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朝倉あさくら教景のりかげ

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朝倉あさくら教景のりかげ
時代じだい 室町むろまち時代ときよ
生誕せいたん かんれき2ねん/天授てんじゅ6ねん1380ねん
死没しぼつ ひろしただし4ねん7がつ19にち1463ねん9月2にち
改名かいめい 幼名ようみょうまた太郎たろうまたは小太郎こたろう[1]教景のりかげ
別名べつめい 孫右衛門まごえもんじょう美作みさくもり
戒名かいみょう 心月しんげつそうさとし
墓所はかしょ 心月しんげつてら
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ
氏族しぞく 朝倉あさくら
父母ちちはは ちち朝倉あさくらさだけい
兄弟きょうだい 教景のりかげよりゆきけい、ほか1めい
いえけいはたけいそうそうむすめ織田おだ久長ひさながしつ[2]?)
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朝倉あさくら 教景のりかげ(あさくら のりかげ)は室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき武将ぶしょうである。朝倉あさくら5代目だいめ当主とうしゅ

生涯しょうがい

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教景のりかげ越前えちぜん守護しゅごである斯波しば被官ひかん立場たちばにありながら、室町むろまち幕府ばくふいのちにより度々どど関東かんとう出兵しゅっぺいしていた。だい4だい鎌倉かまくら公方くぼうである足利あしかが持氏もちうじえいとおるらんこすと、えいとおる10ねん1438ねん)8がつ駿河するが守護しゅご今川いまがわ範忠のりただ甲斐かい守護しゅご武田たけだ信重のぶしげ信濃しなの守護しゅご小笠原おがさわらまさしやすしらととも出兵しゅっぺいし、このらんおさめている。さらに結城ゆうき氏朝うじとも持朝もちとも父子ふしもち遺児いじ春王丸はるおうまる安王丸やすおうまるようして結城ゆうき合戦かっせんこすと、ふたた関東かんとう出兵しゅっぺいした。この結城ゆうき合戦かっせんさい教景のりかげ春王丸はるおうまる安王丸やすおうまるりにする戦功せんこうてている[3]

この戦功せんこうにより、嘉吉よしきち元年がんねん1441ねん)に結城ゆうき合戦かっせんおさまると教景のりかげは6だい将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのりから「きょう」のへんいみなたまわり、「教景のりかげ」と名乗なのるようになったという(『 朝倉あさくら始末しまつ』)。また、『朝倉あさくら』によれば、このとき一緒いっしょに「美作みさくまもる」をはいしたとされる(「将軍しょうぐん御感ぎょかんえつゆういみなしたはい美作みさくまもる教景のりかげ名乗なのる」)。

はやくしてくなった嫡子ちゃくしいえけいわり、嫡孫ちゃくそんこうけいえいはやしたかしけい)を補佐ほさした。ひろしせい4ねん1463ねん死去しきょ享年きょうねん84。

菩提寺ぼだいじである心月しんげつてら福井ふくいけん福井ふくい)は、こうけいによる創建そうけんである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 朝倉あさくら始末しまつ
  2. ^ 大龍おおたつ山洞やまほら雲寺くもでら大野おおのぞうの「朝倉あさくら系図けいず」によると、朝倉あさくら教景のりかげむすめに「織田おだ弾正だんじょうただ久長ひさながしつ、(織田おださとていはは」とあることから。
  3. ^ みずふじ 1981, p. 4.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • みずふじしん朝倉あさくら義景よしかげ吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、1981ねんISBN 9784642050609