ジョセフ・クラーク・グルー (Joseph Clark Grew、1880年 ねん 5月27日 にち - 1965年 ねん 5月25日 にち )は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の外交 がいこう 官 かん 。日米 にちべい 開戦 かいせん 時 どき の駐 ちゅう 日 にち アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし (第 だい 13代 だい )。
日米 にちべい 開戦 かいせん 回避 かいひ に努 つと めた。開戦 かいせん (1941年 ねん 12月 がつ )後 こう 日本 にっぽん 国内 こくない に抑留 よくりゅう され、日本 にっぽん の外交 がいこう 官 かん との交換 こうかん 船 せん により帰国 きこく (1942年 ねん 6月 がつ )。帰国 きこく 後 ご は国務 こくむ 次官 じかん となり、日本 にっぽん への原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 投下 とうか に反対 はんたい して天皇 てんのう 制 せい 存続 そんぞく を訴 うった えたり、終戦 しゅうせん 交渉 こうしょう ・占領 せんりょう 政策 せいさく 立案 りつあん に尽力 じんりょく した。終戦 しゅうせん と同時 どうじ に国務 こくむ 次官 じかん を辞任 じにん し、私人 しじん として講演 こうえん 活動 かつどう などを通 つう じ、日米 にちべい 両国 りょうこく の親善 しんぜん に尽 つく した。
吉田 よしだ 茂 しげる は、グルーは「本当 ほんとう の意味 いみ の知 ち 日 び 家 か で、『真 しん の日本 にっぽん の友 とも 』であった」と高 たか く評価 ひょうか した[ 1] 他方 たほう 、グルーの日本 にっぽん 理解 りかい には限界 げんかい があった[ 2] 、あるいは彼 かれ は政治 せいじ 的 てき にきわめて保守 ほしゅ 的 てき であったことを指摘 してき する見方 みかた もある[ 3] 。
グルーは、マサチューセッツ州 しゅう ボストン市 し 西部 せいぶ のバックベイ (Back Bay)地区 ちく [ 4] に、エドワード・スタージスおよびアニー・クロフォード・グルーの四 よん 番目 ばんめ の子 こ として生 う まれた。2人 ふたり の兄 あに (ヘンリーおよびランドルフ)と姉 あね (エレノア)がいた。グルー家 か は祖先 そせん がイギリスから渡米 とべい したボストンの名門 めいもん で、貿易 ぼうえき ・綿 めん 取 と り引 ひ き業 ぎょう ・金融 きんゆう 業 ぎょう などで財 ざい をなし、同 おな じく名門 めいもん のパークマン家 か やスタージス家 か などとつながっていた。
1892年 ねん 秋 あき 、人格 じんかく ・指導 しどう 力 りょく ・社会 しゃかい 奉仕 ほうし の精神 せいしん の育成 いくせい を目指 めざ す全寮 ぜんりょう 制 せい のグロトン校 こう [ 5] に入学 にゅうがく した。同校 どうこう 卒業 そつぎょう 後 ご 、ボストンの由緒 ゆいしょ ある家庭 かてい の男子 だんし が通常 つうじょう 進学 しんがく したハーバード大学 だいがく に入学 にゅうがく した。入学 にゅうがく 後 ご は、大学 だいがく 新聞 しんぶん 『クリムゾン』の編集 へんしゅう 員 いん として活躍 かつやく すると共 とも に、スポーツにも熱心 ねっしん であった。最 もっと も熱 ねつ を入 い れたのが、「フライ・クラブ(Fly Club)」[ 6] であった。グルーは後 のち に「クラブでの活動 かつどう と社交 しゃこう が自分 じぶん にとっての大学 だいがく 生活 せいかつ のハイライトであった」と述 の べている[ 7] 。第 だい 32代 だい 大統領 だいとうりょう のフランクリン・D・ルーズベルト はグロトンとハーバードでグルーの2年 ねん 後輩 こうはい であったが、両人 りょうにん が当時 とうじ 親 した しく交流 こうりゅう していたという記録 きろく はない。
グルー家 か は、植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい 初期 しょき にイギリスからマサチューセッツに移住 いじゅう した「ピューリタン 」(カルヴァン主義 しゅぎ の流 なが れを汲 く む会衆 かいしゅう 派 は ・長老 ちょうろう 派 は )とは異 こと なる、より自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき な監督 かんとく 派 は (エピスコパル)に属 ぞく していたが、勤勉 きんべん ・責任 せきにん ・奉仕 ほうし など、ニューイングランド に流 なが れる倫理 りんり 観 かん を培 つちか われ、生涯 しょうがい を通 つう じてそれを保 たも った。グルーは幼少 ようしょう 時 じ に猩紅熱 しょうこうねつ にかかり、片耳 かたみみ 難聴 なんちょう になった。この事 こと は外交 がいこう 官 かん のキャリアを全 まっと うする上 じょう でハンディキャップとなった。大学 だいがく 卒業 そつぎょう 後 ご 、1902年 ねん 6月 がつ から18ヶ月 かげつ の世界 せかい 旅行 りょこう に出 で た。中国 ちゅうごく (アモイ )で虎 とら を狩猟 しゅりょう するなどの体験 たいけん の後 のち 、日本 にっぽん 経由 けいゆ で帰国 きこく した。
外交 がいこう 官 かん 時代 じだい —1932年 ねん 以前 いぜん [ 編集 へんしゅう ]
グルーが大学 だいがく を卒業 そつぎょう した頃 ころ 、「職業 しょくぎょう 的 てき 外交 がいこう 官 かん 」の地位 ちい が確立 かくりつ しておらず、政治 せいじ 的 てき 功労 こうろう 者 しゃ が大使 たいし ・公使 こうし ・領事 りょうじ などに任命 にんめい されていた。書記官 しょきかん たち初任 しょにん 者 しゃ の昇進 しょうしん も保障 ほしょう されてはいなかった。グルーは、カイロ のアメリカ総領事 そうりょうじ 書記 しょき 生 せい に就 つ く道 みち を選 えら ぶ(1904年 ねん 7月 がつ 、同年 どうねん 11月 がつ よりカイロ総領事 そうりょうじ 代理 だいり )。
1905年 ねん 10月 がつ 、アリス・ペリーと結婚 けっこん 。アリスは日本 にっぽん を開国 かいこく したマシュー・ペリー 提督 ていとく の兄 あに 、オリヴァー のひ孫 まご にあたった。慶応義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく で英 えい 文学 ぶんがく を教 おし えていた父 ちち トマス・ペリーに同行 どうこう し来日 らいにち し、3年間 ねんかん 日本 にっぽん で過 す ごした。
その後 ご グルーはセオドア・ルーズベルト 大統領 だいとうりょう の口利 くちき きで、駐 ちゅう メキシコ 大使館 たいしかん 三 さん 等 とう 書記官 しょきかん (1906年 ねん 3月 がつ )・駐 ちゅう ロシア帝国 ていこく 大使館 たいしかん 三 さん 等 とう 書記官 しょきかん (1907年 ねん 5月 がつ )に採用 さいよう された。1908年 ねん 6月 がつ 駐 ちゅう ドイツ帝国 ていこく 大使館 たいしかん 2等 とう 書記官 しょきかん 、1911年 ねん 1月 がつ 駐 ちゅう オーストリア=ハンガリー帝国 ていこく 大使館 たいしかん 1等 とう 書記官 しょきかん を経 へ て、1916年 ねん 9月 がつ 末 まつ 〜12月後半 こうはん ドイツ代理 だいり 大使 たいし を務 つと めた。この頃 ころ 一 いち 時 じ は政権 せいけん の交代 こうたい があり(共和党 きょうわとう ウィリアム・タフト 大統領 だいとうりょう から民主党 みんしゅとう ウッドロー・ウィルソン 大統領 だいとうりょう へ)、民主党 みんしゅとう 支持 しじ 者 しゃ のはげしい猟官 りょうかん の影響 えいきょう を受 う けることが予想 よそう されたが、知人 ちじん 等 とう の支援 しえん があり、留任 りゅうにん できた。そして、ひっきりなしの歓待 かんたい やヨーロッパの宮廷 きゅうてい 外交 がいこう の壮麗 そうれい さを満喫 まんきつ し、外交 がいこう 官 かん としてのスタイルを身 み に付 つ けた。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか はアメリカ国内 こくない に居住 きょじゅう しており、国務省 こくむしょう 西欧 せいおう 部長 ぶちょう など歴任 れきにん 。1918年 ねん 10月 がつ 、エドワード・ハウス大佐 たいさ に同行 どうこう してパリ へ。パリ講和 こうわ 会議 かいぎ 期間 きかん 中 ちゅう および終了 しゅうりょう 後 ご 、アメリカ全権 ぜんけん 団 だん 書記官 しょきかん を務 つと めた(1919年 ねん 1月 がつ 〜12月)。
1920年 ねん 5月 がつ 〜1921年 ねん 10月 がつ 、駐 ちゅう デンマーク 公使 こうし 、1921年 ねん 10月 がつ 〜1924年 ねん 4月 がつ 、駐 ちゅう スイス 公使 こうし 。この間 あいだ 1922年 ねん 11月〜1923年 ねん 7月 がつ 、ローザンヌ会議 かいぎ へのアメリカ代表 だいひょう 団 だん に加 くわ わり、オスマン帝国 ていこく に代 か わる新生 しんせい トルコ共和 きょうわ 国 こく の基礎 きそ 造 づく り(関税 かんぜい 自主権 じしゅけん の回復 かいふく ・ギリシャとトルコの住民 じゅうみん 交換 こうかん など)に貢献 こうけん した(ローザンヌ条約 じょうやく 、1923年 ねん 8月 がつ 6日 にち 締結 ていけつ )[ 8] 。
1924年 ねん のグルー。執務 しつむ 室 しつ にて
1924年 ねん 2月 がつ 、国際 こくさい 連盟 れんめい でのアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を代表 だいひょう する任務 にんむ を終 お え、本国 ほんごく に戻 もど った時 とき 、グルーは自分 じぶん が国務 こくむ 次官 じかん に任命 にんめい されたという電報 でんぽう を受 う け取 と った。グルーは予想 よそう される責任 せきにん と困難 こんなん さを思 おも って躊躇 ちゅうちょ したが、「喜 よろこ ばしいものである」と日記 にっき に記 しる し、就任 しゅうにん を受託 じゅたく した[ 9] 。
この頃 ころ 、ロジャーズ法 ほう [ 10] が成立 せいりつ し、外交 がいこう 官 かん 制度 せいど の改革 かいかく の試 こころ みが始 はじ まっていた。外交 がいこう 職 しょく と領事 りょうじ 職 しょく の間 あいだ の格差 かくさ を失 しつ くすことが改革 かいかく の目指 めざ すところであった。その作業 さぎょう を進 すす める上 うえ で、グルーのようなキャリアの持 も ち主 ぬし が適任 てきにん であると見込 みこ まれた。しかしグルーは、改革 かいかく の必要 ひつよう 性 せい は認 みと めていたが、外交 がいこう 職 しょく と領事 りょうじ 職 しょく の統合 とうごう には熱心 ねっしん ではなかった。彼 かれ は外交 がいこう 職 しょく を守 まも ることにより熱心 ねっしん であった。外交 がいこう 官 かん には特別 とくべつ な素養 そよう と経験 けいけん が必要 ひつよう とされ、昇進 しょうしん 率 りつ の差 さ に見 み られるような両者 りょうしゃ の間 あいだ の格差 かくさ は個人 こじん の能力 のうりょく の差 さ によるものと信 しん じていた。グルーの在任 ざいにん 中 ちゅう なされた昇進 しょうしん や任命 にんめい は、彼 かれ にとっては正当 せいとう 化 か されるものであったが、たとえば1927年 ねん の人事 じんじ リストには9人 にん の大 だい 公使 こうし および国務 こくむ 次官補 じかんほ が指名 しめい されていたが、東部 とうぶ エリート大学 だいがく 出身 しゅっしん 者 しゃ への偏 かたよ りが目立 めだ ち、領事 りょうじ 職 しょく は1人 ひとり も含 ふく まれていなかった。これに対 たい し、強 つよ い批判 ひはん が出 で た。同 どう 事件 じけん —「1927年 ねん のスキャンダル」と呼 よ ばれたーは、明 あき らかにグルーの失敗 しっぱい であった[ 11] 。このことならびに国務 こくむ 長官 ちょうかん フランク・ケロッグ (Frank Kellogg)との不和 ふわ が取 と り沙汰 ざた され、グルーの転出 てんしゅつ は予期 よき された。
1927年 ねん 5月 がつ 、グルーは駐 ちゅう トルコ 大使 たいし に任命 にんめい され、9月に就任 しゅうにん した。この人事 じんじ に関 かん して、議会 ぎかい では外交 がいこう 官 かん の自己 じこ 昇進 しょうしん であるとの批判 ひはん が起 お こった。ケロッグ長官 ちょうかん は、職責 しょくせき と能力 のうりょく でグルーを推薦 すいせん したと型通 かたどお りの援護 えんご を行 おこな ったが、グルーは秘書官 ひしょかん に宛 あ てた書簡 しょかん で、「私 わたし はコンスタンチノープル を望 のぞ んだ訳 わけ ではない。私 わたし の印象 いんしょう では、政権 せいけん は私 わたし が去 さ ることを望 のぞ んでいるのだ」と記 しる した[ 12] 。
しかし、新生 しんせい トルコへの最初 さいしょ のアメリカ大使 たいし として、グルーはケマル・アタテュルク 大統領 だいとうりょう およびイスメト・イノニュ 首相 しゅしょう の指導 しどう の下 した 、トルコが近代 きんだい 的 てき 国家 こっか へと歩 あゆ む過程 かてい を目 ま の当 あ たりに見 み る機会 きかい に恵 めぐ まれた。彼 かれ は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく が個別 こべつ にトルコと通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく 及 およ び居住 きょじゅう 営業 えいぎょう 条約 じょうやく を締結 ていけつ する事 こと に尽力 じんりょく した(それぞれ1929年 ねん および1931年 ねん に締結 ていけつ 、1932年 ねん 5月 がつ に批准 ひじゅん 成立 せいりつ )。
駐 ちゅう 日 にち 大使 たいし —穏健 おんけん 派 は への期待 きたい [ 編集 へんしゅう ]
アメリカ、対 たい 日 にち 道徳 どうとく 的 てき 圧力 あつりょく を強 つよ める[ 編集 へんしゅう ]
1931年 ねん 秋 あき 、グルーは駐 ちゅう 日 にち 大使 たいし を務 つと める意向 いこう を打診 だしん された。同年代 どうねんだい の職業 しょくぎょう 外交 がいこう 官 かん として、主要 しゅよう 都市 とし の大使 たいし になる最初 さいしょ の者 もの であることを意識 いしき し、彼 かれ はその任 にん を引 ひ き受 う けた。3月13日 にち 、トルコを離 はな れ、新 あたら しい任地 にんち に向 む かった。1932年 ねん 6月 がつ 6日 にち 、横浜 よこはま 港 こう に到着 とうちゃく し、6月14日 にち 、昭和 しょうわ 天皇 てんのう に謁見 えっけん した。
グルーの日本 にっぽん 着任 ちゃくにん の前年 ぜんねん 、満州 まんしゅう 事変 じへん (1931年 ねん 9月 がつ 18日 にち )が勃発 ぼっぱつ し、日本 にっぽん のアジア大陸 たいりく 進出 しんしゅつ が顕著 けんちょ となった。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 国務 こくむ 長官 ちょうかん ヘンリー・スティムソン は1932年 ねん 1月 がつ 7日 にち 、日本 にっぽん による満州 まんしゅう の軍事 ぐんじ 制圧 せいあつ は、パリ不戦 ふせん 条約 じょうやく [ 13] に違反 いはん するとする声明 せいめい (スティムソン・ドクトリン)を公表 こうひょう した。日本 にっぽん の行為 こうい を不服 ふふく とした中華民国 ちゅうかみんこく の提訴 ていそ を受 う けて、国際 こくさい 連盟 れんめい はイギリスのヴィクター・ブルワー=リットン を団長 だんちょう とする日 ひ 支 ささえ 紛争 ふんそう 調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい (リットン調査 ちょうさ 団 だん )を派遣 はけん した。調査 ちょうさ 団 だん は同年 どうねん 10月 がつ 2日 にち に報告 ほうこく 書 しょ を公表 こうひょう し、「日本 にっぽん の軍事 ぐんじ 行動 こうどう は正当 せいとう な自衛 じえい 措置 そち と認 みと めることはできない」と結論 けつろん 付 つ けた[ 14] 。
1932年 ねん から1933年 ねん にかけて、本国 ほんごく では共和党 きょうわとう から民主党 みんしゅとう に政権 せいけん 交代 こうたい した(ハーバート・フーヴァー 大統領 だいとうりょう からフランクリン・ルーズベルト 大統領 だいとうりょう へ)。グルーは共和党 きょうわとう 支持 しじ であったので通常 つうじょう ならば更迭 こうてつ されるところであり、慣例 かんれい に従 したが って辞表 じひょう を提出 ていしゅつ したが、年金 ねんきん 資格 しかく が得 え られる翌年 よくねん まで上級 じょうきゅう 外交 がいこう 官職 かんしょく に留 と まりたいという希望 きぼう を併 あわ せて伝 つた えた。その結果 けっか 、グルーは駐 ちゅう 日 にち 大使 たいし に留任 りゅうにん することとなった[ 15] 。
この頃 ころ グルーは、日本 にっぽん 国内 こくない においては広田 ひろた 弘毅 こうき 等 ひとし の穏健 おんけん 派 は が軍部 ぐんぶ を抑 おさ えることを期待 きたい し、日本 にっぽん が国際 こくさい 連盟 れんめい に留 と まることを望 のぞ んでいた。しかし1933年 ねん 2月 がつ 、リットン報告 ほうこく 書 しょ は国際 こくさい 連盟 れんめい 総会 そうかい で承認 しょうにん された。松岡 まつおか 洋右 ようすけ 全権 ぜんけん はあらかじめ用意 ようい していた宣言 せんげん 書 しょ を読 よ み上 あ げ、国際 こくさい 連盟 れんめい 総会 そうかい から退場 たいじょう した。翌月 よくげつ 、日本 にっぽん 政府 せいふ は国際 こくさい 連盟 れんめい からの脱退 だったい を決 き め、正式 せいしき に通告 つうこく した。
松岡 まつおか 洋右 ようすけ が宣言 せんげん 書 しょ を読 よ み上 あ げた日 ひ 、グルーは日記 にっき に次 つぎ のように記 しる したー「今日 きょう 、内閣 ないかく は、国際 こくさい 連盟 れんめい を脱退 だったい することを決議 けつぎ した。・・・私 わたし 自身 じしん の推測 すいそく は間違 まちが っていた。ごく最近 さいきん まで私 わたし は日本 にっぽん がこれをやると思 おも っていなかった。しかし、これは満州 まんしゅう 国 こく を急 いそ いで承認 しょうにん したことその他 た 、今 いま まで日本 にっぽん がやってきたあらゆることの線 せん に、ちゃんと沿 そ っているのである。日本 にっぽん の政策 せいさく は一 ひと つの『既成 きせい 事実 じじつ 』に次 つ ぐに他 た の既成 きせい 事実 じじつ をもって、世界 せかい を相手 あいて にしようというのである。軍 ぐん はいまだに優勢 ゆうせい で、いまだに恐怖 きょうふ 政治 せいじ の独裁 どくさい 制 せい を構 かま えている」(1933年 ねん 2月 がつ 20日 はつか )。
1933年 ねん 9月 がつ 、広田 ひろた 弘毅 こうき が齋藤 さいとう 内閣 ないかく (斎藤 さいとう 実 みのる 首相 しゅしょう )で外相 がいしょう に就任 しゅうにん した。グルーは、広田 ひろた の「政策 せいさく の礎石 そせき は日米 にちべい 関係 かんけい の改善 かいぜん である。彼 かれ の態度 たいど は、彼 かれ が本気 ほんき であることを私 わたし に確信 かくしん させる」として、彼 かれ を中心 ちゅうしん とする日本 にっぽん の穏健 おんけん 派 は が日本 にっぽん が極端 きょくたん な行動 こうどう に走 はし ることを阻止 そし すると期待 きたい していた。しかし、1934年 ねん 4月 がつ 17日 にち の「天羽 あもう 声明 せいめい 」[ 16] を境 さかい にして、穏健 おんけん 派 は に対 たい するグルーの期待 きたい はさらに弱 よわ まっていった。
他方 たほう 、情報 じょうほう が錯綜 さくそう し、本省 ほんしょう は天羽 あもう 声明 せいめい の公式 こうしき の訳文 やくぶん を求 もと めてきたが、グルーは、同 どう 声明 せいめい は外相 がいしょう の許可 きょか を得 え ていないので公式 こうしき の訳文 やくぶん はないと返答 へんとう する一方 いっぽう 、日本 にっぽん は九 きゅう カ国 かこく 条約 じょうやく を遵守 じゅんしゅ し、中国 ちゅうごく に特殊 とくしゅ 権益 けんえき を求 もと めず、中国 ちゅうごく の貿易 ぼうえき を阻害 そがい しないというのが天皇 てんのう の方針 ほうしん であると本省 ほんしょう に伝 つた えた。これは天羽 あもう 声明 せいめい の内容 ないよう と異 こと なるものであった。天羽 あもう 声明 せいめい が、日本 にっぽん 政府 せいふ の誰 だれ によっても「公然 こうぜん と否定 ひてい 」されていないことも明 あき らかとなり、本省 ほんしょう は困惑 こんわく し、駐 ちゅう 日 にち 大使館 たいしかん の能力 のうりょく に疑問 ぎもん が持 も たれた[ 17] 。
5ヶ月 かげつ の休暇 きゅうか の後 のち グルーは、1935年 ねん 12月17日 にち に帰任 きにん した。駐 ちゅう ベルギー 大使 たいし に代 か わって、グルーは外交 がいこう 団 だん 主席 しゅせき になることとなった。それは、様々 さまざま の宮中 きゅうちゅう 行事 ぎょうじ への参列 さんれつ を意味 いみ した。
翌年 よくねん 早々 はやばや 日本 にっぽん が第 だい 二 に 次 じ ロンドン海軍 かいぐん 軍縮 ぐんしゅく 会議 かいぎ 本 ほん 会議 かいぎ を脱退 だったい したことなどを知 し り[ 18] 、グルーの対 たい 日 にち 態度 たいど は強硬 きょうこう なものになった。日米 にちべい の友好 ゆうこう 関係 かんけい を心 しん から望 のぞ むグルーとしては、東 ひがし アジアにおけるアメリカの権益 けんえき や通商 つうしょう の自由 じゆう を妨 さまた げる日本 にっぽん の行動 こうどう については、日本人 にっぽんじん にアメリカ人 じん の考 かんが えをきっちりと理解 りかい させるべきである、と考 かんが えるに至 いた った。そのため、上院 じょういん 外交 がいこう 委員 いいん 長 ちょう キー・ピットマンが議会 ぎかい において、日本 にっぽん の侵略 しんりゃく 政策 せいさく はアメリカにとって危険 きけん であるという内容 ないよう の好戦 こうせん 的 てき な演説 えんぜつ を行 おこな った際 さい 、日記 にっき に「(このような演説 えんぜつ は)日本人 にっぽんじん に、物 もの を考 かんが えるために立 た ち止 ど まらせる役 やく に立 た つことは確 たし かだと思 おも う」と書 か き、それを支持 しじ した(1936年 ねん 2月 がつ 11日 にち 付 づけ 日記 にっき )。
1936年 ねん 11月25日 にち 、日本 にっぽん がナチス・ドイツ と日 にち 独 どく 防共 ぼうきょう 協定 きょうてい [ 19] を結 むす んだ。グルーは日記 にっき に「対外 たいがい 関係 かんけい に関 かん する限 かぎ り、1937年 ねん は日本 にっぽん にとって良 よ くない年 とし である。(中略 ちゅうりゃく )国際 こくさい 連盟 れんめい から脱退 だったい したことによって始 はじ められた日本 にっぽん の孤立 こりつ を、完全 かんぜん なものにした」と書 か いた(1937年 ねん 1月 がつ 1日 にち )。
1936年 ねん 2月 がつ 26日 にち 、日本 にっぽん の陸軍 りくぐん 皇 すめらぎ 道 どう 派 は の影響 えいきょう を受 う けた青年 せいねん 将校 しょうこう らが下士官 かしかん 兵 へい を率 ひき いて起 お こした未遂 みすい のクーデター(二・二六事件 ににろくじけん )が起 お こった。前夜 ぜんや グルーは元 もと 首相 しゅしょう 斎藤 さいとう 実 みのる 内大臣 ないだいじん 夫妻 ふさい 、鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 侍従 じじゅう 長 ちょう 夫妻 ふさい を大使館 たいしかん の晩餐 ばんさん に招 まね き、トーキーを楽 たの しんだ。暗殺 あんさつ を知 し り、翌日 よくじつ グルーは岡田 おかだ 啓介 けいすけ 首相 しゅしょう の自宅 じたく へ弔問 ちょうもん した。
後任 こうにん に広田 ひろた 弘毅 こうき が選 えら ばれ、組閣 そかく に着手 ちゃくしゅ した。グルーは日記 にっき に「(彼 かれ は)合衆国 がっしゅうこく との友好 ゆうこう 関係 かんけい を欲 ほっ し、その方向 ほうこう に出来 でき るだけの努力 どりょく を払 はら うことと思 おも う」と、広田 ひろた への期待 きたい が大 おお きいことを記 しる した。しかし広田 ひろた 内閣 ないかく は、翌年 よくねん 1月 がつ に総 そう 辞職 じしょく し、後任 こうにん に林 はやし 銑 ずく 十 じゅう 郎 ろう が選 えら ばれ林内 りんない 閣 かく が成立 せいりつ した(1937年 ねん 2月 がつ )。
1937年 ねん 7月 がつ 7日 にち 、盧溝橋 ろこうきょう 事件 じけん [ 20] が起 お こり、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した。グルーは当初 とうしょ は、事件 じけん は日本 にっぽん による“謀略 ぼうりゃく 工作 こうさく ”の結果 けっか だとする説 せつ に対 たい しては懐疑 かいぎ 的 てき だったが、次第 しだい に事件 じけん の発端 ほったん は日本 にっぽん 側 がわ に責任 せきにん があるという見方 みかた に変 か わっていった。しかし彼 かれ は、アメリカの政策 せいさく の主要 しゅよう 目標 もくひょう は、厳正 げんせい 中立 ちゅうりつ を維持 いじ し、極東 きょくとう の混乱 こんらん した事態 じたい の局外 きょくがい に立 た つことでなければならないと考 かんが え、この段階 だんかい でも、対 たい 日 にち 圧迫 あっぱく 策 さく は無駄 むだ であり、そのうえ危険 きけん で破壊 はかい 的 てき であると見 み ていた[ 21] 。
1937年 ねん 10月 がつ 5日 にち 、フランクリン・ルーズベルト 大統領 だいとうりょう は、世界 せかい に無法 むほう 状態 じょうたい を生 う み出 だ す国家 こっか は隔離 かくり されるべきであるとする「隔離 かくり 演説 えんぜつ 」と呼 よ ばれることになる演説 えんぜつ を行 おこな った。交渉 こうしょう を通 つう じての紛争 ふんそう 解決 かいけつ を望 のぞ んでいたグルーは落胆 らくたん した[ 22] 。
1937年 ねん 11月7日 にち 、日本 にっぽん 軍 ぐん が上海 しゃんはい に上陸 じょうりく し、12月1日 にち 、南京 なんきん を占領 せんりょう する に至 いた っても、日米 にちべい 友好 ゆうこう は可能 かのう というグルーの信念 しんねん は揺 ゆ らがなかった。しかし、アメリカによる調停 ちょうてい によって和平 わへい を実現 じつげん することには、さらに悲観 ひかん 的 てき になっていく兆候 ちょうこう を彼 かれ は見逃 みのが すことはなかった。
駐 ちゅう 日 にち 大使 たいし —強硬 きょうこう 路線 ろせん へ[ 編集 へんしゅう ]
1937年 ねん 12月12日 にち 、日本 にっぽん 海軍 かいぐん 機 き が揚子江 ようすこう 上 うえ において、米国 べいこく アジア艦隊 かんたい 所属 しょぞく の警備 けいび 船 せん 「パネー号 ごう (Panay)」を攻撃 こうげき して沈没 ちんぼつ させ、その際 さい に機銃 きじゅう 掃射 そうしゃ を行 おこな ったとされる、パネー号 ごう 事件 じけん が生 しょう じた。日本 にっぽん 側 がわ は、事件 じけん は故意 こい の敵対 てきたい 行為 こうい ではなく、一連 いちれん の偶発 ぐうはつ 事件 じけん の結果 けっか だと主張 しゅちょう した。日本 にっぽん 側 がわ は広田 ひろた 弘毅 こうき 外相 がいしょう が大使館 たいしかん に赴 おもむ き、謝罪 しゃざい する一方 いっぽう 、ワシントンDCの斎藤 さいとう 博 ひろし 駐米 ちゅうべい 大使 たいし へコーデル・ハル 国務 こくむ 長官 ちょうかん への謝罪 しゃざい を訓令 くんれい した。斎藤 さいとう 大使 たいし は訓令 くんれい を待 ま たずにラジオ放送 ほうそう 枠 わく を買 か い取 と って、全国 ぜんこく 中継 ちゅうけい で謝罪 しゃざい を表明 ひょうめい した。12月24日 にち 、広田 ひろた 弘毅 こうき 外相 がいしょう は日本 にっぽん 政府 せいふ の正式 せいしき 回答 かいとう 文書 ぶんしょ をグルー大使 たいし に手交 しゅこう した[ 23] 。
1938年 ねん 2月 がつ 、日本 にっぽん 軍 ぐん は重慶 たーちん を爆撃 ばくげき した(重慶 たーちん 爆 ばく 撃 げき )。近衛 このえ 文麿 ふみまろ 首相 しゅしょう (第 だい 1次 じ 近衛 このえ 内 ない 閣 かく )は帝国 ていこく 議会 ぎかい で、日本 にっぽん は「支 ささえ 那 な の領土 りょうど 並 なら びに主権 しゅけん および支 ささえ 那 な における列国 れっこく の正当 せいとう なる権益 けんえき を尊重 そんちょう する方針 ほうしん にはいささかもかわるところはない」と演説 えんぜつ した。グルーの本国 ほんごく への報告 ほうこく は、この演説 えんぜつ を真 しん に受 う けたもののように思 おも われた。すなわち日本 にっぽん 軍 ぐん の行動 こうどう は単 たん なる軍事 ぐんじ 的 てき 逸脱 いつだつ ではなく、経済 けいざい 圏 けん 確保 かくほ が目的 もくてき であるとした。これに対 たい し、国務省 こくむしょう の極東 きょくとう 専門 せんもん 家 か は、「グルーが日本 にっぽん 寄 よ り過 す ぎる」という批判 ひはん 的 てき なコメントを出 だ した[ 24] 。
斎藤 さいとう 博 ひろし 駐米 ちゅうべい 大使 たいし の遺骨 いこつ の送還 そうかん [ 編集 へんしゅう ]
1939年 ねん 2月 がつ 26日 にち 、斎藤 さいとう 博 ひろし 駐米 ちゅうべい 大使 たいし がワシントンD.C. において病没 びょうぼつ した。同 どう 大使 たいし は1934年 ねん に着任 ちゃくにん して以来 いらい 、パネー号 ごう 事件 じけん (1937年 ねん 12月 がつ )に際 さい し、直接 ちょくせつ ラジオの全国 ぜんこく 中継 ちゅうけい で平和 へいわ 的 てき 解決 かいけつ を訴 うった えるなど、日米 にちべい 関係 かんけい の改善 かいぜん に努 つと めたことで知 し られていた。アメリカ政府 せいふ は同 どう 大使 たいし の死 し を惜 お しみ、また元 もと 駐日 ちゅうにち 大使 たいし エドガー・バンクロフト の死 し に際 さい し、日本 にっぽん 政府 せいふ が軽 けい 巡洋艦 じゅんようかん 「多摩 たま 」によって同 どう 大使 たいし の遺体 いたい を送 おく り届 とど けたことへの返礼 へんれい の意味 いみ を込 こ めて、巡洋艦 じゅんようかん 「アストリア 」に遺骨 いこつ を載 の せて日本 にっぽん に送 おく り届 とど けた。グルーはこのような「米国 べいこく 政府 せいふ のジェスチャーが良 よ い結果 けっか 」が生 う まれることを望 のぞ むと日記 にっき に記 しる した(1939年 ねん 4月 がつ 3日 にち )。同 どう 4月 がつ 17日 にち 、横浜 よこはま ・山下 やました 桟橋 さんばし において受領 じゅりょう 式 しき が行 おこな われ、グルーは夫人 ふじん と共 とも に列席 れっせき した。
また翌日 よくじつ に築地 つきじ 本願寺 ほんがんじ で行 おこな われた葬儀 そうぎ にも出席 しゅっせき した[ 25] 。
「馬 うま の口 くち から一直線 いっちょくせん に」演説 えんぜつ [ 編集 へんしゅう ]
グルーは1939年 ねん 夏 なつ 、休暇 きゅうか で本国 ほんごく に帰国 きこく しているが、出発 しゅっぱつ に先立 さきだ ち、「経済 けいざい 、財政 ざいせい 、商業 しょうぎょう 、感情 かんじょう のどの点 てん から見 み ても合衆国 がっしゅうこく は、もし日本 にっぽん が米国 べいこく と同様 どうよう に付 つ き合 あ うならば世界中 せかいじゅう のどの国 くに よりも日本 にっぽん のよい友人 ゆうじん であり得 え るのだ。どの点 てん から見 み ても日米 にちべい 戦争 せんそう は、まさに愚 ぐ の骨頂 こっちょう である」と日記 にっき に記 しる した。(1939年 ねん 5月 がつ 15日 にち )。しかし、本国 ほんごく において世論 せろん が日本 にっぽん に対 たい して厳 きび しくなっていることを知 し った。
帰任 きにん 後 ご 、日米 にちべい 協会 きょうかい において、グルーは「馬 うま の口 くち から一直線 いっちょくせん に」(「最 もっと も確 たし かな筋 すじ から得 え た」の意味 いみ )と題 だい する演説 えんぜつ を行 おこな った(1939年 ねん 10月 がつ 19日 にち )。その中 なか で彼 かれ は、アメリカ国民 こくみん は「他 た 国民 こくみん の宗主 そうしゅ 権 けん を尊重 そんちょう し、米国 べいこく の宗主 そうしゅ 権 けん も同様 どうよう に尊重 そんちょう されんことを欲 ほっ しています。(中略 ちゅうりゃく )米 べい 国民 こくみん は商業 しょうぎょう 上 じょう の機会 きかい 均等 きんとう ということを信 しん じています。おそらく米国 べいこく ほどこの原則 げんそく を時々 ときどき 発動 はつどう させた国家 こっか はない」ことを強調 きょうちょう した。それは明 あき らかに、日本 にっぽん は中国 ちゅうごく の宗主 そうしゅ 権 けん を侵 おか し、機会 きかい 均等 きんとう の原則 げんそく を踏 ふ みにじっていると、批判 ひはん したものだった(1939年 ねん 10月 がつ 19日 にち )。
グルーの演説 えんぜつ に対 たい する日本 にっぽん の反響 はんきょう は大 おお きかった。『読売新聞 よみうりしんぶん 』(1939/10/20号 ごう )は「重大 じゅうだい 発言 はつげん 、我 わが 対 たい 支 ささえ 行動 こうどう 是正 ぜせい 求 もと む」という見出 みだ しを付 つ け、大使 たいし が任地 にんち で行 おこな うには異例 いれい に強硬 きょうこう であったことを暗示 あんじ した。
グルーは、1939年 ねん 11月4日 にち から12月28日 にち にかけて、野村 のむら 吉三郎 きちさぶろう 外相 がいしょう (阿部 あべ 内閣 ないかく )と3回 かい 会談 かいだん した。この一連 いちれん の会談 かいだん は、日米 にちべい 関係 かんけい の改善 かいぜん のため積極 せっきょく 的 てき な措置 そち を取 と るべきは日本 にっぽん 側 がわ であると説得 せっとく するグルーの努力 どりょく の「クライマックス」であった。しかし進展 しんてん はなく、目立 めだ った成果 せいか のないものであった[ 26] 。
1940年 ねん 6月 がつ 10日 とおか から同年 どうねん 7月 がつ 11日 にち にかけて、グルーは有田 ありた 八郎 はちろう 外相 がいしょう (米 べい 内内 うちうち 閣 かく )と5回 かい にわたり会談 かいだん した[ 27] 。前回 ぜんかい の野村 のむら との会談 かいだん にまして国務省 こくむしょう はグルーに強 つよ い指示 しじ を与 あた えていたので、グルーは有田 ありた に対 たい し明確 めいかく に、日本 にっぽん は二 ふた つの道 みち 、すなわち(1) 秩序 ちつじょ 、正義 まさよし 、自由 じゆう 貿易 ぼうえき 、国際 こくさい 協力 きょうりょく 、領土 りょうど 保全 ほぜん 、それに国家 こっか 主権 しゅけん を尊重 そんちょう していくこと、(2)武力 ぶりょく 、他国 たこく への内政 ないせい 干渉 かんしょう 、貿易 ぼうえき 制限 せいげん 、特権 とっけん 的 てき 地位 ちい 、そして自給自足 じきゅうじそく 経済 けいざい への道 みち のいずれかを選 えら ばなければならないことを悟 さと らせる使命 しめい を負 お った。
グルーは1940年 ねん 9月 がつ 12日 にち 発 はつ の通信 つうしん において、より明確 めいかく に強硬 きょうこう 的 てき な対 たい 日 にち 路線 ろせん に転 てん じた。この時期 じき 以前 いぜん の通信 つうしん が融和 ゆうわ 的 てき 政策 せいさく を求 もと め、強硬 きょうこう 的 てき な政策 せいさく の推進 すいしん は直接 ちょくせつ 両国 りょうこく の衝突 しょうとつ を招 まね く危険 きけん 性 せい があるので回避 かいひ されるべきであるー「赤信号 あかしんごう 」である―とされて来 き たのに比 ひ し、強硬 きょうこう 路線 ろせん を容認 ようにん する通信 つうしん は、以後 いご 「青信号 あおしんごう 」と呼 よ ばれることになる。その中 なか でグルーは、「力 ちから あるいは 力 ちから の示威 じい 」によってしか略奪 りゃくだつ 国 こく の行動 こうどう を阻止 そし することができないとし、報復 ほうふく 措置 そち を徐々 じょじょ に段階 だんかい 的 てき に強化 きょうか することによって、日本 にっぽん による太平洋 たいへいよう の現状 げんじょう 変革 へんかく を抑止 よくし するという政策 せいさく を勧告 かんこく した。グルーは、8年 ねん にわたる日本 にっぽん 勤務 きんむ で、この電報 でんぽう はおそらく最 もっと も重要 じゅうよう な交信 こうしん であると、自 みずか ら考 かんが えた[ 28] 。
同年 どうねん 11月 がつ 11日 にち に、宮城 みやぎ 外苑 がいえん で行 おこな われた「紀元 きげん 二 に 千 せん 六 ろく 百 ひゃく 年 ねん 奉祝 ほうしゅく 会 かい 」において奉祝 ほうしゅく 詞 し を昭和 しょうわ 天皇 てんのう に奏上 そうじょう した。
日米 にちべい 戦争 せんそう 回避 かいひ のための努力 どりょく [ 編集 へんしゅう ]
「枢軸 すうじく 国 こく はこの戦争 せんそう に勝 か たない」[ 編集 へんしゅう ]
1941年 ねん になり、グルーの姿勢 しせい はより強硬 きょうこう になった。彼 かれ は日記 にっき に「愛好 あいこう する我 わ が同国 どうこく 人 じん といえども、宥和 ゆうわ 政策 せいさく が完全 かんぜん に絶望 ぜつぼう 的 てき であることを理解 りかい するだろう。そんな時 とき は過 す ぎたのだ。(中略 ちゅうりゃく )捨 す てておけばこの癌 がん [日本 にっぽん の急進 きゅうしん 論 ろん 者 しゃ ]は及 およ ぶかぎり至 いた るところに侵入 しんにゅう し、ついにその惨害 さんがい は阻止 そし することが出来 でき なくなる。」(1941年 ねん 1月 がつ 1日 にち )
1941年 ねん 8月 がつ 18日 にち 、グルーは近衛 このえ 首相 しゅしょう の命 いのち を受 う けた豊田 とよだ 貞次郎 ていじろう 外相 がいしょう (第 だい 3次 じ 近衛 このえ 内 ない 閣 かく )と会談 かいだん した。豊田 とよだ は日米 にちべい 首脳 しゅのう 会談 かいだん 実現 じつげん の働 はたら きかけをおこなった。1941年 ねん 9月 がつ 6日 にち 、グルーは近衛 このえ 首相 しゅしょう に招 まね かれ、秘密 ひみつ 会談 かいだん を持 も った。近衛 このえ は日米 にちべい 首脳 しゅのう 会談 かいだん の開催 かいさい 実現 じつげん に向 む けて、日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい を事実 じじつ 上 じょう 無効 むこう にする、ドイツ軍 ぐん がアメリカを攻撃 こうげき した場合 ばあい も日本 にっぽん は対 たい 米 べい 参戦 さんせん しない、直 ただ ちに南北 なんぼく 仏 ふつ 印 しるし から撤退 てったい することなどを約束 やくそく した。
これを受 う けて、グルーは1941年 ねん 9月 がつ 22日 にち 、頂上 ちょうじょう 会談 かいだん の実現 じつげん を直接 ちょくせつ ルーズベルト 大統領 だいとうりょう に訴 うった えた。9月29日 にち 、ハル宛 あて 報告 ほうこく の中 なか で、「日本 にっぽん 政府 せいふ が最近 さいきん とみに増大 ぞうだい し、真剣 しんけん さを加 くわ えてきた努力 どりょく をもって、近衛 このえ 公爵 こうしゃく と大統領 だいとうりょう との会見 かいけん を遅滞 ちたい なく準備 じゅんび しようとしていることが分 わ かる。・・・大使 たいし は、如何 いか なる建設 けんせつ 的 てき 方法 ほうほう をも援助 えんじょ したいと思 おも い、・・・日本 にっぽん 政府 せいふ をして合衆国 がっしゅうこく 政府 せいふ が日米 にちべい 間 あいだ に相互 そうご 的 てき な了解 りょうかい なり取 と り決 き めなりを持 も ちきたらすために重要 じゅうよう だと思 おも う手段 しゅだん や政策 せいさく を取 と らしめることに努力 どりょく したい。」と書 か いた。しかし、日米 にちべい 首脳 しゅのう 会談 かいだん に対 たい する国務省 こくむしょう の態度 たいど は、冷淡 れいたん なものから、否定 ひてい 的 てき なものに変 か わっていった。10月2日 にち 付 づけ のハルの回答 かいとう は会談 かいだん を否定 ひてい したものであり、第 だい 3次 じ 近衛 このえ 内 ない 閣 かく に関 かん する限 かぎ り、最終 さいしゅう 的 てき なものであった[ 29] 。
ルーズベルト大統領 だいとうりょう による昭和 しょうわ 天皇 てんのう 宛 あて の親書 しんしょ [ 編集 へんしゅう ]
1941年 ねん 10月 がつ 18日 にち 、第 だい 3次 じ 近衛 このえ 内 ない 閣 かく 総 そう 辞職 じしょく に伴 ともな い陸軍 りくぐん 大臣 だいじん 東條 とうじょう 英機 ひでき に組閣 そかく の大命 たいめい が下 くだ り東條 とうじょう 内閣 ないかく が成立 せいりつ 。昭和 しょうわ 天皇 てんのう の意向 いこう に沿 そ う形 かたち で再度 さいど 日米 にちべい 交渉 こうしょう に尽力 じんりょく する政権 せいけん となった。
同年 どうねん 11月 がつ 3日 にち 、東郷 とうごう 茂徳 しげのり 外相 がいしょう は野村 のむら 駐米 ちゅうべい 大使 たいし との恊働を意図 いと して、来栖 くるす 三郎 さぶろう を特使 とくし としてワシントンD.C. に派遣 はけん することを決 き める。翌日 よくじつ 、来栖 くるす はグルーを訪問 ほうもん 。「何 なに も新 あたら しい解決 かいけつ 案 あん を持 も っていくわけではない」と話 はな され、グルーは失望 しつぼう した。
同年 どうねん 12月 がつ 7日 にち 、グルーは短波 たんぱ 放送 ほうそう で、ルーズベルト大統領 だいとうりょう が昭和 しょうわ 天皇 てんのう に親書 しんしょ を送 おく ったことを知 し った(s:ルーズベルト大統領 だいとうりょう の昭和 しょうわ 天皇 てんのう 宛 あて 親電 しんでん )。しかし、国務省 こくむしょう からは、何 なに も伝達 でんたつ はなかった。夕刻 ゆうこく 、ハル 国務 こくむ 長官 ちょうかん から、超 ちょう 緊急 きんきゅう 電 でん が来 き た。親書 しんしょ は正午 しょうご に日本 にっぽん の郵便 ゆうびん 局 きょく に届 とど いていたのにもかかわらず、午後 ごご 10時 じ 30分 ふん まで配達 はいたつ されなかった。グルーは深夜 しんや 、親書 しんしょ を東郷 とうごう 外相 がいしょう に手渡 てわた した。日 ひ が変 か わって12月8日 にち 午前 ごぜん 零 れい 時 じ 15分 ふん を回 まわ っていた。午前 ごぜん 1時 じ に外相 がいしょう 邸 てい を辞去 じきょ 。この頃 ころ ワシントンD.C.は12月7日 にち 午前 ごぜん 11時 じ 、駐 ちゅう 米 べい 日本 にっぽん 大使館 たいしかん では宣戦 せんせん 布告 ふこく の暗号 あんごう 解読 かいどく と清書 せいしょ に手間取 てまど っていた[ 30] 。
開戦 かいせん 、抑留 よくりゅう 、交換 こうかん 船 せん での帰国 きこく [ 編集 へんしゅう ]
真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき による日米 にちべい 開戦 かいせん 後 ご 、グルーおよび駐 ちゅう 日 にち アメリカ大使館 たいしかん 員 いん は大使館 たいしかん 内 ない に警察 けいさつ による抑留 よくりゅう を強 し いられたが、オランダ 公使 こうし の葬儀 そうぎ やスイス 大使 たいし との交換 こうかん 船 せん などの交渉 こうしょう など、少数 しょうすう の外交 がいこう 官 かん との外出 がいしゅつ もあった。
6月 がつ 、アフリカ のポルトガル 領 りょう マプート での日本 にっぽん の外交 がいこう 団 だん 及 およ び民間 みんかん 人 じん との交換 こうかん のために、横浜 よこはま 港 こう からアメリカの外交 がいこう 官 かん ・民間 みんかん 人 じん と出港 しゅっこう した。8月、リオデジャネイロ 経由 けいゆ でワシントンD.C.に到着 とうちゃく した。
帰国 きこく 後 ご の約 やく 2年間 ねんかん 、グルーは国務 こくむ 長官 ちょうかん 顧問 こもん の肩書 かたが きを与 あた えられ、全国 ぜんこく を演説 えんぜつ して回 まわ った。演説 えんぜつ の骨子 こっし は当初 とうしょ は日本 にっぽん 軍 ぐん 指導 しどう 者 しゃ がいかに残虐 ざんぎゃく であるかということを述 の べ、アメリカ国民 こくみん の戦闘 せんとう 意欲 いよく の増進 ぞうしん に努 つと めるものであった。
1942年 ねん 、帰国 きこく 直後 ちょくご のグルー演説 えんぜつ の一部 いちぶ を収録 しゅうろく した『東京 とうきょう 報告 ほうこく —アメリカ国民 こくみん に与 あた えるメッセージ』(Report from Tokyo/ A Message to he American People)が刊行 かんこう された。その中 なか には、「私 わたし は日本 にっぽん を知 し っている。そこに10年 ねん 住 す んでいたからだ。日本人 にっぽんじん を親 した しく知 し っている。日本人 にっぽんじん は倒 たお れない。(中略 ちゅうりゃく )彼 かれ らはベルトの穴 あな を一 ひと つきつく閉 し め直 なお して、食事 しょくじ を米 こめ 一 いち 杯 はい から半 はん 杯 はい に減 へ らし、最後 さいご の最後 さいご まで戦 たたか うだろう」と、日本 にっぽん 国民 こくみん はあたかも恐 おそれ るべき戦闘 せんとう マシーンであるかのように描 えが いた箇所 かしょ もある[ 31] 。
演説 えんぜつ 活動 かつどう に邁進 まいしん する一方 いっぽう 、駐 ちゅう 日 にち 大使 たいし 時代 じだい に綴 つづ った日記 にっき の抜粋 ばっすい からなる『滞日 たいにち 十 じゅう 年 ねん 』の刊行 かんこう の準備 じゅんび にかかっていた。同書 どうしょ —原題 げんだい Ten Years in Japan—は1944年 ねん に刊行 かんこう され、前書 ぜんしょ と同様 どうよう 、ベストセラーになった(以下 いか の『滞日 たいにち 十 じゅう 年 ねん 』参照 さんしょう )。
戦況 せんきょう が圧倒的 あっとうてき に日本 にっぽん にとって不利 ふり になった1943年 ねん 夏 なつ 頃 ごろ から、グルーの関心 かんしん は、いかにして勝利 しょうり するかではなく、どのように戦争 せんそう を終結 しゅうけつ させるかに移行 いこう していった。1943年 ねん 12月29日 にち 、イリノイ教育 きょういく 協会 きょうかい における「極東 きょくとう における戦争 せんそう と戦後 せんご 問題 もんだい 」と題 だい された演説 えんぜつ で、彼 かれ は、日本 にっぽん は神道 しんとう が基礎 きそ となっている社会 しゃかい であり、平和 へいわ 的 てき な指導 しどう 者 しゃ に恵 めぐ まれれば、神道 しんとう は「負債 ふさい 」にはならない、むしろ「財産 ざいさん 」になると述 の べる一方 いっぽう 、「もし日本 にっぽん 国民 こくみん が戦争 せんそう の亡者 もうじゃ 共 ども を罰 ばっ し、軍事 ぐんじ 政権 せいけん を転覆 てんぷく するために革命 かくめい を起 お こすのであれば、私 わたし たちも、日本人 にっぽんじん に自 みずか らの政体 せいたい を選 えら ぶ権利 けんり を与 あた えなければならない」と述 の べた。天皇 てんのう 制 せい 存置 そんち を望 のぞ む彼 かれ の対 たい 日 にち 戦後 せんご 構想 こうそう を示 しめ すものであった[ 32] 。
1943年 ねん 10月 がつ 、国務省 こくむしょう 内 ない に「部局 ぶきょく 間 あいだ 極東 きょくとう 地域 ちいき 委員 いいん 会 かい 」(Interdivisional Area Committee on the Far East)が設置 せっち され、極東 きょくとう における戦後 せんご 処理 しょり に関 かん する諸 しょ 問題 もんだい が検討 けんとう された。同 どう 委員 いいん 会 かい は「知 ち 日 び 派 は 」と呼 よ ばれた人 ひと びとが、主要 しゅよう なメンバーであった[ 33] 。先 さき に見 み た、グルーがイリノイ教育 きょういく 協会 きょうかい で行 おこな う予定 よてい の演説 えんぜつ 原稿 げんこう を彼 かれ らは前 まえ もって読 よ む機会 きかい があった。国内 こくない 世論 せろん では天皇 てんのう 懲罰 ちょうばつ 論 ろん が強 つよ く、国務省 こくむしょう 幹部 かんぶ の間 あいだ でも天皇 てんのう 制 せい を否定 ひてい する考 かんが えが支配 しはい 的 てき であった時 とき に、日本人 にっぽんじん は「自 みずか らの政体 せいたい を選 えら ぶ権利 けんり 」があるとグルーは説 と いた。それは、天皇 てんのう 制 せい の部分 ぶぶん 的 てき 利用 りよう の有用 ゆうよう 性 せい を主張 しゅちょう する同 どう 委員 いいん 会 かい のヒュー・ボートン (Hugh Borton)[ 34] 等 ひとし の意見 いけん に通 つう ずるものであった。
国務 こくむ 次官 じかん 就任 しゅうにん —「女王蜂 じょおうばち 演説 えんぜつ 」[ 編集 へんしゅう ]
1944年 ねん 5月 がつ 1日 にち 、グルーは国務省 こくむしょう 極東 きょくとう 局長 きょくちょう に就任 しゅうにん した。グルーの就任 しゅうにん は「部局 ぶきょく 間 あいだ 極東 きょくとう 地域 ちいき 委員 いいん 会 かい 」の意見 いけん が支持 しじ されるのに大 おお きな力 ちから となった。
日本 にっぽん の敗色 はいしょく が濃 こ くなる中 なか で同年 どうねん 7月 がつ 22日 にち 、東條 とうじょう 内閣 ないかく がサイパン陥落 かんらく の責任 せきにん を取 と る形 かたち で総 そう 辞職 じしょく し、小磯 こいそ 内閣 ないかく (小磯 こいそ 國昭 くにあき 首相 しゅしょう )が成立 せいりつ した。
同年 どうねん 12月 がつ 20日 はつか 、グルーはさらに上級 じょうきゅう の国務 こくむ 次官 じかん に就任 しゅうにん した。12月12日 にち のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 議会 ぎかい 上院 じょういん での指名 しめい のための聴聞 ちょうもん 会 かい で、グルーは厳 きび しい質問 しつもん にさらされたが、グルーは、天皇 てんのう の日本 にっぽん 社会 しゃかい における位置 いち は「女王蜂 じょおうばち 」のそれに例 たと えられる、「もし、群 む れから女王蜂 じょおうばち を取 と り除 のぞ けば、巣 す 全体 ぜんたい が崩壊 ほうかい するであろう」、天皇 てんのう は戦後 せんご の日本 にっぽん の「唯一 ゆいいつ の安定 あんてい 」要因 よういん であると答 こた えた[ 35] 。
1944年 ねん 12月19日 にち 、戦争 せんそう 遂行 すいこう と戦後 せんご 処理 しょり について意見 いけん を調整 ちょうせい するエドワード・ステティニアス 国務 こくむ 長官 ちょうかん 、ヘンリー・スティムソン 陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん 、ジェイムズ・フォレスタル 海軍 かいぐん 長官 ちょうかん から構成 こうせい される委員 いいん 会 かい (The Committee of the Three, 三 さん 人 にん 委員 いいん 会 かい )が設置 せっち された。長官 ちょうかん が不在 ふざい の場合 ばあい は長官 ちょうかん 代理 だいり として次官 じかん が出席 しゅっせき する決 き まりであった。ステティニアス国務 こくむ 長官 ちょうかん が他 た の業務 ぎょうむ に追 お われて頻繁 ひんぱん に不在 ふざい のため、グルーが同 どう 委員 いいん 会 かい に出席 しゅっせき することが多 おお くなった。
最後 さいご の説得 せっとく —「対 たい 日 にち 声明 せいめい に天皇 てんのう 制 せい 存置 そんち を」[ 編集 へんしゅう ]
1945年 ねん のグルー(中央 ちゅうおう )。フランス と協定 きょうてい を結 むす ぶ様子 ようす
1945年 ねん 4月 がつ 7日 にち 、日本 にっぽん では小磯 こいそ 内閣 ないかく が総 そう 辞職 じしょく し、退役 たいえき 海軍 かいぐん 大将 たいしょう 鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう に組閣 そかく の大命 たいめい が下 くだ り鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 内閣 ないかく が成立 せいりつ した。
同年 どうねん 5月 がつ 28日 にち 、大統領 だいとうりょう が日本 にっぽん に降伏 ごうぶく を呼 よ びかける声明 せいめい を発 はっ することがあるならば、降伏 ごうぶく の条件 じょうけん として、天皇 てんのう 制 せい 存置 そんち を認 みと める文言 もんごん を含 ふく むことをハリー・S・トルーマン に進言 しんげん する[ 36] 。声明 せいめい 案 あん は詳 くわ しく検討 けんとう され、「原則 げんそく において同意 どうい された」が、「明 あき らかにされないある軍事 ぐんじ 的 てき 理由 りゆう から、今 いま ただちに行 おこな うことは好 この ましくない」と判断 はんだん された[ 37] 。
6月12日 にち 、グルー国務 こくむ 次官 じかん 、スティムソン陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん 、フォレスタル海軍 かいぐん 長官 ちょうかん による三 さん 者 しゃ 協議 きょうぎ において、グルーは占領 せんりょう は必要 ひつよう としながらも、より平和 へいわ 的 てき かつ民主 みんしゅ 的 てき 政策 せいさく を採用 さいよう するため日本 にっぽん のよりよい勢力 せいりょく の支持 しじ をとりつける可能 かのう 性 せい を強調 きょうちょう し、さらに説得 せっとく を試 こころ みた。6月16日 にち 、朝夕 ちょうせき 二 に 回 かい 大統領 だいとうりょう と会 あ い、日本人 にっぽんじん は自身 じしん の将来 しょうらい の政治 せいじ 的 てき 構造 こうぞう を自 みずか ら決 き めることが許 ゆる されると、対 たい 日 にち 声明 せいめい 早期 そうき 実施 じっし を促 うなが す最後 さいご の説得 せっとく を試 こころ みた。これに対 たい しトルーマン大統領 だいとうりょう は6月 がつ 18日 にち 、声明 せいめい は米 べい 英 えい ソ三 さん 巨頭 きょとう 会談 かいだん まで待 ま つと言明 げんめい 。グルーは落胆 らくたん した。
7月 がつ 11日 にち 、グルーはラジオ演説 えんぜつ で、無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく が日本 にっぽん 国民 こくみん の根絶 こんぜつ でも奴隷 どれい 化 か でもないということを痛切 つうせつ に呼 よ びかけた。あとは、スティムソンに期待 きたい するしかなくなった。
1945年 ねん 7月 がつ 1日 にち 、ステティニアスが辞任 じにん し、7月 がつ 3日 にち 、新 しん 国務 こくむ 長官 ちょうかん にジェームズ・F・バーンズ が就任 しゅうにん した。トルーマン大統領 だいとうりょう 一 いち 行 ぎょう がドイツ ・ポツダム に向 む かった7月 がつ 6日 にち 、まだ省内 しょうない にいたバーンズに、天皇 てんのう 制 せい 存置 そんち 条項 じょうこう をポツダム宣言 せんげん に入 い れることを働 はたら きかけたメモを手渡 てわた した。
バーンズは、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん の力 ちから を使 つか えば、ソ連 それん に加勢 かせい してもらわなくても、本土 ほんど 上陸 じょうりく 作戦 さくせん (ダウンフォール作戦 さくせん )の前 まえ に日本 にっぽん を降伏 ごうぶく させることが可能 かのう だと考 かんが えた。もしそうなれば、戦後 せんご の世界 せかい でソ連 それん の力 ちから を抑 おさ えることもできるし、ベストの結果 けっか となろう。しかしこのタイミングで日本 にっぽん の降伏 ごうぶく 条件 じょうけん を緩和 かんわ した場合 ばあい 、日本 にっぽん が降伏 ごうぶく してしまい、原爆 げんばく 投下 とうか の機会 きかい を逸 いっ することをバーンズは恐 おそ れた。そこで「降伏 ごうぶく 条件 じょうけん の緩和 かんわ で日本 にっぽん の降伏 ごうぶく を促進 そくしん する」という路線 ろせん については「原爆 げんばく 投下 とうか までは棚上 たなあ げすべし」とトルーマンに説 と き、大統領 だいとうりょう を味方 みかた につけることに成功 せいこう した。こうして降伏 ごうぶく 条件 じょうけん を緩和 かんわ することで、日本 にっぽん の降伏 ごうぶく を促進 そくしん すべしと説 と くグルーやスティムソンの陣営 じんえい と、原爆 げんばく を投下 とうか し、その威力 いりょく を示 しめ すまでは、降伏 ごうぶく 条件 じょうけん を緩和 かんわ すべきでないとするバーンズとトルーマンの陣営 じんえい とにトルーマン政権 せいけん は分裂 ぶんれつ することになった。
スティムソンは代表 だいひょう 団 だん 員 いん から外 はず されていたにもかかわらず、別便 べつびん のマルセイユ 行 い き陸軍 りくぐん 輸送 ゆそう 船 せん に乗 の り、ポツダム に向 む かった。ポツダムでトルーマンに再会 さいかい したスティムソンは、天皇 てんのう 制 せい の存置 そんち を保証 ほしょう する一文 いちぶん を復活 ふっかつ させるように説得 せっとく を試 こころ みた。しかしトルーマンは頑 がん として応 おう じず、スティムソンに対 たい し「気 き に入 い らなければ荷物 にもつ をまとめて帰 かえ ったらいい」とまでい放 いはな ったという[ 38] 。
広島 ひろしま (1945年 ねん 8月 がつ 6日 にち ) と長崎 ながさき (同年 どうねん 8月 がつ 9日 にち ) に原子 げんし 爆 ばく 弾 だん が投下 とうか された。その後 ご 、日本 にっぽん の鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 内閣 ないかく は8月 がつ 14日 にち にポツダム宣言 せんげん の受諾 じゅだく を決定 けってい した。ポツダム宣言 せんげん 第 だい 12項 こう は原案 げんあん とは違 ちが ったものに変 か えられており、「現 げん 皇室 こうしつ の下 した における立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい を含 ふく みうる」という文言 もんごん は削除 さくじょ されていた。ただし、コーデル・ハル元 もと 国務 こくむ 長官 ちょうかん がバーンズに、天皇 てんのう 制 せい 存続 そんぞく が「アメリカで恐 おそれ るべき政治 せいじ 的 てき 反響 はんきょう 」を起 お こすことを警告 けいこく したからである。アメリカのような世論 せろん ・選挙 せんきょ に大 おお きく依存 いぞん する国 くに の政治 せいじ 家 か が世論 せろん に(さらには国務省 こくむしょう にまで)反対 はんたい して天皇 てんのう 制 せい 存続 そんぞく を容認 ようにん するわけにはいかなかった。こうして7月 がつ 23日 にち にトルーマンが中国 ちゅうごく の蒋介石 しょうかいせき にポツダム宣言 せんげん の最終 さいしゅう 草案 そうあん を送付 そうふ した時点 じてん で、天皇 てんのう 制 せい 条項 じょうこう は削除 さくじょ されたのであった[ 39] 。
昭和 しょうわ 天皇 てんのう 自身 じしん による詔書 しょうしょ 朗読 ろうどく のラジオ放送 ほうそう (玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう )がなされ、戦争 せんそう が終結 しゅうけつ した(日本 にっぽん の降伏 ごうぶく )。同日 どうじつ 、グルーは国務省 こくむしょう に辞表 じひょう を提出 ていしゅつ した。戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 前 まえ 、既 すで に戦後 せんご を見越 みこ して、グルーに対 たい し、政治 せいじ 顧問 こもん として対 たい 日 にち 占領 せんりょう に対 たい する協力 きょうりょく 要請 ようせい がなされたが、彼 かれ は「いかなる状況 じょうきょう 下 か にあっても、支配 しはい 者 しゃ として日本 にっぽん に帰 かえ るつもりはない」と述 の べ、断 ことわ った[ 40] 。
議会 ぎかい 公聴 こうちょう 会 かい ・極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん [ 編集 へんしゅう ]
1945年 ねん 11月26〜29日 にち 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 議会 ぎかい において「真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき に関 かん する合同 ごうどう 調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい 公聴 こうちょう 会 かい 」が催 もよお された。グルーは召喚 しょうかん され、日記 にっき の提出 ていしゅつ を求 もと められたが、「私 わたし の日記 にっき は個人 こじん 的 てき 文書 ぶんしょ であります。自分 じぶん の考 かんが えを整理 せいり するためのある種 しゅ のスケッチブックとして用 もち いました。多 おお くの文章 ぶんしょう が不正確 ふせいかく であり、誤 あやま りを導 みちび きかねないものなのです」と述 の べ、提出 ていしゅつ を拒 こば んだ[ 41] 。
1946年 ねん 4月 がつ より始 はじ まった日本 にっぽん の戦争 せんそう 犯罪 はんざい を裁 さば く極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん にも、グルーは関与 かんよ を持 も った。彼 かれ は、「平沼 ひらぬま 騏一郎 きいちろう 、広田 ひろた 弘毅 こうき 、重光 しげみつ 葵 まもる の3人 にん は全 まった く戦争 せんそう には反対 はんたい であり、これを避 さ けようと努力 どりょく した」ことを陳述 ちんじゅつ することを欲 ほっ したが、同 どう 裁判所 さいばんしょ は同年 どうねん 11月 がつ 18日 にち 、グルーの召喚 しょうかん を要求 ようきゅう しないことを決 き めた[ 42] 。
『動乱 どうらん 期 き 』の刊行 かんこう ・ 反共 はんきょう の闘士 とうし [ 編集 へんしゅう ]
グルーは1948年 ねん 6月 がつ 28日 にち , 米国 べいこく 対 たい 日 にち 評議 ひょうぎ 会 かい 名誉 めいよ 会長 かいちょう に就任 しゅうにん 。財閥 ざいばつ 解体 かいたい を押 お しとどめ、公職 こうしょく 追放 ついほう 者 もの の復権 ふっけん を呼 よ びかけた。
グルーは1949年 ねん 3月 がつ 17日 にち 、反共 はんきょう 主義 しゅぎ 団体 だんたい の全米 ぜんべい 自由 じゆう ヨーロッパ委員 いいん 会 かい が設立 せつりつ された時 とき 、その理事 りじ 長 ちょう に就任 しゅうにん した。そして、1953年 ねん 10月 がつ 、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政権 せいけん の中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の国際 こくさい 連合 れんごう 加盟 かめい に反対 はんたい する請願 せいがん 運動 うんどう の発起人 ほっきにん となり、「百 ひゃく 万 まん 人 にん 委員 いいん 会 かい 」を支援 しえん 。1962年 ねん 3月 がつ 、委員 いいん 長 ちょう に就任 しゅうにん 。
1952年 ねん 11月、11,ホートン・ミフリン社 しゃ より、公文書 こうぶんしょ からの抜粋 ばっすい を中心 ちゅうしん にした回顧 かいこ 録 ろく 『動乱 どうらん 期 き 』(The Turbulent Era)』(全 ぜん 二 に 巻 かん 、1500頁 ぺーじ )が出版 しゅっぱん された。同書 どうしょ で、グルーは、もし自分 じぶん の意見 いけん が政権 せいけん にき入 きい れられていたなら、歴史 れきし は大 おお きく変 か わっていただろうという主張 しゅちょう を繰 く り返 かえ した[ 43] 。
『滞日 たいにち 十 じゅう 年 ねん 』の印税 いんぜい を原資 げんし に、樺山 かばやま 愛 あい 輔 らが中心 ちゅうしん となって行 おこな われた募金 ぼきん を元 もと に、日本 にっぽん の高校 こうこう 卒業生 そつぎょうせい をアメリカの大学 だいがく に送 おく ることを目的 もくてき として「グルー基金 ききん 」が設立 せつりつ され、1953年 ねん 夏 なつ 、第 だい 一 いち 期生 きせい 4人 にん がアメリカに向 む けて出発 しゅっぱつ した。
機会 きかい あるごとに、日本 にっぽん との結 むす びつきを大切 たいせつ にした。1953年 ねん 9月 がつ 、皇太子 こうたいし 明仁 あきひと 親王 しんのう (当時 とうじ )がボストン を訪 おとず れた際 さい 、日米 にちべい 協会 きょうかい 主催 しゅさい の記念 きねん 昼食 ちゅうしょく 会 かい に列席 れっせき した。
1965年 ねん 5月 がつ 25日 にち 、マサチューセッツ州 しゅう マンチェスター・バイ・ザ・シー の自宅 じたく で没 ぼっ した。84歳 さい 没 ぼつ 。6月18日 にち 、東京 とうきょう ユニオン教会 きょうかい にて追悼 ついとう 式 しき が執 と り行 おこな われた。
和室 わしつ で楽器 がっき を演奏 えんそう する妻 つま のアリスとその姉 あね たち。三 さん 姉妹 しまい の母 はは である画家 がか のリラ・キャボット・ペリーによる絵 え 。1898-1900年 ねん ごろ
妻 つま アリスの肖像 しょうぞう 画 が 。リラ・キャボット・ペリーによる絵 え 。1904年 ねん
妻 つま のアリス(1883-1959)は、画家 がか のリラ・キャボット・ペリー と学者 がくしゃ のトーマス・サージェント・ペリー の娘 むすめ で[ 44] 、父方 ちちかた の曽 そ 祖父 そふ は日本 にっぽん に開国 かいこく を迫 せま ったマシュー・ペリー の兄 あに で軍人 ぐんじん のオリバー・ハザード・ペリー 。1898年 ねん に父親 ちちおや が慶応義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく の英 えい 文学 ぶんがく 教師 きょうし になったため、家族 かぞく で3年間 ねんかん 滞日 たいにち した。父方 ちちかた 伯母 おば のマーガレットはジョン・ラファージ の妻 つま 。
二女 じじょ のリラ (1907–1994)は外交 がいこう 官 かん のジェイ・ピアポント・モファット と結婚 けっこん 、四 よん 女 じょ のエリザベス(1912–1998)も外交 がいこう 官 かん のセシル・バートン・ライオン (英語 えいご 版 ばん ) と東京 とうきょう で知 し り合 あ い1933年 ねん に結婚 けっこん [ 45] 、翌年 よくねん 聖 ひじり 路 ろ 加 か 病院 びょういん で女児 じょじ を出産 しゅっさん した[ 46] 。この時 とき 、日米 にちべい 野球 やきゅう で来日 らいにち 中 ちゅう だった選手 せんしゅ でスパイ のモー・バーグ は、出産 しゅっさん 見舞 みま いと称 しょう して同 どう 病院 びょういん を訪 たず ね、屋上 おくじょう から東京 とうきょう 各所 かくしょ を隠 かく し持 も った映写機 えいしゃき で撮影 さつえい して米 べい 政府 せいふ に提出 ていしゅつ 、この映像 えいぞう は東京 とうきょう 大 だい 空襲 くうしゅう の作戦 さくせん 資料 しりょう として使 つか われた[ 46] 。
グルーの外交 がいこう 観 かん は基本 きほん 的 てき には現実 げんじつ 主義 しゅぎ に根付 ねつ いたものであった。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 以降 いこう のアメリカ外交 がいこう は、従来 じゅうらい の国威 こくい ・国益 こくえき を目指 めざ したアプローチに代 か わって、国際 こくさい 協調 きょうちょう 主義 しゅぎ ・軍縮 ぐんしゅく ・民族 みんぞく 自決 じけつ ・集団 しゅうだん 安全 あんぜん 保障 ほしょう ・開放 かいほう 的 てき な国際 こくさい 経済 けいざい 体制 たいせい を追求 ついきゅう するウッドロウ・ウィルソン 第 だい 28代 だい 大統領 だいとうりょう の構想 こうそう いわゆる「ニューディプロマシー」が基調 きちょう となった。パリ不戦 ふせん 条約 じょうやく (1928年 ねん 8月 がつ 27日 にち 、パリで採択 さいたく ・署名 しょめい された。条約 じょうやく を提唱 ていしょう したフランス外相 がいしょう およびアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 国務 こくむ 長官 ちょうかん にちなんでケロッグ=ブリアン条約 じょうやく とも呼 よ ばれる)は、その好個 こうこ の例 れい である。組織 そしき 化 か された闘争 とうそう (戦争 せんそう )ではなく、組織 そしき 化 か された共通 きょうつう の平和 へいわ の達成 たっせい が理想 りそう とされた。
しかしこのような理想 りそう 主義 しゅぎ をジョージ・ケナン は「法理 ほうり 論 ろん 的 てき ・道徳 どうとく 家 か 的 てき (legalistic-moralistic)」と呼 よ び、国内 こくない において個人 こじん 間 あいだ の関係 かんけい に適用 てきよう される法律 ほうりつ 観念 かんねん を政府 せいふ 間 あいだ にも適用 てきよう させようとする努力 どりょく であることは認 みと めても、「ある体系 たいけい 的 てき な法律 ほうりつ 的 てき 規則 きそく および制約 せいやく を受諾 じゅだく することによって、国際 こくさい 社会 しゃかい における各国 かっこく 政府 せいふ の無秩序 むちつじょ でかつ危険 きけん な野心 やしん を抑制 よくせい することが可能 かのう であるという信念 しんねん 」に影響 えいきょう される、いいかえれば極 きわ めて観念 かんねん 的 てき であることを指摘 してき した[ 47] 。
グルーは、アメリカの政策 せいさく の主要 しゅよう 目標 もくひょう として、厳正 げんせい 中立 ちゅうりつ を維持 いじ (中国 ちゅうごく における機会 きかい を平等 びょうどう にし、門戸 もんこ を開放 かいほう )し、日本 にっぽん の国際 こくさい 法 ほう 違反 いはん を阻止 そし すると見 み なすことにおいて、新 あたら しい外交 がいこう のアプローチを支持 しじ しているように思 おも われた。
彼 かれ は軍事 ぐんじ 的 てき 手段 しゅだん を取 と ることには否定 ひてい 的 てき であった。その反面 はんめん 、彼 かれ は「平和 へいわ 主義 しゅぎ (pacifism)」に関 かん しても懐疑 かいぎ 的 てき であった。
日本 にっぽん に対 たい して経済 けいざい 的 てき 報復 ほうふく 手段 しゅだん (制裁 せいさい )を取 と ることに反対 はんたい しながら、それは最終 さいしゅう 的 てき に戦争 せんそう へと導 みちび くことを彼 かれ は懸念 けねん していた。アメリカのアジアにおける国益 こくえき の擁護 ようご を強 つよ く主張 しゅちょう するグルーの態度 たいど は一見 いっけん 、矛盾 むじゅん しているかの様 よう に思 おも われた。彼 かれ はしばしば、1930年代 ねんだい 後半 こうはん のドイツの再 さい 軍備 ぐんび ・ラインラント進駐 しんちゅう ・オーストリアおよびチェコスロバキア併合 へいごう を承認 しょうにん し、それらを阻止 そし するための強硬 きょうこう な措置 そち を取 と らなかったイギリスなどと同様 どうよう 、「宥和 ゆうわ 主義 しゅぎ 」(appeasement)を支持 しじ していると批判 ひはん された。しかしグルーは、国際 こくさい 的 てき 原則 げんそく (条約 じょうやく )の遵守 じゅんしゅ をいかなる国家 こっか の義務 ぎむ と定 さだ め、アメリカの国益 こくえき の正当 せいとう 性 せい をライバル国 こく に認識 にんしき させることにあることを求 もと めることにおいて、自分 じぶん のアプローチは決 けっ して宥和 ゆうわ 的 てき ではない、むしろ「積極 せっきょく 的 てき 宥和 ゆうわ (constructive conciliation)」として弁護 べんご した。「両 りょう 国民 こくみん 、特 とく に日米 にちべい の指導 しどう 的 てき 地位 ちい にある者 もの たちが互 たが いの「信条 しんじょう 」と言 い えるものを理解 りかい し、話 はな し合 あ いをもって表面 ひょうめん 的 てき な衝突 しょうとつ の回避 かいひ の道 みち を探 さぐ ること―そうすることが、アメリカの国策 こくさく の根本 こんぽん 原則 げんそく である―が肝要 かんよう である」ことを、彼 かれ は深 ふか く信 しん じていた(1941年 ねん 9月 がつ 30日 にち 付 づけ 国務 こくむ 長官 ちょうかん 宛 あて 報告 ほうこく )。
誠意 せいい にもとづく折衝 せっしょう によって相手 あいて 国 こく と派遣 はけん 国 こく との交流 こうりゅう を深 ふか め、両国 りょうこく との間 あいだ に対立 たいりつ が生 しょう じるならば和解 わかい に導 みちび くことを外交 がいこう の目的 もくてき と見 み なしていたグルーは、彼 かれ 自 みずか ら日本 にっぽん の政治 せいじ ・社会 しゃかい ・文化 ぶんか について、理解 りかい するよう努 つと めた。彼 かれ は日本 にっぽん についての情報 じょうほう 源 げん を大使館 たいしかん のスタッフの報告 ほうこく および邦字 ほうじ 新聞 しんぶん の要約 ようやく から得 え ることが多 おお かったが、彼 かれ は自 みずか らの交友 こうゆう 関係 かんけい に依拠 いきょ する場合 ばあい も多 おお かった。グルーが特 とく に親 した しかったのは、「上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう ・国家 こっか の指導 しどう 者 しゃ 層 そう 」の人 ひと びとで、外務省 がいむしょう 関係 かんけい を除 のぞ けば、天皇 てんのう の側近 そっきん 、重臣 じゅうしん 、大 だい 企業 きぎょう 経営 けいえい 者 しゃ 、少数 しょうすう の海軍 かいぐん 将官 しょうかん 、文化 ぶんか 人 じん たちであり[ 48] 、彼 かれ が休暇 きゅうか に好 この んで滞在 たいざい した軽井沢 かるいざわ では家族 かぞく ぐるみで交際 こうさい した日本人 にっぽんじん も多 おお かった[ 49] 。グルーが日本 にっぽん について強 つよ く印象 いんしょう 付 つ けられたことは、第 だい 一 いち に、遍 あまね く行 い き渡 わた る天皇 てんのう に対 たい する敬愛 けいあい の念 ねん の強 つよ さであった。彼 かれ は1935年 ねん 5月 がつ 22日 にち の日記 にっき に、「日本人 にっぽんじん が抱 いだ く君主 くんしゅ への信仰 しんこう の力 ちから は、外国 がいこく 人 じん が一般 いっぱん 的 てき に感知 かんち し得 え る以上 いじょう に、はるかに強 つよ いものだ」と記 しる している。第 だい 二 に に、日本 にっぽん 国民 こくみん が名誉 めいよ を重 おも んじる民族 みんぞく であるということであった。彼 かれ らがまた美 び と繊細 せんさい さを重視 じゅうし する文化 ぶんか を創造 そうぞう してきたことにも注目 ちゅうもく した。しかし、同 おな じ国民 こくみん に、狂信 きょうしん 的 てき 愛国 あいこく 主義 しゅぎ と残忍 ざんにん さに走 はし る傾向 けいこう があることにも気付 きづ いていた。そのバランスが崩 くず れることを、グルーは危惧 きぐ した。
「私 わたし は日本 にっぽん と日本人 にっぽんじん を相当 そうとう によく知 し っている。日本人 にっぽんじん は長 なが い歴史 れきし を通 つう じて災難 さいなん と不安 ふあん に馴 な らされて来 き た強壮 きょうそう な人々 ひとびと で、どの国民 こくみん よりも『やるか死 し ぬか』の精神 せいしん を深 ふか くたたき込 こ まれている。」「必要 ひつよう とあらば、米 べい だけで戦争 せんそう することが出来 でき る」とグルーは日記 にっき に書 か いた(1938年 ねん 12月5日 にち )。6ヶ月 かげつ 後 ご 、「どの点 てん から見 み ても日米 にちべい 戦争 せんそう は、まさに愚 ぐ の骨頂 こっちょう である」とも記 しる した(1939年 ねん 5月 がつ 15日 にち 付 づけ 日記 にっき )。それから2年 ねん も経 た たないうちに、日米 にちべい 両国 りょうこく は戦争 せんそう 状態 じょうたい に入 はい る。そのような日本 にっぽん は、「過去 かこ に私 わたし が知 し っている日本 にっぽん 」では、なくなった(1940年 ねん 10月 がつ 1日 にち 付 づけ 日記 にっき )。
グルーの依拠 いきょ した日本 にっぽん の情報 じょうほう 源 げん は、「穏健 おんけん 派 は 」と称 しょう せられる人 ひと びとであった。特 とく に西園寺 さいおんじ 公望 きんもち 、牧野 まきの 伸 しん 顕 あきら 、樺山 かばやま 愛 あい 輔 、松平 まつだいら 恒雄 つねお 、吉田 よしだ 茂 しげる 等 ひとし に深 ふか い信頼 しんらい を寄 よ せていた。その中 なか でも樺山 かばやま 愛 あい 輔は、高度 こうど の政治 せいじ 判断 はんだん が求 もと められる情報 じょうほう を、グルーのもとに届 とど けた。グルーの著書 ちょしょ 『滞日 たいにち 十 じゅう 年 ねん 』(後述 こうじゅつ )の中 なか で、樺山 かばやま は頻繁 ひんぱん に登場 とうじょう する。しかし「著名 ちょめい なる日本 にっぽん の自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ 」「貴重 きちょう な情報 じょうほう 提供 ていきょう 者 しゃ 」などと記 しる され、彼 かれ の実名 じつめい は伏 ふ せられた。
「穏健 おんけん 派 は 」の枠 わく を出 で て、交際 こうさい を広 ひろ げるのは―たとえば農民 のうみん ・労働 ろうどう 者 しゃ ・一般 いっぱん 都市 とし 住民 じゅうみん など―言葉 ことば の制約 せいやく などの理由 りゆう で、困難 こんなん であった。しかし、先 さき に述 の べた2点 てん については、グルーは自分 じぶん が正 ただ しいと確信 かくしん していた。彼 かれ は「穏健 おんけん 派 は 」が軍部 ぐんぶ および過 か 激論 げきろん 者 しゃ の主唱 しゅしょう により、日本 にっぽん の拡張 かくちょう を抑制 よくせい することを望 のぞ んだ。とはいえ、グルーが「穏健 おんけん 派 は 」を実際 じっさい 以上 いじょう に美化 びか し、彼 かれ らの政治 せいじ 的 てき 実力 じつりょく を過大 かだい に評価 ひょうか しがちであったことは否定 ひてい できない[ 50] 。
グルーは1942年 ねん 8月 がつ に帰国 きこく し、翌年 よくねん 末 まつ までに、250回 かい におよぶ演説 えんぜつ を全国 ぜんこく を通 つう じて行 い った。グルーは並行 へいこう して、日記 にっき の刊行 かんこう 準備 じゅんび を始 はじ めた。グルーは10年間 ねんかん の大使 たいし 期間 きかん 中 ちゅう に、公式 こうしき 書簡 しょかん や会談 かいだん の記録 きろく 、演説 えんぜつ や新聞 しんぶん の切 き り抜 ぬ き等 とう とは別 べつ に、「大判 おおばん タイプライター用紙 ようし にタイプされた13巻 かん 」に及 およ ぶ日記 にっき をしたためていた。本書 ほんしょ (原題 げんだい :Ten Years in Japan)は、それを元 もと に、「重複 じゅうふく するものや、現在 げんざい 発表 はっぴょう し得 え ないもの」および恒久 こうきゅう 的 てき ・歴史 れきし 的 てき 価値 かち を持 も たないと判断 はんだん された事項 じこう を除 のぞ いたものである。また「名前 なまえ が知 し られると一身上 いっしんじょう の累 るい が及 およ ぶような」危惧 きぐ がある場合 ばあい は、格別 かくべつ の配慮 はいりょ を払 はら ったとグルーは「序言 じょげん 」に記 しる している。彼 かれ はまた、本書 ほんしょ が「滑 なめ らかに流 なが れる年代 ねんだい 順 じゅん の読 よ み物 もの 」になることを意図 いと して、公的 こうてき 記録 きろく や、時 とき として煩雑 はんざつ になりかねない詳細 しょうさい な注釈 ちゅうしゃく 等 とう は省 はぶ いた。
本書 ほんしょ は、1944年 ねん 5月 がつ 15日 にち 、サイモン・シュスター社 しゃ から刊行 かんこう された。高 たか い評判 ひょうばん をかちえ、『ニューヨーク・タイムズ』紙 し によれば、6月 がつ 、7月 がつ と続 つづ けてベストセラーリストの第 だい 2位 い になった。40近 ちか い書評 しょひょう が書 か かれたが、その多 おお くは好意 こうい 的 てき であった。しかし本書 ほんしょ も、先 さき に刊行 かんこう された『東京 とうきょう 報告 ほうこく 』の場合 ばあい と同様 どうよう に、国務省 こくむしょう あるいは戦時 せんじ 情報 じょうほう 局 きょく の思惑 おもわく が入 はい り、戦争 せんそう 目的 もくてき および戦後 せんご 対 たい 日 にち 政策 せいさく を世論 せろん に訴 うった える」面 めん があったことは否定 ひてい できない[ 51] 。
本書 ほんしょ には、グルーが知 し るに至 いた った日本 にっぽん の美術 びじゅつ や慣行 かんこう についての言及 げんきゅう が数多 かずおお くある。また公式 こうしき 記録 きろく には載 の らない、アメリカ大使館 あめりかたいしかん 周辺 しゅうへん で起 お こったこと、ならびにグルーが非公式 ひこうしき に行 い った訪問 ほうもん の結果 けっか 得 え られたことがらが、詳 くわ しくしたためられている。たとえば、1934年 ねん 秋 あき 、ベーブ・ルース を含 ふく むアメリカ大 だい リーグ野球 やきゅう チームが訪日 ほうにち した。グルーは一 いち 行 ぎょう を迎 むか えた。「私 わたし はゴルフ場 じょう で会 あ っただれにでも彼 かれ を紹介 しょうかい した。そのたびごとに、ベーブは「お会 あ い出来 でき て嬉 うれ しく思 おも います」(”Pleased to know you”)と言 い ったという。全日本 ぜんにほん が彼 かれ に首 くび ったけになったことは、いうまでもない。ベーブは私 わたし が逆立 さかだ ちしても及 およ ばぬほど効果 こうか 的 てき な大使 たいし である。」(強調 きょうちょう —引用 いんよう 者 しゃ )(1934年 ねん 11月6日 にち )。
1937年 ねん 春 はる 、ヘレン・ケラー が来訪 らいほう した時 とき 、グルーは「公的 こうてき の身分 みぶん は何 なに も持 も たず、ただ自 みずか らの努力 どりょく よって完全 かんぜん な盲 めくら 聾唖 ろうあ というハンディキャップを克服 こくふく し、一生 いっしょう を盲人 もうじん のための建設 けんせつ 的 てき 事業 じぎょう に捧 ささ げた婦人 ふじん があり、その人 ひと は彼女 かのじょ の福音 ふくいん と助力 じょりょく を日本 にっぽん にひろげるためにやってきた。このことは、私 わたし が滞在 たいざい 5年間 ねんかん に見 み たいかなることよりも、深 ふか く日本人 にっぽんじん の心 しん に訴 うった えるのである。・・・演壇 えんだん 上 じょう には首相 しゅしょう 、外相 がいしょう 、内相 ないしょう 、府知事 ふちじ 等 とう 、この国 くに の最 さい 上層 じょうそう の人 ひと びとが何人 なんにん か見受 みう けられた。高官 こうかん はそれぞれミス・ケラーの業績 ぎょうせき をたたえた短 みじか い演説 えんぜつ をした。彼女 かのじょ は謝辞 しゃじ を述 の べ、美 うつく しい日本 にっぽん の香炉 こうろ を贈 おく られた」と記 しる した(1937年 ねん 4月 がつ 17日 にち )。
同様 どうよう に、大使 たいし 家族 かぞく の愛犬 あいけん が散歩 さんぽ の途中 とちゅう 、積雪 せきせつ の上 うえ での燥いで足 あし を滑 すべ らしたらしく皇居 こうきょ の濠 ほり に落 お ち、警官 けいかん が助 たす けの手 て を貸 か さないでいると、大使 たいし 付 つ き運転 うんてん 手 しゅ (本澤 ほんさわ 元 もと 政 せい )が車 くるま に積 つ んであった牽引 けんいん 用 よう ロープを使 つか い、通 とお りすがりのタクシー運転 うんてん 手 しゅ (有川 ありかわ 光一 こういち )と、その後 ご 、名 な を告 つ げずにその場 ば を去 さ った配達 はいたつ 途中 とちゅう の男 おとこ の子 こ が本澤 ほんさわ に協力 きょうりょく して、この犬 いぬ を助 たす け上 あ げたことがあった(1934年 ねん 1月 がつ 19日 にち )。昭和 しょうわ 天皇 てんのう もそのことを知 し っていたとグルーは日記 にっき に書 か いた(1934年 ねん 2月 がつ 23日 にち )。この大使館 たいしかん の犬 いぬ を救 すく った出来事 できごと は樺山 かばやま 愛 あい 輔の意向 いこう で新聞 しんぶん 記事 きじ になったが、その内容 ないよう には取材 しゅざい 記者 きしゃ による「佳話 かわ 」としての脚色 きゃくしょく がある。
Report from Tokyo , 1942. 原書 げんしょ は新版 しんぱん 刊 かん
Ten Years in Japan , 1944. 原書 げんしょ は新版 しんぱん 刊 かん
Turbulent Era: A Diplomatic Record of Forty Years, 1904–1945 (I・II). Books for Libraries Press, 1952.
ウォルド・H・ハインリックス 著 ちょ 、麻田 あさだ 貞雄 さだお 訳 わけ 『日米 にちべい 外交 がいこう とグルー』原 はら 書房 しょぼう 、1969年 ねん 。
増補 ぞうほ 版 ばん 『グルー大使 たいし と日米 にちべい 外交 がいこう 』グルー基金 ききん 、2000年 ねん 。
廣 こう 部 ぶ 泉 いずみ 『グルー―真 しん の日本 にっぽん の友 とも 』ミネル みねる ヴァ書房 ぁしょぼう 〈日本 にっぽん 評伝 ひょうでん 選 せん 〉、2011年 ねん 。
ジョージ・F・ケナン 『アメリカ外交 がいこう 50年 ねん 』近藤 こんどう 晋一 しんいち ・飯田 いいだ 藤 ふじ 次 じ ・有賀 ありが 貞 さだ 訳 わけ 、岩波 いわなみ 現代 げんだい 文庫 ぶんこ 、2000年 ねん 。
吉田 よしだ 茂 しげる 『回想 かいそう 十 じゅう 年 ねん 第 だい 1巻 かん 』 新潮社 しんちょうしゃ 、1957年 ねん /東京 とうきょう 白川 しらかわ 書院 しょいん 、1982年 ねん /中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ 、1998年 ねん 、改版 かいはん 2014年 ねん
入江 いりえ 昭 あきら 『日米 にちべい 戦争 せんそう 』中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 〈叢書 そうしょ 国際 こくさい 環境 かんきょう 〉、1978年 ねん 。
中村 なかむら 政則 まさのり 『象徴 しょうちょう 天皇 てんのう 制 せい への道 みち ―米国 べいこく 大使 たいし グルーとその周辺 しゅうへん 』岩波 いわなみ 新書 しんしょ 、1989年 ねん 。
太田 おおた 尚樹 なおき 『駐 ちゅう 日 にち 米国 べいこく 大使 たいし ジョセフ・グルーの昭和 しょうわ 史 し 』PHP研究所 けんきゅうじょ 、2013年 ねん 。
ヒュー・ボートン 『戦後 せんご 日本 にっぽん の設計 せっけい 者 しゃ —ボートン回想 かいそう 録 ろく 』五 ご 百 ひゃく 旗頭 はたがしら 真 しん 監修 かんしゅう 、五味 ごみ 俊樹 としき 訳 わけ 、朝日新聞社 あさひしんぶんしゃ 、1998年 ねん 。
藤田 ふじた 宏 ひろし 郎 ろう 「ヘンリー・L・スチムソンとポツダム宣言 せんげん 」『甲南 こうなん 法学 ほうがく 』51(3)、甲南大学 こうなんだいがく 、2011年 ねん 、1-37頁 ぺーじ 。
山下 やました 祐 ゆう 志 こころざし 「アジア・太平洋戦争 たいへいようせんそう と戦後 せんご 教育 きょういく 改革 かいかく (11)—ポツダム宣言 せんげん の発出 はっしゅつ —」『宇部 うべ 高等 こうとう 教育 きょういく 専門 せんもん 学校 がっこう 研究 けんきゅう 報告 ほうこく 』第 だい 41号 ごう 、1995年 ねん 、9-108頁 ぺーじ 。
船山 ふなやま 喜久 よしひさ 弥 わたる 『白頭鷲 はくとうわし と桜 さくら の木 き 日本 にっぽん を愛 あい したジョセフ・グルー大使 たいし 』 亜紀 あき 書房 しょぼう 、1996年 ねん 2月 がつ
福井 ふくい 雄三 ゆうぞう 『日米 にちべい 開戦 かいせん の悲劇 ひげき ジョセフ・グルーと軍国 ぐんこく 日本 にっぽん 』 PHP研究所 けんきゅうじょ 、2012年 ねん 3月 がつ
平川 ひらかわ 祐 ゆう 弘 ひろし 『平和 へいわ の海 うみ と戦 たたか いの海 うみ 二 に ・二 に 六 ろく 事件 じけん から「人間 にんげん 宣言 せんげん 」まで』。グルー評伝 ひょうでん は第 だい 1部 ぶ (表題 ひょうだい )
『平川 ひらかわ 祐 ゆう 弘 ひろ 決定 けってい 版 ばん 著作 ちょさく 集 しゅう 第 だい 6巻 かん 平和 へいわ の海 うみ と戦 たたか いの海 うみ 』 勉 つとむ 誠 まこと 出版 しゅっぱん 、2016年 ねん 12月
旧版 きゅうばん は、新潮社 しんちょうしゃ 、1983年 ねん /講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ 、1993年 ねん (解説 かいせつ 五 ご 百 ひゃく 旗頭 はたがしら 真 しん )
ハワード・B・ショーンバーガー『占領 せんりょう 1945~1952 戦後 せんご 日本 にっぽん をつくりあげた8人 にん のアメリカ人 じん 』宮崎 みやざき 章 あきら 訳 やく 、時事通信社 じじつうしんしゃ 、1994年 ねん
「第 だい 1章 しょう ジョセフ・C.グルー 天皇 てんのう と占領 せんりょう 計画 けいかく アメリカ外交 がいこう におけるジャパン・ロビー」
^ 吉田 よしだ 茂 しげる 『回想 かいそう 十 じゅう 年 ねん 』第 だい 1巻 かん 、57頁 ぺーじ 。太田 おおた 尚樹 なおき は「日本人 にっぽんじん の美点 びてん と欠点 けってん をこれほど見事 みごと に見抜 みぬ いていた米国 べいこく 大使 たいし はいなかったのではないか。(中略 ちゅうりゃく )日本人 にっぽんじん のアイデンティティに温 あたた かい視線 しせん でみつめてくれたグルーには感謝 かんしゃ あるのみ」と記 しる している(「あとがき」)。
^ 麻田 あさだ 貞雄 さだお は、「グルーは日本 にっぽん の政治 せいじ 状況 じょうきょう を「穏健 おんけん 派 は 」対 たい 「軍部 ぐんぶ 過激 かげき 派 は 」という二元 にげん 的 てき な枠組 わくぐ みのなかでとらえ、日本 にっぽん の政策 せいさく を “時計 とけい の振 ふ り子 こ ”のように両派 りょうは の間 あいだ を定期 ていき 的 てき に揺 ゆ れ動 うご くものとしたため、しばしば判断 はんだん をあやまることになった」と記 しる している。(「解題 かいだい 」、12頁 ぺーじ )。
^ ハインリックスは、「誠意 せいい にもとづく折衝 せっしょう によって対立 たいりつ を和解 わかい に導 みちび くこと―これがグルーの外交 がいこう 観 かん であった。ただひとつ例外 れいがい は、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 諸国 しょこく と外国 がいこく を結 むす ぶことに彼 かれ はなんら価値 かち を認 みと めなかった。共産 きょうさん 主義 しゅぎ は外交 がいこう を不可能 ふかのう にしたというのがロシア革命 かくめい のときから引退 いんたい の日 ひ まで、グルーが堅持 けんじ した見解 けんかい であった」と書 か いている(351-2頁 ぺーじ )。
^ バックベイはチャールズ川 かわ の小 しょう 湾 わん であったところを、19世紀 せいき 初頭 しょとう から干拓 かんたく ・造成 ぞうせい され、ヴィクトリア朝 あさ 様式 ようしき のブラウンストーン(褐色 かっしょく 砂岩 さがん )を使 つか った個人 こじん 住宅 じゅうたく や由緒 ゆいしょ ある公共 こうきょう 建築 けんちく の並 なら ぶ高級 こうきゅう 住宅 じゅうたく 地区 ちく となった。
^ 1884年 ねん 開校 かいこう 、グルー入校 にゅうこう 当時 とうじ は男子校 だんしこう であったが、現在 げんざい は男女 だんじょ 共学 きょうがく 。
^ 大学 だいがく 非 ひ 公認 こうにん の社交 しゃこう クラブ。
^ 廣 こう 部 ぶ 、2頁 ぺーじ 。
^ グルー等 とう の尽力 じんりょく にもかかわらず、アメリカ議会 ぎかい 上院 じょういん は同 どう 条約 じょうやく の批准 ひじゅん を認 みと めなかった。
^ 廣 こう 部 ぶ 、31頁 ぺーじ 。
^ ジョン・ジェイコブ・ロジャーズ合衆国 がっしゅうこく 連邦 れんぽう 下院 かいん 議員 ぎいん (マサチューセッツ州 しゅう 選出 せんしゅつ )の提案 ていあん により、1924年 ねん 7月 がつ 成立 せいりつ 。外交 がいこう 職 しょく (派遣 はけん 国 こく の意思 いし を表明 ひょうめい し、接受 せつじゅ 国 こく と交渉 こうしょう にあたる、接受 せつじゅ 国 こく についての情報 じょうほう を収集 しゅうしゅう し報告 ほうこく する機能 きのう を持 も つ)と領事 りょうじ 職 しょく (自 じ 国民 こくみん ・自国 じこく 企業 きぎょう 等 とう への行政 ぎょうせい 事務 じむ ・手続 てつづ き、相手 あいて 国 こく 国民 こくみん へのサービス[ビザの発給 はっきゅう ・文化 ぶんか 交流 こうりゅう など]に関 かか わる)の統合 とうごう 、新規 しんき 採用 さいよう における競争 きょうそう 的 てき 試験 しけん の実施 じっし 、能力 のうりょく による昇進 しょうしん 、65歳 さい 定年 ていねん の実施 じっし などを定 さだ めた。 http://www.afsa.org/beginning-rogers-act-1924 (アクセス2017/2/11)
^ 廣 こう 部 ぶ 、52頁 ぺーじ 。
^ 同上 どうじょう 。
^ 1928年 ねん 8月 がつ 27日 にち パリで採択 さいたく ・署名 しょめい された。条約 じょうやく を提唱 ていしょう したフランス外相 がいしょう およびアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 国務 こくむ 長官 ちょうかん にちなんでケロッグ=ブリアン条約 じょうやく とも呼 よ ばれる。いかなる国際 こくさい 紛争 ふんそう も平和 へいわ 的 てき 手段 しゅだん のみで解決 かいけつ をはかることが規定 きてい された。戦争 せんそう の違法 いほう 化 か を推進 すいしん した点 てん で重要 じゅうよう な意味 いみ を持 も つ。
^ 日本 にっぽん 国内 こくない からはこの報告 ほうこく 書 しょ に対 たい し大 おお いなる不満 ふまん が噴出 ふんしゅつ した。そのことについてグルーは次 つぎ のように記 しる した―「リットン報告 ほうこく 書 しょ に対 たい する反応 はんのう は、かねて期待 きたい されていた通 とお りで、観察 かんさつ に対 たい する一般 いっぱん 的 てき 非難 ひなん と独善 どくぜん 的 てき 義憤 ぎふん の爆裂 ばくれつ とですが、観察 かんさつ を否定 ひてい しようとする真剣 しんけん な試 こころ みはなされず、単 たん に真正面 ましょうめん からそれが正確 せいかく でないというだけです。かかる公衆 こうしゅう 的 てき 空騒 からさわ ぎは、正気 しょうき な、そして穏健 おんけん な考 かんが え方 かた をする人 ひと たちには見受 みう けられません」(1932年 ねん 10月 がつ 8日 にち 付 づけ スティムソン宛 あて 書簡 しょかん )。グルーの「日記 にっき 」・公的 こうてき 書簡 しょかん ・覚書 おぼえがき 等 とう からの引用 いんよう は『滞日 たいにち 十 じゅう 年 ねん 』によった。同書 どうしょ に含 ふく まれていないものは、参考 さんこう 文献 ぶんけん からの孫引 まごび きによる。
^ 廣 こう 部 ぶ 、74頁 ぺーじ 。
^ 外務省 がいむしょう 情報 じょうほう 部長 ぶちょう 天羽 あもう 英二 えいじ の「日本 にっぽん は東亜 とうあ 地域 ちいき の秩序 ちつじょ 維持 いじ に責任 せきにん を持 も つ国家 こっか であり、列強 れっきょう による中国 ちゅうごく 援助 えんじょ は、日 にち 中 ちゅう の特殊 とくしゅ 関係 かんけい を考慮 こうりょ すれば『主義 しゅぎ としてこれに反対 はんたい せざるを得 え ない』とする談話 だんわ 。満州 まんしゅう 事変 じへん 以来 いらい 日本 にっぽん の大陸 たいりく 政策 せいさく を警戒 けいかい していた欧米 おうべい 諸国 しょこく からは、日本 にっぽん が「東亜 とうあ モンロー主義 しゅぎ 」を宣言 せんげん したと解釈 かいしゃく され、強 つよ い反発 はんぱつ と警戒 けいかい を生 う むこととなった。
^ 廣 こう 部 ぶ 、85頁 ぺーじ 。
^ 日本 にっぽん はこれ以後 いご いわゆる「無 む 条約 じょうやく 時代 じだい 」に入 はい る。日本 にっぽん は、1934年 ねん 、ワシントン海軍 かいぐん 軍縮 ぐんしゅく 条約 じょうやく (1921〜22年 ねん 開催 かいさい 、建 けん 艦 かん 制限 せいげん [保有 ほゆう 比率 ひりつ ])を破棄 はき 、1936年 ねん のロンドン海軍 かいぐん 軍縮 ぐんしゅく 条約 じょうやく (1930年 ねん 補助 ほじょ 艦 かん 保有 ほゆう 量 りょう の制限 せいげん を定 さだ めた)の失効 しっこう に伴 ともな い、日本 にっぽん は「巨大 きょだい 」戦艦 せんかん の建造 けんぞう に向 む かった。
^ 共産 きょうさん 主義 しゅぎ の脅威 きょうい からの共同 きょうどう 防衛 ぼうえい を約 やく したもの。1937年 ねん 、イタリア王国 おうこく が参加 さんか し三 さん 国防 こくぼう 共 ども 協定 きょうてい となった。
^ 1937年 ねん 7月 がつ 7日 にち 夜 よる 、中国 ちゅうごく ・北京 ぺきん 郊外 こうがい の盧溝橋 ろこうきょう 付近 ふきん で、演習 えんしゅう 中 ちゅう の日本 にっぽん 軍 ぐん 一 いち 中隊 ちゅうたい に対 たい して射撃 しゃげき がなされたことを契機 けいき に、日本 にっぽん 軍 ぐん と中国 ちゅうごく 国民 こくみん 革命 かくめい 軍 ぐん との衝突 しょうとつ に発展 はってん した事件 じけん 。日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう の発端 ほったん となった。
^ ハインリックス、131、134頁 ぺーじ 。
^ グルーは日記 にっき に次 つぎ のように記 しる した。「我 わ が国 くに は分岐 ぶんき 点 てん に差 さ し掛 か かっている。平和 へいわ 愛好 あいこう 国 こく には逆説 ぎゃくせつ 的 てき 見 み えるかもしれないが、平和 へいわ でなく戦争 せんそう の可能 かのう 性 せい のある道 みち を選 えら んでいるように思 おも える。我々 われわれ の基本 きほん 的 てき かつ根本 こんぽん 的 てき 考 かんが えは、極東 きょくとう の混乱 こんらん に巻 ま き込 こ まれるのを避 さ けることである。[それなのに]我々 われわれ は直接 ちょくせつ 巻 ま き込 こ まれるかもしれない道 みち を選 えら んでしまった。(廣 こう 部 ぶ 、105頁 ぺーじ に引用 いんよう 。)
^ 日本 にっぽん 政府 せいふ の正式 せいしき 回答 かいとう 文書 ぶんしょ は、アメリカ政府 せいふ の要求 ようきゅう を全面 ぜんめん 的 てき に受 う け入 い れ、完全 かんぜん で十分 じゅうぶん なる賠償 ばいしょう の支払 しはら いを実行 じっこう すること、今後 こんご 日本 にっぽん 軍 ぐん が中国 ちゅうごく におけるアメリカ国民 こくみん の生命 せいめい 財産 ざいさん を攻撃 こうげき しないこと、日本 にっぽん の軍 ぐん または官憲 かんけん が不法 ふほう な干渉 かんしょう を加 くわ えないと保障 ほしょう すること、パナイ号 ごう 撃沈 げきちん 関係 かんけい 者 しゃ にたいし必要 ひつよう なる処分 しょぶん を実施 じっし したことが述 の べられていた。アメリカ当局 とうきょく のいう故意 こい 爆撃 ばくげき に対 たい しては、あくまでも誤認 ごにん 爆 ばく 撃 げき であると主張 しゅちょう した。翌 よく 1938年 ねん 4月 がつ 22日 にち に、日本 にっぽん 政府 せいふ は221万 まん 4007ドル36セントを支払 しはら った。
^ 廣 こう 部 ぶ 、112頁 ぺーじ 。
^ 日米 にちべい 儀仗 ぎじょう 兵 へい も参加 さんか 、盛大 せいだい に外務省 がいむしょう 葬 そう (昭和 しょうわ 14年 ねん 4月 がつ 19日 にち 東京日日新聞 とうきょうにちにちしんぶん (夕刊 ゆうかん ))『昭和 しょうわ ニュース辞典 じてん 第 だい 7巻 かん 昭和 しょうわ 14年 ねん -昭和 しょうわ 16年 ねん 』p224 昭和 しょうわ ニュース事典 じてん 編纂 へんさん 委員 いいん 会 かい 毎日 まいにち コミュニケーションズ刊 かん 1994年 ねん
^ ハインリックス、213-18頁 ぺーじ 。
^ 同上 どうじょう 、236頁 ぺーじ 。
^ 同上 どうじょう 、248頁 ぺーじ 。
^ 同上 どうじょう 、305頁 ぺーじ 。
^ 廣 こう 部 ぶ 、191頁 ぺーじ 。
^ 同上 どうじょう 、224頁 ぺーじ 。グルーの演説 えんぜつ 活動 かつどう が、国務省 こくむしょう 戦時 せんじ 情報 じょうほう 局 きょく の対 たい 日 にち 心理 しんり ・宣伝 せんでん 戦 せん の政策 せいさく の枠 わく 内 ない にあったことは十分 じゅうぶん にうかがわれる。中村 なかむら 政則 まさのり は、『東京 とうきょう 報告 ほうこく 』に収 おさ められている演説 えんぜつ は全 すべ てグルーが書 か いたものではなく、約 やく 6割 わり は代筆 だいひつ されたものであると、指摘 してき している(21-24頁 ぺーじ )。
^ 同上 どうじょう 、229頁 ぺーじ 。
^ 議長 ぎちょう はジョージ・H・ブレイクスリー (George H. Blakeslee)、メンバーとしてヒュー・ボートン(Hugh Borton)、ユージーン・H・ドゥーマン (Eugene H. Dooman)、アール・R・ディックオーバー (Erle R. Dickover)等 とう が連 つら なっていた。 いずれも外交 がいこう 官 かん として豊富 ほうふ な滞日 たいにち 経験 けいけん を有 ゆう するか、日本 にっぽん の歴史 れきし ・文化 ぶんか について精通 せいつう する研究 けんきゅう 者 しゃ であった。
^ ボートンは1926−28年 ねん 日本 にっぽん においてアメリカ・フレンズ奉仕 ほうし 団 だん の作業 さぎょう に従事 じゅうじ 、1935-36年 ねん 「徳川 とくがわ 時代 ときよ の農民 のうみん 一揆 いっき 」の研究 けんきゅう のため東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく に在籍 ざいせき 、オランダ・ライデン大学 だいがく で博士 はかせ 号 ごう 取得 しゅとく 。国務省 こくむしょう に招 まね かれる前 まえ はコロンビア大学 ころんびあだいがく 日本 にっぽん 史 し 助教授 じょきょうじゅ であった。戦後 せんご 、コロンビア大学 ころんびあだいがく 東 ひがし アジア研究所 けんきゅうじょ 長 ちょう を経 へ て、ハバフォード大学 だいがく 学長 がくちょう を務 つと めた(1957-1967年 ねん )。
^ 廣 こう 部 ぶ 、244-5頁 ぺーじ 。
^ その第 だい 12項 こう において、「われわれの諸 しょ 目的 もくてき が達成 たっせい せられ、かつ日本 にっぽん 国民 こくみん を代表 だいひょう する平和 へいわ 的 てき 傾向 けいこう を有 ゆう し、責任 せきにん ある政府 せいふ が確実 かくじつ に樹立 じゅりつ されたときは、連合 れんごう 国 こく の占領 せんりょう 軍 ぐん は、ただちに日本 にっぽん 国 こく より撤収 てっしゅう されるものとする。このような政府 せいふ は・・・現 げん 皇室 こうしつ の下 した における立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい を含 ふく みうるものとする」というものだった。(中村 なかむら 、138頁 ぺーじ )
^ 公式 こうしき 議事 ぎじ 録 ろく によれば、1945年 ねん 5月 がつ 1日 にち の委員 いいん 会 かい において「日本 にっぽん における天皇 てんのう の立場 たちば から生 しょう じる問題 もんだい や、軍事 ぐんじ 作戦 さくせん に対 たい する新兵 しんぺい 器 き の想定 そうてい される効果 こうか 」が検討 けんとう されたとある。この記述 きじゅつ が真実 しんじつ ならば、グルーはこの日 ひ 初 はじ めて原子 げんし 爆 ばく 弾 だん について知 し ったことになる。5月8日 にち 、原爆 げんばく に関 かん する暫定 ざんてい 委員 いいん 会 かい が組織 そしき されたが、グルーはその一員 いちいん にはならなかった。(廣 こう 部 ぶ 、252頁 ぺーじ )
^ 木村 きむら 朗 あきら ; ピーター・カズニック (2010). 広島 ひろしま ・長崎 ながさき への原爆 げんばく 投下 とうか 再考 さいこう ―日米 にちべい の視点 してん . 法律文化社 ほうりつぶんかしゃ . p. 96. ISBN 978-4589033116
^ 『戦争 せんそう はいかに終結 しゅうけつ したか 二 に 度 ど の大戦 たいせん からベトナム、イラクまで』千々 ちじ 和 かず 泰明 やすあき 著 ちょ (2021年 ねん 、中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ )
^ 廣 こう 部 ぶ 、283頁 ぺーじ 。
^ 同上 どうじょう 、303頁 ぺーじ 。
^ 同上 どうじょう 、306〜7頁 ぺーじ 。
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^ ケナン、144頁 ぺーじ 。
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^ 文庫 ぶんこ 改訂 かいてい 版 ばん 、解説 かいせつ 保阪 ほさか 正 ただし 康 やすし 、なお下記 かき の訳 わけ 題 だい は「動乱 どうらん 期 き 」
弁理 べんり 公使 こうし 特命 とくめい 全権 ぜんけん 公使 こうし 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし
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