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日米にちべい関係かんけい

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日米にちべい関係かんけい
JapanとUSAの位置を示した地図

日本にっぽん

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく

日米にちべい関係かんけい(にちべいかんけいし えい:Japanese-American historical relations)では、日本にっぽんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくこくあいだ関係かんけい歴史れきしについてべる。時間じかんじくとしては1853ねん以後いごとなる。

両国りょうこくは、アメリカの領土りょうど拡大かくだいとフロンティア消滅しょうめつ以後いごとき強圧きょうあつてきに、とき協力きょうりょくてきあゆ現在げんざいいたる。

ペリーがまえ

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日本にっぽんとアメリカの外交がいこう関係かんけいは、1854ねん日米にちべい和親わしん条約じょうやくって開始かいしされるが、それ以前いぜんにも両国りょうこく接触せっしょくはあった。

  1. 1797ねん、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長せんちょうのアメリカ船籍せんせきイライザごうが、長崎ながさきにて貿易ぼうえき
  2. 1798ねん、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長せんちょうのアメリカ船籍せんせきイライザごうが、長崎ながさきにて貿易ぼうえき
  3. 1799ねん、ジェームズ・デブロー船長せんちょうのアメリカ船籍せんせきフランクリンごうが、長崎ながさきにて貿易ぼうえき
  4. 1800ねん、ウィリアム・V・ハッチングス船長せんちょうのアメリカ船籍せんせきマサチューセッツごうが、長崎ながさきにて貿易ぼうえき
  5. 1800ねん、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長せんちょうのアメリカ船籍せんせきエンペラー・オブ・ジャパンごうが、長崎ながさきにて貿易ぼうえき
  6. 1801ねん、ミッシェル・ガードナー・ダービー船長せんちょうのアメリカ船籍せんせきマーガレットごうが、長崎ながさきにて貿易ぼうえき
  7. 1802ねん、ジョージ・スティルス船長せんちょうのアメリカ船籍せんせきサミュエル・スミスごうが、長崎ながさきにて貿易ぼうえき
  8. 1803ねん、ジェームズ・マクニール船長せんちょうのアメリカ船籍せんせきレベッカごうが、長崎ながさきにて貿易ぼうえき
  9. 1803ねん、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長せんちょうのアメリカ船籍せんせきナガサキごうが、長崎ながさきにて貿易ぼうえき
  10. 1806ねん、ヘンリー・リーラー船長せんちょうのアメリカ船籍せんせきアメリカごうが、長崎ながさきにて貿易ぼうえき
  11. 1807ねん、ジョセフ・オカイン船長せんちょうのアメリカ船籍せんせきエクリブスごうが、長崎ながさきにて交流こうりゅう
  12. 1807ねん、ジョン・デビッドソン船長せんちょうのアメリカ船籍せんせきマウント・バーノンごうが、マカオにて貿易ぼうえき
  13. 1809ねん、ジェームズ・マクニール船長せんちょうのアメリカ船籍せんせきレベッカごうが、マカオにて貿易ぼうえき
  • 1830ねん天保てんぽう元年がんねん)、日本にっぽん領有りょうゆう宣言せんげんをしていたものの無人島むじんとうとなっていた小笠原諸島おがさわらしょとう父島ちちじまナサニエル・セイヴァリー上陸じょうりく入植にゅうしょく[3]
  • 1832ねん天保てんぽう3ねん)、アンドリュー・ジャクソン大統領だいとうりょうは、エドマンド・ロバーツ(Edmund Roberts)を特命とくめい使節しせつとしをアジアに派遣はけんした。そのさい、「とく日本にっぽんかんする情報じょうほう注意深ちゅういぶか収集しゅうしゅう」し、さらには、「正式せいしき使節しせつべつおくるにしても、状況じょうきょうゆるすならば信任しんにんじょう提出ていしゅつしてもい」とも指示しじする[4]
  • 1835ねん天保てんぽう6ねん)、ロバーツはきよし日本にっぽんとの交渉こうしょうのためにふたたびアジアに派遣はけんされた。このさいひがしインド艦隊かんたい 結成けっせいされる。しかしながら、ロバーツは中国ちゅうごく死亡しぼう使命しめいたせず。
  • 1837ねん天保てんぽう8ねん)、広州こうしゅう在住ざいじゅうのアメリカ商人しょうにんチャールズ・キング(Charles W. King)は、商船しょうせんモリソンごう音吉おときちふく漂流ひょうりゅうみん日本にっぽんおくとどけるため浦賀うらが来航らいこうしたが、異国いこくせんはらいれいもとづき日本にっぽんがわ砲台ほうだい砲撃ほうげきした(モリソンごう事件じけん)。この事件じけん異国いこくせんはらいれいたいする批判ひはんつよまる。
  • 1845ねんひろし2ねん)、捕鯨ほげいせんマンハッタンごうManhattan)が、22にん日本人にっぽんじん漂流ひょうりゅうみん救助きゅうじょし、マーケイター・クーパー船長せんちょう浦賀うらがへの入港にゅうこう許可きょかされ、そこに4日間にちかん滞在たいざいし、浦賀うらが奉行ぶぎょう対面たいめんした。クーパー船長せんちょう幕府ばくふから感謝かんしゃされ、充分じゅうぶん薪水しんすい食料しょくりょうあたえられ、色々いろいろおくものもらって浦賀うらがのちにする。
  • 1846ねんひろし3ねんうるう5がつ - アメリカひがしインド艦隊かんたい司令しれいかんジェームズ・ビドル浦賀うらが来航らいこう通商つうしょうもとめたが拒否きょひされた。ビドルには、「辛抱強しんぼうづよく、敵愾心てきがいしん米国べいこくへの不信ふしんかんあおることく」交渉こうしょうすることがもとめられていたため、数日すうじつ滞在たいざいでに浦賀うらがから退去たいきょした。
  • 1848ねんよしみなが元年がんねん)5がつ - アメリカ捕鯨ほげいせん西にし蝦夷えぞ漂着ひょうちゃく難破なんぱとも脱走だっそうとも)。幕府ばくふ乗員じょういん長崎ながさき護送ごそうする。
  • 1849ねんよしみなが2ねん)3がつ - ひがしインド艦隊かんたい司令しれいかんであるデビッド・ガイシンガー命令めいれいによりジェームス・グリン艦長かんちょうとするアメリカ軍艦ぐんかんプレブルごう長崎ながさき来航らいこうし、前年ぜんねん漂着ひょうちゃくした捕鯨ほげいせん船員せんいんと、みずからの意志いし密入国みつにゅうこくしていたラナルド・マクドナルド退去たいきょする。
  • 1849ねんよしみなが2ねん)6がつ - アメリカ捕鯨ほげい船員せんいんの3めい樺太からふととう上陸じょうりくする。
  • 1851ねんよしみなが4ねん)1がつ - 土佐とさ漁民ぎょみん中濱なかはま万次郎まんじろうら、アメリカせんおくられて琉球りゅうきゅう上陸じょうりくする。

幕末ばくまつ

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日米にちべい和親わしん条約じょうやく

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1853ねんよしみなが6ねん)、ひがしインド艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんマシュー・ペリーは、米国べいこく大統領だいとうりょうフィルモア国書こくしょ幕府ばくふにもたらすために、軍艦ぐんかん4せきひきいて浦賀うらが来航らいこうした(黒船くろふね来航らいこう)。国書こくしょった幕府ばくふは、その回答かいとう翌年よくねんおこなうこととし、ペリーは一旦いったん琉球りゅうきゅうへとった。幕府ばくふはこれを朝廷ちょうていつたえ、そのもろ大名だいみょう国書こくしょしめ意見いけんうた。当時とうじ外交がいこうなどにしょ大名だいみょう口出くちだしをすることはなく、異例いれいのことである。幕府ばくふ困惑こんわくぶりをしめすものといえるが、かかる来航らいこうにはなに予告よこくかったわけではない。すでに前年ぜんねん1852ねんよしみなが5ねん)にオランダ商館しょうかんながクルチウスひがしインド艦隊かんたい来航らいこうげていた。幕府ばくふは、この告知こくち無視むししていた。

ペリーによる黒船くろふね来航らいこうにあたり、「泰平たいへいねむりをますうえせん たつたよんはいよるねむれず 」のような狂歌きょうか流行はやる。

よく1854ねんよしみなが7ねん)1がつ16にち、ペリーが再度さいど7せき軍艦ぐんかんひきふたた神奈川かながわおきはく。2がつ10日とおかには、はやしふくときらと交渉こうしょう開始かいしされた。幕府ばくふ漂流ひょうりゅうみん保護ほごたきぎ水食すいしょく給与きゅうよなどを承認しょうにん通商つうしょうについてはけっがたむね回答かいとうした。3月3にち日米にちべい和親わしん条約じょうやく神奈川かながわ条約じょうやく)が締結ていけつされ、日本にっぽんは、下田しもだはこかんの2こう開港かいこうした(1855ねん安政あんせい2ねん下田しもだ条約じょうやく批准ひじゅん)。

日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく

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1855ねん安政あんせい2ねん)、幕府ばくふ朝廷ちょうてい条約じょうやく締結ていけつ事情じじょうえいべいこく各国かっこくとの条約じょうやく締結ていけつ)を具陳ぐちんする。さき条約じょうやく要綱ようこうどおり米国べいこくは、1856ねん安政あんせい3ねん)10がつ21にちちゅうにち総領事そうりょうじハリス下田しもだ来航らいこうさせる。27にちにはハリスが下田しもだ奉行ぶぎょうたいし、通商つうしょう自由じゆう通貨つうか交換こうかん比率ひりつめを要求ようきゅうする。これたい翌年よくねん5がつ26にち下田しもだ条約じょうやく日米にちべい条約じょうやく)を締結ていけつする。その、10月21にちにはハリス、江戸城えどじょう登城とじょうし、将軍しょうぐんべい大統領だいとうりょうピアース親書しんしょ提出ていしゅつすることになる。これたい登城とじょう反対はんたいむねしょ大名だいみょうなどから老中ろうじゅう提出ていしゅつされたようだが結局けっきょく登城とじょうとなった。11月1にちには、この親書しんしょ・ハリスの口上こうじょうしょうつしをしょ大名だいみょうしめし、意見いけんもとめ、しょ大名だいみょう意見いけん上申じょうしん。12月2にち老中ろうじゅう、ハリスをまね通商つうしょう貿易ぼうえき公使こうし江戸えど駐在ちゅうざい許可きょか。11にちには幕府ばくふ全権ぜんけん井上いのうえきよしただし下田しもだ奉行ぶぎょう)、岩瀬いわせ忠震ただなり目付めつけ)とハリスとのあいだ日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく交渉こうしょう開始かいしすることとなる。13にちには幕府ばくふがこの条約じょうやく締結ていけつすべきむね朝廷ちょうていつたえる。1858ねん安政あんせい5ねん)1がつ5にち幕府ばくふ勅許ちょっきょ奏請そうせいのため、条約じょうやく調印ちょういんの60にち延期えんきをハリスにつたえる。8にち堀田ほった正睦まさとし勅許ちょっきょ奏請そうせいのため京都きょうとおもむく(翌日よくじつ参内さんだい)。3月20にち天皇てんのう条約じょうやく調印ちょういん拒否きょひ勅答ちょくとう正睦まさとしあたえる。その幕府ばくふふたた勅書ちょくしょしょ大名だいみょうしめし、意見いけんく。6月19にち井上いのうえ岩瀬いわせりょう神奈川かながわおきポーハタンごうでハリスと日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやくおよ貿易ぼうえき章程しょうてい調印ちょういん。これが(安政あんせいカ国かこく条約じょうやく)の最初さいしょとなる。

12月30にち老中ろうじゅう間部まべ詮勝あきかつ参内さんだい条約じょうやく調印ちょういん了解りょうかい勅諚ちょくじょうける。そして1860ねん安政あんせい7ねん)にはふたつの日本人にっぽんじんグループがアメリカに上陸じょうりくする。1月18にちに、べい特使とくし外国がいこく奉行ぶぎょう新見にいみただしきょうむらかきはんただし目付めつけ小栗おぐり忠順ただまさらポーハタンごう出航しゅっこう万延まんえん元年がんねん(1860ねんだがうるう3がつ改元かいげんされた)うるう3がつ28にちべい大統領だいとうりょうブキャナン会見かいけん条約じょうやく批准ひじゅん。それに先立さきだつ1がつ13にち咸臨丸かんりんまる軍艦ぐんかん奉行ぶぎょう木村きむらあつし軍艦ぐんかんみさおねりしょ教授きょうじゅかつ海舟かいしゅうらが米国べいこくかい2がつ26にちサンフランシスコみなと到着とうちゃくしている。

戦前せんぜん

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ざいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく日本にっぽん公使館こうしかんしるし明治めいじ時代じだい初期しょき

岩倉いわくら使節しせつだん

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積極せっきょくてき関係かんけいむすぼうと、使者ししゃおくってきたり軍艦ぐんかんれてきたりしていたアメリカであったが、日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつ批准ひじゅん下関しものせき戦争せんそうなどの長州ちょうしゅうはん四国しこく艦隊かんたい(アメリカをふくむ)との攻防こうぼうなどはあったが、積極せっきょくてき関係かんけい一時いちじ途絶とだえる。理由りゆうとしては下記かきふたつがげられる。

  1. アメリカ南北戦争なんぼくせんそう(1861ねん~1865ねん
  2. 日本にっぽん明治維新めいじいしん(1868ねん

しかし、この時期じき明治めいじ政府せいふ成立せいりつすると、さき不平等ふびょうどう条約じょうやく撤廃てっぱいしようと日本にっぽんがわうごはじめる。そのだいいちじんてきなものとなるのが、岩倉いわくら使節しせつだんである。岩倉いわくら使節しせつだんのメンバーは岩倉いわくら具視ともみ特命とくめい全権ぜんけん大使たいし大久保おおくぼ利通としみち木戸きど孝允たかよし伊藤いとう博文ひろぶみ山口やまぐちしょうよし副使ふくしとし,多数たすう随員ずいいん留学生りゅうがくせい参加さんか1872ねん3月4にちひる (現地げんち時間じかん)、岩倉いわくら具視ともみべい大統領だいとうりょうグラント謁見えっけんする[5]

条約じょうやく改正かいせい問題もんだい

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1878ねん明治めいじ11ねん)には日米にちべい条約じょうやく協定きょうてい修正しゅうせい日本にっぽん関税かんぜい自主権じしゅけんみとめるやくしょ調印ちょういん批准ひじゅんされるが、施行しこうされなかった。1886ねん明治めいじ19ねん)、外相がいしょう井上いのうえかおる各国かっこく公使こうしだいいちかい条約じょうやく改正かいせい会議かいぎひらくが、不調ふちょうわった。1899ねん明治めいじ32ねん)、日米にちべい通商つうしょう航海こうかい条約じょうやく締結ていけつされ、治外法権ちがいほうけん撤廃てっぱいされた。1911ねん明治めいじ44ねん日米にちべい通商つうしょう航海こうかい条約じょうやく改正かいせいにより関税かんぜい自主権じしゅけん回復かいふくし、不平等ふびょうどう条約じょうやく撤廃てっぱい成功せいこうした。

にち戦争せんそう講和こうわ

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1904ねん明治めいじ37ねん)ににち戦争せんそう勃発ぼっぱつする。日本にっぽんりょう会戦かいせん奉天ほうてん会戦かいせん勝利しょうりし、日本海にほんかい海戦かいせんでも勝利しょうりした。しかし日本にっぽん国力こくりょく限界げんかいちかづいており、日本にっぽんべい大統領だいとうりょうにち講和こうわ友誼ゆうぎてき斡旋あっせん希望きぼうした。これにおうじた大統領だいとうりょうセオドア・ルーズベルト1905ねん明治めいじ38ねん)6がつ9にちにち両国りょうこく講和こうわ勧告かんこく両国りょうこく休戦きゅうせんおうじた。そして講和こうわ会議かいぎニューハンプシャーしゅうポーツマスひらポーツマス条約じょうやく締結ていけつする。しかしこの条約じょうやくには賠償金ばいしょうきん規定きていがなく、戦争せんそうったとかんがえていた日本にっぽん一般いっぱん国民こくみんには不満ふまんおお内容ないようであり、日本にっぽん国内こくないではいたるところで暴動ぼうどうきた(日比谷ひびや事件じけんなど)。

一方いっぽうで、ポーツマス条約じょうやく結果けっか日本にっぽん管理かんりけんあずまきよし鉄道てつどうみなみ満州まんしゅう部分ぶぶんについて、エドワード・ヘンリー・ハリマンとの共同きょうどう経営けいえい約束やくそくされていたが(かつら・ハリマン協定きょうてい)、小村こむら寿太郎じゅたろう外相がいしょう反対はんたいにより日本にっぽん単独たんどく経営けいえいするみなみ満州まんしゅう鉄道てつどうとなった。 1909ねん明治めいじ42ねん)12月にアメリカは鉄道てつどう中立ちゅうりつあん提案ていあんしたが、翌年よくねん1がつにち両国りょうこく正式せいしき反対はんたいし、提案ていあんながれた。講和こうわによって中国ちゅうごくでの権益けんえきることを期待きたいしていたルーズベルトは、これ以降いこう反日はんにち感情かんじょうつよくした。またアメリカの国民こくみんあいだからも人種じんしゅ差別さべつてき黄禍こうかろん急速きゅうそくがり、のちの日米にちべい開戦かいせんへとつながっていくことになる。

日米にちべい関係かんけい急速きゅうそく悪化あっかにより、だいかいにちえい同盟どうめい協約きょうやく日本にっぽんとの同盟どうめい攻守こうしゅ同盟どうめい性格せいかく強化きょうかしたばかりのイギリスは、日米にちべい戦争せんそうまれることをおそはじめた。

1908ねん明治めいじ41ねん)10がつには世界せかい一周いっしゅうおこなっていたアメリカ艦隊かんたいグレート・ホワイト・フリート日本にっぽん寄港きこうした。11月には高平たかひら・ルート協定きょうてい締結ていけつされ、日本にっぽんによる満州まんしゅう朝鮮ちょうせん支配しはいと、アメリカによるフィリピンハワイ支配しはい相互そうご承認しょうにんした。

だいいち世界せかい大戦たいせんからワシントン体制たいせいまで

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1914ねん大正たいしょう3ねん)、日本にっぽんにちえい同盟どうめいによってドイツ帝国ていこく宣戦せんせん布告ふこくする(だいいち世界せかい大戦たいせん)。翌年よくねんには中国ちゅうごくたいたいはな21ヶ条かじょう要求ようきゅう提示ていじする。これにたいし、べい国務こくむ長官ちょうかんブライアン要求ようきゅう一部いちぶ同意どうい覚書おぼえがき日本にっぽんがわ手渡てわたす。終戦しゅうせん間際まぎわ1918ねん大正たいしょう7ねん)にはアメリカが、ロシア革命かくめいによってシベリアのこされたチェコ軍団ぐんだん救援きゅうえんのためウラジオストクへの日米にちべい共同きょうどう出兵しゅっぺい提議ていぎし、シベリア出兵しゅっぺいがはじまった。しかし日米にちべいあいだ連絡れんらくはうまくいっておらず、同年どうねん11がつにはアメリカより日本にっぽんのシベリアへの出兵しゅっぺいすうシベリア鉄道てつどう占領せんりょうけん抗議こうぎけた。

戦後せんご1919ねん大正たいしょう8ねん)、アメリカ大統領だいとうりょうウィルソン提唱ていしょうした理念りねんもとづいてパリ講和こうわ会議かいぎ開催かいさいされる(日本にっぽん全権ぜんけんは、西園寺さいおんじ公望きんもち牧野まきのしんあきらら)。同年どうねん2がつには国際こくさい連盟れんめい規約きやく委員いいんかい日本にっぽん代表だいひょう人種じんしゅてき差別さべつ撤廃てっぱい提案ていあんおこない、半数はんすうえるくに賛成さんせいるものの、ウィルソンが全会ぜんかい一致いっちによる採択さいたく突然とつぜん採用さいようしたため否決ひけつされた。一方いっぽうで5がつには山東さんとうしょうのドイツ利権りけん日本にっぽん継承けいしょうされることが了承りょうしょうされ、また赤道せきどう以北いほくきゅうドイツりょう南洋なんよう諸島しょとう委任いにん統治とうちこく日本にっぽん決定けっていされた。 アメリカは日本にっぽん仮想かそう敵国てきこくとみなすようになり、日本にっぽん山東さんとうしょう利権りけん反対はんたいして、アメリカの上院じょういんはヴェルサイユ条約じょうやく批准ひじゅん拒否きょひした。そうしてイギリスをんでにちえい同盟どうめい破棄はきさせ、日本にっぽん戦略せんりゃく開始かいしした。

翌年よくねん中国ちゅうごく借款しゃっかんにちえいべいふつ成功せいこうさせる。1921ねん大正たいしょう10ねん)にはワシントン会議かいぎひらかれ、日本にっぽん・アメリカをふくきゅうヶ国かこく出席しゅっせきした。そのなかで、よんカ国かこく条約じょうやくきゅうカ国かこく条約じょうやくなどをそれぞれ締結ていけつした。その結果けっか、1923ねんにちえい同盟どうめい解消かいしょうされた。

よく1924ねん7がつ1にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく排日はいにち移民いみんほう施行しこうされる。このころから次第しだいに、日本にっぽん反米はんべい感情かんじょうたかまった。

世界せかい恐慌きょうこうからだい世界せかい大戦たいせんまで

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1929ねん昭和しょうわ4ねん)10がつ、アメリカで世界せかい恐慌きょうこうこる。翌年よくねんには日本にっぽんにも影響えいきょう波及はきゅう多大ただい影響えいきょう生糸きいとなどの価格かかく崩落ほうらくした。このきょう状態じょうたい1932ねん昭和しょうわ7ねん)ごろまでつづく。1936ねん昭和しょうわ11ねん)に日本にっぽんだいロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく会議かいぎから脱退だったいし、12月にワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく失効しっこうしたことで両国りょうこく軍縮ぐんしゅく協力きょうりょく関係かんけいわった。1937ねん昭和しょうわ12ねん)からはじまったにちちゅう戦争せんそうはさらに日米にちべい関係かんけい悪化あっかさせ、10月25にちにはフランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょう防疫ぼうえき演説えんぜつ(en:Quarantine Speech)をおこない、日本にっぽん侵略しんりゃくこくであると批難ひなんした。また12月12にちにアメリカの砲艦ほうかんパナイごうが、長江ながえ航行こうこうちゅう日本にっぽんぐん爆撃ばくげきによって沈没ちんぼつしたことはアメリカの反日はんにち感情かんじょうおおきく悪化あっかさせた(パナイごう事件じけん)。1939ねん昭和しょうわ14ねん)7がつ26にちにアメリカが日米にちべい通商つうしょう航海こうかい条約じょうやく廃棄はいき通告つうこくし、1940ねん昭和しょうわ15ねん)1がつ26にち失効しっこうしたことで日米にちべい関係かんけい開国かいこく以来いらいの「条約じょうやく時代じだい」に突入とつにゅうした。7月22にち大本営だいほんえい政府せいふ連絡れんらく会議かいぎで「たいべい戦争せんそう」を考慮こうりょれた「世界せかい情勢じょうせい推移すいいとも時局じきょく処理しょり要綱ようこう」が採択さいたくされた。9月にはドイツのポーランド侵攻しんこうによりだい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつし、両国りょうこく関係かんけいはいよいよ微妙びみょうとなっていった。1940ねん昭和しょうわ15ねん)にはアメリカから密使みっしおくられ「日米にちべい諒解りょうかいあん」の調整ちょうせいはじまった。しかしフランスりょうインドシナ北部ほくぶへの進駐しんちゅうふつしるし進駐しんちゅう)や9がつ27にち締結ていけつされた にちどくさんこく同盟どうめいはアメリカをさらに刺激しげきした。

1941ねん昭和しょうわ16ねん)2がつから駐米ちゅうべい大使たいしとして野村のむら吉三郎きちさぶろう赴任ふにんし、日米にちべい関係かんけい調整ちょうせいはいった。懸案けんあんとなったのはにちちゅう戦争せんそう和平わへい問題もんだい中国ちゅうごく大陸たいりくからの撤兵てっぺい問題もんだいさんこく同盟どうめい問題もんだい満州まんしゅうこく問題もんだいなどであったが、4がつには日米にちべい諒解りょうかいあんもとづく合意ごうい出来できつつあった。しかしさんこく同盟どうめい主唱しゅしょうしゃであった松岡まつおか洋右ようすけ外相がいしょう反対はんたいして一旦いったん交渉こうしょう白紙はくしもどった。その交渉こうしょう再開さいかいされたが、南進なんしんろんもとづく南部なんぶフランスりょうインドシナやオランダりょうひがしインドへの進駐しんちゅう計画けいかくはさらにアメリカを刺激しげきし、7がつ25にちにはざいべい日本にっぽん資産しさん凍結とうけつ、8がつには「日本にっぽんふくすべての侵略しんりゃくこく」 への石油せきゆ禁輸きんゆった。日本にっぽんがわたいべい交渉こうしょう前途ぜんと危惧きぐし、徐々じょじょたいべい戦争せんそう準備じゅんび開始かいしした。11月27にちコーデル・ハル国務こくむ長官ちょうかんからわたされたあん(いわゆるハル・ノート)を日本にっぽんがわは「最後さいご通牒つうちょう」としてり、たいべいせん決意けついした。

12月8にち日本にっぽんはハワイの真珠湾しんじゅわん軍港ぐんこう攻撃こうげきし(真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき)、アメリカ・イギリス・オランダに宣戦せんせん布告ふこくした。さんこく同盟どうめい締結ていけつしていたドイツやイタリアも追随ついずいしてアメリカに宣戦せんせんだい世界せかい大戦たいせんはアジア・太平洋たいへいよう地域ちいきふくだい規模きぼなものとなった。当初とうしょ日本にっぽんすすんでいたものの、圧倒的あっとうてき工業こうぎょうりょく軍艦ぐんかん戦車せんしゃととのえたアメリカは攻勢こうせいる。開戦かいせん翌年よくねんミッドウェー海戦かいせん敗退はいたいガダルカナルとう陥落かんらくつづ日本にっぽん圧倒的あっとうてき不利ふり状態じょうたいおちいっていく。そして1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ6にち、アメリカぐんによる広島ひろしまへの原爆げんばく投下とうか8がつ9にち長崎ながさきへの原爆げんばく投下とうかて、ついに日本にっぽん政府せいふ8がつ14にちポツダム宣言せんげん受諾じゅだく決定けっていした。9月2にち降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめいし(日本にっぽん降伏ごうぶく)、戦争せんそう終結しゅうけつした。

戦後せんご

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べいぐんによる日本にっぽん占領せんりょう

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べいぐん占領せんりょう終結しゅうけつから冷戦れいせん終結しゅうけつまで

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冷戦れいせん終結しゅうけつ

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日系にっけい移民いみん問題もんだい

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1906ねん明治めいじ39ねん)、サンフランシスコ学務がくむきょくが、日本人にっぽんじん学童がくどう隔離かくり命令めいれいした。これは排日はいにち移民いみん行動こうどうなるものの皮切かわきりとわれる。この行動こうどうには当時とうじセオドア・ルーズベルト大統領だいとうりょうによる異例いれい介入かいにゅうがあった。

関連かんれん項目こうもく

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出典しゅってん

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  1. ^ K. Jack Bauer, A Maritime History of the United States: The Role of America's Seas and Waterways, University of South Carolina Press, 1988., p. 57
  2. ^ 東京とうきょう江戸えど東京とうきょう博物館はくぶつかん1999ねん発行はっこう日米にちべい交流こうりゅうのあけぼの‐黒船くろふねきたる‐」
  3. ^ Asia Society of Japan, Long lecture Archived 2008ねん3がつ25にち, at the Wayback Machine..
  4. ^ ELLIOT GRIFFIS (1905ねん8がつ6にち). “Edmund Roberts, Our First Envoy to Japan”. New York Timex. 2010ねん1がつ28にち閲覧えつらん
  5. ^ “The Japanese Embassy. Official Reception by the President Yesterday—Speech of the Chief of the Embassy and Reply by President Grant—Purposes of the Japanese Government—Studying the Civilization of Western Nations. WASHINGTON, D.C., March 4”. The New York Times. (5 Mar. 1872). “At noon today the principal members of the Japanese Embassy, ten in number, were officially presented to the President of the United States. (...)”

参考さんこう文献ぶんけん

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