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松田まつだ千秋ちあき

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松田まつだ 千秋ちあき
松田まつだ千秋ちあき大佐たいさ
生誕せいたん 1896ねん明治めいじ29ねん9月29にち
日本の旗 日本にっぽん 熊本くまもとけん菊池きくちぐん
死没しぼつ 1995ねん平成へいせい7ねん11月6にちまん99さいぼつ
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1916ねん大正たいしょう5ねん) - 1945ねん昭和しょうわ20ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん少将しょうしょう
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松田まつだ 千秋ちあき(まつだ ちあき、 1896ねん明治めいじ29ねん9月29にち - 1995ねん平成へいせい7ねん11月6にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん海兵かいへい44戦艦せんかん大和やまとだい3だい艦長かんちょう最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん少将しょうしょうつまコマは詩人しじん丸山まるやまかおるいもうと

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

1896ねん明治めいじ29ねん9月29にち熊本くまもとけん菊池きくちぐん加茂川かもがわむら大字だいじ菰入こもいりげん七城しちじょうまち菰入こもいり)にまれる。旧制きゅうせい熊本くまもと県立けんりつ鹿本かもと中学校ちゅうがっこうて、1913ねん大正たいしょう2ねん)9がつ3にち海軍兵学校かいぐんへいがっこう44に100めいちゅう89ばん成績せいせき入学にゅうがく同期どうき柳本やなぎもと柳作りゅうさく西田にしだ正雄まさお朝倉あさくら豊次とよじ黒島くろしまひさしじんらがいる。1916ねん大正たいしょう5ねん)12月11にち、95めいちゅう14ばん成績せいせき卒業そつぎょう少尉しょうい候補こうほせいとなり装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん常磐ときわ」にみ、練習れんしゅう艦隊かんたい近海きんかい航海こうかい出発しゅっぱつし、1917ねん大正たいしょう6ねん)3がつ3にち帰着きちゃく。4月5にち練習れんしゅう艦隊かんたい遠洋えんよう航海こうかい出発しゅっぱつし、8がつ17にち帰着きちゃく。8月19にちめぐよう戦艦せんかん榛名はるな乗組のりくみ。12月1にち少尉しょうい任官にんかん戦艦せんかん河内かわうち乗組のりくみ

1918ねん大正たいしょう7ねん)7がつ12にち乗艦じょうかんちゅうの「河内かわうち」が爆沈ばくちんするというだい事故じこ遭遇そうぐうしている。(国立こくりつ公文書こうぶんしょかんアジア歴史れきし資料しりょうセンター松田まつだ千秋ちあき尋問じんもんしょ」)同年どうねん8がつ15にちめぐよう戦艦せんかん榛名はるな乗組のりくみ。11月9にち装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん吾妻あづま乗組のりくみとなり少尉しょうい候補こうほせい46指導しどうかんつとめた。

1919ねん大正たいしょう8ねん)3がつ11にち練習れんしゅう艦隊かんたい遠洋えんよう航海こうかい出発しゅっぱつ、7がつ20日はつか帰着きちゃくした。当時とうじ練習れんしゅう艦隊かんたい司令しれいかん中野なかの直枝なおえ中将ちゅうじょう15)、練習れんしゅうかんは「常磐ときわ」(艦長かんちょう小松こまつ直幹なおみき大佐たいさ25)「吾妻あづま」(艦長かんちょう飯田いいだのべ太郎たろう大佐たいさ24)の2せき少尉しょうい候補こうほせいたちは高田たかだとししゅ山本やまもと親雄ちかお重永しげなが主計しゅけい野村のむら留吉とめきち猪口いのぐちさとしたいら貝塚かいづか武男たけお柳沢やなぎさわ蔵之助くらのすけ阿部あべ俊雄としおまきあきら安田やすだよしたちなどであり、目的もくてき東南とうなんアジアオーストラリア訪問ほうもんであった。このとしの「みず交社々いん名簿めいぼ」によると、松田まつだ少尉しょうい序列じょれつ同期生どうきせいちゅう10ばん上昇じょうしょうしている。8月5にち装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん浅間あさま乗組のりくみ。12月1にち中尉ちゅうい進級しんきゅうし、海軍かいぐん水雷すいらい学校がっこう普通ふつう科学かがくせいになっている。

1920ねん大正たいしょう9ねん)5がつ31にち海軍かいぐん砲術ほうじゅつ学校がっこう普通ふつう科学かがくせい。12月1にち3とう駆逐くちくかん夕立ゆうだち乗組のりくみ1921ねん大正たいしょう10ねん)12月1にちめぐよう戦艦せんかんきむつよし分隊ぶんたいちょう心得こころえ

1922ねん大正たいしょう11ねん)12月1にち大尉たいい昇進しょうしんし、海軍かいぐん砲術ほうじゅつ学校がっこう高等こうとうだい22学生がくせい拝命はいめい1923ねん大正たいしょう12ねん)11月29にち海軍かいぐん砲術ほうじゅつ学校がっこう高等こうとう優等ゆうとう卒業そつぎょう。12月1にち一等いっとう駆逐くちくかん神風かみかぜ砲術ほうじゅつちょうけん分隊ぶんたいちょう1924ねん大正たいしょう13ねん)12月1にち戦艦せんかん陸奥みちのく分隊ぶんたいちょう1925ねん大正たいしょう14ねん)12月1にち海軍かいぐん砲術ほうじゅつ学校がっこう教官きょうかん

1926ねん大正たいしょう15ねん)12月1にち海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅだい26入校にゅうこう。このころまでに松田まつだ序列じょれつは、同期生どうきせいちゅう4ばんまで上昇じょうしょうしている。1928ねん昭和しょうわ3ねん)11月6にち海軍かいぐんだい学校がっこうを22めいちゅうだい12成績せいせき卒業そつぎょう。12月10にち少佐しょうさ進級しんきゅう海軍かいぐんしょう人事じんじきょくだい1勤務きんむ1929ねん昭和しょうわ4ねん)5がつ1にち、アメリカへ語学ごがく留学りゅうがく

1930ねん昭和しょうわ5ねん)5がつ1にちざいアメリカ大使館たいしかん海軍かいぐん駐在ちゅうざい武官ぶかん補佐ほさかん日本にっぽん海軍かいぐん駐米ちゅうべい経験けいけんしゃではめずらしくかたくなまで反米はんべい主義しゅぎしゃだった。1931ねん昭和しょうわ6ねん)5がつ1にち帰朝きちょうし、7がつ1にちよりけい巡洋艦じゅんようかん木曾きそ砲術ほうじゅつちょう。9月7にち軍令ぐんれいだい1はんだい1軍令ぐんれい改編かいへんともな1933ねん昭和しょうわ8ねん)10がつ1にち軍令ぐんれいだい1だい1大和やまとがた戦艦せんかん建造けんぞう基本きほん構想こうそうかかわる。11月1にち参謀さんぼう本部ほんぶいん兼務けんむ。11月15にち中佐ちゅうさ昇進しょうしん1934ねん昭和しょうわ9年度ねんど)の軍令ぐんれい作戦さくせん班長はんちょうつとめた。4月2にち参謀さんぼう本部ほんぶいんめんじられ、11月15にち海軍かいぐんしょう軍務ぐんむきょくだい2異動いどう

1935ねん昭和しょうわ10ねん)4がつ1にち栗田くりた健男たけお大佐たいさ38)が艦長かんちょうつとめるけい巡洋艦じゅんようかん阿武隈あぶくま」の副長ふくちょう異動いどう同年どうねん11がつまでつとめ、後任こうにん伊集院いじゅういん松治まつじ中佐ちゅうさ43)と交代こうたい海軍かいぐんだい学校がっこう教官きょうかん けん技術ぎじゅつ会議かいぎ議員ぎいんけん陸軍りくぐんだい学校がっこう兵学へいがく教官きょうかん異動いどうした。11月、鹿児島かごしま宮崎みやざき方面ほうめんにておこなわれた陸軍りくぐん特別とくべつだい演習えんしゅうでは、あおぐん司令しれいかんはやしずくじゅうろう大将たいしょう陸士りくし8)がひきいるぐん司令しれい幕僚ばくりょうとして参加さんか松田まつだ中佐ちゅうさ同僚どうりょうとして、太平洋戦争たいへいようせんそう期間きかんちゅう陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむ局長きょくちょうつとめAきゅう戦犯せんぱんとなった佐藤さとうけんりょう砲兵ほうへい少佐しょうさ陸士りくし29、のち中将ちゅうじょう)もいた。1936ねん昭和しょうわ11ねん)1がつ当時とうじ内務省ないむしょう警保きょく特別とくべつ警察けいさつ作成さくせいした『海軍かいぐん士官しかんよう監視かんし人物じんぶつ』という極秘ごくひ資料しりょうには松田まつだ記載きさいされている。二・二六事件ににろくじけん加担かたんした陸軍りくぐん青年せいねん将校しょうこう思想しそう同情どうじょうてきられていたためで該資料しりょう掲載けいさいされた海軍かいぐん士官しかんすうめい事件じけん予備よびやく編入へんにゅう処分しょぶんけた。11月21にち海軍かいぐんだい学校がっこう教官きょうかんけんだい3艦隊かんたい参謀さんぼう

1937ねん昭和しょうわ12ねん)8がつ16にち上海しゃんはい派遣はけんぐん参謀さんぼう兼務けんむ。(国立こくりつ公文書こうぶんしょかんアジア歴史れきし資料しりょうセンター上海しゃんはい派遣はけんぐん司令しれい兼勤けんきんすべきしゃ だい艦隊かんたい参謀さんぼう 海軍かいぐん中佐ちゅうさ 松田まつだ 千秋ちあき」)12月1にち大佐たいさ昇進しょうしん。12月15にちささえ方面ほうめん艦隊かんたい参謀さんぼう1938ねん昭和しょうわ13ねん)8がつ25にち水上すいじょう母艦ぼかん神威かもい艦長かんちょう1939ねん昭和しょうわ14ねん)1がつ14にち軍令ぐんれいだい3だい5課長かちょう。1月25にちけん大本営だいほんえい海軍かいぐん報道ほうどうだい2課長かちょう

1940ねん昭和しょうわ15ねん)5がつ22にち欧米おうべい各国かっこく出張しゅっちょう。10月1にちそう力戦りきせん研究所けんきゅうじょ所員しょいん高等官こうとうかんさんとう)に就任しゅうにん。このとき研究生けんきゅうせいたちの採用さいようさいしてられた、現在げんざい就職しゅうしょく活動かつどうなどでかける方式ほうしきを「面接めんせつ」とづけたのは松田まつだ大佐たいさである。採用さいようされた研究生けんきゅうせいたちが、模擬もぎないかくという形式けいしきでシミュレーションをおこない、現実げんじつ日米にちべい戦争せんそうにおける(原爆げんばく投下とうか以外いがいの)戦局せんきょく推移すいいとほぼ合致がっちする「日本にっぽん必敗」の結論けつろんみちびしたことは有名ゆうめいである。このころ松田まつだ大佐たいさについては、猪瀬いのせ直樹なおきちょ昭和しょうわ16ねんなつ敗戦はいせん」(中公ちゅうこう文庫ぶんこ)にくわしい。

1941ねん昭和しょうわ16ねん)9がつ1にち標的ひょうてきかん摂津せっつ特務とくむ艦長かんちょう就任しゅうにん日米にちべい開戦かいせんむかえた。このあいだ航空こうくう攻撃こうげきたいする操艦そうかんマニュアルである「ばくげき回避かいひほう」を作成さくせいしている。1944ねん昭和しょうわ19ねん)のフィリピンおき海戦かいせん比島ひじまおき海戦かいせんにおいて、来襲らいしゅうしたてきばくだんをすべて回避かいひすることに成功せいこうした戦艦せんかん伊勢いせ艦長かんちょう中瀬なかせ大佐たいさ45)が、パンフレットを研究けんきゅうして実戦じっせん役立やくだててくれたと、松田まつだ回想かいそうしている。(佐藤さとう和正かずまさちょ艦長かんちょうたちの太平洋戦争たいへいようせんそう」)

1942ねん昭和しょうわ17ねん)2がつ10日とおか聯合れんごう艦隊かんたい司令しれい聯合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうちょう宇垣うがきまとい中将ちゅうじょう40)は松田まつだ結婚けっこんするさい仲人なこうどつとめた。2がつ20日はつか戦艦せんかん日向ひなた艦長かんちょう就任しゅうにん。5月5にち伊予灘いよなだで「日向ひなた」、「伊勢いせ」、「扶桑ふそう」、「山城やましろ」による演習えんしゅうちゅうだいなな斉射せいしゃおこなったさいに「日向ひなた」のだい5砲塔ほうとう爆発ばくはつ事故じこきている。このことが、伊勢いせがた戦艦せんかんたいする航空こうくう戦艦せんかんへの改装かいそうつながることになった。

ミッドウェー作戦さくせんまえ戦艦せんかん大和やまと」でおこなわれた「だいだん作戦さくせん図上ずじょう演習えんしゅう」では、べいぐん指揮しき担当たんとうした。べい機動きどう部隊ぶたいはハワイから出撃しゅつげきしてくる可能かのうせいがあったが、松田まつだ出撃しゅつげきさせることはなかった[1]戦艦せんかん日向ひなた」はミッドウェー海戦かいせん一環いっかんとしてアリューシャン方面ほうめん進出しんしゅつしている。作戦さくせんちゅう、「日向ひなた」のでんさがせ帰還きかん途上とじょう悪天候あくてんこうにおいて艦隊かんたい航路こうろ保持ほじ役立やくだち、松田まつだ艦長かんちょうは”レーダーの有効ゆうこうせい”を周囲しゅういうったえた。同年どうねん12がつ10日とおか聯合れんごう艦隊かんたい司令しれい。12月17にち聯合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん山本やまもと五十六いそろく大将たいしょう32)の旗艦きかんである戦艦せんかん大和やまと」のだい3だい艦長かんちょう就任しゅうにんした。

大和やまと」(松田まつだ千秋ちあき艦長かんちょう)と「武蔵むさし」(有馬ありまかおる艦長かんちょう手前てまえ)、1943ねん撮影さつえい

1943ねん昭和しょうわ18ねん)5がつ1にち、クラスのいち選抜せんばつぐみとして少将しょうしょう昇進しょうしんする。同日どうじつ少将しょうしょう進級しんきゅうした海兵かいへい44期生きせいは、だい6艦隊かんたい参謀さんぼうちょう島本しまもと久五郎きゅうごろう電報でんぽう343)、軍令ぐんれい出仕しゅっしけん海軍かいぐんしょう出仕しゅっし一宮いちのみや義之よしゆきどう344)、大和やまと艦長かんちょう松田まつだ千秋ちあきどう354)、だい5艦隊かんたい参謀さんぼうちょう大和田おおわだのぼるどう355)、だい8艦隊かんたい参謀さんぼうちょうやまきよし貞次郎ていじろうどう356)、軍令ぐんれい部員ぶいんけん大本営だいほんえい参謀さんぼう小島こじま秀雄ひでおどう358)である。

(※電報でんぽうとは毎年まいとしうえ元帥げんすい海軍かいぐん大将たいしょうからした少尉しょうい候補こうほせいまで、ちょん海軍かいぐん士官しかんたいして序列じょれつじゅんられた背番号せばんごうのようなものであり、先任せんにん後任こうにんじょ重視じゅうしする軍隊ぐんたいでは重要じゅうようひとであった。電報でんぽう毎年まいとし更新こうしんされる「現役げんえき海軍かいぐん士官しかん名簿めいぼ」でさだめられていた。太平洋戦争たいへいようせんそう電報でんぽう1は、元帥げんすい海軍かいぐん大将たいしょう伏見ふしみみやひろしきょうおうである。)

少将しょうしょうになってあいだもない6がつ21にちには「ごうだい7潜水せんすいかん」に乗艦じょうかんしていたおい松田まつだ廣和ひろかず少尉しょうい71戦死せんし中尉ちゅうい進級しんきゅう)が戦死せんししている。9月7にち軍令ぐんれいだい1だい1出仕しゅっしけん大本営だいほんえい参謀さんぼう。10月15にちけん海軍かいぐんしょう出仕しゅっし

1944ねん昭和しょうわ19ねん)3がつ31にち聯合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん古賀こがみねいち大将たいしょう34以下いか司令しれい職員しょくいん搭乗とうじょう消息しょうそく事件じけん発生はっせいした(海軍かいぐんおつ事件じけん)。その軍令ぐんれいうけたまわくだりれいもとづいて、スラバヤにいる次席じせき指揮しきかん高須たかす四郎しろう大将たいしょう35南西なんせい方面ほうめん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんけんだい13航空こうくう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん)が代行だいこうしたが、スラバヤという僻地へきちから指揮しきをとり統一とういついた状況じょうきょうについて、最前線さいぜんせんであるサイパンテニアン守備しゅびする部隊ぶたいから不満ふまん始末しまつであった。サイパンに出張しゅっちょうした松田まつだ少将しょうしょうは、南雲なぐも忠一ただかず中将ちゅうじょう36中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんけんだい14航空こうくう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん)や角田つのださとし中将ちゅうじょう39だい1航空こうくう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん)から、しん聯合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんすみやかな発令はつれい要望ようぼうされている。

松田まつだ千秋ちあき少将しょうしょう旗艦きかんとなった航空こうくう戦艦せんかん日向ひなた

同年どうねん5がつ1にち新編しんぺんされただい4航空こうくう戦隊せんたい司令しれいかん就任しゅうにん、かつて艦長かんちょうつとめた「日向ひなた」にはたはたかかげた。だい4航空こうくう戦隊せんたいは、航空こうくう戦艦せんかん改装かいそうされた戦艦せんかん日向ひなた」(野村のむら留吉とめきち大佐たいさ46)、「伊勢いせ」(中瀬なかせ大佐たいさ45)からなるしん戦力せんりょくであった。

佐藤さとう和正かずまさちょ艦長かんちょうたちの太平洋戦争たいへいようせんそう」のなかで、松田まつだはこの時期じきのことについてつぎのようにべている。

わたしは「日向ひなた」の艦長かんちょういちねんたらずつとめて、17ねん12月に「大和やまと」の艦長かんちょうをやり、翌年よくねん9がつに「大和やまと」をりて軍令ぐんれいばれたんです。そのときだい1部長ぶちょう作戦さくせん部長ぶちょう)の中沢なかざわたすくさんが、オレ一人ひとりではこのたたかえさはやれないから、松田まつだくんてオレをたすけてくれ、とったわけだ。わたしだい1部長ぶちょうづけということで、中沢なかざわさんとさしかいのつくえで、毎日まいにち作戦さくせんかんがえていたけれど、とてもはないと判断はんだんせざるをないんだ。そこで、どうせけるたたかえさなら、わたしだい一線いっせん部隊ぶたい艦長かんちょうにしてくれとムリにたのんだわけ。しかし、艦長かんちょう配置はいちはもう卒業そつぎょうしているもんだから、それじゃ、司令しれいかんになってくれとわれてね。ちょうど航空こうくう戦艦せんかんというものができたばかりだったので、それで4こうせん司令しれいかんになっていったわけです。』

同年どうねん10がつ小沢おざわおさむ三郎さぶろう中将ちゅうじょう37)のひきいる機動きどう部隊ぶたい所属しょぞくするだい4航空こうくう戦隊せんたいは、世紀せいきだい海戦かいせんといわれるフィリピンおき海戦かいせん比島ひじまおき海戦かいせん参加さんかする。

『フィリピンおき海戦かいせんでは、わたしは「日向ひなた」に乗艦じょうかんして「伊勢いせ」をひきいて出撃しゅつげきしたが、24にち栗田くりた艦隊かんたいシブヤンうみ苦闘くとうして、いちじ西方せいほうに避退したんだが、これが小沢おざわ機動きどう部隊ぶたい非常ひじょう関係かんけいがあるんだ。栗田くりたさんが避退するまえにね、フィリピンの基地きち航空こうくうたい敵艦てきかんをやっつけて、われわれの前方ぜんぽうきずついたてき戦艦せんかん3せきのこっているから、「伊勢いせ」「日向ひなた」は残敵ざんてきいかけて、大砲たいほうでこれを撃破げきはすべしという命令めいれいしゅったんだ。そこでわたし駆逐くちくかん4せきをともなって、前衛ぜんえい部隊ぶたいとして、みずづるなど空母くうぼ部隊ぶたい本隊ほんたいからはなれて南進なんしんしたんだ。わたしはね、これはいのちがけだけれど、いい機会きかいだとおもったんだ。栗田くりた艦隊かんたいる。「伊勢いせ」「日向ひなた」もきたからるとなると、べい機動きどう部隊ぶたい南北なんぼくからはさちにすることになり、ますます成功せいこう公算こうさんつよくなるわけです。それでどんどん南下なんかしていくと、水平すいへいせんじょうさかんに光芒こうぼうがひらめいているんだ。これは友軍ゆうぐん夜間やかん攻撃こうげきをやっているものだと、わたしかんがえたんですよ。しかし、このままんでいくと、夜中よなかですから、友軍ゆうぐん同士討どうしうちをやる可能かのうせいがあるので、夜明よあけをとうとおもい、南進なんしんから東進とうしん進路しんろをかえたんです。ところが、栗田くりたさんは、こっちが突撃とつげき態勢たいせいをとっているとき、反転はんてん電報でんぽうってきたんだね。それで小沢おざわ長官ちょうかんは、栗田くりた部隊ぶたい反転はんてんしたのに、松田まつだ部隊ぶたいだけが進撃しんげきしても意味いみがないということで、わたし部隊ぶたい反転はんてんして、おもたい合同ごうどうせよと命令めいれいをだされたんです。それでわたしはあきらめて北進ほくしんするわけです。ところが、まもなく栗田くりた艦隊かんたいは、シブヤンかいさい反転はんてんして進撃しんげき再開さいかいしたでしょう。このさい反転はんてんという電報でんぽう小沢おざわ部隊ぶたいはうけていないんだ。それをうけていたら、またはなしちがってきたんだ。このたたかいがわったあとで小沢おざわ長官ちょうかんは、栗田くりた部隊ぶたいさい反転はんてんしてレイテわんむかって突撃とつげきしていることをらなかった、とってましたよー』

証言しょうげんしている。(「艦長かんちょうたちの太平洋戦争たいへいようせんそう」、戦艦せんかん大和やまと艦長かんちょう松田まつだ千秋ちあき少将しょうしょう証言しょうげんより)

証言しょうげん登場とうじょうする栗田くりた艦隊かんたいとは、松田まつだけい巡洋艦じゅんようかん阿武隈あぶくま」の副長ふくちょう時代じだいつかえた栗田くりた健男たけおもと艦長かんちょう38)であり、栗田くりた中将ちゅうじょうひきいる戦艦せんかん大和やまと武蔵むさし中心ちゅうしんとするだい2艦隊かんたいのことである。

1945ねん昭和しょうわ20ねん)2がつきたごう作戦さくせん実施じっし松田まつだ部隊ぶたいを「かん部隊ぶたい」と命名めいめいし、制海権せいかいけんうしなった海域かいいきどう艦隊かんたい大量たいりょう物資ぶっし積載せきさいしての、シンガポールから本土ほんどへの輸送ゆそう作戦さくせんおこない、てき攻撃こうげきを2けたが、近隣きんりんのスコールにかくれることができ、無事ぶじ輸送ゆそう完了かんりょうした。3月1にち軍令ぐんれい出仕しゅっし。3月10にち海軍かいぐん航空こうくう本部ほんぶ出仕しゅっし。3月20にち横須賀よこすか海軍かいぐん航空こうくうたい司令しれい終戦しゅうせんて11月1にち予備よびやく編入へんにゅう

戦後せんご(株)かぶしきがいしゃマツダカルテックス経営けいえい。カード書類しょるいのランダム自動じどう抽出ちゅうしゅつ装置そうちはじめとする発明はつめい専念せんねん発明はつめいひんで100以上いじょう特許とっきょけん実用じつよう新案しんあんけん取得しゅとく商品しょうひんがなされた。

海軍かいぐん関係かんけいしゃによる海軍かいぐん反省はんせいかい出席しゅっせきし、1981ねん昭和しょうわ56ねん4がつ7にちだい14かいでは、「真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきで、日本にっぽんはアメリカに航空こうくう戦力せんりょくでも戦艦せんかん撃沈げきちんできることをおしえてしまった」と批判ひはんてき回想かいそうした[2]

1995ねん平成へいせい7ねん)11月6にち死去しきょ享年きょうねん99さい海軍かいぐん将官しょうかん最後さいごのこりであった。

年譜ねんぷ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ プランゲ『ミッドウェーの奇跡きせきじょうはら書房しょぼう50ぺーじ
  2. ^ 真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき失敗しっぱいだった?~もと海軍かいぐん中堅ちゅうけん幹部かんぶたちの述懐じゅっかいWEB歴史れきし街道かいどう、2018ねん12月5にち

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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