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坂井さかい三郎さぶろう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
坂井さかい 三郎さぶろう
1939ねんかんこう飛行場ひこうじょうあいである96しき艦上かんじょう戦闘せんとうまるまえ坂井さかい三郎さぶろう
渾名あだな 大空おおぞらのサムライ著書ちょしょめいより)
生誕せいたん 1916ねん8がつ26にち
佐賀さがけん佐賀さがぐん西与賀にしよかむら
死没しぼつ 2000ねん9月22にち(2000-09-22)(84さいぼつ
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1933ねん - 1945ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん中尉ちゅうい
除隊じょたい 印刷いんさつ会社かいしゃ経営けいえい
墓所はかしょ 愛川あいかわまち相模さがみメモリアルパーク
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坂井さかい 三郎さぶろう(さかい さぶろう、1916ねん大正たいしょう5ねん8がつ26にち - 2000ねん9月22にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん

ポツダム進級しんきゅうにより最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん中尉ちゅうい太平洋戦争たいへいようせんそうにおけるエース・パイロット

著書ちょしょ大空おおぞらのサムライ』で有名ゆうめい撃墜げきついすう自称じしょう64だが、後述こうじゅつのように公認こうにん撃墜げきついすうは28である。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

佐賀さがけん佐賀さがぐん西与賀にしよかむら大字だいじりんがい1523番地ばんち現在げんざい佐賀さが西与賀にしよかまち大字だいじりんがい)で農家のうか三男さんなんだったちち坂井さかいはるははヒデの次男じなんとしてまれる。名前なまえ祖父そふ勝三郎かつさぶろう由来ゆらいしている。坂井さかいが5さいのときに一家いっか祖父そふいえから夜逃よに同然どうぜん出奔しゅっぽんしてまずしい生活せいかつおくった。ちちちいさな精米せいまいしょつとめたが、坂井さかい小学校しょうがっこう6年生ねんせい1928ねん昭和しょうわ3ねんあき、36さい病没びょうぼつのこされたははと6にん子供こども生活せいかつ困窮こんきゅうした。るにかねた伯父おじ兄弟きょうだい中学ちゅうがくれてやろうとして、坂井さかい東京とうきょうられるかたち上京じょうきょうした。坂井さかい新宿しんじゅく府立ふりつろくなか受験じゅけんしたがちて青山学院あおやまがくいん中等ちゅうとう進学しんがくした。しかし、成績せいせき不振ふしん落第らくだいして退学たいがく処分しょぶんとなった[1][2]

その実家じっかされやく2年間ねんかん農作業のうさぎょう従事じゅうじした。このころから自身じしん将来しょうらいについて真剣しんけんかんがえるようになった。スピードへのあこがれがあり、騎手きしゅになろうとしたが本家ほんけ反対はんたい挫折ざせつおな西与賀にしよかむら出身しゅっしん佐世保させぼ航空こうくうたい平山ひらやま五郎ごろう海軍かいぐん大尉たいい操縦そうじゅう飛行ひこうてい故郷こきょう低空ていくう旋回せんかいするのを、農作業のうさぎょうをしつつあおぎながらはやものとしての飛行機ひこうきあこがれた。「海軍かいぐん少年しょうねん航空こうくうへい募集ぼしゅうのポスターをかい受験じゅけんしたが、合格ごうかくになった[3]

飛行機ひこうきのある海軍かいぐんはいれば、ちかくでられるだろうし、さわるぐらいはできるだろうというおもいから、海軍かいぐん志願しがんへい受験じゅけん合格ごうかく周囲しゅうい反対はんたいしたが1933ねん昭和しょうわ8ねん)5がつ1にちよんとう水兵すいへいとして佐世保させぼ海兵かいへいだん入団にゅうだんする。1933ねん10がつ1にち戦艦せんかん霧島きりしま配属はいぞくされ、15センチふくほう砲手ほうしゅとなる。1935ねん昭和しょうわ10ねん)5がつ11にち横須賀よこすか海軍かいぐん砲術ほうじゅつ学校がっこう入校にゅうこうよく1936ねん昭和しょうわ11ねん)、同校どうこうを200にんちゅう2ばん成績せいせき卒業そつぎょうし、5月14にち戦艦せんかん榛名はるな配属はいぞく大艦だいかんきょほう主義しゅぎ全盛ぜんせい当時とうじ花形はながたとされた戦艦せんかん主砲しゅほうばん砲塔ほうとう砲手ほうしゅまかせられるが、演習えんしゅう榛名はるな艦載かんさい射出しゃしゅつ海軍かいぐん入隊にゅうたい目標もくひょうであった搭乗とうじょういんへの志願しがん上官じょうかん搭乗とうじょういんけると、「指導しどうしてやるが、学科がっか試験しけん合格ごうかくしなければみちけない」とわれる。受験じゅけん上官じょうかんけたところ、主砲しゅほう砲手ほうしゅはずされ、かんそこそうやく砲弾ほうだんあつかたまいんまわされる。それでもめげずに年齢ねんれいてき最後さいごとなる操縦そうじゅう練習れんしゅうせい受験じゅけんして合格ごうかく

1937ねん昭和しょうわ12ねん)3がつ10日とおか霞ヶ浦かすみがうら航空こうくうたい入隊にゅうたい、4がつ1にちはつ飛行ひこう練習れんしゅうせいなかでは、操縦そうじゅう上手うまいほうではなく単独たんどく飛行ひこうゆるされたのは卒業そつぎょうちか最後さいごだった[4]卒業そつぎょう延長えんちょう教育きょういく射撃しゃげき上手うまくはなかった[5]首席しゅせき目指めざして勉強べんきょうはげんだ結果けっか希望きぼうどおり艦上かんじょう戦闘せんとう操縦そうじゅうしゃとしてえらばれ、同年どうねん11がつ30にちだい38操縦そうじゅう練習れんしゅうせい首席しゅせき卒業そつぎょう卒業そつぎょうしきでは昭和しょうわ天皇てんのう名代なだい伏見ふしみみやひろしきょうおうより、恩賜おんし銀時計ぎんどけい拝受はいじゅし、海軍かいぐん戦闘せんとう搭乗とうじょういんとしてのみちあゆはじめる。佐伯さえき航空こうくうたいづけ戦闘せんとう操縦そうじゅうしゃとしての延長えんちょう教育きょういくける。この佐伯さえき航空こうくうたい時代じだいに、みさおねりさん先輩せんぱいたる原田はらだかなめ空戦くうせん訓練くんれん相手あいてまれ、切磋琢磨せっさたくました[6]1938ねん昭和しょうわ13ねん)4がつ9にち大村おおむら航空こうくうたい配属はいぞく。5月11にちさんとう航空こうくう兵曹へいそう昇進しょうしん高雄たかお航空こうくうたいづけ

ささえ事変じへん[編集へんしゅう]

きゅうろくしき艦上かんじょう戦闘せんとうった坂井さかい(1939ねん
坂井さかい三郎さぶろうばくげき(1942ねん以前いぜん

1938ねん9がつ11にちだいじゅう航空こうくうたい配属はいぞく勤務きんむ中国ちゅうごく大陸たいりくきゅう進出しんしゅつ

1938ねん昭和しょうわ13ねん)10がつ5にちかんこう空襲くうしゅう参加さんか。これが坂井さかい初出しょしゅつげきであり、指揮しきかん相生あいおい高秀たかひで大尉たいいさんばんとしてきゅうろくしき艦上かんじょう戦闘せんとう搭乗とうじょうした。坂井さかい中華民国ちゅうかみんこく国軍こくぐんI-16戦闘せんとう1撃墜げきつい1939ねん昭和しょうわ14ねん)5がつ1にちとう航空こうくう兵曹へいそう昇進しょうしん同月どうげつきゅう基地きちからのみなみあきら基地きち攻撃こうげき参加さんか。6月、占領せんりょうしたみなみあきら基地きち進出しんしゅつ。10月3にち、SB(エスベー)爆撃ばくげき12編隊へんたいかんこう基地きち空襲くうしゅう坂井さかい迎撃げいげきがり、単機たんきむべあきら上空じょうくう8せんメートルまで追尾ついびして、1撃墜げきつい。11月、上海しゃんはい基地きち移動いどう1940ねん昭和しょうわ15ねん)5がつうんじょう基地きち進出しんしゅつどう基地きち上空じょうくう哨戒しょうかいとう従事じゅうじ

1940ねん昭和しょうわ15ねん)6がつ大村おおむら航空こうくうたい配属はいぞく内地ないち帰還きかんする。8月、横須賀よこすか航空こうくうたいおこなわれたしん機種きしゅあつか講習こうしゅうかいで、登場とうじょうしたばかりのれいしき艦上かんじょう戦闘せんとうれいせん)をはじめてる。1940ねん10がつ17にち高雄たかお海軍かいぐん航空こうくうたい配属はいぞく搭乗とうじょうきゅうろくせんかられいせん変更へんこうされたため、坂井さかい名古屋なごやれいせんって、鹿屋かのや基地きち経由けいゆ台湾たいわん高雄たかおそらまで空輸くうゆするかたちで、24にち高雄たかお基地きち着任ちゃくにんした。れいせんについて、おもどおりにうごいてくれる格闘かくとう性能せいのう燃料ねんりょうれをにせず空中くうちゅうせん集中しゅうちゅうできる長大ちょうだい航続力こうぞくりょく(≒滞空たいくう時間じかん)からたか評価ひょうかしている。そのため、つばさはばけず速度そくど上昇じょうしょうし、性能せいのう低下ていかしたれいせんさんがた導入どうにゅうされたさいには、操縦そうじゅうせい格闘かくとうせんうえから改悪かいあくであると意見いけんしている[7]

1941ねん昭和しょうわ16ねんはる坂井さかい高雄たかおそられいせん18のうちの1として、海南かいなんとうさん基地きち前進ぜんしんさら坂井さかいふくめた12は、陸軍りくぐん北部ほくぶふつしるし進駐しんちゅう呼応こおうするかたちで、ハノイ飛行場ひこうじょう進出しんしゅつする。

1941ねん昭和しょうわ16ねん)4がつ10日とおかだい12航空こうくうたい配属はいぞく。12そら横山よこやまたもつ大尉たいい希望きぼう中国ちゅうごく大陸たいりくさい進出しんしゅつかんこう基地きちからはなちゅうにおける作戦さくせん従事じゅうじ。5月3にち重慶たーちん攻撃こうげき出撃しゅつげき。6月1にち一等いっとう飛行ひこう兵曹へいそう昇進しょうしん。7月9にちやなさん攻撃こうげき参加さんか。27にち成都せいと攻撃こうげき参加さんか。8月11にちれいせん16一式いっしき陸上りくじょう攻撃こうげき7による成都せいと黎明れいめい空襲くうしゅう参加さんか攻撃こうげき参加さんかする戦闘せんとうはあらかじめ前日ぜんじつかんこう基地きちからむべあきら飛行場ひこうじょう移動いどうし、どう飛行場ひこうじょう夜間やかん離陸りりくし、かんこう出撃しゅつげき一式いっしきりくおさむ合流ごうりゅうした。中華民国ちゅうかみんこく国軍こくぐんI-15戦闘せんとう1撃墜げきつい坂井さかいにとってれいせんでのはつ撃墜げきついとなる。8月21にち再度さいど成都せいと攻撃こうげきで、I-16戦闘せんとう1撃墜げきついソ連それんからの援蒋ルート北方ほっぽうルート)を遮断しゃだんすべく派遣はけんされたれいせん18の1として、うんじょう基地きち進出しんしゅつ。8月25にちれいせん7のうちの1としてあららぎしゅう基地きち攻撃こうげき出撃しゅつげき上空じょうくう制圧せいあつ。その数日すうじつさら奥地おくち西にしやすしへのれいせん12での攻撃こうげき参加さんか。8月31にち岷山山脈さんみゃく谷間たにまという地形ちけいてき上空じょうくうからの攻撃こうげきむずかしいまつはん基地きちへの攻撃こうげき指揮しきかん新郷しんごうえいじょう大尉たいい以下いかれいせん4参加さんかどう基地きち上空じょうくうたっしつつも、天候てんこう不良ふりょうにてかえす。坂井さかいささえ事変じへんでは実戦じっせんかぞえるほどしかやらなかったと回想かいそうしている[8]

たいみなみむなし[編集へんしゅう]

比島ひじまあららぎしるし方面ほうめん[編集へんしゅう]

1941ねん昭和しょうわ16ねん)10がつ台湾たいわんたいみなみ基地きち新設しんせつされたたいみなみ航空こうくうたい以下いかたいみなみそらりゃく)に配属はいぞく坂井さかいたいみなみそら先任せんにん下士官かしかんへい搭乗とうじょういんであった。たいみなみそらでは下士官かしかんのみの小隊しょうたいまれ、坂井さかいはじめて僚機をつことになった。戦後せんご坂井さかいは、下士官かしかんのみでまれた小隊しょうたい自分じぶんたい唯一ゆいいつであり注目ちゅうもくされていたとはなしているが、たいみなみそらにはほかにも同様どうよう小隊しょうたい複数ふくすう存在そんざいしていた[9]坂井さかい副長ふくちょう小園こぞのやすしめい中佐ちゅうさたのまれ、新任しんにん上官じょうかん笹井ささいあつしいち中尉ちゅうい戦闘せんとう教育きょういくまかせられたという。また、夜中よなか現地げんち住民じゅうみんのニワトリをぬすし、小園こぞのやすしめいから「いやしくも日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじんが、たとえニワトリのいちでも、原住民げんじゅうみんのものをらすなどとは、とんでもないことだ」としかられたが、そのぶたぬすみにったこともあったという[10]。またあるときは、ぐん禁止きんしされていた麻薬まやく成分せいぶんふくまれたカナカタバコをい、下士官かしかんへいたちにもそれをすすめていたところを上官じょうかん笹井ささいつかって「それはカナカじゃないか。それをってはいけないことぐらいっているだろう。それには阿片あへんはいっているんだぞ」と注意ちゅういされたがそれでも坂井さかいはやめようとせず、たいみなみそら司令しれい士官しかんにだけ上等じょうとうなタバコが支給しきゅうされていることを批判ひはんした。すると笹井ささいいかりでくちびるがおくもらせてると、士官しかんけに支給しきゅうされた通常つうじょう煙草たばこをいっぱいめたはこってきて、「みんなでけろ。あんなくだらんタバコはてろ」と指示しじし、坂井さかい思惑おもわくどおりになったこともあったという[11]

1941ねん昭和しょうわ16ねん)12月8にち太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんたいみなみそらフィリピンクラーク空軍くうぐん基地きち攻撃こうげき参加さんかだいいち中隊ちゅうたい新郷しんごうえいじょう大尉たいい指揮しき)のだいさん小隊しょうたい坂井さかいいち曹、横川よこがわ曹、本田ほんださん曹)のしょう隊長たいちょうとしてたいみなみ基地きち出撃しゅつげき坂井さかいは、たいみなみそられいせん36護衛ごえいした高雄たかおそら一式いっしき陸上りくじょう攻撃こうげき27いちそらきゅうろくしき陸上りくじょう攻撃こうげき27ばくげき成功せいこうで、くろけむりがる飛行場ひこうじょう500メートル上空じょうくうで、べい陸軍りくぐんだい21追撃ついげき飛行ひこうたいカーチスP-40ウォーホーク戦闘せんとうはつ空戦くうせんおこなう。坂井さかいれいせん得意とくいひだりきゅう旋回せんかいからのいちげきでP-40戦闘せんとう大破たいは同機どうき滑走かっそうすべんだ。戦後せんごの1991ねん5がつ米国べいこくテキサスしゅう同機どうき搭乗とうじょうしていたサム・グラシオ中尉ちゅうい会見かいけんし、この空戦くうせん記憶きおく一致いっちした。

1941ねん12がつ10日とおかそら要塞ようさいばれたボーイングB-17フライングフォートレスばくげき日本にっぽんはつ撃墜げきついした。戦後せんご坂井さかいがAP通信つうしんしゃ東京とうきょう支局しきょくちょうラッセル・ブライアンにたいし、この撃墜げきついしゃ坂井さかいであり、墜落ついらくするまでかげ見届みとどけずに「戦果せんか確認かくにん」と報告ほうこくしたとかたり、ラッセルが「あれは撃墜げきついだった」とこたえる会見かいけん様子ようすが「日本にっぽんタイムス」や「スターズ・アンド・ストライプス」に発表はっぴょうされた。しかし、坂井さかい当日とうじつ出撃しゅつげきはしたが、当時とうじたいみなみそらさんそら資料しりょう記載きさいされている、B-17を攻撃こうげきした複数ふくすう搭乗とうじょういんなか坂井さかい名前なまえはない。戦闘せんとう行動こうどう調書ちょうしょによれば、交戦こうせんした豊田とよだ光雄みつお山上やまかみつねひろし菊池きくち利生りしょう和泉いずみ秀雄ひでお野澤のざわ三郎さぶろう協同きょうどう撃墜げきついであり、坂井さかい交戦こうせんしていない[12]

たいみなみそらは、12月25にちより、スールー諸島しょとうホロとう順次じゅんじ進出しんしゅつ1942ねん昭和しょうわ17ねん)1がつ16にちらんしるしタラカン進出しんしゅつ。1月24にち坂井さかいボルネオとうバリクパパン上空じょうくう哨戒しょうかいちゅうべい陸軍りくぐんだい19ばくげき飛行ひこうたいのB-17爆撃ばくげきの7編隊へんたい発見はっけんたいみなみそら4坂井さかいいち曹、松田まつださん曹/田中たなかいち曹、福山ふくやまさん曹)で、20ふんにわたり攻撃こうげきし、うち3大破たいは。1月25にち坂井さかいバリクパパン基地きち進出しんしゅつ。2月5にちどう基地きち出撃しゅつげきした坂井さかいは、ジャワ島じゃわとうスラバヤ上空じょうくうべい陸軍りくぐんだい20追撃ついげき飛行ひこうたいのP-40戦闘せんとう1撃墜げきつい。2月8にち新郷しんごう大尉たいい指揮しき9新郷しんごう大尉たいい田中たなかいち曹、本田ほんださん曹/坂井さかいいち曹、山上さんじょう曹、横山よこやまさん曹/佐伯さえきいち曹、野沢のざわさん曹、石井いしいさん曹)のだい小隊しょうたいちょうとして、バリクパパン基地きち出撃しゅつげき日本にっぽん陸軍りくぐん上陸じょうりく開始かいししたセレベスとうマカッサル方面ほうめんたいするばくげきかっていたべい陸軍りくぐんだい19ばくげき飛行ひこうたいのB-17爆撃ばくげきの9編隊へんたいジャワかいカンゲアンとう上空じょうくう交戦こうせんれい戦隊せんたいは、その後方こうほうからしのり、B-17爆撃ばくげき防御ぼうぎょ砲火ほうか相対そうたいてきよわいとかんがえられた正面しょうめんまわって攻撃こうげき。うち2協同きょうどう撃墜げきついし、4大破たいは

2がつ18にちオランダりょうひがしインドいまインドネシア共和きょうわこく)・ジャワ島じゃわとうマオスパティ基地きち4,000メートル上空じょうくうらんしるしぐんフォッカーC.XI-W水上すいじょう偵察ていさつ1共同きょうどう撃墜げきつい晩年ばんねん坂井さかいは、てき基地きちへの侵攻しんこう途中とちゅう発見はっけんしたてき偵察ていさつ攻撃こうげきするために味方みかた編隊へんたいからはなれ、偵察ていさつ撃墜げきつい侵攻しんこうする日本にっぽんぐんからのがれる軍人ぐんじん民間みんかんじん満載まんさいしたオランダぐん大型おおがた輸送ゆそうダグラス DC-4遭遇そうぐうし、当時とうじ当該とうがいエリアを飛行ひこうする敵国てきこく飛行機ひこうきへの攻撃こうげき軍民ぐんみん武装ぶそう有無うむ通常つうじょうわない)は撃墜げきついする命令めいれいていて、相手あいて鈍重どんじゅう輸送ゆそうであり、容易ようい撃墜げきつい可能かのう相手あいてではあったが、坂井さかいはこのてき重要じゅうよう人物じんぶつっているのではないかとうたがい、りにすることかんがえたため、日本にっぽん基地きち誘導ゆうどうするために輸送ゆそうよこならんだとき輸送ゆそうまどふるえ慄くははむすめおもわれる乗客じょうきゃくたちがえることにづき、それが青山学院あおやまがくいん中等ちゅうとう時代じだい英語えいごおし親切しんせつにしてくれたアメリカじんのマーチン夫人ふじんていたため、さすがに闘志とうしえ、当該とうがい見逃みのがことめ、てきのパイロットにけと合図あいずしてがし、帰投きとう上官じょうかんには「くもちゅう見失みうしなう」と報告ほうこくしたとかたっている。それ以前いぜん著書ちょしょでは、輸送ゆそう捕虜ほりょにしようと威嚇いかく射撃しゃげきおこなったが、断雲だんうん利用りようしてぜんそくげられたといていたが、その理由りゆうは、『坂井さかい三郎さぶろう空戦くうせん記録きろく』の執筆しっぴつりかかった昭和しょうわ25ねんは、占領せんりょうでマッカーサー司令しれい戦犯せんぱん追及ついきゅうをしていたので、かかわりいになりたくないとおもったからとべている[13]坂井さかい主張しゅちょうとはべつに、「海外かいがい調しらべで機内きないから坂井さかいていたオランダじんもと従軍じゅうぐん看護かんご生存せいぞん確認かくにんされた」、「看護かんごが「あのパイロットにいたい」と赤十字せきじゅうじとう団体だんたいつうじて照会しょうかいして坂井さかいかり再会さいかいした」、「看護かんご坂井さかい著書ちょしょんで再会さいかいして日時にちじ両者りょうしゃ記憶きおく一致いっちたがいの無事ぶじよろこった」などの詳細しょうさい不明ふめい後日ごじつだん様々さまざまかたち主張しゅちょうされている。しかし戦闘せんとう行動こうどう調書ちょうしょによると、著書ちょしょ記載きさいされた2がつ25にち輸送ゆそう船団せんだん上空じょうくう直衛なおえ任務にんむについており、2がつ18にち、25にちともに輸送ゆそう発見はっけんしておらず、またべつにも坂井さかい輸送ゆそう発見はっけんしたような出撃しゅつげき記録きろくはない[14]

2がつ28にちには、バリ島ばりとうデンパサール基地きちより出撃しゅつげきし、ジャワ島じゃわとうマラン西方せいほうの6,000メートル上空じょうくうで、らんしるしぐんブルースターF2Aバッファロー戦闘せんとう(C.A.フォンク少尉しょうい)をひだり垂直すいちょく旋回せんかいから発射はっしゃ機銃きじゅうだん160はつ撃墜げきつい

ラバウル方面ほうめん[編集へんしゅう]

ラバウル時代じだい坂井さかい三郎さぶろう搭乗とうじょう「A6Mれいせん V-173ごう
オーストラリア戦争せんそう記念きねんかん

1942ねん4がつ1にちたいみなみそらだい25航空こうくう戦隊せんたい編入へんにゅうされ、ラバウル方面ほうめん移動いどうする。4月16にちたいみなみそらニューブリテンとうラバウル進出しんしゅつ。17にち、ラバウルの前進ぜんしん基地きちとなるニューギニアとう東部とうぶラエ基地きち進出しんしゅつ。この基地きちから連合れんごう国軍こくぐんべいごうぐん)のポートモレスビー基地きちまで近距離きんきょりであり、たいみなみそらは、ポートモレスビー攻撃こうげき連合れんごうぐんのラエ基地きちばくげき邀撃ようげき従事じゅうじする。このころ坂井さかい遠方えんぽうから油断ゆだんした単独たんどくてき発見はっけんし、うしろにまわって死角しかくである胴体どうたい真下ましたからかくれながら高度こうどげて接近せっきんし、優位ゆうい位置いちめることに成功せいこうするうんのいいめぐわせがよくあり、たいないでは坂井さかいひろ戦法せんぽうわらばなしになったという[15]

1942ねん昭和しょうわ17ねん)5がつ27にち飛行ひこう隊長たいちょう中島なかじまただし少佐しょうさ指揮しきれいせん18によるモレスビー攻撃こうげき参加さんか。620ふんラエを発進はっしんし、小規模しょうきぼ空戦くうせんをしたのちおな中隊ちゅうたい西沢にしざわ広義ひろよし太田おおた敏夫としおの3にんでひそかにわせていたとおり、中隊ちゅうたい離脱りだつし、無断むだんポートモレスビーのセブンマイル飛行場ひこうじょう上空じょうくうにてさんかい連続れんぞく編隊へんたい宙返ちゅうがえりをおこなった。てきがわはこれをてんれと見物けんぶつしていたらしく攻撃こうげきされることはかったが、後日ごじつてきがわから賞賛しょうさん手紙てがみ基地きちとどいたため、上官じょうかん笹井ささいに「けしからん」としかられた、と坂井さかいかたっている。坂井さかい自伝じでんとして海外かいがい出版しゅっぱんされた『SAMURAI』では5月17にち出来事できごととしている。『SAMURAI』の共著きょうちょしゃのマーティン・ケイディンは戦後せんご当時とうじポートモレスビーにいたある米兵べいへいからそれを目撃もくげきしたことをいたと主張しゅちょうしている。しかし、戦闘せんとう行動こうどう調書ちょうしょによれば、5月17にちは1145ふんに13がラエに帰着きちゃく、2がサラモアに帰着きちゃくし、5月27にち攻撃こうげき山下やました政雄まさお指揮しきれいせん27がラエから850ふん発進はっしんしてモレスビー上空じょうくう交戦こうせん、1130ふんぜんがラエに帰着きちゃくしており、さらにいずれも坂井さかい小隊しょうたいちょうであり、3にんおな中隊ちゅうたい所属しょぞくしていなかった。坂井さかい著作ちょさく主張しゅちょうした6がつ25にちには太田おおた出撃しゅつげきしていない。そのわせて日本にっぽんでも連合れんごうぐんでも坂井さかいたちがべつ行動こうどうをとった記録きろくはない[16]

1942ねん6がつ9にち来襲らいしゅうするてき爆撃ばくげき迎撃げいげき参加さんかのちアメリカ大統領だいとうりょうとなったリンドン・B・ジョンソン下院かいん議員ぎいん時代じだいB-26マローダーばくげき同乗どうじょうしてこの戦闘せんとう参加さんかし、撃墜げきついされかけたとかたっているが、ジョンソンの搭乗とうじょうは、エンジントラブルでかえしており、議員ぎいん安全あんぜん優先ゆうせんさせたためか、ばくだん投下とうかしておらず、戦闘せんとうには参加さんかしていないとの公式こうしき記録きろくがある[17]

負傷ふしょう[編集へんしゅう]

負傷ふしょうして戦闘せんとうから帰還きかんした直後ちょくご撮影さつえいした写真しゃしん

1942ねん昭和しょうわ17ねん)8がつ7にち、ガダルカナル攻撃こうげき参加さんか。アメリカ海軍かいぐんジェームズ・“パグ”・サザーランドF4Fワイルドキャットとの戦闘せんとうがあった。坂井さかい三郎さぶろういわく、はぐれたれつ柿本かきもとえん羽藤はとう一志かずしいちのグラマンにわれていたのでたすけにはいり、単機たんきともえせんすえ撃墜げきついしたとのこと[18]。しかし、サザーランドいわく、りくおさむとの戦闘せんとう被弾ひだんした結果けっか、グラマンはくろけむりき、機銃きじゅう故障こしょうした状態じょうたいれいせん4われるなか火災かさい発生はっせいしたので落下傘らっかさん脱出だっしゅつしたとのこと[19]戦後せんごこのグラマンを調しらべた結果けっか機銃きじゅう故障こしょうなどサザーランドの証言しょうげん一致いっちした。日本にっぽん戦闘せんとう詳報しょうほうでは、坂井さかい三郎さぶろうれつ羽藤はとう、そしてべつたい山崎やまざき市郎いちろうたいらによる共同きょうどう撃墜げきついとなっている[20]

この戦闘せんとうからの帰路きろガダルカナルとう上空じょうくうにおいて、坂井さかいSBDドーントレス艦上かんじょう偵察ていさつ爆撃ばくげき編隊へんたい油断ゆだんして直線ちょくせん飛行ひこうしているF4Fの編隊へんたい誤認ごにんして不用意ふようい至近しきん距離きょりまで接近せっきんしたため、坂井さかい回避かいひもままならないままSBDの7.62mm後部こうぶ旋回せんかい連装れんそう機銃きじゅう集中しゅうちゅう砲火ほうかびた。坂井さかい右前みぎまえ頭部とうぶ挫傷ざしょうしてひだり半身はんしん麻痺まひし、くわえて右目みぎめ負傷ふしょう。(左目ひだりめ視力しりょくおおきく低下ていか計器けいきすら満足まんぞくえないという重傷じゅうしょうった。

坂井さかい被弾ひだんのショックのため失神しっしんしたが、海面かいめんけて急降下きゅうこうかしていた機体きたい半分はんぶん無意識むいしき状態じょうたい水平すいへい飛行ひこう回復かいふくさせている。一時いちじ負傷ふしょう状態じょうたいから帰還きかん無理むりかんがえて体当たいあたりを画策かくさくするが敵艦てきかん発見はっけんできず、帰還きかん決意けつい。まず止血しけつおこな出血しゅっけつ多量たりょうによる意識いしき喪失そうしつかえしながらも、やく4あいだわた操縦そうじゅうつづけてラバウルまでたどりき、奇跡きせきてき生還せいかんたした。正常せいじょう着陸ちゃくりく操作そうさができる状態じょうたいではなかったため、降下こうかかく進入しんにゅう速度そくどのみをコントロールし、椰子やしおなたかさにとき、エンジンをあしって惰性だせい着陸ちゃくりくするという方法ほうほうった。周回しゅうかいをあと1かいおこなっていたら、燃料ねんりょうれで墜落ついらくしていたとわれるほどきわどいものであったとかたっている。丹羽にわ文雄ふみおじゅう巡洋艦じゅんようかん鳥海とりうみからびっくりするほど低空ていくう飛行ひこうしているれいせん目撃もくげきしたとしるしているが、これは日時にちじちが坂井さかいではない[21]

坂井さかいけたきずはラバウルの軍医ぐんいでは治療ちりょうできず、内地ないち送還そうかん坂井さかいは、笹井ささいあつしいちから「貴様きさまわかれるのは、貴様きさまよりもつらいぞ」とわれ、とら千里せんりおこなって千里せんりかえるという縁起えんぎから坂井さかいがまたかえってるように、笹井ささいちちからもらったとらのベルトバックルをわたされたという。その笹井ささい戦死せんししたが、がっかりするだろうからという理由りゆう坂井さかいには半年はんとしあいだらされず、ったときは自分じぶんがついていたらなせなかったのにと地団太じだんだおもいがしたという[22]

横須賀よこすか海軍かいぐん病院びょういん手術しゅじゅつけたが、右目みぎめ視力しりょくをほぼうしなひだりも0.7にまでち、ひだり半身はんしんしびれた状態じょうたいだった。右目みぎめ視力しりょくうしなったことにより、搭乗とうじょういんはもちろん軍人ぐんじんとしてさえ勤務きんむはできないであろうから軍人ぐんじんめるように宣告せんこくされた。市中しちゅうでの生計せいけい手段しゅだんとして指圧しあつ按摩あんまみちすすめられ、研修けんしゅうけていたが、転職てんしょくするまえ転院てんいんすることになった[23]佐世保させぼ病院びょういんうつされたときに、ラバウルより帰国きこくしてさい編成へんせいちゅう251そら改称かいしょうたいみなみそら)にった坂井さかいは、司令しれいになっていた小園こぞのやすしめい中佐ちゅうさたいして「片目かためでも空戦くうせん経験けいけんすくない戦闘せんとうりよりも、わたし使つかえるとおもう」と説得せっとくした。軍医ぐんい反対はんたいしたが、小園こぞの訓練くんれんてみて具合ぐあいわるくてべなくても教官きょうかんにするとったことから、坂井さかい航空こうくうたいまることになった[24]たいみなみそら内地ないち訓練くんれんするあいだ坂井さかい後輩こうはいたちをバットでなぐ指導しどうもあった。坂井さかいはラバウルでは10がつになると死者ししゃて、内地ないちおしえる時間じかんがないからまずいたたかいをしたやつはなぐった、なぐると反省はんせいするから効果こうかがあったとかたっている[25]

1942ねん10がつ飛行ひこうへい曹長そうちょう昇進しょうしん1943ねん昭和しょうわ18ねん)2がつ豊橋とよはし航空こうくうたい搭乗とうじょういん復帰ふっきして訓練くんれんおこなったが、ラバウル進出しんしゅつ直前ちょくぜん1943ねん昭和しょうわ18ねん)4がつ大村おおむら航空こうくうたい異動いどう教官きょうかん配属はいぞくされる[26]

硫黄いおうとう[編集へんしゅう]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)4がつ13にち横須賀よこすか海軍かいぐん航空こうくうたい配属はいぞくたいみなみそら上官じょうかんだった中島なかじまただし少佐しょうさによって、大村おおむらそら教官きょうかんをしていた坂井さかい横須賀よこすかそらせられた。

戦況せんきょう悪化あっか絶対ぜったい国防こくぼうけん重要じゅうよう一角いっかくであったサイパンとうへのべいぐん上陸じょうりくけ、横須賀よこすか航空こうくうたい出撃しゅつげき命令めいれいくだり、1944ねん昭和しょうわ19ねん)6がつ22にち中島なかじまただし少佐しょうさ指揮しきれいせん27参加さんかし、硫黄いおうとう進出しんしゅつ中島なかじま訓練くんれんかぎ坂井さかいたたかえるところまでなおっているとかんがえ、わかいパイロットを元気げんきづけるためにもてほしいとたのまれたことで、坂井さかい右目みぎめ視力しりょく完全かんぜんなおっていない状態じょうたい前線ぜんせんもどることになった。よこそら派遣はけん部隊ぶたいは、硫黄いおうとう防衛ぼうえいくわえ、マリアナおき海戦かいせん勝利しょうりしたばかりで、マリアナ諸島しょとうおき展開てんかいべい海軍かいぐん機動きどう部隊ぶたいだい58任務にんむ部隊ぶたい)を攻撃こうげきすることも視野しやれつつ、三沢みさわ基地きちねりなりちゅうだった252そらともに、れいせんほか艦上かんじょう攻撃こうげき天山てんざん艦上かんじょう爆撃ばくげき彗星すいせいふくめて急遽きゅうきょ編成へんせいされた「八幡やはた空襲くうしゅう部隊ぶたい」の傘下さんかくわえられた。

坂井さかい著書ちょしょでは、6月24にち、7がつ4にち、7がつ5にち硫黄いおうとう戦闘せんとうしたことになっている[27]戦闘せんとう詳報しょうほうによれば、硫黄いおうとう坂井さかい参戦さんせんしたのは、6月24にちてき艦上かんじょう邀撃ようげき戦闘せんとう攻撃こうげきたい援護えんごだけである[28]

まだ八幡やはた空襲くうしゅう部隊ぶたい硫黄いおうとう移動いどう集結しゅうけつちゅうであった6がつ24にち早朝そうちょうべい海軍かいぐんだい58任務にんむ部隊ぶたいだい1ぐんのVF-1、VF-2、VF-50航空こうくうたいグラマンF6F ヘルキャット戦闘せんとうやく70が、空母くうぼホーネット空母くうぼヨークタウン空母くうぼバターンはつかんして硫黄いおうとう来襲らいしゅう。これをレーダー探知たんちして、横須賀よこすかそらの25、そして252そら301そら戦闘せんとう601飛行ひこうたい)の32合計ごうけい57戦闘せんとうが620ふん硫黄いおうとう上空じょうくう迎撃げいげきがる。梅雨つゆ前線ぜんせん影響えいきょう高度こうど4せんメートル付近ふきんあつくもそうめるなか、迎撃げいげき雲上うんじょうくもかれ、7,8れた坂井さかいくもぐみは、離陸りりく硫黄いおうとう西岸せいがんくも高度こうど3せんメートルを急上昇きゅうじょうしょうちゅうのところ、はやくもこの時点じてん侵攻しんこうしてきたF6Fヘルキャット戦闘せんとうぐん遭遇そうぐう坂井さかいぞくするくもぐみ離陸りりく順番じゅんばんおそかったことで、予定よてい高度こうどをとれず、硫黄いおうとう防空ぼうくうせん突入とつにゅうする。坂井さかいいち旋回せんかいせんになってひだりひねりみにさそいこみともえせん撃墜げきつい[29]視界しかいかない右側みぎがわ後方こうほうから、不意ふいてき戦闘せんとう射撃しゃげきけていることに気付きづき、途中とちゅうから、かたバンドをはずしてなん右側みぎがわかえって右側みぎがわ視界しかいおぎないつつ撃墜げきつい合計ごうけいでF6Fヘルキャット戦闘せんとう2撃墜げきついしたという[30]

坂井さかいはこの空戦くうせん終了しゅうりょうに、視力しりょく不足ふそくから、母艦ぼかん帰還きかんするF6Fヘルキャット戦闘せんとう編隊へんたい味方みかたれいせん誤認ごにんして編隊へんたいくわわり、てき戦闘せんとう15包囲ほういされたという。一方いっぽう上空じょうくうからの目撃もくげき証言しょうげんによれば、坂井さかいかこまれたのは4のラフベリーサークルであったという[31]坂井さかいひだり旋回せんかいだけでげたとはなしているが、目撃もくげき証言しょうげんによれば、みぎひだりげていたという。戦後せんご坂井さかいはアメリカで攻撃こうげきしてきたのこりと出会であい、坂井さかいかたなら100のグラマンでかかってもとせないと賞賛しょうさんされたとかたっている[32]

この早朝そうちょう迎撃げいげきせん坂井さかい小隊しょうたい所属しょぞくした僚機の柏木かしわぎよしいち曹と野口のぐちひさしちょう帰還きかんになっている[28]

当時とうじ記録きろくでは、最初さいしょ迎撃げいげきせんおこなわれた6がつ24にち午後ごごべい機動きどう部隊ぶたい攻撃こうげき発進はっしん、1635ふんウラカスとう北東ほくとう50海里かいり高度こうど4,500mにおいて、30以上いじょうのF6Fヘルキャットに迎撃げいげきける。編成へんせいれいせん23彗星すいせいかんばく3天山あまやまかんおさむ9うちよこそられい戦隊せんたいは9戦闘せんとうたい指揮しきかんは、山口やまぐち定夫さだお大尉たいいだい小隊しょうたいちょうだいいち雄大ゆうだいじょうだいさん小隊しょうたいちょう坂井さかい。)となっている[28]

しかし、坂井さかい著書ちょしょでは、迎撃げいげき戦後せんご体調たいちょう不良ふりょうのため、数日すうじつ地上ちじょう待機たいきめいじられ[33]、7がつ5にち天山てんざん8れいせん9合計ごうけい17で、べい機動きどう部隊ぶたい攻撃こうげきけ、硫黄いおうとう基地きち出撃しゅつげき戦闘せんとうたい指揮しきかんは、山口やまぐち定夫さだお大尉たいいだい小隊しょうたいちょう坂井さかいだいさん小隊しょうたいちょう武藤むとう曹長そうちょう出撃しゅつげきまえ横須賀よこすかそら司令しれい三浦みうら鑑三かんぞう大佐たいさより、「本日ほんじつ絶対ぜったい空中くうちゅう戦闘せんとうおこなってはならない。雷撃らいげき魚雷ぎょらいとしてはならない。戦闘せんとう雷撃らいげきうって一丸いちがんとなってぜんてき航空こうくう母艦ぼかん舷側げんそく体当たいあたりせよ。」との訓示くんじがなされ、特攻とっこう命令めいれいくだされたといている[34]攻撃こうげきたいべいがわレーダーにより捕捉ほそくされてき攻撃こうげきされた。命令めいれいにてれい戦隊せんたい空戦くうせんもできぬまま、天山てんざん次々つぎつぎだい爆発ばくはつこし、撃墜げきついされてしまう。坂井さかい反撃はんげきして、F6Fヘルキャット1撃墜げきつい[35]。そのあいだ武藤むとうともはぐれた坂井さかい小隊しょうたい3は、てき艦隊かんたいつづ捜索そうさくするがかなわず、坂井さかい硫黄いおうとうへの帰還きかん決意けついする。ただ、片道かたみち前提ぜんていに、帰路きろまった念頭ねんとういていなかった状況じょうきょうで、正確せいかく現在地げんざいちもつかめず、日没にちぼつせまるなか、硫黄いおうとうへの帰還きかん絶望ぜつぼうてきであったが、坂井さかい長年ながねんかんで、日没にちぼつ奇跡きせきてき硫黄いおうとうへの帰還きかんたす。坂井さかいは、ばん志賀しが正美まさみじょう曹とさんばん馬場ばば八郎はちろうちょうとともに暗闇くらやみ飛行場ひこうじょうで、さき帰還きかんした武藤むとう曹長そうちょう再会さいかい坂井さかい武藤むとう報告ほうこくくと、三浦みうら大佐たいさ状況じょうきょう報告ほうこくいたのち御苦労ごくろう」の一言ひとことがあっただけだった。坂井さかいたちが生還せいかんしたことでかえって後味あとあじわるおもいとなっているのではないかとかたられている[36]

当時とうじ戦闘せんとう詳報しょうほうでは、攻撃こうげきたい総合そうごう被害ひがい帰還きかんれいせん10 天山あまやまかんおさむ7うちよこそら被害ひがい帰還きかんれいせん4天山あまやまかんおさむ7)である。坂井さかい著書ちょしょ戦死せんししたとされている山口やまぐち大尉たいいは、この攻撃こうげきでは戦死せんししておらず、山口やまぐち大尉たいい戦死せんしは「7がつ4にち」のだいよん硫黄いおうとう上空じょうくう邀撃ようげきせんであり、同日どうじつ午後ごごべい艦隊かんたいかんほう射撃しゃげきにより残存ざんそんぜん破壊はかいされている。また、7がつ5にちべい機動きどう部隊ぶたいたいする攻撃こうげきおこなわれた公式こうしき記録きろく[28]

少尉しょうい時代じだい[編集へんしゅう]

硫黄いおうとうから帰還きかん1944ねん昭和しょうわ19ねん)8がつ少尉しょうい特務とくむ士官しかんたる少尉しょうい)に昇進しょうしん同年どうねん12がつだいさんよんさん海軍かいぐん航空こうくうたい通称つうしょうけん部隊ぶたい以後いご、343そらとする)戦闘せんとうなないち飛行ひこうたい維新いしんたい』に配属はいぞく。343そら装備そうびするさい新鋭しんえい戦闘せんとう紫電しでんあらため操縦そうじゅうなどの指導しどうたる。 紫電しでんあらためについては、航続力こうぞくりょくがないてんからみればきゅうろくかんせん時代じだい逆戻ぎゃくもどりしたかんがあるが、きわめて斬新ざんしん設計せっけい空戦くうせんフラップ)がほどこされた優秀ゆうしゅう戦闘せんとうひょうしていたが[37]晩年ばんねんには「せいそら戦闘せんとうとも局地きょくち戦闘せんとうともいえない中途半端ちゅうとはんぱ戦闘せんとう」と批判ひはんてきになっている[38]

指導しどうたった坂井さかい空戦くうせん講話こうわをやったが、激戦げきせん経験けいけんした若者わかものには不評ふひょうだった。いわゆる昔語むかしがたりにぎず、暴力ぼうりょくをたびたびるったことも反感はんかんった[39]とく坂井さかいより8つ年下とししたでありながら坂井さかい撃墜げきついすうえる杉田すぎた庄一しょういちは、大村おおむらそらでも坂井さかい一緒いっしょだったが、杉田すぎた坂井さかい前線ぜんせんから退しりぞいたのちもずっとちぬいてきたほこりがあった。また杉田すぎた後輩こうはいたいして鉄拳てっけん制裁せいさいこのまず面倒めんどうやさしい性格せいかくだったことから、自分じぶんよりわか搭乗とうじょういんたちをことごとくジャク(未熟みじゅくしゃばわりする坂井さかいきらい、「坂井さかいてきがまだよわかったころしからない、坂井さかいがいなくなったのちほう大変たいへんであった」とって坂井さかい対立たいりつした。343そらでも杉田すぎたは「れいせんまさしく整備せいび調整ちょうせいされていれば、たとえはなしてんでも、上昇じょうしょう下降かこうかえしてやがて水平すいへい飛行ひこうもどる。意識いしきうしなって背面はいめん状態じょうたいはいり、それがつづくなんてことはない。だいたい、意識いしきがないのにどうしてくわしい状況じょうきょうはなせるんだ」と坂井さかいのガダルカナル上空じょうくう負傷ふしょうしたはなし批判ひはんし、「あんなインチキなことうやつ(坂井さかい)はぶんなぐってやる」と公言こうげんしていた。飛行ひこうちょう志賀しが淑雄としお少佐しょうさ一触即発いっしょくそくはつ状態じょうたい苦慮くりょし、空戦くうせん使つかえる杉田すぎたのこし、坂井さかい経験けいけんかすため飛行ひこう実験じっけん任務にんむとしているよこそら武藤むとう金義かねよしとの交換こうかんかたち異動いどうさせることにした[40]。これにたいよこそら反発はんぱつし、とく塚本つかもと祐造ゆうぞうは、片目かためえない坂井さかい武藤むとう交換こうかんわりにあわない、よこそら飛行ひこう実験じっけんだけが任務にんむではないとして、もう反発はんぱつした。結局けっきょく野口のぐちあつし次郎じろう少尉しょういけての2たい1の交換こうかんでまとまった[41]交換こうかんされた武藤むとう金義かねよし少尉しょうい豊後水道ぶんごすいどう上空じょうくう空戦くうせんにおいて戦死せんししたため、坂井さかい武藤むとう少尉しょうい自分じぶん身代みがわりになって戦死せんししたようにかんじるとかたっている。

1945ねん8がつ15にち日本にっぽんポツダム宣言せんげん受諾じゅだく松田まつだ千秋ちあき司令しれいは、じゅん士官しかん以上いじょう講堂こうどう集合しゅうごうさせ、「残念ざんねんではあるが日本にっぽん降伏ごうぶくすることになった。しかし、厚木あつぎ、その航空こうくうたいでは、徹底てってい抗戦こうせんさけんで降伏ごうぶくをがえんじないようであるが、うち(よこそら)はこれにはくわわらぬ。諸君しょくん無念むねんではあろうが、軽挙妄動けいきょもうどうしてはならぬ」といましめた[42]。しかし、晩年ばんねんになると坂井さかいは、よこそら無条件むじょうけん降伏ごうぶく納得なっとくせず厚木あつぎ航空こうくうたい同調どうちょうし、松田まつだ司令しれい徹底てってい抗戦こうせんさけんでパイロットもがなく、やってくる航空機こうくうきたいする攻撃こうげき国際こくさいほううえ正当せいとう防衛ぼうえいき、8がつ17にち機種きしゅもくれずれいせん52がた出撃しゅつげきしたとかたっている[43]

1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ17にち、アメリカぐんをはじめとする連合れんごう国軍こくぐんによる占領せんりょう沖縄おきなわ基地きちから日本にっぽん本土ほんど偵察ていさつのため上空じょうくう写真しゃしん撮影さつえい飛来ひらいしていたB-32ドミネーター2多数たすう日本にっぽん海軍かいぐん襲撃しゅうげきして房総半島ぼうそうはんとうから伊豆諸島いずしょとう上空じょうくう交戦こうせんしただい世界せかい大戦たいせん最後さいご空中くうちゅうせんがあった。坂井さかいもまたこのとき出撃しゅつげきしており、れいせん交戦こうせんしたともされる。空戦くうせん結果けっかはB-32の搭乗とうじょういん1めい戦死せんし、2めい負傷ふしょう。ダメージをった機体きたい沖縄おきなわ退しりぞいた。この戦闘せんとうでの死者ししゃがアメリカぐん兵士へいしだい世界せかい大戦たいせんでの最後さいご戦死せんしものとなった。この空戦くうせん参加さんかした小町こまちじょうは「紫電しでんですらいかけるのに苦労くろうしたのに、れいせんでは無理むり」のような趣旨しゅし発言はつげんをして、離陸りりくした坂井さかい攻撃こうげきには参加さんかできなかったことを示唆しさしている[44] 一方いっぽうで、大原おおはら亮治りょうじ上等じょうとう飛行ひこう兵曹へいそうれいせん52がた同日どうじつにB-32を迎撃げいげきし、さんげきまでをくわえたことを証言しょうげんしている。小町こまち大原おおはら証言しょうげんほんにまとめた神立かんだつ尚紀なおきは、この飛来ひらいしたB-32は複数ふくすうだったらしく、小町こまち大原おおはら迎撃げいげきしたのはそれぞれべつ機体きたいであろうと解釈かいしゃくしている[44]

9月5にちポツダム進級しんきゅうにより海軍かいぐん中尉ちゅうい

戦後せんご[編集へんしゅう]

戦後せんごは、笹井ささいあつしいち親戚しんせき大西おおにしたき治郎じろうつまである大西おおにし淑恵よしえ社長しゃちょう依頼いらいして印刷いんさつ会社かいしゃ経営けいえいした。1945ねん12月、AP通信つうしんしゃ東京とうきょう支局しきょくちょうのラッセル・ブラインズが日本にっぽん撃墜げきついおういたいと復員ふくいんしょう依頼いらいし、中島なかじまただし中佐ちゅうさ推薦すいせんにより、東京とうきょう在住ざいじゅう連絡れんらくれるということで、きわだって目立めだ存在そんざいではなかった坂井さかい紹介しょうかいされた。そのえんぶくはやし正之まさゆきにも紹介しょうかいされ、坂井さかい著書ちょしょ出版しゅっぱんされることになった[45]。そのもさまざまな著書ちょしょ出版しゅっぱんし、『SAMURAI!!』が海外かいがいれたことや一人娘ひとりむすめがアメリカ軍人ぐんじん結婚けっこんしたことにより、渡米とべいする機会きかいるようになった。

戦後せんご坂井さかいもと部下ぶか内村うちむら健一けんいちはじめたねずみこう組織そしきである天下てんか一家いっかかい参加さんかし、ほとんどのもと下士官かしかん搭乗とうじょういんたちを勧誘かんゆうして被害ひがいすなど広告塔こうこくとうてき存在そんざいとなっていた。訴訟そしょう相次あいついだが、規制きせいする法律ほうりつわず、ねずみこう社会しゃかい問題もんだいしていた。当時とうじ頻繁ひんぱん宗教しゅうきょう法人ほうじん映画えいがによって広報こうほう活動かつどうおこなっており、1976ねん昭和しょうわ51ねん)、坂井さかいの『大空おおぞらのサムライ』が天下てんか一家いっかかい宗教しゅうきょう法人ほうじん大観たいかんみや」(大観たいかんプロダクション)から資金しきん提供ていきょうけて制作せいさくされた。れいせんにねずみこうのイメージがくことを嫌悪けんおしたもとれいせん搭乗とうじょういんたちが「れいせん搭乗とうじょういんかい」を一度いちど解散かいさんして、あらたに「れいせん搭乗とうじょういんかい」を設立せつりつする事態じたいまでこった[46]。このことで坂井さかいはますます居場所いばしょをなくしてしまった。

1983ねん、アラバマしゅう空軍くうぐん航空こうくう200ねんさい招待しょうたいされた坂井さかいは、原爆げんばく投下とうか指揮しき立案りつあんをしたポール・ティベッツ軍人ぐんじんとして命令めいれい原爆げんばく投下とうか作戦さくせん)を遂行すいこうしたことをしょうさんし、坂井さかい原爆げんばく投下とうか命令めいれいされれば実行じっこうしたと発言はつげんして、二人ふたり握手あくしゅした。この発言はつげん被爆ひばくしゃたちからは非難ひなんこえがった。もっとも坂井さかいは、原爆げんばく投下とうか道義どうぎてき責任せきにんハリー・S・トルーマン大統領だいとうりょうにあるとはなしてティベッツの個人こじんてき責任せきにん追及ついきゅうしなかっただけで、原爆げんばく投下とうかそれ自体じたい問題もんだいしとしたわけではない。

1987ねん7がつ、ワシントンしゅうシャトルで、エクスペリメンタル手作てづくりのプラスティック飛行機ひこうき)でスタントを体験たいけんする機会きかいた。いたパイロットがいま飛行機ひこうき見事みごと操縦そうじゅうしたこと賞賛しょうさんけるも、坂井さかい戦争せんそう以来いらいのGに胃袋いぶくろはらそこびきったようなかんじがしたとかたっている[47]ノースアメリカンP-51ムスタング操縦そうじゅうしたとき一般人いっぱんじんでも教官きょうかん同乗どうじょうすることで、訓練くんれんようふくがたであるTF-51の操縦そうじゅう桿をにぎることができる体験たいけん飛行ひこうがある)は、感想かんそうとしてその性能せいのう脱帽だつぼうしたとっている。

東大とうだい教授きょうじゅ加藤かとうひろし一郎いちろう航空こうくう自衛隊じえいたい取材しゅざいしたさいには、遠回とおまわしに「坂井さかい三郎さぶろうにはちかづきすぎないほうがいい」という注意ちゅういけたという[48]航空こうくう自衛隊じえいたい士官しかんあるいは幹部かんぶ空自くうじのパイロットはすべ幹部かんぶ)は組織そしきせんこのみ、たたかいを組織そしきたたかいとかんがえているので、かれらから「自己じこ宣伝せんでんをしすぎる」「宣伝せんでん上手じょうずすぎる」「たんなる職人しょくにん」「自分じぶんのためだけにたたかっていた」とられる坂井さかいこう印象いんしょうたれていない。坂井さかいよりうでのいい戦闘せんとうりはたくさんいたが坂井さかいだけが有名ゆうめいになっていたとかんがえているひともいた[49]。なお、「坂井さかいたんなる職人しょくにん」という批判ひはん坂井さかいは、「それこそが我々われわれほこりである。それによってのみ、我々われわれ存在そんざい意義いぎしめせるのだ」とかたっている[50]

1995年代ねんだいごろ坂井さかいへの関心かんしんうすれており、当時とうじ坂井さかい漫画まんが連載れんさい開始かいしした「ミスターマガジン編集へんしゅうによれば、読者どくしゃ坂井さかい三郎さぶろう名前なまえすらまったらなかったという[51]。また、アメリカでもほんれたはずの坂井さかいべい海軍かいぐん招待しょうたいされることはなく、厚木あつぎ横須賀よこすかべい海軍かいぐんでも、れいせんパイロットとくらべて関心かんしんひくかった。あるときから坂井さかい招待しょうたいされるようになったのだが、はじめのうちは、アメリカのパイロットたちはみんな大原おおはら亮治りょうじってきて、坂井さかいのことはだれらなかったので大原おおはら一生懸命いっしょうけんめい先輩せんぱい坂井さかいてようとしていた[52]。しかし、坂井さかい週刊しゅうかんプレイボーイ人生じんせい相談そうだん連載れんさいなどを開始かいしし、プレイボーイ編集へんしゅうちょうなどの出版しゅっぱん関係かんけいしゃ坂井さかい三郎さぶろう宣伝せんでんする「れいかい」を結成けっせいして活動かつどう開始かいしした[53]。それから徐々じょじょ坂井さかい知名度ちめいど回復かいふくした。

マイクロソフト発売はつばいされた『Microsoft Combat Flight Simulator 2』(フライトシミュレータ)では、パイロット経験けいけんしゃ技術ぎじゅつしゃなどからの取材しゅざい参考さんこうにされており、坂井さかい取材しゅざい協力きょうりょくしている。完成かんせいあかつきには、おなじく取材しゅざい協力きょうりょくしたもとアメリカぐんパイロットとのゲームでの空中くうちゅうせん予定よていされていたが、完成かんせいまえ他界たかいした。

当時とうじかれ愛車あいしゃスカイラインGTをいにされ、「自動車じどうしゃれいせんはどっちがいいですか?」という質問しつもんに、「そりゃあ、くるまほうがよいにまっています。くるまはバックができますから」とこたえている。晩年ばんねんは「戦闘せんとうのように見晴みはらしがい」という理由りゆう初代しょだいロードスター愛車あいしゃとしていた。

坂井さかいは、最近さいきん若者わかものには向上心こうじょうしんりずだらしがないと苦言くげんていすることもあったが[54]、『あさまでなまテレビ!』に坂井さかい出演しゅつえんしたさいには、現在げんざい若者わかものへの苦言くげん期待きたいされた質問しつもんに、「自分じぶん時代じだいにもわかいやつはだめだとわれつづけた」とこたえて、スタジオない観覧かんらんしていた若者わかものから拍手はくしゅきた。 生前せいぜん自宅じたく玄関げんかんから階段かいだん付近ふきん鉄棒てつぼうわたし、ひまなときに懸垂けんすいやぶらがりをしていた。70さいぎて悠々ゆうゆう懸垂けんすい披露ひろうする姿すがたに、おおくの来客らいきゃく驚嘆きょうたんさせられた。

2000ねん平成へいせい12ねん)9がつ22にち坂井さかいべいぐん厚木あつぎ基地きち司令しれいかん交代こうたいしき招待しょうたいされたときにたおれた。帰途きとにつくさい体調たいちょう不良ふりょううったえたため、大事だいじをとっての検査けんさ入院にゅういんちゅう同日どうじつよる死去しきょ享年きょうねん84。検査けんさちゅう主治医しゅじい配慮はいりょして、「もうねむってもいか」とたずねたのが最期さいご言葉ことばとなった。坂井さかい葬儀そうぎのそばでもとれいせん搭乗とうじょういんが30めいほどあつまる会合かいごうもあったのに、坂井さかい生前せいぜんおこないもあり、もとれいせん搭乗とうじょういん参列さんれつしたのは4にんだけだった[55]れいせん搭乗とうじょういんたちからの反感はんかんゴーストライター存在そんざいねずみこう事件じけんなど批判ひはんのあった坂井さかい行動こうどうげている『祖父そふたちのれいせん』をんだむすめ道子みちこは、熱狂ねっきょうてきなファンにはききずてならないようにおもえるかもしれないが、すべちちである坂井さかい三郎さぶろうからいてっていたこととべている[56]

空戦くうせん[編集へんしゅう]

飛行ひこうふく坂井さかい三郎さぶろうかんこう飛行場ひこうじょう

成績せいせき[編集へんしゅう]

公認こうにん撃墜げきついすうは28[57]著書ちょしょなどにある撃墜げきついすう64という数字すうじはマーチン・ケイディンが宮本みやもと武蔵むさし真剣しんけん勝負しょうぶかずからけた数字すうじであり、作家さっか神立かんだつ尚紀なおき取材しゅざいたい坂井さかいは「実際じっさい撃墜げきついしたかずろくじゅうよんよりうんとすくないかもしれないし、もっとおおいかもしれない。」と把握はあくしていないことをべている[58][59]著書ちょしょなどにある出撃しゅつげき回数かいすうが200かいというのも事実じじつことなり、加藤かとうひろし一郎いちろう取材しゅざい坂井さかいもそれをみとめたが、「ただ、空戦くうせん回数かいすうは200かいぐらいあります。野球やきゅうにたとえますと、いち試合しあいでバッターボックスには4かいぐらいつ。だから空中くうちゅうせんも、ここでいちきゅう、こっちへてまたやってということで、なかなか回数かいすううのはかぞえられない」「この数字すうじすくないほう」とかたり、加藤かとうから「でも、それで(撃墜げきついの)最高さいこうすうをマークされたわけですね」と質問しつもんされると、坂井さかいは「だから(撃墜げきついの)かくりつ非常ひじょうたかかった」「けっきょく相手あいてがへぼだった」と返答へんとうしている[60]

戦後せんご坂井さかいは僚機を撃墜げきついされたことがないと主張しゅちょうしていた。しかし、1942ねん5がつ12にちてきから被弾ひだんした小林こばやし民夫たみお帰還きかんちゅう不時着ふじちゃく沈没ちんぼつ小林こばやし軽傷けいしょう)しており[61]、1944ねん6がつ24にちにはてき艦上かんじょう邀撃ようげき戦闘せんとう柏木かしわぎよしいち曹、野口のぐちひさしちょう帰還きかんになっている[28] など、実際じっさいのところは、坂井さかいの僚機は撃墜げきつい死亡しぼうしている。 この「僚機をころしたことがない」という自慢じまんたいして反発はんぱつするものもおり、「よい僚機にめぐまれたからのこれたんじゃないか。せめてひとこと感謝かんしゃ言葉ことばがあればもっと尊敬そんけいされたのに…」と批判ひはんもあった[62]坂井さかいの「ただのいち飛行機ひこうきこわしたことがない」という主張しゅちょうも、1941ねん12月12にち戦闘せんとう被弾ひだんして不時着ふじちゃくしたさい機体きたい修理しゅうり必要ひつようになっている[63] など、実際じっさい機体きたいこわしたことがある。てい燃費ねんぴ航行こうこうけ、最小さいしょう燃費ねんぴ最高さいこう記録きろく保持ほじしゃ自負じふしている。

戦法せんぽう[編集へんしゅう]

坂井さかい戦闘せんとうりが最後さいごたのみとするのは自分じぶんだけであるという。格闘かくとうせんいちをやる場合ばあい徹底的てっていてき頑張がんばりがなくてはいけない。かならてるという信念しんねん頑張がんばりぬいたもの空中くうちゅうせんてきひとで、つらいとおもうときは互角ごかくかむしろっているほうおおい。そのくるしい最後さいごのとき、へばったものがとされる運命うんめいであるという[64]。また、坂井さかい空中くうちゅうせん鉄則てっそくはまず見張みはりであり、てき発見はっけんしたら自分じぶんてるが相手あいててない位置いちもぐめ、空中くうちゅうせん牧羊ぼくようけんうごきとかんがえよという[65]格闘かくとうせんはいったら自分じぶん得意とくいわざむごとく操縦そうじゅうせよ。相手あいてはいったらわれてりだという。格闘かくとうせんとは自分じぶん不利ふりたされた最後さいごだとおもえ、相手あいてうごかさないぶつりこそ空中くうちゅうせん極意ごくいともいう[66]晩年ばんねんおこなわれた加藤かとうひろし一郎いちろう取材しゅざいでは、格闘かくとうせんとは窮地きゅうちはいったときの脱出だっしゅつほう心得こころえよ、空戦くうせんぶつりと心得こころえよというてん強調きょうちょうしていたという[67]坂井さかいは、きたえたことで2まんメートルから2まん5せんメートルさきてきえるようになったことがわり格闘かくとうせんをやらないで撃墜げきついできた理由りゆう主張しゅちょうしている。ドッグファイトでは自分じぶんもピンチになることがあるので、圧倒的あっとうてき有利ゆうりった奇襲きしゅういちげき先手せんてるという[68]著書ちょしょには「ひだりひねみ」で撃墜げきついする描写びょうしゃがみられるが、さい晩年ばんねん坂井さかいはただのいち実戦じっせんでは使つかったことがないと主張しゅちょうしている[69]坂井さかいは、死角しかくであり、づいてダイブするてきつばさかたむ背面はいめんになって絶好ぜっこう標的ひょうてきになるとしてのち下方かほうからの攻撃こうげきこのんだという[70]坂井さかいは、空戦くうせん空域くういきはいったさい見張みはかたを「まえを2、うしろを9」の割合わりあい索敵さくてきするという[71]坂井さかい水平すいへいせんよりうえ索敵さくてき得意とくいとしていたという。

空戦くうせん指導しどうかんして坂井さかいは、初心者しょしんしゃには相手あいてらいつきいよいよ機銃きじゅう発射はっしゃという直前ちょくぜんには後方こうほう確認かくにんするようにおしえ、そのうえものにはってくるつぎてき未来みらい位置いち想定そうていして攻撃こうげきをかわすようにおしえ、さらにうえしゃにはかわすだけではなくかえしてカウンターで撃墜げきついするようにおしえるとかたっている[72]

視力しりょくかんして、笹井ささい手紙てがみにある「坂井さかい三郎さぶろうというおとこあり、片目かため0.8ながら、なおかつわたしよりもてきはや発見はっけんし・・・」という記述きじゅつについてかれた坂井さかいは、ささえ事変じへん一度いちど負傷ふしょうしたさい破片はへん瞳孔どうこうのどなかさり、ワセリンでいてもらいえるようになったが、左目ひだりめ飛行機ひこうきりで最低さいていの0.8になったからで、右目みぎめ鍛錬たんれんでぐんぐん視力しりょくがよくなり、今度こんどはガダルカナルで右目みぎめをやられると左目ひだりめがぐんぐんえるようになったとかたっている[73]坂井さかい昼間ひるまほし視力しりょくきたえたと主張しゅちょうしているが、加藤かとうひろし一郎いちろうは「昼間ひるまほしえた」とは、みなみしまうえいてあたま固定こていして、星座せいざひょうほし位置いちをあらかじめたしかめておき、午後ごごからさんごろ、いつつかむっぼしえるという意味いみであろうという[74]

れいせん最大さいだい武器ぶきは20mm機銃きじゅうというせつたいし、坂井さかいは「20mmは初速しょそくおそく、ションベンだん」とひく評価ひょうかをしており、命中めいちゅうりつわるうえ携行けいこうだんすうも7.7mmよりすくなく、弾倉だんそう被弾ひだんしたら四散しさんするほどの誘爆ゆうばくおこ危険きけん指摘してきしている。しかし「てきつばさ一発いっぱつでも命中めいちゅうすれば、つばさぷたつになった」ともいい、その威力いりょくかんしては評価ひょうかもしている。自身じしんのスコアのほとんどは機首きしゅの7.7mm機銃きじゅうでのものだったとかたっている[75]。また、「ぜんえんいっぱいにいちさんミリほうくアメリカぐん戦闘せんとううらやましくおもった」とかたっている。

特攻とっこう作戦さくせんおもむ特攻隊とっこうたいいんたいしては、「おそかれはやかれ我々われわれかなきゃいかん。おそいかはやいかだよ。ただし、どうせくんだから命中めいちゅうしたいなぁ。それにはおれうことをけ。それには(角度かくどを)絶対ぜったいふかっちゃ駄目だめだよ」とこえをかけておくしていた[76]戦後せんご坂井さかい硫黄いおうとう特攻とっこうめいじられたことについて(実際じっさいめいじられた記録きろくはない)、特攻とっこう名誉めいよおも反面はんめん、「なぜおれが」という気持きもちがあったとかたっている[77]。また、「特攻とっこう士気しきがあがったと大本営だいほんえい発表はっぴょうしたがだいうそ。『絶対ぜったいぬ』作戦さくせん士気しきがあがるわけがなく、士気しきおおきくがった」ともこたえている[78]

著作ちょさく活動かつどう[編集へんしゅう]

坂井さかい戦後せんご出版しゅっぱんした著書ちょしょにはゴーストライターの存在そんざい指摘してきされている。作家さっか神立かんだつ尚紀なおき取材しゅざいでは、『坂井さかい三郎さぶろう空戦くうせん記録きろく』はぶくはやし正之まさゆき坂井さかいへの取材しゅざい独自どくじ取材しゅざいなどをもとにき、『SAMURAI!!』はフレッド・サイトウによる坂井さかいへのインタビューをもとにマーチン・ケイディンが脚色きゃくしょくしてき、『大空おおぞらのサムライ』は光人みつひとしゃ社長しゃちょう高城たかぎはじめがアメリカてき空戦くうせん活劇かつげきである『SAMURAI!!』を坂井さかい相談そうだんして日本にっぽんけになおしたことを坂井さかいみとめている[59][79]一方いっぽう東大とうだい教授きょうじゅ加藤かとうひろし一郎いちろう取材しゅざいでは、「著書ちょしょにはゴーストライターの存在そんざいうわさされるが、真実しんじつはいかに」といういにたいし、坂井さかいは「当初とうしょはそれをかんがえていたが飛行ひこうかんする部分ぶぶんがどうしても我慢がまんならず、結局けっきょくすべて自身じしんなおした」「一言ひとこといち自分じぶんく」また「なんなんなおす」とこたえている。ただし、かくエピソードの順番じゅんばんかんしては出版しゅっぱんしゃ意見いけんくこともあるとも回答かいとうしている[80]。しかしながら坂井さかい著書ちょしょ内容ないようは、それぞれの著書ちょしょあいだ実際じっさい記録きろくとのあいだでも矛盾むじゅんがいくつも指摘してきされている[81]

毎日新聞まいにちしんぶんによると、イラク政府せいふぐんのある部隊ぶたいでは、戦意せんい高揚こうようひとつとして、マーチン・ケイディンの『SAMURAI!!』をアラビア翻訳ほんやくしてパイロットに必読ひつどく義務付ぎむづけていたという[82]

作家さっか渡辺わたなべ洋二ようじは、だい2世界せかい大戦たいせん航空こうくう戦史せんし飛行機ひこうきふか関心かんしんわたしが、れいせん関係かんけいしゃをいくつもならべられるのは当然とうぜんだ。しかし搭乗とうじょういんめい関心かんしんおおきなじゅんかたっていくとしたら、坂井さかい三郎さぶろうはずいぶん後回あとまわしになってしまう。今日きょうにいたるまで坂井さかい取材しゅざいしたいとおもったことはないとかたっている[83]

晩年ばんねん太平洋戦争たいへいようせんそう研究けんきゅう自称じしょうして、日本にっぽんぐん上層じょうそうたいする批判ひはんおおられる。不時着ふじちゃくして捕虜ほりょとなったのち陸軍りくぐん救出きゅうしゅつされ帰還きかんしたりくおさむ隊員たいいんたいして、山本やまもと五十六いそろく連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん自爆じばく命令めいれいくだして5がつはじめにラエ基地きちにそのりくおさむ部隊ぶたいたときに坂井さかい批判ひはんしたと主張しゅちょうしているが[84]実際じっさいにはりくおさむ自爆じばく命令めいれいだい11航空こうくう艦隊かんたいから発令はつれいされ3がつ31にち実行じっこうされ坂井さかい接点せってんすらなかったなど坂井さかい批判ひはんには知識ちしきあやまりや虚偽きょぎられる[85]

また、坂井さかいもと上官じょうかんんで反論はんろんできなくなるたびにイニシャルを使つかってこきおろしたが、イニシャルがおな別人べつじんまであらぬ詮索せんさくをされ、上手うまいやりかたとはえなかった。また人間にんげんには相性あいしょうがあるので、坂井さかいきらっていた上官じょうかんにもしたっている部下ぶかはおり、坂井さかいが「てき」と名指なざしした士官しかんより、味方みかたであるはずの下士官かしかんへい搭乗とうじょういんからおおくの反感はんかんった[86]

坂井さかいは「どんな失策しっさくがあっても、政治せいじだい企業きぎょう経営けいえいしゃ責任せきにんをとらずに問題もんだいがうやむやになる今日きょう日本にっぽん状況じょうきょうは、そもそも天皇てんのう戦争せんそう責任せきにんきびしくわれていないからだ」とかえ主張しゅちょうしていた[87]。さらに坂井さかい日本人にっぽんじんいちおくそう寄生虫きせいちゅうひょうし、「戦後せんご日本にっぽん物質ぶっしつてき繁栄はんえいはアメリカに寄生きせいしてきたおかげです。日本人にっぽんじん勤勉きんべんさがどうとかいますが、これだけ繁栄はんえいすることができたのは幸運こううん一語いちごにつきます。(中略ちゅうりゃく韓国かんこく経済けいざいてきくるしかったとき、ぼく正煕せいき大統領だいとうりょう日本にっぽんに50おくドルの援助えんじょ依頼いらいした。大統領だいとうりょうはこうったそうです。「朝鮮ちょうせん戦争せんそう我々われわれ韓国かんこくじんながしてたたかったからいまの日本にっぽんがある。50おくドルくらいなんだ」と。それはそうなんです。ベトナムでもいちばんいさましかったのは韓国かんこくへいだった。戦死せんししゃおおかったのも韓国かんこくぐんだ。日本にっぽん戦後せんごながさず、あせながさず、なにもせずにひたすらかねもうけをしていた。(中略ちゅうりゃく日本にっぽんはなにもせず経済けいざい発展はってん邁進まいしんした結果けっか、アメリカの寄生虫きせいちゅうになってしまった。その寄生虫きせいちゅうがてんでに勝手かってなことをっている。高校こうこう大学だいがくでそういうことをおしえないと、日本にっぽんあやういとおもいます」と持論じろん展開てんかいしている[88]

坂井さかいには、「れいかい」という出版しゅっぱん関係かんけいしゃ組織そしきされた後援こうえん団体だんたい存在そんざいする(かいないでは「坂井さかいきょう」とばれている)。坂井さかい三郎さぶろう宣伝せんでん活動かつどう目的もくてきにして、坂井さかい死後しご活動かつどうしている[53]

戦記せんきぶつ漫画まんがいていたがれずにこまっていた水木みずきしげるに「戦記せんきぶつたなければダメだ」とアドバイスをおくっている。しかし、日本にっぽんぐん優位ゆういだった時期じき活躍かつやくし、劣勢れっせいには負傷ふしょうして退しりぞいていた坂井さかいたいし、けだしてから戦地せんちおくられたため劣勢れっせいしからない水木みずきは、なかなかアドバイスどおりに漫画まんがえがくことができず苦労くろうしたという。

著作ちょさく[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 大空おおぞらのサムライ』ただしぞく完結かんけつへん
  • せんばなし大空おおぞらのサムライ』
  • 大空おおぞら決戦けっせん
  • れいせん搭乗とうじょういんそら戦記せんき共著きょうちょ
かく光人みつひとしゃどう文庫ぶんこ新版しんぱん
  • 坂井さかい三郎さぶろう空戦くうせん記録きろく以下いか講談社こうだんしゃ
  • れいせん真実しんじつ光人みつひとしゃ文庫ぶんこ新版しんぱん
  • れいせん運命うんめい
  • れいせん最後さいご
回想かいそう
  • 坂井さかいスマート道子みちこちち坂井さかい三郎さぶろう 「大空おおぞらのサムライ」がむすめのこしたかた産経新聞さんけいしんぶん出版しゅっぱん、のち光人みつひとしゃ文庫ぶんこ

協力きょうりょく監修かんしゅう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 坂井さかい三郎さぶろう空戦くうせん記録きろく上巻じょうかん)』講談社こうだんしゃプラスアルファ文庫ぶんこp34-p42
  2. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p45
  3. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p46
  4. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p91
  5. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p91-92
  6. ^ 原田はらだかなめ『わがほこりのれいせん』』さくらはな出版しゅっぱんp54-58
  7. ^ 堀越ほりこし二郎じろう奥宮おくのみや正武まさたけれいせん学研がっけんM文庫ぶんこ274-275ぺーじ
  8. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p58
  9. ^ 坂井さかい三郎さぶろう大空おおぞらのサムライ』研究けんきゅう読本とくほん』p36
  10. ^ 坂井さかい三郎さぶろうれいせん栄光えいこう悲劇ひげき』p.59-p.63
  11. ^ 『わがれいせん栄光えいこう悲劇ひげき』p89-92
  12. ^ 坂井さかい三郎さぶろう大空おおぞらのサムライ』研究けんきゅう読本とくほん』p50-51
  13. ^ れいせん運命うんめい』p434-437
  14. ^ 昭和しょうわ17ねん2がつ昭和しょうわ17ねん3がつ たいみなみそら 飛行機ひこうきたい戦闘せんとう行動こうどう調書ちょうしょ(3)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C08051602100 
  15. ^ 坂井さかい三郎さぶろう坂井さかい三郎さぶろう空戦くうせん記録きろく 講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ78-83ぺーじ
  16. ^ 坂井さかい三郎さぶろう大空おおぞらのサムライ』研究けんきゅう読本とくほん』p.145-p.156
  17. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p344
  18. ^ 大空おおぞらのサムライ・した講談社こうだんしゃ171-180ページ
  19. ^ こおり義武よしたけ坂井さかい三郎さぶろう大空おおぞらのサムライ』研究けんきゅう読本とくほん』p.249-p.250
  20. ^ たいみなみ空行くうぎょうどう調書ちょうしょ8がつ7にち
  21. ^ 丹羽にわ文雄ふみお海戦かいせん
  22. ^ 坂井さかい三郎さぶろう坂井さかい三郎さぶろう空戦くうせん記録きろく 講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ227-228ぺーじ
  23. ^ 坂井さかい三郎さぶろうれいせん栄光えいこう悲劇ひげき』p.205、坂井さかい三郎さぶろう大空おおぞらのサムライ完結かんけつへん光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ119-120ぺーじ
  24. ^ 坂井さかい三郎さぶろうれいせん栄光えいこう悲劇ひげき』p.212-p.214
  25. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p64
  26. ^ 坂井さかい三郎さぶろうれいせん栄光えいこう悲劇ひげき』p.218
  27. ^ 大空おおぞらのサムライ・うえ講談社こうだんしゃ24ページ
  28. ^ a b c d e 横須賀よこすか海軍かいぐん航空こうくうたい硫黄いおうとう派遣はけんたい戦闘せんとうたい戦闘せんとう詳報しょうほう 昭和しょうわ19ねん7がつ20日はつか」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C13120487500 
  29. ^ 坂井さかい三郎さぶろうれいせん栄光えいこう悲劇ひげき』p.232-p.236
  30. ^ 坂井さかい三郎さぶろうちょ坂井さかい三郎さぶろう空戦くうせん記録きろく(あきら)」改定かいていばん 1966ねん出版しゅっぱん共同きょうどうしゃ、272ぺーじ
  31. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p335
  32. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p209
  33. ^ 大空おおぞらのサムライ・した講談社こうだんしゃ310ページ
  34. ^ 大空おおぞらのサムライ・した講談社こうだんしゃ317-319ページ
  35. ^ 坂井さかい三郎さぶろうちょ坂井さかい三郎さぶろう空戦くうせん記録きろく(あきら)」改定かいていばん 1966ねん出版しゅっぱん共同きょうどうしゃ、290ぺーじ
  36. ^ 大空おおぞらのサムライ・した講談社こうだんしゃ328-341ページ
  37. ^ 坂井さかい三郎さぶろう坂井さかい三郎さぶろう空戦くうせん記録きろく 講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ340ぺーじ
  38. ^ 世良せら光弘みつひろ坂井さかい三郎さぶろうれいせん操縦そうじゅう』170ぺーじ
  39. ^ 祖父そふたちのれいせん』p329-330
  40. ^ 祖父そふたちのれいせん』p330-331
  41. ^ 祖父そふたちのれいせん』p332
  42. ^ 坂井さかい三郎さぶろう坂井さかい三郎さぶろう空戦くうせん記録きろく 講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ147-148ぺーじ
  43. ^ じいげん』p42-43
  44. ^ a b 神立かんだつ尚紀なおきれいせん 最後さいご証言しょうげん〈2〉大空おおぞらたたかったゼロファイターたちの風貌ふうぼう
  45. ^ 神立かんだつ尚紀なおき祖父そふたちのれいせん講談社こうだんしゃ315ぺーじ
  46. ^ 祖父そふたちのれいせん』p339-344
  47. ^ 坂井さかい三郎さぶろう写真しゃしん 大空おおぞらのサムライ」』p270
  48. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p327
  49. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p327-328
  50. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p328
  51. ^ 宗像むねかた和広かずひろ戦記せんきかた日本にっぽん陸軍りくぐん銀河ぎんが出版しゅっぱんp76
  52. ^ 神立かんだつ尚紀なおきブログ
  53. ^ a b れいかいられざる坂井さかい三郎さぶろう大空おおぞらのサムライ」の戦後せんご学研がっけんパブリッシング2013ねん
  54. ^ まる2001ねん1がつごう
  55. ^ 祖父そふたちのれいせん』p345-346
  56. ^ 坂井さかいスマート道子みちこちち坂井さかい三郎さぶろう産経新聞さんけいしんぶん出版しゅっぱん2012ねん
  57. ^ 坂井さかい三郎さぶろう大空おおぞらのサムライ』研究けんきゅう読本とくほん』p277
  58. ^ 祖父そふたちのれいせん』p321
  59. ^ a b 神立かんだつ尚紀なおきブログ
  60. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p90-91
  61. ^ 昭和しょうわ17ねん4がつ昭和しょうわ17ねん5がつ たいみなみそら 飛行機ひこうきたい戦闘せんとう行動こうどう調書ちょうしょ(4)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C08051602800 
  62. ^ 祖父そふたちのれいせん講談社こうだんしゃ ISBN 978-4062163026より
  63. ^ 昭和しょうわ16ねん12月〜昭和しょうわ17ねん1がつ たいみなみそら 飛行機ひこうきたい戦闘せんとう行動こうどう調書ちょうしょ(1)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C08051601300 
  64. ^ 坂井さかい三郎さぶろう坂井さかい三郎さぶろう空戦くうせん記録きろく上巻じょうかん』p.201-p.202
  65. ^ 坂井さかい三郎さぶろう坂井さかい三郎さぶろう空戦くうせん記録きろく上巻じょうかん』p.235
  66. ^ 坂井さかい三郎さぶろう坂井さかい三郎さぶろう空戦くうせん記録きろく上巻じょうかん』p.239
  67. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p120
  68. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p97
  69. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p350
  70. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p131-132
  71. ^ 大空おおぞらのサムライ 坂井さかい三郎さぶろう れいせんかた”. 2014ねん8がつ23にち閲覧えつらん
  72. ^ 坂井さかい三郎さぶろう大空おおぞらのサムライ完結かんけつへん光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ18-20ぺーじ
  73. ^ 坂井さかい高城たかぎ大空おおぞらのサムライ・完結かんけつへん撃墜げきついおうとの対話たいわ』p.96-p.97
  74. ^ 頂点ちょうてん』p373
  75. ^ 坂井さかい著作ちょさく・『れいせん真実しんじつ』『大空おおぞらのサムライ』
  76. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p295
  77. ^ れいせん秘術ひじゅつ』p289
  78. ^ 加藤かとうひろし一郎いちろうによるインタビュー『れいせん秘術ひじゅつ講談社こうだんしゃ文庫ぶんこP.304
  79. ^ 祖父そふたちのれいせん』p315-325
  80. ^ 加藤かとうひろし一郎いちろう 『飛行ひこう秘術ひじゅつのはなし』 講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ〉、1999ねん、178ぺーじ
  81. ^ 坂井さかい三郎さぶろう大空おおぞらのサムライ』研究けんきゅう読本とくほん
  82. ^ 毎日新聞まいにちしんぶん 2004ねん8がつ17にちづけ国際こくさいめん記事きじ
  83. ^ 大空おおぞら決戦けっせん」(はねきり松雄まつおちょ解説かいせつ
  84. ^ られざる坂井さかい三郎さぶろう大空おおぞらのサムライの戦後せんご
  85. ^ はたいく彦『日本人にっぽんじん捕虜ほりょ』ワレいまより自爆じばくセントス
  86. ^ 祖父そふたちのれいせん』p338
  87. ^ られざる坂井さかい三郎さぶろう
  88. ^ 歴史れきしどおり2012ねん1がつごう別冊べっさつ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]