ヘン・サムリン (クメール語 ご : ហេង សំរិន / Heng Samrin, 1934年 ねん 5月25日 にち [ 1] - )は、カンボジア の軍人 ぐんじん 、政治 せいじ 家 か 。カンボジア人民 じんみん 党 とう 名誉 めいよ 議長 ぎちょう 。
内戦 ないせん 時代 じだい は親 しん ベトナム政権 せいけん の国家 こっか 元首 げんしゅ を、内戦 ないせん 後 ご にはカンボジア王国 おうこく の下院 かいん 議長 ぎちょう を務 つと めた。
ヘン・サムリンは1934年 ねん 、フランス統治 とうち 下 か のカンボジア保護 ほご 国 こく コンポンチャム州 しゅう の農家 のうか において、6人 にん 兄弟 きょうだい の第 だい 3子 し として生 う まれた[ 1] [ 2] 。1959年 ねん からクメール人民 じんみん 革命 かくめい 党 とう の為 ため に働 はたら き[ 1] 、わずか3ヶ月 かげつ の党員 とういん 候補 こうほ 期間 きかん を経 へ て[ 3] 、1961年 ねん に正式 せいしき 入党 にゅうとう した[ 1] 。サムリンは初 はじ め、ソー・ピム の東部 とうぶ 地域 ちいき 事務所 じむしょ の密使 みっし となり、ベトナム 国境 こっきょう 付近 ふきん の本営 ほんえい とプノンペン の間 あいだ でメッセージを運 はこ んだ[ 3] 。
1971年 ねん から72年 ねん 、サムリンは東部 とうぶ 地域 ちいき の第 だい 12大隊 だいたい を指揮 しき し[ 3] 、1973年 ねん には第 だい 126連隊 れんたい 長 ちょう に任命 にんめい され、ネアク・ルアン (英語 えいご 版 ばん ) 及 およ びプノンペン の奪取 だっしゅ 戦 せん で活躍 かつやく した[ 4] 。
1975年 ねん 4月 がつ 17日 にち にプノンペンが陥落 かんらく してロン・ノル 政権 せいけん が崩壊 ほうかい した後 のち 、5月に東部 とうぶ 地域 ちいき 軍 ぐん は引 ひ き揚 あ げたが、サムリンの所属 しょぞく する第 だい 1師団 しだん は首都 しゅと に留 とど まった。サムリンは3ヶ月 かげつ 間 あいだ 、ソン・セン の下 した で軍事 ぐんじ 問題 もんだい を学 まな び、「軍 ぐん の編成 へんせい および軍 ぐん の強化 きょうか 」をレクチャーされた[ 5] 。しかし、7月 がつ の会議 かいぎ で第 だい 1師団 しだん は中央 ちゅうおう 直轄 ちょっかつ の第 だい 170師団 しだん に再編 さいへん され、サムリンは部隊 ぶたい を置 お いて一人 ひとり で東部 とうぶ に帰還 きかん させられた[ 5] 。
1976年 ねん 、東部 とうぶ 地域 ちいき 軍 ぐん 第 だい 4師団 しだん 長 ちょう および政治 せいじ 委員 いいん に就任 しゅうにん 。ナヤン・チャンダ によれば、1977年 ねん 9月 がつ のベトナム国境 こっきょう 襲撃 しゅうげき 事件 じけん (タイニンの虐殺 ぎゃくさつ )を機 き に、「国道 こくどう 7号 ごう 戦線 せんせん 」委員 いいん 長 ちょう に昇進 しょうしん したとされる[ 6] 。しかし、1977年 ねん 12月のベトナム軍 ぐん による東部 とうぶ 地域 ちいき 攻撃 こうげき を防 ふせ げず、中央 ちゅうおう の信頼 しんらい を失 うしな うこととなった。
1978年 ねん 5月18日 にち 、サムリンはソー・ピム 東部 とうぶ 地域 ちいき 書記 しょき によりスオン の事務所 じむしょ に召還 しょうかん された[ 7] 。ここで第 だい 4師団 しだん 長 ちょう を解任 かいにん され、あらためて地域 ちいき 軍 ぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう に任命 にんめい され、プレイベンの地域 ちいき 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ に派遣 はけん された[ 7] 。同 どう 5月 がつ 、東部 とうぶ 地域 ちいき 軍 ぐん の師団 しだん 長 ちょう 及 およ び連隊 れんたい 長 ちょう の多 おお くがケ・ポク 中部 ちゅうぶ 地域 ちいき 書記 しょき により召喚 しょうかん ・逮捕 たいほ されており、サムリンは難 なん を逃 のが れることになった[ 7] 。しかし、彼 かれ がプレイベンに到着 とうちゃく した5月23日 にち 、弟 おとうと のヘン・タル (Heng Thal) 第 だい 290師団 しだん 長 ちょう と義兄弟 ぎきょうだい のソス (Soth) 第 だい 21地区 ちく 書記 しょき は逮捕 たいほ され、S-21 に送 おく られた[ 7] [ 8] 。
5月24日 にち 、中央 ちゅうおう 直属 ちょくぞく 軍 ぐん による東部 とうぶ 地域 ちいき 制圧 せいあつ 作戦 さくせん が開始 かいし され、ソー・ピム が自殺 じさつ に追 お い込 こ まれると[ 9] 、ヘン・サムリンは1000人 にん の忠実 ちゅうじつ な部下 ぶか を引 ひ き連 つ れてジャングルに潜伏 せんぷく した。ゲリラ 戦 せん で抵抗 ていこう したものの、間 ま もなくベトナム に逃亡 とうぼう した。
1978年 ねん 12月2日 にち 、ベトナム国境 こっきょう 付近 ふきん のカンボジア領内 りょうない において、反 はん ポル・ポト 抵抗 ていこう 組織 そしき 「カンプチア救国 きゅうこく 民族 みんぞく 統一 とういつ 戦線 せんせん 」の結成 けっせい 式 しき が執 と り行 おこな われ、ヘン・サムリンが戦線 せんせん 議長 ぎちょう に就任 しゅうにん した。12月25日 にち 、ベトナム軍 ぐん とともにカンボジアに進撃 しんげき した。翌 よく 1979年 ねん 1月 がつ 5日 にち から、コンポンチャム州 しゅう ミモト において、かつてのインドシナ共産党 きょうさんとう の流 なが れを汲 く むカンプチア人民 じんみん 革命 かくめい 党 とう の「再建 さいけん 大会 たいかい 」(第 だい 3回 かい 党 とう 大会 たいかい )が開催 かいさい され、7日 にち には7人 にん からなる党 とう 常任 じょうにん 委員 いいん 会 かい の委員 いいん に選出 せんしゅつ された。同日 どうじつ 、首都 しゅと プノンペン が陥落 かんらく し、翌 よく 8日 にち にはヘン・サムリンを議長 ぎちょう とする人民 じんみん 革命 かくめい 評議 ひょうぎ 会 かい の設立 せつりつ を発表 はっぴょう 。10日 とおか 、「カンプチア人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく 」の樹立 じゅりつ を宣言 せんげん した。
1981年 ねん 5月、第 だい 4回 かい 党 とう 大会 たいかい において党 とう 政治 せいじ 局員 きょくいん に選出 せんしゅつ され、党内 とうない 序列 じょれつ 第 だい 2位 い となる[ 10] 。6月、第 だい 1回 かい 国会 こっかい において新 しん 憲法 けんぽう が採択 さいたく され、新設 しんせつ の国家 こっか 評議 ひょうぎ 会 かい 議長 ぎちょう (国家 こっか 元首 げんしゅ )に就任 しゅうにん 。同年 どうねん 、ペン・ソバン 首相 しゅしょう 兼 けん 党 とう 書記 しょき 長 ちょう が失脚 しっきゃく すると、12月2日 にち の第 だい 4期 き 党 とう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 第 だい 2回 かい 総会 そうかい において、後継 こうけい の書記 しょき 長 ちょう に選出 せんしゅつ された。
議長 ぎちょう 就任 しゅうにん 後 ご もタイ 国境 こっきょう でクメール・ルージュ および他 た 勢力 せいりょく からの武力 ぶりょく 抵抗 ていこう に直面 ちょくめん したほか、ベトナム軍 ぐん の支援 しえん を受 う けた政権 せいけん として多 おお くの国 くに から政府 せいふ 承認 しょうにん を得 え られず、国連 こくれん の議席 ぎせき もクメール・ルージュらの「民主 みんしゅ カンプチア連合 れんごう 政府 せいふ 」に握 にぎ られたままであった。
1985年 ねん 10月の第 だい 5回 かい 党 とう 大会 たいかい においては、政治 せいじ 局員 きょくいん および書記 しょき 長 ちょう に再 さい 選出 せんしゅつ され、序列 じょれつ 第 だい 1位 い となる。1989年 ねん の憲法 けんぽう 改正 かいせい により、「カンプチア人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく 」から「カンボジア国 こく 」に改称 かいしょう されたが、引 ひ き続 つづ き国家 こっか 評議 ひょうぎ 会 かい 議長 ぎちょう を務 つと めた。
1991年 ねん 10月18日 にち 、カンプチア人民 じんみん 革命 かくめい 党 とう 臨時 りんじ 党 とう 大会 たいかい が開催 かいさい され、「カンボジア人民 じんみん 党 とう 」に改組 かいそ されるとともに、党 とう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 名誉 めいよ 議長 ぎちょう に選出 せんしゅつ された。
カンボジア和平 わへい 後 ご のカンボジア王国 おうこく においては、政治 せいじ の表 おもて 舞台 ぶたい から退 しりぞ いていたが、1998年 ねん に国民 こくみん 議会 ぎかい (下院 かいん )第 だい 一 いち 副 ふく 議長 ぎちょう に選出 せんしゅつ 。2006年 ねん 3月23日 にち 、ラナリット議長 ぎちょう の退任 たいにん により、国民 こくみん 議会 ぎかい 議長 ぎちょう に選出 せんしゅつ された[ 11] 。
^ a b c d e “Selected excerpts from "Heng Samrin: A Man of the People" (Part 1 & 2: Childhood and Party Member)” . The Cambodia Herald . (2013年 ねん 1月 がつ 13日 にち ). http://www.thecambodiaherald.com/cambodia/detail/1?page=11&token=NDg0NmQ0NWJiMDI5ZDA2YTdhZTM2MWRjOTA5M2M2 2013年 ねん 7月 がつ 22日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 別 べつ 資料 しりょう では8人 にん 兄弟 きょうだい の第 だい 3子 し とある。(Kiernan(2008) , p. 67)
^ a b c Kiernan(2008) , p. 67
^ Kiernan(2008) , p. 65
^ a b Kiernan(2008) , p. 95
^ チャンダ(1999年 ねん )、334ページ。
^ a b c d Kiernan(2008) , p. 394
^ 別 べつ 資料 しりょう によれば、ヘン・タルの逮捕 たいほ は4月 がつ とされている。チャンダ(1999年 ねん )、419ページ。
^ ソー・ピムの最後 さいご については複数 ふくすう の説 せつ がある。チャンダ(1999年 ねん )、443ページ、原注 げんちゅう (40)
^ 木村 きむら 哲三郎 てつさぶろう , 竹内 たけうち 郁雄 いくお 「長期 ちょうき 化 か する諸 しょ 問題 もんだい : 1981年 ねん のインドシナ 」『アジア・中東 ちゅうとう 動向 どうこう 年報 ねんぽう 1982年版 ねんばん 』、アジア経済 けいざい 研究所 けんきゅうじょ 、1982年 ねん 、237-238頁 ぺーじ 、doi :10.20561/00039189 、hdl :2344/00001886 、ISBN 9784258010820 。「同 どう 資料 しりょう によると、政治 せいじ 局 きょく 序列 じょれつ は2位 い で、中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 序列 じょれつ は3位 い となっている。」
^ 初 はつ 鹿野 かの 直美 なおみ 「重要 じゅうよう 日誌 にっし 2006年 ねん 」『フンシンペック党 とう の分裂 ぶんれつ : 2006年 ねん のカンボジア』日本 にっぽん 貿易 ぼうえき 振興 しんこう 機構 きこう アジア経済 けいざい 研究所 けんきゅうじょ 、2007年 ねん 、249頁 ぺーじ 。doi :10.20561/00038504 。hdl :2344/00002580 。ISBN 9784258010073 。https://ir.ide.go.jp/records/38509 。「ZAD200700_013」
^ http://www.hbs.com.kh/download/201005_LB.pdf
^ http://cppdailynews.blogspot.com/2009/12/his-majesty-promotes-cambodian-leaders.html