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民主みんしゅカンプチア

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カンプチア(1975ねん-1976ねん
民主みんしゅカンプチア(1976ねん-1982ねん
កម្ពុជា
(1975 ‐ 1976)
កម្ពុជាប្រជាធិបតេយ្យ
(1976 ‐ 1982)
クメール共和国
カンプチア王国民族連合政府
1975ねん - 1982ねん カンプチア人民共和国
民主カンプチア連合政府
カンプチアの国旗 カンプチアの国章
国旗こっきくにあきら
国歌こっか:
カンプチアの位置
民主みんしゅカンプチアの地図ちず
公用こうよう クメール
宗教しゅうきょう 国家こっかかみろん[2]
首都しゅと プノンペン
1975ねん - 1982ねんポル・ポト
国家こっか幹部かんぶかい議長ぎちょう
1975ねん - 1976ねん ノロドム・シハヌーク
1976ねん - 1982ねんキュー・サムファン
首相しゅしょう
1975ねん - 1976ねんペン・ヌート
1976ねん - 1979ねんポル・ポト
1979ねん - 1982ねんキュー・サムファン
面積めんせき
1977ねん181,000km²
人口じんこう
1977ねん8,350,000にん
変遷へんせん
プノンペン制圧せいあつ 1975ねん4がつ17にち
ベトナムの侵攻しんこう1978ねん12月21にち
崩壊ほうかい1979ねん1がつ7にち
3連合れんごう政府せいふ樹立じゅりつ1982ねん6がつ22にち
通貨つうか廃止はいし
時間じかんたいUTC +07:00
現在げんざいカンボジアの旗 カンボジア

民主みんしゅカンプチア(みんしゅカンプチア、クメール: កម្ពុជាប្រជាធិបតេយ្យ, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Kâmpŭchéa Prâcheathippadey)は、かつてカンボジア存在そんざいした国家こっかである。いわゆるポル・ポト政権せいけん正式せいしき名称めいしょうである。「民主みんしゅカンボジア」とも表記ひょうきされる。

1970ねんロン・ノル将軍しょうぐん国民こくみん議会ぎかいノロドム・シハヌーク国家こっか元首げんしゅから解任かいにんさせる。シハヌークはしん政府せいふ反対はんたいし、カンプチア共産党きょうさんとうクメール・ルージュ)と同盟どうめいむすぶ。ベトナムによるカンボジア東部とうぶ占領せんりょうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくによるカンボジアヘのだい規模きぼ爆撃ばくげき、そしてシハヌークの名声めいせい利用りようして、カンプチア共産党きょうさんとう国民こくみんだい多数たすう代表だいひょうする、連立れんりつ政権せいけんにおいて平和へいわ主義しゅぎ政党せいとうとしてその地位ちい確立かくりつした。

こうして、地域ちいき民衆みんしゅう支持しじ1975ねん4がつにカンプチア共産党きょうさんとう主力しゅりょくとするカンプチア民族みんぞく統一とういつ戦線せんせん英語えいごばん (FUNK) によるプノンペン制圧せいあつにより、事実じじつじょう誕生たんじょうした。カンボジア全土ぜんど支配しはいする政府せいふとしては、1979ねん1がつカンボジア・ベトナム戦争せんそうでの敗戦はいせんにより崩壊ほうかいした。その亡命ぼうめい政府せいふとして存続そんぞくし、はんソ連それんはんベトナム陣営じんえいとしてアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく日本にっぽん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくなどの支援しえん[3][4]国際こくさい連合れんごうにも議席ぎせき維持いじつづけた。1980年代ねんだい以降いこうカンボジア内戦ないせん長期ちょうきさせ、政権せいけん時代じだいにはそう人口じんこうの21%から25%が死亡しぼう[5][6][7]、そのうち60%は大量たいりょう殺戮さつりく[8]によるものでカンボジアは人口じんこうの3ぶんの1をうしなったともされる[9]

政権せいけん時代じだい

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実態じったい

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ポル・ポト政権せいけん犠牲ぎせいしゃ遺骨いこつ

1973ねんパリ協定きょうていによってアメリカぐんがベトナムから撤退てったいした。それと同時どうじに、みなみベトナム解放かいほう民族みんぞく戦線せんせんはカンボジアをったが、クメール・ルージュ政府せいふぐんとのたたかいをつづけた。

1974ねん、ベトナムに駐在ちゅうざいしていた米国べいこく国務省こくむしょう職員しょくいんケネス・M・クインが、本国ほんごくけの報告ほうこくしょにてクメール・ルージュのイデオロギーを「ナチス・ドイツスターリン体制たいせい匹敵ひってきするおそるべきもの」として報告ほうこくする。虐殺ぎゃくさつ政権せいけんとしてのクメール・ルージュの実態じったい世界せかいはじめてあばいた文書ぶんしょであったが、米国べいこく政府せいふはこの報告ほうこく重要じゅうようせず、事実じじつじょう黙殺もくさつした[10]

1975ねん4がつ17にち、クメール・ルージュは首都しゅとプノンペン占領せんりょうした。ロン・ノル親米しんべい政権せいけん崩壊ほうかいし、ロン・ノルはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく亡命ぼうめいしたが、おくれた一族いちぞくロン・ノン英語えいごばんロン・ボレト英語えいごばんらロン・ノル政権せいけん閣僚かくりょうは、プノンペン陥落かんらく直後ちょくごに「てきぐん掃討そうとう委員いいんかい」に身柄みがら拘束こうそくされ、全員ぜんいん処刑しょけいされた。ほかにも政治せいじ高官こうかん警察官けいさつかん軍人ぐんじんら700にんあまりが殺害さつがいされ、遺体いたい共同きょうどう墓地ぼちまれた。カンボジア共産党きょうさんとう書記しょきちょうポル・ポトノロドム・シハヌークとのあいだで、「売国奴ばいこくど」としてリストにげた少数しょうすう人物じんぶつのみを処刑しょけいすると約束やくそくしていたが、約束やくそく反故ほごにされた。1975ねん4がつすべてがからはじまるあたらしい時代じだいとしてゼロねん英語えいごばん(クメール: ឆ្នាំសូន្យ chhnam saun)とばれた[11][12]

クメール・ルージュによるプノンペン占領せんりょう当初とうしょ都市とし住民じゅうみんはクメール・ルージュを歓迎かんげいしたが、クメール・ルージュは都市とし住民じゅうみん農村のうそんでの食糧しょくりょう生産せいさん強制きょうせいてき従事じゅうじさせるために、「アメリカぐん空爆くうばくがあるので2、3にちだけ首都しゅとから退去たいきょするように」と都市とし居住きょじゅうしゃ地方ちほう集団しゅうだん農場のうじょう強制きょうせい移住いじゅうさせた。農村のうそん住民じゅうみんもそれまでの住宅じゅうたくてさせられ、ぜん人民じんみんがサハコー(人民公社じんみんこうしゃ)とわれるはば2メートルから4メートル、ながさ3メートルから6メートルの電気でんきもラジオも、水道すいどうもない小屋こや男女だんじょべつ強制きょうせいてき移住いじゅうさせられた。生存せいぞんしゃ証言しょうげんによると、病人びょうにん高齢こうれいしゃにんなどの弱者じゃくしゃたいしても、クメール・ルージュはまった配慮はいりょをしなかった[13]。これは世界せかい動員どういんかえされてきた20世紀せいき歴史れきしからてもれいのない社会しゃかい実験じっけんだったとされる[14]

クメール・ルージュは全権ぜんけん掌握しょうあく国名こくめいを「民主みんしゅカンプチア」に改名かいめいし、またポル・ポトもこのあいだ自身じしん名前なまえを「サロット・サル」から「ポル・ポト」へあらためた。しかしポル・ポトはジャングルからず、表向おもてむきはシハヌークやその側近そっきんであるペン・ヌート前面ぜんめんして、かれらを傀儡かいらいとしてあやつろうとしていた。シハヌークは1975ねん復権ふっけんしたが、クメール・ルージュは君主くんしゅせい回復かいふくするシハヌークの計画けいかく無視むしした。シハヌークはポル・ポトの真意しんいさとったが、粛清しゅくせいをおそれてなに出来できず、さらに1976ねん4がつ2にち、クメール・ルージュはシハヌークを王宮おうきゅう監禁かんきんしたため、既存きそん政府せいふ崩壊ほうかいし、シハヌークは国家こっか元首げんしゅ地位ちいわれ、あらたな元首げんしゅとしてキュー・サムファン国家こっか幹部かんぶかい議長ぎちょう就任しゅうにんした。

1976ねん5月13にち、ポル・ポトは民主みんしゅカンプチアの首相しゅしょう正式せいしき就任しゅうにんし、徹底的てっていてき国家こっか改造かいぞうおこなった。中国ちゅうごく毛沢東もうたくとう思想しそう影響えいきょうされたポル・ポトの目的もくてき理論りろんじょう原始時代げんしじだい存在そんざいしたとされた仮説かせつにすぎない「原始げんし共産きょうさん主義しゅぎ社会しゃかい」を再現さいげんさせることにあり、資本しほん主義しゅぎはおろか都市とし文明ぶんめい徹底的てっていてき廃絶はいぜつすることであった[15]民主みんしゅカンプチアのもと、通貨つうか廃止はいし[16]私有しゆう財産ざいさん没収ぼっしゅうおこなわれたうえ教育きょういく医療いりょう否定ひていされ、国立こくりつ銀行ぎんこうはじめとした国家こっか機関きかんは、そのすべてが廃止はいしされた[17]国家こっかかみろんもとづいてカンボジアで伝統でんとうてき上座かみざ仏教ぶっきょうはおろかカンボジア国内こくないイスラム教いすらむきょうキリスト教きりすときょうすべての宗教しゅうきょう禁止きんし[18][19][20][21]、カンボジア国内こくないのベトナムけい、タイけい中国ちゅうごくけいチャムぞくといった少数しょうすう民族みんぞく存在そんざい自体じたい禁止きんしされた[22]伝統でんとうてき家族かぞく形態けいたい解体かいたいする一方いっぽうでクメール・ルージュの許可きょかがない自由じゆう恋愛れんあい結婚けっこん禁止きんしされた[23][24]

ポル・ポト政権せいけん時代じだい服装ふくそう

さらに、内戦ないせんによる都市としから農村のうそんへの人口じんこう流入りゅうにゅうあいまって、農村のうそんでの食糧しょくりょう生産せいさんはすでにだい打撃だげきけており、1975ねん4がつにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国際こくさい開発かいはつちょう(USAID)が「カンボジアの食糧しょくりょう危機きき回避かいひには17.5まん - 25まんトンのべい必要ひつようである」と報告ほうこく[25]し、アメリカ国務省こくむしょうは「民主みんしゅカンプチアは今後こんご外国がいこくからの食糧しょくりょう援助えんじょ拒否きょひするため100まんにん飢餓きがにさらされることになるだろう」と予測よそくしていた[26]。そのため、ポル・ポトはべい生産せいさんりょうを3ばいげることを目標もくひょうかかげ、農村のうそんへの強制きょうせい移住いじゅうすすめ、この目標もくひょうした民主みんしゅカンプチアでは中国ちゅうごく人民じんみんふくのようにくろ農民のうみんふく英語えいごばん国民こくみん服装ふくそうとなり[27][28][29]農作業のうさぎょう灌漑かんがい施設しせつ建設けんせつなどのために、劣悪れつあく環境かんきょうなかあさ5から午後ごご10まではたらかされた。ラッダイトのように近代きんだいてき機械きかい資本しほん主義しゅぎ文明ぶんめい象徴しょうちょう做したため、すべては人間にんげん作業さぎょうによっておこなわれた。このような過酷かこく労働ろうどう環境かんきょう結果けっか過労かろうにより死亡しぼうするもの相次あいついだ。強制きょうせい労働ろうどうにより運河うんがダム[30]そう延長えんちょう1まん5000キロもの巨大きょだい水路すいろ建設けんせつされた[31]。また、生産せいさんされたべいおおくは外国がいこくからの武器ぶき調達ちょうたつ資金しきんるために飢餓きが輸出ゆしゅつをされたため、1にち2はいおかゆだけしかゆるされない食生活しょくせいかつ劣悪れつあく労働ろうどう環境かんきょうは、おおくの人民じんみんを、飢餓きが栄養失調えいようしっちょう過労かろうによるへといやっていった。このような惨状さんじょうたりにしたポル・ポトは、自身じしん政策せいさく失敗しっぱい原因げんいん政策せいさくそのものの問題もんだいとするよりも、カンボジアやクメール・ルージュ内部ないぶに、裏切うらぎものやスパイがひそんでいるためであるとして猜疑心さいぎしんつよめた。このような猜疑心さいぎしんは、のち展開てんかいされる党内とうないでの粛清しゅくせい、カンプチア人民じんみんへの大量たいりょう虐殺ぎゃくさつおおきな要因よういんひとつとなっていった。

民主みんしゅカンプチアは「くさったリンゴは、はこごとてなくてはならない」ととなえて、政治せいじてき反対はんたいしゃ虐殺ぎゃくさつした。国民こくみんは「しん人民じんみん」と「きゅう人民じんみん」に区分くぶんされ、プノンペン陥落かんらく都市としから強制きょうせい移住いじゅうさせられた新参しんざんしゃの「しん人民じんみん」はたえずはん革命かくめい嫌疑けんぎをかけられる一方いっぽう長期間ちょうきかんクメール・ルージュの構成こうせいいんだった「きゅう人民じんみん」は1976ねんまで共同きょうどうたい配給はいきゅうけ、みずか食料しょくりょう栽培さいばいできた。革命かくめい以前いぜん海外かいがい留学りゅうがくしていた学生がくせいたちに「帰国きこくしてあたらしいくにづくりに協力きょうりょくしてしい。」と大使館たいしかんつうじてびかけ帰国きこくただちに殺害さつがいした。

ポル・ポトや強制きょうせい収容しゅうようしょ所長しょちょうだったカン・ケク・イウらクメール・ルージュの幹部かんぶおおくは高学歴こうがくれきインテリ出身しゅっしんだったが、高度こうど知識ちしき教養きょうようはポル・ポトの愚民ぐみん政策せいさく邪魔じゃまになることから医師いし教師きょうし技術ぎじゅつしゃ優遇ゆうぐうするというみで自己じこ申告しんこくさせ、べつ場所ばしょったのち殺害さつがいした。やがてられたものまったかえってこないことがわたるようになると、教育きょういくけたもの事情じじょうさっし、無学むがく文盲もんもうよそおってなんのがれようとしたが、眼鏡めがねをかけているもの文字もじもうとしたもの時計とけいめるものなど、すこしでも学識がくしきがありそうなものかたぱしから殺害さつがいされた[32]。この政策せいさく歴史れきしてきにもはん知性ちせい主義しゅぎもっと極端きょくたんれいとされる[33][34][35][36]。プノンペンは飢餓きが疾病しっぺい農村のうそんへの強制きょうせい移住いじゅうによってゴーストタウンとなった一方いっぽう知識ちしきじんつかれば殺害さつがいされた。ポル・ポトは「資本しほん主義しゅぎあかにまみれていないから」という理由りゆうで10代前半ぜんはん無垢むく子供こども重用じゅうようするようになり[37][38]少年しょうねんへいあやつり、子供こども衛生えいせいへい存在そんざいした[39][40]

民主みんしゅカンプチアでの死傷ししょうしゃすうはさまざまに推計すいけいされている。カンボジアでは1962ねん国勢調査こくせいちょうさ最後さいご戦争せんそう状態じょうたいはいり、以後いご1975ねんまでの正確せいかく人口じんこう動態どうたい不明ふめいとなりこうしたしょ推計すいけいにもおおきなひらきがている。ベトナムが支援しえんするヘン・サムリン政権せいけんは1975ねんから1979ねんあいだ死者ししゃすうを300まんにんとした(これはのち下方かほう修正しゅうせいされた)。

フランソワ・ポンショー英語えいごばん神父しんぷは230まんにんとするが、これは内戦ないせん時代じだい死者ししゃふくむ。イェール大学だいがく・カンボジアじん大量たいりょう虐殺ぎゃくさつプロジェクトは170まんにんアムネスティ・インターナショナルは140まんにんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国務省こくむしょうは120まんにん推計すいけいするが、これらの機関きかん内戦ないせん時代じだい戦闘せんとうアメリカぐん空爆くうばくによる死者ししゃすうにはまった言及げんきゅうしていない。フィンランド政府せいふ調査ちょうさだん内戦ないせん空爆くうばくによる死者ししゃが60まんにん、ポル・ポト政権せいけん奪取だっしゅ死者ししゃが100まんにん推計すいけいしている。

マイケル・ヴィッカリー英語えいごばん内戦ないせんによる死者ししゃを50まんにん、ポル・ポト時代じだい死者ししゃを75まんにんとしている。当事とうじしゃによる推定すいていではキュー・サムファンは100まんにん、ポル・ポトは80まんにんである。

没落ぼつらく

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ニコラエ・チャウシェスクとポル・ポト(1978ねん

カンボジアじんあいだでは、カンボジアの暗黒あんこく時代じだい英語えいごばんこう南国なんごく南進なんしん領土りょうど侵食しんしょくされたなどの因縁いんねんもあり、となり大国たいこくであるベトナムにたいする反感はんかんつよい。シハヌーク時代じだいに50まんにんいたベトナムじんのうち、1970ねんまでに虐殺ぎゃくさつ迫害はくがいのがれるためベトナムに帰還きかんしたものは20まんにん以上いじょうにのぼる。ポル・ポトははんベトナムのプロパガンダ喧伝けんでんし、クメール・ルージュのラジオ放送ほうそうでは「ベトナムを排除はいじょするのに洗練せんれんされた武器ぶき必要ひつようない。歴史れきしある民族みんぞく各人かくじんが、その一人ひとりにつき10にんのベトナムじんころせばりる」と放送ほうそうした。

1978ねん1がつ民主みんしゅカンプチアはカンボジア東部とうぶからベトナム領内りょうない越境えっきょう攻撃こうげきし、現地げんち住民じゅうみん虐殺ぎゃくさつしたうえベトナムと国交こっこう断交だんこうした。5月には中央ちゅうおうのポル・ポトへの反乱はんらんうたがいをたれた東部とうぶぐん管区かんく(そこはベトナムけいカンボジアじん住民じゅうみんおおく、実際じっさいにベトナム政府せいふ民主みんしゅカンプチアへの反乱はんらん提案ていあんしたこともあった)を攻撃こうげきし、東部とうぶ地区ちく大量たいりょうのカンプチア将兵しょうへい処刑しょけいした。このため、ベトナム領内りょうないには、軍民ぐんみんわず、10すうまんにんにのぼる東部とうぶ地区ちく避難ひなんみん流入りゅうにゅうした。そのなかにはヘン・サムリンなどの指導しどうしゃ多数たすうふくまれていた。ベトナム政府せいふは、ベトナム領内りょうないへの侵攻しんこうと、カンボジアないのベトナムじん虐殺ぎゃくさつをやめるよう民主みんしゅカンプチア政府せいふはたらきかけようとしたが、その対話たいわ成功せいこうしなかった。同年どうねん4がつから5がつには、カンボジアぐんがベトナムに侵入しんにゅうし、アンザンしょうバチュクむら英語えいごばんの2地区ちくのほとんどの住民じゅうみん、3,157めい虐殺ぎゃくさつした(バチュクむら虐殺ぎゃくさつ[41]。これにたいし、よく6がつにはベトナムも反撃はんげき開始かいしし、空軍くうぐん国境こっきょう付近ふきん空爆くうばく開始かいしした。またベトナム政府せいふは、クメール・ルージュのカンボジアからの排除はいじょ意思いしかためた。ベトナムはソ連それんにカンプチア侵攻しんこうたいする援助えんじょ要請ようせいし、1978ねん11月3にちえつ友好ゆうこう協力きょうりょく条約じょうやくむすばれた。このうごきにたいし、民主みんしゅカンプチアと友好ゆうこう関係かんけいにあった中国ちゅうごくは、ベトナムに軍事ぐんじ作戦さくせん示唆しさする警告けいこくはっしたが、ベトナムはこれを無視むしした。

1978ねん12月25にち準備じゅんびととのったと判断はんだんしたベトナムは、ベトナム国内こくない避難ひなんしていたカンボジアじんなかから人員じんいんえらび、カンプチア救国きゅうこく民族みんぞく統一とういつ戦線せんせんとしてしんベトナムのぐん組織そしきさせた。カンプチア救国きゅうこく民族みんぞく統一とういつ戦線せんせん議長ぎちょうにはヘン・サムリンがえらばれた。そして、カンボジア国内こくないはんポル・ポトとも連携れんけいし、カンボジア国内こくないみ、カンボジア・ベトナム戦争せんそう勃発ぼっぱつした。ベトナム戦争せんそうからまだすうねんしかっておらず、アメリカがベトナムにのこした武器ぶき装備そうび保持ほじし、ソ連それんから援助えんじょけ、たたかれした将兵しょうへい事欠ことかかなかったベトナムぐん、およびかれらに訓練くんれんけたカンプチア救国きゅうこく民族みんぞく統一とういつ戦線せんせんにとって、粛清しゅくせい影響えいきょうによる混乱こんらん指揮しき系統けいとう崩壊ほうかいしていた民主みんしゅカンプチア革命かくめいぐん排除はいじょは、まった手間取てまどるような作戦さくせんではなかった。カンプチア革命かくめいぐん中国ちゅうごく支援しえんけて装備そうび充実じゅうじつしていたが、正面しょうめんからベトナムぐんめようとしてもてきわず、わずか2週間しゅうかんでカンプチア革命かくめいぐん兵力へいりょく文字通もじどお半減はんげんした。

1979ねん1がつ7にち、ベトナムぐんはプノンペンにはいり、ポル・ポトの軍勢ぐんぜい敗走はいそうさせた。そしてベトナムの影響えいきょうつよけたヘン・サムリン政権せいけんカンプチア人民じんみん共和きょうわこく)が成立せいりつした。クメール・ルージュぐんおよびポル・ポトはタイ国境こっきょう付近ふきんのジャングルへのがれた。タイはカンボジア領内りょうないでポル・ポトによって採掘さいくつされるルビー売買ばいばい利権りけん、さらにはんベトナムの意図いとから、自国じこくりょう拠点きょてんにポル・ポトがベトナムぐんおよびヘン・サムリン政権せいけんぐん反攻はんこうすることを容認ようにんした。ポル・ポトはくに西部せいぶしょう地域ちいき保持ほじし、タイ領内りょうないからの越境えっきょう攻撃こうげきおこないつつ、以後いごはんベトナム・はんサムリン政権せいけん武装ぶそう闘争とうそうつづけた。

外交がいこう関係かんけい

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民主みんしゅカンプチアにはおな社会しゃかい主義しゅぎこく中国ちゅうごく北朝鮮きたちょうせんキューバエジプトアルバニアラオス、ベトナム(1977ねん12がつまで)、ルーマニアユーゴスラビア外交がいこう使節しせつだん常駐じょうちゅうしていた[42]。ポル・ポトとシハヌークを支援しえんしていた中国ちゅうごくは1まんにん規模きぼ顧問こもんだん派遣はけんしていた[43]

日本にっぽんは1975ねん民主みんしゅカンプチアを国家こっか承認しょうにんしてよく1976ねん国交こっこう樹立じゅりつ、1978ねんイエン・サリふく首相しゅしょう訪日ほうにちして当時とうじ園田そのだただし外務がいむ大臣だいじん会談かいだんしている[44]

民主みんしゅカンプチアの亡命ぼうめい政府せいふである民主みんしゅカンプチア連合れんごう政府せいふ (CGDK)英語えいごばんとなってからは、アメリカも国家こっか承認しょうにんして外交がいこう関係かんけいむすんで国連こくれん代表だいひょうけんをめぐる議論ぎろんでも日本にっぽんASEAN諸国しょこくとともにヘン・サムリン政権せいけん反対はんたいした[45]

軍事ぐんじ

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カンプチア王国おうこく民族みんぞく連合れんごう政府せいふのカンボジア人民じんみん民族みんぞく解放かいほうぐん (CPNLAF) をカンプチア革命かくめいぐん英語えいごばん (RAK) に発展はってんてき解消かいしょうし、国軍こくぐんとした。民主みんしゅカンプチア連合れんごう政府せいふになってからは民主みんしゅカンプチア国民こくみんぐん英語えいごばん (NADK) に改称かいしょうされた。

装備そうび

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戦闘せんとういんおおくはAK-47とその中国ちゅうごくせい56しき自動じどうやり装備そうびしていたが、アメリカせい武器ぶきM60機関きかんじゅうブローニングM1919じゅう機関きかんじゅうなど)なども鹵獲ろかくしていた。また、59しき戦車せんしゃM48パットンなどの地上ちじょう戦力せんりょくだけでなく、J-6T-28C-123AC-47C-47UH-1といった航空機こうくうき保有ほゆうしていた[46]

1975ねんには民主みんしゅカンプチアが鹵獲ろかくした海軍かいぐん艦艇かんてい使つかってアメリカ商船しょうせんマヤグエースごう拿捕だほするというマヤグエースごう事件じけん発生はっせいし、アメリカぐんによる救出きゅうしゅつ作戦さくせんおこなわれ、民主みんしゅカンプチアとのあいだで、双方そうほうわせてやく80めい戦死せんししゃ戦闘せんとうとなった。この作戦さくせんは、アメリカぐんにとってベトナム戦争せんそうにおける最後さいご戦闘せんとうであるとかんがえられている[47]

1978ねんカンボジア・ベトナム戦争せんそうさいはカンプチア革命かくめいぐん兵力へいりょくやく7まんめいで、装甲車そうこうしゃは200輛、空軍くうぐん能力のうりょく限定げんていてきになっており[48]中国ちゅうごくからおくられた大量たいりょう中国ちゅうごくせい武器ぶき軍事ぐんじ顧問こもんだん強化きょうかされることとなった[49]

りゃく年表ねんぴょう

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民主みんしゅカンプチアを題材だいざいとした作品さくひん

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劇映画げきえいが
ドキュメンタリー映画えいが
アニメ映画えいが
  • FUNAN フナン(2018ねん、フランス・ルクセンブルク・ベルギー)

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 初期しょきあいだはシアヌークとポル・ポトは結託けったくしていたため、王国おうこく (国歌こっか)国歌こっかになっていた[1]

出典しゅってん

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  1. ^ http://nationalanthems.info/kh.htm
  2. ^ Cambodia – Religion”. Britannica. 29 June 2020閲覧えつらん
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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