じしんによる詔書しょうしょ朗読ろうどくのラジオ放送ほうそう玉音ぎょくおん放送ほうそう)がなされ、戦争せんそう終結しゅうけつした(日本にっぽん降伏ごうぶく)。同日どうじつ、グルーは国務省こくむしょう辞表じひょう提出ていしゅつした。戦争せんそう終結しゅうけつまえすで戦後せんご見越みこして、グルーにたいし、政治せいじ顧問こもんとしてたいにち占領せんりょうたいする協力きょうりょく要請ようせいがなされたが、かれは「いかなる状況じょうきょうにあっても、支配しはいしゃとして日本にっぽんかえるつもりはない」とべ、ことわった[40]

退任たいにん

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議会ぎかい公聴こうちょうかい極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん

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1945ねん11月26〜29にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく議会ぎかいにおいて「真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきかんする合同ごうどう調査ちょうさ委員いいんかい公聴こうちょうかい」がもよおされた。グルーは召喚しょうかんされ、日記にっき提出ていしゅつもとめられたが、「わたし日記にっき個人こじんてき文書ぶんしょであります。自分じぶんかんがえを整理せいりするためのあるしゅのスケッチブックとしてもちいました。おおくの文章ぶんしょう不正確ふせいかくであり、あやまりをみちびきかねないものなのです」とべ、提出ていしゅつこばんだ[41]

1946ねん4がつよりはじまった日本にっぽん戦争せんそう犯罪はんざいさば極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばんにも、グルーは関与かんよった。かれは、「平沼ひらぬま騏一郎きいちろう広田ひろた弘毅こうき重光しげみつまもるの3にんまった戦争せんそうには反対はんたいであり、これをけようと努力どりょくした」ことを陳述ちんじゅつすることをほっしたが、どう裁判所さいばんしょ同年どうねん11がつ18にち、グルーの召喚しょうかん要求ようきゅうしないことをめた[42]

動乱どうらん』の刊行かんこう反共はんきょう闘士とうし

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グルーは1948ねん6がつ28にち, 米国べいこくたいにち評議ひょうぎかい名誉めいよ会長かいちょう就任しゅうにん財閥ざいばつ解体かいたいしとどめ、公職こうしょく追放ついほうもの復権ふっけんびかけた。

グルーは1949ねん3がつ17にち反共はんきょう主義しゅぎ団体だんたい全米ぜんべい自由じゆうヨーロッパ委員いいんかい設立せつりつされたとき、その理事りじちょう就任しゅうにんした。そして、1953ねん10がつ共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく国際こくさい連合れんごう加盟かめい反対はんたいする請願せいがん運動うんどう発起人ほっきにんとなり、「ひゃくまんにん委員いいんかい」を支援しえん。1962ねん3がつ委員いいんちょう就任しゅうにん

1952ねん11月、11,ホートン・ミフリンしゃより、公文書こうぶんしょからの抜粋ばっすい中心ちゅうしんにした回顧かいころく動乱どうらん』(The Turbulent Era)』(ぜんかん、1500ぺーじ)が出版しゅっぱんされた。同書どうしょで、グルーは、もし自分じぶん意見いけん政権せいけんにききいれられていたなら、歴史れきしおおきくわっていただろうという主張しゅちょうかえした[43]

しん日本にっぽんとも

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滞日たいにちじゅうねん』の印税いんぜい原資げんしに、樺山かばやまあいらが中心ちゅうしんとなっておこなわれた募金ぼきんもとに、日本にっぽん高校こうこう卒業生そつぎょうせいをアメリカの大学だいがくおくることを目的もくてきとして「グルー基金ききん」が設立せつりつされ、1953ねんなつだいいち期生きせい4にんがアメリカにけて出発しゅっぱつした。

機会きかいあるごとに、日本にっぽんとのむすびつきを大切たいせつにした。1953ねん9がつ皇太子こうたいし明仁あきひと親王しんのう当時とうじ)がボストンおとずれたさい日米にちべい協会きょうかい主催しゅさい記念きねん昼食ちゅうしょくかい列席れっせきした。

1965ねん5がつ25にちマサチューセッツしゅうマンチェスター・バイ・ザ・シー自宅じたくぼっした。84さいぼつ。6月18にち東京とうきょうユニオン教会きょうかいにて追悼ついとうしきおこなわれた。

家族かぞく

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和室わしつ楽器がっき演奏えんそうするつまのアリスとそのあねたち。さん姉妹しまいははである画家がかのリラ・キャボット・ペリーによる。1898-1900ねんごろ
つまアリスの肖像しょうぞう。リラ・キャボット・ペリーによる。1904ねん

つまのアリス(1883-1959)は、画家がかリラ・キャボット・ペリー学者がくしゃトーマス・サージェント・ペリーむすめ[44]父方ちちかた祖父そふ日本にっぽん開国かいこくせまったマシュー・ペリーあに軍人ぐんじんオリバー・ハザード・ペリー。1898ねん父親ちちおや慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがくえい文学ぶんがく教師きょうしになったため、家族かぞくで3年間ねんかん滞日たいにちした。父方ちちかた伯母おばのマーガレットはジョン・ラファージつま

二女じじょのリラ (1907–1994)は外交がいこうかんジェイ・ピアポント・モファット結婚けっこんよんじょのエリザベス(1912–1998)も外交がいこうかんセシル・バートン・ライオン英語えいごばん東京とうきょうい1933ねん結婚けっこん[45]翌年よくねんひじり病院びょういん女児じょじ出産しゅっさんした[46]。このとき日米にちべい野球やきゅう来日らいにちちゅうだった選手せんしゅスパイモー・バーグは、出産しゅっさん見舞みまいとしょうしてどう病院びょういんたずね、屋上おくじょうから東京とうきょう各所かくしょかくった映写機えいしゃき撮影さつえいしてべい政府せいふ提出ていしゅつ、この映像えいぞう東京とうきょうだい空襲くうしゅう作戦さくせん資料しりょうとして使つかわれた[46]

外交がいこうかんとしての特質とくしつ

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グルーの外交がいこうかん

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グルーの外交がいこうかん基本きほんてきには現実げんじつ主義しゅぎ根付ねついたものであった。だいいち世界せかい大戦たいせん以降いこうアメリカ外交がいこうは、従来じゅうらい国威こくい国益こくえき目指めざしたアプローチにわって、国際こくさい協調きょうちょう主義しゅぎ軍縮ぐんしゅく民族みんぞく自決じけつ集団しゅうだん安全あんぜん保障ほしょう開放かいほうてき国際こくさい経済けいざい体制たいせい追求ついきゅうするウッドロウ・ウィルソンだい28だい大統領だいとうりょう構想こうそういわゆる「ニューディプロマシー」が基調きちょうとなった。パリ不戦ふせん条約じょうやく(1928ねん8がつ27にち、パリで採択さいたく署名しょめいされた。条約じょうやく提唱ていしょうしたフランス外相がいしょうおよびアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国務こくむ長官ちょうかんにちなんでケロッグ=ブリアン条約じょうやくともばれる)は、その好個こうこれいである。組織そしきされた闘争とうそう戦争せんそう)ではなく、組織そしきされた共通きょうつう平和へいわ達成たっせい理想りそうとされた。

しかしこのような理想りそう主義しゅぎジョージ・ケナンは「法理ほうりろんてき道徳どうとくてき(legalistic-moralistic)」とび、国内こくないにおいて個人こじんあいだ関係かんけい適用てきようされる法律ほうりつ観念かんねん政府せいふあいだにも適用てきようさせようとする努力どりょくであることはみとめても、「ある体系たいけいてき法律ほうりつてき規則きそくおよび制約せいやく受諾じゅだくすることによって、国際こくさい社会しゃかいにおける各国かっこく政府せいふ無秩序むちつじょでかつ危険きけん野心やしん抑制よくせいすることが可能かのうであるという信念しんねん」に影響えいきょうされる、いいかえればきわめて観念かんねんてきであることを指摘してきした[47]

グルーは、アメリカの政策せいさく主要しゅよう目標もくひょうとして、厳正げんせい中立ちゅうりつ維持いじ中国ちゅうごくにおける機会きかい平等びょうどうにし、門戸もんこ開放かいほう)し、日本にっぽん国際こくさいほう違反いはん阻止そしするとなすことにおいて、あたらしい外交がいこうのアプローチを支持しじしているようにおもわれた。

かれ軍事ぐんじてき手段しゅだんることには否定ひていてきであった。その反面はんめんかれは「平和へいわ主義しゅぎ(pacifism)」にかんしても懐疑かいぎてきであった。

日本にっぽんたいして経済けいざいてき報復ほうふく手段しゅだん制裁せいさい)をることに反対はんたいしながら、それは最終さいしゅうてき戦争せんそうへとみちびくことをかれ懸念けねんしていた。アメリカのアジアにおける国益こくえき擁護ようごつよ主張しゅちょうするグルーの態度たいど一見いっけん矛盾むじゅんしているかのようおもわれた。かれはしばしば、1930年代ねんだい後半こうはんのドイツのさい軍備ぐんび・ラインラント進駐しんちゅう・オーストリアおよびチェコスロバキア併合へいごう承認しょうにんし、それらを阻止そしするための強硬きょうこう措置そちらなかったイギリスなどと同様どうよう、「宥和ゆうわ主義しゅぎ」(appeasement)を支持しじしていると批判ひはんされた。しかしグルーは、国際こくさいてき原則げんそく条約じょうやく)の遵守じゅんしゅをいかなる国家こっか義務ぎむさだめ、アメリカの国益こくえき正当せいとうせいをライバルこく認識にんしきさせることにあることをもとめることにおいて、自分じぶんのアプローチはけっして宥和ゆうわてきではない、むしろ「積極せっきょくてき宥和ゆうわ (constructive conciliation)」として弁護べんごした。「りょう国民こくみんとく日米にちべい指導しどうてき地位ちいにあるものたちがたがいの「信条しんじょう」とえるものを理解りかいし、はないをもって表面ひょうめんてき衝突しょうとつ回避かいひみちさぐること―そうすることが、アメリカの国策こくさく根本こんぽん原則げんそくである―が肝要かんようである」ことを、かれふかしんじていた(1941ねん9がつ30にちづけ国務こくむ長官ちょうかんあて報告ほうこく)。

グルーの日本にっぽんかん

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誠意せいいにもとづく折衝せっしょうによって相手あいてこく派遣はけんこくとの交流こうりゅうふかめ、両国りょうこくとのあいだ対立たいりつしょうじるならば和解わかいみちびくことを外交がいこう目的もくてきなしていたグルーは、かれみずか日本にっぽん政治せいじ社会しゃかい文化ぶんかについて、理解りかいするようつとめた。かれ日本にっぽんについての情報じょうほうげん大使館たいしかんのスタッフの報告ほうこくおよび邦字ほうじ新聞しんぶん要約ようやくからることがおおかったが、かれみずからの交友こうゆう関係かんけい依拠いきょする場合ばあいおおかった。グルーがとくしたしかったのは、「上流じょうりゅう階級かいきゅう国家こっか指導しどうしゃそう」のひとびとで、外務省がいむしょう関係かんけいのぞけば、天皇てんのう側近そっきん重臣じゅうしんだい企業きぎょう経営けいえいしゃ少数しょうすう海軍かいぐん将官しょうかん文化ぶんかじんたちであり[48]かれ休暇きゅうかこのんで滞在たいざいした軽井沢かるいざわでは家族かぞくぐるみで交際こうさいした日本人にっぽんじんおおかった[49]。グルーが日本にっぽんについてつよ印象いんしょうけられたことは、だいいちに、あまねわた天皇てんのうたいする敬愛けいあいねんつよさであった。かれは1935ねん5がつ22にち日記にっきに、「日本人にっぽんじんいだ君主くんしゅへの信仰しんこうちからは、外国がいこくじん一般いっぱんてき感知かんち以上いじょうに、はるかにつよいものだ」としるしている。だいに、日本にっぽん国民こくみん名誉めいよおもんじる民族みんぞくであるということであった。かれらがまた繊細せんさいさを重視じゅうしする文化ぶんか創造そうぞうしてきたことにも注目ちゅうもくした。しかし、おな国民こくみんに、狂信きょうしんてき愛国あいこく主義しゅぎ残忍ざんにんさにはし傾向けいこうがあることにも気付きづいていた。そのバランスがくずれることを、グルーは危惧きぐした。

わたし日本にっぽん日本人にっぽんじん相当そうとうによくっている。日本人にっぽんじんなが歴史れきしつうじて災難さいなん不安ふあんらされて強壮きょうそう人々ひとびとで、どの国民こくみんよりも『やるかぬか』の精神せいしんふかくたたきまれている。」「必要ひつようとあらば、べいだけで戦争せんそうすることが出来できる」とグルーは日記にっきいた(1938ねん12月5にち)。6ヶ月かげつ、「どのてんからても日米にちべい戦争せんそうは、まさに骨頂こっちょうである」ともしるした(1939ねん5がつ15にちづけ日記にっき)。それから2ねんたないうちに、日米にちべい両国りょうこく戦争せんそう状態じょうたいはいる。そのような日本にっぽんは、「過去かこわたしっている日本にっぽん」では、なくなった(1940ねん10がつ1にちづけ日記にっき)。

グルーの依拠いきょした日本にっぽん情報じょうほうげんは、「穏健おんけん」としょうせられるひとびとであった。とく西園寺さいおんじ公望きんもち牧野まきのしんあきら樺山かばやまあい松平まつだいら恒雄つねお吉田よしだしげるひとしふか信頼しんらいせていた。そのなかでも樺山かばやまあい輔は、高度こうど政治せいじ判断はんだんもとめられる情報じょうほうを、グルーのもとにとどけた。グルーの著書ちょしょ滞日たいにちじゅうねん』(後述こうじゅつ)のなかで、樺山かばやま頻繁ひんぱん登場とうじょうする。しかし「著名ちょめいなる日本にっぽん自由じゆう主義しゅぎしゃ」「貴重きちょう情報じょうほう提供ていきょうしゃ」などとしるされ、かれ実名じつめいせられた。

穏健おんけん」のわくて、交際こうさいひろげるのは―たとえば農民のうみん労働ろうどうしゃ一般いっぱん都市とし住民じゅうみんなど―言葉ことば制約せいやくなどの理由りゆうで、困難こんなんであった。しかし、さきべた2てんについては、グルーは自分じぶんただしいと確信かくしんしていた。かれは「穏健おんけん」が軍部ぐんぶおよび激論げきろんしゃ主唱しゅしょうにより、日本にっぽん拡張かくちょう抑制よくせいすることをのぞんだ。とはいえ、グルーが「穏健おんけん」を実際じっさい以上いじょう美化びかし、かれらの政治せいじてき実力じつりょく過大かだい評価ひょうかしがちであったことは否定ひていできない[50]

滞日たいにちじゅうねん

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グルーは1942ねん8がつ帰国きこくし、翌年よくねんまつまでに、250かいにおよぶ演説えんぜつ全国ぜんこくつうじてった。グルーは並行へいこうして、日記にっき刊行かんこう準備じゅんびはじめた。グルーは10年間ねんかん大使たいし期間きかんちゅうに、公式こうしき書簡しょかん会談かいだん記録きろく演説えんぜつ新聞しんぶんとうとはべつに、「大判おおばんタイプライター用紙ようしにタイプされた13かん」におよ日記にっきをしたためていた。本書ほんしょ原題げんだい:Ten Years in Japan)は、それをもとに、「重複じゅうふくするものや、現在げんざい発表はっぴょうないもの」および恒久こうきゅうてき歴史れきしてき価値かちたないと判断はんだんされた事項じこうのぞいたものである。また「名前なまえられると一身上いっしんじょうるいおよぶような」危惧きぐがある場合ばあいは、格別かくべつ配慮はいりょはらったとグルーは「序言じょげん」にしるしている。かれはまた、本書ほんしょが「なめらかにながれる年代ねんだいじゅんもの」になることを意図いとして、公的こうてき記録きろくや、ときとして煩雑はんざつになりかねない詳細しょうさい注釈ちゅうしゃくとうはぶいた。

本書ほんしょは、1944ねん5がつ15にち、サイモン・シュスターしゃから刊行かんこうされた。たか評判ひょうばんをかちえ、『ニューヨーク・タイムズ』によれば、6がつ、7がつつづけてベストセラーリストのだい2になった。40ちか書評しょひょうかれたが、そのおおくは好意こういてきであった。しかし本書ほんしょも、さき刊行かんこうされた『東京とうきょう報告ほうこく』の場合ばあい同様どうように、国務省こくむしょうあるいは戦時せんじ情報じょうほうきょく思惑おもわくはいり、戦争せんそう目的もくてきおよび戦後せんごたいにち政策せいさく世論せろんうったえる」めんがあったことは否定ひていできない[51]

本書ほんしょには、グルーがるにいたった日本にっぽん美術びじゅつ慣行かんこうについての言及げんきゅう数多かずおおくある。また公式こうしき記録きろくにはらない、アメリカ大使館あめりかたいしかん周辺しゅうへんこったこと、ならびにグルーが非公式ひこうしきった訪問ほうもん結果けっかられたことがらが、くわしくしたためられている。たとえば、1934ねんあきベーブ・ルースふくむアメリカだいリーグ野球やきゅうチームが訪日ほうにちした。グルーはいちぎょうむかえた。「わたしはゴルフじょうっただれにでもかれ紹介しょうかいした。そのたびごとに、ベーブは「お出来できうれしくおもいます」(”Pleased to know you”)とったという。全日本ぜんにほんかれくびったけになったことは、いうまでもない。ベーブはわたし逆立さかだちしてもおよばぬほど効果こうかてき大使たいしである。」(強調きょうちょう引用いんようしゃ)(1934ねん11月6にち)。

1937ねんはるヘレン・ケラー来訪らいほうしたとき、グルーは「公的こうてき身分みぶんなにたず、ただみずからの努力どりょくよって完全かんぜんめくら聾唖ろうあというハンディキャップを克服こくふくし、一生いっしょう盲人もうじんのための建設けんせつてき事業じぎょうささげた婦人ふじんがあり、そのひと彼女かのじょ福音ふくいん助力じょりょく日本にっぽんにひろげるためにやってきた。このことは、わたし滞在たいざい5年間ねんかんたいかなることよりも、ふか日本人にっぽんじんしんうったえるのである。・・・演壇えんだんじょうには首相しゅしょう外相がいしょう内相ないしょう府知事ふちじとう、このくにさい上層じょうそうひとびとが何人なんにん見受みうけられた。高官こうかんはそれぞれミス・ケラーの業績ぎょうせきをたたえたみじか演説えんぜつをした。彼女かのじょ謝辞しゃじべ、うつくしい日本にっぽん香炉こうろおくられた」としるした(1937ねん4がつ17にち)。

同様どうように、大使たいし家族かぞく愛犬あいけん散歩さんぽ途中とちゅう積雪せきせつうえでの燥いであしすべらしたらしく皇居こうきょほりち、警官けいかんたすけのさないでいると、大使たいし運転うんてんしゅ本澤ほんさわもとせい)がくるまんであった牽引けんいんようロープを使つかい、とおりすがりのタクシー運転うんてんしゅ有川ありかわ光一こういち)と、そのげずにそのった配達はいたつ途中とちゅうおとこ本澤ほんさわ協力きょうりょくして、このいぬたすげたことがあった(1934ねん1がつ19にち)。昭和しょうわ天皇てんのうもそのことをっていたとグルーは日記にっきいた(1934ねん2がつ23にち)。この大使館たいしかんいぬすくった出来事できごと樺山かばやまあい輔の意向いこう新聞しんぶん記事きじになったが、その内容ないようには取材しゅざい記者きしゃによる「佳話かわ」としての脚色きゃくしょくがある。

年表ねんぴょう

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著書ちょしょ

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • ウォルド・H・ハインリックス ちょ麻田あさだ貞雄さだお わけ日米にちべい外交がいこうとグルー』はら書房しょぼう、1969ねん 
    • 増補ぞうほばん『グルー大使たいし日米にちべい外交がいこうグルー基金ききん、2000ねん 
  • こういずみ『グルー―しん日本にっぽんともミネルみねるァ書房ぁしょぼう日本にっぽん評伝ひょうでんせん〉、2011ねん 
  • ジョージ・F・ケナン『アメリカ外交がいこう50ねん近藤こんどう晋一しんいち飯田いいだふじ有賀ありがさだわけ岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこ、2000ねん 
  • 吉田よしだしげる回想かいそうじゅうねん だい1かん新潮社しんちょうしゃ、1957ねん東京とうきょう白川しらかわ書院しょいん、1982ねん中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1998ねん改版かいはん2014ねん
  • 入江いりえあきら日米にちべい戦争せんそう中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ叢書そうしょ国際こくさい環境かんきょう〉、1978ねん 
  • 中村なかむら政則まさのり象徴しょうちょう天皇てんのうせいへのみち米国べいこく大使たいしグルーとその周辺しゅうへん岩波いわなみ新書しんしょ、1989ねん 
  • 太田おおた尚樹なおきちゅうにち米国べいこく大使たいしジョセフ・グルーの昭和しょうわ』PHP研究所けんきゅうじょ、2013ねん 
  • ヒュー・ボートン戦後せんご日本にっぽん設計せっけいしゃ—ボートン回想かいそうろくひゃく旗頭はたがしらしん 監修かんしゅう五味ごみ俊樹としきわけ朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1998ねん 
  • 藤田ふじたひろしろう「ヘンリー・L・スチムソンとポツダム宣言せんげん」『甲南こうなん法学ほうがく』51(3)、甲南大学こうなんだいがく、2011ねん、1-37ぺーじ 
  • 山下やましたゆうこころざし「アジア・太平洋戦争たいへいようせんそう戦後せんご教育きょういく改革かいかく(11)—ポツダム宣言せんげん発出はっしゅつ—」『宇部うべ高等こうとう教育きょういく専門せんもん学校がっこう研究けんきゅう報告ほうこくだい41ごう、1995ねん、9-108ぺーじ 

評伝ひょうでん

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  • 船山ふなやま喜久よしひさわたる白頭鷲はくとうわしさくら 日本にっぽんあいしたジョセフ・グルー大使たいし亜紀あき書房しょぼう、1996ねん2がつ
  • 福井ふくい雄三ゆうぞう日米にちべい開戦かいせん悲劇ひげき ジョセフ・グルーと軍国ぐんこく日本にっぽんPHP研究所けんきゅうじょ、2012ねん3がつ
  • 平川ひらかわゆうひろし平和へいわうみたたかいのうみ ろく事件じけんから「人間にんげん宣言せんげん」まで』。グルー評伝ひょうでんだい1表題ひょうだい
    • 平川ひらかわゆうひろ決定けっていばん著作ちょさくしゅう だい6かん 平和へいわうみたたかいのうみつとむまこと出版しゅっぱん、2016ねん12月
    旧版きゅうばんは、新潮社しんちょうしゃ、1983ねん講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、1993ねん解説かいせつひゃく旗頭はたがしらしん
  • ハワード・B・ショーンバーガー『占領せんりょう1945~1952 戦後せんご日本にっぽんをつくりあげた8にんのアメリカじん宮崎みやざきあきらやく時事通信社じじつうしんしゃ、1994ねん
    だい1しょう ジョセフ・C.グルー 天皇てんのう占領せんりょう計画けいかく アメリカ外交がいこうにおけるジャパン・ロビー」

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 吉田よしだしげる回想かいそうじゅうねんだい1かん、57ぺーじ太田おおた尚樹なおきは「日本人にっぽんじん美点びてん欠点けってんをこれほど見事みごと見抜みぬいていた米国べいこく大使たいしはいなかったのではないか。(中略ちゅうりゃく日本人にっぽんじんのアイデンティティにあたたかい視線しせんでみつめてくれたグルーには感謝かんしゃあるのみ」としるしている(「あとがき」)。
  2. ^ 麻田あさだ貞雄さだおは、「グルーは日本にっぽん政治せいじ状況じょうきょうを「穏健おんけんたい軍部ぐんぶ過激かげき」という二元にげんてき枠組わくぐみのなかでとらえ、日本にっぽん政策せいさくを “時計とけい”のように両派りょうはあいだ定期ていきてきうごくものとしたため、しばしば判断はんだんをあやまることになった」としるしている。(「解題かいだい」、12ぺーじ)。
  3. ^ ハインリックスは、「誠意せいいにもとづく折衝せっしょうによって対立たいりつ和解わかいみちびくこと―これがグルーの外交がいこうかんであった。ただひとつ例外れいがいは、共産きょうさん主義しゅぎ諸国しょこく外国がいこくむすぶことにかれはなんら価値かちみとめなかった。共産きょうさん主義しゅぎ外交がいこう不可能ふかのうにしたというのがロシア革命かくめいのときから引退いんたいまで、グルーが堅持けんじした見解けんかいであった」といている(351-2ぺーじ)。
  4. ^ バックベイはチャールズかわしょうわんであったところを、19世紀せいき初頭しょとうから干拓かんたく造成ぞうせいされ、ヴィクトリアあさ様式ようしきのブラウンストーン(褐色かっしょく砂岩さがん)を使つかった個人こじん住宅じゅうたく由緒ゆいしょある公共こうきょう建築けんちくなら高級こうきゅう住宅じゅうたく地区ちくとなった。
  5. ^ 1884ねん開校かいこう、グルー入校にゅうこう当時とうじ男子校だんしこうであったが、現在げんざい男女だんじょ共学きょうがく
  6. ^ 大学だいがく公認こうにん社交しゃこうクラブ。
  7. ^ こう、2ぺーじ
  8. ^ グルーとう尽力じんりょくにもかかわらず、アメリカ議会ぎかい上院じょういんどう条約じょうやく批准ひじゅんみとめなかった。
  9. ^ こう、31ぺーじ
  10. ^ ジョン・ジェイコブ・ロジャーズ合衆国がっしゅうこく連邦れんぽう下院かいん議員ぎいん(マサチューセッツしゅう選出せんしゅつ)の提案ていあんにより、1924ねん7がつ成立せいりつ外交がいこうしょく派遣はけんこく意思いし表明ひょうめいし、接受せつじゅこく交渉こうしょうにあたる、接受せつじゅこくについての情報じょうほう収集しゅうしゅう報告ほうこくする機能きのうつ)と領事りょうじしょく国民こくみん自国じこく企業きぎょうとうへの行政ぎょうせい事務じむ手続てつづき、相手あいてこく国民こくみんへのサービス[ビザの発給はっきゅう文化ぶんか交流こうりゅうなど]にかかわる)の統合とうごう新規しんき採用さいようにおける競争きょうそうてき試験しけん実施じっし能力のうりょくによる昇進しょうしん、65さい定年ていねん実施じっしなどをさだめた。 http://www.afsa.org/beginning-rogers-act-1924 (アクセス2017/2/11)
  11. ^ こう、52ぺーじ
  12. ^ 同上どうじょう
  13. ^ 1928ねん8がつ27にちパリで採択さいたく署名しょめいされた。条約じょうやく提唱ていしょうしたフランス外相がいしょうおよびアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国務こくむ長官ちょうかんにちなんでケロッグ=ブリアン条約じょうやくともばれる。いかなる国際こくさい紛争ふんそう平和へいわてき手段しゅだんのみで解決かいけつをはかることが規定きていされた。戦争せんそう違法いほう推進すいしんしたてん重要じゅうよう意味いみつ。
  14. ^ 日本にっぽん国内こくないからはこの報告ほうこくしょたいおおいなる不満ふまん噴出ふんしゅつした。そのことについてグルーはつぎのようにしるした―「リットン報告ほうこくしょたいする反応はんのうは、かねて期待きたいされていたとおりで、観察かんさつたいする一般いっぱんてき非難ひなん独善どくぜんてき義憤ぎふん爆裂ばくれつとですが、観察かんさつ否定ひていしようとする真剣しんけんこころみはなされず、たん真正面ましょうめんからそれが正確せいかくでないというだけです。かかる公衆こうしゅうてき空騒からさわぎは、正気しょうきな、そして穏健おんけんかんがかたをするひとたちには見受みうけられません」(1932ねん10がつ8にちづけスティムソンあて書簡しょかん)。グルーの「日記にっき」・公的こうてき書簡しょかん覚書おぼえがきとうからの引用いんようは『滞日たいにちじゅうねん』によった。同書どうしょふくまれていないものは、参考さんこう文献ぶんけんからの孫引まごびきによる。
  15. ^ こう、74ぺーじ
  16. ^ 外務省がいむしょう情報じょうほう部長ぶちょう天羽あもう英二えいじの「日本にっぽん東亜とうあ地域ちいき秩序ちつじょ維持いじ責任せきにん国家こっかであり、列強れっきょうによる中国ちゅうごく援助えんじょは、にちちゅう特殊とくしゅ関係かんけい考慮こうりょすれば『主義しゅぎとしてこれに反対はんたいせざるをない』とする談話だんわ満州まんしゅう事変じへん以来いらい日本にっぽん大陸たいりく政策せいさく警戒けいかいしていた欧米おうべい諸国しょこくからは、日本にっぽんが「東亜とうあモンロー主義しゅぎ」を宣言せんげんしたと解釈かいしゃくされ、つよ反発はんぱつ警戒けいかいむこととなった。
  17. ^ こう、85ぺーじ
  18. ^ 日本にっぽんはこれ以後いごいわゆる「条約じょうやく時代じだい」にはいる。日本にっぽんは、1934ねんワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく(1921〜22ねん開催かいさいけんかん制限せいげん[保有ほゆう比率ひりつ])を破棄はき、1936ねんロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく(1930ねん補助ほじょかん保有ほゆうりょう制限せいげんさだめた)の失効しっこうともない、日本にっぽんは「巨大きょだい戦艦せんかん建造けんぞうかった。
  19. ^ 共産きょうさん主義しゅぎ脅威きょういからの共同きょうどう防衛ぼうえいやくしたもの。1937ねんイタリア王国おうこく参加さんかさん国防こくぼうども協定きょうていとなった。
  20. ^ 1937ねん7がつ7にちよる中国ちゅうごく北京ぺきん郊外こうがい盧溝橋ろこうきょう付近ふきんで、演習えんしゅうちゅう日本にっぽんぐんいち中隊ちゅうたいたいして射撃しゃげきがなされたことを契機けいきに、日本にっぽんぐん中国ちゅうごく国民こくみん革命かくめいぐんとの衝突しょうとつ発展はってんした事件じけんにちちゅう戦争せんそう発端ほったんとなった。
  21. ^ ハインリックス、131、134ぺーじ
  22. ^ グルーは日記にっきつぎのようにしるした。「くに分岐ぶんきてんかっている。平和へいわ愛好あいこうこくには逆説ぎゃくせつてきえるかもしれないが、平和へいわでなく戦争せんそう可能かのうせいのあるみちえらんでいるようにおもえる。我々われわれ基本きほんてきかつ根本こんぽんてきかんがえは、極東きょくとう混乱こんらんまれるのをけることである。[それなのに]我々われわれ直接ちょくせつまれるかもしれないみちえらんでしまった。(こう、105ぺーじ引用いんよう。)
  23. ^ 日本にっぽん政府せいふ正式せいしき回答かいとう文書ぶんしょは、アメリカ政府せいふ要求ようきゅう全面ぜんめんてきれ、完全かんぜん十分じゅうぶんなる賠償ばいしょう支払しはらいを実行じっこうすること、今後こんご日本にっぽんぐん中国ちゅうごくにおけるアメリカ国民こくみん生命せいめい財産ざいさん攻撃こうげきしないこと、日本にっぽんぐんまたは官憲かんけん不法ふほう干渉かんしょうくわえないと保障ほしょうすること、パナイごう撃沈げきちん関係かんけいしゃにたいし必要ひつようなる処分しょぶん実施じっししたことがべられていた。アメリカ当局とうきょくのいう故意こい爆撃ばくげきたいしては、あくまでも誤認ごにんばくげきであると主張しゅちょうした。よく1938ねん4がつ22にちに、日本にっぽん政府せいふは221まん4007ドル36セントを支払しはらった。
  24. ^ こう、112ぺーじ
  25. ^ 日米にちべい儀仗ぎじょうへい参加さんか盛大せいだい外務省がいむしょうそう昭和しょうわ14ねん4がつ19にち 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん夕刊ゆうかん))『昭和しょうわニュース辞典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん』p224 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  26. ^ ハインリックス、213-18ぺーじ
  27. ^ 同上どうじょう、236ぺーじ
  28. ^ 同上どうじょう、248ぺーじ
  29. ^ 同上どうじょう、305ぺーじ
  30. ^ こう、191ぺーじ
  31. ^ 同上どうじょう、224ぺーじ。グルーの演説えんぜつ活動かつどうが、国務省こくむしょう戦時せんじ情報じょうほうきょくたいにち心理しんり宣伝せんでんせん政策せいさくわくないにあったことは十分じゅうぶんにうかがわれる。中村なかむら政則まさのりは、『東京とうきょう報告ほうこく』におさめられている演説えんぜつすべてグルーがいたものではなく、やく6わり代筆だいひつされたものであると、指摘してきしている(21-24ぺーじ)。
  32. ^ 同上どうじょう、229ぺーじ
  33. ^ 議長ぎちょうジョージ・H・ブレイクスリー(George H. Blakeslee)、メンバーとしてヒュー・ボートン(Hugh Borton)、ユージーン・H・ドゥーマン(Eugene H. Dooman)、アール・R・ディックオーバー(Erle R. Dickover)とうつらなっていた。 いずれも外交がいこうかんとして豊富ほうふ滞日たいにち経験けいけんゆうするか、日本にっぽん歴史れきし文化ぶんかについて精通せいつうする研究けんきゅうしゃであった。
  34. ^ ボートンは1926−28ねん日本にっぽんにおいてアメリカ・フレンズ奉仕ほうしだん作業さぎょう従事じゅうじ、1935-36ねん徳川とくがわ時代ときよ農民のうみん一揆いっき」の研究けんきゅうのため東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく在籍ざいせき、オランダ・ライデン大学だいがく博士はかせごう取得しゅとく国務省こくむしょうまねかれるまえコロンビア大学ころんびあだいがく日本にっぽん助教授じょきょうじゅであった。戦後せんごコロンビア大学ころんびあだいがくひがしアジア研究所けんきゅうじょちょうて、ハバフォード大学だいがく学長がくちょうつとめた(1957-1967ねん)。
  35. ^ こう、244-5ぺーじ
  36. ^ そのだい12こうにおいて、「われわれのしょ目的もくてき達成たっせいせられ、かつ日本にっぽん国民こくみん代表だいひょうする平和へいわてき傾向けいこうゆうし、責任せきにんある政府せいふ確実かくじつ樹立じゅりつされたときは、連合れんごうこく占領せんりょうぐんは、ただちに日本にっぽんこくより撤収てっしゅうされるものとする。このような政府せいふは・・・げん皇室こうしつしたにおける立憲りっけん君主くんしゅせいふくみうるものとする」というものだった。(中村なかむら、138ぺーじ
  37. ^ 公式こうしき議事ぎじろくによれば、1945ねん5がつ1にち委員いいんかいにおいて「日本にっぽんにおける天皇てんのう立場たちばからしょうじる問題もんだいや、軍事ぐんじ作戦さくせんたいする新兵しんぺい想定そうていされる効果こうか」が検討けんとうされたとある。この記述きじゅつ真実しんじつならば、グルーはこのはじめて原子げんしばくだんについてったことになる。5月8にち原爆げんばくかんする暫定ざんてい委員いいんかい組織そしきされたが、グルーはその一員いちいんにはならなかった。(こう、252ぺーじ
  38. ^ 木村きむらあきら; ピーター・カズニック (2010). 広島ひろしま長崎ながさきへの原爆げんばく投下とうか再考さいこう日米にちべい視点してん. 法律文化社ほうりつぶんかしゃ. p. 96. ISBN 978-4589033116 
  39. ^ 戦争せんそうはいかに終結しゅうけつしたか 大戦たいせんからベトナム、イラクまで』千々ちじかず泰明やすあきちょ(2021ねん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ
  40. ^ こう、283ぺーじ
  41. ^ 同上どうじょう、303ぺーじ
  42. ^ 同上どうじょう、306〜7ぺーじ
  43. ^ 同上どうじょう、316ぺーじ
  44. ^ Alice de Vermandois Perry Family Search
  45. ^ Cecil B. Lyon, 89, Who Long Served As U.S. Diplomat The New York Times, April 8, 1993
  46. ^ a b 巨人軍きょじんぐんにくんだおとこ V・スタルヒンと日本にっぽん野球やきゅう』(牛島うしじま秀彦ひでひこちょ福武ふくたけ文庫ぶんこ、1991ねん)p102-105
  47. ^ ケナン、144ぺーじ
  48. ^ 太田おおた、57ぺーじ
  49. ^ 船山ふなやま、35ぺーじ
  50. ^ 中村なかむら、99ぺーじ
  51. ^ 同上どうじょう、70ぺーじ
  52. ^ United States Department of State (1961) (英語えいご). Foreign relations of the United States diplomatic papers, The Conferences at Cairo and Tehran, 1943. pp. p.XXXII. http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=turn&entity=FRUS.FRUS1943CairoTehran.p0036&id=FRUS.FRUS1943CairoTehran 
  53. ^ 読売新聞社よみうりしんぶんしゃへん昭和しょうわ天皇てんのう 3 本土ほんど決戦けっせんとポツダム宣言せんげん中公ちゅうこう文庫ぶんこ p.345 (2012ねん
  54. ^ 文庫ぶんこ改訂かいていばん解説かいせつ保阪ほさかただしやすし、なお下記かきわけだいは「動乱どうらん

外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
スタンリー・クール・ホーンベック
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国務省こくむしょう極東きょくとう局長きょくちょう
1944ねん5月 - 12月
次代じだい
ジョセフ・ウィリアム・バランタイン
先代せんだい
エドワード・ステティニアス
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国務こくむ次官じかん
1944ねん12月20にち - 1945ねん8がつ15にち
次代じだい
ディーン・アチソン