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大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん歴史れきし

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大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん歴史れきし(だいにほんていこくりくぐんのれきし)。

やく260ねんつづいた江戸えど幕府ばくふ倒幕とうばく運動うんどう機運きうん渦巻うずまなか1867ねん11月9にち慶応けいおう3ねん10がつ14にち)の大政奉還たいせいほうかんのあと、1868ねん1がつ3にち慶応けいおう3ねん12月9にち王政おうせい復古ふっこ天皇てんのう親政しんせいはかしん政府せいふとのあいだ戊辰戦争ぼしんせんそうきた。結果けっかしん政府せいふがわ勝利しょうりし、いわゆる明治維新めいじいしんのもと、西欧せいおうてき近代きんだい国家こっかにふさわしい軍備ぐんびととのえようとした。

けんぐん

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鳥羽とば伏見ふしみたたか(1868ねん

大政奉還たいせいほうかんのもとしん政府せいふ天皇てんのう親政しんせい目指めざして権力けんりょく基盤きばんたる兵権へいけん掌握しょうあくはかった。しかし、統一とういつされた軍備ぐんびととのえるには資金しきん人材じんざいそして時間じかんりなかった。そのため当初とうしょ長州ちょうしゅうはん薩摩さつまはんなどのしょはんへいあいだわせるしかなかった。

鳥羽とば伏見ふしみたたかはしはっする戊辰戦争ぼしんせんそう急速きゅうそく拡大かくだいしん政府せいふ直属ちょくぞく軍隊ぐんたい編成へんせいいそぎ、1868ねん慶応けいおう4ねん1がつ17にち)に軍務ぐんむ担当たんとうする機関きかんとして海陸かいりくぐん新設しんせつした。そのぐんぼう事務じむきょく慶応けいおう4ねん2がつ3にち)、軍務ぐんむかん慶応けいおう4ねんうるう4がつ21にち)、兵部ひょうぶしょう明治めいじ2ねん7がつ8にち)と、次々つぎつぎ改称かいしょう編組へんそおこなわれた。兵部ひょうぶきょう小松こまつみやあきらじん親王しんのうが、兵部ひょうぶ大輔だいすけ大村おおむら益次郎えきじろうにんぜられた。大村おおむら在任ざいにん期間きかんは1ねんはんみじかかったが兵権へいけん確立かくりつについて

  • うみ陸軍りくぐんしょう建設けんせつすること
  • うみりくへい学寮がくりょう建築けんちくすること
  • 陸軍りくぐん屯所とんしょ兵営へいえい)を建築けんちくすること
  • 銃砲じゅうほう火薬かやく製造せいぞうしょつくること
  • 軍医ぐんい病院びょういん設立せつりつすること

以上いじょう5てん基本きほん目標もくひょうにし、能率のうりつ官僚かんりょう組織そしき野武士のぶしそのままであったはんへいさい編成へんせいすることとなった。

板垣いたがき退助たいすけ

戊辰戦争ぼしんせんそう勝利しょうりした板垣いたがき退助たいすけは、おやへい創設そうせつ構想こうそうして、明治めいじ2ねん1869ねん)5がつ旧幕きゅうばくがわフランスじん将校しょうこう・アントアンや、きゅう伝習でんしゅうたい沼間ぬまま守一しゅいちらを土佐とさはん迅衝たい軍事ぐんじ顧問こもん採用さいよう。フランスしき練兵れんぺいおこない、さらに国民こくみん皆兵かいへい断行だんこうするため、明治めいじ3ねん1870ねん11月7にち全国ぜんこく先駆さきがけて「人民じんみん平均へいきん」を布告ふこくし、四民しみん平等びょうどう国防こくぼうにんすることせんした[1]

明治めいじ2ねん6がつ17にち新暦しんれき1869ねん7がつ25にち)に版籍はんせき奉還ほうかんされたが依然いぜんとしてかくはん勢力せいりょくあなどりがたく、明治めいじしん政府せいふはこれらに対抗たいこう統制とうせいするために天皇てんのうちょく隷の軍隊ぐんたいつことを必要ひつようとしていた。明治めいじ3ねん2がつかくはん常備じょうび定員ていいんさだめられ、同年どうねん8がつ欧米おうべい軍事ぐんじ視察しさつえた山県やまがた有朋ありとも西郷さいごう従道つぐみちらが帰国きこく兵部ひょうぶしょうりしたのちどう10がつかくはんごとばらばらであったへいしきフランス陸軍りくぐんしき統一とういつし、改革かいかくすすめた。しん政府せいふ富国強兵ふこくきょうへい国策こくさくかかげ、11月13にち新暦しんれき1871ねん1がつ3にち)には徴兵ちょうへい規則きそく制定せいていされた。12月には常備じょうびへい編制へんせいほうもうけられかくはん兵制へいせい規格きかく統一とういつはかった。明治めいじ4ねん2がつ13にち薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはん土佐とさはんけんじへいやく6,000めいからなるおやへい組織そしきされ、4がつには東北とうほく地方ちほう東山ひがしやまみち鎮台ちんだい本営ほんえい石巻いしのまき)、九州きゅうしゅう西海にしうみみち鎮台ちんだい本営ほんえい小倉おぐら)の2箇所かしょ鎮台ちんだいこととなった。このおやへい鎮台ちんだい常備じょうび兵力へいりょく背景はいけいしん政府せいふ明治めいじ4ねん7がつ14にち新暦しんれき1871ねん8がつ29にち廃藩置県はいはんちけん断行だんこうし8がつには懸案けんあんであったかくはん士族しぞくへい解散かいさんさせ、そのうちの志願しがんしゃから(これをたけしへいという)東京とうきょう大阪おおさか鎮西ちんぜい東北とうほくの4かしょ新設しんせつされる鎮台ちんだい員数いんずうてた。その兵部ひょうぶ省内しょうない陸軍りくぐん海軍かいぐんもうけられ、兵制へいせいおおきく変化へんかしん体制たいせいととのえられた明治めいじ4ねん近代きんだい日本にっぽん陸軍りくぐんはじまりである。

明治めいじ5ねん11月に徴兵ちょうへいれい施行しこう兵役へいえき区分くぶん明文化めいぶんかされ、明治めいじ6ねん1がつ発布はっぷ歩兵ほへい騎兵きへい砲兵ほうへい工兵こうへい輜重しちょうへいごとに常備じょうびぐん部隊ぶたい編入へんにゅうされかく鎮台ちんだい入営にゅうえいした。おなじく1がつには軍制ぐんせい改正かいせいがなされ、6鎮台ちんだい・6ぐんかんにし逐次ちくじ定員ていいん充足じゅうそくした。1872ねん明治めいじ5ねん)2がつ兵部ひょうぶしょう陸軍りくぐんしょう海軍かいぐんしょう分離ぶんりして新設しんせつされ陸海りくかいぐん中央ちゅうおう機関きかん分立ぶんりつした。この時点じてんって公用こうよう呼称こしょうとして海陸かいりくぐんから陸海りくかいぐんあらためられおやへい近衛このえへい改称かいしょう近衛このえきょくをおき、近衛このえとく天皇てんのうちょく隷となった。

明治めいじ7ねんになり近衛このえ鎮台ちんだい歩兵ほへい大隊だいたいせいから連隊れんたいせい移行いこう天皇てんのうから軍旗ぐんき親授しんじゅされた。北海道ほっかいどうだい7ぐんかん管轄かんかつであったが鎮台ちんだいもうけられず、かわりに屯田とんでんへいかれはんのうはんへいにして憲兵けんぺい身分みぶん屯田とんでんへい北海道ほっかいどう開拓かいたくたいロシア防備ぼうびにんいた。

急速きゅうそく兵制へいせい改革かいかく兵力へいりょく拡大かくだいぐん幹部かんぶ不足ふそくまねき、これらの養成ようせい急務きゅうむであり各種かくしゅ学校がっこう整備せいびすすめられた。慶応けいおう4ねん7がつ京都きょうとへい学校がっこうが、明治めいじ2ねんへい学校がっこう兵学へいがくしょ改称かいしょうし、横浜よこはまには語学ごがくしょかれフランス語ふらんすご教育きょういくがなされ京都きょうと河東かとう仏式ぶっしき伝習でんしゅうしょもうけられた。大阪おおさかにはへい学寮がくりょうがおかれ、これらの学校がっこう機関きかん逐次ちくじ吸収きゅうしゅうし、青年せいねん学舎がくしゃ幼年ようねん学舎がくしゃ教導きょうどうたい組織そしきされた。明治めいじ3ねん11月には海軍かいぐんへい学寮がくりょう改称かいしょうにあわせて大阪おおさかへい学寮がくりょう陸軍りくぐんへい学寮がくりょうあらため、明治めいじ4ねんまつには近畿きんき地方ちほうにあった教育きょういく機関きかん逐次ちくじ東京とうきょう移転いてんした。1873ねん明治めいじ6ねん)8がつ教導きょうどうたいへい学寮がくりょうから独立どくりつして下士官かしかん教育きょういく担当たんとうする陸軍りくぐん教導きょうどうだんに、1874ねん明治めいじ7ねん)11月に陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうが、1875ねん明治めいじ8ねん)5がつ陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう陸軍りくぐん戸山とやま学校がっこうもうけられ、従来じゅうらいへい学寮がくりょう廃止はいしされた。さらに陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう1877ねん明治めいじ10ねん)1がつ廃止はいしされ、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうれられ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう幼年ようねん生徒せいととなった。

しょ暴動ぼうどう西南せいなん戦争せんそう

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戊辰戦争ぼしんせんそう以降いこう日本にっぽん各地かくちではしん政府せいふ反対はんたいする士族しぞく農民のうみんによる暴動ぼうどう頻発ひんぱつしていた(士族しぞく反乱はんらん参照さんしょう)。これらのおおくははんへいによって鎮圧ちんあつされていた。鎮台ちんだい設置せっち以後いご国内外こくないがい防衛ぼうえい政府せいふ責任せきにんとなったが兵制へいせいはなは不十分ふじゅうぶん依然いぜんとしてきゅう藩士はんしたよらなければならなかった。明治めいじ2ねん12月1にちグレゴリオれき1870ねん1がつ2にち)、山口やまぐちはんないにてだいらく源太郎げんたろうよる兵隊へいたいあつかいをめぐるだつたい騒動そうどうでは山口やまぐちはんへい徴兵ちょうへい1個いっこ大隊だいたいをもって不平ふへいたい鎮圧ちんあつし、そのきょう事件じけん政府せいふ四条しじょうたかし少将しょうしょう派遣はけん鹿児島かごしま熊本くまもと山口やまぐち徴兵ちょうへい部隊ぶたいひきいてこれを鎮圧ちんあつした。この時期じき暴動ぼうどうとしてはもっと悲劇ひげきてきであった。1873ねん明治めいじ6ねん以降いこう血税けつぜい一揆いっきでも各地かくち徴兵ちょうへい部隊ぶたいによる鎮圧ちんあつ活動かつどうおこなわれた。

1874ねん明治めいじ7ねん以降いこう最早もはや暴動ぼうどう次元じげんえ、計画けいかくてき組織そしきてきおこなわれ内乱ないらん様相ようそうていしつつあった。同年どうねん2がつ佐賀さがらん1876ねん明治めいじ9ねん)10がつかみ風連ふうれんらん同年どうねん11がつはぎらん鎮台ちんだい部隊ぶたい出動しゅつどうした。さらに1874ねん明治めいじ7ねん)4がつから10がつまで台湾たいわん出兵しゅっぺいおこなわれた。これは日本にっぽん陸軍りくぐんはつ国外こくがい派遣はけんとなった。

明治めいじろくねん政変せいへんせいかんろん政変せいへん)にはしはっする西郷さいごう隆盛たかもりらの下野げやにより1877ねん明治めいじ10ねん)2がつ西南せいなん戦争せんそう勃発ぼっぱつ有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう征討せいとうだい総督そうとくにんだい1・だい2・だい3旅団りょだん派遣はけんした。これが日本にっぽん陸軍りくぐんでははじめての臨時りんじではあるが旅団りょだんせいである。戦局せんきょく急迫きゅうはくともない、だい4旅団りょだんべつはたらけだい1・べつはたらけだい2・べつはたらけだい3・べつはたらけだい4旅団りょだん編成へんせい派遣はけん終局しゅうきょくごろにはべつはたらけだい5旅団りょだん新撰しんせん旅団りょだん編成へんせい派遣はけんした。このうちべつはたらけだい3・べつはたらけだい4旅団りょだん新撰しんせん旅団りょだん兵士へいし鎮台ちんだいへい不足ふそくにより警視庁けいしちょう警察官けいさつかん急遽きゅうきょ兵士へいし仕立したて戦場せんじょうおくられたものである(警視けいしたい)。7ヶ月かげつあいだおよ激戦げきせん官軍かんぐん勝利しょうりわった。勝因しょういんとしては最高さいこう統帥とうすい政略せいりゃく戦略せんりゃくみょう陸海りくかいぐん協調きょうちょう兵站へいたん整備せいびしょ条件じょうけん適切てきせつ運用うんようにあった。この戦争せんそう誕生たんじょうあいだもない日本にっぽん陸軍りくぐんにまたとないせんくんあたえ、問題もんだいてんもあらわにした。すなわち戦闘せんとう訓練くんれん未熟みじゅく将兵しょうへい精神せいしん教育きょういく徹底てってい指揮しきかん指揮しき能力のうりょく不十分ふじゅうぶん徴兵ちょうへい組織そしき不備ふび動員どういん体制たいせい欠陥けっかんなどである。

初期しょき予算よさん配分はいぶん

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西南せいなん戦争せんそういたるまでのぐん予算よさんは、明治めいじ4ねん9月(グレゴリオれき1871ねん10がつ)に陸海りくかいぐんじょうさだめられ、陸軍りくぐん100まんりょう海軍かいぐん50まんりょうとなった。さら陸軍りくぐんには定額ていがくがい25まんりょう配分はいぶんされた、これは内乱ないらん鎮圧ちんあつとして計上けいじょうされていた。1872ねん明治めいじ5ねん)からはかんろく月給げっきゅう支払しはらいを陸軍りくぐん定額ていがく予算よさんまかなうようになった、それまで陸軍りくぐんかんろく月給げっきゅう大蔵省おおくらしょう支払しはらっていた。1874ねん明治めいじ7ねん)からは宮中きゅうちゅう用金ようきん36,000えん年々ねんねん兵備へいび充当じゅうとう軍備ぐんび増強ぞうきょう邁進まいしんしていたが、実際じっさいには毎年まいとし余剰よじょう予算よさん大蔵省おおくらしょう返還へんかんしていた。しかし、1880ねん明治めいじ13ねん)には政府せいふ放漫ほうまん財政ざいせい支出ししゅつ原因げんいんとする物価ぶっか高騰こうとうにより陸軍りくぐん圧迫あっぱくされていた。維新いしん開始かいし以来いらい政府せいふ軍事ぐんじ優先ゆうせんてきてていたが、開国かいこく以来いらいそれほど時間じかん経過けいかせず西欧せいおうてき資本しほん主義しゅぎ体制たいせいれた明治めいじ日本にっぽん経済けいざい近代きんだい軍備ぐんび整備せいび維持いじするための経済けいざい基盤きばん発展はってん途上とじょう成熟せいじゅくであった。

対外たいがい軍備ぐんび拡張かくちょう

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西南せいなん戦争せんそうさい編制へんせい

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西南せいなん戦争せんそう、そのせんくん自由じゆう民権みんけん運動うんどうによる政変せいへんへの対応たいおうから陸軍りくぐん即応そくおうせい確立かくりつ天皇てんのうおやそつ体制たいせいへの改善かいぜんはかられた。ぐん作戦さくせん活動かつどう国政こくせいからはな自由じゆう迅速じんそくおこなうことを目的もくてきとし、1878ねん明治めいじ11ねん)にドイツ陸軍りくぐん兵制へいせいはんにとり、参謀さんぼう本部ほんぶかんぐん本部ほんぶ設置せっちされた。軍令ぐんれい機構きこう太政官だじょうかん政府せいふから天皇てんのうちょく隷となり、陸軍りくぐん軍令ぐんれい軍政ぐんせい所掌しょしょう機関きかんもと組織そしきとなった。

おなじく1878ねん8がつ竹橋たけばし事件じけんき、ほかにも規律きりつじょう問題もんだい案件あんけん自由じゆう民権みんけん運動うんどうたかまりとともに政治せいじ関与かんよする軍人ぐんじんしょ事件じけんとうきていた。軍人ぐんじん規律きりつまもらせるにあたり、兵部ひょうぶしょう明治めいじ5ねん読法布告ふこくほかにも褒賞ほうしょう処罰しょばつとう規則きそくさだめられていたが、竹橋たけばし事件じけん陸軍りくぐんきょう山県やまがた有朋ありとも軍人ぐんじん訓戒くんかい配布はいふ軍人ぐんじん道徳どうとく確立かくりつはかったがその内容ないよう旧来きゅうらい封建ほうけん武士ぶしどうにおける君主くんしゅ武士ぶし関係かんけい天皇てんのう軍人ぐんじんえただけであり効果こうかてきではなかった。1879ねん明治めいじ12ねん)に東京とうきょう招魂しょうこんしゃ靖国神社やすくにじんじゃ改称かいしょううえ別格べっかくかんぬさしゃとした。この管轄かんかつ内務省ないむしょう陸海りくかいぐんしょうとなり、戦死せんし名誉めいよとしてありかた確立かくりつされ士気しき向上こうじょうさせた。1881ねん明治めいじ14ねん)1がつ憲兵けんぺい陸軍りくぐん兵科へいかひとつとしてもうけられ、東京とうきょう憲兵けんぺい本部ほんぶかれ、12月には陸軍りくぐん刑法けいほうさだめられた。1882ねん明治めいじ15ねん1がつ4にち天皇てんのう軍人ぐんじんみことのりさとし下賜かしした。

軍人ぐんじん処遇しょぐう賞罰しょうばつをめぐるしょ制度せいど整備せいび平行へいこう各種かくしゅぐん学校がっこう充実じゅうじつ発展はってんにも意欲いよくそそがれた。1877ねん明治めいじ10ねん)に陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう合併がっぺい、1882ねん11月に参謀さんぼう養成ようせいのため陸軍りくぐんだい学校がっこうもうけ、1887ねん明治めいじ20ねん)6がつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう官制かんせい陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう官制かんせいさい制定せいていのうえで士官しかん候補こうほ制度せいどもうけられだい1期生きせい翌年よくねん1888ねん明治めいじ21ねん)11月に陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう入学にゅうがくした。1897ねん明治めいじ30ねん)に陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうさい設置せっちされた。これらの学校がっこう以外いがいにも1886ねん明治めいじ19ねん)から1889ねん明治めいじ22ねん)にかけて、陸軍りくぐん砲兵ほうへい射的しゃてき学校がっこう陸軍りくぐん軍医ぐんい学校がっこう陸軍りくぐん獣医じゅうい学校がっこう陸軍りくぐん経理けいり学校がっこう陸軍りくぐん乗馬じょうば学校がっこう陸軍りくぐんほうこう学校がっこうひとし整備せいびされた。

フランスしきからドイツしきへの移行いこう近代きんだい兵備へいび進歩しんぽ

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1870ねん7がつ19にち発生はっせいしたひろしふつ戦争せんそう翌年よくねん1871ねん5がつにドイツの勝利しょうりわった。幕末ばくまつには幕府ばくふ陸軍りくぐんはフランス陸軍りくぐんしき紀州きしゅうはんぐんプロイセン陸軍りくぐんしきなどをバラバラに採用さいようしていたところを陸軍りくぐんはフランスしき統一とういつしていた。しかし、陸軍りくぐんだい学校がっこうでの教官きょうかん不足ふそく深刻しんこく人材じんざい育成いくせいのためにドイツに駐在ちゅうざい武官ぶかんとして赴任ふにん経験けいけんのあるかつら太郎たろう進言しんげんにより陸軍りくぐんはドイツからぐん制度せいど用兵ようへいまなぶこととなり、1885ねん明治めいじ18ねん)3がつにドイツ陸軍りくぐん参謀さんぼう少佐しょうさクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル招聘しょうへいし、在職ざいしょく3年間ねんかんつうじて陸軍りくぐん大改革だいかいかく絶大ぜつだい影響えいきょうおよぼした。

メッケルのきびしい指導しどうした陸軍りくぐんだい学校がっこう改革かいかく漸次ぜんじすすめられた。これとわせ陸軍りくぐんしょ政策せいさく全般ぜんぱんも1887ねんごろからドイツ陸軍りくぐんしき順次じゅんじ転換てんかんされた。1891ねん明治めいじ24ねん)に改正かいせいされた歩兵ほへい操典そうてんはドイツ陸軍りくぐん操典そうてん(ドイツ本国ほんごくで1888ねん改正かいせい)にはんをとったものになった。当時とうじ日本にっぽん陸軍りくぐん単発たんぱつしき小銃しょうじゅう主流しゅりゅうであったが連発れんぱつしき小銃しょうじゅう対応たいおうしたドイツ陸軍りくぐん操典そうてん導入どうにゅうしフランスりくしき守勢しゅせいてき主義しゅぎからドイツ陸軍りくぐん特有とくゆう攻勢こうせい主義しゅぎ短期たんき決戦けっせん用兵ようへい思想しそうれた。

戦術せんじゅつとともに兵器へいき進歩しんぽいちじるしくわった。1880ねん明治めいじ13ねん)に村田むらた経芳つねよし少佐しょうさ発明はつめいした村田むらたじゅう採用さいようされ逐次ちくじ改良かいりょううえ更新こうしんされた。大阪おおさか砲兵ほうへい工廠こうしょうでも75mm山砲さんぽう生産せいさん開始かいしした。このほう当初とうしょクルップしゃせい採用さいようしようとしたが、日本にっぽん鉄鉱てっこうせき産出さんしゅつりょうすくなくイタリアせいはがね青銅せいどうかた採用さいようされた。

鎮台ちんだいせいから師団しだんせい

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西南せいなん戦争せんそう明治めいじ政府せいふ朝鮮半島ちょうせんはんとうへの進出しんしゅつ機会きかいをうかがっていたが、1875ねん9がつ江華島こうかとう事件じけん、1882ねん7がつみずのえうま事変じへん、1884ねん12月のきのえさる政変せいへん朝鮮ちょうせんとその背後はいごにあるきよしとの関係かんけい武力ぶりょく衝突しょうとつにまで発展はってんするほど悪化あっかした。

1882ねん陸軍りくぐん朝鮮半島ちょうせんはんとうめぐる時局じきょく変化へんか要求ようきゅうしたがい、軍備ぐんび拡充かくじゅう計画けいかく立案りつあん、1884ねんからじゅうヵ年かねん計画けいかくすすめる予定よていでいた。つまり外征がいせい目的もくてきとした近代きんだい軍備ぐんび整備せいび大幅おおはば増強ぞうきょうはかろうとした。1888ねん明治めいじ21ねん)5がつ12にち鎮台ちんだいせい廃止はいしとなりあらたに師団しだんせい採用さいようされた。1889ねん1がつには徴兵ちょうへいれいだい改正かいせいおこなわれ、戦時せんじには平時へいじの3ばい兵員へいいん動員どういん組織そしきできるように計画けいかくすすめた。これらの改革かいかくにより統帥とうすい近代きんだい兵備へいび教育きょういく訓練くんれんとう充実じゅうじつさせ外征がいせいぐんとしての実力じつりょくそなえた。

中央ちゅうおう機構きこう改編かいへん

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1885ねん明治めいじ18ねん)12月、政府せいふ太政官だじょうかんせいあらた内閣ないかくせい採用さいようした。これにともな陸軍りくぐんきょう陸軍りくぐん大臣だいじんとなりわせて陸軍りくぐんしょう改組かいそおこなわれた。1886ねん明治めいじ19ねん)3がつ従来じゅうらい陸軍りくぐん中央ちゅうおう軍令ぐんれい機構きこうである参謀さんぼう本部ほんぶ陸海りくかいぐん統合とうごう中央ちゅうおう軍令ぐんれい機関きかんとしての参謀さんぼう本部ほんぶあらためられた。1893ねん明治めいじ26ねん)に海軍かいぐん軍令ぐんれい独立どくりつ平時へいじ参謀さんぼう本部ほんぶ軍令ぐんれい並列へいれつして天皇てんのうちょく隷されることとなる。これと同時どうじ戦時せんじ大本営だいほんえい条例じょうれい制定せいていされ戦時せんじには大本営だいほんえいもうけられ軍令ぐんれい部長ぶちょう参謀さんぼう総長そうちょう指揮しきはい戦争せんそう指導しどうする体制たいせいもうけられた。

1885ねん5がつにはかんぐん本部ほんぶ廃止はいしされかん軍部ぐんぶあらためられたが有名ゆうめい無実むじつうち廃止はいしされた。1888ねん5がつ前回ぜんかいかん軍部ぐんぶとはことなるかん軍部ぐんぶもうけられた。これは天皇てんのうちょく隷のかんぐんいて陸軍りくぐん軍隊ぐんたいねりなり斉一せいいつぶんまわしかくすることを目的もくてきとし、教育きょういく総監そうかん前身ぜんしんとなった。このかんぐんしたには、将校しょうこう学校がっこうかん騎兵きへいかん工兵こうへいかん輜重しちょうへいかん、がかれた。

にちしんにち戦争せんそう

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だいいち世界せかい大戦たいせんとシベリア出兵しゅっぺい

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まんしゅう事変じへんしょ紛争ふんそう

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にちちゅう戦争せんそう軍備ぐんび膨脹ぼうちょう

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たいえいべい戦争せんそうだい世界せかい大戦たいせん

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終焉しゅうえん復員ふくいん事業じぎょう

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脚注きゃくちゅう

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関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • もりまつ俊夫としお図説ずせつ陸軍りくぐん』(けん帛社、1992ねん改訂かいていばん
  • 生田いくたあつし日本にっぽん陸軍りくぐん』(教育きょういくしゃ、1980ねん
  • はたいくろく 日本にっぽんさい軍備ぐんび』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1976ねん