(Translated by https://www.hiragana.jp/)
斯波持種 - Wikipedia コンテンツにスキップ

斯波しばしゅ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
斯波しばしゅ
時代じだい 室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき
生誕せいたん おうひさし20ねん1413ねん
死没しぼつ 文明ぶんめい7ねん7がつ16にち1475ねん8がつ17にち
改名かいめい しゅみちあらわあかりがん法名ほうみょう
別名べつめい 大野おおのしゅ孫三郎まごさぶろう通称つうしょう
官位かんい みんしょう修理しゅうり大夫たいふ
幕府ばくふ 国持くにもちしゅうなみ御供ごくうしゅ
氏族しぞく 斯波しば
父母ちちはは ちち斯波しばみつるしゅはは京極きょうごくむすめ
義敏よしとしたけまもるへ)、義孝よしたかほか
テンプレートを表示ひょうじ

斯波しば しゅ(しば もちたね)は室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき武将ぶしょう斯波しば有力ゆうりょく一族いちぞく斯波しばみつるしゅ嫡男ちゃくなんで、はは京極きょうごくむすめ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

斯波しばみんしょう輔家(斯波しば大野おおの[編集へんしゅう]

おうなが20ねん1413ねん)、加賀かが守護しゅご斯波しばみつるしゅ嫡男ちゃくなんとしてまれる。もちしゅまれた斯波しば越前えちぜんにおいては越前えちぜん大野おおのぐんたけまもる越前えちぜん守護しゅご)よりまかされていたために「大野おおの殿どの大野おおの)」ともばれ、斯波しば宗家そうけであるたけまもる有力ゆうりょく分家ぶんけとしてさらに加賀かが守護しゅごしょく相伝そうでんし、本家ほんけであるたけまもる有力ゆうりょく斯波しば一門いちもんとして勢力せいりょくっていた。

しかし、しゅまれた翌年よくねんちちが4だい将軍しょうぐん足利あしかが義持よしもち勘気かんきこうむ加賀かが守護しゅごしょくうばわれて高野山こうのやま逐電ちくでんしてしまい、加賀かが守護しゅごとしての斯波しば加賀かが斯波しば)はここで終焉しゅうえんむかえてしまうことになった。

のこされたしゅであったが、京都きょうといて将軍しょうぐん足利あしかが義持よしもちからへんいみな(「もち」の)をたまわり、斯波しば大野おおの代々だいだいみんしょう輔に任官にんかんしていることから名門めいもん管領かんりょう斯波しばたけまもるつながるものとして、幕府ばくふからも粗略そりゃくあつかいはけなかったようである。やがて成長せいちょうしたしゅたけまもる一門いちもん有力ゆうりょくしゃとしてたけまもる家家いえいえちゅうおおきな発言はつげんりょくつようになる。

えいとおるらんでは、斯波しば代表だいひょうして関東かんとう出陣しゅつじんし、駿河するが守護しゅご今川いまがわ範忠のりただらととも鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが持氏もちうじたたかった。しかし、その直後ちょくご嘉吉よしきち元年がんねん1428ねん)にもと遠江とおとうみ守護しゅごながれを今川いまがわさだあき遠江とおとうみ奪還だっかん目指めざして挙兵きょへいをしたため、これをほろぼした(『斯波しば』には「駿河するがこく守護しゅご今川いまがわ左衛門さえもん」としるされているが、今川いまがわ範忠のりただ左衛門さえもんにんじられたことはなく、左衛門さえもんさだあき官途かんと受領じゅりょうめいである)[1]

たけまもる混乱こんらん[編集へんしゅう]

このころ斯波しば斯波しばよしあつしよしゆたか父子ふし相次あいついでぼっし、さらにきょうよしけん短命たんめい当主とうしゅつづき、自然しぜん斯波しば長老ちょうろうとしてしゅ存在そんざいかんおおきくなり、たけまもる家家いえいえちゅう指揮しき立場たちばとなっていった。

このしゅ対立たいりつしたのが斯波しば代々だいだい執事しつじ越前えちぜん守護しゅごだいある甲斐かい甲斐かいすすむひさ常治つねじ)であった。常治つねじしゅともたけまもる当主とうしゅ後見人こうけんにんとなり、幕府ばくふ命令めいれい大和やまとえいとおるらんえいとおるらん大和やまと関東かんとう出陣しゅつじんしていたが、筆頭ひっとう家臣かしんとしてたけまもる一族いちぞく家臣かしんからみれば傍若無人ぼうじゃくぶじんいが目立めだ存在そんざいであり、両者りょうしゃ対立たいりつするのは必然ひつぜんであったといえる。常治つねじ越前えちぜん斯波しば領国りょうごく支配しはいすすめていたあせりもあり、甲斐かい反感はんかん越前えちぜん国人くにびとしゅにつき、合戦かっせん対立たいりつ構図こうず出来上できあがっていく。

ぶんやす3ねん1446ねん)9がつしゅ加賀かが出兵しゅっぺい守護しゅごしょくめぐって対立たいりつしている富樫とかし当事とうじしゃ1人ひとり富樫とかしやすしだか肩入かたいれした。たいだかおいなりはる追放ついほうしたが、斯波しばかたにもおおくの死傷ししょうしゃしている(加賀かがりょうりゅうぶんやす騒動そうどう)。このときからしゅ常治つねじ対立たいりつ発生はっせい加賀かが復帰ふっきねらったしゅはたひさ反対はんたいしたこと原因げんいんられている。

その斯波しばよしけんわずか18さい夭逝ようせいすると、たけまもる当主とうしゅしゅ長男ちょうなんである義敏よしとしえられた。このことでしゅ義敏よしとし父子ふし常治つねじ対立たいりつ激化げきかし、長禄ちょうろく2ねん1458ねん)、ついに長禄ちょうろく合戦かっせんをもって両者りょうしゃ激突げきとつする。この合戦かっせんしゅ義敏よしとし父子ふし敗北はいぼく失脚しっきゃくまご義敏よしとし子息しそくまつ王丸おうまる当主とうしゅとなるも、もなくまつ王丸おうまる家督かとくはいされ、わって渋川しぶかわよしきょうよしれんたけまもる当主とうしゅとなることとなった。ところが、その伊勢いせさだおやはたらきかけで義敏よしとし赦免しゃめんされて、ひろしせい6ねん1465ねん)12月には義敏よしとし将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさ対面たいめんして正式せいしき赦免しゃめんされたさいにはしゅ同席どうせきしている(『大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじ』には29にち、『かげりょうのきろく』には30にちのこととする)。よく文正ふみまさ元年がんねん(1466ねん)には義敏よしとし斯波しば家督かとく守護しゅご復帰ふっき決定けっていされて8がつ25にちにはしゅ義敏よしとししたがって義政よしまさ拝謁はいえつしているが(『かげりょうのきろく』)、直後ちょくご発生はっせいした文正ふみまさ政変せいへんによって義敏よしとしふたた追放ついほうされてかど復帰ふっきする。一連いちれん騒動そうどうたけまもる騒動そうどうという。

応仁おうにんらん[編集へんしゅう]

やがてこの斯波しば混乱こんらん将軍家しょうぐんけ畠山はたけやま家督かとくあらそいがから応仁おうにんらんこると、義敏よしとしまつ王丸おうまるともひがしぐんぞく越前えちぜん奪還だっかん目指めざしてたたかうことになる。しかしながら一度いちど凋落ちょうらくはじめた斯波しば権威けんい容易よういもどせるものではなく、甲斐かいつぎ頭角とうかくあらわした朝倉あさくらたかしけいによって越前えちぜん攻略こうりゃくすすめられるなかしゅ応仁おうにんらん混迷こんめいきわめる文明ぶんめい7ねん(1475ねん)、63さい生涯しょうがいじた。その斯波しばみんしょう輔家(大野おおの)は義敏よしとしおとうとである斯波しば義孝よしたかいだ。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 森田もりたかおりつかさ ちょ今川いまがわおやぶんかめえいただし争乱そうらん」、黒田くろだ基樹もとき へん今川いまがわおや』戒光さち出版しゅっぱん中世ちゅうせい東国とうごく武士ぶし研究けんきゅう だいろくかん〉、2019ねん、113-114ぺーじISBN 978-4-86403-318-3 /初出しょしゅつ: 静岡しずおかけん地域ちいき研究けんきゅうかい へん戦国せんごく静岡しずおか研究けんきゅう清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2002ねん 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]