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武田たけだ信重のぶしげ

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武田たけだ信重のぶしげ
時代じだい 室町むろまち時代ときよ前期ぜんき - 中期ちゅうき
生誕せいたん もとなか3ねん/至徳しとく3ねん1386ねん
死没しぼつ たからいさお2ねん11月24にち1450ねん12月28にち
別名べつめい 三郎さぶろう通称つうしょう)、ひかりぞうぼう道成みちなり法号ほうごう
墓所はかしょ 山梨やまなしけん笛吹ふえふき石和いさわまち成就じょうじゅいん
氏族しぞく 武田たけだ安芸あきけい
父母ちちはは ちち武田たけだしんみつる
はは小山田おやまだしんきよしむすめ
兄弟きょうだい 信重のぶしげ信長のぶなが江草えぐさしんやすし今井いまい信景さだかげ
倉科くらしな信広のぶひろ
しんもり穴山あなやま信介しんすけ金丸かねまる光重みつしげ曽根そねはじめけい曽根そねけんしん
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武田たけだ 信重のぶしげ(たけだ のぶしげ)は、室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき守護しゅご大名だいみょう甲斐かいはじめ14だい当主とうしゅ武田たけだ11だい当主とうしゅ

生涯しょうがい

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武田たけだ信重のぶしげはか笛吹ふえふき石和いさわまち小石和こいさわ成就じょうじゅいん。(2012ねん7がつ撮影さつえい

もとなか3ねん/至徳しとく3ねん(1386ねん)、だい13だい当主とうしゅ武田たけだしんみつる長男ちょうなんとして甲斐かいこく都留つるぐんまれる。室町むろまち時代ときよ甲斐かいこく関東かんとう8かこく支配しはいする鎌倉かまくら管轄かんかつかれていたが、おうなが24ねん1417ねん)に鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが持氏もちうじまえ関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ氏憲うじのり禅秀ぜんしゅう)の対立たいりつから発生はっせいした上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうらん守護しゅごしんまん縁者えんじゃである禅秀ぜんしゅうかた味方みかたし、持氏もちうじ討伐とうばつけてはいする。らんさいして在京ざいきょうしていた信重のぶしげ叔父おじしんもとはともに剃髪ていはつして高野山こうのやまはいり、信重のぶしげひかりぞうぼう道成みちなりごうしている(『鎌倉かまくら大草おおくさ』)。

当時とうじ甲斐かいこく守護しゅご東国とうごく諸国しょこく同様どうよう鎌倉かまくら支配しはいにありながら、その任免にんめん京都きょうと室町むろまち幕府ばくふによって決定けっていされるという複雑ふくざつ構造こうぞうになっていた。もち甲斐かい守護しゅご武田たけだゆうよしけい子孫しそんつたわる逸見いつみゆうただし[注釈ちゅうしゃく 1]のぞむが、鎌倉かまくら対立たいりつする幕府ばくふ武田たけだ守護しゅご復帰ふっき企図きとしたため、しんもとおうなが25ねん1418ねん)に還俗げんぞく甲斐がい守護しゅごにんじられ、信濃しなのこく守護しゅご小笠原おがさわらまさしやすし後援こうえん入国にゅうこくする。しんもと守護しゅごだい跡部あとべ援軍えんぐんはん武田たけだ勢力せいりょく逸見いつみゆうひた対抗たいこうするが、しんもとおうなが27ねん1420ねん)に死去しきょ戦死せんしか)、甲斐かい守護しゅご不在ふざい状態じょうたいとなる。

しんもと死後しご跡部あとべ補佐ほさされた信重のぶしげおとうと武田たけだ信長のぶなが武田たけだ伊豆いず千代ちよまる逸見いつみはん武田たけだ勢力せいりょくとのこうそうが、やがて伊豆いず千代ちよまる対立たいりつした跡部あとべ武田たけだ信長のぶなが国外こくがい駆逐くちくし、跡部あとべ専横せんおうつよまっていく。おうなが28ねん1421ねん)に幕府ばくふ信重のぶしげあらたに守護しゅご任命にんめいする方針ほうしん鎌倉かまくらしめ[2]が、持氏もちうじはこれに抵抗ていこうしたため、実際じっさい任命にんめい人事じんじ発令はつれいされたのはおうなが30ねん(1423ねん)6がつ5にちのことであった(『まんすみじゅんきさき日記にっき同日どうじつじょう)。ところが、信重のぶしげ逸見いつみ穴山あなやま抵抗ていこう理由りゆう甲斐かいへの帰国きこく拒否きょひ[3]し、それがれられなければ就任しゅうにん拒否きょひする姿勢しせいしめした。そのため、任命にんめい中止ちゅうしされ、信重のぶしげ四国しこくへの隠棲いんせい余儀よぎなくされた[4]杉山すぎやま一弥かずや逸見いつみ穴山あなやまけん表向おもてむきの理由りゆうであり、本質ほんしつてき拒否きょひ理由りゆうざいくらせいにあったとみる。関東かんとうなど鎌倉かまくら管轄かんかつ諸国しょこく守護しゅご鎌倉かまくら出仕しゅっしして鎌倉かまくら公方くぼう奉仕ほうしする義務ぎむっていた。だが、それは同時どうじ鎌倉かまくら公方くぼう自分じぶん敵対てきたいする可能かのうせいのある守護しゅご粛清しゅくせいする好機こうきでもあり、実際じっさい幽閉ゆうへい殺害さつがいされた守護しゅご存在そんざいした。信重のぶしげ上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうらんへの加担かたんしゃたいする報復ほうふくすすめていた持氏もちうじによって自分じぶんいのちうばわれることを危惧きぐして帰国きこく拒否きょひしたが、室町むろまち幕府ばくふ足利あしかが義持よしもち)としては信重のぶしげ拒否きょひ理由りゆうじょうにおいては理解りかいできたものの、ざいくらせい守護しゅごとしての義務ぎむであり、これを拒絶きょぜつした信重のぶしげ幕府ばくふたいするこういのちとして京都きょうとから追放ついほう事実じじつじょう配流はいる[注釈ちゅうしゃく 2]にせざるをなかったのである。この状況じょうきょう足利あしかが持氏もちうじおうなが33ねん(1426ねん)に甲斐かいこく出兵しゅっぺいして、武田たけだ信長のぶなが降伏ごうぶくさせて鎌倉かまくら出仕しゅっしさせた。もち伊豆いず千代ちよまる守護しゅごみとめることで信長のぶなが父子ふし懐柔かいじゅうする一方いっぽうで、実質じっしつにおいては幼少ようしょう伊豆いず千代ちよまるわって甲斐かい直接ちょくせつ統治とうちったのである。

このながれがわったのは、足利あしかが義教よしのり征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにんである。義教よしのり再度さいど信重のぶしげ甲斐かい守護しゅご就任しゅうにんめいじ、さら隣接りんせつする駿河するがこく駿東すんとうぐん佐野さの沢田さわだりょうさとあたえる提案ていあんされるものの、信重のぶしげ再度さいど拒否きょひする[6]が、義教よしのり信重のぶしげゆるして京都きょうともどした[7]うえ摂津せっつこくみぞくいそう一部いちぶあたえた[8]のである。これはもちとの対決たいけつちかいとかんがえた義教よしのり信重のぶしげ庇護ひごする姿勢しせいしめしたものであった。えいとおる5ねん(1433ねん)には跡部あとべによるたから一揆いっきによって甲斐かいにおける勢力せいりょくうしなった武田たけだ信長のぶなが鎌倉かまくら出奔しゅっぽんし、えいとおる6ねん(1433ねん)にはいると跡部あとべ室町むろまち幕府ばくふ極秘ごくひ交渉こうしょうおこない、管領かんりょう細川ほそかわまんすみ説得せっとくれた跡部あとべ信重のぶしげ守護しゅごとしてむかえる姿勢しせいしめした[9]えいとおる7ねん(1434ねん)3がつには京都きょうとにおいて信重のぶしげ跡部あとべ対面たいめんおこなわれるとともに、跡部あとべ幕府ばくふたいして信重のぶしげ守護しゅご擁立ようりつすることを約束やくそくしたのであった[10]

えいとおる10ねん1438ねん信重のぶしげ小笠原おがさわら跡部あとべ援助えんじょ入国にゅうこくする(「小笠原おがさわら文書ぶんしょ」)。信重のぶしげ帰国きこくした時期じき幕府ばくふ鎌倉かまくら対抗たいこう最大限さいだいげんたっしており、えいとおるらんでは信重のぶしげ出兵しゅっぺい要請ようせいけているが、このときは出兵しゅっぺいした形跡けいせきられない。つづ結城ゆうき合戦かっせん嘉吉よしきちらんでは信重のぶしげ出兵しゅっぺいしており(「足利あしかが御内おんうちしょ」)、信重のぶしげには鎌倉かまくら逸見いつみ没落ぼつらくにより甲斐かい国内こくない収束しゅうそくかっているとかんがえられている。なお、結城ゆうき合戦かっせんにおいては結城ゆうき持朝もちとも結城ゆうき氏朝うじとも)の首級しゅきゅうげている(「鎌倉かまくら大草おおくさ」)。ぶんやす3ねん1446ねん)、信濃しなの守護しゅご小笠原おがさわらまさしやすし死後しご発生はっせいしたあらそいでは幕命ばくめいにより小笠原おがさわら光康みつやす擁立ようりつ尽力じんりょくしている(「小笠原おがさわら文書ぶんしょ」)。

甲斐かい島上条しまかみじょう八幡やはた神社じんじゃ

領国りょうごく経営けいえいでは3てん文書ぶんしょ現存げんそんし、ぶんやす2ねん1445ねん)には塩山しおやまむかいたけしてらへの寺領じりょう安堵あんどを、ぶんやす3ねん(1446ねん)の甲府こうふいちはちすてら再興さいこうおこなっている。また、信重のぶしげには譜代ふだい家臣かしんだん形成けいせいされはじめていることも指摘してきされている。

宝徳ほうとく2ねん(1450ねん)、信重のぶしげ黒坂くろさか太郎たろう討伐とうばつちゅう穴山あなやま伊豆いずまもる実名じつめい不明ふめい)に殺害さつがいされた(『甲斐かいこくこころざし』による)。享年きょうねん65。伊豆いずまもる穴山あなやまみつるはる実子じっしとされ、信重のぶしげ次男じなん信介しんすけ養嗣子ようししとして穴山あなやまおくんだため、それをうらんでこしたものであるとされる。

武田たけだしんもりいだ。墓所はかしょは、『くにこころざし』によれば信重のぶしげ居館きょかんあとつたわる山梨やまなしけん笛吹ふえふき石和いさわまち成就じょうじゅいんであるという。

中世ちゅうせいには志摩しまそううち上条じょうじょうきょう存在そんざいした甲斐かい島上条しまかみじょう八幡やはた神社じんじゃには嘉吉よしきち3ねん1443ねん)に信重のぶしげ奉納ほうのうした鰐口わにぐち伝来でんらいし、現在げんざい南巨摩みなみこまぐん富士川ふじかわまち最勝寺さいしょうじ所蔵しょぞうとなっている。

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 逸見いつみゆうじきについては、秋山あきやまたかし武田たけだ信武のぶたけつかえて逸見いつみ名字みょうじあたえられた逸見いつみしんけい子孫しそんである可能かのうせい指摘してきする。しんけい秋山あきやまの庶流である深沢ふかざわ出身しゅっしんとされ、このせつただしければゆうじきゆう従弟じゅうていである秋山あきやまひかりあさけい子孫しそんうことになる[1]
  2. ^ 信重のぶしげおくられたさき四国しこくであったのも四国しこく細川ほそかわ支配しはいにあったからとみられる。同氏どうし信重のぶしげ跡部あとべ連携れんけい交渉こうしょうにもかかわっており、細川ほそかわ一連いちれん甲斐かいこく内紛ないふん幕府ばくふがわ担当たんとうしゃであった可能かのうせいがある[5]

出典しゅってん

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  1. ^ 秋山あきやまたかし安芸あき逸見いつみ系譜けいふ」(初出しょしゅつ:『武田たけだ研究けんきゅうはち、1991ねん/所収しょしゅう:西川にしかわ広平ひろへい 編著へんちょ甲斐かいはじめ一族いちぞく』戒光さち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいかん〉、2021ねんISBN 978-4-86403-398-5)2021ねん、P264-280.
  2. ^ むかし御内おんうちしょあん所収しょしゅう「(おうなが28ねんよんがつじゅうはちにちづけ 足利あしかが義持よしもち御内おんうちしょあん足利あしかが持氏もちうじあて)」
  3. ^ まんすみじゅんきさき日記にっきおうなが32ねんうるう6がつ11にち・12にちじょう
  4. ^ まんすみじゅんきさき日記にっきせいちょう元年がんねん9がつ22にちじょう
  5. ^ 杉山すぎやま、2014ねん、P205-209.
  6. ^ まんすみじゅんきさき日記にっきせいちょう元年がんねん9がつ22にち・10月22にち・27にちじょう
  7. ^ まんすみじゅんきさき日記にっきせいちょう2ねん2がつ21にちじょう
  8. ^ まんすみじゅんきさき日記にっきえいとおる4ねん6がつ13にちじょう
  9. ^ まんすみじゅんきさき日記にっきえいとおる6ねん11月2にち・8にち・12月26にちじょう
  10. ^ まんすみじゅんきさき日記にっきえいとおる7ねん3がつ11にち・18にち・27-晦日みそかじょう


参考さんこう文献ぶんけん

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  • 山梨やまなしけん 通史つうしへん2 中世ちゅうせい山梨やまなしけん、2007ねん
  • 磯貝いそがい正義まさよし武田たけだ信重のぶしげ武田たけだ信重のぶしげおおやけ史蹟しせき保存ほぞんかい、1974ねん、2010ねんえびすひかりさち出版しゅっぱんより『中世ちゅうせい武士ぶし選書せんしょ1 武田たけだ信重のぶしげ』として復刊ふっかん
  • しばつじ俊六しゅんろく甲斐かい武田たけだ一族いちぞく新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2005ねん
  • 秋山あきやまただしてん守護しゅご武田たけだ権力けんりょく構造こうぞう-武田たけだ信重のぶしげ帰国きこく動向どうこうから-」『武田たけだ研究けんきゅう だい27ごう武田たけだ研究けんきゅうかい、2003ねん
  • 杉山すぎやま一弥かずや室町むろまち幕府ばくふ甲斐かい守護しゅご武田たけだ」『室町むろまち幕府ばくふ東国とうごく政策せいさく』(思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2014ねんISBN 978-4-7842-1739-7はら論文ろんぶんは『國學院大學こくがくいんだいがく大学院だいがくいん紀要きよう文学ぶんがく研究けんきゅう32ごう(2001ねん))