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音吉おときち

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音吉おときち(おときち 英語えいご: John Mathew Ottoson文政ぶんせい2ねん1819ねん) - 慶応けいおう3ねん1867ねん1がつ18にち)は、江戸えど時代じだい水主みずし漂流ひょうりゅうみん[1]のちにはジョン・マシュー・オトソン英語えいご: John Matthew Ottoson)と名乗なのった。乙吉おときちともしるされる。山本やまもと音吉おときちとも。ロンドンはじめて上陸じょうりくした日本人にっぽんじん1835ねん)とされ、マカオ[2]現存げんそんする最古さいことされる日本語にほんごやく聖書せいしょ編纂へんさん関係かんけいし、モリソンごう事件じけんでは漂流ひょうりゅうみんとしてふねり、上海しゃんはいデント商会しょうかい英語えいごばんつとめた。1849ねんのイギリスせんマリナーごう浦賀うらが来航らいこうさいし、中国人ちゅうごくじんはやしおもね」(リン・アトウ)と名乗なの通訳つうやくとして同行どうこうし、さら1854ねんにちえい和親わしん条約じょうやく締結ていけつさい通訳つうやくとしてイギリスがわ同行どうこうした。また、はじめてイギリスに帰化きかした日本人にっぽんじんとされており[3][4][5]、ほぼ地球ちきゅう一周いっしゅうした。

略歴りゃくれき

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音吉おときち肖像しょうぞう、1849ねん中国ちゅうごくから日本にっぽん来航らいこうしたさいのもの

漂流ひょうりゅう

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1819ねん文政ぶんせい2ねん尾張おわりこく知多ちたぐん小野浦おのうらげん愛知あいちけん知多ちたぐん美浜みはままち)にまれる。 1832ねん天保てんぽう3ねん)10がつべい陶器とうきんだたからじゅんまる船頭せんどう樋口ひぐちしげるみぎ衛門えもん)が江戸えどけて鳥羽とば出航しゅっこう乗組のりくみいん船頭せんどう以下いか13めい)したが、途中とちゅう遠州灘えんしゅうなだ暴風ぼうふう難破なんぱ漂流ひょうりゅうした。14ヶ月かげつあいだ太平洋たいへいよう彷徨ほうこうったすえ、ようやく陸地りくち漂着ひょうちゃくしたときには、生存せいぞんしゃ音吉おときちふく岩吉いわきち旧姓きゅうせい岩松いわまつ尾張おわりこく愛知あいちぐん熱田あつたげん名古屋なごや熱田あつた出身しゅっしん)、久吉ひさよしの3めいのみであった[注釈ちゅうしゃく 1]のこりの乗組のりくみいん壊血病かいけつびょうなどでくなった。

救助きゅうじょ

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アメリカ太平洋たいへいようきしオリンピック半島はんとうフラッタリーみさき付近ふきんにたどりいたかれらは、現地げんちアメリカ・インディアンマカーぞく)に救助きゅうじょされる。音吉おときちの「さかえ力丸りきまる漂流ひょうりゅう」の記述きじゅつから、エスキモーだったというせつもある[7]

しかし、インディアンはかれらを善意ぜんいたすけたわけではなく、のち奴隷どれいとしてこき使つかった。さらにはイギリスふねばし、わりに金品きんぴんた。イギリスせんハドソンわん会社かいしゃせんラーマごうで、オレゴン・カントリーアストリアとりで英語えいごばんげんオレゴンしゅうアストリア)におくられた。3にん救助きゅうじょした情報じょうほうはただちにロンドンへとどけられる。そこで、3にん日本にっぽんすためマカオきのゼネラル・パーマーごうせることにした。途中とちゅうロンドンいたかれらはテムズがわ10日とおかあいだ船上せんじょうにとどまっていたが、ゆるされて1にちロンドン見学けんがくおこなっている。かれらが確実かくじつ記録きろくのこっているなかでは、イギリスの最初さいしょ上陸じょうりくした日本人にっぽんじんであった[注釈ちゅうしゃく 2]

帰国きこく失敗しっぱい

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1835ねん12月、ゼネラル・パーマーごうはマカオにく。イギリス貿易ぼうえき監督かんとくちょうつうじ、3にんはドイツじん宣教師せんきょうしでイギリス貿易ぼうえき監督かんとくちょう通訳つうやくかんチャールズ・ギュツラフあづけられる[8]。そして音吉おときちら3にんはチャールズ・ギュツラフと協力きょうりょくし、現存げんそんする世界せかいはつ日本語にほんごやく聖書せいしょギュツラフやく聖書せいしょ」を完成かんせいさせる[9][13]。3にん日本にっぽんへの帰国きこく切望せつぼうしていたという[9]。このため、3にん当初とうしょ、キリストきょう禁教きんきょうしていた日本にっぽん状況じょうきょうかんがえ「帰国きこくどんなおとがめ(とがめ)があるかかりません」と、聖書せいしょ翻訳ほんやく拒否きょひしていたという[14]

その1837ねん3月、九州きゅうしゅう出身しゅっしん漂流ひょうりゅうみんである庄蔵しょうぞう寿ことぶき三郎さぶろう熊太郎くまたろう力松りきまつら4にんが、マニラからスペインせんでマカオにとどけられ、異国いこく同胞どうほうたちと対面たいめんした。同年どうねん7がつ4にち、アメリカ商社しょうしゃオリファント商会しょうかい英語えいごばん商船しょうせんモリソンごうって、合流ごうりゅうした4にんふくむ7にんがマカオをはなれ、琉球りゅうきゅう出発しゅっぱつし、江戸えどかった[17]

7がつ30にち同船どうせん三浦半島みうらはんとう城ヶ島じょうがしま南方なんぽうたっしたとき、予期よきせぬ砲撃ほうげきにさらされる。敵対てきたいてきだとかると鹿児島かごしまむかい、ここで日本人にっぽんじん船員せんいん日本にっぽんがわ接触せっしょくしたもののふたた砲撃ほうげきにあい、8がつ13にちかえ決定けっていをし、8がつ19にちにマカオにもどる。これがモリソンごう事件じけんである。当時とうじ日本にっぽんにはイギリスをはじめとする外国がいこくせん頻繁ひんぱん来航らいこうしており、これらのなかには許可きょかでの上陸じょうりく暴行ぼうこう事件じけんこすものもあり、とくフェートンごう事件じけん以降いこう江戸えど幕府ばくふ異国いこくせんはらいれい発令はつれいし、日本にっぽん沿岸えんがん接近せっきんする外国がいこくせんつけ次第しだい砲撃ほうげきしてかえすという強硬きょうこう姿勢しせいをとっていた。モリソンごうもイギリスの軍艦ぐんかん誤認ごにんされて砲撃ほうげきされたのである。のちにモリソンごう軍艦ぐんかんではなく武装ぶそう商船しょうせんであり、さらに日本人にっぽんじん漂流ひょうりゅうみんをわざわざおくとどけにたことが『オランダ風説ふうせつしょ』によって判明はんめいすると、この事件じけん触発しょくはつされて渡辺わたなべ崋山かざん高野たかの長英ちょうえいらが幕府ばくふ政策せいさく批判ひはんする著書ちょしょしるし、幕府ばくふによって逮捕たいほされる蛮社のごくこる。

上海しゃんはいでの成功せいこう

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結局けっきょくモリソンごうは、通商つうしょうはもとより漂流ひょうりゅうみんたちの返還へんかんもできず、マカオにもどった。音吉おときち1838ねん天保てんぽう9ねん)、ローマンごうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくった可能かのうせいがある[18]。その音吉おときち上海しゃんはいわたり、阿片あへん戦争せんそう英国えいこくへいとして従軍じゅうぐんする[3](していないというせつもある[20])。そのデント商会しょうかい英語えいごばんきよしめいたからじゅん洋行ようこう英名えいめいDent & Beale Company)につとめた。おなごろおなじデント商会しょうかいはたらくイギリスじん女性じょせい不明ふめい)と初婚しょこんをしている。この最初さいしょつまとのあいだにはむすめメアリーがまれたが4さい9ヶ月かげつよう逝、つまもその他界たかいしている。このむすめメアリーのはかは、晩年ばんねん音吉おときちまいとしたシンガポールのこっている[よう出典しゅってん]

その1849ねんよしみなが2ねん)4がつ8にちイギリスひがしインド会社かいしゃ艦隊かんたい帆船はんせんマリナーごう浦賀うらが来航らいこうした。これに音吉おときち通訳つうやくとして同行どうこうするが、中国人ちゅうごくじんはやしおもね」と名乗なのった。1853ねんには、アメリカのペリー艦隊かんたい同行どうこう予定よていだった日本人にっぽんじん漂流ひょうりゅうみんせん太郎たろうさかえ力丸りきまる船員せんいん)の脱走だっそう手引てびきし、のち清国きよくにせん日本にっぽんへと帰国きこくさせている。また、1854ねん9月にイギリス極東きょくとう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんスターリング長崎ながさきにちえい交渉こうしょう開始かいししたとき、再度さいど来日らいにち通訳つうやくつとめた[9]。また、このとき福沢ふくさわ諭吉ゆきちなどと出会であっている。このとき音吉おときちには長崎ながさき奉行ぶぎょうから帰国きこくさそいがあったが、すで上海しゃんはい地盤じばんかためていた音吉おときちことわっている[よう出典しゅってん]

そのスコットランドけい両親りょうしんつシンガポール出身しゅっしん女性じょせいで、デント商会しょうかい同僚どうりょうであったルイーザと再婚さいこんする[21]。この2度目どめつまとのあいだには、1なん2じょをなす。このころ音吉おときち上海しゃんはいでは、太平たいへい天国てんごくらんなどにより、混乱こんらんはじまりつつあった。

晩年ばんねん

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1862ねん文久ぶんきゅう2ねん)はじめ、音吉おときち上海しゃんはいはなれてつまルイーザの故郷こきょうシンガポール移住いじゅうし、その幕府ばくふ文久ぶんきゅうおう使節しせつ通訳つうやく森山もりやま栄之助えいのすけらにっている。この使節しせつだんには福沢ふくさわ諭吉ゆきち参加さんかしており、再会さいかいたす。音吉おときち清国きよくに状況じょうきょうなどを福沢ふくさわたちに説明せつめいしており、これらの記録きろく福澤ふくさわあらわした「西にしこう」にのこっている。1864ねん日本人にっぽんじんとしてはじめてイギリスに帰化きかしてジョン・マシュー・オトソン名乗なのる。

1867ねん慶応けいおう3ねん)、自分じぶん名代なだい(みょうだい)で日本にっぽんかえってしいと息子むすこ遺言ゆいごんした音吉おときちは、シンガポールにて病死びょうしした。享年きょうねん49。日本にっぽん元号げんごうが「明治めいじ」になる1ねんまえであった。

死後しご

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息子むすこのジョン・ウィリアム・オトソン英語えいご: John William Ottoson1879ねん明治めいじ12ねん)に日本にっぽんかえり、横浜よこはま日本人にっぽんじん女性じょせい結婚けっこんすると、「山本やまもと音吉おときち」を名乗なのり、日本にっぽん国籍こくせき取得しゅとくした[22][23]山本やまもと音吉おときちはその妻子さいしとも台湾たいわんわたり、1926ねん8がつ台北たいぺい死去しきょしている。

音吉おときちのシンガポールでの埋葬まいそうのち記録きろく確認かくにんされるが、1970ねん都市とし開発かいはつのため墓地ぼち全体ぜんたい改葬かいそうされたことから、その捜索そうさく難航なんこうした。2004ねんになってようやくはか発見はっけんされ、遺骨いこつ発掘はっくつ成功せいこうする。遺骨いこつ荼毘だびされてシンガポール日本人にっぽんじん墓地ぼち公園こうえん安置あんちされ、一部いちぶよく2005ねん音吉おときち顕彰けんしょうかい会長かいちょう美浜みはま町長ちょうちょう(1991ねん - 2007ねん)の斉藤さいとう宏一こういちらのによって、漂流ひょうりゅうからじつに173ねんぶりに、祖国そこく日本にっぽんもどることになる。現在げんざい遺骨いこつ美浜みはままち音吉おときちいえはかと、りょうまいりてらたからじゅんまる乗組のりくみいんはかおさめられている[よう出典しゅってん]

家族かぞく

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最初さいしょつまは、マカオで宣教せんきょうをしたスコットランドじんであった。2番目ばんめつまは、上海しゃんはい同僚どうりょう同士どうしのドイツけいとマレーけい両親りょうしんつシンガポールじんルイサ・ベルカー(Louisa Belder)。子供こども息子むすこのジョン・W のほかに、むすめが3にんあり、うちEmily Louisa は4さいよう[3]した。また「天竺てんじくおんな」とされるシンガポール出身しゅっしんつまと、おとこ2にんおんな1にんをもうけたとするせつ[24]もある。美浜みはままちらしたいもうと子孫しそん旅館りょかん経営けいえいしている[よう出典しゅってん]

顕彰けんしょう活動かつどう

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バンクーバーとりで歴史れきし公園こうえん三吉みよし記念きねん

音吉おときち出身しゅっしんである美浜みはままちでは、音吉おときち功績こうせきひろ世界せかいらせ、まち活性かっせいはかろうとしたまちおこしおこなわれている。

1956ねん音吉おときち岩吉いわきち久吉ひさよしら3にんの頌徳記念きねん美浜みはままちてられ[25]1961ねん[疑問ぎもんてん]以来いらい同町どうちょう日本にっぽん聖書せいしょ協会きょうかい毎年まいとし、「聖書せいしょ和訳わやく頌徳記念きねん式典しきてん」をおこなっている。同年どうねんおこなわれただい1かい式典しきてんには、当時とうじのドイツ大使たいし夫妻ふさい愛知あいち県知事けんちじ桑原くわばらみき名古屋鉄道なごやてつどう社長しゃちょうら300にん参列さんれつした。

1992ねんには「にっぽん音吉おときちトライアスロン in 知多ちた美浜みはま」がはつ開催かいさいされ、音吉おときち顕彰けんしょう事業じぎょう本格ほんかくした。音吉おときち人生じんせいえがいた音楽おんがくげき「にっぽん音吉おときち物語ものがたり」が翌年よくねん同町どうちょうはつ公演こうえんされ、以後いごシンガポールやアメリカ(ワシントンしゅう、ハワイしゅう)、イギリス(ロンドン、バンガー)など音吉おときちゆかりのでも公演こうえんされる。2014ねんはる、「シアトルさくらまつり」にNPO「知多ちたから世界せかいへ」から70にん参加さんかし、音吉おときちのミュージカルも披露ひろうされた[26]知多半島ちたはんとう同市どうし航空こうくう産業さんぎょうむすばれ、ボーイング787つばさ胴体どうたい毎週まいしゅう中部ちゅうぶ国際こくさい空港くうこうセントレア経由けいゆボーイング工場こうじょうおくしている[26]

オレゴンしゅうワシントンしゅうさかいちかバンクーバーはかつての交易こうえきバンクーバーとりで英語えいごばん再現さいげんして国定こくてい史跡しせき指定していいちかく三吉みよし記念きねん英語えいごばんてられた(北緯ほくい4537ふん35.1びょう 西経せいけい12239ふん25.5びょう / 北緯ほくい45.626417 西経せいけい122.657083 / 45.626417; -122.657083)。

音吉おときち題材だいざいとした書籍しょせき映画えいが

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発表はっぴょうじゅん

  • 小栗おぐり 重吉しげよししゅう名古屋なごや紺屋こんやまち小嶋おしましょうみぎ衛門えもんせん千二百石積督乗丸難舩之始末』[奥平おくだいら] [うつし]、1816ねんNCID BB26831765
    • 責任せきにん表示ひょうじは『日本にっぽん北辺ほくへん関係かんけい旧記きゅうき目録もくろく』(北海道大学ほっかいどうだいがく附属ふぞく図書館としょかん、1990ねん)による。
    • とびら書名しょめいしゅう名古屋なごや紺屋こんやまち小嶋おしましょうみぎ衛門えもん舩千弐百石積督乗丸難舩之始末』。とびら題簽だいせんに「文化ぶんかじゅうさんねん」、とびらに「はちじゅうきゅう」とあり[注釈ちゅうしゃく 3]
  • 沖田おきたはじめ「J・M・Ottosonのこと--日本にっぽんえいがくいち断面だんめん」『英語えいご青年せいねんだい123かん5ごうつうごう1542)、研究けんきゅうしゃ、1977ねん8がつ、202-203ぺーじdoi:10.11501/44354国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん書誌しょしID:2073-d4435446。「J.M. Ottoson のJ.は John だということになる。つまり澳門まかおにいたとき洗礼せんれいけてJ.M.とつけられたのだろう。」 
  • にっぽん音吉おときち漂流ひょうりゅう. 晶文社しょうぶんしゃ. (1979). doi:10.11501/12286106 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん書誌しょしID:1411533ISBN 4794959362文庫ぶんこばん、1988ねんISBN 4122015685[27]
  • 沖田おきたはじめぞく J・M・Ottosonのこと--日本にっぽんえいがくいち断面だんめん」『英語えいご青年せいねん』125かんだい10ごうつうごう1571)、研究けんきゅうしゃ、1980ねん1がつdoi:10.11501/4435475国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん書誌しょしID:2073-d4435475ISSN 0287-2706
  • 映画えいが海嶺かいれい』1983ねんさだながかたひさし (監督かんとく)[33]
  • 法政大学ほうせいだいがく社会学部しゃかいがくぶ学会がっかい へん「A Japanese Castaway called "Ottoson"」『社会しゃかいこころざしりん』51かんだい1ごうつうごう 179)-どうまきだい4ごうつうごう 182)国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん書誌しょしID:383307修正しゅうせいばん180ども/べつつづり180)法政大学ほうせいだいがく社会学部しゃかいがくぶ学会がっかい、2004ねん-2005ねん
  • 英訳えいやくばん)"Global Drifters: The Lives of Japanese Sailors Forbidden to Return Home", Jin Ōmori, Maki Higashida, Akio Tayaちょ、Sachiko Tanakaやく、Otokichi Associationかん, 2008ねん
  • 浜島はまじま さとし ぶん『ギュツラフさんのおてつだいをしたおときちさん』りかねだ (22世紀せいきアート〈絵本えほん聖書せいしょ翻訳ほんやく人物じんぶつでんシリーズ ; 16〉、2023ねん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん書誌しょしID:33173022ISBN 978-4-86785-128-9
  • 三浦みうら綾子あやこ原作げんさく)、勝間かつまとしを作画さくが)、かつまかずえ構成こうせい)『漫画まんが海嶺かいれい ―3きち漂流ひょうりゅう物語ものがたり』2017ねんISBN 4264033977
  • 篠田しのだ泰之やすゆき音吉おときちでん : られざる幕末ばくまつ救世主きゅうせいしゅ』(しんかん出版しゅっぱん、2020ねん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん書誌しょしID:30477312ISBN 978-4-8237-1024-7

参考さんこう文献ぶんけん

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おも執筆しっぴつしゃせいの50おとじゅん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 音吉おときち岩吉いわきち久吉ひさよしの3めいを「三吉さんきち」(さんきち)とんでいた[6]
  2. ^ 日本人にっぽんじんとして最初さいしょ世界せかい一周いっしゅうをしたわか宮丸みやまる太夫たゆうら4にんがイギリスのファルマスよりこうしているが、上陸じょうりくゆるされていなかったので、音吉おときちら3にん最初さいしょにイギリスへ上陸じょうりくした日本人にっぽんじんとなる。
  3. ^ 文化ぶんか10ねん10がつ伊豆いずおき暴風ぼうふうい1ねん4ヵ月かげつ漂流ひょうりゅうののち英国えいこくせん救助きゅうじょされ薩摩さつまの「永寿えいじゅまる」の乗組のりくみいんらとともにロシアせん帰国きこくした「とくじょうまる船頭せんどうちょうみぎ衛門えもん重吉しげよし)と水主みずし音吉おときち口書くちがきおなじく薩州せん永寿えいじゅまる船頭せんどうさん左衛門さえもんら3にんさるこうふくむ。もと桑名くわな藩士はんし奥平おくだいらさだもり (勝馬かつま) きゅうぞう資料しりょう

出典しゅってん

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  1. ^ 齋藤さいとう 2017, 「解説かいせつ : 福澤ふくさわたアジア――シンガポールと漂流ひょうりゅうじん音吉おときち」(福澤ふくさわ諭吉ゆきち世界せかいこくつき』より)。
  2. ^ 沖田おきた, pp. 202–203
  3. ^ a b c Yamamoto Otokichi”. アーカイブ. Singapore Infopedia. 2020ねん5がつ11にち閲覧えつらん
  4. ^ 春名はるな 1979, p. 293, 『にっぽん音吉おときち漂流ひょうりゅう上海しゃんはいの「租借そしゃく名簿めいぼ」に名前なまえ記載きさいがある。
  5. ^ 美浜みはままち偉人いじんについて 山本やまもと音吉おときちとは : ~知多ちたうみから世界せかいうみへ~”. 美浜みはままち (2019ねん8がつ8にち). 2021ねん3がつ26にち閲覧えつらん
  6. ^ 山口やまぐち 2017, 「『三吉さんきち』との接点せってんめぐるミステリー」
  7. ^ 春名はるな 1979, p. 39, 「さかえ力丸りきまる漂流ひょうりゅう
  8. ^ 山本やまもと 1926, pp. 40-, 「よん 日本にっぽん漂流ひょうりゅうじんとグツツラフ」
  9. ^ a b c 現存げんそんする最古さいこ和訳わやく聖書せいしょ翻訳ほんやく尽力じんりょく 音吉おときち銅像どうぞう故郷こきょう美浜みはままち建立こんりゅうへ”. クリスチャントゥデイ. (2018ねん3がつ3にち). http://www.christiantoday.co.jp/articles/25070/20180115/statue-of-otokichi-mihama-cho.htm 2018ねん3がつ14にち閲覧えつらん 
  10. ^ 久田ひさた 2021, 「だい1 音吉おときち聖書せいしょいたみち
  11. ^ 久田ひさた
  12. ^ 久田ひさた 2021, 「だい3 音吉おときち聖書せいしょ読解どっかい
  13. ^ 音吉おときち生涯しょうがい(1819‐1867);音吉おときち研究けんきゅう経過けいか音吉おときち聖書せいしょ」(『音吉おときち表現ひょうげんのギュツラフやく聖書せいしょ』)をまえ[10])、音吉おときち聖書せいしょ現代げんだいやく[11]ヨハネでん要約ようやく;ヨハネでん哲学てつがくよみ;宗教しゅうきょう哲学てつがく音吉おときち哲学てつがく思想しそう陶冶とうや物語ものがたり[12]
  14. ^ “ヘボンと日本語にほんごやく聖書せいしょ誕生たんじょう物語ものがたり(1)プロローグ―漂流ひょうりゅうする聖書せいしょ. クリスチャントゥデイ. (2018ねん4がつ4にち). http://www.christiantoday.co.jp/articles/25395/20180404/james-curtis-hepburn-1.htm 2018ねん4がつ21にち閲覧えつらん 
  15. ^ 山本やまもと 1926, pp. 46-, 「 日本にっぽん漂流ひょうりゅうみんとモリソンごう使命しめい
  16. ^ 山本やまもと 1926, pp. 52-, 「ろく モリソンごう失敗しっぱい日本にっぽん漂流ひょうりゅうみん行衛ゆくえ
  17. ^ [15][16]
  18. ^ 春名はるな 1979, p. 172
  19. ^ 春名はるな 1979, p. 172
  20. ^ シンガポールでおう使節しせつたいして、戦争せんそう参加さんかすること14かい[19]べた。
  21. ^ 音吉おときち顕彰けんしょうかいからのおらせ - ウェイバックマシン
  22. ^ 山本やまもと音吉おときち「140ねんまえのご厚意こうい感謝かんしゃ」: 愛知あいち顕彰けんしょうかい倉敷くらしききゅう野崎のさき訪問ほうもんへ 長男ちょうなん日本にっぽん国籍こくせき取得しゅとく支援しえん」『毎日新聞まいにちしんぶん』2016ねん11月22にち
  23. ^ 山本やまもと音吉おときち 長男ちょうなん日本にっぽん国籍こくせき取得しゅとく支援しえん : 140ねんまえ感謝かんしゃつたえ 愛知あいち顕彰けんしょうかい倉敷くらしき訪問ほうもん」『』毎日新聞まいにちしんぶん岡山おかやま、2016ねん12月1にち
  24. ^ 春名はるな 1979, p. 288
  25. ^ 。「[げん小野浦おのうら海岸かいがん県道けんどう東側ひがしがわ若宮わかみや八幡前はちまんまえにある(美浜みはままち小野浦おのうら)。日本にっぽん聖書せいしょ協会きょうかいが1956ねん昭和しょうわ31ねん建設けんせつ。」 いわきちひさきちおときちしょうとくきねんひ。
  26. ^ a b 楠瀬くすのせ明子あきこ、Tokunaga, Kenji「180ねんまえ漂着ひょうちゃくしゃたち」『新報しんぽう』2014ねん3がつ14にち2024ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  27. ^ デジタル大辞泉だいじせんプラス『にっぽん音吉おときち漂流ひょうりゅう』 - コトバンク
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関連かんれん項目こうもく

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50おとじゅん

漂流ひょうりゅうしゃ

外部がいぶリンク

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