北楯きただて利長としなが

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北楯きただて 利長としなが
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 天文てんもん17ねん1548ねん
死没しぼつ 寛永かんえい2ねん10がつ20日はつか1625ねん11月19にち
別名べつめい 大学だいがく
かみごう きただて水神すいじん
戒名かいみょう だい椿つばきいん殿山とのやまおうりょうおおやけだい居士こじ
主君しゅくん 最上もがみ義光よしみついえおやよししゅん
はん 出羽でわ山形やまがたはん
氏族しぞく 北楯きただて
じょ次郎じろう
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北楯きただて 利長としなが(きただて としなが)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい前期ぜんきにかけての武将ぶしょう最上もがみ家臣かしん出羽でわこく田川たがわぐん狩川かりかわじょうおも庄内平野しょうないへいやうるお北楯大堰きただておおぜき建設けんせつした。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

山形やまがたじょうおも最上もがみ義光よしみつ家臣かしん慶長けいちょう6ねん1601ねん)、義光よしみつ上杉うえすぎ景勝かげかつやぶって庄内しょうない3ぐん[1]奪還だっかんすると、田川たがわぐん狩川かりかわ城主じょうしゅとして3,000せきあたえられた[2]

しかし、利長としなが所領しょりょうである狩川かりかわ清川きよかわ立谷沢たちやざわなどの地域ちいき水捌みずはけがわるく、灌漑かんがいによる整備せいび急務きゅうむであった。そのため利長としながは、慶長けいちょう16ねん1611ねん)、義光よしみつ立谷沢川たちやざわがわみず田川たがわぐん北辺ほくへん平野へいや疏水そすい建設けんせつねがた。なん工事こうじ予想よそうされたため反対はんたい意見いけんおおかったが、新関にいぜきひさただしらのつよすすめもあって、よく慶長けいちょう17ねん1612ねん)3がつ義光よしみつ利長としなが着工ちゃっこうめいじ、工事こうじかんする指揮しきけんあたえた。このとき庄内しょうないいちえんからあつめられた人夫にんぷは7,400めいおよんだ[2]同年どうねん7がつそう延長えんちょう30kmあまりにおよせき完成かんせいすると、義光よしみつは「庄内しょうない末世まっせ重宝ちょうほういたこう」とその功績こうせき絶賛ぜっさんし、利長としながに300せき加増かぞうしたうえで、今後こんごこの疏水そすい利用りようして開拓かいたくされる新田しんでんなんまんせきたっしようと、すべ利長としなが知行ちぎょうとしてらせるという証書しょうしょくだした。せき完成かんせいした結果けっかあらたに4,200町歩ちょうぶひらかれて88の部落ぶらくおこり、石高いしたか当初とうしょの10ばいの30,000せきとなった。このせき利長としながって北楯大堰きただておおぜきばれることになる。

元和がんわ8ねん1622ねん)、最上もがみ改易かいえきされると利長としなが所領しょりょううしなうが、じょ次郎じろう正久まさひさ)が、庄内しょうないにゅうふうしたしん領主りょうしゅ酒井さかい忠勝ただかつかかえられ、せい北楯きただてあらためて300せき給与きゅうよ隠居いんきょ利長としながには100せききゅうされた[2]

寛永かんえい2ねん1625ねん)10がつ20日はつか死去しきょ享年きょうねん78。

安永やすなが7ねん1778ねん)には、水神すいじんしゃ建立こんりゅうされ利長としなが北楯きただて水神すいじんとしてまつられ、大正たいしょう4ねん(1915ねん)にしたがえ追贈ついぞうされた[2]大正たいしょう8ねん1919ねん)に神社じんじゃ狩川かりかわじょう趾にもうけられた楯山たてやま公園こうえんうつされ、きただて神社じんじゃとなる。どう公園こうえんには利長としながぞうつ。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 田川たがわ櫛引くしびき遊佐ゆさ
  2. ^ a b c d 新編しんぺん庄内しょうない人名じんめい辞典じてん』p.257

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 庄内しょうない人名じんめい辞典じてん刊行かんこうかいへん新編しんぺん庄内しょうない人名じんめい辞典じてん庄内しょうない人名じんめい辞典じてん刊行かんこうかい、1986ねん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]