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松平 頼位(まつだいら よりたか)は、江戸時代後期の大名。常陸国宍戸藩8代・10代藩主。官位は従五位下・主税頭。三島由紀夫の高祖父にあたる。
5代藩主・松平頼救の四男として生まれる。母は田口氏。当時すでに頼救は隠居しており、跡を継いだ嫡男の頼敬(頼位の異母兄・長兄)が早世したため、水戸本家から頼筠(頼位の従甥にあたる)が養子入りしてその跡を継いでいた。
文政10年(1827年)、常陸水戸藩の一門で家老格松平頼善の養女・絲(実父は頼善の祖父保福)を正室とし、養子となって襲禄、3000石。主税頭となる。
天保2年(1831年)4月3日、長男・頼徳を儲ける。天保3年(1832年)2月26日、長女・雪を儲ける。雪は嘉永2年(1849年)8月26日、17歳で死亡した。
天保9年(1838年)、水戸藩主徳川斉昭の命により、長倉城跡を修復し、長倉陣屋を建てる(所領を移ったのは次の頼譲の代)。
天保10年(1839年)5月16日、頼筠が嗣子無くして重病にかかり危篤となったため、急遽その養嗣子となって生家を継いだ。同年12月18日、従五位下を賜わる。父・頼救、義父・保福と共に徳川斉脩・斉昭兄弟の大叔父にあたり一門でもあったので、藩主就任前から斉昭の本家水戸藩相続に尽力し、斉昭に従って藩政改革を行なう。
弘化3年(1846年)9月21日、家督を長男の頼徳に譲って隠居するが、その後も水戸本家を継いだ徳川慶篤の補佐を務めた。
側室に佐々木氏の娘を迎え、弘化4年(1847年)8月19日に次女の珽を、安政3年(1856年)1月10日に次男の頼安を、安政4年(1857年)8月13日に三女の高を、安政5年(1858年)8月15日に三男の頼平を、文久元年(1861年)12月11日に四女の艶を、文久2年(1862年)9月30日に鋭を儲ける。
元治元年(1864年)、水戸藩で天狗党の乱が起こると、長男の頼徳は鎮圧に失敗したことを幕府より咎められ、10月5日に切腹した。享年35。頼位自身も連座して拘禁され、宍戸藩は廃藩となった。
慶応4年(1868年)2月、新政府より宍戸藩の復旧を命ぜられ、頼位が再相続する。明治2年(1869年)、頼位の版籍奉還願いが受理され、5月25日に知藩事を任命される。
明治3年(1870年)、宍戸陣屋の拡張を願い出るが、明治4年(1871年)の廃藩置県により免官される。その後、明治10年(1877年)に常磐神社の神官となった。文化人として優れており、斉昭の事蹟をまとめた『告志篇』や『明倫歌集』10巻などが出版された[要出典][誰によって?]。
徳川斉昭らの編纂した『明倫歌集』に跋文を書き[1][2]、これを宍戸藩の藩校脩徳館の蔵板として出版[3]、江戸の書肆より発行した[2][4]。
1880年(明治13年)7月、家督を次男の頼安に譲る。1883年(明治16年)9月6日、従四位を賜わる。1886年(明治19年)12月17日、77歳で死去。
- 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』(広論社、1983年)
水戸徳川連枝常陸宍戸藩8 代/10代 藩主 (1839 年 - 1846 年、1868 年 - 1871 年) |
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秋田家 | |
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1645年から1682年まで幕府直轄・水戸藩領
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宍戸松平家 | |
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1864年から1868年まで幕府直轄
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宍戸松平家 | |
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