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桑原くわばらみき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
桑原くわばら みき
くわはら みきね
生年月日せいねんがっぴ 1895ねん8がつ29にち
出生しゅっしょう 山梨やまなしけん南都留みなみつるぐん明見みょうけんむら
きゅう明見みょうけんまちげん富士吉田ふじよしだ
ぼつ年月日ねんがっぴ (1991-04-11) 1991ねん4がつ11にち(95さいぼつ
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ
所属しょぞく政党せいとう 無所属むしょぞく
称号しょうごう 勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう

愛知県の旗 公選こうせんだい2-7だい 愛知あいち県知事けんちじ
当選とうせん回数かいすう 6かい
在任ざいにん期間きかん 1951ねん5月11にち - 1955ねん1がつ17にち
1955ねん2がつ15にち - 1975ねん2がつ14にち

愛知県の旗 愛知あいち県知事けんちじ官選かんせん
当選とうせん回数かいすう 1かい
在任ざいにん期間きかん 1946ねん7がつ9にち - 1947ねん3月5にち
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桑原くわばら みき(くわはら みきね、1895ねん8がつ29にち - 1991ねん4がつ11にち[1])は、日本にっぽん政治せいじ内務ないむ官僚かんりょう[1]。1946ねん官選かんせん愛知あいち県知事けんちじにんじられ、公職こうしょく追放ついほうされたのち公選こうせん当選とうせんし、どう知事ちじを624ねんにわたってつとめた[1]。1987ねん愛知あいちけん名誉めいよ県民けんみん[2][1]勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう受章じゅしょう[1]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

山梨やまなしけん南都留みなみつるぐん明見みょうけんむらのち明見みょうけんまちて、げん富士吉田ふじよしだ)で養蚕ようさん農家のうかななおとことしてまれた。あに大審院だいしんいん判事はんじつとめた桑原くわばらりゅうきょう[3]山梨やまなしけんだいいち中学校ちゅうがっこう都留つる分校ぶんこうげん山梨やまなし県立けんりつ都留つる高等こうとう学校がっこう)、旧制きゅうせい第一高等学校だいちこうとうがっこうから東京とうきょう帝國ていこく大学だいがくげん東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶて、内務省ないむしょう入省にゅうしょう1935ねん福島ふくしまけん書記官しょきかん経済けいざい部長ぶちょう同年どうねん内閣ないかく東北とうほく振興しんこう事務じむきょく書記官しょきかん就任しゅうにん1936ねん内閣ないかく東北とうほく局長きょくちょう就任しゅうにん

日本にっぽん商工しょうこう会議かいぎしょ東京商工会議所とうきょうしょうこうかいぎしょ専務せんむ理事りじつとめていた1941ねん8がつ東北とうほく興業こうぎょう株式会社かぶしきがいしゃふく総裁そうさい選任せんにんされる[4]

1945ねん4がつ東北とうほく興業こうぎょう総裁そうさい就任しゅうにん同年どうねん7がつ10日とおか仙台せんだい空襲くうしゅうにより東北とうほく興業こうぎょう本社ほんしゃ焼失しょうしつ終戦しゅうせん詔書しょうしょ役員やくいんりょうはちじょうあいだいた桑原くわばらは、雨戸あまどめて、くらくなった部屋へやで4、5日間にちかんひとりでじこもっていたという。「ペンをってなにかをこうとしましたが、くことは出来できません」「しんそこかなしみは簡単かんたんにはえませんね」とのちに回顧かいころくべている[5]

官選かんせん愛知あいち県知事けんちじ就任しゅうにん[編集へんしゅう]

官界かんかいから決心けっしんをし、後任こうにんめて1946ねん6月30にち株主かぶぬし総会そうかい総裁そうさい辞職じしょく。7がつはじめ、東京とうきょう渋谷しぶやのこった自宅じたくげる。山形やまがたけん天童てんどう温泉おんせん疎開そかいしていた家族かぞく東京とうきょうもどり、再会さいかいたした。7月7にちよる自宅じたくかえると当時とうじ内務ないむ次官じかんだった飯沼いいぬまいちしょうっていた。愛知あいち県知事けんちじ早川はやかわ三郎さぶろう公職こうしょく追放ついほうけたため、後任こうにんとして桑原くわばらがったというはなしであった。翌日よくじつ飯沼いいぬまことわりの返事へんじをするも、「たくさんの先輩せんぱい同僚どうりょうたちが次々つぎつぎ追放ついほうされた。あとにのこされたものの義務ぎむとしてなおしをしなければならない」と説得せっとくされる[6]。7月9にち汽車きしゃ名古屋なごやかい、同日どうじつづけ愛知あいち県知事けんちじ就任しゅうにんした[7]

1947ねん3がつ5にちはつ公選こうせん愛知あいち県知事けんちじ選挙せんきょ立候補りっこうほするために知事ちじ辞職じしょく知事ちじせんは3がつ15にち告示こくじされるが、その10日とおか東北とうほく興業こうぎょうふく総裁そうさい時代じだい関係かんけいしていた会社かいしゃ戦争せんそう関与かんよわれ、公職こうしょく適否てきひ審査しんさ委員いいんかいから追放ついほう決定けってい通知つうちける[8]桑原くわばら東北とうほく振興しんこうパルプと東北とうほく振興しんこうアルミの役員やくいんねていたが、前者ぜんしゃ王子製紙おうじせいしとの、後者こうしゃ昭和電工しょうわでんこうとの合弁ごうべん会社かいしゃで、それらがとも有数ゆうすう財閥ざいばつ会社かいしゃであったことから追放ついほう対象たいしょうになった。桑原くわばら急遽きゅうきょ官選かんせん最後さいご知事ちじもと内務ないむ官僚かんりょう青柳あおやぎ秀夫ひでお出馬しゅつば要請ようせいし、青柳あおやぎは4がつ5にちおこなわれた選挙せんきょはつ当選とうせんした。

1948ねん7がつ東海とうかい証券しょうけん社長しゃちょう就任しゅうにん同時どうじ名古屋なごや証券しょうけんぎょう協会きょうかい会長かいちょうにも就任しゅうにんした。同年どうねん10がつ、ホテル丸栄まるえい初代しょだい社長しゃちょう就任しゅうにん[9]

1951ねん知事ちじせんはつ当選とうせん[編集へんしゅう]

1962ねん5がつ21にちホワイトハウスにて(中央ちゅうおう

1950ねん10がつ3にち追放ついほう解除かいじょされ、翌年よくねん4がつだい2かい公選こうせん知事ちじせん活動かつどうはじめる。ちゅうさかえまちげんちゅうさかえ)のにバラックをて、これを選挙せんきょ事務所じむしょとした。社長しゃちょうつとめていたホテル丸栄まるえい一室いっしつ作戦さくせん本部ほんぶとし、石黒いしぐろ幸市こういちらが陣取じんどった[10]選挙せんきょ事務じむちょう青柳あおやぎ秀夫ひでおつとめた。

難物なんぶつ自由党じゆうとう公認こうにんをめぐるあらそいであった。桑原くわばらはやくから大野おおの伴睦ばんぼく佐藤さとう栄作えいさく幹事かんじちょうわたりをつけ、岡崎おかざき勝男かつおにも同期どうきのよしみでまわしたが、地元じもと国会こっかい議員ぎいんあたまししたのがこじれる原因げんいんとなった。愛知あいちけん選出せんしゅつ国会こっかい議員ぎいんちゅう山田やまだ佐一さいちけん支部しぶちょうこう﨑真きよしら10にんもと一宮いちのみや市長しちょう吉田よしだ萬次まんじにつき、つじ寛一かんいち草葉くさばたかしえんら5にん桑原くわばらについた。結局けっきょく決着けっちゃくはつかず、二人ふたりとも公認こうにん名乗なのって選挙せんきょせん突入とつにゅうした[11]当時とうじ公選法こうせんほうでは当選とうせんしゃ有効ゆうこう投票とうひょうの8ぶんの3を獲得かくとくしなければならなかった。候補者こうほしゃは7にん新聞しんぶん各紙かくし決選けっせん投票とうひょうになるとの予想よそうてていた。なかでも有力ゆうりょくとみられていたのが、社会党しゃかいとう推薦すいせん労組ろうそ支援しえんけたぜんふく知事ちじ桐谷きりたに勝三郎かつさぶろうであった[10]

1951ねん4がつ30にち愛知あいち県知事けんちじ選挙せんきょ執行しっこう候補者こうほしゃ7にんちゅう最多さいたひょう獲得かくとくするが、法定ほうてい得票とくひょうすうたっしなかったため、5月11にちに2吉田よしだ萬次まんじとの決選けっせん投票とうひょうおこなわれる。開票かいひょう同日どうじつ名古屋なごやのぞいて県下けんか一斉いっせいおこなわれた。即日そくじつ開票かいひょうぶん吉田よしだ475,293ひょう桑原くわばら466,404ひょうで、吉田よしだがリードした。4月30にち選挙せんきょ名古屋なごやで5まんひょうほど吉田よしだはなしていた桑原くわばらにとって、名古屋なごや開票かいひょうぶんたのみであった。翌日よくじつ吉田よしだとのがじりじりとせまなか相手あいて陣営じんえい田嶋たじま好文よしふみくるま選挙せんきょ事務所じむしょまえを「吉田よしだ当選とうせん当選とうせん確実かくじつ」とってとおぎ、桑原くわばら一時いちじは「かえしのつかないことをした」とおもったという。そこへ中村なかむらひょうくわわり逆転ぎゃくてん吉田よしだをわずか3,670ひょうでかわし、はつ当選とうせんたした[12]

みずからの辞職じしょくによって選挙せんきょを2実施じっしした岐阜ぎふ県知事けんちじ武藤むとう嘉門かもんから「つぎもやるなら、繰上くりがみ選挙せんきょをやりなさい」とすすめられ[13]1955ねん1がつ17にち任期にんき満了まんりょうたずして辞職じしょく[14]辞職じしょく対立たいりつ候補こうほ用意よういととのまえ選挙せんきょ不意打ふいう作戦さくせんだったとされている[15]社会党しゃかいとう尾張おわり徳川とくがわ19だい当主とうしゅ徳川とくがわ義親よしちか白羽しらはてるが、本人ほんにんけるはなく、参議院さんぎいん議員ぎいん栗山くりやま良夫よしお大学だいがく講師こうし伊藤いとう武雄たけおらにことわられたあと、とうけん連合れんごうかいぜん会長かいちょう佐藤さとう一平いっぺい擁立ようりつ[16]同年どうねん2がつ15にちおこなわれた知事ちじせん佐藤さとうやぶ再選さいせん

1967ねん5がつ10日とおかから1975ねん2がつ14にちまで全国ぜんこく知事ちじかい会長かいちょうつとめた。

1971ねん知事ちじせんは、フランス文学ぶんがくしゃで『広辞苑こうじえん』の共同きょうどう編纂へんさんしゃ新村しんむらたけしとの一騎打いっきうちとなった。桑原くわばら1,037,290ひょうたいし、新村しんむら915,477ひょうで、僅差きんさで6当選とうせんたした[17]名古屋なごや市内しないではぎゃくに9まんひょうをつけられてけた[18]

1973ねん勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう受章じゅしょう[19]1975ねん2がつ14にちをもって知事ちじ退しりぞいた。

引退いんたい政治せいじ活動かつどうつづけた。1980ねん6がつおこなわれた衆参しゅうさん同日どうじつ選挙せんきょでは、参議院さんぎいん愛知あいちけん選挙せんきょから自民党じみんとう公認こうにん立候補りっこうほした外務がいむ官僚かんりょう大木おおきひろし選対せんたい事務じむちょうつとめ、遊説ゆうぜいした[20]1987ねん愛知あいちけんはつ名誉めいよ県民けんみんとなった。

1991ねん4がつ11にち心不全しんふぜんのため死去しきょ。95さいぼつ同年どうねん5月16にちには愛知あいち県民けんみんそういとなまれた。

業績ぎょうせき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 警察けいさつ風景ふうけいまつはなどう書店しょてん、1930ねん
  • きもひと中部経済新聞社ちゅうぶけいざいしんぶんしゃ、1958ねん
  • 世紀せいききる 歴史れきしとは未来みらいのこと』政経せいけいしゃ、1974ねん
  • 桑原くわばらみき回顧かいころく 知事ちじじゅうねん毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1979ねん
  • 忙中ぼうちゅう閑詩』中日新聞ちゅうにちしんぶん本社ほんしゃ、1982ねん
  • 余生よせい余話よわ中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ、1987ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e - 富士吉田ふじよしだ - 桑原くわばら みき(くわばらみきね)
  2. ^ 愛知あいちけん、24ねんぶりに「名誉めいよ県民けんみん授与じゅよへ  :日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 2011/9/2づけ
  3. ^ 桑原くわばら 1979, p. 101.
  4. ^ 桑原くわばら 1979, p. 54.
  5. ^ 桑原くわばら 1979, p. 58.
  6. ^ 桑原くわばら 1979, pp. 60–62.
  7. ^ 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1991ねん1がつ1にちづけ朝刊ちょうかん市民しみんばん、18めん、「あいち知事ちじせん物語ものがたり (1) 官選かんせん 終戦しゅうせん直後ちょくご知事ちじ受難じゅなん 相次あいつ公職こうしょく追放ついほう」。
  8. ^ 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1991ねん1がつ3にちづけ朝刊ちょうかん市民しみんばん、18めん、「あいち知事ちじせん物語ものがたり (2) 公選こうせん 食糧難しょくりょうなん実施じっしみのらず 初回しょかい昭和しょうわ22ねん 告示こくじ桑原くわばら追放ついほう」。
  9. ^ 桑原くわばら 1979, p. 86.
  10. ^ a b 桑原くわばら 1979, p. 99.
  11. ^ 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1991ねん1がつ5にちづけ朝刊ちょうかん県内けんないばん、14めん、「あいち知事ちじせん物語ものがたり (4) 全国ぜんこくいち激戦げきせん 最多さいたの7にん出馬しゅつば だいかい選挙せんきょ とう公認こうにんめぐり対立たいりつも」。
  12. ^ 桑原くわばら 1979, pp. 112–114.
  13. ^ 桑原くわばら 1979, pp. 118–119.
  14. ^ 歴代れきだい公選こうせん知事ちじ名簿めいぼ都道府県とどうふけんべつ)/全国ぜんこく知事ちじかい
  15. ^ 愛知あいち県知事けんちじせんQ&A:愛知あいち県知事けんちじせん2015:中日ちゅうにち新聞しんぶん(CHUNICHI Web)
  16. ^ 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1991ねん1がつ7にちづけ朝刊ちょうかん県内けんないばん、15めん、「あいち知事ちじせん物語ものがたり (6) “ち”辞任じにん 流行りゅうこうった戦術せんじゅつ 候補こうほ出足であしおくらす」。
  17. ^ 名古屋なごや選挙せんきょ40ねん記録きろく名古屋なごや選挙せんきょ管理かんり委員いいんかい、1988ねん3がつ25にち、646-647ぺーじ
  18. ^ 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1991ねん1がつ9にちづけ朝刊ちょうかん県内けんないばん、14めん、「あいち知事ちじせん物語ものがたり (8) 革新かくしん統一とういつ候補こうほ 共闘きょうとうのうねり 新村しんむら、12まんひょうまでせまる」。
  19. ^ a b 桑原くわばら みき (クワハラ ミキネ)”. コトバンク. 2018ねん11月16にち閲覧えつらん
  20. ^ 木村きむらりょう全容ぜんよう 無謀むぼう構図こうず (81) ぜん知事ちじ登壇とうだん 激烈げきれつ桑原くわばらのあいさつ」 『朝日新聞あさひしんぶん』1981ねん3がつ19にちづけ朝刊ちょうかん三河そうごばん西にし

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 桑原くわばらみき桑原くわばらみき回顧かいころく 知事ちじじゅうねん毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1979ねん2がつ1にち 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
青柳あおやぎ秀夫ひでお
愛知県の旗愛知あいち県知事けんちじ
公選こうせんだい2 - 8だい:1951ねん - 1975ねん
次代じだい
仲谷なかたに義明よしあき
官職かんしょく
先代せんだい
早川はやかわ三郎さぶろう
愛知県の旗愛知あいち県知事けんちじ
官選かんせんだい38だい:1946ねん - 1947ねん
次代じだい
青柳あおやぎ秀夫ひでお