カンプチア(1975年 ねん -1976年 ねん ) 民主 みんしゅ カンプチア(1976年 ねん -1982年 ねん )
កម្ពុជា (1975 ‐ 1976)កម្ពុជាប្រជាធិបតេយ្យ (1976 ‐ 1982)
国歌 こっか : 民主 みんしゅ カンプチアの地図 ちず
民主 みんしゅ カンプチア (みんしゅカンプチア、クメール語 ご : កម្ពុជាប្រជាធិបតេយ្យ , ラテン文字 もじ 転写 てんしゃ : Kâmpŭchéa Prâcheathippadey )は、かつてカンボジア に存在 そんざい した国家 こっか である。いわゆるポル・ポト 政権 せいけん の正式 せいしき 名称 めいしょう である。「民主 みんしゅ カンボジア 」とも表記 ひょうき される。
1970年 ねん 、ロン・ノル 将軍 しょうぐん と国民 こくみん 議会 ぎかい はノロドム・シハヌーク を国家 こっか 元首 げんしゅ から解任 かいにん させる。シハヌークは新 しん 政府 せいふ に反対 はんたい し、カンプチア共産党 きょうさんとう (クメール・ルージュ )と同盟 どうめい を結 むす ぶ。ベトナムによるカンボジア東部 とうぶ の占領 せんりょう 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく によるカンボジアヘの大 だい 規模 きぼ な爆撃 ばくげき 、そしてシハヌークの名声 めいせい を利用 りよう して、カンプチア共産党 きょうさんとう は国民 こくみん の大 だい 多数 たすう を代表 だいひょう する、連立 れんりつ 政権 せいけん において平和 へいわ 主義 しゅぎ の政党 せいとう としてその地位 ちい を確立 かくりつ した。
こうして、地域 ちいき の民衆 みんしゅう の支持 しじ を得 え て1975年 ねん 4月 がつ にカンプチア共産党 きょうさんとう を主力 しゅりょく とするカンプチア民族 みんぞく 統一 とういつ 戦線 せんせん (英語 えいご 版 ばん ) (FUNK) によるプノンペン 制圧 せいあつ により、事実 じじつ 上 じょう 誕生 たんじょう した。カンボジア全土 ぜんど を支配 しはい する政府 せいふ としては、1979年 ねん 1月 がつ のカンボジア・ベトナム戦争 せんそう での敗戦 はいせん により崩壊 ほうかい した。その後 ご は亡命 ぼうめい 政府 せいふ として存続 そんぞく し、反 はん ソ連 それん ・反 はん ベトナム陣営 じんえい としてアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく や日本 にっぽん 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく などの支援 しえん を受 う け[ 3] [ 4] 、国際 こくさい 連合 れんごう にも議席 ぎせき を維持 いじ し続 つづ けた。1980年代 ねんだい 以降 いこう はカンボジア内戦 ないせん を長期 ちょうき 化 か させ、政権 せいけん 時代 じだい には総 そう 人口 じんこう の21%から25%が死亡 しぼう し[ 5] [ 6] [ 7] 、そのうち60%は大量 たいりょう 殺戮 さつりく [ 8] によるものでカンボジアは人口 じんこう の3分 ぶん の1を失 うしな ったともされる[ 9] 。
ポル・ポト政権 せいけん の犠牲 ぎせい 者 しゃ の遺骨 いこつ
1973年 ねん 、パリ協定 きょうてい によってアメリカ軍 ぐん がベトナムから撤退 てったい した。それと同時 どうじ に、南 みなみ ベトナム解放 かいほう 民族 みんぞく 戦線 せんせん はカンボジアを去 さ ったが、クメール・ルージュ は政府 せいふ 軍 ぐん との戦 たたか いを続 つづ けた。
1974年 ねん 、ベトナムに駐在 ちゅうざい していた米国 べいこく 国務省 こくむしょう 職員 しょくいん ケネス・M・クイン が、本国 ほんごく 向 む けの報告 ほうこく 書 しょ にてクメール・ルージュのイデオロギーを「ナチス・ドイツ やスターリン体制 たいせい と匹敵 ひってき する恐 おそ るべきもの」として報告 ほうこく する。虐殺 ぎゃくさつ 政権 せいけん としてのクメール・ルージュの実態 じったい を世界 せかい で初 はじ めて暴 あば いた文書 ぶんしょ であったが、米国 べいこく 政府 せいふ はこの報告 ほうこく を重要 じゅうよう 視 し せず、事実 じじつ 上 じょう 黙殺 もくさつ した[ 10] 。
1975年 ねん 4月 がつ 17日 にち 、クメール・ルージュは首都 しゅと プノンペン を占領 せんりょう した。ロン・ノル の親米 しんべい 政権 せいけん は崩壊 ほうかい し、ロン・ノルはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく へ亡命 ぼうめい したが、逃 に げ遅 おく れた一族 いちぞく のロン・ノン (英語 えいご 版 ばん ) 、ロン・ボレト (英語 えいご 版 ばん ) らロン・ノル政権 せいけん の閣僚 かくりょう は、プノンペン陥落 かんらく 直後 ちょくご に「敵 てき 軍 ぐん 掃討 そうとう 委員 いいん 会 かい 」に身柄 みがら を拘束 こうそく され、全員 ぜんいん 処刑 しょけい された。他 ほか にも政治 せいじ 家 か ・高官 こうかん ・警察官 けいさつかん ・軍人 ぐんじん ら700人 にん 余 あま りが殺害 さつがい され、遺体 いたい は共同 きょうどう 墓地 ぼち に投 な げ込 こ まれた。カンボジア共産党 きょうさんとう 書記 しょき 長 ちょう ポル・ポト はノロドム・シハヌーク との間 あいだ で、「売国奴 ばいこくど 」としてリストに名 な を挙 あ げた少数 しょうすう の人物 じんぶつ のみを処刑 しょけい すると約束 やくそく していたが、約束 やくそく は反故 ほご にされた。1975年 ねん 4月 がつ は全 すべ てが無 む から始 はじ まる新 あたら しい時代 じだい としてゼロ年 ねん (英語 えいご 版 ばん ) (クメール語 ご : ឆ្នាំសូន្យ chhnam saun )と呼 よ ばれた[ 11] [ 12] 。
クメール・ルージュによるプノンペン占領 せんりょう 当初 とうしょ 、都市 とし 部 ぶ の住民 じゅうみん はクメール・ルージュを歓迎 かんげい したが、クメール・ルージュは都市 とし 部 ぶ の住民 じゅうみん を農村 のうそん での食糧 しょくりょう 生産 せいさん に強制 きょうせい 的 てき に従事 じゅうじ させるために、「アメリカ軍 ぐん の空爆 くうばく があるので2、3日 にち だけ首都 しゅと から退去 たいきょ するように」と都市 とし 居住 きょじゅう 者 しゃ を地方 ちほう の集団 しゅうだん 農場 のうじょう へ強制 きょうせい 移住 いじゅう させた。農村 のうそん の住民 じゅうみん もそれまでの住宅 じゅうたく を捨 す てさせられ、全 ぜん 人民 じんみん がサハコー(人民公社 じんみんこうしゃ )と言 い われる幅 はば 2メートルから4メートル、長 なが さ3メートルから6メートルの電気 でんき もラジオも、水道 すいどう もない小屋 こや に男女 だんじょ 別 べつ に強制 きょうせい 的 てき に移住 いじゅう させられた。生存 せいぞん 者 しゃ の証言 しょうげん によると、病人 びょうにん ・高齢 こうれい 者 しゃ ・妊 にん 婦 ふ などの弱者 じゃくしゃ に対 たい しても、クメール・ルージュは全 まった く配慮 はいりょ をしなかった[ 13] 。これは世界 せかい で動員 どういん が繰 く り返 かえ されてきた20世紀 せいき の歴史 れきし から見 み ても例 れい のない社会 しゃかい 実験 じっけん だったとされる[ 14] 。
クメール・ルージュは全権 ぜんけん 掌握 しょうあく 後 ご 、国名 こくめい を「民主 みんしゅ カンプチア」に改名 かいめい し、またポル・ポトもこの間 あいだ に自身 じしん の名前 なまえ を「サロット・サル」から「ポル・ポト」へ改 あらた めた。しかしポル・ポトはジャングルから出 で ず、表向 おもてむ きはシハヌークやその側近 そっきん であるペン・ヌート を前面 ぜんめん に出 だ して、彼 かれ らを傀儡 かいらい として操 あやつ ろうとしていた。シハヌークは1975年 ねん に復権 ふっけん したが、クメール・ルージュは君主 くんしゅ 制 せい を回復 かいふく するシハヌークの計画 けいかく を無視 むし した。シハヌークはポル・ポトの真意 しんい を悟 さと ったが、粛清 しゅくせい をおそれて何 なに も出来 でき ず、さらに1976年 ねん 4月 がつ 2日 にち 、クメール・ルージュはシハヌークを王宮 おうきゅう に監禁 かんきん したため、既存 きそん の政府 せいふ は崩壊 ほうかい し、シハヌークは国家 こっか 元首 げんしゅ の地位 ちい を追 お われ、新 あら たな元首 げんしゅ としてキュー・サムファン が国家 こっか 幹部 かんぶ 会 かい 議長 ぎちょう に就任 しゅうにん した。
1976年 ねん 5月13日 にち 、ポル・ポトは民主 みんしゅ カンプチアの首相 しゅしょう に正式 せいしき に就任 しゅうにん し、徹底的 てっていてき な国家 こっか の改造 かいぞう を行 おこな った。中国 ちゅうごく の毛沢東 もうたくとう 思想 しそう に影響 えいきょう されたポル・ポトの目的 もくてき は理論 りろん 上 じょう 原始時代 げんしじだい に存在 そんざい したとされた仮説 かせつ にすぎない「原始 げんし 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 社会 しゃかい 」を再現 さいげん させることにあり、資本 しほん 主義 しゅぎ はおろか都市 とし 文明 ぶんめい を徹底的 てっていてき に廃絶 はいぜつ することであった[ 15] 。民主 みんしゅ カンプチアのもと、通貨 つうか の廃止 はいし [ 16] 、私有 しゆう 財産 ざいさん の没収 ぼっしゅう が行 おこな われた上 うえ 、教育 きょういく や医療 いりょう も否定 ひてい され、国立 こくりつ 銀行 ぎんこう を初 はじ めとした国家 こっか 機関 きかん は、その全 すべ てが廃止 はいし された[ 17] 。国家 こっか 無 む 神 かみ 論 ろん に基 もと づいてカンボジアで伝統 でんとう 的 てき な上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう はおろかカンボジア国内 こくない のイスラム教 いすらむきょう もキリスト教 きりすときょう も全 すべ ての宗教 しゅうきょう を禁止 きんし し[ 18] [ 19] [ 20] [ 21] 、カンボジア国内 こくない のベトナム系 けい 、タイ系 けい 、中国 ちゅうごく 系 けい 、チャム族 ぞく といった少数 しょうすう 民族 みんぞく の存在 そんざい 自体 じたい も禁止 きんし された[ 22] 。伝統 でんとう 的 てき な家族 かぞく の形態 けいたい を解体 かいたい する一方 いっぽう でクメール・ルージュの許可 きょか がない自由 じゆう 恋愛 れんあい や結婚 けっこん も禁止 きんし された[ 23] [ 24] 。
ポル・ポト政権 せいけん 時代 じだい の服装 ふくそう
さらに、内戦 ないせん による都市 とし から農村 のうそん への人口 じんこう の流入 りゅうにゅう も相 あい まって、農村 のうそん での食糧 しょくりょう 生産 せいさん はすでに大 だい 打撃 だげき を受 う けており、1975年 ねん 4月 がつ にはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 国際 こくさい 開発 かいはつ 庁 ちょう (USAID)が「カンボジアの食糧 しょくりょう 危機 きき 回避 かいひ には17.5万 まん - 25万 まん トンの米 べい が必要 ひつよう である」と報告 ほうこく [ 25] し、アメリカ国務省 こくむしょう は「民主 みんしゅ カンプチアは今後 こんご 外国 がいこく からの食糧 しょくりょう 援助 えんじょ を拒否 きょひ するため100万 まん 人 にん が飢餓 きが にさらされることになるだろう」と予測 よそく していた[ 26] 。そのため、ポル・ポトは米 べい の生産 せいさん 量 りょう を3倍 ばい に引 ひ き上 あ げることを目標 もくひょう に掲 かか げ、農村 のうそん への強制 きょうせい 移住 いじゅう を推 お し進 すす め、この目標 もくひょう の下 した 、民主 みんしゅ カンプチアでは中国 ちゅうごく の人民 じんみん 服 ふく のように黒 くろ い農民 のうみん 服 ふく (英語 えいご 版 ばん ) が国民 こくみん の服装 ふくそう となり[ 27] [ 28] [ 29] 、農作業 のうさぎょう や灌漑 かんがい 施設 しせつ の建設 けんせつ などのために、劣悪 れつあく な環境 かんきょう の中 なか で朝 あさ 5時 じ から午後 ごご 10時 じ まで働 はたら かされた。ラッダイト のように近代 きんだい 的 てき な機械 きかい を資本 しほん 主義 しゅぎ 文明 ぶんめい の象徴 しょうちょう と見 み 做したため、全 すべ ては人間 にんげん の手 て 作業 さぎょう によって行 おこな われた。このような過酷 かこく な労働 ろうどう 環境 かんきょう の結果 けっか 、過労 かろう により死亡 しぼう する者 もの が相次 あいつ いだ。強制 きょうせい 労働 ろうどう により運河 うんが やダム [ 30] 、総 そう 延長 えんちょう 1万 まん 5000キロもの巨大 きょだい な水路 すいろ が建設 けんせつ された[ 31] 。また、生産 せいさん された米 べい の多 おお くは外国 がいこく からの武器 ぶき 調達 ちょうたつ 資金 しきん を得 え るために飢餓 きが 輸出 ゆしゅつ をされたため、1日 にち 2杯 はい のおかゆ だけしか許 ゆる されない食生活 しょくせいかつ と劣悪 れつあく な労働 ろうどう 環境 かんきょう は、多 おお くの人民 じんみん を、飢餓 きが 、栄養失調 えいようしっちょう 、過労 かろう による死 し へと追 お いやっていった。このような惨状 さんじょう を目 ま の当 あ たりにしたポル・ポトは、自身 じしん の政策 せいさく の失敗 しっぱい の原因 げんいん を政策 せいさく そのものの問題 もんだい とするよりも、カンボジアやクメール・ルージュ内部 ないぶ に、裏切 うらぎ り者 もの やスパイが潜 ひそ んでいるためであるとして猜疑心 さいぎしん を強 つよ めた。このような猜疑心 さいぎしん は、後 のち に展開 てんかい される党内 とうない での粛清 しゅくせい 、カンプチア人民 じんみん への大量 たいりょう 虐殺 ぎゃくさつ の大 おお きな要因 よういん の一 ひと つとなっていった。
民主 みんしゅ カンプチアは「腐 くさ ったリンゴ は、箱 はこ ごと捨 す てなくてはならない 」と唱 とな えて、政治 せいじ 的 てき 反対 はんたい 者 しゃ を虐殺 ぎゃくさつ した。国民 こくみん は「新 しん 人民 じんみん 」と「旧 きゅう 人民 じんみん 」に区分 くぶん され、プノンペン陥落 かんらく 後 ご に都市 とし から強制 きょうせい 移住 いじゅう させられた新参 しんざん 者 しゃ の「新 しん 人民 じんみん 」はたえず反 はん 革命 かくめい の嫌疑 けんぎ をかけられる一方 いっぽう で長期間 ちょうきかん クメール・ルージュの構成 こうせい 員 いん だった「旧 きゅう 人民 じんみん 」は1976年 ねん まで共同 きょうどう 体 たい で配給 はいきゅう を受 う け、自 みずか ら食料 しょくりょう を栽培 さいばい できた。革命 かくめい 以前 いぜん に海外 かいがい に留学 りゅうがく していた学生 がくせい 達 たち に「帰国 きこく して新 あたら しい国 くに づくりに協力 きょうりょく して欲 ほ しい。」と大使館 たいしかん を通 つう じて呼 よ びかけ帰国 きこく 後 ご 直 ただ ちに殺害 さつがい した。
ポル・ポトや強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ の所長 しょちょう だったカン・ケク・イウ らクメール・ルージュの幹部 かんぶ の多 おお くは高学歴 こうがくれき でインテリ 出身 しゅっしん だったが、高度 こうど な知識 ちしき や教養 きょうよう はポル・ポトの愚民 ぐみん 政策 せいさく の邪魔 じゃま になることから医師 いし や教師 きょうし 、技術 ぎじゅつ 者 しゃ を優遇 ゆうぐう するという触 ふ れ込 こ みで自己 じこ 申告 しんこく させ、別 べつ の場所 ばしょ へ連 つ れ去 さ った後 のち に殺害 さつがい した。やがて連 つ れ去 さ られた者 もの が全 まった く帰 かえ ってこないことが知 し れ渡 わた るようになると、教育 きょういく を受 う けた者 もの は事情 じじょう を察 さっ し、無学 むがく 文盲 もんもう を装 よそお って難 なん を逃 のが れようとしたが、眼鏡 めがね をかけている者 もの 、文字 もじ を読 よ もうとした者 もの 、時計 とけい が読 よ める者 もの など、少 すこ しでも学識 がくしき がありそうな者 もの は片 かた っ端 ぱし から殺害 さつがい された[ 32] 。この政策 せいさく は歴史 れきし 的 てき にも反 はん 知性 ちせい 主義 しゅぎ の最 もっと も極端 きょくたん な例 れい とされる[ 33] [ 34] [ 35] [ 36] 。プノンペンは飢餓 きが と疾病 しっぺい 、農村 のうそん への強制 きょうせい 移住 いじゅう によってゴーストタウン となった一方 いっぽう 、知識 ちしき 人 じん は見 み つかれば殺害 さつがい された。ポル・ポトは「資本 しほん 主義 しゅぎ の垢 あか にまみれていないから」という理由 りゆう で10代前半 ぜんはん の無垢 むく な子供 こども を重用 じゅうよう するようになり[ 37] [ 38] 、少年 しょうねん 兵 へい を操 あやつ り、子供 こども の衛生 えいせい 兵 へい も存在 そんざい した[ 39] [ 40] 。
民主 みんしゅ カンプチアでの死傷 ししょう 者 しゃ 数 すう はさまざまに推計 すいけい されている。カンボジアでは1962年 ねん の国勢調査 こくせいちょうさ を最後 さいご に戦争 せんそう 状態 じょうたい に入 はい り、以後 いご 1975年 ねん までの正確 せいかく な人口 じんこう 動態 どうたい が不明 ふめい となりこうした諸 しょ 推計 すいけい にも大 おお きな開 ひら きが出 で ている。ベトナムが支援 しえん するヘン・サムリン 政権 せいけん は1975年 ねん から1979年 ねん の間 あいだ の死者 ししゃ 数 すう を300万 まん 人 にん とした(これは後 のち に下方 かほう 修正 しゅうせい された)。
フランソワ・ポンショー (英語 えいご 版 ばん ) 神父 しんぷ は230万 まん 人 にん とするが、これは内戦 ないせん 時代 じだい の死者 ししゃ を含 ふく む。イェール大学 だいがく ・カンボジア人 じん 大量 たいりょう 虐殺 ぎゃくさつ プロジェクトは170万 まん 人 にん 、アムネスティ・インターナショナル は140万 まん 人 にん 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 国務省 こくむしょう は120万 まん 人 にん と推計 すいけい するが、これらの機関 きかん は内戦 ないせん 時代 じだい の戦闘 せんとう やアメリカ軍 ぐん の空爆 くうばく による死者 ししゃ 数 すう には全 まった く言及 げんきゅう していない。フィンランド 政府 せいふ の調査 ちょうさ 団 だん は内戦 ないせん と空爆 くうばく による死者 ししゃ が60万 まん 人 にん 、ポル・ポト政権 せいけん 奪取 だっしゅ 後 ご の死者 ししゃ が100万 まん 人 にん と推計 すいけい している。
マイケル・ヴィッカリー (英語 えいご 版 ばん ) は内戦 ないせん による死者 ししゃ を50万 まん 人 にん 、ポル・ポト時代 じだい の死者 ししゃ を75万 まん 人 にん としている。当事 とうじ 者 しゃ による推定 すいてい ではキュー・サムファンは100万 まん 人 にん 、ポル・ポトは80万 まん 人 にん である。
ニコラエ・チャウシェスク とポル・ポト(1978年 ねん )
カンボジア人 じん の間 あいだ では、カンボジアの暗黒 あんこく 時代 じだい (英語 えいご 版 ばん ) に広 こう 南国 なんごく の南進 なんしん で領土 りょうど が侵食 しんしょく されたなどの因縁 いんねん もあり、隣 となり の大国 たいこく であるベトナムに対 たい する反感 はんかん が強 つよ い。シハヌーク時代 じだい に50万 まん 人 にん いたベトナム人 じん のうち、1970年 ねん までに虐殺 ぎゃくさつ と迫害 はくがい を逃 のが れるためベトナムに帰還 きかん した者 もの は20万 まん 人 にん 以上 いじょう にのぼる。ポル・ポトは反 はん ベトナムのプロパガンダ を喧伝 けんでん し、クメール・ルージュのラジオ放送 ほうそう では「ベトナムを排除 はいじょ するのに洗練 せんれん された武器 ぶき は必要 ひつよう ない。歴史 れきし ある民族 みんぞく の各人 かくじん が、その手 て で一人 ひとり につき10人 にん のベトナム人 じん を殺 ころ せば足 た りる 」と放送 ほうそう した。
1978年 ねん 1月 がつ 、民主 みんしゅ カンプチアはカンボジア東部 とうぶ からベトナム領内 りょうない へ越境 えっきょう 攻撃 こうげき し、現地 げんち 住民 じゅうみん を虐殺 ぎゃくさつ した上 うえ ベトナムと国交 こっこう を断交 だんこう した。5月には中央 ちゅうおう のポル・ポトへの反乱 はんらん の疑 うたが いを持 も たれた東部 とうぶ 軍 ぐん 管区 かんく (そこはベトナム系 けい カンボジア人 じん の住民 じゅうみん が多 おお く、実際 じっさい にベトナム政府 せいふ が民主 みんしゅ カンプチアへの反乱 はんらん を提案 ていあん したこともあった)を攻撃 こうげき し、東部 とうぶ 地区 ちく の大量 たいりょう のカンプチア将兵 しょうへい を処刑 しょけい した。このため、ベトナム領内 りょうない には、軍民 ぐんみん を問 と わず、10数 すう 万 まん 人 にん にのぼる東部 とうぶ 地区 ちく の避難 ひなん 民 みん が流入 りゅうにゅう した。その中 なか にはヘン・サムリン などの指導 しどう 者 しゃ も多数 たすう 含 ふく まれていた。ベトナム政府 せいふ は、ベトナム領内 りょうない への侵攻 しんこう と、カンボジア内 ない のベトナム人 じん 虐殺 ぎゃくさつ をやめるよう民主 みんしゅ カンプチア政府 せいふ に働 はたら きかけようとしたが、その対話 たいわ は成功 せいこう しなかった。同年 どうねん 4月 がつ から5月 がつ には、カンボジア軍 ぐん がベトナムに侵入 しんにゅう し、アンザン省 しょう バチュク村 むら (英語 えいご 版 ばん ) の2地区 ちく のほとんどの住民 じゅうみん 、3,157名 めい を虐殺 ぎゃくさつ した(バチュク村 むら の虐殺 ぎゃくさつ )[ 41] 。これに対 たい し、翌 よく 6月 がつ にはベトナムも反撃 はんげき を開始 かいし し、空軍 くうぐん が国境 こっきょう 付近 ふきん に空爆 くうばく を開始 かいし した。またベトナム政府 せいふ は、クメール・ルージュのカンボジアからの排除 はいじょ の意思 いし を固 かた めた。ベトナムはソ連 それん にカンプチア侵攻 しんこう に対 たい する援助 えんじょ を要請 ようせい し、1978年 ねん 11月3日 にち 、ソ越 えつ 友好 ゆうこう 協力 きょうりょく 条約 じょうやく が結 むす ばれた。この動 うご きに対 たい し、民主 みんしゅ カンプチアと友好 ゆうこう 関係 かんけい にあった中国 ちゅうごく は、ベトナムに軍事 ぐんじ 作戦 さくせん を示唆 しさ する警告 けいこく を発 はっ したが、ベトナムはこれを無視 むし した。
1978年 ねん 12月25日 にち 、準備 じゅんび が整 ととの ったと判断 はんだん したベトナムは、ベトナム国内 こくない に避難 ひなん していたカンボジア人 じん の中 なか から人員 じんいん を選 えら び、カンプチア救国 きゅうこく 民族 みんぞく 統一 とういつ 戦線 せんせん として親 しん ベトナムの軍 ぐん を組織 そしき させた。カンプチア救国 きゅうこく 民族 みんぞく 統一 とういつ 戦線 せんせん の議長 ぎちょう にはヘン・サムリンが選 えら ばれた。そして、カンボジア国内 こくない の反 はん ポル・ポト派 は とも連携 れんけい し、カンボジア国内 こくない に攻 せ め込 こ み、カンボジア・ベトナム戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した。ベトナム戦争 せんそう からまだ数 すう 年 ねん しか経 た っておらず、アメリカがベトナムに残 のこ した武器 ぶき 装備 そうび を保持 ほじ し、ソ連 それん から援助 えんじょ を受 う け、戦 たたか い慣 な れした将兵 しょうへい に事欠 ことか かなかったベトナム軍 ぐん 、および彼 かれ らに訓練 くんれん を受 う けたカンプチア救国 きゅうこく 民族 みんぞく 統一 とういつ 戦線 せんせん にとって、粛清 しゅくせい の影響 えいきょう による混乱 こんらん で指揮 しき 系統 けいとう が崩壊 ほうかい していた民主 みんしゅ カンプチア革命 かくめい 軍 ぐん の排除 はいじょ は、全 まった く手間取 てまど るような作戦 さくせん ではなかった。カンプチア革命 かくめい 軍 ぐん は中国 ちゅうごく の支援 しえん を受 う けて装備 そうび は充実 じゅうじつ していたが、正面 しょうめん からベトナム軍 ぐん を食 く い止 と めようとしても敵 てき わず、わずか2週間 しゅうかん でカンプチア革命 かくめい 軍 ぐん の兵力 へいりょく は文字通 もじどお り半減 はんげん した。
1979年 ねん 1月 がつ 7日 にち 、ベトナム軍 ぐん はプノンペンに入 はい り、ポル・ポトの軍勢 ぐんぜい を敗走 はいそう させた。そしてベトナムの影響 えいきょう を強 つよ く受 う けたヘン・サムリン 政権 せいけん (カンプチア人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく )が成立 せいりつ した。クメール・ルージュ軍 ぐん およびポル・ポトはタイ の国境 こっきょう 付近 ふきん のジャングルへ逃 のが れた。タイはカンボジア領内 りょうない でポル・ポト派 は によって採掘 さいくつ されるルビー 売買 ばいばい の利権 りけん を得 え 、さらに反 はん ベトナムの意図 いと から、自国 じこく 領 りょう を拠点 きょてん にポル・ポト派 は がベトナム軍 ぐん およびヘン・サムリン政権 せいけん 軍 ぐん に反攻 はんこう することを容認 ようにん した。ポル・ポトは国 くに の西部 せいぶ の小 しょう 地域 ちいき を保持 ほじ し、タイ領内 りょうない からの越境 えっきょう 攻撃 こうげき も行 おこな いつつ、以後 いご も反 はん ベトナム・反 はん サムリン政権 せいけん の武装 ぶそう 闘争 とうそう を続 つづ けた。
民主 みんしゅ カンプチアには同 おな じ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 国 こく の中国 ちゅうごく 、北朝鮮 きたちょうせん 、キューバ 、エジプト 、アルバニア 、ラオス 、ベトナム(1977年 ねん 12月 がつ まで)、ルーマニア 、ユーゴスラビア の外交 がいこう 使節 しせつ 団 だん が常駐 じょうちゅう していた[ 42] 。ポル・ポトとシハヌークを支援 しえん していた中国 ちゅうごく は1万 まん 人 にん 規模 きぼ の顧問 こもん 団 だん を派遣 はけん していた[ 43] 。
日本 にっぽん は1975年 ねん に民主 みんしゅ カンプチアを国家 こっか 承認 しょうにん して翌 よく 1976年 ねん に国交 こっこう を樹立 じゅりつ 、1978年 ねん にイエン・サリ 副 ふく 首相 しゅしょう は訪日 ほうにち して当時 とうじ の園田 そのだ 直 ただし 外務 がいむ 大臣 だいじん と会談 かいだん している[ 44] 。
民主 みんしゅ カンプチアの亡命 ぼうめい 政府 せいふ である民主 みんしゅ カンプチア連合 れんごう 政府 せいふ (CGDK)(英語 えいご 版 ばん ) となってからは、アメリカも国家 こっか 承認 しょうにん して外交 がいこう 関係 かんけい を結 むす んで国連 こくれん の代表 だいひょう 権 けん をめぐる議論 ぎろん でも日本 にっぽん やASEAN 諸国 しょこく とともにヘン・サムリン政権 せいけん に反対 はんたい した[ 45] 。
カンプチア王国 おうこく 民族 みんぞく 連合 れんごう 政府 せいふ のカンボジア人民 じんみん 民族 みんぞく 解放 かいほう 軍 ぐん (CPNLAF) をカンプチア革命 かくめい 軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) (RAK) に発展 はってん 的 てき 解消 かいしょう し、国軍 こくぐん とした。民主 みんしゅ カンプチア連合 れんごう 政府 せいふ になってからは民主 みんしゅ カンプチア国民 こくみん 軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) (NADK) に改称 かいしょう された。
戦闘 せんとう 員 いん の多 おお くはAK-47 とその中国 ちゅうごく 製 せい の56式 しき 自動 じどう 歩 ふ 槍 やり を装備 そうび していたが、アメリカ 製 せい の武器 ぶき (M60機関 きかん 銃 じゅう やブローニングM1919重 じゅう 機関 きかん 銃 じゅう など)なども鹵獲 ろかく していた。また、59式 しき 戦車 せんしゃ やM48パットン などの地上 ちじょう 戦力 せんりょく だけでなく、J-6 、T-28 、C-123 、AC-47 、C-47 、UH-1 といった航空機 こうくうき も保有 ほゆう していた[ 46] 。
1975年 ねん には民主 みんしゅ カンプチアが鹵獲 ろかく した海軍 かいぐん 艦艇 かんてい を使 つか ってアメリカ商船 しょうせん マヤグエース号 ごう を拿捕 だほ するというマヤグエース号 ごう 事件 じけん が発生 はっせい し、アメリカ軍 ぐん による救出 きゅうしゅつ 作戦 さくせん が行 おこな われ、民主 みんしゅ カンプチアとの間 あいだ で、双方 そうほう 合 あ わせて約 やく 80名 めい の戦死 せんし 者 しゃ が出 で る戦闘 せんとう となった。この作戦 さくせん は、アメリカ軍 ぐん にとってベトナム戦争 せんそう における最後 さいご の戦闘 せんとう であると考 かんが えられている[ 47] 。
1978年 ねん のカンボジア・ベトナム戦争 せんそう の際 さい はカンプチア革命 かくめい 軍 ぐん の兵力 へいりょく は約 やく 7万 まん 名 めい で、装甲車 そうこうしゃ は200輛、空軍 くうぐん の能力 のうりょく は限定 げんてい 的 てき になっており[ 48] 、中国 ちゅうごく からおくられた大量 たいりょう の中国 ちゅうごく 製 せい 武器 ぶき と軍事 ぐんじ 顧問 こもん 団 だん で強化 きょうか されることとなった[ 49] 。
民主 みんしゅ カンプチアを題材 だいざい とした作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
劇映画 げきえいが
ドキュメンタリー映画 えいが
アニメ映画 えいが
^ http://nationalanthems.info/kh.htm
^ “Cambodia – Religion ”. Britannica. 29 June 2020 閲覧 えつらん 。
^ “U.S. to Support Pol Pot Regime For U.N. Seat” . ワシントン・ポスト . (1980年 ねん 9月 がつ 16日 にち ). https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1980/09/16/us-to-support-pol-pot-regime-for-un-seat/58b8b124-7dd7-448f-b4f7-80231683ec57/ 2019年 ねん 4月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
^ “日本 にっぽん ・カンボジア関係 かんけい 略 りゃく 史 し ” . 在 ざい カンボジア日本国 にっぽんこく 大使館 たいしかん . https://www.kh.emb-japan.go.jp/political/nikokukan/history.htm 2019年 ねん 4月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
^ Kiernan, Ben (2003). "The Demography of Genocide in Southeast Asia. The Death Tolls in Cambodia, 1975-79, and East Timor, 1975-80". Critical Asian Studies. 35 (4): 585–597. doi:10.1080/1467271032000147041.
^ Etcheson, Craig (2005). After the Killing Fields: Lessons from the Cambodian Genocide. Greenwood. ISBN 978-0275985134 . p. 119.
^ Heuveline, Patrick (1998). "'Between One and Three Million': Towards the Demographic Reconstruction of a Decade of Cambodian History (1970–79)". Population Studies. 52 (1): 49–65. doi:10.1080/0032472031000150176. JSTOR 2584763. PMID 11619945 . pp. 49-65.
^ Seybolt, Taylor B.; Aronson, Jay D.; Fischoff, Baruch (2013). Counting Civilian Casualties: An Introduction to Recording and Estimating Nonmilitary Deaths in Conflict. Oxford University Press. ISBN 9780199977314 . p.238
^ Etcheson, Craig (2005). After the Killing Fields: Lessons from the Cambodian Genocide. Westport, Connecticut: Praeger Publishers. pp. 10–11.
^ “Kenneth Quinn: From Cambodia’s “killing fields” to Iowa’s Field of Dreams ” (英語 えいご ). www.thegazette.com . 2023年 ねん 7月 がつ 8日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Ponchaud, François (1978). "Cambodia: Year Zero". Internet Modern History Sourcebook.
^ Pilger, John (1979). "Year Zero: The Silent Death of Cambodia (Documentary)". Associated Television (ATV) (1979) (UK) (TV).
^ Kiernan, Ben (1997). The Pol Pot Regime: Race, Power, and Genocide in Cambodia under the Khmer Rouge, 1975–79. London: Yale University Press. pp. 31–158, 251–310. ISBN 0300096496 .
^ Hunt, Michael H. (2014). The World Transformed: 1945 to the Present. New York, NY: Oxford University Press. p. 377. ISBN 978-0-19-937102-0 .
^ Jackson, Karl D (ed) (2014) Cambodia, 1975–1978: Rendezvous with Death, Princeton UP, p.110
^ 国民 こくみん 外交 がいこう 協会 きょうかい (編 へん )、1976年 ねん 7月 がつ 31日 にち 「(二 に )〝通貨 つうか の無 な い国 くに 〟カンボジアの素顔 すがお 」『国民 こくみん 外交 がいこう 』43号 ごう 、国民 こくみん 外交 がいこう 協会 きょうかい 、13–14頁 ぺーじ 。
^ Jackson, Karl D (ed) (2014) Cambodia, 1975–1978: Rendezvous with Death, Princeton UP, p.58-63
^ Juergensmeyer, Mark. The Oxford Handbook of Global Religions. Oxford University Press. p. 495.
^ Quinn-Judge, Westad, Odd Arne, Sophie. The Third Indochina War: Conflict Between China, Vietnam and Cambodia, 1972–79. Routledge. p. 189.
^ Philip Shenon, Phnom Penh Journal; Lord Buddha Returns, With Artists His Soldiers New York Times (January 2, 1992)
^ Wessinger, Catherine (2000). Millennialism, Persecution, and Violence: Historical Cases. Syracuse University Press. p. 282. ISBN 9780815628095 .
^ Gellately, Robert; Kiernan, Ben (2003). The Specter of Genocide: Mass Murder in Historical Perspective. Cambridge University Press. pp. 313–314.
^ Vickery, M. (1999) Cambodia 1975–82, 2nd ed, Silkworm, pp.186–187
^ Mam, K. (1998) An Oral History of Family Life Under the Khmer Rouge, Yale, p.18
^ 井上 いのうえ 恭介 きょうすけ ・藤下 ふじした 超 ちょう 『なぜ同胞 どうほう を殺 ころ したのか』日本 にっぽん 放送 ほうそう 出版 しゅっぱん 協会 きょうかい 、103頁 ぺーじ 。
^ NHK取材 しゅざい 班 はん 『激動 げきどう の河 かわ メコン』日本 にっぽん 放送 ほうそう 出版 しゅっぱん 協会 きょうかい 、32頁 ぺーじ 。
^ “By Any Measure, Pol Pot Engaged in Genocide” . ニューヨーク・タイムズ . (1990年 ねん 9月 がつ 4日 にち ). https://www.nytimes.com/1990/09/04/opinion/l-by-any-measure-pol-pot-engaged-in-genocide-552390.html 2019年 ねん 3月 がつ 26日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Back to black fashion stirs memories” . The Phnom Penh Post . (2001年 ねん 8月 がつ 31日 にち ). https://www.phnompenhpost.com/national/back-black-fashion-stirs-memories 2019年 ねん 3月 がつ 26日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Black uniforms” . The Phnom Penh Post . (2001年 ねん 9月 がつ 28日 にち ). https://www.phnompenhpost.com/national/back-black-fashion-stirs-memories 2019年 ねん 3月 がつ 26日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Cambodia revives Pol Pot's deadly canals” . ニューヨーク・タイムズ . (2008年 ねん 2月 がつ 4日 にち ). https://www.nytimes.com/2008/12/04/world/asia/04iht-canal.4.18410736.html 2019年 ねん 4月 がつ 16日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “【飛 と び立 た つミャンマー】高橋 たかはし 昭雄 あきお 東大 とうだい 教授 きょうじゅ の農村 のうそん 見聞 けんぶん 録 ろく (40)” . Sankei Biz . (2017年 ねん 2月 がつ 10日 とおか ). https://web.archive.org/web/20190416061314/http://www.sankeibiz.jp/macro/news/170210/mcb1702100500009-n1.htm 2019年 ねん 4月 がつ 16日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 池上 いけがみ 彰 あきら 『そうだったのか!現代 げんだい 史 し 』集英社 しゅうえいしゃ 、150頁 ぺーじ 。
^ “Year Zero: Reflections From Cambodia On Hatred, Blame, And U.S. Politics” . ハフポスト . (2016年 ねん 11月28日 にち ). https://www.huffpost.com/entry/year-zero-reflections-from_b_13283058 2019年 ねん 5月 がつ 21日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “People were killed for being academics during the 1970’s in Cambodia” . The Vintage News . (2016年 ねん 8月 がつ 25日 にち ). https://www.thevintagenews.com/2016/08/25/priority-people-killed-academics-1970s-cambodia/ 2019年 ねん 5月 がつ 21日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Trial of the Khmer Rogue ”. 2012年 ねん 4月 がつ 22日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2019年 ねん 5月 がつ 21日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Justus M. van der Kroef, Asian Survey Vol. 19, No. 8 (Aug., 1979), pp. 731-750
^ Coalition to Stop the Use of Child Soldiers (2001年 ねん ). “Global Report on Child Soldiers ”. child-soldiers.org . 2019年 ねん 6月 がつ 4日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Southerland, D (2006年 ねん 7月 がつ 20日 はつか ). “Cambodia Diary 6: Child Soldiers — Driven by Fear and Hate ”. 2019年 ねん 6月 がつ 4日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Khmer Rouge prisoners had child medic” . Sydney Morning Herald . (2009年 ねん 8月 がつ 3日 にち ). https://www.smh.com.au/world/khmer-rouge-prisoners-had-child-medic-20090803-e73t.html 2019年 ねん 4月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
^ http://www.d.dccam.org/Tribunal/Analysis/pdf/Prosecuting_Khmer_Rouge_Medical_Practices_as_Crimes_against_Humanity.pdf
^ MEANWHILE: When the Khmer Rouge came to kill in Vietnam - ウェイバックマシン (2005年 ねん 10月 がつ 27日 にち アーカイブ分 ぶん )
^ Jackson, Karl D. Cambodia 1977: gone to Pot – Asian Survey, 1978. p 82
^ Kurlantzick, Joshua (2008). "China's Growing Influence in Southeast Asia". China's Expansion Into the Western Hemisphere: Implications for Latin America and the United States. Brookings Institution Press. ISBN 978-0-815-77554-6 . p.193
^ “日本 にっぽん ・カンボジア関係 かんけい 略 りゃく 史 し ” . 在 ざい カンボジア日本国 にっぽんこく 大使館 たいしかん . https://www.kh.emb-japan.go.jp/political/nikokukan/history.htm 2019年 ねん 4月 がつ 16日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “U.S. to Support Pol Pot Regime For U.N. Seat” . ワシントン・ポスト . (1980年 ねん 9月 がつ 16日 にち ). https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1980/09/16/us-to-support-pol-pot-regime-for-un-seat/58b8b124-7dd7-448f-b4f7-80231683ec57/ 2019年 ねん 4月 がつ 16日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Conboy, FANK: A History of the Cambodian Armed Forces, 1970-1975 (2011), p. 223.
^ “Mayaguez Recovery Presidents Page ” (2 March 2017). 2 March 2017時 じ 点 てん のオリジナル よりアーカイブ。2019年 ねん 6月 がつ 4日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Morris, Stephen J. (1999). Why Vietnam invaded Cambodia: political culture and causes of war. Chicago: Stanford University Press. ISBN 978-0-8047-3049-5 . p. 103
^ O’Dowd, Edward C. (2007). Chinese military strategy in the third Indochina war: the last Maoist war. Abingdon: Routledge. ISBN 978-0-203-08896-8 . p. 38
イデオロギー・思想 しそう 虐殺 ぎゃくさつ 主導 しゅどう 者 しゃ 犠牲 ぎせい 者 しゃ 生存 せいぞん 者 しゃ 調査 ちょうさ 団 だん