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宮尾みやおしゅん

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台湾たいわん時代じだい
1906ねん明治めいじ39ねん

宮尾みやお しゅん(みやお しゅんじ、1868ねん2がつ1にち慶応けいおう4ねん1がつ8にち)- 1937ねん昭和しょうわ12ねん4がつ3にち[1][2])は、日本にっぽん官僚かんりょう外地がいち行政ぎょうせいかん政治せいじ官選かんせん県知事けんちじ貴族きぞくいん議員ぎいん錦鶏きんけいあいだ祗候しこう新潟にいがたけん出身しゅっしん

来歴らいれき[編集へんしゅう]

越後えちごこく頸城ぐん広島ひろしまむら名主なぬし宮尾みやおけん九郎くろう長男ちょうなん[1]としてまれた。ちちはこののち同村どうそん助役じょやくとなるが、このむら宮尾みやお祖先そせんひらいたとしてられていた。1881ねん明治めいじ14ねん小島こじまじゅく入塾にゅうじゅく[3]。1886(明治めいじ19ねんだいいち高等こうとう中学校ちゅうがっこう入学にゅうがく1889ねん明治めいじ22ねん本科ほんか進学しんがくする[3]下宿げしゅく隣家りんか寄寓きぐうしていた神戸こうべ瓦煎餅かわらせんべい職人しょくにんみせ出資しゅっししゃさがしているとのはなし興味きょうみち、実家じっかちち説得せっとくして資金しきんしてもらい翌年よくねん11がつには両国りょうこくでせんべい紀文のりふみどう」を開業かいぎょうしたところ、これが大当おおあたりとなって多忙たぼうきわめるようになり、そのため学校がっこうほう欠席けっせきがかさんで1891ねん明治めいじ24ねん本科ほんか2ねん落第らくだい[3][4]。このころった異名いみょうが「せんべい学士がくし」だった[3]翌年よくねんだいいち高等こうとう中学ちゅうがく卒業そつぎょうすると帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがくすすみ、1896ねん明治めいじ29ねん)7がつ法律ほうりつ学科がっかどくほう)を優等ゆうとう卒業そつぎょう銀時計ぎんどけい受領じゅりょうした[1][5]

同月どうげつ大蔵省おおくらしょう入省にゅうしょうすると、官房かんぼうだい配属はいぞくされた[1]同年どうねん12がつには文官ぶんかん高等こうとう試験しけん行政ぎょうせい試験しけん合格ごうかく[5]。その税務ぜいむ監督かんとくかん神戸こうべ税関ぜいかん監視かんし部長ぶちょうなどを歴任れきにんした[1]

1900ねん明治めいじ33ねん)4がつには台湾たいわん総督そうとくてんじ、事務じむかんとして民政みんせい税務ぜいむ配属はいぞく。その安平あびら税関ぜいかんちょうけんいぬ税関ぜいかんちょう淡水たんすい税関ぜいかんちょう民政みんせい財務局ざいむきょく税務ぜいむ課長かちょう専売せんばい局長きょくちょう殖産しょくさん局長きょくちょうなどを歴任れきにん[1]、1910ねん明治めいじ43ねん)から 1910ねん明治めいじ43ねん)までは鉄道てつどう部長ぶちょう事務じむ取扱とりあつかいとなった。

1910ねん明治めいじ43ねん)9がつ内地ないちもどると内閣ないかくひらけつとむきょくうつだいいち部長ぶちょう就任しゅうにん[6]、そのだい部長ぶちょうね、つぶせつとむきょくふく総裁そうさいなどを歴任れきにん1917ねん大正たいしょう6ねん)7がつにはふたた外地がいち関東かんとうとくてん民政みんせい長官ちょうかんとなる[1]

1919ねん大正たいしょう8ねん)4がつ関東かんとうとく廃止はいしされ愛知あいち県知事けんちじ発令はつれいとなり内地ないちにもどる[1]1921ねん大正たいしょう10ねん)5がつには北海道庁ほっかいどうちょう長官ちょうかん就任しゅうにん[7]農業のうぎょう振興しんこうつとめた[8]。1923ねん大正たいしょう12ねん)9がつ帝都ていと復興ふっこういんふく総裁そうさい就任しゅうにんし、関東大震災かんとうだいしんさい東京とうきょう復興ふっこう尽力じんりょくまた一時いちじ同院どういん土地とち整理せいり局長きょくちょう兼務けんむした[1]

同年どうねん12がつ退官たいかんすると、国策こくさく会社かいしゃ東洋とうよう拓殖たくしょく総裁そうさいにんじられて今度こんどきょうしろうつり、翌年よくねん11がつまでつとめたのち1928ねん昭和しょうわ3ねん)12月にはあずまたく総裁そうさい再任さいにんされ、1930ねん昭和しょうわ5ねん)12がつまでこれをつとめた[1]1932ねん昭和しょうわ7ねん)9がつ27にち錦鶏きんけいあいだ祗候しこうおおけられた[9]

1934ねん昭和しょうわ9ねん)7がつ3にち貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいんみことのりまかされ[10]研究けんきゅうかいぞくして死去しきょするまで在任ざいにんした[2][11]さい晩年ばんねん東京とうきょうかいかかわり、市政しせい革新かくしん同盟どうめいわれて1937ねん昭和しょうわ12ねん)3がつ選挙せんきょ立候補りっこうほ当選とうせんたしたが[8]、その直後ちょくご持病じびょう糖尿とうにょうびょう悪化あっか肺炎はいえん併発へいはつして死去しきょした[12]墓所はかしょ多磨たま霊園れいえん

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょうとう

著作ちょさく伝記でんき[編集へんしゅう]

  • 著書ちょしょ
    • 統制とうせい原理げんりとしての厚生こうせい経済けいざい』曠台しゃ、1937ねん
  • 翻訳ほんやくしょ
    • ド・エツカ『平和へいわてきなる海外かいがい発展はってんモザンビク - 葡領ひがしおもねどる利加りか日本にっぽん移民いみん協会きょうかい、1928ねん
  • 伝記でんき

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j 日本にっぽんきん現代げんだい人物じんぶつ履歴りれき事典じてん』505ぺーじ
  2. ^ a b 議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん』168ぺーじ
  3. ^ a b c d 新編しんぺん日本にっぽん歴代れきだい知事ちじ』589ぺーじ
  4. ^ 宮尾みやおしゅんでん』85-92ぺーじ
  5. ^ a b 日本にっぽん官僚かんりょうせい総合そうごう事典じてん1868-2000』だい2はん、176ぺーじ
  6. ^ 官報かんぽうだい8173ごう叙任じょにん及辞れい明治めいじ43ねん9がつ16にち
  7. ^ 宮尾みやおしゅん 近代きんだい日本人にっぽんじん肖像しょうぞう. https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/567/ 2020ねん2がつ28にち閲覧えつらん 
  8. ^ a b 新編しんぺん日本にっぽん歴代れきだい知事ちじ』79ぺーじ
  9. ^ 官報かんぽうだい1725ごう叙任じょにん及辞れい昭和しょうわ7ねん9がつ28にち
  10. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい、44ぺーじ
  11. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい、45ぺーじ
  12. ^ 宮尾みやおしゅんでん』523-524ぺーじ
  13. ^ 官報かんぽうだい319ごう叙任じょにん及辞れい大正たいしょう2ねん8がつ21にち
  14. ^ 官報かんぽうだい1499ごう付録ふろく辞令じれい昭和しょうわ6ねん12月28にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

ギャラリー[編集へんしゅう]


公職こうしょく
先代せんだい
大島おおしま久満ひさみつ
日本の旗 台湾たいわん総督そうとく府民ふみんせい長官ちょうかん
事務じむ取扱とりあつかい:1910ねん
次代じだい
内田うちだ嘉吉よしきち
先代せんだい
渡辺わたなべ勝三郎かつさぶろう
日本の旗 東洋とうよう拓殖たくしょく総裁そうさい
1928ねん - 1930ねん
次代じだい
菅原通すがはらどおりけい