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カンボジア内戦ないせん

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カンボジア内戦ないせん

内戦ないせんちゅうのカンボジア上空じょうくう飛行ひこうするアメリカ空軍くうぐんUH-1P攻撃こうげきヘリコプター。
戦争せんそう:カンボジア内戦ないせんベトナム戦争せんそう[1]
年月日ねんがっぴ1970ねん3がつ1975ねん4がつ[1]
場所ばしょカンボジア[1]
結果けっか:クメール・ルージュがわ勝利しょうり民主みんしゅカンプチア成立せいりつ[1]
交戦こうせん勢力せいりょく
クメール共和国の旗 クメール共和きょうわこく
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ベトナム共和国の旗 ベトナム共和きょうわこく
カンボジアの旗 カンボジア王国おうこく
民主カンプチアの旗 クメール・ルージュ
ベトナム民主共和国の旗 ベトナム民主みんしゅ共和きょうわこく
南ベトナムの旗 みなみベトナム解放かいほう民族みんぞく戦線せんせん
指導しどうしゃ指揮しきかん
クメール共和国の旗 チェン・ヘン英語えいごばん
クメール共和国の旗 ロン・ノル
クメール共和国の旗 シソワット・シリク・マタク
クメール共和国の旗 ソン・ゴク・タン英語えいごばん
クメール共和国の旗 ハン・トゥン・ハク英語えいごばん
クメール共和国の旗 イン・タム英語えいごばん
クメール共和国の旗 ロン・ボレ英語えいごばん
アメリカ合衆国の旗 リチャード・ニクソン
アメリカ合衆国の旗 ヘンリー・キッシンジャー
アメリカ合衆国の旗 ロバート・マクナマラ
アメリカ合衆国の旗 クラーク・クリフォード
アメリカ合衆国の旗 メルヴィン・レアード
ベトナム共和国の旗 グエン・バン・チュー
カンボジアの旗 ノロドム・シハヌーク
カンボジアの旗 ソン・サン
カンボジアの旗 ペン・ヌート
民主カンプチアの旗 ポル・ポト
民主カンプチアの旗 キュー・サムファン
民主カンプチアの旗 イエン・サリ
民主カンプチアの旗 ヌオン・チア
民主カンプチアの旗 ソン・セン
ベトナムの旗 レ・ズアン
南ベトナムの旗 グエン・フー・ト
戦力せんりょく
300,000にん[2] 72,248にん[3]
損害そんがい
全体ぜんたいで200,000にん~300,000にん犠牲ぎせい[4][5][6] 全体ぜんたいで200,000にん~300,000にん犠牲ぎせい[4][5][6]
冷戦れいせん

カンボジア内戦ないせん(カンボジアないせん、クメール: សង្គ្រាមស៊ីវិលកម្ពុជា)は、だいインドシナ戦争せんそうなかたたかいのひとつで、1970ねんカンボジア王国おうこくたおれてから、1993ねんカンボジア国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょ民主みんしゅ政権せいけん誕生たんじょうするまでカンボジア展開てんかいした内戦ないせんである。

カンボジア紛争ふんそうともいう[7]

シハヌーク統治とうち時代じだい

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カンボジアは1949ねんフランスりょうインドシナからの独立どくりつみとめられ、ノロドム・シハヌーク国王こくおうによって統治とうちされていたが(カンボジア王国おうこく王制おうせい社会しゃかい主義しゅぎサンクム体制たいせい)、王政おうせい対抗たいこうする国内こくない派閥はばつこうそうがあり、国内こくないには不安定ふあんてい要素ようそかかえていた。1965ねん2がつにアメリカがきたベトナムの空爆くうばくると、シハヌークはたいべい断交だんこうった。カンボジア領域りょういきないにはきたベトナムぐんおよびみなみベトナム解放かいほう民族みんぞく戦線せんせん補給ほきゅう基地きち存在そんざいし、カンポン・チャムこうはベトコンへの補給ほきゅう揚陸ようりくみなととして使用しようされていた。また、みなみベトナムぐんアメリカぐんはカンボジア領内りょうないをしばしば領空りょうくう飛行ひこうばくげきおこなった。国内こくない不安定ふあんていだったものの、この当時とうじクメール・ルージュはまだ弱小じゃくしょう勢力せいりょくであり、食糧しょくりょう生産せいさん豊富ほうふ当時とうじのカンボジアは食料しょくりょう輸出ゆしゅつこくだった。アメリカは戦争せんそう遂行すいこうのためにカンボジアに親米しんべいてき政権せいけんつく必要ひつようがあった。

1967ねん4がつバタンバンしゅうのサムロートで、政府せいふによる余剰よじょうまい強制きょうせいけに反対はんたいする農民のうみん地元じもと政府せいふあいだ衝突しょうとつこる[8][9]。1965ねんごろからカンボジアの余剰よじょうまいすくなくとも4ぶんの1あまりがきたベトナムとベトコンにげられていたが、政府せいふはこれよりやすく、地元じもと共産きょうさん主義しゅぎ勢力せいりょく反米はんべいはん政府せいふのビラを暴動ぼうどう煽動せんどうした[10]。サムロート周辺しゅうへん鎮圧ちんあつ作戦さくせんすうげつあいだつづき、右派うは左派さは衝突しょうとつつよまっていく。

1970ねん3がつのクーデター

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シハヌーク国王こくおう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく北京ぺきん訪問ほうもんちゅう1970ねん3月18にち下院かいん国家こっか元首げんしゅとしてのシハヌークを退しりぞけることが満場一致まんじょういっち可決かけつされた。将軍しょうぐんロン・ノル非常時ひじょうじ権力けんりょくあたえられて首相しゅしょうとなり、10月にクメール共和きょうわこく樹立じゅりつ宣言せんげんした。一方いっぽう、シハヌークの従兄弟いとこシリク・マタクは、代理だいり首相しゅしょうとしてのかれ地位ちい保持ほじした。ロン・ノルの首相しゅしょう就任しゅうにんしきさい、アメリカぐんそらからシハヌークを批判ひはんするビラをき、ロン・ノルを援助えんじょした。しん政府せいふはアメリカをうしたて権力けんりょく譲渡じょうと有効ゆうこうせい強調きょうちょうし、アメリカをはじめとするしょ外国がいこくみとめられた。

クーデター数日すうじつ、シハヌークは北京ぺきんカンプチア王国おうこく民族みんぞく連合れんごう政府せいふげ、ロン・ノルへの抵抗ていこううったえると、それにこたえるデモと暴動ぼうどうくにいたところしょうじた。3月29にちにはやく40,000にん農民のうみんがシハヌークの復権ふっけん要求ようきゅうするデモ行進こうしんおこなったが、軍隊ぐんたい衝突しょうとつし、おおくの死傷ししょうしゃた。当時とうじのコンポンチャムしゅう知事ちじによればこの地域ちいきだけで2 - 3まんにん農民のうみん共産きょうさん主義しゅぎ影響えいきょうけていた[11]。そのタケオ・スヴァイリエン、カンダルなどしょしゅう州都しゅうと同様どうよう蜂起ほうきこるが武力ぶりょく鎮圧ちんあつされた。

そして、1970ねん3月29にちきたベトナムはカンボジアにたいする攻撃こうげき開始かいしした。公開こうかいされたソ連それん時代じだい記録きろく文書ぶんしょからあきらかになったところによると、この攻撃こうげきクメール・ルージュヌオン・チアからの明確めいかく要求ようきゅうによっておこなわれたとされている[12]

きたベトナムぐん攻勢こうせい(X作戦さくせん)の結果けっか開始かいししてカンボジア東部とうぶから北東ほくとうにかけてのだい部分ぶぶん占領せんりょうし、コンポンチャムなどの都市とし包囲ほういまたは占領せんりょうしていった。カンボジアぐんやぶったのちきたベトナムぐん獲得かくとくした地域ちいき地元じもと武装ぶそう勢力せいりょくへとわたしていった。一方いっぽうクメール・ルージュきたベトナムぐんからは独立どくりつして活動かつどうし、カンボジア南部なんぶおよび南西なんせいに「解放かいほう」をてた。

きたベトナムの攻勢こうせいたいし、ロン・ノルははげしいはんきたベトナムキャンペーンをおこない、みなみベトナム解放かいほう民族みんぞく戦線せんせんへの支援しえんうたがわれたカンボジア在住ざいじゅうのベトナムけい住民じゅうみん迫害はくがい虐殺ぎゃくさつし、プラソト・ネアクルン・タケオでは強制きょうせい収容しゅうようしょなどでベトナムけい住民じゅうみん集団しゅうだん虐殺ぎゃくさつされた。このため、シハヌーク時代じだいに50まんにんいたざいカンボジアベトナムじんのうち20まんにんもが1970ねんにベトナムに集団しゅうだん帰還きかんするという事態じたいとなった。

以上いじょうのような経緯けいいなかで、1970ねん4がつ、ロン・ノルは、アメリカぐんのカンボジア侵攻しんこう許可きょかし、きたベトナム勢力せいりょく駆逐くちくするために、短期間たんきかんであるがアメリカが作戦さくせん展開てんかいした。投下とうかされたばくだんりょうだい世界せかい大戦たいせんでアメリカが日本にっぽん投下とうかした総量そうりょうの1.5ばいにのぼった。しかし、そのはんロン・ノル勢力せいりょくである、きたベトナムに支援しえんされた共産きょうさん主義しゅぎ勢力せいりょくクメール・ルージュ伸張しんちょうつづいた。

クーデターをきっかけにこった内戦ないせんで、すうじゅうまんにん農民のうみん犠牲ぎせいとなり、1970ねんはる以降いこう、わずかいちねんはんあいだに200まんにん国内こくない難民なんみんした。また、農業のうぎょうインフラは徹底的てっていてき破壊はかいされ、1969ねんには耕作こうさく面積めんせき249まんヘクタールをゆうまい23まんトンを輸出ゆしゅつしていたカンボジアは、1974ねんには耕作こうさく面積めんせき5まんヘクタールとなり28まん2000トンのこめ輸入ゆにゅうし、べい値段ねだん1971ねん10リアルから1975ねん340リアルにまで急騰きゅうとうした[13]1971ねんアメリカ会計かいけい監査かんさいん視察しさつだんはカンボジアの深刻しんこく食糧しょくりょう不足ふそく報告ほうこくしている[14]。こうした状況じょうきょうのなか、都市とし米国べいこくからの食糧しょくりょう援助えんじょいつなぐことができたが、援助えんじょのいきわたらない農村のうそんではだい規模きぼ飢餓きが危機きき進行しんこうしつつあった。

クメール・ルージュの支配しはい

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1972ねん1がつ、アメリカはロン・ノル政権せいけん支援しえんのためにみなみベトナム派遣はけんぐん一部いちぶをカンボジアへ侵攻しんこうさせ、この内戦ないせん直接ちょくせつ介入かいにゅうした。これによってベトナム戦争せんそうはインドシナ戦争せんそう拡大かくだいした。ロン・ノルは10がつ軍事ぐんじ独裁どくさい体制たいせい宣言せんげんし、よく1972ねん3がつ大統領だいとうりょう独裁どくさいてき権力けんりょくをもたせたしん憲法けんぽう公布こうふした。

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくからの密接みっせつ支援しえんけたクメール・ルージュは戦闘せんとうつづける。1973ねん1がつにパリでベトナム和平わへい協定きょうてい調印ちょういんされアメリカぐんがベトナムから撤退てったいすると、後見こうけんうしなったロン・ノル政権せいけん崩壊ほうかいかう(カンポットのたたか英語えいごばん1974ねん2がつ26にち - 4がつ2にち)。

1975ねん4がつ、ロン・ノルは国外こくがい亡命ぼうめい隣国りんごくベトナムではみなみベトナムのサイゴン陥落かんらくし、きたベトナムが勝利しょうりをおさめてベトナム戦争せんそう終結しゅうけつした。この13にちまえ、クメール・ルージュが首都しゅとプノンペン陥落かんらくさせ、1976ねん1がつに「カンボジア民主みんしゅこく憲法けんぽう」を公布こうふし、国名こくめい民主みんしゅカンプチア改称かいしょうした。

内戦ないせんちゅう、アメリカぐん農村のうそんへの爆撃ばくげきにより農村のうそん人口じんこう難民なんみんとして都市とし流入りゅうにゅうし、プノンペンの人口じんこうは200まん以上いじょう増加ぞうかしていた。農村のうそんでの食糧しょくりょう生産せいさんはすでにだい打撃だげきけており、1975ねん4がつにはUSAIDが「カンボジアの食糧しょくりょう危機きき回避かいひには17.5まん - 25まんトンのべい必要ひつようである」と報告ほうこく[15]国務省こくむしょうは「共産きょうさんカンボジアは今後こんご外国がいこくからの食糧しょくりょう援助えんじょられなくなるため100まんにん飢餓きがにさらされることになるだろう」と予測よそくしていた[16]

プノンペン陥落かんらく、クメール・ルージュの指導しどうしゃであるポル・ポトは、「都市とし住民じゅうみんかて都市とし住民じゅうみん自身じしん耕作こうさくさせる」という視点してんから、都市とし居住きょじゅうしゃ資本しほん技術ぎじゅつしゃ学者がくしゃ知識ちしきじんなどから一切いっさい財産ざいさん身分みぶん剥奪はくだつし、郊外こうがい農村のうそん強制きょうせい移住いじゅうさせた。病人びょうにん高齢こうれいしゃにんなどの弱者じゃくしゃたいしても、クメール・ルージュはまった配慮はいりょをしなかった[17]。ポル・ポトの目的もくてき原始げんし社会しゃかい原始げんし共産きょうさんせい)の理想りそうてき自給自足じきゅうじそく生活せいかついとなんでいるとみずかかんがえたカンボジアの山岳さんがく民族みんぞくはんとして資本しほん主義しゅぎはおろか都市とし文明ぶんめい徹底的てっていてき廃絶はいぜつすることであった[18]。これは世界せかい動員どういんかえされてきた20世紀せいき歴史れきしからてもれいのない社会しゃかい実験じっけんだったとされる[19]高度こうど知識ちしき教養きょうようはポル・ポトの愚民ぐみん政策せいさく邪魔じゃまになることから医師いし教師きょうし技術ぎじゅつしゃ優遇ゆうぐうするというみで自己じこ申告しんこくさせ、べつ場所ばしょったのち殺害さつがいした。やがてられたものまったかえってこないことがわたるようになると、教育きょういくけたもの事情じじょうさっし、無学むがく文盲もんもうよそおってなんのがれようとしたが、眼鏡めがねをかけているもの文字もじもうとしたもの時計とけいめるものなど、すこしでも学識がくしきがありそうなものかたぱしから殺害さつがいされた[20]。この政策せいさく歴史れきしてきにもはん知性ちせい主義しゅぎもっと極端きょくたんれいとされる[21][22][23][24]。また、ポル・ポトは「資本しほん主義しゅぎあかにまみれていないから」という理由りゆうおやからはなして集団しゅうだん生活せいかつをさせておさないうちから農村のうそん工場こうじょうでの労働ろうどう軍務ぐんむいた10代前半ぜんはん無垢むく子供こども重用じゅうようするようになり[25][26]少年しょうねんへいあやつり、子供こども衛生えいせいへい存在そんざいした[27][28]

ポル・ポト時代じだい飢餓きが虐殺ぎゃくさつによる死者ししゃそう人口じんこうの21%から25%とされ[29][30][31]、そのうち60%は大量たいりょう殺戮さつりく[32]によるものでカンボジアは人口じんこうの3ぶんの1をうしなったともされるが[33]、カンボジアでは1962ねん最後さいご国勢調査こくせいちょうさおこなわれておらず、そのうえポル・ポト以前いぜん内戦ないせん空爆くうばくによる犠牲ぎせい人口じんこう難民なんみんにより、もととなる人口じんこう統計とうけい不備ふびであり、こうしたしょ推計すいけいにもおおきくひらきがている。

クメール・ルージュ残虐ざんぎゃく行為こういかんするもっと初期しょき記述きじゅつのうちの1つは、イス・サリンによって1973ねんかれた。かれはクメール・ルージュの幹部かんぶメンバーであったが、ポル・ポトおよび民主みんしゅカンプチアに幻滅げんめつかんじてとうり、9かげつひそかにプノンペンにもどった。かれ著書ちょしょ『クメールのたましいたいする後悔こうかい』(Sranaoh Pralung Khmer) は、クメール・ルージュが存在そんざい秘密ひみつにした上部じょうぶ機構きこう中央ちゅうおう委員いいんかい(Angkar LoeuあるいはたんにAngkar)をあきらかにした。中央ちゅうおう委員いいんかいはKena Mocchhim (Committee Machine) とばれた。

ベトナムぐん介入かいにゅう中越なかごえ戦争せんそう

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1978ねん1がつから、ポル・ポトはベトナム領内りょうない農村のうそんでベトナムじん大量たいりょう虐殺ぎゃくさつおこない(バチュクむら虐殺ぎゃくさつ)、ベトナムと断交だんこうした。べいちゅう国交こっこう回復かいふく以後いご、ベトナム社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみん共和きょうわこくソビエト連邦れんぽうとの関係かんけい強化きょうかしており、ちゅう対立たいりつ構図こうずから、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく関係かんけいふかいポル・ポト政権せいけんとの対立たいりつふかまった。

1978ねん5月、ポル・ポトへの反乱はんらんうたがわれた東部とうぶぐん管区かんくのクメール・ルージュ幹部かんぶ兵士へいしらが、南西なんせいぐん管区かんくのポル・ポトから攻撃こうげきけ、内戦ないせんおちいった(がつ決起けっき)。その結果けっか東部とうぶぐん管区かんく将兵しょうへい大量たいりょう処刑しょけいされ、ベトナム領内りょうないにはじゅうすうまんにん東部とうぶ地区ちく軍民ぐんみん難民なんみんとしてながんだ。ベトナムは、カンボジアからの難民なんみんカンプチア救国きゅうこく民族みんぞく統一とういつ戦線せんせん (KNUFNS) として組織そしきし、ヘン・サムリン首相しゅしょう擁立ようりつして打倒だとうポル・ポトをかかげ、KNUFNSを先頭せんとう民主みんしゅカンプチア領内りょうない侵攻しんこうした。

1979ねん1がつ、ベトナムぐんはプノンペンを攻略こうりゃくし、クメール・ルージュ体制たいせい崩壊ほうかい、ベトナムぐんはポル・ポト一派いっぱタイ国境こっきょうちかくの山林さんりんまで駆逐くちくした。そしてしんベトナムのヘン・サムリン政権せいけん樹立じゅりつされたが、ベトナムぐん山林さんりんかくれたポル・ポトをとらえられず、ポル・ポトはタイりょう避難ひなん場所ばしょとしてベトナムぐん攻撃こうげきつづけた。

よく2がつには中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐんがカンボジア侵攻しんこう報復ほうふくとしてベトナムを攻撃こうげきした(中越なかごえ戦争せんそう)。中越なかごえ戦争せんそう投入とうにゅうされたのは北部ほくぶ出身しゅっしん将兵しょうへいであった一方いっぽう、カンボジアに侵攻しんこうしたベトナムぐんは、きゅうベトコンときゅう政府せいふぐんからなる南部なんぶ兵士へいし主力しゅりょくとなった。しかし、戦争せんそうれ、士気しきたびたかく、ソ連それんから軍事ぐんじ援助えんじょ供与きょうよされていたベトナムぐん中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐん惨敗ざんぱいし、3月には撤収てっしゅうした。

1982ねん2がつかえしをはかるクメール・ルージュとシハヌーク国王こくおう、ロン・ノルながれをくむソン・サンはんベトナムさん北京ぺきん会談かいだんひらき、7がつにははんベトナムさんは「民主みんしゅカンプチア連合れんごう政府せいふen)」を設立せつりつ、カンボジアは完全かんぜん二分にぶんされた。国連こくれん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとアメリカや日本にっぽん[34][35]などはヘン・サムリン政権せいけんをベトナムの傀儡かいらい政権せいけんなして承認しょうにんせず、ゲリラである民主みんしゅカンプチア連合れんごう政府せいふ国連こくれん議席ぎせき維持いじさせつづけた。

1983ねん2がつひらかれたインドシナ3こく首脳しゅのう会談かいだんでは、ベトナムぐん部分ぶぶんてき撤退てったい決議けつぎされたが、ベトナムはこれにしたがわず、3月にポル・ポト拠点きょてん攻撃こうげきした。1984ねん7がつ東南とうなんアジア諸国しょこく連合れんごう (ASEAN) 外相がいしょう会談かいだんでは、駐留ちゅうりゅうベトナムぐんへの非難ひなん共同きょうどう宣言せんげん採択さいたくした。しかし、ベトナムぐん内戦ないせん介入かいにゅうつづけ、1985ねん1がつだい攻勢こうせいをかけ、はんベトナムさん民主みんしゅカンプチア連合れんごう政府せいふ拠点きょてんであるマライさん攻略こうりゃく、3月にはシハヌーク国王こくおう拠点きょてん制圧せいあつし、民主みんしゅカンプチア連合れんごう政府せいふ軍事ぐんじりょくはほぼ壊滅かいめつした。

和平わへいへのみち

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1986ねん7がつ社会しゃかい主義しゅぎベトナムをひきいてきたレ・ズアン書記しょきちょう死去しきょした。あらたに政権せいけんについた後継こうけいしゃチュオン・チン書記しょきちょうは、ソ連それんペレストロイカならい、それまでの硬直こうちょくした社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせいからの脱皮だっぴはかり、12月に「ドイモイ路線ろせん採択さいたくし、市場いちば経済けいざい国際こくさい協調きょうちょう路線ろせんへとかじった。また、チュオン・チンは次々つぎつぎ政府せいふ首脳しゅのうえをおこない、しん体制たいせい基盤きばんかためた。1988ねん6がつ、ベトナムは東南とうなんアジア長年ながねん懸念けねんであったカンボジア駐留ちゅうりゅうぐん撤収てっしゅうをはじめ、よく1989ねん9月に撤退てったいえた。これにより、カンボジアは国際こくさい社会しゃかいによって和平わへいみちびかれることとなる。

冷戦れいせん終結しゅうけつ直後ちょくご1990ねん6がつ日本にっぽん東京とうきょうで「カンボジア和平わへい東京とうきょう会議かいぎ」が開催かいさいされた。つづ1991ねん10月23にちフランスパリで「カンボジア和平わへいパリ国際こくさい会議かいぎ」を開催かいさいし、国内こくないよんによる最終さいしゅう合意ごうい文章ぶんしょう(パリ平和へいわ協定きょうてい調印ちょういんたっし、ここに20ねんおよぶカンボジア内戦ないせん終結しゅうけつした。

1991ねん11月には国際こくさい連合れんごう平和へいわ維持いじ活動かつどう(PKO)の国際こくさい連合れんごうカンボジア先遣せんけんたい (UNAMIC) がカンボジアりし、1992ねん3月15にち国連こくれんカンボジア暫定ざんてい統治とうち機構きこう(UNTAC 明石あかしやすし事務じむ総長そうちょう)が実働じつどうはじめた。UNTACは日本にっぽん自衛隊じえいたいにとってははつのPKOとなり、カンボジア内戦ないせんかかわった中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくにとってもはじめて本格ほんかくてき参加さんかしたPKOであった[36]1993ねん4がつから6がつまで国連こくれん監視かんしそう選挙せんきょおこなわれ、ポル・ポトをのぞくさん参加さんかした。選挙せんきょ結果けっかは、ぜん120議席ぎせきのうち、おう党派とうはのフンシンペックとうが58議席ぎせき、カンボジア人民じんみんとうが51議席ぎせき、ソン・サンの仏教ぶっきょう自由民主党じゆうみんしゅとうが10議席ぎせき、その1議席ぎせきであった。これにより「二人ふたり首相しゅしょうせい」となり、フンシンペックとう党首とうしゅでシハヌーク次男じなんのラナリットがだいいち首相しゅしょう、カンボジア人民じんみんとうのフン・センがだい首相しゅしょう選出せんしゅつされた。9月に制憲せいけん議会ぎかいしん憲法けんぽう発布はっぷ立憲りっけん君主くんしゅせい採択さいたく、ノドロム・シハヌークが国王こくおうさい即位そくいした。

1998ねん4がつには辺境へんきょうのポル・ポト支配しはい地域ちいきでポル・ポトがんだことがあきらかとなり、この平定へいていされた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d カンボジア内戦ないせん”. コトバンク. 2023ねん5がつ13にち閲覧えつらん
  2. ^ Khmer National Armed Forces”. Military Wiki. 2023ねん5がつ13にち閲覧えつらん
  3. ^ The Khmer Rouge National Army: Order of Battle, January 1976”. イェール大学だいがく. 2023ねん5がつ13にち閲覧えつらん
  4. ^ a b Heuveline, Patrick (2001). "The Demographic Analysis of Mortality in Cambodia." In Forced Migration and Mortality, eds. Holly E. Reed and Charles B. Keely. Washington, D.C.: National Academy Press.
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  7. ^ カンボジア紛争ふんそうコトバンク、2018ねん7がつ30にち閲覧えつらん
  8. ^ 清野きよの 真巳子まみこきんじられたいね-カンボジア現代げんだい紀行きこう連合れんごう出版しゅっぱん、p.42
  9. ^ 『NAM』同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん見聞けんぶんしゃへん、p.532
  10. ^ デービッド・P・チャンドラー,『ポル・ポトでん』めこん、p.131
  11. ^ Los Angeles Times 30.March.1970
  12. ^ Dmitry Mosyakov, “The Khmer Rouge and the Vietnamese Communists: A History of Their Relations as Told in the Soviet Archives,” in Susan E. Cook, ed., Genocide in Cambodia and Rwanda (Yale Genocide Studies Program Monograph Series No. 1, 2004), p54ff. ( オンラインばん
    『1970ねん4がつから5がつにかけて、ヌオン・チアによる要請ようせいけ、おおくのきたベトナムぐん部隊ぶたいがカンボジアに侵入しんにゅうした。Nguyen Co Thachは「ヌオン・チアからの要請ようせいけ、我々われわれ10日とおかでカンボジアの5しゅう解放かいほうした」と回想かいそうしている』
    "In April–May 1970, many North Vietnamese forces entered Cambodia in response to the call for help addressed to Vietnam not by Pol Pot, but by his deputy Nuon Chea. Nguyen Co Thach recalls: "Nuon Chea has asked for help and we have liberated five provinces of Cambodia in ten days.""
  13. ^ 「インドシナ現代げんだい」p103,連合れんごう出版しゅっぱん
  14. ^ 「インドシナ現代げんだい」p104,連合れんごう出版しゅっぱん
  15. ^ 井上いのうえ恭介きょうすけ藤下ふじしたすすむ ちょ「なぜ同胞どうほうころしたのか」p103,日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい
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  20. ^ 池上いけがみあきら『そうだったのか!現代げんだい集英社しゅうえいしゃ、150ぺーじ 
  21. ^ “Year Zero: Reflections From Cambodia On Hatred, Blame, And U.S. Politics”. ハフポスト. (2016ねん11月28にち). https://www.huffpost.com/entry/year-zero-reflections-from_b_13283058 2019ねん5がつ21にち閲覧えつらん 
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