日米 にちべい 関係 かんけい 史 し (にちべいかんけいし 英 えい :Japanese-American historical relations)では、日本 にっぽん とアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の二 に 国 こく 間 あいだ 関係 かんけい の歴史 れきし について述 の べる。時間 じかん 軸 じく としては1853年 ねん 以後 いご となる。
両国 りょうこく は、アメリカの領土 りょうど の拡大 かくだい とフロンティア消滅 しょうめつ 以後 いご 、時 とき に強圧 きょうあつ 的 てき に、時 とき に協力 きょうりょく 的 てき に歩 あゆ み現在 げんざい に至 いた る。
日本 にっぽん とアメリカの外交 がいこう 関係 かんけい は、1854年 ねん の日米 にちべい 和親 わしん 条約 じょうやく を持 も って開始 かいし されるが、それ以前 いぜん にも両国 りょうこく の接触 せっしょく はあった。
1797年 ねん 、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長 せんちょう のアメリカ船籍 せんせき イライザ号 ごう が、長崎 ながさき にて貿易 ぼうえき 。
1798年 ねん 、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長 せんちょう のアメリカ船籍 せんせき イライザ号 ごう が、長崎 ながさき にて貿易 ぼうえき 。
1799年 ねん 、ジェームズ・デブロー船長 せんちょう のアメリカ船籍 せんせき フランクリン号 ごう が、長崎 ながさき にて貿易 ぼうえき 。
1800年 ねん 、ウィリアム・V・ハッチングス船長 せんちょう のアメリカ船籍 せんせき マサチューセッツ号 ごう が、長崎 ながさき にて貿易 ぼうえき 。
1800年 ねん 、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長 せんちょう のアメリカ船籍 せんせき エンペラー・オブ・ジャパン号 ごう が、長崎 ながさき にて貿易 ぼうえき 。
1801年 ねん 、ミッシェル・ガードナー・ダービー船長 せんちょう のアメリカ船籍 せんせき マーガレット号 ごう が、長崎 ながさき にて貿易 ぼうえき 。
1802年 ねん 、ジョージ・スティルス船長 せんちょう のアメリカ船籍 せんせき サミュエル・スミス号 ごう が、長崎 ながさき にて貿易 ぼうえき 。
1803年 ねん 、ジェームズ・マクニール船長 せんちょう のアメリカ船籍 せんせき レベッカ号 ごう が、長崎 ながさき にて貿易 ぼうえき 。
1803年 ねん 、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長 せんちょう のアメリカ船籍 せんせき ナガサキ号 ごう が、長崎 ながさき にて貿易 ぼうえき 。
1806年 ねん 、ヘンリー・リーラー船長 せんちょう のアメリカ船籍 せんせき アメリカ号 ごう が、長崎 ながさき にて貿易 ぼうえき 。
1807年 ねん 、ジョセフ・オカイン船長 せんちょう のアメリカ船籍 せんせき エクリブス号 ごう が、長崎 ながさき にて交流 こうりゅう 。
1807年 ねん 、ジョン・デビッドソン船長 せんちょう のアメリカ船籍 せんせき マウント・バーノン号 ごう が、マカオにて貿易 ぼうえき 。
1809年 ねん 、ジェームズ・マクニール船長 せんちょう のアメリカ船籍 せんせき レベッカ号 ごう が、マカオにて貿易 ぼうえき 。
1830年 ねん (天保 てんぽう 元年 がんねん )、日本 にっぽん が領有 りょうゆう 宣言 せんげん をしていたものの無人島 むじんとう となっていた小笠原諸島 おがさわらしょとう の父島 ちちじま にナサニエル・セイヴァリー が上陸 じょうりく 、入植 にゅうしょく [3] 。
1832年 ねん (天保 てんぽう 3年 ねん )、アンドリュー・ジャクソン 大統領 だいとうりょう は、エドマンド・ロバーツ(Edmund Roberts)を特命 とくめい 使節 しせつ としをアジアに派遣 はけん した。その際 さい 、「特 とく に日本 にっぽん に関 かん する情報 じょうほう を注意深 ちゅういぶか く収集 しゅうしゅう 」し、さらには、「正式 せいしき な使節 しせつ は別 べつ に送 おく るにしても、状況 じょうきょう が許 ゆる すならば信任 しんにん 状 じょう を提出 ていしゅつ しても良 よ い」とも指示 しじ する[4] 。
1835年 ねん (天保 てんぽう 6年 ねん )、ロバーツは清 きよし 、日本 にっぽん との交渉 こうしょう のために再 ふたた びアジアに派遣 はけん された。この際 さい に東 ひがし インド艦隊 かんたい が結成 けっせい される。しかしながら、ロバーツは中国 ちゅうごく で死亡 しぼう し使命 しめい を果 は たせず。
1837年 ねん (天保 てんぽう 8年 ねん )、広州 こうしゅう 在住 ざいじゅう のアメリカ商人 しょうにん チャールズ・キング(Charles W. King )は、商船 しょうせん モリソン号 ごう で音吉 おときち を含 ふく む漂流 ひょうりゅう 民 みん を日本 にっぽん に送 おく り届 とど けるため浦賀 うらが に来航 らいこう したが、異国 いこく 船 せん 打 だ 払 はらい 令 れい に基 もと づき日本 にっぽん 側 がわ 砲台 ほうだい が砲撃 ほうげき した(モリソン号 ごう 事件 じけん )。この事件 じけん 後 ご 、異国 いこく 船 せん 打 だ 払 はらい 令 れい に対 たい する批判 ひはん が強 つよ まる。
1845年 ねん (弘 ひろし 化 か 2年 ねん )、捕鯨 ほげい 船 せん マンハッタン号 ごう (Manhattan )が、22人 にん の日本人 にっぽんじん 漂流 ひょうりゅう 民 みん を救助 きゅうじょ し、マーケイター・クーパー 船長 せんちょう は浦賀 うらが への入港 にゅうこう を許可 きょか され、そこに4日間 にちかん 滞在 たいざい し、浦賀 うらが 奉行 ぶぎょう と対面 たいめん した。クーパー船長 せんちょう は幕府 ばくふ から感謝 かんしゃ され、充分 じゅうぶん な薪水 しんすい や食料 しょくりょう を与 あた えられ、色々 いろいろ な贈 おく り物 もの も貰 もら って浦賀 うらが を後 のち にする。
1846年 ねん (弘 ひろし 化 か 3年 ねん )閏 うるう 5月 がつ - アメリカ東 ひがし インド艦隊 かんたい 司令 しれい 官 かん ジェームズ・ビドル が浦賀 うらが に来航 らいこう し通商 つうしょう を求 もと めたが拒否 きょひ された。ビドルには、「辛抱強 しんぼうづよ く、敵愾心 てきがいしん や米国 べいこく への不信 ふしん 感 かん を煽 あお ること無 な く」交渉 こうしょう することが求 もと められていたため、数日 すうじつ の滞在 たいざい でに浦賀 うらが から退去 たいきょ した。
1848年 ねん (嘉 よしみ 永 なが 元年 がんねん )5月 がつ - アメリカ捕鯨 ほげい 船 せん 、西 にし 蝦夷 えぞ 地 ち に漂着 ひょうちゃく (難破 なんぱ とも脱走 だっそう とも)。幕府 ばくふ 、乗員 じょういん を長崎 ながさき に護送 ごそう する。
1849年 ねん (嘉 よしみ 永 なが 2年 ねん )3月 がつ - 東 ひがし インド艦隊 かんたい 司令 しれい 官 かん であるデビッド・ガイシンガー の命令 めいれい によりジェームス・グリン を艦長 かんちょう とするアメリカ軍艦 ぐんかん プレブル号 ごう が長崎 ながさき に来航 らいこう し、前年 ぜんねん に漂着 ひょうちゃく した捕鯨 ほげい 船 せん の船員 せんいん と、自 みずか らの意志 いし で密入国 みつにゅうこく していたラナルド・マクドナルド を受 う け取 と り退去 たいきょ する。
1849年 ねん (嘉 よしみ 永 なが 2年 ねん )6月 がつ - アメリカ捕鯨 ほげい 船員 せんいん の3名 めい 、樺太 からふと 島 とう に上陸 じょうりく する。
1851年 ねん (嘉 よしみ 永 なが 4年 ねん )1月 がつ - 土佐 とさ 漁民 ぎょみん 中濱 なかはま 万次郎 まんじろう ら、アメリカ船 せん に送 おく られて琉球 りゅうきゅう に上陸 じょうりく する。
1853年 ねん (嘉 よしみ 永 なが 6年 ねん )、東 ひがし インド艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん マシュー・ペリー は、米国 べいこく 大統領 だいとうりょう フィルモア の国書 こくしょ を幕府 ばくふ にもたらすために、軍艦 ぐんかん 4隻 せき を率 ひき いて浦賀 うらが に来航 らいこう した(黒船 くろふね 来航 らいこう )。国書 こくしょ を受 う け取 と った幕府 ばくふ は、その回答 かいとう を翌年 よくねん に行 おこな うこととし、ペリーは一旦 いったん 琉球 りゅうきゅう へと去 さ った。幕府 ばくふ はこれを朝廷 ちょうてい に伝 つた え、その後 ご 諸 もろ 大名 だいみょう に国書 こくしょ を示 しめ し意見 いけん を問 と うた。当時 とうじ 、外交 がいこう などに諸 しょ 大名 だいみょう が口出 くちだ しをすることはなく、異例 いれい のことである。幕府 ばくふ の困惑 こんわく ぶりを示 しめ すものといえるが、かかる来航 らいこう には何 なに も予告 よこく が無 な かったわけではない。すでに前年 ぜんねん の1852年 ねん (嘉 よしみ 永 なが 5年 ねん )にオランダ 商館 しょうかん 長 なが クルチウス が東 ひがし インド艦隊 かんたい の来航 らいこう を告 つ げていた。幕府 ばくふ は、この告知 こくち を無視 むし していた。
ペリーによる黒船 くろふね の来航 らいこう にあたり、「泰平 たいへい の眠 ねむ りを覚 さ ます上 うえ 喜 き 撰 せん たつた四 よん 杯 はい で夜 よる も眠 ねむ れず 」のような狂歌 きょうか が流行 はや る。
翌 よく 1854年 ねん (嘉 よしみ 永 なが 7年 ねん )1月 がつ 16日 にち 、ペリーが再度 さいど 7隻 せき の軍艦 ぐんかん を率 ひき い再 ふたた び神奈川 かながわ 沖 おき に来 き 泊 はく 。2月 がつ 10日 とおか には、林 はやし 復 ふく 斎 とき らと交渉 こうしょう が開始 かいし された。幕府 ばくふ は漂流 ひょうりゅう 民 みん 保護 ほご ・薪 たきぎ 水食 すいしょく 給与 きゅうよ などを承認 しょうにん 、通商 つうしょう については決 けっ し難 がた き旨 むね を回答 かいとう した。3月3日 にち 、日米 にちべい 和親 わしん 条約 じょうやく (神奈川 かながわ 条約 じょうやく )が締結 ていけつ され、日本 にっぽん は、下田 しもだ ・箱 はこ 館 かん の2港 こう を開港 かいこう した(1855年 ねん (安政 あんせい 2年 ねん )下田 しもだ で条約 じょうやく 批准 ひじゅん )。
日米 にちべい 修好 しゅうこう 通商 つうしょう 条約 じょうやく [ 編集 へんしゅう ]
1855年 ねん (安政 あんせい 2年 ねん )、幕府 ばくふ は朝廷 ちょうてい に条約 じょうやく 締結 ていけつ の事情 じじょう (英 えい ・米 べい ・露 ろ 国 こく 、各国 かっこく との条約 じょうやく 締結 ていけつ )を具陳 ぐちん する。先 さき の条約 じょうやく の要綱 ようこう どおり米国 べいこく は、1856年 ねん (安政 あんせい 3年 ねん )10月 がつ 21日 にち に駐 ちゅう 日 にち 総領事 そうりょうじ ハリス を下田 しもだ に来航 らいこう させる。27日 にち にはハリスが下田 しもだ 奉行 ぶぎょう に対 たい し、通商 つうしょう の自由 じゆう ・通貨 つうか 交換 こうかん 比率 ひりつ の取 と り決 き めを要求 ようきゅう する。之 これ に対 たい し翌年 よくねん 5月 がつ 26日 にち 下田 しもだ 条約 じょうやく (日米 にちべい 条約 じょうやく )を締結 ていけつ する。その後 ご 、10月21日 にち にはハリス、江戸城 えどじょう に登城 とじょう し、将軍 しょうぐん に米 べい 大統領 だいとうりょう ピアース の親書 しんしょ を提出 ていしゅつ することになる。之 これ に対 たい し登城 とじょう 反対 はんたい の旨 むね が諸 しょ 大名 だいみょう などから老中 ろうじゅう に提出 ていしゅつ されたようだが結局 けっきょく 登城 とじょう となった。11月1日 にち には、この親書 しんしょ ・ハリスの口上 こうじょう 書 しょ の写 うつ しを諸 しょ 大名 だいみょう に示 しめ し、意見 いけん を求 もと め、諸 しょ 大名 だいみょう は意見 いけん を上申 じょうしん 。12月2日 にち 、老中 ろうじゅう 、ハリスを招 まね き通商 つうしょう 貿易 ぼうえき と公使 こうし の江戸 えど 駐在 ちゅうざい を許可 きょか 。11日 にち には幕府 ばくふ 全権 ぜんけん の井上 いのうえ 清 きよし 直 ただし (下田 しもだ 奉行 ぶぎょう )、岩瀬 いわせ 忠震 ただなり (目付 めつけ )とハリスとの間 あいだ で日米 にちべい 修好 しゅうこう 通商 つうしょう 条約 じょうやく の交渉 こうしょう を開始 かいし することとなる。13日 にち には幕府 ばくふ がこの条約 じょうやく を締結 ていけつ すべき旨 むね を朝廷 ちょうてい に伝 つた える。1858年 ねん (安政 あんせい 5年 ねん )1月 がつ 5日 にち 、幕府 ばくふ は勅許 ちょっきょ 奏請 そうせい のため、条約 じょうやく 調印 ちょういん の60日 にち 延期 えんき をハリスに伝 つた える。8日 にち 、堀田 ほった 正睦 まさとし 勅許 ちょっきょ 奏請 そうせい のため京都 きょうと に赴 おもむ く(翌日 よくじつ 参内 さんだい )。3月20日 にち 、天皇 てんのう は条約 じょうやく 調印 ちょういん 拒否 きょひ の勅答 ちょくとう を正睦 まさとし に与 あた える。その後 ご 、幕府 ばくふ は再 ふたた び勅書 ちょくしょ を諸 しょ 大名 だいみょう に示 しめ し、意見 いけん を聞 き く。6月19日 にち 、井上 いのうえ 、岩瀬 いわせ の両 りょう 名 な は神奈川 かながわ 沖 おき のポーハタン号 ごう でハリスと日米 にちべい 修好 しゅうこう 通商 つうしょう 条約 じょうやく 及 およ び貿易 ぼうえき 章程 しょうてい に調印 ちょういん 。これが(安政 あんせい の五 ご カ国 かこく 条約 じょうやく )の最初 さいしょ となる。
12月30日 にち 、老中 ろうじゅう 間部 まべ 詮勝 あきかつ 参内 さんだい し条約 じょうやく 調印 ちょういん 了解 りょうかい の勅諚 ちょくじょう を受 う ける。そして1860年 ねん (安政 あんせい 7年 ねん )には二 ふた つの日本人 にっぽんじん グループがアメリカに上陸 じょうりく する。1月18日 にち に、遣 や 米 べい 特使 とくし 外国 がいこく 奉行 ぶぎょう 新見 にいみ 正 ただし 興 きょう ・村 むら 垣 かき 範 はん 正 ただし ・目付 めつけ 小栗 おぐり 忠順 ただまさ らポーハタン号 ごう で出航 しゅっこう 。万延 まんえん 元年 がんねん (1860年 ねん だが閏 うるう 3月 がつ に改元 かいげん された)閏 うるう 3月 がつ 28日 にち 、米 べい 大統領 だいとうりょう ブキャナン と会見 かいけん 。条約 じょうやく 批准 ひじゅん 。それに先立 さきだ つ1月 がつ 13日 にち に咸臨丸 かんりんまる で軍艦 ぐんかん 奉行 ぶぎょう 木村 きむら 喜 き 毅 あつし ・軍艦 ぐんかん 操 みさお 練 ねり 所 しょ 教授 きょうじゅ 勝 かつ 海舟 かいしゅう らが米国 べいこく に向 む かい2月 がつ 26日 にち にサンフランシスコ 港 みなと に到着 とうちゃく している。
在 ざい アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 日本 にっぽん 公使館 こうしかん の印 しるし (明治 めいじ 時代 じだい 初期 しょき )
積極 せっきょく 的 てき に関係 かんけい を結 むす ぼうと、使者 ししゃ を送 おく ってきたり軍艦 ぐんかん を引 ひ き連 つ れてきたりしていたアメリカであったが、日米 にちべい 修好 しゅうこう 通商 つうしょう 条約 じょうやく の締結 ていけつ ・批准 ひじゅん 後 ご 、下関 しものせき 戦争 せんそう などの長州 ちょうしゅう 藩 はん と四国 しこく 艦隊 かんたい (アメリカを含 ふく む)との攻防 こうぼう などはあったが、積極 せっきょく 的 てき な関係 かんけい は一時 いちじ 途絶 とだ える。理由 りゆう としては下記 かき の二 ふた つが挙 あ げられる。
アメリカ南北戦争 なんぼくせんそう (1861年 ねん ~1865年 ねん )
日本 にっぽん の明治維新 めいじいしん (1868年 ねん )
しかし、この時期 じき が過 す ぎ明治 めいじ 政府 せいふ が成立 せいりつ すると、先 さき の不平等 ふびょうどう 条約 じょうやく を撤廃 てっぱい しようと日本 にっぽん 側 がわ は動 うご き始 はじ める。その第 だい 一 いち 陣 じん 的 てき なものとなるのが、岩倉 いわくら 使節 しせつ 団 だん である。岩倉 いわくら 使節 しせつ 団 だん のメンバーは岩倉 いわくら 具視 ともみ を特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし ,大久保 おおくぼ 利通 としみち ・木戸 きど 孝允 たかよし ・伊藤 いとう 博文 ひろぶみ ・山口 やまぐち 尚 しょう 芳 よし を副使 ふくし とし,多数 たすう の随員 ずいいん ・留学生 りゅうがくせい が参加 さんか 。1872年 ねん 3月4日 にち 昼 ひる (現地 げんち 時間 じかん )、岩倉 いわくら 具視 ともみ は米 べい 大統領 だいとうりょう グラント に謁見 えっけん する[5] 。
1878年 ねん (明治 めいじ 11年 ねん )には日米 にちべい 条約 じょうやく ・協定 きょうてい を修正 しゅうせい し日本 にっぽん の関税 かんぜい 自主権 じしゅけん を認 みと める約 やく 書 しょ に調印 ちょういん 、批准 ひじゅん されるが、施行 しこう されなかった。1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )、外相 がいしょう の井上 いのうえ 馨 かおる が各国 かっこく 公使 こうし と第 だい 一 いち 回 かい 条約 じょうやく 改正 かいせい 会議 かいぎ を開 ひら くが、不調 ふちょう に終 お わった。1899年 ねん (明治 めいじ 32年 ねん )、日米 にちべい 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく が締結 ていけつ され、治外法権 ちがいほうけん は撤廃 てっぱい された。1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )日米 にちべい 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく 改正 かいせい により関税 かんぜい 自主権 じしゅけん を回復 かいふく し、不平等 ふびょうどう 条約 じょうやく の撤廃 てっぱい に成功 せいこう した。
1904年 ねん (明治 めいじ 37年 ねん )に日 にち 露 ろ 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ する。日本 にっぽん は遼 りょう 陽 ひ 会戦 かいせん ・奉天 ほうてん 会戦 かいせん で勝利 しょうり し、日本海 にほんかい 海戦 かいせん でも勝利 しょうり した。しかし日本 にっぽん の国力 こくりょく は限界 げんかい に近 ちか づいており、日本 にっぽん は米 べい 大統領 だいとうりょう に日 にち 露 ろ 講和 こうわ の友誼 ゆうぎ 的 てき 斡旋 あっせん を希望 きぼう した。これに応 おう じた大統領 だいとうりょう セオドア・ルーズベルト は1905年 ねん (明治 めいじ 38年 ねん )6月 がつ 9日 にち に日 にち 露 ろ 両国 りょうこく に講和 こうわ を勧告 かんこく し両国 りょうこく は休戦 きゅうせん に応 おう じた。そして講和 こうわ 会議 かいぎ をニューハンプシャー州 しゅう のポーツマス で開 ひら きポーツマス条約 じょうやく を締結 ていけつ する。しかしこの条約 じょうやく には賠償金 ばいしょうきん の規定 きてい がなく、戦争 せんそう に勝 か ったと考 かんが えていた日本 にっぽん の一般 いっぱん 国民 こくみん には不満 ふまん が多 おお い内容 ないよう であり、日本 にっぽん 国内 こくない ではいたるところで暴動 ぼうどう が起 お きた(日比谷 ひびや 焼 や き討 う ち事件 じけん など)。
一方 いっぽう で、ポーツマス条約 じょうやく の結果 けっか 日本 にっぽん が管理 かんり 権 けん を得 え た東 あずま 清 きよし 鉄道 てつどう の南 みなみ 満州 まんしゅう 部分 ぶぶん について、エドワード・ヘンリー・ハリマン との共同 きょうどう 経営 けいえい が約束 やくそく されていたが(桂 かつら ・ハリマン協定 きょうてい )、小村 こむら 寿太郎 じゅたろう 外相 がいしょう の反対 はんたい により日本 にっぽん が単独 たんどく 経営 けいえい する南 みなみ 満州 まんしゅう 鉄道 てつどう となった。 1909年 ねん (明治 めいじ 42年 ねん )12月にアメリカは鉄道 てつどう 中立 ちゅうりつ 化 か 案 あん を提案 ていあん したが、翌年 よくねん 1月 がつ に日 にち 露 ろ 両国 りょうこく が正式 せいしき に反対 はんたい し、提案 ていあん は流 なが れた。講和 こうわ によって中国 ちゅうごく での権益 けんえき を得 え ることを期待 きたい していたルーズベルトは、これ以降 いこう 反日 はんにち 感情 かんじょう を強 つよ くした。またアメリカの国民 こくみん の間 あいだ からも人種 じんしゅ 差別 さべつ 的 てき な黄禍 こうか 論 ろん が急速 きゅうそく に盛 も り上 あ がり、のちの日米 にちべい 開戦 かいせん へとつながっていくことになる。
日米 にちべい 関係 かんけい の急速 きゅうそく な悪化 あっか により、第 だい 二 に 回 かい 日 にち 英 えい 同盟 どうめい 協約 きょうやく で日本 にっぽん との同盟 どうめい を攻守 こうしゅ 同盟 どうめい の性格 せいかく に強化 きょうか したばかりのイギリスは、日米 にちべい 戦争 せんそう に巻 ま き込 こ まれることを畏 おそ れ始 はじ めた。
1908年 ねん (明治 めいじ 41年 ねん )10月 がつ には世界 せかい 一周 いっしゅう を行 おこな っていたアメリカ艦隊 かんたい グレート・ホワイト・フリート が日本 にっぽん に寄港 きこう した。11月には高平 たかひら ・ルート協定 きょうてい が締結 ていけつ され、日本 にっぽん による満州 まんしゅう ・朝鮮 ちょうせん 支配 しはい と、アメリカによるフィリピン ・ハワイ 支配 しはい を相互 そうご に承認 しょうにん した。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん からワシントン体制 たいせい まで[ 編集 へんしゅう ]
1914年 ねん (大正 たいしょう 3年 ねん )、日本 にっぽん は日 にち 英 えい 同盟 どうめい によってドイツ帝国 ていこく に宣戦 せんせん 布告 ふこく する(第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん )。翌年 よくねん には中国 ちゅうごく に対 たい し対 たい 華 はな 21ヶ条 かじょう 要求 ようきゅう を提示 ていじ する。これに対 たい し、米 べい 国務 こくむ 長官 ちょうかん ブライアン は要求 ようきゅう の一部 いちぶ に不 ふ 同意 どうい の覚書 おぼえがき を日本 にっぽん 側 がわ に手渡 てわた す。終戦 しゅうせん 間際 まぎわ の1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )にはアメリカが、ロシア革命 かくめい によってシベリア に取 と り残 のこ されたチェコ軍団 ぐんだん 救援 きゅうえん のためウラジオストク への日米 にちべい 共同 きょうどう 出兵 しゅっぺい を提議 ていぎ し、シベリア出兵 しゅっぺい がはじまった。しかし日米 にちべい 間 あいだ の連絡 れんらく はうまくいっておらず、同年 どうねん 11月 がつ にはアメリカより日本 にっぽん のシベリアへの出兵 しゅっぺい 数 すう ・シベリア鉄道 てつどう 占領 せんりょう の件 けん で抗議 こうぎ を受 う けた。
戦後 せんご 1919年 ねん (大正 たいしょう 8年 ねん )、アメリカ大統領 だいとうりょう ウィルソン が提唱 ていしょう した理念 りねん に基 もと づいてパリ講和 こうわ 会議 かいぎ が開催 かいさい される(日本 にっぽん 全権 ぜんけん は、西園寺 さいおんじ 公望 きんもち ・牧野 まきの 伸 しん 顕 あきら ら)。同年 どうねん 2月 がつ には国際 こくさい 連盟 れんめい 規約 きやく 委員 いいん 会 かい で日本 にっぽん 代表 だいひょう は人種 じんしゅ 的 てき 差別 さべつ 撤廃 てっぱい 提案 ていあん を行 おこな い、半数 はんすう を超 こ える国 くに の賛成 さんせい を得 え るものの、ウィルソンが全会 ぜんかい 一致 いっち による採択 さいたく を突然 とつぜん 採用 さいよう したため否決 ひけつ された。一方 いっぽう で5月 がつ には山東 さんとう 省 しょう のドイツ利権 りけん が日本 にっぽん に継承 けいしょう されることが了承 りょうしょう され、また赤道 せきどう 以北 いほく 旧 きゅう ドイツ領 りょう 南洋 なんよう 諸島 しょとう の委任 いにん 統治 とうち 国 こく を日本 にっぽん に決定 けってい された。
アメリカは日本 にっぽん を仮想 かそう 敵国 てきこく とみなすようになり、日本 にっぽん が得 え た山東 さんとう 省 しょう の利権 りけん に反対 はんたい して、アメリカの上院 じょういん はヴェルサイユ条約 じょうやく の批准 ひじゅん を拒否 きょひ した。そうしてイギリスを抱 だ き込 こ んで日 にち 英 えい 同盟 どうめい を破棄 はき させ、日本 にっぽん を追 お い込 こ む戦略 せんりゃく を開始 かいし した。
翌年 よくねん 、中国 ちゅうごく 借款 しゃっかん を日 にち 英 えい 米 べい 仏 ふつ で成功 せいこう させる。1921年 ねん (大正 たいしょう 10年 ねん )にはワシントン会議 かいぎ が開 ひら かれ、日本 にっぽん ・アメリカを含 ふく む九 きゅう ヶ国 かこく が出席 しゅっせき した。その中 なか で、四 よん カ国 かこく 条約 じょうやく 、九 きゅう カ国 かこく 条約 じょうやく などをそれぞれ締結 ていけつ した。その結果 けっか 、1923年 ねん に日 にち 英 えい 同盟 どうめい が解消 かいしょう された。
翌 よく 1924年 ねん 7月 がつ 1日 にち にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく で排日 はいにち 移民 いみん 法 ほう が施行 しこう される。この頃 ころ から次第 しだい に、日本 にっぽん で反米 はんべい 感情 かんじょう が高 たか まった。
世界 せかい 恐慌 きょうこう から第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん まで[ 編集 へんしゅう ]
1929年 ねん (昭和 しょうわ 4年 ねん )10月 がつ 、アメリカで世界 せかい 恐慌 きょうこう が起 お こる。翌年 よくねん には日本 にっぽん にも影響 えいきょう は波及 はきゅう し多大 ただい な影響 えいきょう を受 う け生糸 きいと などの価格 かかく が崩落 ほうらく した。この不 ふ 況 きょう 状態 じょうたい は1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )ごろまで続 つづ く。1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )に日本 にっぽん は第 だい 二 に 次 じ ロンドン海軍 かいぐん 軍縮 ぐんしゅく 会議 かいぎ から脱退 だったい し、12月にワシントン海軍 かいぐん 軍縮 ぐんしゅく 条約 じょうやく が失効 しっこう したことで両国 りょうこく の軍縮 ぐんしゅく 協力 きょうりょく 関係 かんけい は終 お わった。1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )から始 はじ まった日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう はさらに日米 にちべい 関係 かんけい を悪化 あっか させ、10月25日 にち にはフランクリン・ルーズベルト 大統領 だいとうりょう が防疫 ぼうえき 演説 えんぜつ (en:Quarantine Speech )を行 おこな い、日本 にっぽん を侵略 しんりゃく 国 こく であると批難 ひなん した。また12月12日 にち にアメリカの砲艦 ほうかん パナイ号 ごう が、長江 ながえ を航行 こうこう 中 ちゅう に日本 にっぽん 軍 ぐん の爆撃 ばくげき によって沈没 ちんぼつ したことはアメリカの反日 はんにち 感情 かんじょう を大 おお きく悪化 あっか させた(パナイ号 ごう 事件 じけん )。1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )7月 がつ 26日 にち にアメリカが日米 にちべい 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく の廃棄 はいき を通告 つうこく し、1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )1月 がつ 26日 にち に失効 しっこう したことで日米 にちべい 関係 かんけい は開国 かいこく 以来 いらい の「無 む 条約 じょうやく 時代 じだい 」に突入 とつにゅう した。7月22日 にち に大本営 だいほんえい 政府 せいふ 連絡 れんらく 会議 かいぎ で「対 たい 米 べい 戦争 せんそう 」を考慮 こうりょ に入 い れた「世界 せかい 情勢 じょうせい ノ推移 すいい ニ伴 とも フ時局 じきょく 処理 しょり 要綱 ようこう 」が採択 さいたく された。9月にはドイツのポーランド侵攻 しんこう により第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ し、両国 りょうこく 関係 かんけい はいよいよ微妙 びみょう となっていった。1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )にはアメリカから密使 みっし が送 おく られ「日米 にちべい 諒解 りょうかい 案 あん 」の調整 ちょうせい が始 はじ まった。しかしフランス領 りょう インドシナ 北部 ほくぶ への進駐 しんちゅう (仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう )や9月 がつ 27日 にち に締結 ていけつ された 日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい はアメリカをさらに刺激 しげき した。
1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )2月 がつ から駐米 ちゅうべい 大使 たいし として野村 のむら 吉三郎 きちさぶろう が赴任 ふにん し、日米 にちべい 関係 かんけい の調整 ちょうせい に入 はい った。懸案 けんあん となったのは日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう の和平 わへい 問題 もんだい 、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく からの撤兵 てっぺい 問題 もんだい 、三 さん 国 こく 同盟 どうめい 問題 もんだい 、満州 まんしゅう 国 こく 問題 もんだい などであったが、4月 がつ には日米 にちべい 諒解 りょうかい 案 あん に基 もと づく合意 ごうい が出来 でき つつあった。しかし三 さん 国 こく 同盟 どうめい の主唱 しゅしょう 者 しゃ であった松岡 まつおか 洋右 ようすけ 外相 がいしょう が反対 はんたい して一旦 いったん 交渉 こうしょう は白紙 はくし に戻 もど った。その後 ご 交渉 こうしょう は再開 さいかい されたが、南進 なんしん 論 ろん に基 もと づく南部 なんぶ フランス領 りょう インドシナやオランダ領 りょう 東 ひがし インド への進駐 しんちゅう 計画 けいかく はさらにアメリカを刺激 しげき し、7月 がつ 25日 にち には在 ざい 米 べい 日本 にっぽん 資産 しさん の凍結 とうけつ 、8月 がつ には「日本 にっぽん を含 ふく む全 すべ ての侵略 しんりゃく 国 こく 」 への石油 せきゆ 禁輸 きんゆ に踏 ふ み切 き った。日本 にっぽん 側 がわ は対 たい 米 べい 交渉 こうしょう の前途 ぜんと を危惧 きぐ し、徐々 じょじょ に対 たい 米 べい 戦争 せんそう 準備 じゅんび を開始 かいし した。11月27日 にち 、コーデル・ハル 国務 こくむ 長官 ちょうかん から渡 わた された案 あん (いわゆるハル・ノート )を日本 にっぽん 側 がわ は「最後 さいご 通牒 つうちょう 」として受 う け取 と り、対 たい 米 べい 戦 せん を決意 けつい した。
12月8日 にち 、日本 にっぽん はハワイの真珠湾 しんじゅわん 軍港 ぐんこう を攻撃 こうげき し(真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき )、アメリカ・イギリス・オランダに宣戦 せんせん 布告 ふこく した。三 さん 国 こく 同盟 どうめい を締結 ていけつ していたドイツやイタリアも追随 ついずい してアメリカに宣戦 せんせん 、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん はアジア・太平洋 たいへいよう 地域 ちいき を含 ふく む大 だい 規模 きぼ なものとなった。当初 とうしょ 、日本 にっぽん は勝 か ち進 すす んでいたものの、圧倒的 あっとうてき な工業 こうぎょう 力 りょく で軍艦 ぐんかん や戦車 せんしゃ を整 ととの えたアメリカは攻勢 こうせい に出 で る。開戦 かいせん 翌年 よくねん のミッドウェー海戦 かいせん の敗退 はいたい ・ガダルカナル島 とう の陥落 かんらく と続 つづ き日本 にっぽん は圧倒的 あっとうてき に不利 ふり な状態 じょうたい に陥 おちい っていく。そして1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )8月 がつ 6日 にち 、アメリカ軍 ぐん による広島 ひろしま への原爆 げんばく 投下 とうか 、8月 がつ 9日 にち の長崎 ながさき への原爆 げんばく 投下 とうか を経 へ て、ついに日本 にっぽん 政府 せいふ は8月 がつ 14日 にち ポツダム宣言 せんげん の受諾 じゅだく を決定 けってい した。9月2日 にち に降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に署名 しょめい し(日本 にっぽん の降伏 ごうぶく )、戦争 せんそう は終結 しゅうけつ した。
米 べい 軍 ぐん 占領 せんりょう 終結 しゅうけつ から冷戦 れいせん 終結 しゅうけつ まで[ 編集 へんしゅう ]
1906年 ねん (明治 めいじ 39年 ねん )、サンフランシスコ 市 し の学務 がくむ 局 きょく が、日本人 にっぽんじん 学童 がくどう の隔離 かくり を命令 めいれい した。これは排日 はいにち 移民 いみん 行動 こうどう なるものの皮切 かわき りと言 い われる。この行動 こうどう には当時 とうじ のセオドア・ルーズベルト 大統領 だいとうりょう による異例 いれい の介入 かいにゅう があった。
^ K. Jack Bauer, A Maritime History of the United States: The Role of America's Seas and Waterways, University of South Carolina Press, 1988., p. 57
^ 東京 とうきょう 都 と 江戸 えど 東京 とうきょう 博物館 はくぶつかん 1999年 ねん 発行 はっこう 「日米 にちべい 交流 こうりゅう のあけぼの‐黒船 くろふね きたる‐」
^ Asia Society of Japan, Long lecture Archived 2008年 ねん 3月 がつ 25日 にち , at the Wayback Machine ..
^ ELLIOT GRIFFIS (1905年 ねん 8月 がつ 6日 にち ). “Edmund Roberts, Our First Envoy to Japan ”. New York Timex. 2010年 ねん 1月 がつ 28日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “The Japanese Embassy. Official Reception by the President Yesterday—Speech of the Chief of the Embassy and Reply by President Grant—Purposes of the Japanese Government—Studying the Civilization of Western Nations. WASHINGTON, D.C., March 4”. The New York Times . (5 Mar. 1872). “At noon today the principal members of the Japanese Embassy, ten in number, were officially presented to the President of the United States. (...)”
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