(Translated by https://www.hiragana.jp/)
三淵晴員 - Wikipedia コンテンツにスキップ

さんふちはれいん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
さんふちはれいん
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん あかりおう9ねん1500ねん
死没しぼつ えいろく13ねん3月1にち1570ねん4がつ6にち
改名かいめい なおいんはれいん
別名べつめい 弥二郎やじろう
諡号しごう そうかおる
墓所はかしょ 大徳寺だいとくじこうきりいん京都きょうと京都きょうときた
官位かんい 掃部あたま伊賀いがもり大和やまともり
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ
氏族しぞく細川ほそかわ?→)さんふち
父母ちちはは ちち細川ほそかわもとゆう?、ははさんふちはれさだむすめ
養父ようふさんふちはれひさし
兄弟きょうだい 細川ほそかわもとつね?、さんふち孫三郎まごさぶろう[1]はれいん
つま 正室せいしつやしなえげんいんさんふちはれひさしむすめ
側室そくしつさとしけいいん清原きよはらせんけんむすめ
山名やまなふじひろむすめ
宮川みやがわ武田たけだしんだかしつ)、ふじすぐる佐々木ささきえつちゅうもりしつ細川ほそかわ藤孝ふじたか幽斎ゆうさいたまはじめ紹琮うめしるしもと長岡ながおか好重よしえ土御門つちみかどひさおさむしつ
テンプレートを表示ひょうじ

さんふち はれいん(みつぶち はるかず)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう室町むろまち幕府ばくふ幕臣ばくしんさるしゅ)。細川ほそかわ藤孝ふじたか幽斎ゆうさいちち

経歴けいれき[編集へんしゅう]

あかりおう9ねん1500ねん)、和泉いずみ守護しゅご細川ほそかわもとゆうとしてまれる。親族しんぞく母方ははかた叔父おじでもある将軍しょうぐん側近そっきんさんふちはれひさし養子ようしとなったとされる。ただし、どう時代じだいにははれいんあにられるさんふち孫三郎まごさぶろうがおり、がいるのにもかかわらず養子ようし必要ひつようはないことから、細川ほそかわ出身しゅっしんであるとするせつ否定ひていするせつもある[2]幕臣ばくしんとして12だい将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるつかえ、和泉いずみこく松崎まつざきしろ[よう曖昧あいまい回避かいひ]おも山城やましろこく大法寺だいほうじじょうおもとなる。また、足利あしかが義晴よしはる乳母うばとされる清光せいこういんあねつたえられている[3]

げんつぎきょう天文てんもん元年がんねん11がつ11にちじょうに「さんふち弥二郎やじろうはれいん」の署名しょめいがある文書ぶんしょ引用いんようされている。また、本願寺ほんがんじしょうの『天文てんもん日記にっき』には天文てんもん6ねん3がつ4にちじょう登場とうじょうした「さんふち弥二郎やじろう」が1かげつの4がつ4にちじょうには「さんふち掃部あたま」の名前なまえ登場とうじょうしているため、このあいだに掃部あたま任官にんかんしたのがあきらかとなる[4]当時とうじはれいん室町むろまち幕府ばくふから加賀かがこくくら光保みつやす倉光くらみつそうとも)をあたえられていたため、加賀かが実質じっしつ支配しはいしていた本願寺ほんがんじ密接みっせつ関係かんけいっていたと推測すいそくされ、『天文てんもん日記にっき』などの本願寺ほんがんじ関係かんけい史料しりょう度々どど登場とうじょうしている。また、山城やましろこく愛宕あたごぐん松崎まつざききょうにも5だん(10せき相当そうとう)を所領しょりょうっていたほか複数ふくすう所領しょりょうゆうしていた形跡けいせきがある。ただし、当時とうじ生活せいかつけっしてくはなく、天文てんもん7ねん(1538ねん)9がつには「不弁ふべん」を理由りゆうひま申請しんせいして幕府ばくふから拒絶きょぜつされている(『大舘おおたちつねきょう日記にっき天文てんもん7ねん9がつ3にちじょう[5]

天文てんもん16ねん1547ねん)に義晴よしはる義輝よしてる親子おやこ管領かんりょう細川ほそかわはるもとたたかって敗北はいぼくし、近江おうみこく坂本さかもとびるときもこれにしたがった。

義晴よしはる死後しご義輝よしてるつかえているが、義晴よしはる死後しご出家しゅっけしたらしく、以降いこうは「掃部入道にゅうどう[6]伊賀いが入道にゅうどう[7]名前なまえ登場とうじょうしている[8]

えいろく8ねん1565ねん)に13だい将軍しょうぐん義輝よしてるたれたのちはそのおとうと・15だい将軍しょうぐん義昭よしあきつかえた。えいろく13ねん1570ねん)3がつ1にち死去しきょ享年きょうねん71。

細川ほそかわ藤孝ふじたか幽斎ゆうさい)は同僚どうりょうである細川ほそかわはれひろ養子ようしとなり、近世きんせい細川ほそかわとなった。藤孝ふじたか生母せいぼ天正てんしょう10ねん5がつ19にち死去しきょした側室そくしつさとしけいいん清原きよはらせんけんむすめ)で、彼女かのじょ足利あしかが義晴よしはるからわたされはれいんつまとなったため、一説いっせつには藤孝ふじたか義晴よしはる落胤らくいんであるという。また、異母いぼけいであるふじえい生母せいぼ天正てんしょう13ねん8がつ10日とおか死去しきょした正室せいしつやしなえげんいんで、没後ぼつご藤孝ふじたかさき死去しきょしたふじえいわって彼女かのじょ供養くようおこなっている[7][9]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

系図けいず纂要』によると、さんふちもちきよし[10] - はれしげる - はれまさし - はれさだ - はれひさしと4だいつづけて「はれ」の名前なまえ使つかわれており[11]、「はれ」のは10さい以上いじょうわか足利あしかが義晴よしはる1521ねん元服げんぷく)からのへんいみな(1)というより養子ようしさきさんふちつうかんがえられる。一方いっぽうさんふちについては、『伺事記録きろく延徳えんとく2ねん1490ねん)9がつ23にちじょうさんふち当主とうしゅとみられる「三淵伊賀入道正蓮」が播磨はりまこく印南いなみぐん所領しょりょう安堵あんどされた記録きろくのこり、またはれいんあねとされる清光せいこういん播磨はりまこく成長せいちょうした義晴よしはる養育よういくがかりであったとされることから、さんふち義晴よしはるとのかかわりがふかく、かれ庇護ひご将軍しょうぐん擁立ようりつ功労こうろうによって急速きゅうそく地位ちいたかめた幕臣ばくしんとする見方みかたもある(足利あしかが義稙よしたね将軍しょうぐんしょく復帰ふっき幕府ばくふ記録きろくにはさんふち活動かつどう確認かくにんできない)。なお、はれいんちちあるいはあにとされる細川ほそかわもとつね細川ほそかわきよしもとはれはじめ陣営じんえいぞくして義晴よしはる対立たいりつつづけている。また、はれいんどう時代じだいにあたるだいながから天文てんもんに、はれいんとはあきらかに別人べつじんの「さんふち孫三郎まごさぶろう」という人物じんぶつ[12]さんふち当主とうしゅであった形跡けいせきであり、義晴よしはる上洛じょうらく播磨はりまのこって赤松あかまつとの取次とりつぎつとめている[13](ちなみに、現存げんそんさんふち系図けいずからは孫三郎まごさぶろう存在そんざい確認かくにんできない)。設楽したらかおるはれいん和泉いずみ細川ほそかわ出身しゅっしんせつ疑問ぎもんし(同家どうけとの縁戚えんせき関係かんけい否定ひていしない)、清光せいこういんはれいんあねおとうと実兄じっけいであるさんふち孫三郎まごさぶろうわりに義晴よしはる上洛じょうらく供奉ぐぶ近侍きんじしたとしている[14]

なお、息子むすこふじすぐる藤孝ふじたか義輝よしてるはつめいふじ)から、ふじえい息子むすこあきつよしあきらさだあきらあきらちょう義昭よしあきはつめい義秋よしあき)からへんいみなけている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ えつちゅうもり高島たかしま代々だいだい当主とうしゅ名乗なのりである。ただし高島たかしま奉公ほうこうしゅなどをつとめた庶流しょうし、室町むろまち幕府ばくふ外様とざましゅ嫡流ちゃくりゅう佐々木ささきえつちゅうもり代々だいだい名乗なのっていることから、この嫡流ちゃくりゅう佐々木ささきえつちゅうこしあたるともいう[20]近江おうみこく清水しみず山城やましろおも
  2. ^ 出典しゅってんには「土御門つちみかどさんひさじょうしつ」と記載きさい原典げんてん誤記ごきもしくは出典しゅってん書籍しょせき誤読ごどくか。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 設楽したらかおる将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるの嗣立と大館おおだてつねきょう登場とうじょうつねきょう清光せいこういん(きょく)との関係かんけいをめぐって―」木下きのしたあきらぶんまわしへん室町むろまち幕府ばくふ研究けんきゅう だい3かん 足利あしかが義晴よしはる』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2017ねん
  2. ^ 設楽したらかおる将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるの嗣立と大館おおだてつねきょう登場とうじょうつねきょう清光せいこういん(きょく)との関係かんけいをめぐって―」木下きのしたあきらぶんまわしへん室町むろまち幕府ばくふ研究けんきゅう だい3かん 足利あしかが義晴よしはる』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2017ねん
  3. ^ げんつぎきょう天文てんもん13ねん7がつ20日はつかじょう
  4. ^ 金子かねこ 2015, p. 17.
  5. ^ 金子かねこ 2015, pp. 18–21.
  6. ^ 天文てんもん日記にっき天文てんもん20ねん4がつ5にちじょう
  7. ^ a b けんみぎきょうえいろく元年がんねん9がつ16にちじょう
  8. ^ 金子かねこ 2015, pp. 17–18.
  9. ^ 金子かねこ 2015, p. 22.
  10. ^ 足利あしかが義持よしもち庶子しょしとされるが、下記かき外部がいぶリンクの系図けいずなど一部いちぶでは、義満よしみつ庶子しょしで、義持よしもちおとうととするせつもある。いずれにせよ「もち」の義持よしもちからへんいみなたまわったものである。
  11. ^ 系図けいずこちら外部がいぶリンク)を参照さんしょう
  12. ^ 大舘おおたちつねきょう日記にっき天文てんもん10ねん12月3にちじょうほか
  13. ^ 披露ひろうごと記録きろく天文てんもん8ねんうるう6がつ7にちじょう
  14. ^ 設楽したらかおる将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるの嗣立と大館おおだてつねきょう登場とうじょう」『日本にっぽん歴史れきし』631ごう、2000ねん。/所収しょしゅう:木下きのしたあきらぶんまわし へん足利あしかが義晴よしはる』戒光さち出版しゅっぱん〈シリーズ・室町むろまち幕府ばくふ研究けんきゅう だいさんかん〉、2017ねん、162-164ぺーじ。SBN 978-4-86403-162-2。
  15. ^ a b しん肥後ひご細川ほそかわはんさむらいちょう.
  16. ^ 細川ほそかわ 1994, p. 168.
  17. ^ a b c d e f 細川ほそかわ 1994, p. 278.
  18. ^ a b c d 寛政かんせい, p. 636.
  19. ^ a b 金子かねこ 2002, p. 71.
  20. ^ 西島にししま太郎たろう戦国せんごく室町むろまち幕府ばくふ在地ざいち領主りょうしゅ八木やぎ書店しょてん、2006ねん 
  21. ^ たまはじめ紹琮』 - コトバンク
  22. ^ 寛政かんせい, p. 612.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]