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米田よねだもとむせい

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米田よねだもとむせい
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん だいひさし6ねん1526ねん
死没しぼつ 天正てんしょう19ねん7がつ28にち1591ねん9月15にち[1]
改名かいめい さだのうもとめせいそうけん法名ほうみょう
別名べつめい みなもと三郎さぶろう通称つうしょう
主君しゅくん 足利あしかが義輝よしてる細川ほそかわ藤孝ふじたか
氏族しぞく 米田よねだ
是政これまさまご
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米田よねだ もとむせい(こめだ[注釈ちゅうしゃく 1] もとまさ)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう

生涯しょうがい

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室町むろまち幕府ばくふ13だい将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてるつかえた。

えいろく8ねん1565ねん)のえいろくへん義輝よしてる三好みよしさんにんしゅなどに殺害さつがいされると、さんにんしゅ松永まつなが久秀ひさひでによって興福寺こうふくじ幽閉ゆうへいされていた将軍しょうぐんおとうとさとしけい足利あしかが義昭よしあき)を細川ほそかわ藤孝ふじたかさんふちふじすぐる和田わだ惟政これまさ一色いっしょくふじちょう仁木にき義政よしまさらととも救出きゅうしゅつした。

えいろく12ねん1569ねん)より、おなじく幕臣ばくしんである細川ほそかわ藤孝ふじたかつかえる。

もとかめ元年がんねん1570ねん)11月23にちもとめせい主催しゅさい藤孝ふじたか里村さとむら紹巴じょうはらと連歌れんがひゃくいんもよおした。

もとかめ2ねん1571ねん)、山城やましろこく勝竜寺しょうりゅうじじょう普請ふしんつとめる。

天正てんしょう19ねん1591ねん)7がつ28にち死去しきょした。

子孫しそん熊本くまもとはんうえきょうさんいえ家老がろうとして、1まん5,000せき長岡ながおかせいあたえられ、さらに明治維新めいじいしんのちには男爵だんしゃくとなっている。

出典しゅってん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 「よねだ」ではない。

出典しゅってん

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  1. ^ 綿めんこう輯録 だいかん汲古書院しょいん、1988ねん