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鷲尾 隆聚(わしのお たかつむ、1843年1月25日(天保13年12月25日) - 1912年(明治45年)3月4日)は、幕末から明治期の公家。
右近衛中将鷲尾隆賢の次男として京都で生まれる。母は高倉永雅の娘。勤王倒幕運動に身を投じ、慶応3年12月12日(1868年1月6日)、志士を集めて高野山で挙兵し、紀州藩を恭順させた(高野山挙兵)。奥州追討総督・陸軍少将として戊辰戦争を転戦し明治維新を迎えた。
剣術を好み、自邸に明鏡館という道場を開いた。1883年(明治16年)、宮内省済寧館御用掛に就任。1884年(明治17年)、山岡鉄舟とともに剣槍柔術永続社を設立し、社長を務めた。
理財に疎いところがあり、負債を抱えて剣槍柔術永続社は解散した。あるとき東久世通禧から貴族院議員になることを勧められたが、「政治に通ぜざる者が、二千円の歳費を得るため、貴族院に入ろうとする者があれば、自分はその面に唾しよう。自分はたとえ餓死しようとも、かくの如き陋態をまなばず」と答えた。