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村田むらたじゅう

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村田むらたじゅう
じゅうさんねんしき村田むらたじゅううえ)とじゅうねんしき村田むらた連発れんぱつじゅうした)。
種類しゅるい ボルトアクション方式ほうしき歩兵ほへいじゅう
はら開発かいはつこく 日本の旗 日本にっぽん
運用うんよう
配備はいびさき 日本にっぽん
きよし (鹵獲ろかく売却ばいきゃく)
カティプナン (売却ばいきゃく)
フィリピンだいいち共和きょうわこく (売却ばいきゃく)
関連かんれん戦争せんそう紛争ふんそう 日本にっぽんぐん
にちしん戦争せんそう
おつ戦争せんそう
義和よしかずだんらん
にち戦争せんそう
だいいち世界せかい大戦たいせん
フィリピン革命かくめいぐん
フィリピン独立どくりつ革命かくめい
べい西にし戦争せんそう
べい戦争せんそう
きりしゃ事件じけん
開発かいはつ
製造せいぞう期間きかん 1880ねん1905ねん
派生はせいがた じゅうさんねんしき村田むらたじゅう
じゅうろくねんしき村田むらた騎銃きじゅう
じゅうはちねんしき村田むらたじゅう
じゅうはちねんしき村田むらた騎銃きじゅう
じゅうねんしき村田むらた連発れんぱつじゅう
じゅうねんしき村田むらた連発れんぱつ騎銃きじゅう
猟銃りょうじゅう
しょもと
重量じゅうりょう 4.09kg
全長ぜんちょう 1294mm
銃身じゅうしんなが 840mm

弾丸だんがん 11mm村田むらただん(11×60mmR Murata)
8mm村田むらた(8x53Rmm Japanese Murata)
口径こうけい 11mm
8mm
作動さどう方式ほうしき ボルトアクション
初速しょそく 435m/s
装填そうてん方式ほうしき 単発たんぱつ
(じゅうさんねんしき, じゅうろくねんしき,じゅうはちねんしき, 村田むらたしき散弾さんだんじゅう)
管状かんじょう弾倉だんそう5はつ・8はつ
(じゅうねんしき村田むらた連発れんぱつじゅう, じゅうねんしき村田むらた連発れんぱつ騎銃きじゅう)
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村田むらたじゅう(むらたじゅう)は、薩摩さつまはん日本にっぽん陸軍りくぐん火器かき専門せんもんだった村田むらた経芳つねよしがフランスのグラースじゅう国産こくさんはか過程かてい開発かいはつし、1880ねん明治めいじ13ねん)に日本にっぽんぐん採用さいようした最初さいしょ国産こくさん小銃しょうじゅう。1880ねん3がつ30にち陸軍りくぐんしょう少将しょうしょう村田むらた経芳つねよし作製さくせい単発たんぱつじゅう軍用ぐんよう指定していした[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

村田むらたじゅう設計せっけいしゃ村田むらた経芳つねよし

明治維新めいじいしん前後ぜんごころには国内こくない様々さまざま輸入ゆにゅう小銃しょうじゅう使用しようされており[2]けんぐん直後ちょくご日本にっぽんぐんでも、陸軍りくぐんイギリスせいスナイドルじゅう海軍かいぐんどうマルティニ・ヘンリーじゅうおも使用しようしていたが、村田むらた経芳つねよしじゅうさんねんしき村田むらたじゅう製造せいぞう成功せいこうしたことで、はじめて「ぐんじゅう一定いってい」(主力しゅりょく小銃しょうじゅう統一とういつ一本いっぽん)がげられた。このことがこうにちしん戦争せんそうにおいて、雑多ざった小銃しょうじゅうもちいるきよしぐんたいし、日本にっぽんぐん優位ゆういにつながる一因いちいんとなった。

村田むらたじゅう出現しゅつげん火縄銃ひなわじゅう以来いらいの300ねん欧米おうべいとのギャップをめ、国産こくさんじゅう欧州おうしゅう水準すいじゅんげた。また、旧式きゅうしきしたのち民間みんかんはらげられ、戦前せんぜん戦後せんごつう日本にっぽんにおける代表だいひょうてき猟銃りょうじゅうとなった。

開発かいはつ運用うんよう[編集へんしゅう]

村田むらたじゅう出現しゅつげんまで[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい後期こうきはいり、阿片あへん戦争せんそうなど欧米おうべい列強れっきょうアジア侵略しんりゃく露骨ろこつし、日本にっぽん国内こくないでも西欧せいおう軍事ぐんじ技術ぎじゅつ研究けんきゅうさかんになり、各種かくしゅ銃砲じゅうほう積極せっきょくてき輸入ゆにゅうされるようになった。これらの銃砲じゅうほう国産こくさんしようと努力どりょくしたしょはんのうち、集成しゅうせいかん事業じぎょうによってだい規模きぼ殖産しょくさん興業こうぎょう政策せいさくった薩摩さつまはん家臣かしんだった村田むらた経芳つねよしは、豊富ほうふ火器かき知識ちしき卓越たくえつした射撃しゃげき技量ぎりょうにより、薩摩さつまはんへいから新生しんせい日本にっぽん陸軍りくぐん将校しょうこうてんじ、薩摩さつまばつ大久保おおくぼグループにぞくして日本にっぽん陸軍りくぐん火器かき購入こうにゅう運用うんよう修理しゅうり統括とうかつ責任せきにんしゃとなった。

明治維新めいじいしん火器かき飛躍ひやくてき発達はったつしはじめた時期じきにあたり、あたらしい火器かき出現しゅつげんしてはすうねん旧式きゅうしきするというサイクルがかえされており、かくはんからあつめられた火器かき新旧しんきゅう各種かくしゅ混在こんざいした状態じょうたいだった。

発足ほっそくしたばかりの新生しんせい日本にっぽん陸軍りくぐんでの歩兵ほへい教練きょうれんは、輸入ゆにゅうされたテキストを日本語にほんご翻訳ほんやくしたマニュアル[3]やと外国がいこくじんによる指導しどう[4]たよっており、1872ねん明治めいじ5ねん兵部ひょうぶしょうによって1870年版ねんばんフランス陸軍りくぐん歩兵ほへい操典そうてん [5]が、いで1874ねん明治めいじ7ねん)に陸軍りくぐんしょうによって1872ねんばんどう操典そうてん採用さいよう[6]されたことから、その主力しゅりょく小銃しょうじゅうすべそうしき[7]統一とういつされた。

当時とうじ日本にっぽん陸軍りくぐん保有ほゆうしていたのちそうしき火器かきは、主力しゅりょく小銃しょうじゅうスナイドルじゅう金属きんぞく薬莢やっきょうしき[8][9][10])、ドライゼじゅうかみせい薬莢やっきょう[11])が後方こうほう装備そうびとされ、このほかなな連発れんぱつ米国べいこくせいスペンサー騎兵きへいじゅう(リムファイア金属きんぞく薬莢やっきょうしき[12])が騎兵きへいじゅうとして使用しようされ、ぜんそうしき旧式きゅうしきしていたエンフィールドじゅうがスナイドルじゅうへの改造かいぞう母体ぼたいおよび射撃しゃげき訓練くんれんようなどに多数たすう保有ほゆうされているなど、多種たしゅ銃器じゅうき弾薬だんやく混在こんざいする状況じょうきょうであった。そのため、日本にっぽん陸軍りくぐん補給ほきゅう訓練くんれんめんおおきな困難こんなんかかえていた。

これらの銃器じゅうきのうち、もっと先進せんしんてき構造こうぞうすぐれた性能せいのう射程しゃてい弾道だんどう特性とくせい)をゆうしていたのはシャスポーじゅう[13]であり、村田むらた経芳つねよし新生しんせい日本にっぽん陸軍りくぐん幕府ばくふ陸軍りくぐんからいだシャスポーじゅうようかみせい薬莢やっきょう製造せいぞう[14]や、消耗しょうもうひんであるガス防止ぼうしようゴムリングの調達ちょうたつ腐心ふしん[15]するなど、そのメンテナンスにつとめており構造こうぞう熟知じゅくちしていた。

ひろしふつ戦争せんそうの1874ねん明治めいじ7ねん)に、フランス本国ほんごくでシャスポーじゅうグラースじゅうへの改造かいぞうおこなわれ、シャスポーじゅう最大さいだい弱点じゃくてんだったかみせい薬莢やっきょう金属きんぞく薬莢やっきょうしき変更へんこうされたことをった村田むらた経芳つねよしは、日本にっぽん陸軍りくぐんのシャスポーじゅう金属きんぞく薬莢やっきょうしき改造かいぞうすることと、その国産こくさん企図きとはじめた[16]

1875ねん明治めいじ8ねん)に村田むらた経芳つねよし射撃しゃげき技術ぎじゅつ兵器へいき研究けんきゅうのためフランス、ドイツ、スウェーデンなどの欧州おうしゅう留学りゅうがくおもむき、シャスポー改造かいぞうグラースじゅう国産こくさんする準備じゅんび開始かいしした。

村田むらた帰国きこくすると、村田むらた郷里きょうりでもある鹿児島かごしま西南せいなん戦争せんそう勃発ぼっぱつしたが、日本にっぽん陸軍りくぐん徴兵ちょうへいあつめらた鎮台ちんだいへい大量たいりょう投入とうにゅうして鎮圧ちんあつはかったため主力しゅりょく小銃しょうじゅうであるスナイドルじゅう在庫ざいこりなくなる事態じたい[17]発生はっせいした。これを絶好ぜっこう機会きかい村田むらた経芳つねよしは、フランスでその改造かいぞう工程こうてい実見じっけんしたシャスポー改造かいぞうグラースじゅう参考さんこうに、金属きんぞく薬莢やっきょうしき改造かいぞうしたシャスポーじゅうみずか試作しさくし、ドイツの企業きぎょう下請したうけにして陸軍りくぐん退蔵たいぞうしているシャスポーじゅう改造かいぞう作業さぎょうおこない、実戦じっせん配備はいびすること計画けいかく[18]した。しかし、この計画けいかく実行じっこううつされるまえに、日本にっぽん陸軍りくぐんはスナイドル弾薬だんやく確保かくほかろうじて成功せいこうし、村田むらた経芳つねよし自身じしん狙撃そげきうで見込みこまれて西南せいなん戦争せんそうおくられ、そこで負傷ふしょうしてしまった。西南せいなん戦争せんそう日本にっぽん陸軍りくぐん勝利しょうり終結しゅうけつしたが、歳入さいにゅうのほとんどを戦費せんぴ使つかたした日本にっぽん政府せいふ財政難ざいせいなんおちいり、陸軍りくぐんしん小銃しょうじゅう国産こくさんよりエンフィールドじゅうのスナイドルじゅうへの改造かいぞう優先ゆうせんさせたため、村田むらた経芳つねよしのシャスポーじゅう改造かいぞう計画けいかく凍結とうけつされた。

しかし、この凍結とうけつ怪我けが治療ちりょうえた村田むらた経芳つねよし時間じかん余裕よゆうあたえ、村田むらたはシャスポー改造かいぞうグラースじゅう一部いちぶ簡略かんりゃくした設計せっけい試作しさくはじめ、1880ねん明治めいじ13ねん)に村田むらたじゅう完成かんせいさせた。

近隣きんりん諸国しょこくへの供与きょうよ[編集へんしゅう]

さんじゅうねんしき歩兵ほへいじゅう採用さいようされると、旧式きゅうしき火器かきとなった村田むらたじゅうおおくは猟銃りょうじゅう改造かいぞうされて民間みんかん銃砲じゅうほうてんはらげられたり、学校がっこう教練きょうれんようもちいられたが、一部いちぶ清国きよくに朝鮮ちょうせんなどの近隣きんりん諸国しょこく供与きょうよされた。

1898ねん6がつフィリピン革命かくめい政府せいふカティプナン)が、M.ポンセ・F.リチャウコの2めいを、日本にっぽんからの武器ぶき弾薬だんやく調達ちょうたつ支援しえん獲得かくとくもとめて派遣はけんしたさいに、日本にっぽん滞在たいざいちゅうまごぶん宮崎みやざき滔天とうてん紹介しょうかい中村なかむらわたるろくいぬやしなえあつしらの口添くちぞえをけ、陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶから中古ちゅうこ村田むらたじゅうなどの払下はらいさげをて、1899ねん7がつ布引ぬのびきまる村田むらたじゅうんで出航しゅっこうするも途中とちゅう台風たいふうって沈没ちんぼつするという事件じけん布引ぬのびきまる事件じけん)が発生はっせいした[19]

太平洋戦争たいへいようせんそう末期まっきには、火器かき不足ふそくから旧式きゅうしきじゅうとともに村田むらたじゅう倉庫そうこからされ、本土ほんど決戦けっせんひかえた隣組となりぐみ在郷ざいきょう軍人ぐんじんたちさい配備はいびされたとつたえられている。

猟銃りょうじゅうとしての村田むらたじゅう[編集へんしゅう]

村田むらたしき猟銃りょうじゅう略図りゃくず横濱よこはま金丸かねまる鉄砲てっぽうてんせい

村田むらたじゅう猟銃りょうじゅうとしてのあゆみは、1881ねん明治めいじ14ねん)に松屋まつや兼次かねしろう村田むらた経芳つねよし指導しどうのもとで火縄銃ひなわじゅう銃身じゅうしん村田むらたしき機関きかんけた元込もとご散弾さんだんじゅう開発かいはつしたことにはじまる。

旧式きゅうしきしたじゅうさんねんしきじゅうはちねんしき村田むらたじゅう一部いちぶは、ぐん収益しゅうえき事業じぎょう一環いっかんとして着剣ちゃっけん装置そうち銃身じゅうしんないライフリング銃身じゅうしんちょう半分はんぶんまでけずられ[20][21][22]散弾さんだんじゅう改造かいぞうされてから民間みんかんはらげられ、軍用ぐんようじゅうとしてよりもなが期間きかん猟銃りょうじゅうとして活躍かつやくした[23]

村田むらたじゅう散弾さんだんじゅうへの改造かいぞう東京とうきょう砲兵ほうへい工廠こうしょうしょう銃器じゅうき製造せいぞうしょ担当たんとうし、このときに11mm村田むらただんをベースにした30ばん真鍮しんちゅう薬莢やっきょう工廠こうしょう薬莢やっきょう製造せいぞう施設しせつ流用りゅうようするかたち製造せいぞうはじめられた。

村田むらたじゅう」の名前なまえは、はじめははらげられた軍用ぐんようライフルじゅうや、それを改造かいぞうして散弾さんだんじゅうとしたものしていたが、のち村田むらた経芳つねよし村田むらたじゅうパテント民間みんかんひろ販売はんばいしたことにより、おおくの民間みんかん銃器じゅうきメーカーやじゅう職人しょくにんにより軍用ぐんよう村田むらたじゅう機構きこうした散弾さんだんじゅうつくられることとなった。最初さいしょはそれらの散弾さんだんじゅう村田むらたしき散弾さんだんじゅうばれていたが、次第しだい本来ほんらい村田むらたじゅうではないどう形式けいしき猟銃りょうじゅうもすべて「村田むらたじゅう」とばれるようになったのである。なお、村田むらたじゅうはらげがはじまった明治めいじ10年代ねんだい当時とうじは、2018ねん現在げんざい日本にっぽん銃器じゅうき行政ぎょうせいじょう分類ぶんるいである「ライフル」と「散弾さんだんじゅう」とばれる区分くぶんはまだ存在そんざいせず、洋式ようしきしくは和式わしきの「軍用ぐんようじゅうおよび「猟銃りょうじゅう」という区分くぶんのみが存在そんざいしていた[24]日本にっぽん銃器じゅうき行政ぎょうせい史上しじょう「ライフル」とばれる区分くぶんはじめて登場とうじょうするのは昭和しょうわ46ねんことであるため[25]当時とうじ文書ぶんしょ資料しりょうじょう村田むらたしき散弾さんだんじゅうではなく、村田むらたしき猟銃りょうじゅう名称めいしょうほうがより一般いっぱんてき使つかわれていたことには留意りゅういされたい。

現存げんそんする銃器じゅうきメーカーではミロク猟銃りょうじゅう販売元はんばいもとであった川口かわぐちりん銃砲じゅうほうてん(KFC)などが各種かくしゅ村田むらたしき猟銃りょうじゅう製造せいぞう販売はんばいおこなっていた[26]明治めいじ著名ちょめい製造元せいぞうもとには、横浜よこはま金丸かねまる謙次郎けんじろうおこした金丸かねまる銃砲じゅうほうてん金丸かねまるもと修行しゅぎょう明治めいじ14ねん独立どくりつした十文字じゅうもんじ信介しんすけ[27][28]東京とうきょう川口かわぐち亀吉かめきちおこした川口かわぐち(KFCの前身ぜんしん)、後年こうねん本邦ほんぽう屈指くっし水平すいへいれん名工めいこううたわれた名和なわ仁三郞じんざぶろう輩出はいしゅつした岡本おかもと光長みつなが岡本おかもと銃砲じゅうほうてんモリタ宮田工業みやたこうぎょう創業そうぎょうしゃでもある宮田みやた栄助えいすけなどが存在そんざいしており[29]明治めいじ20ねんごろには民間みんかん村田むらたじゅう製造せいぞう業者ぎょうしゃ国内こくないに14けんほどが存在そんざいしていた。大正たいしょうから昭和しょうわ初期しょきけて水平すいへいれんのハンドメイドでせた日本人にっぽんじんじゅうこうたちは、これらの民間みんかん業者ぎょうしゃ東京とうきょう砲兵ほうへい工廠こうしょうでの軍用ぐんようじゅうづくりで技術ぎじゅつみがいたという[30]

村田むらたしき散弾さんだんじゅうもちいられる真鍮しんちゅう薬莢やっきょうは、まず最初さいしょ前述ぜんじゅつとお帝国ていこく陸軍りくぐん造兵ぞうへいしょうにて11mm村田むらた薬莢やっきょう改造かいぞうの30ばん薬莢やっきょうつくられはじめ、その1919ねん(大正たいしょう8ねん)に児島こじま富雄とみお建議けんぎにより、陸軍りくぐん造兵ぞうへいしょうより真鍮しんちゅうおよかみせい散弾さんだん薬莢やっきょう製造せいぞう機械きかい一切いっさいはらげをけるかたち帝国ていこく薬莢やっきょう製造せいぞう株式会社かぶしきがいしゃ(TYK)が設立せつりつされ[31]、1945ねん(昭和しょうわ20ねん)の日本にっぽん敗戦はいせんまで供給きょうきゅうおこなわれた[26]黒色こくしょく火薬かやく村田むらた単発たんぱつじゅうもちいられていた板橋いたばし火薬かやく工廠こうしょうのものが民間みんかんはらげられるかたち販売はんばいされ、1924ねん(大正たいしょう13ねん)には日本化薬にっぽんかやく民間みんかんはじめてりょうよう黒色こくしょく火薬かやく参入さんにゅう板橋いたばし火薬かやくしょう岩鼻いわはな火薬かやくしょうせい黒色こくしょく火薬かやくならび、戦前せんぜん狩猟しゅりょうあいだひろ普及ふきゅうした[31]

こうした戦前せんぜん日本にっぽん政府せいふ帝国ていこく陸軍りくぐん振興しんこうさく後押あとおしとなり、当時とうじ富裕ふゆうそうしかうことのできなかった英国えいこくせい水平すいへいれんじゅうブローニング・オート5比較ひかくして村田むらたじゅう価格かかく格段かくだんやす設定せっていされ、単発たんぱつしきながらもそれまで民間みんかん主流しゅりゅうであった火縄銃ひなわじゅうや、戊辰戦争ぼしんせんそうきゅう幕府ばくふぐん日本にっぽんしょはん導入どうにゅうして明治めいじ政府せいふにより鹵獲ろかく没収ぼっしゅうされ、後年こうねん村田むらたじゅうづくりにもたずさわった前述ぜんじゅつ鉄砲てっぽうしょうつうじて民間みんかん放出ほうしゅつされたゲベールじゅうエンフィールドじゅうなどのマスケットじゅうよりも圧倒的あっとうてきつぎだん発射はっしゃまでの時間じかん短縮たんしゅくされることから、村田むらたしき散弾さんだんじゅう庶民しょみん猟銃りょうじゅうとして戦後せんごいたるまでひろしたしまれた。昭和しょうわ30年代ねんだいJIS散弾さんだんじゅう関連かんれんしたしょ規格きかく[32]制定せいていしたが、このとき試験しけんじゅうとして採用さいようされたのも村田むらたしき散弾さんだんじゅうであった。

形式けいしきにはおおきくけて5種類しゅるいあり、

  1. 軍用ぐんよう村田むらたじゅう改造かいぞうし28/30/36ばんみちとしたもの
  2. 村田むらた経芳つねよし設立せつりつした村田製作所むらたせいさくしょ株式会社かぶしきがいしゃ 村田製作所むらたせいさくしょとは無関係むかんけい)により、民間みんかんけに軍用ぐんよう村田むらたじゅう構造こうぞう踏襲とうしゅうするかたち最初さいしょから8ばん-40ばんみち散弾さんだんじゅうとして制作せいさくされたもの
  3. 民間みんかん銃器じゅうき職人しょくにん工場こうじょうにてライセンス製造せいぞうされたもの
  4. 火縄銃ひなわじゅう銃身じゅうしんまつはし村田むらたしきのボルトをこうけすることこうそうしき改造かいぞうされたもの[33]
  5. じゅうさんねんしき村田むらたじゅう以前いぜん陸軍りくぐん導入どうにゅうされた洋式ようしきじゅう村田むらたしきのボルトをけて改造かいぞうされ、のちはらげられたもの

存在そんざいした。しかし、これらは「古式こしきじゅう[34]としてはあつかわれず、現行げんこう散弾さんだんじゅうとして所持しょじ許可きょか登録とうろくおこな必要ひつようがある。

この時期じきのライセンス生産せいさんひん特筆とくひつあたいするものは金丸かねまる銃砲じゅうほうてん製造せいぞうした村田むらたしき散弾さんだんじゅうで、製造せいぞう業者ぎょうしゃじゅうさんねんしきじゅうはちねんしきじゅんじてげきてつばねに松葉まつばバネを使用しようするなか金丸かねまる銃砲じゅうほうてんじゅうねんしき村田むらた連発れんぱつじゅう参考さんこうとしコイルスプリングをもちいた槓桿を採用さいようしていた[35]さら金丸かねまるは、明治めいじ34ねんごろにはスプリングしき村田むらたじゅうさらなる改良かいりょうくわえ、どう時期じきレミントン M8参考さんこうにしたとみられる、後年こうねんしきテラじゅうのように銃身じゅうしんテイクダウン英語えいごばん可能かのうとした新式しんしき自在じざい村田むらたしきじゅう発売はつばいするにいたった[36][37]

戦後せんご新式しんしき猟銃りょうじゅう普及ふきゅうしたことにより村田むらたじゅうもちいられることはほとんどなくなったが、ろう猟師りょうしマタギ象徴しょうちょうするアイテムとして今日きょうでもフィクションちゅう登場とうじょうすることがある。

なお、村田むらたしき散弾さんだんじゅう口径こうけいが8ばん、10ばん、12ばん、16ばん、20ばん、24ばん、28ばん、30ばん、36ばん、40ばん、410ばん、7.6mm(76ばん)まで幅広はばひろ種類しゅるい存在そんざいするが、じゅうさんねんしきじゅうはちねんしき軍用ぐんようライフルじゅう由来ゆらいとする村田むらた散弾さんだんじゅうは28/30/36ばんなどの比較的ひかくてきしょう口径こうけいものおおい。民間みんかん製造せいぞうひんなかには12ばんや20ばんなどのだい口径こうけいじゅう存在そんざいするが、村田むらた散弾さんだんじゅうすべて、現行げんこう規格きかくの12GA/20GAとはことなるサイズの専用せんよう規格きかく真鍮しんちゅう薬莢やっきょう黒色こくしょく火薬かやくや「おくり」とばれるフェルトせいワッズでハンドロードして使用しようするため、現在げんざいかみまたはプラスチックケース装弾そうだん装填そうてんしてつことは原則げんそくとして不可能ふかのうである。

その専用せんよう真鍮しんちゅう薬莢やっきょう弾頭だんとうるいも、1990年代ねんだい初頭しょとうごろには旭精機工業あさひせいきこうぎょう(AOA)やにちくに工業こうぎょう(NPK)などの国産こくさんメーカーひん製造せいぞう中止ちゅうしされたことや、火縄銃ひなわじゅうなどとことなり「古式こしきじゅう」にも相当そうとうしない「現行げんこう狩猟しゅりょうじゅう」のため、所持しょじ許可きょかなどの入手にゅうしゅ要件ようけんきびしいこともあり、近年きんねんでは村田むらたしき散弾さんだんじゅうじつしゃおこなうことは、ある意味いみ火縄銃ひなわじゅうよりもむずかしくなりつつあるのが現状げんじょう[38]である。

村田むらたじゅう種類しゅるい[編集へんしゅう]

単発たんぱつがた[編集へんしゅう]

以下いか村田むらたじゅうにちしん戦争せんそう一線いっせん部隊ぶたい活躍かつやくしたが、絶対ぜったいすうりずせん部隊ぶたい装備そうび依然いぜんとしてスナイドルじゅうもちいられていた。

じゅうさんねんしき村田むらたじゅう[編集へんしゅう]

じゅうさんねんしき小銃しょうじゅう
じゅうさんねんしき小銃しょうじゅう
種類しゅるい 小銃しょうじゅう
製造せいぞうこく 日本の旗 日本にっぽん
設計せっけい製造せいぞう 東京とうきょう砲兵ほうへい工廠こうしょう
小倉おぐら陸軍りくぐん造兵ぞうへいしょう
名古屋なごや陸軍りくぐん造兵ぞうへいしょう
仕様しよう
口径こうけい 11mm
銃身じゅうしんちょう 840mm
ライフリング 5じょう
使用しよう弾薬だんやく 11mm村田むらた有縁うえん実包じっぽう11x60R
装弾そうだんすう 1はつ
作動さどう方式ほうしき ボルトアクションしき
全長ぜんちょう 1,294mm
重量じゅうりょう 4,620g
銃口じゅうこう初速しょそく 437m/
射程しゃてい 1,800m/
歴史れきし 
設計せっけいねん 1880ねん明治めいじ13ねん
関連かんれん戦争せんそう紛争ふんそう にちしん戦争せんそう台湾たいわん平定へいていきたきよし事変じへんにち戦争せんそう
製造せいぞうすう 80000
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じゅうヶ月かげつおよ欧州おうしゅう留学りゅうがくから帰国きこくした村田むらた経芳つねよしは、グラース(グラー)M1874やボーモン(バーモン)M1871参考さんこうに、1880ねん明治めいじ13ねん)に日本にっぽん独自どくじ国産こくさん小銃しょうじゅう完成かんせいさせ、日本にっぽん陸軍りくぐんによって制式せいしき採用さいようされ、制式せいしき名称めいしょうを「紀元きげんよんねんしき村田むらたじゅう」(1885ねん明治めいじ18ねん)に、改良かいりょうがたの「じゅうはちねんしき村田むらたじゅう」にわせて、「じゅうさんねんしき村田むらたじゅう」(正式せいしきには「明治めいじじゅうさんねん 大日本帝國だいにっぽんていこく村田むらたじゅう」)に改称かいしょう)とされた。

じゅうさんねんしき村田むらたじゅうボルトアクションしき単発たんぱつじゅうであり、使用しよう弾薬だんやくは11mm村田むらた(11x60R Japanese Murata)有縁うえん(リムド)弾薬だんやくそうやく黒色こくしょく火薬かやく)を使用しようしたが、これはシャスポー/グラースじゅう使用しようされた11mmx59.5弾薬だんやくとほぼどうすん[39][40]のものだった。

これは、村田むらたじゅう生産せいさん並行へいこうして手持てもちのシャスポーじゅう村田むらたしき金属きんぞく薬莢やっきょうよう)へ改造かいぞうする作業さぎょう[41]同時どうじおこなわれていたため、弾薬だんやく共通きょうつうするための措置そちであり、これら改造かいぞうされたシャスポーじゅうは“シヤスポー(シアスポー)改造かいぞう村田むらたじゅう”とばれ[42]1885ねん明治めいじ18ねん)の時点じてん村田むらたじゅうばれていたもの相当そうとうすうがこの改造かいぞうひんであったこと[43]記録きろくされている。なお、当時とうじ薬莢やっきょう製造せいぞう工程こうてい起因きいんするため[44]か、今日きょうのリムド弾薬だんやくことなり、リム底面ていめん雷管らいかん周辺しゅうへんのみがわずかにした形状けいじょうとなっている。リム底面ていめんには寛永かんえい通宝つうほうひとし江戸えど時代じだい通貨つうか同様どうよう文字もじ配列はいれつよん文字もじ刻印こくいんしるされた。一般いっぱんてきには明治めいじあらわす「あきら」と、けた年号ねんごう一文字ひともじぶん縮小しゅくしょうした「廿にじゅうさん」(23)とうかん数字すうじ製造せいぞう年号ねんごうとしてかなら刻印こくいんされ、のこりの文字もじは「実包じっぽう」あるいは村田むらたみを仮借かしゃくした造語ぞうごである「邑手(むらた)」のどちらかがもちいられた。

さい重要じゅうよう部品ぶひんである銃身じゅうしんはベルギーからの輸入ゆにゅうたよっていたが、その部品ぶひんすべ日本にっぽん国内こくない加工かこうされていた。

村田むらたじゅうさんねんしきがシャスポー/グラースじゅうことなるてんは、日本にっぽん気候きこうわせて表面ひょうめん仕上しあげがしろみがきではなくブルー仕上しあげ(酸化さんか処理しょり)とされ、ボルトはしのノブが単純たんじゅん円形えんけいローレット加工かこうのみとされ製造せいぞう容易よういになっているてんと、ボルト内部ないぶのスプリングに松葉まつばバネを使用しようしていたてんである。

当初とうしょ参考さんこうとしたシャスポーやグラースと同様どうようにコイルスプリングをもちいた機構きこうかんがえて、スプリングの製造せいぞう装置そうち輸入ゆにゅうして試作しさくしてみたが、良質りょうしつ鋼材こうざいそのものを輸入ゆにゅうたよっていた当時とうじ日本にっぽんでは満足まんぞくなものをつくることができなかった。しかし松葉まつばバネなら江戸えど時代じだいからつづ国産こくさん技術ぎじゅつ存在そんざいしたため、妥協だきょうてき松葉まつばバネを使用しようして製造せいぞうされた。耐久たいきゅうせいやメンテナンスの問題もんだいがあったが、当時とうじ日本にっぽん技術ぎじゅつ水準すいじゅんでは一番いちばん確実かくじつ選択せんたくをしたと評価ひょうかできる。バネはボルト・ハンドル内側うちがわ仕込しこまれ、そのためボルト・ハンドルふとひらたくなっており、これが村田むらたじゅう外観がいかん特徴とくちょうになっている。なお参考さんこうにされたのは同様どうようのVバネ機構きこうつ、オランダボーモンM1871歩兵ほへいじゅうである。

くすりしつ密閉みっぺい金属きんぞく薬莢やっきょう膨張ぼうちょう作用さようくすり室内しつない挿入そうにゅうされたボルトの先端せんたんおこない、おおきくひらたいボルト本体ほんたい機関きかん先端せんたんみぞはまむことで強固きょうこ固定こていおこなわれるため、ボルト先端せんたんには閉鎖へいさ機構きこういラグのるいとく装備そうびされていない。ボルトは90垂直すいちょくこすことでコッキングがおこなわれ(コック・オン・オープニング方式ほうしき)、じゅうさんねんしきじゅうさんねんしき参考さんこうにした村田むらたしき散弾さんだんじゅう場合ばあいには、ボルトが後退こうたいしたさいにはボルト先端せんたん側面そくめんにマイナスネジで固定こていされたボルトストッパーが機関きかんはしたることでそれ以上いじょう後退こうたい阻止そしされる。このボルトストッパーをはずすことで簡単かんたんにボルトを機関きかんからくことができるが、ふるじゅう場合ばあいにはボルトストッパーが変形へんけい脱落だつらくしてはいさいかちさいにボルトが後方こうほうにすっぽけることもあった。じゅうはちねんしきでは機関きかん左側ひだりがわめんにマイナスネジじょうのストッパーをねじむことでボルトのめがおこなわれるかたち変更へんこうされた。

げきはりはボルトはし円形えんけいり(コッキング・ピース)と一体化いったいかしたなが複雑ふくざつ形状けいじょうのものがもちいられ、コッキングしたさいにはこの円形えんけいりが後方こうほうすことで、コッキングされているかかが容易ようい判別はんべつできた。後年こうねん村田むらたしき散弾さんだんじゅうにおいてはこの円形えんけいりをしてデベソ場合ばあいがあった[45]という。コッキングの判別はんべつ自体じたい容易よういおこなえるじょう、コッキングされたげきはりをゆっくりもどすには一旦いったんボルトを後方こうほうき、がねいたままボルトを再度さいど前進ぜんしんさせることで簡単かんたんおこなえたことから、後述こうじゅつ村田むらたしき騎兵きへいじゅうのぞき、じゅうさんねんしきじゅうはちねんしきとも安全あんぜん装置そうちるい一切いっさい装備そうびされなかった

エキストラクターはボルトの側面そくめんもうけられたみぞ簡易かんいまれただけのものであり、ボルトをさいにはエキストラクターの脱落だつらく注意ちゅういする必要ひつようがある。このエキストラクターは薬莢やっきょうくすりしつからくだけの役割やくわりしかたさず、後年こうねんじゅうられるようなくすり室外しつがい薬莢やっきょう機能きのう存在そんざいしないため、かれたそら薬莢やっきょう排除はいじょするにはじゅうななめにたおすか、ボルトを操作そうさした直接ちょくせつ薬莢やっきょう排除はいじょする必要ひつようがある。しかし、熟練じゅくれんした射手しゃしゅであればがね操作そうさする右手みぎて中指なかゆび薬指くすりゆびあいだすうはつ予備よびだんはさんでおき、小指こゆびてのひらでボルトを操作そうさしながら素早すばや装填そうてんすることでかなりの速度そくど連射れんしゃすることもできたという。

銃身じゅうしん機関きかん銃身じゅうしんがわそとネジ、機関きかんがわうちネジがられ、ねじ構造こうぞうによって固定こていされる。銃身じゅうしんはしには照星しょうせい正確せいかく銃身じゅうしん直上ちょくじょうわせるためのごくうすほろ調整ちょうせいよう金属きんぞくせいガスケット挿入そうにゅうされ、銃身じゅうしん機関きかんシールおこなわれた。くすりしつはし上面うわつらには異常いじょう腔圧により薬莢やっきょう破断はだんした場合ばあいげきはりがわから燃焼ねんしょうガスのけがきないように常用じょうようガスあなもうけられた。このガスあな日本にっぽんぐん後継こうけいボルトアクションライフルのおおくにつづ採用さいようされつづけた。

歩兵ほへいじゅうきくもん刻印こくいんされるようになったのもほんじゅうはじまりである。西南せいなん戦争せんそうにおける退却たいきゃくさい小銃しょうじゅう放棄ほうきしてげるへい続出ぞくしゅつしたため、じゅうてることがないようにとの村田むらた配慮はいりょきざまれたとわれている。このきくもん海外かいがい現存げんそんする村田むらたじゅうでは×の刻印こくいんからこくするなどの方法ほうほうされたものがあり、有坂ありさかじゅうにおける終戦しゅうせん海外かいがい流出りゅうしゅつひん類似るいじした処置しょちが、村田むらたじゅうはらげの段階だんかいからすでおこなわれていたことしめしている。

じゅうさんねんしきやく6まんてい製造せいぞうされた[46]にちしん戦争せんそうではじゅうはちねんしきとともに主力しゅりょく小銃しょうじゅうであった[47]

じゅうろくねんしき騎銃きじゅう[編集へんしゅう]

じゅうろくねんしき騎銃きじゅう
じゅうろくねんしき騎銃きじゅう
種類しゅるい 騎兵きへいじゅう
製造せいぞうこく 日本の旗 日本にっぽん
設計せっけい製造せいぞう 東京とうきょう砲兵ほうへい工廠こうしょう
小倉おぐら陸軍りくぐん造兵ぞうへいしょう
名古屋なごや陸軍りくぐん造兵ぞうへいしょう
仕様しよう
口径こうけい 11mm
銃身じゅうしんちょう 740mm
ライフリング 5じょう
使用しよう弾薬だんやく 11mm村田むらた有縁うえん実包じっぽう11x60R
装弾そうだんすう 1はつ
作動さどう方式ほうしき ボルトアクションしき
全長ぜんちょう 1,178mm
重量じゅうりょう 3,60g
銃口じゅうこう初速しょそく 400.2m/
射程しゃてい 1,500m/
歴史れきし 
設計せっけいねん 1883ねん明治めいじ16ねん
関連かんれん戦争せんそう紛争ふんそう にちしん戦争せんそう台湾たいわん平定へいていせん義和よしかずだんらんにち戦争せんそう
製造せいぞうすう 不明ふめい(小銃しょうじゅう) 不明ふめい(騎銃きじゅう)
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1883ねん明治めいじ16ねん)には、カービン(騎兵きへいよう馬上まけあつかいやすいようにたん銃身じゅうしんにした小銃しょうじゅうのこと。騎兵きへいじゅう)モデルとして、じゅうさんねんしきをベースにした「じゅうろくねんしき騎銃きじゅう」が開発かいはつされ、スペンサーじゅう後継こうけいとして、騎兵きへい砲兵ほうへい配備はいびされた。

なお、このじゅうろくねんしき騎銃きじゅう米国べいこくがわ資料しりょう[48]にのみ、銃身じゅうしんを25インチに短縮たんしゅくした「Type16 Murata Carbine」としてあらわれるもので、アジア歴史れきし資料しりょうセンターなど日本にっぽんがわ資料しりょうには後述こうじゅつじゅうはちねんしき村田むらたじゅうをベースとしたじゅうはちねんしき村田むらた騎銃きじゅうしか確認かくにんできず、両者りょうしゃ混同こんどうされている可能かのうせいがあること留意りゅういされたい。

じゅうはちねんしき村田むらたじゅう[編集へんしゅう]

じゅうはちねんしき小銃しょうじゅう
じゅうはちねんしき小銃しょうじゅう
種類しゅるい 小銃しょうじゅう
製造せいぞうこく 日本の旗 日本にっぽん
設計せっけい製造せいぞう 東京とうきょう砲兵ほうへい工廠こうしょう
小倉おぐら陸軍りくぐん造兵ぞうへいしょう
名古屋なごや陸軍りくぐん造兵ぞうへいしょう
仕様しよう
口径こうけい 11mm
銃身じゅうしんちょう 840mm
ライフリング 5じょう
使用しよう弾薬だんやく 11mm村田むらた有縁うえん実包じっぽう11x60R
装弾そうだんすう 1はつ
作動さどう方式ほうしき ボルトアクションしき
全長ぜんちょう 1,278mm
重量じゅうりょう 4,098g
銃口じゅうこう初速しょそく 435m/
射程しゃてい 1,800m
歴史れきし 
設計せっけいねん 1885ねん明治めいじ18ねん
関連かんれん戦争せんそう紛争ふんそう にちしん戦争せんそう台湾たいわん平定へいていきたきよし事変じへんにち戦争せんそう
製造せいぞうすう 90000(小銃しょうじゅう) 10000(騎銃きじゅう)
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じゅうはちねんしき村田むらたじゅう装備そうびした日本にっぽん陸軍りくぐんへい手前てまえがわ兵士へいし足元あしもとうつ村田むらたじゅうには、じゅうはちねんしき特徴とくちょうである機関きかん左側ひだりがわめんがわの8のがたのボルトストッパーの金具かなぐ明瞭めいりょう視認しにんできる。(1890ねん)

1885ねん明治めいじ18ねん)には、当時とうじ日本人にっぽんじん体格たいかくわせ銃身じゅうしんちょう銃床じゅうしょうちょう見直みなおし、機関きかんにも改良かいりょうくわえた「じゅうはちねんしき村田むらたじゅう」(正式せいしきには「明治めいじじゅうはちねん 大日本帝國だいにっぽんていこく村田むらたじゅう」)が制式せいしき採用さいようされ、銃身じゅうしん鋼材こうざいふくめた国産こくさん体制たいせい構築こうちく達成たっせいされた(素材そざいである鋼材こうざい国内こくない供給きょうきゅう実現じつげんするのは1901ねん官営かんえい八幡やはた製鐵せいてつしょ建設けんせつ以降いこうのことである)[49]。ただしじゅう製造せいぞう使つかわれた工作こうさく機械きかいはアメリカせいであった。じゅうはちねんしき改良かいりょうにはアメリカのウィンチェスターしゃ協力きょうりょくしている。じゅう製造せいぞう番号ばんごう(シリアルナンバー)はいちさんねんしきからつづれんばんである。

じゅうはちねんしき村田むらた騎銃きじゅう[編集へんしゅう]

銃床じゅうしょう東京とうきょう砲兵ほうへい工廠こうしょうしるしきざまれている

じゅうはちねんしき銃身じゅうしん短縮たんしゅくした騎兵きへいじゅう正式せいしきには「明治めいじじゅうはちねん 大日本帝國だいにっぽんていこく村田むらたしき騎兵きへいじゅう」)も制作せいさくされた。単発たんぱつじゅうとの相違そういてん銃身じゅうしん銃床じゅうしょう固定こていするバンドが2ほんから3ほんやされており、着剣ちゃっけん装置そうちはいされている。また、ボルトの後端こうたんにコッキング状態じょうたいからはん時計とけいまわりに回転かいてんさせることげきくき固定こていできる簡易かんい安全あんぜん装置そうち追加ついかされた。この機構きこう日本にっぽんせい小銃しょうじゅうはつ安全あんぜん装置そうち実装じっそうれいとされ、有坂ありさかじゅうにも基本きほん概念がいねんおなじくする安全あんぜん装置そうちもちいられている[50][51]

じゅうはちねんしき単発たんぱつじゅうやく8まんてい騎兵きへいじゅうやく1まんてい製造せいぞうされ、にちしん戦争せんそう投入とうにゅうされた[46]にちしん戦争せんそうではじゅうさんねんしきとともに主力しゅりょく小銃しょうじゅうであった[47]

かぶとごう擲弾じゅう[編集へんしゅう]

のちに、じゅうはちねんしき機関きかん流用りゅうようした擲弾筒てきだんとうである「かぶとごう擲弾じゅう」が開発かいはつされた。

連発れんぱつがた[編集へんしゅう]

じゅうねんしき村田むらた連発れんぱつじゅう[編集へんしゅう]

じゅうねんしき村田むらた連発れんぱつじゅう
二十二年式村田銃
じゅうねんしき村田むらた連発れんぱつじゅう
じゅうねんしき村田むらた連発れんぱつじゅう
種類しゅるい 小銃しょうじゅう
製造せいぞうこく 日本の旗 日本にっぽん
設計せっけい製造せいぞう 東京とうきょう砲兵ほうへい工廠こうしょう
小倉おぐら陸軍りくぐん造兵ぞうへいしょう
名古屋なごや陸軍りくぐん造兵ぞうへいしょう
仕様しよう
口径こうけい 8mm
銃身じゅうしんちょう 750mm
ライフリング メトフォードしき4じょう
使用しよう弾薬だんやく 8mm村田むらた無煙むえん火薬かやく実包じっぽう(8x53Rmm)
装弾そうだんすう 8はつ
作動さどう方式ほうしき ボルトアクションしき
全長ぜんちょう 1,210mm
重量じゅうりょう 4,000g
銃口じゅうこう初速しょそく 612m
射程しゃてい 2,000m
歴史れきし 
設計せっけいねん 1889ねん明治めいじ22ねん
関連かんれん戦争せんそう紛争ふんそう にちしん戦争せんそう台湾たいわん平定へいていせんきたきよし事変じへんにち戦争せんそう
製造せいぞうすう 不明ふめい
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じゅうねんしき村田むらた連発れんぱつじゅう」は、当時とうじ欧州おうしゅう各国かっこく採用さいようされはじめた連発れんぱつしき軍用ぐんようじゅう研究けんきゅうするため、1889ねん明治めいじ22ねん)に再度さいどわたりおう[52]した村田むらた経芳つねよしによって設計せっけい製造せいぞうされた。

従来じゅうらい黒色こくしょく火薬かやくにかわって無煙むえん火薬かやく使用しようするしょう口径こうけいの8mmだん使用しようし、銃身じゅうしん下部かぶに8はつ収容しゅうよう管状かんじょう弾倉だんそうっていた。正式せいしき名称めいしょうは「明治めいじじゅうねん制定せいてい 大日本帝國だいにっぽんていこく村田むらた連發れんぱつじゅう」である。

げきはつバネは単発たんぱつじゅう松葉まつばバネからコイルバネに変更へんこうされ、槓桿も小型こがたされた。ライフリングは当時とうじとしてはめずらしかったメトフォードしき採用さいようするなど、様々さまざましんコンセプトをんだ意欲いよくさくであったが、軍用ぐんようライフルよう弾倉だんそうとして一時いちじてき流行りゅうこうした管状かんじょう弾倉だんそう採用さいようしたことが、村田むらた連発れんぱつじゅう短命たんめいわらせる原因げんいんとなった。

管状かんじょう弾倉だんそうなかでは弾丸だんがん前後ぜんご細長ほそながならぶ。このとき、まえ弾丸だんがん雷管らいかんうしろのたまあたまつよたたくと、暴発ぼうはつ発生はっせいするおそれがある。そこで先端せんたんとがらせないひらあたま弾丸だんがんもちいる必要ひつようがあり、雷管らいかんじゅうさんねんしき村田むらたいちごう雷管らいかん保護ほごカバーを追加ついかした専用せんようものもちいられた。このひらあたま弾丸だんがんが、命中めいちゅうりつ低下ていかをまねいた。じゅうねんしき欧州おうしゅう各国かっこくでも実用じつようされてあいだもなかった強力きょうりょく無煙むえん火薬かやく採用さいようし、発射はっしゃ初速しょそく一挙いっきょがっていた。そのため、弾丸だんがん初速しょそくおそいときにはおおきな問題もんだいにならなかった空気くうき抵抗ていこうによる弾道だんどう特性とくせい悪化あっかしょうじた。たま先端せんたんとがらせればこの問題もんだい解消かいしょうでき、むしろ命中めいちゅうりつ向上こうじょう期待きたいできるのだが、じゅうねんしきではひらあたま弾丸だんがん裏目うらめた。

また、管状かんじょう弾倉だんそうじゅう前方ぜんぽうながびていたので、1はつごとまえかるくなり、じゅう全体ぜんたいのバランスが変化へんかしてしまう。これもまた射撃しゃげき精度せいど悪影響あくえいきょうおよぼした[53]

じゅうねんしき管状かんじょう弾倉だんそうは、現在げんざい自動じどう散弾さんだんじゅうなどのように機関きかん部下ぶかから弾薬だんやく装填そうてんする機構きこうではなく、ボルトをひらいてくすりしつがわからたま装填そうてんしなければならないため、弾薬だんやく装填そうてん時間じかんかり、装填そうてんには射撃しゃげきできないため、結果けっかてきには「多少たしょうだん余分よぶんてる単発たんぱつじゅう程度ていど実用じつようせいしかられなかったことや、きゅうだん信頼しんらいせいにややなんがあったことから兵士へいしたちには不評ふひょうであった。

散弾さんだんじゅう場合ばあいには弾頭だんとうがケースのくちきに保護ほごされており弾倉だんそうない雷管らいかんたたおそれがないことと元々もともと長距離ちょうきょり狙撃そげきおこなうこと自体じたいすくないため、これらの欠点けってん通常つうじょうほとん問題もんだいになることはないのだが、村田むらた連発れんぱつじゅうはからずも「無煙むえん火薬かやくもちいた近代きんだいライフルには管状かんじょう弾倉だんそうまった不適ふてき」であることの実例じつれいとなってしまった(これはどう時期じきにおける、無煙むえん火薬かやく使用しようした小銃しょうじゅうとしては世界せかいはつのフランスのルベルM1886ライフルにもてはまる)。

管状かんじょう弾倉だんそう採用さいようしたことで銃身じゅうしんのスペースがくなったため、さくつえみじかもの銃床じゅうしょう内部ないぶおさめられており、清掃せいそうさいにはすうにんがそれぞれのさくつえつなわせて交替こうたい使用しようした。銃剣じゅうけんじゅうさんねんしきから一挙いっきょ短縮たんしゅくされたじゅうねんしき銃剣じゅうけん採用さいようされた。また、現在げんざい管状かんじょう弾倉だんそうしき自動じどう散弾さんだんじゅう装備そうびされているマガジンカットオフ機構きこう相当そうとうする機構きこうもこのころすで装備そうびしており、槓桿わきちいさなレバーを回転かいてんさせるとおくたま装置そうち停止ていしさせることができた。この機構きこう応用おうようし、携行けいこうするさいくすりしつ解放かいほうしてあやま装填そうてんによる事故じこ予防よぼうする、また通常つうじょう単発たんぱつじゅうとしてもち危急ききゅうさい連発れんぱつえるという運用うんよう可能かのうであった。一方いっぽう村田むらたしき騎兵きへいじゅう採用さいようされた安全あんぜん装置そうちじゅうねんしきでは採用さいようされなかった。近年きんねん日本にっぽん研究けんきゅうしゃ報告ほうこく[54]では、弾道だんどう特性とくせいとんがあたま弾丸だんがん使用しようした実包じっぽうでの射撃しゃげきでは後年こうねん軍用ぐんよう小銃しょうじゅう匹敵ひってきするしゅう弾性だんせい発揮はっきされるなど、けっして粗悪そあくつくりのじゅうではなかったが、コンセプトがあまりにも一時いちじてき流行りゅうこういすぎたことがたたり、村田むらた経芳つねよし後輩こうはいである有坂ありさか成章しげあきモーゼルしきボルトアクション小銃しょうじゅう参考さんこう開発かいはつしたさんじゅうねんしき歩兵ほへいじゅう好評こうひょうはくしたこともあいまって、軍制ぐんせいしきとしてはきわめて短命たんめいな8ねんという寿命じゅみょうわった。

村田むらた連発れんぱつじゅう採用さいようは、にちしん戦争せんそうがはじまった1894ねん明治めいじ27ねん)で、出征しゅっせいした師団しだん装備そうびにはわなかった。動員どういんおそくなった近衛このえ師団しだんだい4師団しだん受領じゅりょうしたが、りょう師団しだん実戦じっせん参加さんかしなかったため、にちしん戦争せんそうもちいられる機会きかいはなかった[47]

台湾たいわん鎮定ちんていせんきたきよし事変じへんもちいられた記録きろくのこる。

にち戦争せんそう前後ぜんごには後備こうび歩兵ほへい後備こうび工兵こうへいおよび海軍かいぐん陸戦りくせんたい[55]村田むらた連発れんぱつじゅう装備そうびした。戦争せんそうちゅう当時とうじ主力しゅりょく小銃しょうじゅうであったさんじゅうねんしき歩兵ほへいじゅう交換こうかんされていったが、奉天ほうてん会戦かいせん参加さんかした後備こうび歩兵ほへい相当そうとうすうがなお旧式きゅうしきじゅう装備そうびしていた[56]

また、じゅうさんねんしきじゅうはちねんしき村田むらたじゅうことなりさんじゅうねんしき歩兵ほへいじゅう配備はいび後方こうほう部隊ぶたいおよ教練きょうれんようじゅうとしてぐん保管ほかんされたのちに、当時とうじ財閥ざいばつ陸軍りくぐん中古ちゅうこ兵器へいきあつかった泰平たいへい組合くみあいなどをつうじておも中国ちゅうごく輸出ゆしゅつ[57]され、散弾さんだんじゅうされて民間みんかん出回でまわることもかったため、現存げんそんするじゅう銃剣じゅうけん国内外こくないがいどもきわめてすくなく、程度ていどもの米国べいこくないでも高値たかね取引とりひきされている。

じゅうねんしき村田むらた連発れんぱつじゅう射撃しゃげきせんおこな日本にっぽん陸軍りくぐん部隊ぶたいしたからさんにん兵士へいし一般いっぱんてき立射りっしゃ姿勢しせい[58]一番いちばん兵士へいしはより古典こてんてき静的せいてき射撃しゃげきてきしたアームバックスタイル[59]村田むらたじゅうかまえている。(1894ねんにちしん戦争せんそう)

村田むらたしき連発れんぱつじゅう実戦じっせんにおける運用うんよう方法ほうほうなどについては、近代きんだいデジタルライブラリー所蔵しょぞうされている明治めいじ20年代ねんだい後半こうはんから30年代ねんだいけての村田むらた連発れんぱつじゅう各種かくしゅ解説かいせつしょ[60][61][62]くわしくしるされており、同書どうしょによると搬筒さじじくてん(はんとうひじくてんは、マガジンカットオフレバー)の操作そうさ指揮しきかんの「連発れんぱつ」「単発たんぱつ」の号令ごうれいえるものとされており、射撃しゃげき戦時せんじ連発れんぱつ射撃しゃげきおよ単発たんぱつ射撃しゃげきへの相互そうご移行いこうは「連発れんぱつめ」「単発たんぱつめ」の号令ごうれいてんえることおこなわれ、カットオフを作動さどうさせたままにしておくことで、従来じゅうらい村田むらた単発たんぱつじゅう同様どうよう射撃しゃげきじゅつおよ射撃しゃげき指揮しきおこなえた。

また、村田むらた連発れんぱつじゅう弾倉だんそうへのまん装填そうてんただちに連発れんぱつ射撃しゃげき開始かいししたい場合ばあい(「特別とくべつ場合ばあい」とも記載きさいされる)は弾倉だんそうないに8はつめたのちに搬筒さじ(はんとうひ、キャリアー)に1はつせ、さらくすりしつに1はつ直接ちょくせつ装填そうてんし、てん連発れんぱつ位置いち銃身じゅうしん水平すいへい)のままとして槓桿を閉鎖へいさ射撃しゃげき開始かいしすることで、最大さいだい10連発れんぱつとすること出来できが、兵士へいし個々人ここじんゆびふとさのちがいにより弾倉だんそうへの装填そうてんがしにくい場合ばあいには、キャリアーにせた実包じっぽうつぎ装填そうてんする実包じっぽう弾頭だんとう部分ぶぶんんでいくこと装填そうてんする方法ほうほう指定していされていた。弾倉だんそうからの抜弾はてん連発れんぱつ位置いちえ、なんゆうそこ開閉かいへいすることおこなったが、騎兵きへいにおいては「かたやめ」の号令ごうれいのちくすりしつと搬筒さじのこった実包じっぽうゆびふたた弾倉だんそうないもど方法ほうほうってもよいとされた[61]

村田むらた連発れんぱつじゅう安全あんぜん装置そうち装備そうびされておらず、騎銃きじゅうにおいても村田むらた単発たんぱつ騎銃きじゅうのようなげきくき前進ぜんしん阻止そしする機構きこう(避害)は追加ついかされなかったが、搬筒さじじくてん使つかことでその代用だいようとすること出来できた。弾倉だんそうのみに装填そうてんしたのちてん単発たんぱつ位置いち銃身じゅうしん垂直すいちょく)にえ、搬筒さじこした状態じょうたい固定こていして連発れんぱつ機構きこう停止ていしさせてしまえば、槓桿をいくら操作そうさしても射撃しゃげきおこなえず、単発たんぱつじゅうのように意図いとてきくすりしつ直接ちょくせつ装填そうてんするか、過度かど衝撃しょうげき弾倉だんそうない実包じっぽう雷管らいかん弾頭だんとうかれて誘爆ゆうばくしないかぎりは暴発ぼうはつこりなくなるため小銃しょうじゅう騎兵きへいじゅうども通常つうじょう弾倉だんそうまん装填そうてん連発れんぱつ機構きこう停止ていしさせ、くすりしつと搬筒さじ実包じっぽうこと確認かくにんしたうえゆうそこ閉鎖へいさし、げきてつろす操作そうさ[63]おこなったのち携行けいこうすること指示しじされている。

騎兵きへいにおいては馬上まけでは連発れんぱつ射撃しゃげき基本きほんとし、単発たんぱつ射撃しゃげき原則げんそくとしておこなわないこととされた。また、特別とくべつ場合ばあいにおいては小銃しょうじゅう同様どうようにキャリアーとくすりしつに1はつずつ装填そうてんし7連発れんぱつとできること記述きじゅつされているが、前述ぜんじゅつの搬筒さじじくてんもちいた安全あんぜん装置そうち使つかえないためか、「馬上もうえいては2はつ追加ついかおこなわないこと」も併記へいきされている[61]

これらの一連いちれん操作そうさ現在げんざいのマガジンカットオフ機構きこうきのはん自動じどうしき散弾さんだんじゅう運用うんようするさいもおおむねおな方法ほうほうられているが、後年こうねん有坂ありさかじゅう装填そうてんはストリッパークリップによるみ、弾倉だんそうからの抜弾はマガジンフォロワープレートを開閉かいへいすることでより簡単かんたんおこなえた。また、搬筒さじじくてんもちいた安全あんぜん装置そうちも、安全あんぜん解除かいじょ連発れんぱつ位置いちへのえ)射撃しゃげき開始かいしするさいにはかならいちゆうそこ開閉かいへいおこなことさいコックとくすりしつへのおくたまおこな必要ひつようがあり、くすりしつ装填そうてんしてコッキング状態じょうたいのまま安全あんぜん装置そうちけること出来でき有坂ありさかじゅうよりもはつたま発射はっしゃではおくれをことになる。有坂ありさかじゅう最大さいだい装填そうてんすうでこそ村田むらた連発れんぱつじゅうよりおとるものの、上記じょうきのような複雑ふくざつ運用うんよう手順てじゅん把握はあく不要ふよう装填そうてん・抜弾ども村田むらた連発れんぱつじゅうよりもはるかに素早すばやかったことから、さんじゅうねんしき歩兵ほへいじゅうどう騎兵きへいじゅう登場とうじょうじゅうねんしききわめて早期そうきだい一線いっせん部隊ぶたいからは姿すがたしていった。

じゅうねんしき村田むらた連発れんぱつ騎銃きじゅう[編集へんしゅう]

じゅうねんしき村田むらた連発れんぱつ騎銃きじゅう
じゅうねんしき村田むらた連発れんぱつ騎銃きじゅう
種類しゅるい 騎兵きへいじゅう
製造せいぞうこく 日本の旗 日本にっぽん
設計せっけい製造せいぞう 東京とうきょう砲兵ほうへい工廠こうしょう
小倉おぐら陸軍りくぐん造兵ぞうへいしょう
名古屋なごや陸軍りくぐん造兵ぞうへいしょう
仕様しよう
口径こうけい 8mm
銃身じゅうしんちょう 500mm
ライフリング メトフォードしき4じょう
使用しよう弾薬だんやく 8mm村田むらた無煙むえん火薬かやく実包じっぽう(8x53Rmm)
装弾そうだんすう 8はつ
作動さどう方式ほうしき ボルトアクションしき
全長ぜんちょう 960mm
重量じゅうりょう 3,853g
銃口じゅうこう初速しょそく 590m
射程しゃてい 1,500m
歴史れきし 
設計せっけいねん 1889ねん明治めいじ22ねん
関連かんれん戦争せんそう紛争ふんそう にちしん戦争せんそう台湾たいわん平定へいていせんきたきよし事変じへんにち戦争せんそう
製造せいぞうすう 不明ふめい
テンプレートを表示ひょうじ

小銃しょうじゅう同時どうじ制定せいていされた。騎兵きへいじゅう銃身じゅうしんとも弾倉だんそうみじかくなっているため装填そうてんすうは5はつとなっている。また当時とうじ騎兵きへいはサーベルを佩用はいようしたことから着剣ちゃっけん装置そうちこと前身ぜんしん村田むらた単発たんぱつ騎銃きじゅう同様どうようである[64]

村田むらたじゅう銃剣じゅうけん[編集へんしゅう]

村田むらたじゅうさんねんしき銃剣じゅうけん[編集へんしゅう]

1881ねん明治めいじ13ねん)に制式せいしきされたじゅう三年式村田単発銃用銃剣。剣先けんさき両刃りょうばになっている。けんちょうが71.0 cm、ちょうが57.0 cmと、かたなせまだい脇差わきざしサイズの刀剣とうけんであった。じゅう先端せんたん右側みぎがわめん着剣ちゃっけんし、けん水平すいへいく。

村田むらたじゅうはちねんしき銃剣じゅうけん[編集へんしゅう]

けんちょう58.0cm、ちょう46.0cmと大幅おおはば短縮たんしゅくされたじゅう八年式村田単発銃用の銃剣じゅうけん着剣ちゃっけん村田むらたじゅうさんねんしき銃剣じゅうけんおなじくじゅう先端せんたん右側みぎがわめんであり、けん水平すいへいく。

村田むらたじゅうねんしき銃剣じゅうけん[編集へんしゅう]

1889ねん明治めいじ22ねん)に制式せいしきされたじゅう二年式村田連発銃用銃剣。けんちょう:37.0 cm、ちょう:28.0 cm。じゅう先端せんたん下面かめん着剣ちゃっけんし、けん垂直すいちょくく。じゅうねんしき製造せいぞう時期じきによりフロントバンドの形状けいじょうことなるため銃剣じゅうけん種類しゅるい用意よういされ、相互そうご互換ごかんせいものとなっている。

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

八甲田山はっこうださん
青森あおもり歩兵ほへいだい連隊れんたいせつちゅう行軍こうぐんたいのソリたい兵士へいし所持しょじ
マタギ
リメインズ うつくしき勇者ゆうしゃたち

ドラマ[編集へんしゅう]

緑豆りょくとうはな
主人公しゅじんこう・イヒョンが所持しょじ

漫画まんが・アニメ[編集へんしゅう]

『イッテイ 13ねんしき村田むらたじゅう創製そうせい
ぎんきば -ながぼし ぎん-
登場とうじょう人物じんぶつ1人ひとりくまげきちの達人たつじんでありくまけんくまりに使つか猟犬りょうけん育成いくせい名人めいじんである竹田たけだ兵衛ひょうえ使用しようする。
ゴールデンカムイ
200とう以上いじょうひぐまり「冬眠とうみんちゅうひぐまもうなされる悪夢あくむくまち」とおそれられる猟師りょうし二瓶にへい鉄造てつぞうじゅうはちねんしき単発たんぱつじゅう使用しよう
作中さくちゅうでは狩猟しゅりょうようとしても旧式きゅうしきであるが本人ほんにん信念しんねんにちしん戦争せんそう戦死せんしした一人ひとり息子むすこ形見かたみということもあり、あえて使つかつづけている。
また、もとマタギ谷垣たにがき源次郎げんじろうびんものいでそれをチカパシへといでいる、ほか、アイヌ猟師りょうしつつめられた狩猟しゅりょうよう村田むらたじゅう所持しょじしている。
邪眼じゃがん月輪げつりん
りキチ三平さんぺい
阿仁あに三四郎さんしろうへん登場とうじょうするマタギさんよんろう使用しようする。

ゲーム[編集へんしゅう]

SIREN』(ホラー)
じゅうねんしき登場とうじょうし、主人公しゅじんこう1人ひとりである志村しむらあきらほん主人公しゅじんこう須田すだきょう也、むら徘徊はいかいするかばねじん使用しようする。

小説しょうせつ[編集へんしゅう]

邂逅かいこうもり
ねらいうてこう じゅうごう村田むらた経芳つねよし生涯しょうがい
黄砂こうさ籠城ろうじょう うえした
 主人公しゅじんこうらの装備そうびとして登場とうじょう。まっすぐばないじゅう揶揄やゆされている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 明治めいじ工業こうぎょう へいへん 日本にっぽんこう学会がっかいへん[ようページ番号ばんごう]
  2. ^ 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん」(平凡社へいぼんしゃ)当該とうがい項目こうもく
  3. ^ 翻訳ほんやくしゃ当時とうじ幕府ばくふ翻訳ほんやくかたであった福沢ふくさわ諭吉ゆきちなどである。この操作そうさマニュアルは「かみなりじゅうみさおほう」とだいされ、『福沢ふくさわ全集ぜんしゅう』に収録しゅうろくされている
  4. ^ 陸軍りくぐんしょう各局かくきょく文書ぶんしょ きょう官房かんぼう 明治めいじ6ねん7がつ
    山県やまがた陸軍りくぐんきょう 1873ねん明治めいじ6ねん)7がつ18にち
    いち歩兵ほへい操典そうてん 大隊だいたい 小隊しょうたい かくいちさつ みぎ今般こんぱんきょう使エレマン講義こうぎヲ@リへい学寮がくりょう於テただしこうじょう其局於テかつばんヲ以テ改編かいへんけいさる此旨しょうたちこうごと 明治めいじろくねんなながつじゅうにち 山県やまがた陸軍りくぐんきょう だいろくきょく
  5. ^ 公文こうぶんべつろく陸軍りくぐんしょうしゅぶんまわしふちかん抜粋ばっすい明治めいじ元年がんねん明治めいじはちねんだいじゅういちかん明治めいじよんねん明治めいじはちねん
    兵部ひょうぶしょう 明治めいじ5ねん2がつ12にち(1872ねん3がつ20日はつか
    東京とうきょう鎮台ちんだい歩兵ほへい練兵れんぺいしきてい東京とうきょう鎮台ちんだい 其台本営ほんえい歩兵ほへい西暦せいれきいちせんはちひゃくななじゅうねんしきしょうていこうあいだ歩兵ほへい操典そうてんもと致練へいこうごとしゅぶんまわしふちかん
  6. ^ 陸軍りくぐんしょうだい日記にっきだい日記にっき しょりょう伺届べんもろたち 1がつきん 陸軍りくぐんだい1きょく
    陸軍りくぐんしょう 1874ねん明治めいじ7ねん)1がつ
    ただし仏書ぶっしょみぎ戸山とやま出張所しゅっちょうしょニ於テ入用いりようづけ至急しきゅうかしわたり相成あいなたび此段しょう伺候しこう曽我そが兵学へいがくあたま代理だいりろくねん十二月じゅうにがつじゅうさんにち 兵学へいがくじょ 保科ほしなただしたかし山縣やまがたきょう殿どの伺之どおりただしかい上下じょうげかしわたりごと いちがつじゅうさんにち だいろくじゅうきゅうごうせんはちひゃくななじゅうねんしきふつ歩兵ほへい操典そうてん 三部右歩兵科教師通弁課之者職務用必要ニづけ至急しきゅうかしわたり相成あいなたびゆう貯蔵ちょぞう乞之こうごと じつうえわたり相成あいなこうさま致度此段しょう伺候しこう也」
  7. ^ こうそうしきのメリットは、その連射れんしゃせい伏射ふくしゃ姿勢しせい維持いじしたまま弾薬だんやく装填そうてん可能かのうてんにあった。
  8. ^ スナイドルじゅう使用しようされた.577 Snider弾薬だんやくは、1866ねんにイギリス陸軍りくぐん採用さいようされたボクサーがた雷管らいかん使用しようする一体いったいがた薬莢やっきょうであり、開発かいはつ当初とうしょ真鍮しんちゅうせい基部きぶかみせいがわとうわせて製造せいぞうされていたが、ほどなくして真鍮しんちゅう素材そざいから一体いったい成型せいけいされた金属きんぞく薬莢やっきょう発展はってんし、ボクサーがた薬莢やっきょうばれるようになった。
    ボクサーがた薬莢やっきょう現代げんだいでもほぼ原型げんけいのまま使用しようされているほど完成かんせいたかく、金属きんぞく密閉みっぺいされた発射はっしゃやく点火てんかやく環境かんきょう影響えいきょうけにくく、多湿たしつ多雨たうなアジア地域ちいきにおいてもその信頼しんらいせい比類ひるいなきものだった。
  9. ^ スナイドルじゅうは、かくはん多数たすう在庫ざいこかかえながら旧式きゅうしきしてしまったぜんそうしきエンフィールドじゅうに、比較的ひかくてき簡単かんたん加工かこうほどこすだけで製造せいぞうできたため、コストパフォーマンスにすぐれており、日本にっぽん陸軍りくぐんのみならずかくはん鉄砲てっぽう鍛冶たんやになる無数むすう改造かいぞうれい存在そんざいしていた。
    陸軍りくぐん軍政ぐんせい年報ねんぽう明治めいじはちねんこうより)
    だい 砲兵ほうへい事務じむ明治めいじはちねんきゅうがつヨリ官員かんいん派出はしゅつ長門ながとこくはぎおきげんニ於テ「エンピール」みつるヲ「アルミー」じゅう改造かいぞうはじめ 「スナテトル」だん製造せいぞう器械きかい来着らいちゃくセリ(はちねんきゅうがつ)此器械きかいもちいユルキハ大凡おおよそいちにちまんはつたま製造せいぞうスルコトヲとくル〜和歌山わかやまぞくしょうハ(とう)「ツンナール」ヲようヒサルいんヲ閉廠〜 (ちゅう:アルミーじゅうとはスナイドル・アルミニー(歩兵ほへいじゅう意味いみ
  10. ^ スナイドルじゅう最初さいしょのちそうじゅうだったため、くすりしつ先端せんたんから弾丸だんがんライフリング部分ぶぶん調整ちょうせい技術ぎじゅつてき確立かくりつ状態じょうたいにあった。
    エンフィールドじゅうでは油紙あぶらがみつつまれた状態じょうたい装填そうてんされていた弾丸だんがんが、スナイドルじゅうでは直接ちょくせつライフリングと摩擦まさつする構造こうぞう変更へんこうされたため、弾丸だんがん初速しょそくげすぎると、摩擦まさつねつけたなまりがライフリングに付着ふちゃくして蓄積ちくせき銃身じゅうしん寿命じゅみょうみじかくするためてい初速しょそくでしか使用しようできず、弾道だんどう特性とくせい向上こうじょう期待きたいできなかった。
    また、エンフィールドじゅうから簡単かんたん改造かいぞうできること優先ゆうせんしたデザインだったため、げきはつ機構きこうかんしきから流用りゅうようされたサイドハンマーしきのままで、射撃しゃげきさい銃身じゅうしんじくせんだい角度かくど打撃だげきあたえられて重力じゅうりょく干渉かんしょうしょうじ、命中めいちゅう精度せいど向上こうじょう有効ゆうこう射程しゃてい延長えんちょう期待きたいできない構造こうぞうだった。
    スナイドル銃弾じゅうだんやくたか信頼しんらいせいゆうしたが、その製造せいぞうにはだい規模きぼ設備せつび工業こうぎょうインフラの存在そんざい不可欠ふかけつであり、1877ねん明治めいじ10ねん)までにどう弾薬だんやく国産こくさん成功せいこうしていたのは集成しゅうせいかん事業じぎょう蓄積ちくせきゆうしたきゅう薩摩さつまはんだけで、東京とうきょう大阪おおさか基盤きばんしん政府せいふにとって、薩摩さつま以外いがい供給きょうきゅうげん輸入ゆにゅうひんしかなく、このこと薩摩さつまばつ内紛ないふん内戦ないせん拡大かくだいした西南せいなん戦争せんそう勃発ぼっぱつ要因よういんのひとつとなった。
  11. ^ ドライゼじゅうひろししきツンナールじゅう)は、弾丸だんがんがサボットにつつまれた状態じょうたいでライフリングにより回転かいてんあたえられる構造こうぞうであり、銃身じゅうしんへのなまり付着ふちゃくやライフリングへのみの問題もんだいはなかった。げきはつ機構きこう銃身じゅうしんじくせん並行へいこうしてげきはり前後ぜんごするボルトアクションしきであり、命中めいちゅう精度せいどへの悪影響あくえいきょうきわめてちいさかったが、使用しようする弾薬だんやくかみせい薬莢やっきょうしきだったため環境かんきょう影響えいきょうやすく、多湿たしつ多雨たう日本にっぽんでは発射はっしゃやく黒色こくしょく火薬かやく湿気しけやすく、ながげきはり焼損しょうそんしてれる問題もんだいと、手入ていれをおこたるとボルトと銃身じゅうしんはし隙間すきまから高温こうおんこうあつ発射はっしゃガスが問題もんだい最後さいごまで解決かいけつされなかった。
    ただし、かみせい薬莢やっきょうはデメリットばかりではなく、水圧すいあつプレスなど専用せんよう設備せつびようする金属きんぞく薬莢やっきょう製造せいぞうくらべて、かみせい薬莢やっきょうマニュファクチュアレベルの工業こうぎょう水準すいじゅんでも製造せいぞう可能かのうであったため、ドライゼじゅう採用さいようした紀州きしゅうはんでは工廠こうしょう設置せっちして弾薬だんやく国産こくさん成功せいこうしており、西南せいなん戦争せんそう勃発ぼっぱつ時点じてん日本にっぽん陸軍りくぐんは200まんはつちかいドライゼ弾薬だんやく備蓄びちくゆうしていた。
  12. ^ スペンサー騎兵きへいじゅう坂本さかもと龍馬りょうまのエピソードで有名ゆうめいだが、リムファイアしき薬莢やっきょうもちいるためこう腔圧の弾薬だんやくつくれず、拳銃けんじゅうだん程度ていどじゃくそうであるため射程しゃていみじかく、すで旧式きゅうしきしつつあった。
  13. ^ シャスポーじゅうはドライゼじゅうおなじくかみせい薬莢やっきょう使用しようしながら、ドライゼじゅう欠点けってんおおくを解決かいけつし、しょう口径こうけいながら発射はっしゃやくりょうおおかったため、当時とうじもっとすぐれた弾道だんどう特性とくせいゆうしていたが、シャスポーじゅうもちいられるかみせい薬莢やっきょうはドライゼじゅう以上いじょう湿気しっけ影響えいきょうよわかった。
    また、ドライゼじゅう欠点けってんだったガスれをふせぐため、当時とうじはまだ高価こうかだったゴムせいのリングを消耗しょうもうひんとして使用しようしており、主力しゅりょく小銃しょうじゅうとして運用うんようできるだけのゴムリングを確保かくほするためには、フランスやイギリスといった特定とくていのゴム産出さんしゅつこく依存いぞんし、高価こうか消耗しょうもうひん輸入ゆにゅうつづけなければならないという問題もんだいがあった。
  14. ^ 陸軍りくぐんしょうだい日記にっき 明治めいじ5ねんだい日記にっき みずのえさる3がつ しょうちゅう からし
    陸軍りくぐんしょう 明治めいじ5ねん3がつ(1872ねん5がつ
    沼津ぬまづ出張しゅっちょう 間宮まみや兵学へいがく大助おおすけきょう みぎこれしゃ御用ごようゆうこうあいだ早々そうそう上京じょうきょう有様ありさま可分かぶん相成あいなこう也壬さるさんがつじゅうはちにち 山県やまがた陸軍りくぐん大輔だいすけ へい学寮がくりょう だいはちひゃくななじゅうきゅうごう いちきんひゃくりょう小銃しょうじゅうだんはこひゃく ただしいちはこづけきん 寸法すんぽう けんいちじゃくすんいち よころくななふん ふかよんすんろくふん あつななふん ただしてつくぎづけちゅうはこ亜鉛あえんばん入子いれこがいはこかくさとペッキぬりみぎハシャスポー実包じっぽうだんかくまもるようづけとうつかさニオイテ出来できため致度ゆう検印けんいんしたこう申出もうしでこれどおり さんがつじゅうろくにち
  15. ^ 陸軍りくぐんしょうだい日記にっき 明治めいじ7ねん きょう官房かんぼう 12がつ
    へい学寮がくりょう だいさんきょく
    へい学寮がくりょう 本年ほんねんじゅうがつじゅうきゅうにちハ@だいせんろくじゅうごう@@シヤスボーじゅうゴム般来ニづけ試験しけんじょうしょうたち@@@@@村田むらた少佐しょうさみぎえんりゅうせい正之まさゆきヲ以更ニあらためためしけん此上@あい達之たつゆきごと だいさんきょく 別紙べっしつうへい学寮がくりょうしょうたちこうじょうニ@@@@@かいためしけんあらため此上@あいかえし
  16. ^ この時期じき将来しょうらいてきにシャスポー改造かいぞうグラースじゅう日本にっぽん国内こくない製造せいぞうすること既定きてい路線ろせんとしながら、当面とうめんはスナイドルを使用しようするとの通達つうたつされている。
    公文こうぶんべつろく陸軍りくぐんしょうしゅぶんまわしふちかん抜粋ばっすい明治めいじ元年がんねん明治めいじはちねんだいじゅういちかん明治めいじよんねん明治めいじはちねん
    1874ねん明治めいじ7ねん)5がつ15にち 太政官だじょうかん 陸軍りくぐんしょう
    東京とうきょう鎮台ちんだい工兵こうへい携帯けいたいじゅうシャスポー製作せいさくせいヲ以テしゅうとクスナイトルじゅうヲ以テ備付そなえつけためたち東京とうきょう鎮台ちんだい 其台こうへい携帯けいたいじゅうシャスポートしょうていこうづけテハはる@於造へい修理しゅうりみせこう@@@いたりため製作せいさくしな分有ぶんゆうヨリみぎじゅうしょうはん出来できいたりけんづけのべニ及ヒ不都合ふつごうづけ当分とうぶん「スナイトル」じゅうノ以テ備付そなえつけこうじょう此旨しょうたちこうごと ただし「スナイトル」じゅう@@ぞくひん不足ふそくゆう一時いちじ悉旨@づけなん相成あいなやや取揃とりそろえ相渡あいどいちはずこうごとしゅぶんまわしかん
  17. ^ かく鎮台ちんだいから西南せいなん戦争せんそう派遣はけんされることになったへいのうち、ドライゼじゅう(ツンナールじゅう)を支給しきゅうされていたへいは、弾薬だんやく補給ほきゅう統一とういつのためにスナイドルじゅうあらたに支給しきゅうされてから九州きゅうしゅう派遣はけんされていた。
    陸軍りくぐんしょうだい日記にっき 明治めいじ10ねんだい日記にっき砲兵ほうへい工兵こうへい12がつ陸軍りくぐんしょうだい1きょく
    陸軍りくぐんしょう 1877ねん明治めいじ10ねん)12月
    ほうろくひゃくごう 大阪おおさか鎮台ちんだい歩兵ほへいだい十連隊一大隊第一中隊従前携帯シスナイトル@出征しゅっせいさいツンナール@@交換こうかん其兵@別紙べっしこれどおりかず返納へんのう伺出@此旨しょうたちこうごと じゅうねん十二月じゅうにがつじゅうにち 陸軍りくぐんきょう山県やまがた有朋ありとも 砲兵ほうへいささえしょう 別紙べっしハ〜」
    陸軍りくぐんしょうだい日記にっき 明治めいじ11ねんだい日記にっき鎮台ちんだい 2がついぬい 陸軍りくぐんしょうだい1きょく
    陸軍りくぐんしょう 1878ねん明治めいじ11ねん)2がつ12にち
    ひがしよんじゅうはちごう 其@歩兵ほへいだい二連隊第二大隊之内三中隊昨年@大阪おおさか鎮台ちんだい携帯けいたいスナイトル致ツンナールじゅうあずか交換こうかん出征しゅっせい戦地せんちヨリ@ニ本営ほんえいへ引揚@づけ@引渡かた@五第三千十七号大阪鎮台伺出@これどおり及指れいこうじょう心得こころえ此旨しょうたちこうごと 明治めいじじゅういちねんがつじゅうにち 陸軍りくぐんきょう山県やまがた有朋ありとも 東京とうきょう鎮台ちんだい べつだいきゅうじゅうよんごう
    しかし、途中とちゅうからスナイドルじゅうのストックがなくなり、そのまま派遣はけんされるへい存在そんざいしていたこと記録きろくされている。
    陸軍りくぐんしょうだい日記にっき 明治めいじ11ねんだい日記にっき6かん鎮臺ちんだい 4がつまついぬい 陸軍りくぐんしょうだい1きょく
    陸軍りくぐんしょう 1878ねん明治めいじ11ねん)4がつ
    せんろくひゃくさんじゅういちごう だいさんしんほうじゅうきゅうごう かぶとだいさんじゅうごう だいひゃくじゅうきゅうごう もとゆうげき歩兵ほへいだい五大隊出征用兵器彈薬返納之義ニづけじゅうねん和歌山わかやまけん臨時りんじ召募しょうぼもとゆうげき歩兵ほへいだい五大隊昨十二月解隊返納兵器彈薬@別紙べっし甲乙こうおつ二表之通有之御召表中持帰ノぶん返納へんのうこれ此段しょう伺候しこう明治めいじじゅういちねんよんがつじゅうにち 大阪おおさか鎮台ちんだい司令しれい長官ちょうかん 陸軍りくぐん少将しょうしょうさんこう重臣じゅうしん代理だいり 陸軍りくぐん少佐しょうさ高島たかしましんしげる 陸軍りくぐんきょう山県やまがた有朋ありとも 伺之どおり よんがつさんじゅうにち もとゆうげき歩兵ほへいだい大隊だいたい出征しゅっせい兵器へいき弾薬だんやくうち凱旋がいせん返納へんのう員数いんずう ちょうツンナールじゅう どうけん どう屓革 どう弾薬だんやくあい どう帯革おびかわ どうけん どうどう金物かなもの どうまたきん どうせっだっきん どう鍼」
  18. ^ 陸軍りくぐんしょうだい日記にっきだい日記にっき 省内しょうない各局かくきょく参謀さんぼう近衛このえ病院びょういん 教師きょうし軍馬ぐんばきょく 3がつすい 陸軍りくぐんしょうだい1きょく
    陸軍りくぐんしょう 1877ねん明治めいじ10ねん)3がつ7にち
    まいりだいよんひゃくじゅうごう だいさんしんてんよんじゅうはちごう 至急しきゅう きょくだいひゃくななじゅうごう 改造かいぞうじゅう代価だいかつもといあいづけ村田むらた少佐しょうさためし改造かいぞうシヤスポーじゅう独逸どいつこく代価だいかつもといあいさるづけアーレンスしゃより談判だんぱんため就而しゃみぎじゅう同人どうじんよりわたり相成あいなたび此段しょう伺候しこうじゅうねんさんがつななにち だい三局長代理陸軍大佐原田一道 陸軍りくぐんきょう代理だいり陸軍りくぐん中将ちゅうじょう西郷さいごう従道つぐみち殿どの 伺之どおり さんがつななにち
  19. ^ mofa.go.jp トップページ>外務省がいむしょう案内あんない外務がいむ本省ほんしょう
    外交がいこう史料しりょうQ&A 明治めいじ 1890年代ねんだい明治めいじ23ねん〜32ねんごろ
    布引ぬのびきまる事件じけんとは”より引用いんよう
  20. ^ 村田むらたじゅうのライフリング除去じょきょ措置そちは、現代げんだい猟銃りょうじゅう使用しようされるスラッグ銃身じゅうしん銃身じゅうしんちょう半分はんぶんまでライフリングほどこせることの法的ほうてき根拠こんきょとなっている。
  21. ^ むかしばなし - 射撃しゃげきこう
  22. ^ Q&A 散弾さんだんじゅう関連かんれん: 銃器じゅうきのコラム - ファーイーストガンセールス
  23. ^ 公文書こうぶんしょにみる発明はつめいのチカラ - 35. 村田むらたじゅう発明はつめい村田むらた経芳つねよし - 国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
  24. ^ 狩猟しゅりょうよう銃砲じゅうほう変遷へんせん  その2 ~当時とうじのカタログ・資料しりょうより~ - Royal Hunting Club
  25. ^ 村田むらたじゅうはら - 狩猟しゅりょうメモ
  26. ^ a b Nambu World: Murata Shotguns
  27. ^ 「○にじゅう」の刻印こくいん特徴とくちょうで、政治せいじ十文字じゅうもんじ大元おおもとあにでもあった。
  28. ^ 十文字じゅうもんじ信介しんすけ(じゅうもんじ しんすけ)とは - コトバンク
  29. ^ 鉄砲てっぽう火薬かやく歴史れきし(2) - Retire 「みきさん」のH/P
  30. ^ 日本にっぽん狩猟しゅりょう百科ひゃっか、62-63ぺーじ
  31. ^ a b 日本にっぽん狩猟しゅりょう百科ひゃっか』、94-95ぺーじ
  32. ^ 散弾さんだんじゅうかみ真鍮しんちゅう薬莢やっきょうじゅうよう雷管らいかんじゅうよう黒色こくしょく無煙むえん火薬かやくなど。現在げんざいでは廃止はいし規格きかくになっているものおおい。
  33. ^ 火縄銃ひなわじゅうあらため村田むらたじゅう 単発たんぱつ口径こうけい32ばん - シューティングサプライ
  34. ^ おおむ慶応けいおう3ねん(1869ねん以前いぜん製造せいぞうまたは渡来とらいしたじゅうで、文化財ぶんかざい保護ほご担当たんとうする都道府県とどうふけん教育きょういく委員いいんかいが、美術びじゅつひんもしくは骨董こっとうひんとして価値かちがあると判断はんだんして登録とうろくされたもの。
  35. ^ 日本にっぽん狩猟しゅりょう百科ひゃっか、63ぺーじ
  36. ^ 村田むらたじゅうちにきました。 - 半谷はんがい範一のりかずの「オレはたいしたことないやつ日記にっき
  37. ^ わたし村田むらたじゅう、ついに正体しょうたい確認かくにんしました。 - 半谷はんがい範一のりかずの「オレはたいしたことないやつ日記にっき
  38. ^ ただし黒色こくしょく火薬かやく勿論もちろんのこと、村田むらた薬莢やっきょう適合てきごうする雷管らいかんとして信号しんごうだんようの「はやぶさ雷管らいかん」が昭和しょうわ金属きんぞく工業こうぎょうつうじて現在げんざいでもられており、真鍮しんちゅう薬莢やっきょうも12ばんや20ばん、28ばんなどの海外かいがいでも比較的ひかくてき一般いっぱんてき口径こうけいであればMagtechしゃせいのプレス薬莢やっきょうや、Circle Flyしゃせい羊毛ようもうワッズが現在げんざいでも個人こじん輸入ゆにゅう可能かのうなため、スラッグだんなまり鋳造ちゅうぞうするなどして、標的ひょうてき射撃しゃげきじつりょうたのしむものもごく少数しょうすうではあるが存在そんざいする。
  39. ^ 11x60 R Murata Mod. 1880 / MUNICION.ORG
  40. ^ 11 x 59 R Gras - MUNICION.ORG
  41. ^ 陸軍りくぐんしょうだい日記にっき 明治めいじ14ねんだい日記にっき 局部きょくぶ 9がつすい 陸軍りくぐんしょう総務そうむきょく
    陸軍りくぐんしょう 1881ねん明治めいじ14ねん)9がつ
    だい@@ななごう @@だいよんじゅうはちごう とうじゅう四年度中村田銃其外製造@@@たち相成あいなたびそうみずきょくだいろくさんごう 村田むらたじゅう どうそら弾丸だんがんども シヤスポーじゅう改造かいぞう みぎ@@じゅう其外製造せいぞう東京とうきょう砲兵ほうへい工廠こうしょう年度ねんどハ@@これどおり製造せいぞうけいいたるあい添此だんしょう伺候しこう也」
  42. ^ 陸軍りくぐんしょうだい日記にっき 明治めいじ22ねんだい日記にっき 8がつ
    かんぐん伯爵はくしゃく 大山おおやまいわお 1889ねん明治めいじ22ねん)8がつ12にち
    総監そうかんだいよんろくごう だいいちろくごう かん軍部ぐんぶ 士官しかん学校がっこう改造かいぞう村田むらたじゅうはいじゅうわたりかたけん 議案ぎあん 明治めいじじゅうねんはちがつじゅうにち かぶとだいなな一六号照会士官学校生徒銃槍試合演習用トシテシアスポー改造かいぞう村田むらたじゅうはいじゅうわたりかたけん承認しょうにんこう陸軍りくぐんしょう送達そうたつ おくおつだいよんさんごう 砲兵ほうへいだいいち方面ほうめんざいあん @@だいいちろく五号監軍部照会之趣承認候条渡方取計フヘシ 士官しかん学校がっこう生徒せいとじゅうやり試合しあい演習えんしゅうようトシテシアスポー改造かいぞう村田むらたじゅうはいじゅうわたりかた相成あいな及該校長こうちょう伺出こうむね将校しょうこう学校がっこうかん具申ぐしんこうじょうわたりかた相成あいなたび此段及照かいこう明治めいじじゅうねんろくがつじゅうにち かんぐん伯爵はくしゃく 大山おおやまいわお 陸軍りくぐん大臣だいじん伯爵はくしゃく 大山おおやまいわお殿どの シヤスポー改造かいぞう村田むらたじゅうはいじゅうわたり伺 シヤスポー改造かいぞう村田むらたじゅうはいじゅう よんじゅうてい みぎ当校とうこう生徒せいとじゅう仕合じあい演習えんしゅうようトシテわたり相成あいなたび此段しょう伺候しこう也」
  43. ^ 陸軍りくぐんしょうだい日記にっき 明治めいじ18ねんだい日記にっき 9がつ がつ 陸軍りくぐんしょう総務そうむきょく
    陸軍りくぐんしょう 1885ねん明治めいじ18ねん)9がつ
    電信でんしんきょく 陸軍りくぐんしょう仲林なかばやしつぎいずるごう相成あいなたびこうそうだいさんごう いちだいさんよんきゅうごう ざい靖国やすくに天津てんしんこう村田むらたじゅうかしわたりうんニノべつつう波多野はたの領事りょうじヨリさるえつ@召@はぶけ考案こうあんうけたまわみぎしょう@ヘ此段さるしんこうじゅうはちねんきゅうがつじゅうきゅうにち 井上いのうえごう 大山おおやま陸軍りくぐん別紙べっし こうしんじだいじゅういちごう わが陸軍りくぐんしょう製造せいぞう村田むらたじゅう精巧せいこうりょうじゅうニシテこと射的しゃてき命中めいちゅうむべじきトノ@当地とうちニ於テ評判ひょうばんだかずいきよしかん并ニ外国がいこくじんニテみぎじゅう製法せいほう質問しつもんある一覧いちらんヲ請度むね申出もうしでしゃゆう@@製法せいほうづけテハ多少たしょう説明せつめいヲモ致@ヘモなんふん實物じつぶつゆうセサル@ニづけつねへだたくつノ憾アルハめんレサルしょゆう@就テハ見本みほんトシテ村田むらたじゅうじゅう五挺内長筒之分五挺短筒之分五挺ふつこくせいシヤスポじゅう改造かいぞうがかり村田むらたじゅうてい其筋ヨリ当館とうかんかしわたり相成あいなこうさま致度@しかぜんあらわ請求せいきゅうおうシテ一覧いちらんもと實物じつぶつニ就テ其精巧せいこうナル〜」
  44. ^ じゅうさんねんしきのボルトフェイス自体じたい平面へいめんのため、本来ほんらいひらたいリム底面ていめん薬莢やっきょう使用しようしてもなん問題もんだいはない。後年こうねんの8mm村田むらただん村田むらたしき散弾さんだんじゅうよう薬莢やっきょうひらたいリム底面ていめん薬莢やっきょう変更へんこうされているが、30ばん真鍮しんちゅう薬莢やっきょうのみは最後さいごまで11mm村田むらただん同様どうようのリム底面ていめん形状けいじょう製造せいぞうされつづけた。
  45. ^ 伊藤いとう眞吉しんきち 「鉄砲てっぽう安全あんぜん(その2)」『銃砲じゅうほう年鑑ねんかん』06-07年版ねんばん、254ぺーじ、2006ねん
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    東京とうきょう砲兵ほうへい工廠こうしょうひさげ 黒田くろだひさこう 1889ねん明治めいじ22ねん)4がつ15にち
    だいよんななごう 村田むらた歩兵ほへい大佐たいさ以下いか二名欧来江被差遣度義上申 東京とうきょう砲兵ほうへい工廠こうしょう 陸軍りくぐん歩兵ほへい大佐たいさ村田むらた経芳つねよし 陸軍りくぐん砲兵ほうへい監護かんご山崎やまざきあずか 陸軍りくぐんろくとう技手ぎしゅ渡邊わたなべさかええい 近時きんじ欧米おうべい各国かっこく軍用ぐんようじゅう弾道だんどうていしん射程しゃてい遠大えんだいナルトノ企図きとセシヨリせんしょう口径こうけい連発れんぱつじゅう制式せいしき採用さいようスルニいたりレリ而テ本邦ほんぽうノ如キモりょうさんねんまえヨリレガ制式せいしき研究けんきゅうだるラスおわり今回こんかい村田むらた連発れんぱつじゅう制定せいてい採用さいようセラル爾来じらい製造せいぞうたちゆう製作せいさく従事じゅうじやめざいこうしょ該銃ノ制式せいしきタルもとヨリ軍用ぐんよう村田むらたじゅうスレバすうそうしらげみつようスルハ勿論もちろんあいだ製作せいさくほう困難こんなんナル部分ぶぶんアリテ意外いがいこうきんずい銃器じゅうき製造せいぞう高貴こうきナラシムルノミナラズ姑息こそく製造せいぞうほうヨリ竟ニ不良ふりょう銃器じゅうきせいスルノ患モゆう頗ル苦慮くりょやめざいこう就テハ銃器じゅうき製作せいさく方法ほうほうある職工しょっこう使役しえき程度ていど器械きかい工具こうぐ使用しようほうとう欧米おうべい各国かっこく製造せいぞうしょニ就キ実地じっち研究けんきゅう習学ため致候とくしゃ前件ぜんけんもと数多すうた困難こんなん排除はいじょりょう低廉ていれん製作せいさくスルノおおとりえきおさむとくラルベキごと確信かくしん致候前書ぜんしょ村田むらた歩兵ほへい大佐たいさ以下いかめいヲシテ小銃しょうじゅう製造せいぞうほうため取調とりしらべ欧米おうべい各国かっこくこう差遣さけんこうさま致度此段意見いけん上申じょうしんこう
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    泰平たいへい組合くみあい 1910ねん明治めいじ43ねん)4がつ19にち
    みつ受第いちごう 泰平たいへい組合くみあい 旧式きゅうしき兵器へいきはらいけん じゅうみつだいさんななごう 指令しれい ねがいこれどおり聞届ききとどけただし現品げんぴん受領じゅりょう代価だいか納入のうにゅうとう直接ちょくせつ兵器へいきほんしょう承合しょうごうスヘシ 兵器へいきほんしょうヘ逹 村田むらた連發れんぱつじゅう 実包じっぽう みぎ海外かいがい販売はんばいよう見本みほんトシテはらい下方かほう泰平たいへい組合くみあいヨリ願出ねがいで認可にんかこうじょうはらい下方かほうけいフヘシ りくひそかだいななろくごう ただし現品げんぴんノ@@代価だいか納入のうにゅうとう直接ちょくせつどう組合くみあい理事りじくれだいろう指示しじスヘシ たいりくだいじゅういちごう はらい御願ごがん じゅう二年式村田歩兵連發銃員革共 銃剣じゅうけん 彈藥だんやくあい帯革おびかわけんども 實包じっぽう みぎ海外かいがい販売はんばいよう見本みほんトシテはらいなり此段たてまつねがいじょうこう陸軍りくぐん大臣だいじん子爵ししゃく 寺内てらうち正毅まさき
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  64. ^ Rare Japanese Type 22 “Marauder” - collectorsfirearms.com

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 大江おおえ志乃しのおっとにち戦争せんそう軍事ぐんじてき研究けんきゅう』、岩波書店いわなみしょてん、1976ねん
  • 国際こくさい出版しゅっぱん月刊げっかんGun」1978ねん3がつごう/4がつごう
  • 愛知あいちけんじゅう研究けんきゅうかい「あいほう 17ごう
  • 社団しゃだん法人ほうじん全日本ぜんにほん狩猟しゅりょう倶楽部くらぶ日本にっぽん狩猟しゅりょう百科ひゃっか

参照さんしょう資料しりょう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

先代せんだい
陸軍りくぐん:スナイドルじゅう
海軍かいぐん:マルティニ・ヘンリーじゅう
日本にっぽんぐん制式せいしき小銃しょうじゅう
1880-1898
次代じだい
有坂ありさかじゅう