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徳川とくがわ圀順

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徳川とくがわ 圀順
とくがわ くにゆき
生年月日せいねんがっぴ 1886ねん12月13にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう東京とうきょう本所ほんじょしん小梅こうめまち
げん東京とうきょう墨田すみだ向島むこうじま
ぼつ年月日ねんがっぴ (1969-11-17) 1969ねん11月17にち(82さいぼつ
出身しゅっしんこう 陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう卒業そつぎょう
ぜんしょく 日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃ社長しゃちょう
現職げんしょく 水府すいふ明徳あきのりかい会長かいちょう
称号しょうごう せい
勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう
公爵こうしゃく
配偶はいぐうしゃ 徳川とくがわ英子えいこ
徳川とくがわ彰子あきこ
子女しじょ 長男ちょうなん徳川とくがわ圀斉
親族しんぞく ちち徳川とくがわあつしけい貴族きぞくいん議員ぎいん
おとうと徳川とくがわ宗敬むねよし貴族きぞくいんふく議長ぎちょう参議院さんぎいん議員ぎいん
義父ぎふ徳川とくがわ慶喜よしのぶ征夷大将軍せいいたいしょうぐん貴族きぞくいん議員ぎいん
伯父おじ松平まつだいらよりゆき寿ことぶき貴族きぞくいん議長ぎちょう
義兄ぎけい徳川とくがわいたるこう貴族きぞくいん議員ぎいん
義兄ぎけい蜂須賀はちすかただし貴族きぞくいんふく議長ぎちょう
義兄ぎけい大河内おおこうちあきらこう貴族きぞくいん議員ぎいん
義兄ぎけいよんじょうりゅうあい貴族きぞくいん議員ぎいん
義兄ぎけい徳川とくがわ慶久よしひさ貴族きぞくいん議員ぎいん

在任ざいにん期間きかん 1944ねん10月11にち - 1946ねん6月19にち
天皇てんのう 昭和しょうわ天皇てんのう

選挙せんきょ 公爵こうしゃく議員ぎいん
在任ざいにん期間きかん 1911ねん12月12にち - 1946ねん6がつ19にち
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徳川とくがわ圀順

徳川とくがわ 圀順(とくがわ くにゆき、1886ねん明治めいじ19ねん12月13にち - 1969ねん昭和しょうわ44ねん11月17にち)は、日本にっぽん華族かぞく政治せいじ陸軍りくぐん軍人ぐんじん水戸みと徳川とくがわだい13だい当主とうしゅ階級かいきゅう陸軍りくぐん歩兵ほへい少尉しょうい位階いかい勲等くんとう爵位しゃくいせい勲一等くんいっとう公爵こうしゃく[1]ぎょうごう濤山諡号しごうあかりこう

だい12だい貴族きぞくいん議長ぎちょうだい7だい日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃ社長しゃちょうつとめる。徳川とくがわ光圀みつくに以来いらい編纂へんさんつづけていた歴史れきししょだい日本にっぽん』を完成かんせいさせる。

東京とうきょう本所ほんじょしん小梅こうめまちげん東京とうきょう墨田すみだ向島むこうじまいち丁目ちょうめ)の本邸ほんていまれる。ちち侯爵こうしゃく徳川とくがわあつしけいはは伯爵はくしゃく松平まつだいらよりゆきさとし長女ちょうじょ聰子さとこ。圀順をげた医師いしは、高松たかまつ凌雲りょううんであった。1887ねん明治めいじ20ねん)、ちちあつしけいイタリア特命とくめい全権ぜんけん公使こうしにんじられたため、生後せいご10かげつあまりでははとともにわたりおうローマらした。帰国きこく1894ねん明治めいじ27ねん)、高等こうとう師範しはん学校がっこう附属ふぞく学校がっこうげん筑波大学つくばだいがく附属ふぞく小学校しょうがっこう)に入学にゅうがく小梅こうめていから一ツ橋ひとつばし学校がっこうまで、しょううまって通学つうがくした。

1898ねん明治めいじ31ねん)7がつ12にちあつけい死去しきょし、翌日よくじつ家督かとく相続そうぞくする。同月どうげつ30にち、わずか11さい侯爵こうしゃくとなる。水戸みと徳川とくがわでははは聰子さとこ先々さきざきだい当主とうしゅ昭武あきたけ後見人こうけんにんとなって家政かせい仕切しきることになった。翌年よくねん附属ふぞく小学校しょうがっこう卒業そつぎょう、そのまま東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう附属ふぞく中学校ちゅうがっこうげん筑波大学つくばだいがく附属ふぞく中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう)に進学しんがくしたが、中学ちゅうがく2ねん学習がくしゅういん転入てんにゅう学習がくしゅういん中等ちゅうとう卒業そつぎょう陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう進学しんがくした。

1906ねん明治めいじ39ねん)、水戸みとはんだい2だい藩主はんしゅ徳川とくがわ光圀みつくに以来いらい編纂へんさんおこなっていた『だい日本にっぽん』が完成かんせいし、明治天皇めいじてんのう献上けんじょうする。1910ねん明治めいじ43ねん陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう(22)を卒業そつぎょう歩兵ほへい少尉しょうい任官にんかん1911ねん明治めいじ44ねん)4がつ公爵こうしゃく徳川とくがわ慶喜よしのぶじゅういちじょ英子えいこ結婚けっこんする。同年どうねん12がつ12にちまん25さいとなり、さだめにより軍人ぐんじんながら侯爵こうしゃく議員ぎいんとして貴族きぞくいん議員ぎいん就任しゅうにんする[2]1914ねん大正たいしょう3ねん)12月11にち病気びょうき理由りゆう陸軍りくぐん依願いがん予備よびやく編入へんにゅうとなる[3]ぐん退しりぞいたのち日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃ入社にゅうしゃだいいち世界せかい大戦たいせん海外かいがい戦争せんそう孤児こじ支援しえんでは功績こうせきみとめられ、チェコスロバキアなどから勲章くんしょうおくられた。また1907ねん明治めいじ40ねん)、水戸みと育英いくえいかい設立せつりつされると総裁そうさいいた。1924ねん大正たいしょう13ねん)、つま英子えいこ死去しきょ1926ねん大正たいしょう15ねん)、子爵ししゃく石野いしのはじめどうよんじょ彰子あきこ再婚さいこんした。

1929ねん昭和しょうわ4ねん)、『だい日本にっぽん編纂へんさんこうにより公爵こうしゃくに陞爵する。

1935ねん昭和しょうわ10ねん)1がつ24にち歌会うたかいはじめ奉仕ほうしおこな[4]

1940ねん昭和しょうわ15ねん6月25にち徳川とくがわ家達いえさと死去しきょをうけて日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃ社長しゃちょうとなり、1946ねん昭和しょうわ21ねん)までつとめた。また、1944ねん昭和しょうわ19ねん10月11にちから1946ねん昭和しょうわ21ねん6月19にちまでだい12だい貴族きぞくいん議長ぎちょうつとめた。

だい世界せかい大戦たいせんわり、軍籍ぐんせきにあったことで進駐軍しんちゅうぐんによる制裁せいさいけることが予想よそうされたため、1946ねん昭和しょうわ21ねん)にさきんじてすべての公職こうしょく[5]公職こうしょく追放ついほうとなった[6]茨城いばらきけん常陸太田ひたちおおた高萩たかはぎにある水戸みと徳川とくがわ所有しょゆう山林さんりん管理かんり会社かいしゃ設立せつりつ東京とうきょう本邸ほんてい世田谷せたがやうつし、また水戸みと空襲くうしゅう焼失しょうしつしたあきらこうかん文庫ぶんこ水戸みと緑岡みどりおか別邸べっていない再建さいけんした。1967ねん昭和しょうわ42ねん)、西山にしやまそうをはじめとする土地とち建物たてもの資金しきん寄付きふし、財団ざいだん法人ほうじん水府すいふ明徳あきのりかい設立せつりつ初代しょだい会長かいちょうとなった。

1969ねん昭和しょうわ44ねん11月17にち、82さい死去しきょ当主とうしゅ長男ちょうなん圀斉いだ。

軽井沢かるいざわもと徳川とくがわ圀順別荘べっそう

長野ながのけん軽井沢かるいざわまち1920ねんてたあめりか建築けんちく洋館ようかん別荘べっそうは、のちに田中たなか角栄かくえい所有しょゆうとなり、現在げんざいくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい登録とうろくされ現存げんそんしている(非公開ひこうかい)。なおこの別荘べっそうのあるおなどお沿いには、かつて細川ほそかわ護立もりたつ徳川とくがわ慶久よしひさ別荘べっそうならんでいた(いずれもあめりか建築けんちく洋館ようかん慶久よしひさ別荘べっそう現存げんそん)。隣家りんかであった細川ほそかわとは、軽井沢かるいざわたがいにステッキをげて「ステッキからこうは細川ほそかわ、こっちは徳川とくがわ」とだいらかな方法ほうほう別荘べっそう土地とちめたという逸話いつわのこっている。また、「軽井沢かるいざわゴルフ倶楽部くらぶ創設そうせつさいには、近衛このえ文麿ふみまろとともにその発起人ほっきにんつとめた。

外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

脚注きゃくちゅう

[ソースを編集へんしゅう]
  1. ^ 官報かんぽうだい5837ごう帝国ていこく議会ぎかい」1946ねん7がつ1にち
  2. ^ 官報かんぽうだい8545ごう明治めいじ44ねん12月13にち
  3. ^ 官報かんぽうだい710ごう大正たいしょう3ねん12月12にち
  4. ^ 歌会うたかいはじめ奉仕ほうししゃ」『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ10ねん1がつ22にち2めん
  5. ^ 貴族きぞくいん公爵こうしゃく議員ぎいんを1946ねん6がつ19にち辞職じしょくした。『官報かんぽうだい5837ごう昭和しょうわ21ねん7がつ1にち
  6. ^ 公職こうしょく追放ついほう該当がいとう事項じこうは「正規せいき陸軍りくぐん将校しょうこう」。(総理そうりちょう官房かんぼう監査かんさ へん公職こうしょく追放ついほうかんする覚書おぼえがき該当がいとうしゃ名簿めいぼ日比谷ひびや政経せいけいかい、1949ねん670ぺーじNDLJP:1276156 
  7. ^ 官報かんぽうだい4929ごう彙報いほう - 褒章ほうしょう」1899ねん12月5にち
  8. ^ 官報かんぽうだい7046ごう叙任じょにん及辞れい」1906ねん12月22にち
  9. ^ 官報かんぽうだい8193ごう彙報いほう - 褒章ほうしょう」1910ねん10がつ11にち
  10. ^ 官報かんぽうだい8300ごう彙報いほう - 褒章ほうしょう」1911ねん2がつ24にち
  11. ^ 官報かんぽうだい7955ごう叙任じょにん及辞れい」1909ねん12月28にち
  12. ^ 官報かんぽうだい8195ごう彙報いほう - 褒章ほうしょう」1910ねん10がつ13にち
  13. ^ 官報かんぽうだい8607ごう彙報いほう - 褒章ほうしょう」1912ねん3がつ1にち
  14. ^ 官報かんぽうだい265ごう彙報いほう - 褒章ほうしょう」1913ねん6がつ18にち
  15. ^ 官報かんぽうだい442ごう叙任じょにん及辞れい」1914ねん1がつ21にち
  16. ^ 官報かんぽうだい1218ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん8がつ21にち
  17. ^ 官報かんぽうだい1947ごう叙任じょにん及辞れい大正たいしょう8ねん1がつ31にち
  18. ^ 官報かんぽうだい2229ごう叙任じょにん及辞れい」1920ねん1がつ12にち
  19. ^ 官報かんぽうだい2645ごう彙報いほう - 褒章ほうしょう」1921ねん5がつ27にち
  20. ^ 官報かんぽうだい2712ごう叙任じょにん及辞れい」1921ねん8がつ15にち
  21. ^ 官報かんぽうだい2859ごう付録ふろく辞令じれい」1922ねん2がつ15にち
  22. ^ 官報かんぽうだい3780ごう叙任じょにん及辞れい」1925ねん4がつ1にち
  23. ^ 官報かんぽう号外ごうがい授爵じゅしゃく叙任じょにん及辞れい」1928ねん11がつ10日とおか
  24. ^ 官報かんぽうだい868ごう叙任じょにん及辞れい」1929ねん11月19にち
  25. ^ 官報かんぽうだい1253ごう叙任じょにん及辞れい」1930ねん3がつ6にち
  26. ^ 官報かんぽうだい1499ごう付録ふろく辞令じれい」1931ねん12月28にち
  27. ^ 官報かんぽうだい2696ごう叙任じょにん及辞れい」1935ねん12月27にち
  28. ^ 官報かんぽうだい3363ごう叙任じょにん及辞れい」1938ねん3がつ23にち
  29. ^ 官報かんぽうだい4171ごう彙報いほう - 褒章ほうしょう」1940ねん11月30にち
  30. ^ 中野なかの文庫ぶんこ - きゅう勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょうしゃ一覧いちらん (戦前せんぜん), https://web.archive.org/web/20221206092011/https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/nakanolib/giten/zuiho2.html#勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょうしゃ一覧いちらん 2023ねん1がつ2にち閲覧えつらん 
  31. ^ 官報かんぽうだい3783ごう叙任じょにん及辞れい」1925ねん4がつ6にち
  32. ^ 官報かんぽうだい93ごう叙任じょにん及辞れい」1927ねん4がつ23にち
  33. ^ 官報かんぽうだい2866ごう付録ふろく辞令じれい」1936ねん7がつ22にち

参考さんこう文献ぶんけん

[ソースを編集へんしゅう]
  • 水戸みと先人せんじんたち』水戸みと教育きょういく委員いいんかい、2010ねん
  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいんへん議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん』1990ねん
その役職やくしょく
先代せんだい
徳川とくがわ家達いえさと
日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃ社長しゃちょう
1940ねん - 1946ねん
次代じだい
島津しまつただしうけたまわ
先代せんだい
徳川とくがわ家達いえさと
斯文しぶんかい会長かいちょう
1940ねん - 1945ねん
次代じだい
渋沢しぶさわ敬三けいぞう
先代せんだい
渋沢しぶさわ栄一えいいち
日本にっぽん結核けっかく予防よぼう協会きょうかい会頭かいとう
1932ねん - 1939ねん
次代じだい
解散かいさん
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
陞爵
公爵こうしゃく
水戸みと徳川とくがわ
初代しょだいまたはだい2だい
1929ねん - 1947ねん
次代じだい
華族かぞく制度せいど廃止はいし
先代せんだい
徳川とくがわあつしけい
侯爵こうしゃく
水戸みと徳川とくがわだい2だい
1898ねん - 1929ねん
次代じだい
陞爵