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醍醐 忠順(だいご ただおさ)は、江戸時代末期の公卿、廷臣。
仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)・明治天皇(122代)の三帝にわたり仕え、官位は正二位権大納言まで昇った。明治時代には政治家となり、特に初代大阪府知事として知られる。父は内大臣醍醐輝弘。母は関白鷹司政熙の娘。子に醍醐忠告、醍醐忠敬、一条忠貞、醍醐忠直、娘に好子(賀陽宮邦憲王妃)、親子(鶴殿忠善妻)がいる。
1820年に実子の忠善(忠順の兄にあたる)を喪い、跡継ぎがなかった輝弘であったが、10年後の天保元年(1830年)、その輝弘に待望の第二子である忠順が生まれた。翌天保2年(1831年)には家督を譲られて叙爵。以降清華家当主として速いスピードで累進し、侍従・左近衛権少将・左近衛権中将を経て、天保14年(1843年)に従三位となり、公卿に列する。(幼少期は隠居した輝弘が補佐をしていたものと思われる。)安政2年(1855年)の孝明天皇の遷幸に際しては御櫃中将として天皇に供奉。醍醐家は馬副4名、舎人2名、随身4名、雑色4名、傘1名の計15名を用意した。1859年に父・輝弘が亡くなった後、文久3年(1863年)に権大納言に任じられる。慶応元年(1865年)には踏歌節会内弁をつとめた。
明治新政府では参与をつとめ、慶応4年(明治元年)1月22日に大坂鎮台[1]、27日に大坂裁判所総督に任命された[2]。その後は初代大阪府知事となった。のちに華族に列した。旧清華家として侯爵に叙せられている。帝国議会開設に伴い、1890年(明治23年)2月、貴族院侯爵議員に就任し[3]、死去するまで在任した[3]。
晩年は隠居し、家督は長男・忠告(1848年 - 1896年)が病弱ということで次男・忠敬(1849年 - 1899年)が継いだが、1899年(明治32年)5月23日、この家督相続が原因となり、東京府麹町にある自身の邸宅にて子の忠敬が、甥の格太郎(忠告の子)に射殺され死亡するというスキャンダルが発生した。忠敬の嫡男・忠重はまだ幼少であったため、忠順が再度当主となったが、翌年忠順も亡くなった。墓所は青山霊園1-ロ-8。
醍醐家は、一条昭良の子である醍醐冬基を始祖とし、清華家の一つであった。
後陽成天皇の男系七世子孫である。後陽成天皇の第九皇子で一条家を継いだ一条昭良の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。