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川口彦治
川口 彦治(かわぐち ひこはる、1871年1月30日(明治3年12月10日)[1] - 1955年(昭和30年)5月[2])は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事、関東庁事務総長。
日向国諸県郡、後の宮崎県西諸県郡加久藤村(現えびの市)出身[3]。郷士・川口時清の長男として生まれる[1]。1893年7月鹿児島高等中学造士館予科卒業、1895年7月鹿児島高等中学造士館本科卒業[4]。1899年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し警視庁警部となる。1900年11月、文官高等試験行政科試験に合格した[1][5][6]。
以後、警視庁警視・府中警察署長、山梨県警部長、山梨県事務官・第四部長、茨城県事務官・第四部長、大分県事務官・第一部長兼第三部長[7]、愛知県事務官・内務部長などを歴任[1][5]。
1913年6月、大分県知事に就任[5]。1914年4月、奈良県知事に転任。「政友会札付知事」と呼ばれた。好景気による奢侈生活を戒める生活合理化を推奨した。1915年7月、知事を休職となる[8]。1917年1月、秋田県知事として復帰。憲政会の強い秋田県会を「原案執行」という強硬策で乗り切った[2]。1919年4月、熊本県知事に転任。憲政会の強い県内において政友会の勢力伸長を図った[9]。1921年5月、愛知県知事に転任。名古屋市の憲政会勢力を抑制するため、同年8月に名古屋市に隣接町村を編入し、市域を拡大させた市議選に干渉したが失敗した[3]。1923年6月、関東庁事務総長に転任。1924年6月30日に辞職し退官した[6][10]。
1927年、不動貯蓄銀行取締役となり10年間在任した[2]。
- ^ a b c d 『人事興信録』第4版、か46頁。
- ^ a b c 『新編日本の歴代知事』173頁。
- ^ a b 『新編日本の歴代知事』590頁。
- ^ 『第七高等学校造士館一覧 自昭和14年4月至昭和15年3月』119-125頁
- ^ a b c 『新編日本の歴代知事』1063頁。
- ^ a b 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』181頁。
- ^ 『官報』第7061号、明治40年1月15日。
- ^ 『新編日本の歴代知事』717頁。
- ^ 『新編日本の歴代知事』1040頁。
- ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』127頁。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 人事興信所編『人事興信録』第4版、1915年。
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