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あおいりゅう (空母くうぼ)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
あおいりゅう
宿毛湾に仮泊する蒼龍。
宿毛湾すくもわん仮泊かはくするあおいりゅう
基本きほん情報じょうほう
建造けんぞうしょ 海軍かいぐん工廠こうしょう[1]
運用うんようしゃ  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
かんしゅ 航空こうくう母艦ぼかん[2]
まえきゅう りゅう
つぎきゅう りゅう
建造けんぞう 予算よさん 40,200,000えん[3]
母港ぼこう 横須賀よこすか[4]
かんれき
計画けいかく 昭和しょうわ9年度ねんど[5]1934ねん)、計画けいかく[6]
起工きこう 1934ねん11月20にち[1]
進水しんすい 1935ねん12月23にち[7][1]
竣工しゅんこう 1937ねん12月29にち[8]
最期さいご 1942ねん6月5にち沈没ちんぼつ[4]
沈没ちんぼつ地点ちてん 北緯ほくい3043ふん 西経せいけい17838ふん / 北緯ほくい30.71 西経せいけい178.63 / 30.71; -178.63 (沈没ちんぼつ地点ちてん)
または 北緯ほくい3025ふん30びょう 西経せいけい17822ふん30びょう / 北緯ほくい30.425 西経せいけい178.375 / 30.425; -178.375 (戦闘せんとう詳報しょうほう沈没ちんぼつ地点ちてん)
除籍じょせき 1942ねん8がつ10日とおか[4]
要目ようもく
基準きじゅん排水はいすいりょう 15,900えいトン[9]
おおやけためし排水はいすいりょう 18,448トン[9]
竣工しゅんこう 18,800トン[10]
満載まんさい排水はいすいりょう 19,500トン
竣工しゅんこう 20,295トン[10]
全長ぜんちょう 227.500m[9]
水線すいせんちょう 222.00m[11] または222.420m[9]
垂線すいせんあいだちょう 206.52m[12]
水線すいせんはば 21.30m[11] または21.318m[9]
ふか 15.70m[11]
20.400m(飛行ひこう甲板かんぱんまで)[9]
飛行ひこう甲板かんぱん 216.9m x 26.0m[9]
エレベーター3[9]
吃水きっすい 7.475m[9]
竣工しゅんこうおおやけためし 7.62m[10]
竣工しゅんこう満載まんさい 8.03m[10]
ボイラーごうかん本式ほんしきボイラー(空気くうき過熱かねつ)8[13]
おも かん本式ほんしきタービン(高中たかなか低圧ていあつ[11])4[13]
推進すいしん 4じく x 340rpm直径ちょっけい3.800m[13]
出力しゅつりょく 計画けいかく 152,000hp[9]
おおやけためし全力ぜんりょく 152,483hp[14]
速力そくりょく 計画けいかく 34.5ノット[9]
おおやけためし全力ぜんりょく 34.898ノット[14]
燃料ねんりょう 3,400トン[9]
航続こうぞく距離きょり 7,680カイリ / 18ノット[9][15]
乗員じょういん 計画けいかく乗員じょういん 1,100めい[9]
竣工しゅんこう定員ていいん 1,101めい[16]
最終さいしゅう 1,103めい[17]
搭載とうさい能力のうりょく ガソリン360トン[11]
へいそう 40口径こうけい12.7cm連装れんそう高角こうかくほう612もん[9]
きゅうろくしきじゅうみりめーとる高角こうかく機銃きじゅう連装れんそう1428てい[9]
11mmけい機銃きじゅう6てい[18]
装甲そうこう 舷側げんそく:140〜35mmNVNCこう甲板かんぱん:40mmNVNCこう[19]
搭載とうさいてい 11せき[8]
搭載とうさい 計画けいかく(常用じょうよう+よう)[9]
きゅうろくしき艦上かんじょう戦闘せんとう 12+4
きゅうろくしき艦上かんじょう爆撃ばくげき 27+9
きゅうななしき艦上かんじょう攻撃こうげき 9+3
きゅうななしき艦上かんじょう攻撃こうげき(偵察ていさつよう) 9+0
けい 常用じょうよう57よう16
または[11]
戦闘せんとう 9+3
ばくげき 18+6
攻撃こうげき 18+6
偵察ていさつ 8+3
けい 常用じょうよう54よう18
1941ねん12月7にち保有ほゆう
れいしき艦上かんじょう戦闘せんとう:21
きゅうきゅうしき艦上かんじょう爆撃ばくげき:18
きゅうななしき艦上かんじょう攻撃こうげき:18[20]
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あおいりゅう(そうりゅう / さうりう)は、大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん航空こうくう母艦ぼかん[注釈ちゅうしゃく 1]こうせん所属しょぞくかん

特徴とくちょう

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あおいりゅう建造けんぞういたるまで、航空こうくう巡洋艦じゅんようかん検討けんとうされるなどの紆余曲折うよきょくせつて、最終さいしゅうてきには先行せんこうかん運用うんよう経験けいけんもとづいて設計せっけい日本にっぽんはつ本格ほんかくてき空母くうぼとして誕生たんじょうした[22]。また、台風たいふう艦艇かんてい被害ひがいだいよん艦隊かんたい事件じけん影響えいきょうで、船体せんたい輪切わぎりにしたり、また工事こうじちゅう搭載とうさい予定よてい航空機こうくうき機種きしゅすういく変更へんこうされたため、艤装ぎそうには困難こんなんともなった[23]

あおいりゅう名前なまえは、帝国ていこく海軍かいぐん艦船かんせんとしては御召おめしかんあおいりゅうつづいて2せき[24]戦闘せんとう詳報しょうほうには、「あおいりゅう」の漢字かんじ表記ひょうき使用しようされている。なお戦後せんご、この名称めいしょう海上かいじょう自衛隊じえいたいそうりゅうがた潜水せんすいかんの1ばんかんそうりゅう」にも使用しようされている。

構造こうぞう

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艦橋かんきょう右舷うげん前部ぜんぶにあり、右舷うげん中部ちゅうぶ下方かほう排出はいしゅつしき煙突えんとつを2つつ。格納庫かくのうこは2そうしきで、エレベーターは3後部こうぶエレベーターわきにはあげ収用しゅうようクレーンをそなえ、加賀かがりゅう驤にられた格納庫かくのうこはしとびら廃止はいしされている。15まん馬力ばりき機関きかん搭載とうさいしたあおいりゅう最大さいだい速力そくりょくは34.9ktを記録きろくし、日本にっぽん海軍かいぐんではもっと高速こうそく航空こうくう母艦ぼかんであった。また、排水はいすいりょう制限せいげんのために搭載とうさいすう大型おおがた空母くうぼ赤城あかぎ加賀かが)よりすくない。すこしでも格納庫かくのうこスペースを確保かくほするために、ボイラーへのきゅう機関きかんしつ排気はいきなどは船体せんたい中央ちゅうおう付近ふきん舷側げんそくそとけされたはこがた通風つうふうとうおこなわれており、あおいりゅうりゅう外見がいけんじょう特徴とくちょうとなっていた。

従来じゅうらい艦上かんじょうからのかん識別しきべつようとして飛行ひこう甲板かんぱん後端こうたんに「サ」の文字もじかれていたというせつがある。一方いっぽう記入きにゅうだったとするせつもある。ミッドウェー作戦さくせんそらつまみ写真しゃしんにそれらしいものがまったくうつっておらず、ほぼどう条件じょうけん撮影さつえいされたりゅうはかろうじて「ヒ」の文字もじ判読はんどくできる。

竣工しゅんこうから喪失そうしつまでのあいだおおきな改装かいそうはなかったがいくしょう改装かいそうほどこされている。右舷うげん設置せっちされたマストは、竣工しゅんこうには艦橋かんきょう直後ちょくご信号しんごうマスト1ほんと、無線むせんマスト25mm機銃きじゅうあいだ無線むせんマスト1ほんけい2ほんであったが、1939ねん時点じてんでは5ばん高角こうかくほう後部こうぶ無線むせんマスト1ほん増設ぞうせつされている[25]竣工しゅんこうにあった2ほん滑走かっそう静止せいしさくのうち、後方こうほうのものは撤去てっきょされ、のこった1ほん前後ぜんごあらたに装備そうびされ、けい3ほんになった[26]右舷うげん設置せっちされた艦橋かんきょう駆逐くちくかん艦橋かんきょうとほぼどう規模きぼおおきさである。1941ねん防空ぼうくう指揮しきしょ拡大かくだいしたという資料しりょうのこるというが、確認かくにんできる写真しゃしんのこされていない[27]。1942ねんにははり艦橋かんきょう前面ぜんめん水面すいめん見張みはりしょ増設ぞうせつ防空ぼうくう指揮しきしょさら拡大かくだいした改正かいせいのこされているが、こちらも実際じっさい工事こうじおこなったかを確認かくにんする写真しゃしんのこされていない[27]

設備せつび

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あおいりゅうには25ミリ機銃きじゅうは14あったが、うち3かんくび搭載とうさいかんくび兵器へいき搭載とうさいほんかんはつである。 のち日本にっぽん空母くうぼ標準ひょうじゅん装備そうびとなるかんちゃくかん標識ひょうしき滑走かっそう静止せいし装置そうち建造けんぞう当初とうしょから設置せっちされたのはあおいりゅうはじめてであった。

中型ちゅうがた空母くうぼとしての性能せいのうもうぶんないものだったが、日本にっぽん空母くうぼ同様どうようダメージコントロールめんではべいえい空母くうぼくらおとり、3箇所かしょのエレベーターの前後ぜんご防火ぼうかよろいとびらもうけられ、炭酸たんさんガスで火災かさい消火しょうかする方式ほうしきである[28]。さらに航空機こうくうき格納庫かくのうこ密閉みっぺいしき爆風ばくふうのがせず、ミッドウェー海戦かいせんにおける喪失そうしつ原因げんいんとなった[29]。こうした欠点けってんは、可能かのうかぎおおくの航空機こうくうき搭載とうさいし、搭載とうさい戦闘せんとうによっててき排除はいじょしようという発想はっそうからきているものであった[30]

歴史れきし

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開戦かいせんまえ

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あおいりゅう原案げんあんであるG8の風洞ふうどう模型もけい(1934ねん2がつ2にち撮影さつえい)。なに種類しゅるいかのあんのうちの1つ。
海軍かいぐん工廠こうしょうにて建造けんぞうちゅうあおいりゅう。(1937ねん初頭しょとう)。または係船けいせんほりにて完成かんせいちかあおいりゅう(1937ねんあき)で、そとふなばた塗装とそうのために足場あしばまれている[31]
あおいりゅう(1937ねん11月11にち

1921ねんワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく、1930ねんロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくによって、日本にっぽん海軍かいぐん航空こうくう母艦ぼかんは8まん1000トンに制限せいげんされるようになり、空母くうぼ4せきおおとりしょう赤城あかぎ加賀かがりゅう)の排水はいすいりょうきしたざんわくは12,630トンであった。このうち、1922ねん大正たいしょう11ねん竣工しゅんこうおおとりしょう条約じょうやくさだめられたはいかん出来できかんよわい16ねんもなくたっする予定よていであったため、日本にっぽん海軍かいぐんおおとりしょうだいかんぶん8370トンもくわえたざんわく21000トンをもちいた航空こうくう母艦ぼかん2せき建造けんぞう計画けいかくした[32]昭和しょうわ7年度ねんど(1932年度ねんど)に設計せっけいされた基本きほん計画けいかく番号ばんごうG6あんでは、基準きじゅん排水はいすいりょう12,000トン、20.3cm連装れんそうほう36もん、12.7cm連装れんそう高角こうかくほう612もん艦上かんじょう70搭載とうさいする航空こうくう巡洋艦じゅんようかんとして計画けいかくされていた。このG6あん発展はってんした昭和しょうわ9年度ねんど(1934年度ねんど)のG8あんでは、基準きじゅん排水はいすいりょう10050トン、20.3cm連装れんそうほう1さん連装れんそうほう15もん、12.7cm連装れんそう高角こうかくほう1020もん艦上かんじょう100要求ようきゅうされたが、10,050トンのかんたいおさめるのは不可能ふかのうであり、最終さいしゅうてきには15.5cm連装れんそうほう1さん連装れんそうほう15もん、12.7cm連装れんそう高角こうかくほう816もん艦上かんじょう70計画けいかくとなった[32][33]昭和しょうわ9年度ねんど海軍かいぐん軍備ぐんび補充ほじゅう計画けいかく通称つうしょう計画けいかく)によってこのG8あん具体ぐたいするかたち建造けんぞう開始かいしされる予定よていであったが、建造けんぞう開始かいし直前ちょくぜん1934ねん千鳥ちどりがた水雷すいらいてい転覆てんぷくするともづる事件じけん発生はっせいした影響えいきょうで、この設計せっけいではかんたいして過大かだい装備そうびとなることが懸念けねんされ、最終さいしゅうてきには15.5cmほう搭載とうさいしないかたちあらため設計せっけいされて建造けんぞう開始かいしされた。これがこうあおいりゅうである。基本きほん計画けいかく番号ばんごうはG9となった[34]。また、あおいりゅう建造けんぞう開始かいしの1935ねんだいよん艦隊かんたい事件じけん発生はっせいしたため、さらあらため設計せっけいされている。このときほんかん溶接ようせつ構造こうぞう異常いじょうがないかを確認かくにんするため、進水しんすい船体せんたい箇所かしょ輪切わぎりにして調査ちょうさおこなった[35]

当初とうしょあおいりゅうがた航空こうくう母艦ぼかん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくわくないで2せき建造けんぞうする予定よていであったが、あおいりゅう建造けんぞう開始かいし直後ちょくご1934ねん昭和しょうわ9ねん)12月に日本にっぽんワシントン軍縮ぐんしゅく条約じょうやくからの脱退だったい通告つうこくしており、1936ねん昭和しょうわ11ねん)12月に条約じょうやく効力こうりょくれることが確定かくていした。このため、排水はいすいりょうおさえる必要ひつようがなくなり、2ばんかんあおいりゅうからさら拡大かくだい設計せっけいされて建造けんぞうされることになっている。これがこうりゅうである。なお、あおいりゅう軍縮ぐんしゅく条約じょうやく関係かんけい各国かっこくたいして、排水はいすいりょう10,000トン、水線すいせんちょう209.84m、最大さいだいはば20.84mと通知つうちされた[36]戦前せんぜん公表こうひょうされていた排水はいすいりょう1まんトンという数値すうちから、アメリカ海軍かいぐん内部ないぶでは、あおいりゅうがた航空こうくう母艦ぼかん実際じっさいは1まん6せんトンクラスであるのに、小型こがた空母くうぼというイメージが根強ねづよのこっていた[37]ミッドウェー海戦かいせんあおいりゅう攻撃こうげきしたSBDドーントレス急降下きゅうこうか爆撃ばくげき乗員じょういん戦後せんご取材しゅざいされたところ、かれ上空じょうくうからかんおおきさから爆撃ばくげきしたのは大型おおがた空母くうぼ加賀かがだとおもんでおり、取材しゅざいしゃあおいりゅうだったと指摘してきされると気色けしきばんで「そんなちいさな空母くうぼ爆撃ばくげきしたとうのか」とったという[38][37]。エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウン攻撃こうげきたい戦闘せんとう詳報しょうほうでいずれも「赤城あかぎまたは加賀かが攻撃こうげきした」と記録きろくしており、「あおいりゅう攻撃こうげきした」と報告ほうこくした飛行ひこうたいはなかった[37]

1934ねん昭和しょうわ9ねん)11がつ20日はつか軍艦ぐんかんあおいりゅう」は海軍かいぐん工廠こうしょう起工きこうされた[39]書類しょるいじょうでは1935ねん昭和しょうわ10ねん)1がつ23にち進水しんすいしたことになっているが[39]実際じっさいには12月23にち進水しんすいした[7][40]。12月23にち大野おおの一郎いちろう大佐たいさあおいりゅう艤装ぎそういんちょう任命にんめいされる[41]1936ねん昭和しょうわ13ねん)4がつ1にちあおいりゅう艤装ぎそういんちょう奥本おくもと武夫たけお大佐たいさ任命にんめいされる[42]。12月1にちあおいりゅう艤装ぎそういんちょう別府べっぷあかりとも大佐たいさ任命にんめいされる[43]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)8がつ16にち別府べっぷあかりとも大佐たいさあおいりゅう初代しょだい艦長かんちょう任命にんめいされる[44]。 11月11にちおおやけためしでは排水はいすいりょう18871トン、機関きかん出力しゅつりょく15まん2483馬力ばりきで34.898ノットを発揮はっきした[45]

おおやけためし成績せいせき
種別しゅべつ 日付ひづけ 排水はいすいりょう(トン) 速力そくりょく(ノット) 馬力ばりき(SHP) 出典しゅってん
負荷ふか全力ぜんりょく 18,621 35.217 160,326 [14]
おおやけためし全力ぜんりょく 18,871 34.898 152,483 [14]
館山たてやまおき能力のうりょく試験しけんちゅうあおいりゅう。(1938ねん1がつ22にち)。舷側げんそくはこがた通気つうきとう確認かくにんできる

12月1にちあおいりゅう艦長かんちょう寺岡てらおか謹平大佐たいさ任命にんめいされた[46]。12月29にち引渡ひきわた[47][39]1938ねん昭和しょうわ13ねん)11月15にちあおいりゅう艦長かんちょう上野うえの敬三けいぞう大佐たいさ任命にんめいされた[48]

1938ねん12月15にちあおいりゅうだい航空こうくう戦隊せんたい司令しれいかん鮫島さめしまおも少将しょうしょう)に編入へんにゅうされる[49]1939ねん昭和しょうわ14ねん)10がつ20日はつかだい航空こうくう戦隊せんたい司令しれいかん戸塚とつか道太郎みちたろう少将しょうしょう交代こうたい[50]同年どうねん11がつ15にちじゅん同型どうけいかんりゅう編入へんにゅうにともない、こうせん空母くうぼ2せきあおいりゅうりゅう)およびだい11駆逐くちくたい初雪はつゆきはくゆき吹雪ふぶき)という戦力せんりょくになる[51]

1940ねん昭和しょうわ15ねん)10がつ11にち横浜よこはまこうおきおこなわれた紀元きげんせんろくひゃくねん特別とくべつ観艦式かんかんしきに、こうせん僚艦りょうかんとともに参加さんか[52]。11月1にち山口やまぐち多聞たもん少将しょうしょうだい航空こうくう戦隊せんたい司令しれいかんとなる[53][54]

1941ねん昭和しょうわ16ねん)3がつふつしるしとタイとの国境こっきょう紛争ふんそう調停ちょうていすべく南方なんぽう進出しんしゅつちゅうだいじゅうさん駆逐くちくたい菊月きくづきゆうがつ)の駆逐くちくかんゆうがつ衝突しょうとつ事故じここした[55]あおいりゅうかんくびゆうがつ左舷さげん中央ちゅうおうげ、やぶくちしょうじた[55]りょうかんとも沈没ちんぼつ危険きけんはなかったが、あおいりゅう搭載とうさいをうつしたのち佐世保させぼもどってドックにはいった[56]。4月、修理しゅうりえたあおいりゅう横須賀よこすか回航かいこうされた[56]

1941ねん4がつ10日とおかだい航空こうくう戦隊せんたいあおいりゅうりゅう)は、新設しんせつされただいいち航空こうくう艦隊かんたい編入へんにゅうされる[57]太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんまえの7がつには南部なんぶふつしるし進駐しんちゅう作戦さくせん支援しえんおこなった。 9月12にち赤城あかぎ艦長かんちょう長谷川はせがわ喜一きいち大佐たいさが、赤城あかぎあおいりゅう艦長かんちょう兼務けんむすることになった[58]。9月12にちづけ内示ないじされた昭和しょうわ17年度ねんど海軍かいぐん戦時せんじ編制へんせいによれば、だい12駆逐くちくたい叢雲むらくも東雲しののめ)は空母くうぼあおいりゅうりゅうだい航空こうくう戦隊せんたい編制へんせい予定よていであった[59][注釈ちゅうしゃく 2]。 しかし、だい12駆逐くちくたい空母くうぼ機動きどう部隊ぶたいへの配属はいぞく実行じっこうされなかった。 10月6にち長谷川はせがわ大佐たいさ赤城あかぎあおいりゅう艦長かんちょう兼務けんむかれ、柳本やなぎもと柳作りゅうさく大佐たいさあおいりゅう艦長かんちょう任命にんめいされた[60]

太平洋戦争たいへいようせんそう

[編集へんしゅう]

真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき

[編集へんしゅう]
海軍かいぐん満載まんさいして航行こうこうする「あおいりゅう」(1941ねん12月7にち

1941ねん12月、あおいりゅうようするだいいち航空こうくう艦隊かんたい長官ちょうかん南雲なぐも忠一ただかず中将ちゅうじょう参謀さんぼうちょうくさ鹿しか龍之介りゅうのすけ少将しょうしょう)は、太平洋戦争たいへいようせんそう劈頭へきとう真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき参加さんか作戦さくせんまえ軍令ぐんれいからの要請ようせいおうじて、あおいりゅうりゅう赤城あかぎはずし、航続力こうぞくりょくすぐれた空母くうぼさんせき加賀かがしょうづるみずづる)にもっと優秀ゆうしゅうだいいち航空こうくう戦隊せんたいだい航空こうくう戦隊せんたいせて作戦さくせんおこなあんつくられたが、このあんっただい航空こうくう戦隊せんたい司令しれいかん山口やまぐち多聞たもん少将しょうしょうは、いままで訓練くんれんしてきたひと飛行機ひこうきられ、母艦ぼかんだけのこされては部下ぶかわすかおがない、攻撃こうげきのちりにしてくれてかまわないと反対はんたいした。だいいち航空こうくう艦隊かんたい最終さいしゅうてき空母くうぼ6せきあんでまとまり解決かいけつしている[61]真珠湾しんじゅわんまでのみちのりは燃料ねんりょうについて問題もんだいがあったが、それを解決かいけつするため軍務ぐんむきょく暗黙あんもく了解りょうかいて、南雲なぐも長官ちょうかん自身じしん責任せきにんにおいて軍紀ぐんき違反いはんである過剰かじょう燃料ねんりょう搭載とうさいおこな解決かいけつした[62]

だい航空こうくう戦隊せんたい所属しょぞく艦載かんさい部隊ぶたいは、艦上かんじょう攻撃こうげきたい32海軍かいぐん航空こうくうたい出水しゅっすい基地きち戦後せんご廃止はいしされ跡地あとち民間みんかん開放かいほう出水しゅっすい海軍かいぐん航空こうくうたい#戦後せんご出水しゅっすい基地きち参照さんしょう)、艦上かんじょう爆撃ばくげきたい36海軍かいぐん航空こうくうたいかさはら基地きち鹿屋かのや航空こうくう基地きちからやく5kmひがしにあった)を訓練くんれん基地きちとして、そしてだい航空こうくう戦隊せんたいならびだいいち航空こうくう戦隊せんたい所属しょぞく艦上かんじょう戦闘せんとうたい72海軍かいぐん航空こうくうたい佐伯さいき基地きち戦後せんご廃止はいしされ跡地あとち民間みんかん開放かいほう佐伯さえき海軍かいぐん航空こうくうたい#戦後せんご佐伯さえき飛行場ひこうじょう参照さんしょう)を訓練くんれん基地きちとして[63]錦江湾きんこうわん志布志湾しぶしわん佐伯湾さいきわん演習えんしゅうおこない、1941ねん昭和しょうわ16ねん)11月16にち佐世保させぼ基地きちにいた加賀かが以外いがいだいいち航空こうくう艦隊かんたい南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい空母くうぼ5せき佐伯湾さいきわんにて艦載かんさい部隊ぶたいかく陸上りくじょう基地きちから離陸りりくさせてちゃくかん収容しゅうようした。 そのとき佐伯湾さいきわんにはハワイ作戦さくせん参加さんかするほとんどの24せき艦船かんせんあつまっており、あおいりゅうにはだい航空こうくう戦隊せんたい旗艦きかんとして山口やまぐち少将しょうしょう座乗ざじょうし、よく17にち午後ごご山本やまもと五十六いそろく連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん視察しさつけて、機動きどう部隊ぶたい旗艦きかん赤城あかぎ)に集合しゅうごうした搭乗とうじょういんたち真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき全貌ぜんぼうかされたさいには[64]母艦ぼかんもどった搭乗とうじょういんたちあいだ酒宴しゅえんとなり、山口やまぐち司令しれいかん柳本やなぎもと艦長かんちょう胴上どうあげして気勢きせいをあげている[65]

かく艦船かんせん機動きどう部隊ぶたいとしての行動こうどうをごまかすため、11月18にち午前ごぜん4だいいち水雷すいらい戦隊せんたい旗艦きかんけいじゅん阿武隈あぶくま麾下きか駆逐くちくかん9せき[注釈ちゅうしゃく 3]うごしたのを皮切かわきりに、時間じかんをずらしてバラバラに佐伯湾さいきわんはなれ、艦隊かんたい最終さいしゅう集結しゅうけつする千島ちしま列島れっとう択捉島えとろふとう単冠湾ひとかっぷわん個別こべつ目指めざした。 艦隊かんたい集結しゅうけつ予定よていどおり11がつ22にち単冠湾ひとかっぷわんはいり、11月26にち南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい一翼いちよくとして単冠湾ひとかっぷわん出港しゅっこうかんれつつらね、一路いちろハワイ真珠湾しんじゅわんへとかった。 12月8にち真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき参加さんかしたあおいりゅう艦上かんじょう以下いかとおりである。

だいいち攻撃こうげきたいだいいち

きゅうななしきかんおさむ18水平すいへい爆撃ばくげきたい10指揮しきかん分隊ぶんたいちょう阿部あべ平次郎へいじろう大尉たいい雷撃らいげきたい8指揮しきかん分隊ぶんたいちょう長井ながいつよし大尉たいい)、れいせん8指揮しきかん分隊ぶんたいちょう菅波すがなみ政治せいじ大尉たいい

だいいち攻撃こうげきたいだい

きゅうきゅうしきかんばく18指揮しきかん飛行ひこう隊長たいちょう江草えぐさりゅうしげる少佐しょうされいせん9指揮しきかん分隊ぶんたいちょうめし田房たふさふとし大尉たいい

真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき戦艦せんかん多数たすう撃沈げきちんするだい戦果せんかげた。もりひろえさん(雷撃らいげきたい2ばん操縦そうじゅう)によれば、事前じぜん目標もくひょうではないと説明せつめいがあったにもかかわらず、かんおさむ3-4フォードとう北岸ほくがん停泊ていはくしていた標的ひょうてきかんユタ雷撃らいげきしている[66]あおいりゅうだい攻撃こうげきたいかられいせん3[67]きゅうきゅうかんばく2帰還きかんとなった[68]南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい所在しょざい不明ふめいべい空母くうぼエンタープライズレキシントン捜索そうさくしながら日本にっぽんへの帰途きとについた[69]あおいりゅう飛行ひこう隊長たいちょう江草えぐさりゅうしげる少佐しょうさ山口やまぐち多聞たもん少将しょうしょう柳本やなぎもと艦長かんちょうつうじてべい空母くうぼ徹底てってい捜索そうさく撃滅げきめつ進言しんげんし、いちこうかん長官ちょうかん南雲なぐも中将ちゅうじょう参謀さんぼう長草ながくさ鹿しか少将しょうしょう艦隊かんたい保全ほぜん優先ゆうせんしたとする主張しゅちょうもある[70]

どう時期じきウェークとう攻略こうりゃくにむかった日本にっぽんぐんだいよん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん井上いのうえ成美まさみ中将ちゅうじょう旗艦きかん鹿島かしま)・だいろく水雷すいらい戦隊せんたい司令しれいかんかじおか定道さだみち少将しょうしょう旗艦きかん夕張ゆうばり)はしままもアメリカ海兵かいへいたい反撃はんげきによっておもわぬ苦戦くせんいられ、駆逐くちくかん2せき撃沈げきちんされ撃退げきたいされた。ハワイからの帰投きとうちゅうだっただい航空こうくう戦隊せんたいウェークとう攻略こうりゃく支援しえんめいじられ、だいはち戦隊せんたい司令しれいかん阿部あべ弘毅こうき少将しょうしょう指揮しきするあおいりゅうふくめ8せき[注釈ちゅうしゃく 4]南雲なぐも機動きどう部隊ぶたいぬしたいから分離ぶんり、12月18にちより南洋なんよう部隊ぶたい指揮しきかん井上いのうえ成美まさみだいよん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん)の指揮しきはいった[72]。 12月21にちれいせん9きゅうきゅうかんばく14ウェークとう空襲くうしゅうおこなった[73]。22にち空襲くうしゅうではれいせん3きゅうななしきかんおさむ16出撃しゅつげきした[74]。ウェークとう到達とうたつ直前ちょくぜん、アメリカぐん戦闘せんとうF4Fワイルドキャット奇襲きしゅうきゅうななかんおさむ3(含1不時着ふじちゃく着水ちゃくすい)が撃墜げきついされるが[74]、そのうちの1水平すいへいばくげき名手めいしゅとしてられ、真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきさいかんおさむたい誘導ゆうどうつとめた金井かないのぼる いち曹機であった[75]。23にちにはだいいち(れいせん6、かんばく6)、だい(れいせん2、かんおさむ9)が出撃しゅつげきし、上陸じょうりくした海軍かいぐん陸戦りくせんたい支援しえんをおこなった[76]同日どうじつ、ウェークとう陥落かんらく[77]12月23にちづけ南洋なんよう部隊ぶたい指揮しきはな[78]12月29にち日本にっぽん本土ほんどもどった[79][80]

南方みなかた作戦さくせん

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1942ねん3がつ30にちインド洋いんどようすす機動きどう部隊ぶたい空母くうぼみずづる」より撮影さつえいちいさくうつっている空母くうぼ先頭せんとうから「赤城あかぎ」「あおいりゅう」「りゅう」、そのうしろを続行ぞっこうしているのが戦艦せんかん比叡ひえい」「霧島きりしま」「榛名はるな」「きむつよし」。

1942ねん昭和しょうわ17ねん)1がつ7にち(8にち[81])、だい航空こうくう戦隊せんたい南方なんぽう部隊ぶたい編入へんにゅうされた[82]。1月18にちあおいりゅうパラオ諸島しょとう到着とうちゃくした。あおいりゅう航空こうくうたいペリリューとう移動いどうして待機たいきしていたが、このあいだ「アメリカぐん潜水せんすいかん7せき出現しゅつげん」の索敵さくてき報告ほうこくにより、緊急きんきゅう出動しゅつどうしている[83]実際じっさいイルカ大群たいぐん誤認ごにんであったという[83]。1月21にちりゅうとも出港しゅっこう[84]。1月23にち、2せきからそれぞれれいせん9きゅうきゅうかんばく9きゅうななかんおさむ9アンボン攻撃こうげきかったが天候てんこう不良ふりょうで、わりに目標もくひょうとされたテルナテでも攻撃こうげき対象たいしょうがなかったため攻撃こうげきめとなった[85]翌日よくじつ同数どうすうでアンボンの兵舎へいしゃぐん砲台ほうだい攻撃こうげきした[86]。この攻撃こうげき損害そんがいはなく、1がつ25にちにダバオ[86]

2がつ19にちダーウィン空襲くうしゅうに「あおいりゅう」からはれいせん9かんばく18かんおさむ18参加さんかし、かんばく1不時ふじ着水ちゃくすい乗員じょういん救助きゅうじょされた)した[87]。この空襲くうしゅうではアメリカの駆逐くちくかんピアリー」など8せきしずみ、オーストラリアのスループ「スワン」やアメリカの水上すいじょう母艦ぼかんウィリアム・B・プレストン」などが損傷そんしょうしている[88]攻撃こうげきからの帰投きとうちゅうに「赤城あかぎ特設とくせつ巡洋艦じゅんようかん1せき発見はっけんし、「あおいりゅう」と「りゅう」からそれぞれかんばく9発進はっしん[89]。「あおいりゅう」のかんばくはアメリカ客船きゃくせん「ドン・イシドロ」(3200トン)を攻撃こうげき[90]、5はつ直撃ちょくげきだんけた「ドン・イシドロ」はバサーストとう擱坐かくざした[91]一方いっぽう、「りゅう」のかんばくはフリピン貨物かもつせん「フローレンスD」(2638トン)をしずめた[90]。この2せき物資ぶっしんでフリピンへかおうとしていたふねであった[92]。 2月21にちあおいりゅうスラウェシとう(セレベスとう南東なんとうがんスターリングわん入港にゅうこうした。

3月1にち偵察ていさつがえりのきゅうななしきかんおさむが、クリスマスとう南方なんぽうでフリーマントルにかう途中とちゅうのアメリカ給油きゅうゆかんペコス(USS Pecos, AO–6)を発見はっけん[93]、1255ふん空母くうぼ加賀かがきゅうきゅうしきかんばく9からなる攻撃こうげきたい指揮しきかん渡部わたなべ俊夫としお大尉たいい)を発進はっしんさせ[94]いであおいりゅうも139ふんきゅうきゅうしきかんばく9からなる攻撃こうげきたい指揮しきかん池田いけだただし偉大いだいじょう)を発進はっしんさせてペコスにかわせた[95]加賀かが攻撃こうげきたいは1321ふんにペコスを発見はっけんして攻撃こうげき態勢たいせいはいり、ペコスに直撃ちょくげきだん1はつ至近しきんだん8はつあたえたが、ペコスも対空たいくう火器かき応戦おうせんして4被弾ひだんした[94]加賀かが攻撃こうげきたいは1439ふん加賀かが帰投きとうしてきた[94]あおいりゅう攻撃こうげきたいは、加賀かが攻撃こうげきたいがペコスを攻撃こうげきちゅうの1330ふん現場げんば到着とうちゃく[95]加賀かが攻撃こうげきたいげていったのち攻撃こうげき開始かいしし、命中めいちゅうだん3はつ至近しきんだん1はつあたえたが[95]依然いぜん対空たいくう砲火ほうかはすさまじく5被弾ひだんした[95]。しかし、ペコスは度重たびかさなる被弾ひだんひだりに15かたむ[95]、やがてかんくびさきにして南緯なんい1427ふん 東経とうけい10611ふん / 南緯なんい14.450 東経とうけい106.183 / -14.450; 106.183 (ペコス沈没ちんぼつ地点ちてん)地点ちてん[96]にて1548ふん沈没ちんぼつした。あおいりゅう攻撃こうげきたいは151ふんあおいりゅう帰投きとうし、ペコスの沈没ちんぼつ瞬間しゅんかんていない[95]同日どうじつ午後ごご7あおいりゅうかんばく9戦艦せんかん比叡ひえいじゅうじゅん利根りこん筑摩ちくま砲撃ほうげきをたくみに回避かいひしていた駆逐くちくかんエドサル(USS Edsall, DD-219) を爆撃ばくげきして航行こうこう不能ふのうとし、撃沈げきちんのお膳立ぜんだてをした[97]。3月5にちあおいりゅう攻撃こうげきたいジャワ島じゃわとうチラチャップ空襲くうしゅうして商船しょうせん3せき撃沈げきちん、14せき損傷そんしょうしたあと自沈じちんした[98]。その南雲なぐも機動きどう部隊ぶたいスマトラ島すまとらとう南方なんぽう脱出だっしゅつする連合れんごうぐん艦艇かんてい捕捉ほそくにつとめた。

3月6にち午前ごぜん山口やまぐち少将しょうしょう旗艦きかんあおいりゅう」)指揮しきの8せき南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい本隊ほんたいから分離ぶんり掃蕩そうとう開始かいしした[注釈ちゅうしゃく 5]山口やまぐち司令しれいかんだい航空こうくう戦隊せんたいあおいりゅうりゅう)の護衛ごえいに17だい2小隊しょうたい浜風はまかぜいそふう)をのこすと、戦艦せんかん2せき駆逐くちくかん2せきクリスマスとう砲撃ほうげきかわせた[100]同日どうじつ午後ごご1-2かんばく6・かんおさむ2が商船しょうせんプーラウ・ブラスを撃沈げきちん[101]午後ごご4かんばく7商船しょうせん4せき攻撃こうげき商船しょうせんウールガーを撃沈げきちんしたのみで[102]決定的けっていてき戦果せんかげるにはいたらなかった。3月11にち、スターリングわん入港にゅうこうする。

3月26にち南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい赤城あかぎあおいりゅうりゅうみずづるしょうづる)として出撃しゅつげきし、インド洋いんどようかう。4月5にちから4がつ9にちにかけてセイロンおき海戦かいせんにも機動きどう部隊ぶたい一角いっかくとして参加さんかする[103]えい駆逐くちくかんテネドス、仮装かそう巡洋艦じゅんようかんヘクターを撃沈げきちんした。さらにイギリスぐん東洋とうよう艦隊かんたい襲撃しゅうげきしたさいには、空母くうぼ攻撃こうげきたい協同きょうどうしてえい空母くうぼハーミーズ、じゅう巡洋艦じゅんようかんドーセットシャー、コーンウォール、ごう駆逐くちくかんヴァンパイア、コルヴェットかんホリホック、給油きゅうゆかんアセルステーン、ブリティッシュ・サージャントを撃沈げきちんした[104]どう海戦かいせんでのあおいりゅうかんばくたい命中めいちゅうりつは78%にもおよび、各地かくち華々はなばなしい戦果せんかげた。4月18にちドーリットル空襲くうしゅうさいには[105]台湾たいわん海峡かいきょう航行こうこうちゅうだったため、千葉ちばけんおきにいたハルゼー提督ていとくだい16任務にんむ部隊ぶたい捕捉ほそくすることはできなかった。4月22にち日本にっぽん横須賀よこすか軍港ぐんこうもどる。このときだい航空こうくう戦隊せんたい旗艦きかんりゅう変更へんこうされ、定期ていき人事じんじ異動いどうによって南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい航空こうくう戦力せんりょくは「基礎きそ訓練くんれん修了しゅうりょうレベルに到達とうたつしたもの一人ひとりもいなかった。未熟みじゅく航空こうくうへいひる間着あいぎかんする段階だんかいにもたっしておらず、熟練じゅくれん搭乗とうじょういんなかにさえあきらかにうでちたものがいた」という状態じょうたいになる[106]

ミッドウェー海戦かいせん

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ミッドウェー海戦かいせんで、回避かいひ運動うんどうつづけるあおいりゅう

1942ねん6がつ初旬しょじゅんだいいち航空こうくう艦隊かんたい指揮しきミッドウェー作戦さくせん参加さんか[107]。 5月27にちあおいりゅう日本にっぽん出発しゅっぱつした[108]出撃しゅつげきまえあおいりゅう長沼ながぬま道太郎みちたろう機関きかん特務とくむ大尉たいいは、床屋とこやから「日本にっぽん海軍かいぐんけばミッドウェーでも楽勝らくしょうですね」とおだてられたという[109]あおいりゅうかんおさむ操縦そうじゅういんだった大多和おおたわ達也たつやは、戦後せんごアメリカの作家さっかから「士官しかん作戦さくせん芸者げいしゃかせて、そこかられた」というはなしいたという[110]

日本にっぽん時間じかん6がつ5にち午前ごぜん130ふん南雲なぐも機動きどう部隊ぶたいからミッドウェーとうへのだいいち攻撃こうげきたい発進はっしんする。このとき出撃しゅつげき陣容じんようかく空母くうぼどもれいせん稼働かどう半数はんすうの9攻撃こうげきだいいち航空こうくう戦隊せんたいきゅうきゅうかんばく稼働かどうぜん18だい航空こうくう戦隊せんたいぎゃくきゅうななかんおさむ稼働かどうぜん18出撃しゅつげきさせている[111]きゅうななかんおさむ魚雷ぎょらいではなく、800kgりくようばくだん搭載とうさいしての出撃しゅつげきである。アメリカぐん基地きちから発進はっしんしたF4Fワイルドキャット戦闘せんとう6F2Aバッファロー戦闘せんとう19迎撃げいげき対空たいくう砲火ほうかにより、あおいりゅう攻撃こうげきたいぜん被弾ひだんしてかんおさむ3喪失そうしつ(不時着ふじちゃく2ふくむ)[112]れいせん搭乗とうじょういん1めい重傷じゅうしょうった。のこかんおさむも1りゅうかん即時そくじ使用しよう可能かのうかんおさむは10であった[112]。ミッドウェーとう攻撃こうげきたいからの「だい攻撃こうげき必要ひつようせいあり」の連絡れんらくけ、午前ごぜん415ふん南雲なぐも司令しれいはアメリカぐん機動きどう部隊ぶたい出現しゅつげんそなえてたいかん攻撃こうげきよう装備そうび待機たいきさせていた攻撃こうげきたいたいし、陸上りくじょう攻撃こうげきようばくだんへのかわそうめいじた[113]

午前ごぜん440ふんじゅうじゅん利根りこんから発進はっしんしたれいしき水上すいじょう偵察ていさつが「てきらしきもの10せきみゆ」と報告ほうこくした。いちこうかん参謀さんぼうちょうくさ鹿しか龍之介りゅうのすけ少将しょうしょうは、空母くうぼ付近ふきんにいるとおもうと同時どうじに「てきらしき」だけでは命令めいれい変更へんこうには不十分ふじゅうぶんであり、「かんしゅらせ」と利根りこん指示しじした[114]午前ごぜん520ふん利根りこんてき空母くうぼ存在そんざい報告ほうこくする[115]。このときあおいりゅうじゅうさんためし艦上かんじょう爆撃ばくげき試作しさく改造かいぞうした試作しさく偵察ていさつ搭載とうさいしており、南雲なぐも長官ちょうかんじゅうさんためしかんばく投入とうにゅうめいじた[116]操縦そうじゅう飯田いいだただしちゅう(曹)、偵察ていさつ近藤こんどういさむ(曹長そうちょう)であった[117]午前ごぜん530ふん発進はっしんしたじゅうさんためしかんばく午前ごぜん830ふんごろアメリカぐん機動きどう部隊ぶたい発見はっけんし、あおいりゅう被弾ひだん午前ごぜん1030ふん空母くうぼりゅうかんして情報じょうほうをもたらしている[118]。なおじゅうさんためしかんばくはアメリカぐん機動きどう部隊ぶたい発見はっけん南雲なぐも機動きどう部隊ぶたいけて発信はっしんしたが[119]無線むせん故障こしょうにより艦隊かんたいがわでは受信じゅしんできなかった[120]じゅうさんためしかんばく活躍かつやくたいし、戦闘せんとう詳報しょうほうは「てき機動きどう部隊ぶたい情況じょうきょう不明ふめいなりしさいきわめて適切てきせつ捜索そうさく触接しょくせつにんじ、その攻撃こうげきりゅう反撃はんげき)を容易よういにならしめたり。功績こうせき抜群ばつぐんなり」と評価ひょうかしている[121]一方いっぽうで、あおいりゅう雷撃らいげき操縦そうじゅういんだったもりひろえさんによれば、かんばくかんおさむ搭乗とうじょういんたちは「索敵さくてきれる」と艦隊かんたい司令しれいへの不満ふまんいていたという[122]

そのあおいりゅうはアメリカぐんミッドウェー基地きち航空こうくうたい波状はじょう攻撃こうげきけ、回避かいひ行動こうどう直衛なおえ戦闘せんとう発進はっしん専念せんねんする[123]。またミッドウェー基地きち攻撃こうげき出撃しゅつげきしたかんおさむたい収容しゅうようおこなったため、アメリカ艦隊かんたいけた攻撃こうげきたい発進はっしん準備じゅんび遅々ちちとしてすすまなかった[124]かんおさむ収容しゅうよういたっては、午前ごぜん650ふんまでかかっている[125]午前ごぜん7以降いこう南雲なぐも機動きどう部隊ぶたいべい空母くうぼホーネットやヨークタウンから発進はっしんしたTBDデバステーター雷撃らいげき攻撃こうげきけ、あおいりゅう魚雷ぎょらい回避かいひする[126]。この状況じょうきょうれい戦隊せんたいかくかん注意ちゅうい低空ていくうのアメリカ軍機ぐんきけられた。あおいりゅう戦闘せんとう詳報しょうほうでは、直衛なおえれいせん行動こうどう連絡れんらく方法ほうほうについて「戦闘せんとう使用しよう電波でんぱせいそらよう上空じょうくう直衛なおえようの2種類しゅるいぶんくるる必要ひつようなるのみならず、今回こんかいごと電波でんぱ転換てんかんひまなき場合ばあい直衛なおえ指揮しき支障ししょうをきたすことあり」「てき雷撃らいげき味方みかた戦闘せんとう集中しゅうちゅう傾向けいこうだいなり」と問題もんだいてん指摘してきしている[127]

日本にっぽん時間じかん午前ごぜん725-28ふんごろ現地げんち時間じかん1025ふんごろ)、あおいりゅうべい空母くうぼヨークタウン所属しょぞくSBDドーントレス急降下きゅうこうか爆撃ばくげきじゅうすう攻撃こうげきけた[128][129][130]。ちょうどミッドウェーとう攻撃こうげきからもどってきただい一次攻撃隊艦攻搭乗員達が、搭乗とうじょういん待機たいきしつ食事しょくじっているときだった[131]砲術ほうじゅつちょう気付きづいて対空たいくう射撃しゃげきおこなうもアメリカ軍機ぐんき阻止そしにはいたらず[132]投下とうかされた1,000ポンドばくだんさんはつがそれぞれさんのエレベータ付近ふきん一発いっぱつずつ命中めいちゅうした[133]一発いっぱつ格納庫かくのうこ下段げだんはつ格納庫かくのうこ上段じょうだん炸裂さくれつする。当時とうじあおいりゅうにはりくようばくだんから魚雷ぎょらいへのへいそう転換てんかんではなかったものの、だい攻撃こうげきたいとして出撃しゅつげき予定よていばくだん搭載とうさいしたきゅうきゅうかんばくと、帰艦きかんしただいいち攻撃こうげきたいきゅうななかんおさむ搭載とうさいするため左舷さげん中央ちゅうおうかんそこにあった魚雷ぎょらい調整ちょうせいじょうから格納庫かくのうこげられていた魚雷ぎょらい18ほんがあった[134]。それらが次々つぎつぎ誘爆ゆうばくこし深刻しんこくなダメージをあたえた[128]小俣おまた定雄さだお(うえ曹、あおいりゅう機関きかん電気でんき分隊ぶんたい)は、最初さいしょいちだんしゅ蒸気じょうきかん破壊はかいし、かんしつ全滅ぜんめつしゅ機械きかい発電はつでんようタービンが停止ていししたと推測すいそくしている[135]撃沈げきちん確実かくじつ判断はんだんしたアメリカぐん攻撃こうげきたい警戒けいかいかん目標もくひょううつし、駆逐くちくかんいそふう至近しきんだんあたえた[136]

砲術ほうじゅつちょう負傷ふしょうしたが、柳本やなぎもと艦長かんちょう浅海あさみ航海こうかいちょう楠本くすもと飛行ひこうちょう健在けんざいだった[137]午前ごぜん740ふん機関きかん停止ていしした[138]あおいりゅう機関きかんでは通風つうふうあなからほのお噴出ふんしゅつし、やむなくふくすい蒸留じょうりゅうすいんでしのいだ[139]応急おうきゅうはんいん格納庫かくのうこないでのばくだん燃料ねんりょう誘爆ゆうばく死傷ししょうし、かれらを手伝てつだはず機関きかん部員ぶいん火災かさい機関きかんしつめられ、被弾ひだん同時どうじ電源でんげんれたため消火しょうかポンプも作動さどうせず[140]消火しょうか活動かつどうははかどらなかった。日本にっぽん空母くうぼ弱点じゃくてんであったダメージコントロールひくさもわざわいしたが、被弾ひだん時点じてんでもはやがつけられず、被弾ひだんからわずか15ふん午前ごぜん745ふん総員そういん退去たいきょしたれいされる[141]だい部分ぶぶん乗組のりくみいんほのおわれ、また爆風ばくふううみばされた[142]総員そういん退去たいきょつたわらず、かん前部ぜんぶ後部こうぶとどまっていた乗組のりくみいん多数たすういたという[143]救助きゅうじょにあたったいそふうあおいりゅう脱出だっしゅつしゃたいするべい軍機ぐんき銃撃じゅうげき目撃もくげきしている[144]午前ごぜん812ふんじゅうじゅん筑摩ちくま艦長かんちょう古村こむらあきらぞう大佐たいさ)から救援きゅうえん人員じんいんせた短艇たんてい到着とうちゃくした[145]

南雲なぐも司令しれいだい17駆逐くちくたいだい2小隊しょうたいいそふう浜風はまかぜ)にたいし、あおいりゅう護衛ごえい北西ほくせいへの退避たいひめいじる[146]。だが午後ごご2いそふうから南雲なぐも司令しれい長良ながら)にたいし、あおいりゅう航行こうこう不能ふのう今後こんご行動こうどう指示しじむね返答へんとうがあった[147]午後ごご232ふんには、火災かさい一旦いったん鎮火ちんかしたという報告ほうこくはいった[148]乗員じょういん駆逐くちくかんへの移乗いじょう開始かいしし、午後ごご32ふん、17だい2小隊しょうたいいそふう浜風はまかぜ)はあおいりゅう生存せいぞんしゃ収容しゅうようした[149]。その火災かさいすこおさまったので、楠本くすもといくとうあおいりゅう飛行ひこうちょう防火ぼうかたい編成へんせいして再度さいど乗艦じょうかん準備じゅんびはじめる[150]直後ちょくご再度さいど爆発ばくはつこり、救出きゅうしゅつ不可能ふかのう判断はんだんされた。乗組のりくみいんたち柳本やなぎもと柳作りゅうさくあおいりゅう艦長かんちょう脱出だっしゅつするよう懇願こんがんしたが、拒否きょひされる[151]柳本やなぎもと艦長かんちょう最期さいごには、艦橋かんきょうほのおなかんだ、ピストルで自決じけつした、など諸説しょせつある[152]日本にっぽん時間じかん6がつ5にち午後ごご413-15ふん現地げんち時間じかん6がつ4にち1913ふん)、あおいりゅう日没にちぼつとも沈没ちんぼつした[153]随伴ずいはん駆逐くちくかんいそふう)の魚雷ぎょらいにより処分しょぶんされたという異説いせつもあり[154][注釈ちゅうしゃく 6]南雲なぐも戦闘せんとう詳報しょうほう事実じじつかくして「沈没ちんぼつ」としかいていないという意見いけんもある[156]浜風はまかぜ救助きゅうじょされたかんおさむ操縦そうじゅういんだった大多和おおたわ達也たつやだい爆発ばくはつともあおいりゅう中央ちゅうおう水柱みずばしらがあがると、かんからしずんだとべている[157]午後ごご420ふんいそふう水中すいちゅうだい爆発ばくはつきたのを確認かくにんした[150]

柳本やなぎもと艦長かんちょう以下いかじゅん士官しかん以上いじょう35めい下士官かしかんへい683めいけい718めい戦死せんし[158]、そのなかには艦内かんない火災かさい脱出だっしゅつ不可能ふかのうとなった機関きかん部員ぶいんおおふくまれていた。機関きかん脱出だっしゅつしゃ定員ていいん300めいちゅう、30めいじゃくでしかなく、弾薬だんやくはこびなどの応援おうえん作業さぎょう派遣はけんされて機関きかんしつにいなかった新兵しんぺい中心ちゅうしんだった[159]搭乗とうじょういん戦死せんししゃ機上きじょう6めい艦上かんじょう4めいわせて10めい戦闘せんとう4めいかんばく1めいかんおさむ5めい)で[160]江草えぐさりゅうしげる飛行ひこう隊長たいちょう以下いか搭乗とうじょういんおおくは救助きゅうじょされた。直衛なおえたいれいせんすうりゅうかんして戦闘せんとうつづけたが、同艦どうかん沈没ちんぼつともぜんうしなわれた[161]戦闘せんとう詳報しょうほうによるあおいりゅう沈没ちんぼつ位置いち北緯ほくい3042ふん5びょう 西経せいけい17837ふん5びょう / 北緯ほくい30.70139 西経せいけい178.61806 / 30.70139; -178.61806 (沈没ちんぼつ地点ちてん)[162]。のちに生存せいぞんしゃいそふうから水上すいじょう母艦ぼかん千代田ちよだひとしうつり、日本にっぽん本土ほんどもどった[163]

なお、アメリカ海軍かいぐんしょう潜水せんすいかんノーチラス報告ほうこくから、ノーチラスがあおいりゅう撃沈げきちんしたとながしんじていた[164]戦後せんご日本にっぽんぐんがわ将兵しょうへい多数たすう証言しょうげんからノーチラスはかんがたていたあおいりゅう加賀かが間違まちがえて報告ほうこくしたこと判明はんめいした[164]

年表ねんぴょう

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艦長かんちょう

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艤装ぎそういんちょう
  1. 大野おおの一郎いちろう 大佐たいさ:1935ねん12月23にち[41] - 1936ねん4がつ1にち[42]
  2. 奥本おくもと武夫たけお 大佐たいさ:1936ねん4がつ1にち[42] - 12月1にち[43]
  3. 別府べっぷあかりとも 大佐たいさ:1936ねん12月1にち[43] - 1937ねん8がつ16にち[44]
艦長かんちょう
  1. 別府べっぷあかりとも 大佐たいさ:1937ねん8がつ16にち[44] - 12月1にち[46]
  2. 寺岡てらおか謹平 大佐たいさ:1937ねん12月1にち[46] - 1938ねん11月15にち[48]
  3. 上野うえの敬三けいぞう 大佐たいさ:1938ねん11月15にち[48] - 1939ねん10がつ15にち[165]
  4. 山田やまだ定義さだよし 大佐たいさ:1939ねん10がつ15にち[165] - 1940ねん10がつ15にち[166]
  5. かばせらかずあし 大佐たいさ:1940ねん10がつ15にち[166] - 11月25にち[167]
  6. 上阪こうさか香苗かなえ 大佐たいさ:1940ねん11月25にち[167] - 1941ねん9がつ12にち[58]
  7. けん長谷川はせがわ喜一きいち 大佐たいさ:1941ねん9がつ12にち[58] - 1941ねん10がつ6にち[60]本職ほんしょく赤城あかぎ艦長かんちょう
  8. 柳本やなぎもと柳作りゅうさく 大佐たいさ:1941ねん10がつ6にち[60] - 1942ねん6がつ5にち戦死せんしどう日付ひづけ少将しょうしょう[168]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 航空こうくう母艦ぼかん あおいりゅう(さうりゆう)[21] 基準きじゅん排水はいすいりょう10,500とんながさ209.84めーとるはば20.84めーとる平均へいきん吃水きっすい5.02めーとる速力そくりょく30せつ備砲びほう12.7せんちめーとる高角こうかくほう12もん起工きこう昭和しょうわ9ねん11がつ20日はつか進水しんすい昭和しょうわ10ねん1がつ23にち竣工しゅんこう昭和しょうわ12ねん12月29にち建造けんぞうしょくれ海軍かいぐん工廠こうしょう我國わがくにもっとあたらしい航空こうくう母艦ぼかん姉妹しまいかんりゅう(竣工しゅんこう昭和しょうわ14ねん7がつ5にち建造けんぞうしょ横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょう)がある。
  2. ^ 艦隊かんたい
  3. ^ だい18駆逐くちくたいかすみ陽炎かげろう不知火しらぬひ)、だい17駆逐くちくたい谷風たにかぜうらふう浜風はまかぜいそふう)、だい航空こうくう戦隊せんたいあきくも)。
  4. ^ だいはち戦隊せんたい利根とね筑摩ちくま)、だい航空こうくう戦隊せんたいあおいりゅうりゅう)、陽炎かげろうがた駆逐くちくかん谷風たにかぜうらふう[71]
  5. ^ だい航空こうくう戦隊せんたいあおいりゅうりゅう)、だいさん戦隊せんたいだい2小隊しょうたい榛名はるなきむつよし)、だい17駆逐くちくたい谷風たにかぜうらふう浜風はまかぜいそふう[99]
  6. ^ あおいりゅう砲術ほうじゅつちょうは「駆逐くちく艦長かんちょう長官ちょうかんからの命令めいれいあおいりゅう処分しょぶんしようとしていた。わたし負傷ふしょうにより気絶きぜつしているあいだに、魚雷ぎょらい3ほん発射はっしゃしてあおいりゅう撃沈げきちんしたと部下ぶかからいた」と回想かいそうしている[155]

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 雑誌ざっしまる編集へんしゅう へん写真しゃしん日本にっぽん軍艦ぐんかん だい3かん 空母くうぼI光人みつひとしゃ、1989ねん9がつISBN 4-7698-0453-9 
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関連かんれん項目こうもく

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