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陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう(りくぐんこうくうつうしんがっこう)は、日本にっぽん陸軍りくぐんぐん学校がっこうのひとつ。しゅとして航空こうくう通信つうしんかんする教育きょういく研究けんきゅうとうおこなった。1940ねん昭和しょうわ15ねん)8がつ水戸みと陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこううち開設かいせつされ、同年どうねん10がつ近隣きんりん新築しんちく施設しせつ移転いてんした。移転いてん学校がっこう本部ほんぶおよび本校ほんこう茨城いばらきけん東茨城ひがしいばらきぐん現在げんざい水戸みと住吉すみよしまち)にかれ、兵庫ひょうごけん加古かこぐん加古川かこがわ教育きょういくたいなど各地かくち教育きょういくたいがあった。

1945ねん昭和しょうわ20ねん)5がつ陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう水戸みと教導きょうどう航空こうくう通信つうしん師団しだんに、加古川かこがわ教育きょういくたいをはじめとする4教育きょういくたい加古川かこがわ教導きょうどう航空こうくう通信つうしんだん改編かいへんされ、同年どうねん8がつ太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう終戦しゅうせんにより、ともに廃止はいしされた。ここでは水戸みと教導きょうどう航空こうくう通信つうしん師団しだんとうについてもべる。

沿革えんかく

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陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう

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陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしんは、当初とうしょ下志津しもしづ陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこう教育きょういくおよび研究けんきゅうとう担当たんとうし、1938ねん昭和しょうわ13ねん)7がつ以後いごは「いちごう計画けいかく」と通称つうしょうされる軍備ぐんび増強ぞうきょう計画けいかくによって新設しんせつされた水戸みと陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこう継承けいしょうしていた。いちごう計画けいかく1937ねん昭和しょうわ12ねん)からの6かねん計画けいかくであったが、にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)の拡大かくだいなどにより「ごう計画けいかく」とばれる修正しゅうせいがなされた[1]ごう計画けいかくでは航空こうくう戦力せんりょく地上ちじょう支援しえんする通信つうしん整備せいびとう充実じゅうじつおこなわれ、航空こうくう通信つうしん教育きょういく研究けんきゅう専門せんもんとする学校がっこう新設しんせつ企図きとされた[2]

1940ねん昭和しょうわ15ねん)8がつ陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこうれいみことのりれいだい499ごう)の施行しこうにより陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう設立せつりつされた[3]学校がっこうれいだい1じょう陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこうは「学生がくせい航空こうくう関係かんけい通信つうしんせきスル学術がくじゅつ修得しゅうとくセシメ」「通信つうしん従事じゅうじスル少年しょうねん飛行ひこうへい少年しょうねん飛行ひこうへいためスベキ生徒せいとなみ航空こうくう関係かんけい通信つうしん従事じゅうじスベキ幹部かんぶ候補こうほせい及下士官しかん候補こうほ教育きょういくシ」「航空こうくう関係かんけい通信つうしんせきスル調査ちょうさ研究けんきゅう試験しけんくだりしょ」とさだめられた。学校がっこう定義ていぎ学生がくせい筆頭ひっとうとしているものの、人員じんいんすうにおいて中心ちゅうしんとなる教育きょういく対象たいしょう少年しょうねん飛行ひこうへいおよび少年しょうねん飛行ひこうへいとなる生徒せいとであった[4]

学校がっこう編制へんせい陸軍りくぐん航空こうくう総監そうかん隷属れいぞく[* 1]する校長こうちょうのもと、幹事かんじ本部ほんぶ教育きょういく研究けんきゅう教育きょういくたい教導きょうどうたい材料ざいりょうしょう[* 2]、および学生がくせいである。教育きょういくたいには少年しょうねん飛行ひこうへい生徒せいと幹部かんぶ候補こうほせい、および下士官かしかん候補こうほ所属しょぞくする。教導きょうどうたい学生がくせい教育きょういく通信つうしんかんする研究けんきゅう試験しけんおこなさい必要ひつようへいを、学校がっこうがいかくたいより分遣ぶんけんして編成へんせいするものである。

陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこうれいにより、同校どうこう教育きょういくしゃつぎのとおりさだめられた(1940ねん8がつ時点じてん)。

  • 甲種こうしゅ学生がくせい
航空こうくう通信つうしん部隊ぶたい必要ひつよう戦術せんじゅつ教練きょうれん陣中じんちゅう勤務きんむ修習しゅうしゅうするもの航空こうくう兵科へいか少佐しょうさまたは大尉たいい
修学しゅうがく期間きかんやく6かげつ通常つうじょう毎年まいとし1かい入校にゅうこう
  • 乙種おつしゅ学生がくせい
通信つうしん必要ひつよう学術がくじゅつ修習しゅうしゅうするもの陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう生徒せいと課程かてい卒業そつぎょうしたもの
修学しゅうがく期間きかんやく1ねん通常つうじょう毎年まいとし1かい入校にゅうこう
乙種おつしゅ学生がくせい課程かてい修了しゅうりょうしゃのうち半数はんすう以内いない選抜せんばつしゃ高等こうとうとして学術がくじゅつをさらに修習しゅうしゅうさせる。
高等こうとう修学しゅうがく期間きかんやく1ねん
  • へいしゅ学生がくせい
航空こうくう通信つうしん部隊ぶたい必要ひつよう学術がくじゅつ修習しゅうしゅうするもの陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう学生がくせい課程かてい卒業そつぎょうしたもの
修学しゅうがく期間きかんやく8かげつ通常つうじょう毎年まいとし1かい入校にゅうこう
  • ちょうたね学生がくせい
航空こうくう通信つうしん部隊ぶたい下士官かしかん必要ひつよう学術がくじゅつ修習しゅうしゅうするもの航空こうくう兵科へいか下士官かしかん
修学しゅうがく期間きかんやく6かげつ通常つうじょう毎年まいとし1かい入校にゅうこう
  • 特種とくしゅ学生がくせい
暗号あんごうしょ作製さくせいおよび取扱とりあつかいならびに暗号あんごう勤務きんむ修習しゅうしゅうするもの航空こうくう兵科へいか尉官いかん
修学しゅうがく期間きかんやく4かげつ通常つうじょう毎年まいとし1かい入校にゅうこう
特種とくしゅ学生がくせい課程かてい修了しゅうりょうしゃちゅう校長こうちょう選抜せんばつする若干じゃっかんめい長期ちょうき学生がくせいとし暗号あんごうかんする学術がくじゅつ修得しゅうとくさせることも
長期ちょうき学生がくせい修学しゅうがく期間きかんは2かげつ以内いない
  • 生徒せいと
通信つうしん従事じゅうじする少年しょうねん飛行ひこうへいとなるために必要ひつよう学術がくじゅつ修得しゅうとくするもの東京とうきょう陸軍りくぐん航空こうくう学校がっこう卒業そつぎょうしゃ
修学しゅうがく期間きかんやく1ねん通常つうじょう毎年まいとし2かい入校にゅうこう
  • 幹部かんぶ候補こうほせい
航空こうくう兵科へいか予備よびやく将校しょうこう必要ひつよう通信つうしんかんする学術がくじゅつ修習しゅうしゅうするものかくたいより分遣ぶんけんする航空こうくう兵科へいか甲種こうしゅ幹部かんぶ候補こうほせい
修学しゅうがく期間きかんやく1ねん通常つうじょう毎年まいとし2かい入校にゅうこう
  • 下士官かしかん候補者こうほしゃ
通信つうしん従事じゅうじする航空こうくう兵科へいか下士官かしかんとなるため必要ひつよう学術がくじゅつ修得しゅうとくするものかくたいより分遣ぶんけん航空こうくう兵科へいか下士官かしかん候補者こうほしゃ
修学しゅうがく期間きかんやく1ねん通常つうじょう毎年まいとし2かい入校にゅうこう
  • その
臨時りんじかく兵科へいか憲兵けんぺいのぞく)将校しょうこう以下いか召集しょうしゅうし、必要ひつよう教育きょういくおこなうことも学校がっこうれいだい6じょう)。

乙種おつしゅ学生がくせいとなる陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう生徒せいと課程かていとは士官しかん候補こうほせいのことで、へいしゅ学生がくせいとなる同校どうこう学生がくせい課程かていとは少尉しょうい候補者こうほしゃのことである。陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこうは、はじめ茨城いばらきけん那珂なかぐんぜんわたしむら現在げんざいのひたちなか新光しんこうまち)の水戸みと陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこうない設置せっちされ[5]同年どうねん10がつ近隣きんりん東茨城ひがしいばらきぐん吉田よしだむら現在げんざい水戸みと中部ちゅうぶ)に移転いてんした[6]

1943ねん昭和しょうわ18ねん)9がつ軍令ぐんれいりくおつだい25ごうにより陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう本校ほんこうおな吉田よしだむら吉田よしだ教育きょういくたいを、兵庫ひょうごけん加古かこぐん加古川かこがわまち尾上おがみむら(ともに現在げんざい加古川かこがわうち)に加古川かこがわ教育きょういくたい尾上おがみ教育きょういくたい編成へんせいした[7]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)4がつ特別とくべつ幹部かんぶ候補こうほせいだい1採用さいようわせ陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう茨城いばらきけん東茨城ひがしいばらきぐん長岡ながおかむら現在げんざい茨城いばらきまち北部ほくぶ)に長岡ながおか教育きょういくたい教育きょういく隊長たいちょう内藤ないとう二三男ふみお中佐ちゅうさ)、兵庫ひょうごけん加古かこぐん神野かんのむら現在げんざい加古川かこがわ神野かんのまち)に神野かみの教育きょういくたい教育きょういく隊長たいちょう栗栖くりす信之のぶゆき少佐しょうさ)、熊本くまもとけん菊池きくちぐん泗水しすいまち現在げんざい菊池きくち泗水しすいまち)に菊池きくち教育きょういくたい教育きょういく隊長たいちょう松永まつながともあきら中佐ちゅうさ)、宮崎みやざきけん児湯こゆぐん新田にったむら現在げんざい新富しんとみまち)に新田原しんでんはら教育きょういくたい教育きょういく隊長たいちょう吉村よしむらきよし中佐ちゅうさ)を編成へんせいした[8]。また、このころまでに電波でんぱ兵器へいきかんする教育きょういく一部いちぶおこなわれるようになった。

水戸みと教導きょうどう航空こうくう通信つうしん師団しだん

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太平洋戦争たいへいようせんそう戦況せんきょう悪化あっかし、すでに陸軍りくぐん航空こうくう関係かんけいしょ学校がっこうおおくが教育きょういくおよび研究けんきゅう平行へいこうし、戦力せんりょくとなるように1944ねん昭和しょうわ19ねん)6がつから教導きょうどう飛行ひこう師団しだんとう軍隊ぐんたいされていた[* 3]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつまつ軍令ぐんれいりくおつだい15ごう[* 4]により陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう航空こうくうそうぐん隷属れいぞくする水戸みと教導きょうどう航空こうくう通信つうしん師団しだん改編かいへんされ、同時どうじ陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう加古川かこがわ教育きょういくたいほか複数ふくすう教育きょういくたいおなじく航空こうくうそうぐん隷下れいか加古川かこがわ教導きょうどう航空こうくう通信つうしんだん改編かいへんされた[9][10]水戸みと教導きょうどう航空こうくう通信つうしん師団しだん任務にんむしゅとして将校しょうこう下士官かしかん教育きょういくであり、加古川かこがわ教導きょうどう航空こうくう通信つうしんだん少年しょうねん飛行ひこうへいとう教育きょういくおもであった[11]。そのほか陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう電波でんぱ兵器へいき関係かんけい人員じんいん資材しざい抽出ちゅうしゅつして陸軍りくぐん電波でんぱ兵器へいき練習れんしゅうだい1教育きょういくたい長岡ながおか教育きょういくたい跡地あとち編成へんせいされた。

水戸みと教導きょうどう航空こうくう通信つうしん師団しだん編制へんせい中将ちゅうじょう(または少将しょうしょう)を師団しだんちょうとして、司令しれい、2教導きょうどう航空こうくう通信つうしんたい1個いっこ教導きょうどう飛行ひこうたい1個いっこ教導きょうどう整備せいびたいである。どう師団しだん編制へんせいひょうによる教育きょういくしゃは、少佐しょうさまたは大尉たいいからなる甲種こうしゅ学生がくせい尉官いかんからなる乙種おつしゅ学生がくせいおなじくへいしゅ学生がくせい整備せいび学生がくせい暗号あんごう学生がくせいと、下士官かしかん学生がくせいとされた。学生がくせい定員ていいんすう将校しょうこう570めい下士官かしかん550めいである。加古川かこがわ教導きょうどう航空こうくう通信つうしんだん編制へんせい少将しょうしょう団長だんちょうとして、司令しれい1個いっこ教導きょうどう整備せいびたい、4教育きょういくたいである。だん司令しれいおよびだい1教育きょういくたい加古川かこがわ教導きょうどう整備せいびたいおよびだい2教育きょういくたい尾上おのえだい3教育きょういくたい神野かみのだい4教育きょういくたい菊池きくちかれた。4教育きょういくたいをあわせ定員ていいん7050めい教育きょういく計画けいかくし、かく教育きょういくたいでは特別とくべつ幹部かんぶ候補こうほせい少年しょうねん飛行ひこうへい少年しょうねん飛行ひこうへいとなる生徒せいとたいする教育きょういくおこなった。

4がつ部隊ぶたい改編かいへん空襲くうしゅう激化げきかともない、部隊ぶたい吉田よしだむら校舎こうしゃ放棄ほうきし、河和田かわわだ緑岡みどりおか赤塚あかつか見川みがわ山林さんりんないきゅうごしらえでもうけた半地はんじごうしゃ分散ぶんさん展開てんかいするようになった[12]

同年どうねん8がつ御前ごぜん会議かいぎポツダム宣言せんげん受諾じゅだく最終さいしゅう決定けっていされ、8がつ15にち正午しょうごより太平洋戦争たいへいようせんそう終戦しゅうせんかんする玉音ぎょくおん放送ほうそうおこなわれた。部隊ぶたいないでは終戦しゅうせん真偽しんぎふくめて恭順きょうじゅん徹底てってい抗戦こうせん激論げきろんわされ、北条ほうじょうまちげんつくば)に駐屯ちゅうとんちゅう歩兵ほへいだい172連隊れんたいだい2大隊だいたいへの出撃しゅつげき要請ようせいされたという[12]

8がつ17にち未明みめい恭順きょうじゅん田中たなか常吉つねきち少佐しょうさ射殺しゃさつされ、決起けっき岡島おかじまあきら少佐しょうさらが上京じょうきょう決意けつい[12]水戸みと教導きょうどう航空こうくう通信つうしん師団しだん将校しょうこうやく390めいがそれぞれ武器ぶき携行けいこう鉄道てつどう東京とうきょうかい、同日どうじつ午後ごごには上野うえの恩賜おんし公園こうえんうち美術びじゅつ学校がっこう集結しゅうけつした。東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう占拠せんきょした決起けっきは「昭和しょうわ勤皇きんのうあきらたい」のはたかかげて近衛このえ師団しだんとう決起けっきびかけたが同調どうちょうしゃはなかった[12]将校しょうこうらはそのまま美術びじゅつ学校がっこうを19にちまで占拠せんきょしたため、東部とうぶぐん管区かんく司令しれいかん田中たなかしずいち大将たいしょう宮城みやぎ事件じけんのような事態じたいになることを危惧きぐし、ぐん管区かんく参謀さんぼうらを上野うえの派遣はけん説得せっとくさせることにした。

8がつ18にちよる近衛このえ師団しだん参謀さんぼう石原いしはら貞吉さだきち少佐しょうさらと決起けっきぐんあいだ幹部かんぶ会議かいぎもうけられ、決起けっきぐん石原いしはら少佐しょうさ説得せっとくおうじて部隊ぶたい撤収てっしゅう同意どういしたが、唯一ゆいいつこれにおうじなかったはやしけい少尉しょうい石原いしはら少佐しょうさ射殺しゃさつするにいたった[12]はやし少尉しょういはさらに同僚どうりょうすぎしげる少佐しょうさ銃口じゅうこうけたが、負傷ふしょうし、その自決じけつしたという[12]。これを契機けいきとして状況じょうきょう終息しゅうそくかい、上野うえの集結しゅうけつした将校しょうこうらは翻意ほんいして20日はつか水戸みと帰還きかん首謀しゅぼうしゃ岡島おかじま少佐しょうさら3めい水戸みと徳川とくがわていまえ自決じけつした[12][13]同月どうげつちゅう師団しだん逐次ちくじ復員ふくいんおこなった。

年譜ねんぷ

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  • 1940ねん8がつ - 水戸みと陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこうない陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう設置せっち
  • 1940ねん10がつ - 陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう東茨城ひがしいばらきぐん移転いてん
  • 1943ねん9がつ - 陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう加古川かこがわ教育きょういくたいほか教育きょういくたい設置せっち
  • 1944ねん4がつ - 陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう長岡ながおか教育きょういくたいほか教育きょういくたい設置せっち
  • 1945ねん4がつ - 陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう水戸みと教導きょうどう航空こうくう通信つうしん師団しだん加古川かこがわ教育きょういくたいとう加古川かこがわ教導きょうどう航空こうくう通信つうしんだん改編かいへん
  • 1945ねん8がつ - 終戦しゅうせんにより廃止はいし

歴代れきだい校長こうちょうとう

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陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう

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  • 藤田ふじたとも 中将ちゅうじょう:1940ねん8がつ1にち - 1941ねん10がつ15にち
  • 藤沢ふじさわ繁三しげぞう 少将しょうしょう:1941ねん10がつ15にち - 1943ねん8がつ3にち
  • 安達あだち三朗さぶろう 大佐たいさ:1943ねん8がつ3にち - 1944ねん5がつ10日とおか[14](1944ねん3がつ1にち少将しょうしょう進級しんきゅう[15]
  • いたはな義一ぎいち 中将ちゅうじょう:1944ねん5がつ10日とおか[14] - 1944ねん8がつ8にち[16]
  • 田中たなか友道ともみち 少将しょうしょう:1944ねん8がつ8にち[16] - 1945ねん5がつ3にち[17](1945ねん4がつ30にち中将ちゅうじょう進級しんきゅう[18]

水戸みと教導きょうどう航空こうくう通信つうしん師団しだん

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教導きょうどう航空こうくう通信つうしん師団しだん編成へんせいにより、それまでの校長こうちょう師団しだんちょうとなった。ただし通常つうじょう師団しだんちょう天皇てんのうより直接ちょくせつ辞令じれいけるおや補職ほしょくであるのにたいし、水戸みと教導きょうどう航空こうくう通信つうしん団長だんちょうおや補職ほしょくではなかった。

  • 田中たなか友道ともみち 中将ちゅうじょう:1945ねん5がつ3にち[17] -

加古川かこがわ教導きょうどう航空こうくう通信つうしんだん

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陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう教育きょういくたいのうち、遠隔えんかくにあるものは加古川かこがわ教育きょういくたい基幹きかんとして加古川かこがわ教導きょうどう航空こうくう通信つうしんだん編成へんせいした。団長だんちょうには陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこうであった渡辺わたなべ粂一少将しょうしょう補職ほしょくされた。

  • 渡辺わたなべ粂一 少将しょうしょう:1945ねん5がつ3にち[17] -
だい1教育きょういくたい加古川かこがわ
  • 内藤ないとう二三男ふみお 中佐ちゅうさ:1945ねん5がつ3にち[17] -
だい2教育きょういくたい尾上おのえ
  • 大野おおの南海なみ 中佐ちゅうさ:1945ねん5がつ3にち[17] -
だい3教育きょういくたい神野かみの
  • 松下まつしたたかし 少佐しょうさ:1945ねん5がつ3にち[17] -
だい4教育きょういくたい菊池きくち
  • 吉村よしむらきよし 中佐ちゅうさ:1945ねん5がつ3にち[17] -

陸軍りくぐん電波でんぱ兵器へいき練習れんしゅう

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だい1教育きょういくたい長岡ながおか
  • 八木やぎあきら 中佐ちゅうさ:1945ねん5がつ3にち[17] -

卒業生そつぎょうせい

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関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 隷属れいぞく(れいぞく)とは固有こゆう上級じょうきゅうしゃ指揮しき監督かんとくはいること。たん指揮しき系統けいとうだけでなく、統御とうぎょ経理けいり衛生えいせいなどの全般ぜんぱんにおよぶ。『帝国ていこく陸軍りくぐん編制へんせい総覧そうらん だいいちかん』61ぺーじ
  2. ^ 材料ざいりょうしょう(ざいりょうしょう)とは、器材きざい修理しゅうり補給ほきゅう管理かんりなどをおこな部署ぶしょのこと。
  3. ^ この場合ばあい軍隊ぐんたいとは陸軍りくぐん全体ぜんたいを「軍隊ぐんたい」「官衙かんが(かんが)」「学校がっこう」「特務とくむ機関きかん」の4つに分類ぶんるいしたうちの1つ。師団しだんとう司令しれいおよび部隊ぶたい総称そうしょうかんがえてよい。
  4. ^ 軍令ぐんれい正式せいしき名称めいしょうは「水戸みと教導きょうどう航空こうくう通信つうしん師団しだん加古川かこがわ教導きょうどう航空こうくう通信つうしんだん臨時りんじ編成へんせい陸軍りくぐん電波でんぱ兵器へいき練習れんしゅう編制へんせい改正かいせい要領ようりょう」。

出典しゅってん

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  1. ^ 陸軍りくぐん航空こうくう軍備ぐんび運用うんよう (2)』196-206ぺーじ
  2. ^ 陸軍りくぐん航空こうくう軍備ぐんび運用うんよう (2)』207-209ぺーじ
  3. ^ 署名しょめい原本げんぽん昭和しょうわじゅうねんみことのりれいだいよんきゅうきゅうごう陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこうれい(国立こくりつ公文書こうぶんしょかん)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A03022489900 
  4. ^ 陸軍りくぐん航空こうくう軍備ぐんび運用うんよう (2)』209ぺーじ
  5. ^ 彙報いほう 陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう設置せっち 官報かんぽうだい4090ごう、1940ねん8がつ23にち
  6. ^ 彙報いほう 陸軍りくぐん航空こうくう通信つうしん学校がっこう移転いてん 官報かんぽうだい4145ごう、1940ねん10がつ30にち
  7. ^ 陸軍りくぐんぐん戦備せんび』381-382ぺーじ
  8. ^ 陸軍りくぐん異動いどう通報つうほう2/6 昭和しょうわ19ねん(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C12120908000 
  9. ^ 水戸みと航空こうくう通信つうしん師団しだん 加古川かこがわ教導きょうどう航空こうくう通信つうしんだん臨時りんじ編成へんせい 陸軍りくぐん電波でんぱ兵器へいき練習れんしゅう編制へんせい改正かいせい要領ようりょう どう細則さいそく あきら20.4.28(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C14010707100 
  10. ^ 陸軍りくぐんぐん戦備せんび』487ぺーじ
  11. ^ 陸軍りくぐん航空こうくう軍備ぐんび運用うんよう (3)』423-424ぺーじ
  12. ^ a b c d e f g 近代きんだい茨城いばらき肖像しょうぞう>(34)水戸みと教導きょうどう航空こうくう通信つうしん師団しだん 日本にっぽんの2番目ばんめなが”. 東京とうきょう新聞しんぶん (2024ねん8がつ11にち). 2024ねん8がつ11にち閲覧えつらん
  13. ^ 本土ほんど決戦けっせん準備じゅんび (1) 関東かんとう防衛ぼうえい』583-584ぺーじ
  14. ^ a b 陸軍りくぐん異動いどう通報つうほう 3/6 昭和しょうわ19ねん(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C12120908900 
  15. ^ 陸軍りくぐん異動いどう通報つうほう 2/6 昭和しょうわ19ねん(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C12120903500 
  16. ^ a b 陸軍りくぐん異動いどう通報つうほう 4/6 昭和しょうわ19ねん7がつ1にち~8がつ31にち(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C12120916500 
  17. ^ a b c d e f g h 陸軍りくぐん異動いどう通報つうほう 3/4 昭和しょうわ20ねん(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C12120941300 
  18. ^ 陸軍りくぐん異動いどう通報つうほう 3/4 昭和しょうわ20ねん(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C12120941100 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • はたいくへん日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてん初版しょはん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1991ねん
  • 外山とやまみさお森松もりまつ俊夫としお編著へんちょ帝国ていこく陸軍りくぐん編制へんせい総覧そうらん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1987ねん
  • 外山とやまみさお森松もりまつ俊夫としお編著へんちょ帝国ていこく陸軍りくぐん編制へんせい総覧そうらん だいいちかん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1993ねん
  • はらつよし安岡やすおか昭男あきおへん日本にっぽん陸海りくかいぐん事典じてんコンパクトばんうえ)』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2003ねん
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ本土ほんど決戦けっせん準備じゅんび (1) 関東かんとう防衛ぼうえいちょうくも新聞しんぶんしゃ戦史せんし叢書そうしょ〉、1971ねん
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ陸軍りくぐん航空こうくう軍備ぐんび運用うんよう (2) 昭和しょうわじゅうななねん前期ぜんきまで』ちょうくも新聞しんぶんしゃ戦史せんし叢書そうしょ〉、1974ねん
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ陸軍りくぐん航空こうくう軍備ぐんび運用うんよう (3) だい東亜とうあ戦争せんそう終戦しゅうせんまで』ちょうくも新聞しんぶんしゃ戦史せんし叢書そうしょ〉、1976ねん
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ陸軍りくぐんぐん戦備せんびちょうくも新聞しんぶんしゃ戦史せんし叢書そうしょ〉、1979ねん

関連かんれん項目こうもく

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