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畠山持富 - Wikipedia コンテンツにスキップ

畠山はたけやまとみ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
畠山はたけやま とみ
時代じだい 室町むろまち時代ときよ後期こうき
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ たからいさお4ねん1452ねん
改名かいめい 弥三郎やさぶろうもちとみ
官位かんい 尾張おわりもり
氏族しぞく 畠山はたけやましゅう
父母ちちはは 畠山はたけやま満家みついえ
兄弟きょうだい 持国もちくに持永もちながもちとみ
つま 遊佐ゆさ河内かわうちまもるむすめ
政久まさひさ政長まさなが
テンプレートを表示ひょうじ

畠山はたけやま とみ(はたけやま もちとみ)は、室町むろまち時代ときよ後期こうき武将ぶしょう官位かんい尾張おわりもり

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

河内かわうち畠山はたけやま当主とうしゅ畠山はたけやま満家みついえ三男さんなん異母いぼけい持国もちくに同母どうぼけい持永もちなが幼名ようみょう弥三郎やさぶろう

生誕せいたんねん不明ふめいだが、おうひさし32ねん1425ねん)11がつ20日はつか元服げんぷく(「薩戒おうなが32ねん11がつ20日はつかじょう)。当時とうじ室町むろまち幕府ばくふ5だい将軍しょうぐん足利あしかが義量よしかず同年どうねん2がつ死去しきょし、将軍しょうぐんしょく空席くうせきであったため、あにである持国もちくに持永もちなが同様どうようぜん将軍しょうぐん足利あしかが義持よしもちへんいみな(「もち」の)をたまわっている。

嘉吉よしきち元年がんねん1441ねん)、長兄ちょうけい持国もちくに家督かとく更迭こうてつされてわりに次兄じけい持永もちながあたえられたが、嘉吉よしきちらん影響えいきょう赦免しゃめんされた持国もちくに持永もちなが家督かとく復帰ふっきした。もちとみ持永もちなが屋敷やしきにいたところ持国もちくに手引てびきで脱出だっしゅつした。

その持国もちくに嫡子ちゃくしがいなかったこと(庶子しょしもちとみおい)の義就よしなり石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう神宮寺じんぐうじされる予定よていだった)から持国もちくに後継こうけいしゃになっていたが、ぶんやす5ねん1448ねん)に持国もちくに後継こうけいしゃとみから義就よしなり変更へんこうした。宝徳ほうとく2ねん1450ねん)に義就よしなり家督かとく継承けいしょうしたが、異議いぎはさむことはかった。それから2ねんとみ死去しきょした。

しかし、後継こうけいしゃ変更へんこう一部いちぶ家臣かしんだん納得なっとくせず、もちとみ2人ふたり弥三郎やさぶろう政久まさひさ政長まさなが兄弟きょうだい擁立ようりつして持国もちくに父子ふし反抗はんこう応仁おうにんらん一因いちいんつくした。