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チャムぞく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
チャムぞく
チャムぞくかみかくさない服装ふくそうはチャムフロイじんのもの)
そう人口じんこう
500,000
居住きょじゅう地域ちいき
カンボジアの旗 カンボジア317,000[1]
ベトナムの旗 ベトナム100,000[2]
マレーシアの旗 マレーシア10,000
タイ王国の旗 タイ4,000
アメリカ合衆国の旗 アメリカ3,000
フランスの旗 フランス1,000
言語げんご
チャム
宗教しゅうきょう
イスラム教いすらむきょうシャーフィイー集団しゅうだんとバニー集団しゅうだん支配しはいてき少数しょうすうがバチャム集団しゅうだん(しばしばヒンドゥーきょうバラモン教ばらもんきょう同一どういつされる)とアニミズム(れい信仰しんこう)。
関連かんれんする民族みんぞく
ジャライぞくフィリピンじんマレーじんインドネシアじん
かごをむチャムぞく女性じょせい

チャムぞく(チャムぞく、うらないぞくベトナムngười Chăm / 𠊛うらない, ふつりょう南越なんごし表記ひょうきngười Chàm)は、おもカンボジアおよベトナムこしみなみ)の中部ちゅうぶ南端なんたんおよび南部なんぶ居住きょじゅうする民族みんぞくきゅううらないじょうこく(Campanagara, Nagar Cam)の主要しゅよう民族みんぞく。チャンパじんうらないじょうじん日本にっぽん朱印船しゅいんせん貿易ぼうえき史料しりょうや『はなえびす變態へんたい』などでは、「うらないじょうじん」のみは「チャンパンじん、チャンパンびと」である。

概要がいよう

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りゃく

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チャム(ふくむフロイ)は、ジャライ、エデ、チュルー、ラグライなどチャムささえ話者わしゃ集団しゅうだんとともに、2世紀せいきから7世紀せいきまではやし邑国の、7世紀せいきから14世紀せいきまでうらないじょうこく(Campanagara, Nagar Cam, チャンパ王国おうこく)の主要しゅよう民族みんぞくであった。チャムのくにうらないじょうは、「都市とし国家こっかうらないじょう」を中心ちゅうしんとするマンダラ国家こっかしょう王国おうこく連合体れんごうたい)であった。文化ぶんかとしては舞踊ぶよう音楽おんがく産業さんぎょうとしては織物おりものぎょう窯業ようぎょうさかんで、一弦琴いちげんきんカニーが普及ふきゅうし、レンガづくりの壮麗そうれいなヒンドゥー建築けんちくをサンスクリット碑文ひぶんとともに各地かくちのこし、その陶磁器とうじき山地さんちみんあいだ威信いしんざいとして流通りゅうつうし、その綿織物めんおりものうらないじょうきれ(せんじょうぎれ、ちゃんぱんぎれ)の日本にっぽんにも輸入ゆにゅうされた。とうだいうらないじょうは、うらないじょうのほかにはやし邑、こん崙、たまきおう、奔陀なみなど複数ふくすう漢字かんじ国名こくめい使用しようしており、『きゅうとうしょ』や『しんとうしょ』の撰者せんじゃたちは南方なんぽう属領ぞくりょうであった奔陀なみのぞきこれらの国名こくめいうらないじょうことなる時期じき国名こくめいかんがえた。しかし、そうではなく、奔陀なみふくめ、はやし邑、こん崙、たまきおううらないじょう国内こくないどう時期じき存在そんざいした国内こくないこくしょう王国おうこく)だった可能かのうせいがある。遣唐使けんとうし平群へぐりひろなりらがとうげんむね皇帝こうていひらけもと23ねん735ねん)に漂着ひょうちゃくしたこん崙は、とうはりきゅうよわいらの記録きろくでははやし邑(チャンパ)またはその一部いちぶであった。のべれき18ねん799ねん)に日本にっぽん幡豆はず海岸かいがん漂着ひょうちゃくして綿めんつた一弦琴いちげんきん演奏えんそうしたこん崙人も、それらがチャム文化ぶんか代表だいひょうするものであるため、チャムじん(チャンパじん)だった可能かのうせいがある。『そう』によれば、そうだいうらないじょうきた王国おうこくがらすさとしゅうきゅうしゅう)、みなみ王国おうこくほどこせ備州、しんしゅう)、やまくにうえみなもとしゅう)、みなみ属領ぞくりょう(パーンドゥランガしゅう=パンランどう)などからり、「都市とし国家こっかうらないじょう」はしんしゅうにあった。1471ねんしんしゅう(闍槃)王国おうこく滅亡めつぼう以降いこううらないじょうしんしゅうふく本領ほんりょうをすべて喪失そうしつした。今日きょうのフロイはうらないじょう本領ほんりょうのこった山地さんちみん後継こうけいしゃである。一方いっぽう今日きょうのチャムやチュルー、ラグライは1397ねんしんしゅう(闍槃)の「ジュク Jek 」にほろぼされたしょう王国おうこく「アグイ Bal Anguei」ののこみんが1433ねんみなみ属領ぞくりょう「パンダラン Pangdarang」にうつって再建さいけんした後期こうきうらないじょうこくおよびじゅんじょう鎮(1433-1693, 1695-1832)の後継こうけいしゃである。

ベトナム阮朝によるチャムのよん分類ぶんるい

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大南おおみなみまことろく正編せいへんだい一紀かずのりだいによれば、19世紀せいきのベトナム阮朝はチャムを慣習かんしゅう(アダット)にしたがって「蛮、うらないあまあい」によん分類ぶんるいした。中部ちゅうぶ、ビンディンしょうおよびフーイエンしょう平定へいていしょう富安とみやすしょう)のチャムはマン(山地さんちみん、フロイ集団しゅうだん Hroi)と表記ひょうきされた。中部ちゅうぶ南端なんたん、パンラン・クロン・パリク・パジャイよんどう=いまのニントゥアンしょうやすしじゅんしょうおよびビントゥアンしょうたいらじゅんしょう)のチャムはバチャム(うらないまたはばばうらない Bacam)およびバニー(あままたはばばあま Bani)と表記ひょうきされた。南部なんぶ、タイニンしょう西にしやすししょうおよびアンザンしょう安江やすえしょう)チャウドック地方ちほうのチャムはラーム(あい、おそらくは斯藍のりゃくいまのシャーフィイー)と表記ひょうきされた。1695-1832ねんまで存続そんぞくしたチャム最後さいご王朝おうちょうじゅんじょう鎮」では、ラグライなどの山地さんちみん同様どうように蛮と表記ひょうきされたが、フロイではない)と、うらないあまが「じゅんじょうみん」としてチャムおうじゅんじょう鎮王)の臣民しんみんとされた。チャム・ベトぞくのクレオールであるキンキュウ(きょうきゅう Kinh Cựu)もじゅんじょうみんとされ、阮朝直轄ちょっかつりょうのベトぞく(18世紀せいきうらないばばおう档案」じょう漢字かんじ表記ひょうきはなみんかんみんまたはやすみなみみん)とくらべ、税制ぜいせいじょう若干じゃっかん優遇ゆうぐうがあった。ていふところとく Trịnh Hoài Đức の『よしみてい城通じょうどおりこころざし』(1820)によれば、南部なんぶ、タイニンの山地さんちみんおよび平地ひらちみんじゅんじょうみんとしてチャムおうじゅんじょう鎮王)の統治とうちにあった。当時とうじのタイニンの平地ひらちみんがバニーであったかラーム(シャーフィイー)であったかはよくわからない。現在げんざい、タイニンの平地ひらち少数しょうすう民族みんぞく(チャム)はすべてイスラーム(シャーフィイーほう学派がくは)にぞくする。

20世紀せいきまつ現在げんざいのチャムの人口じんこう

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1999ねんのベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく人口じんこう住居じゅうきょセンサス(民族みんぞくべつ人口じんこう統計とうけい)によれば、チャムの人口じんこうやく10まんにんであった。宗教しゅうきょうべつ人口じんこう統計とうけいもとづくその内訳うちわけは、南中なんちゅう(ビンディンしょう、フーイエンしょう)にフロイがやく1まんにん中部ちゅうぶ南端なんたんニントゥアンしょうビントゥアンしょう)にバチャムがやく4まんにん、バニーがやく3.5まんにん、イスラーム(シャーフィイー)がやく5000にん南部なんぶタイニンしょうホーチミンシティーアンザンしょうにシャーフィイー集団しゅうだんやく1まんにん(トータルでやく1.5まんにん、このなかにはチャムはなさないチャヴァクーをふくむ)であった。このころ、カンボジア国内こくないには、正確せいかく統計とうけいはないものの、ムスリム(チャム、ムラユ、チャヴァクーをわせて)やく20まんにんらしているといわれていた。

20ねん2019ねんのベトナム人口じんこう住居じゅうきょセンサス民族みんぞくべつ人口じんこう統計とうけい、pp.43–44)によれば、チャムの人口じんこうやく18まんにんである。宗教しゅうきょうべつ人口じんこう統計とうけい(p.211)から推測すいそくしたその内訳うちわけは、フロイがやく2まんにん、バチャムがやく7まんにん、バニーがやく6まんにん、イスラーム(シャーフィイー)がやく3まんにんである。国内こくない移動いどう就労しゅうろう自由じゆう大幅おおはば緩和かんわされたことから、若者わかもの中心ちゅうしんに、地方ちほう住民じゅうみんひょういたまま、ホーチミンシティーとその衛星えいせい都市としらすものえ、地方ちほう在住ざいじゅうのチャムは実質じっしつてき人口じんこう減少げんしょうをおこしているが、センサスにはそのことが反映はんえいされていないとかんがえられる。カンボジア政府せいふ民族みんぞくべつ人口じんこう統計とうけい公表こうひょうしていないが、2013ねんカンボジア王国おうこくインターセンサル人口じんこう調査ちょうさ最終さいしゅう報告ほうこく宗教しゅうきょうべつ人口じんこう比率ひりつ公表こうひょうしている。それによれば、2008ねんから2013ねんまでの5年間ねんかんで、国内こくないのムスリム人口じんこう比率ひりつは、そう人口じんこうびに反比例はんぴれいして極端きょくたん低下ていかしており(2008ねん:1.9%→2013ねん:1.1%)、人口じんこう比率ひりつから推測すいそくしたカンボジア・チャムの人口じんこうは、どう時期じきのベトナムとほぼおなやく16まんにんであり、2020ねん現在げんざいもベトナムとほぼおなやく18まんにん推測すいそくされる。この人口じんこう減少げんしょうも、みなみタイやマレーシアなど海外かいがいでの就労しゅうろう機会きかいえたことから、若者わかもの中心ちゅうしん国外こくがいらすものえたためとかんがえられる。

ベトナム・カンボジア両国りょうこくにおいて、チャヴァクーをのぞくチャムは、学校がっこう職場しょくばなどの公的こうてき空間くうかんでは公用こうようであるオーストロアジアけいのベトナムやクメールはなし、村落そんらくではオーストロネシアけいチャムささえチャム使用しようする。文字もじとして、ベトナムしきマ字まじ(クオックグー文字もじ)、クメール文字もじのほか、アカンシャハ、フルフジャウィーなどいくつかの書体しょたいチャム文字もじ(インド文字もじおよびアラビア文字もじ)を使用しようする。アラビア表記ひょうき使用しようする文字もじはアカンジャヴァーといい、フルフジャウィーとは峻別しゅんべつされる。呪文じゅもんなどに使用しようする文字もじはアカンリッとばれ、ジャワ文字もじや、現代げんだいクメール文字もじのムールたい非常ひじょうちかい。チャムささえにはチャムとフロイのほかジャライ、エデ、ラグライ、チュルーなどの山地さんち民族みんぞくふくまれ、チャムささえ話者わしゃ人口じんこう総勢そうぜい100まんにんちかい。このほか、チャムとのクレオールだったベトぞくのキンキュウじんクメール方言ほうげんはなすシャーフィイーほう学派がくはのチャヴァクー(ジャワクル)や、そうだい中国ちゅうごく海南かいなんとう移住いじゅうしたかいぞくがらすうらないじん、いまはハナフィーほう学派がくはぞくする)も広義こうぎのチャムである(en:Utsul項目こうもく参照さんしょう)。まえマレーシア連邦れんぽう首相しゅしょうアブドラ・バダウィ近代きんだい海南かいなんとうからかれ南島なんとう(プラウ・ペナン)にうつった海南かいなんチャム(en:Abdullah Ahmad Badawiによると父方ちちかた曾祖母そうそぼ父方ちちかた祖父そふはは)の後裔こうえいである。みなみタイ(パタニけん周辺しゅうへんおよきたマレーシアクランタンしゅう周辺しゅうへん)に、19世紀せいき以降いこう移住いじゅうしたチャムが、1975ねん以降いこうにベトナム・カンボジアから渡来とらいしたチャム難民なんみん子孫しそんや、2000ねん以降いこうおもにカンボジアから渡来とらいしたチャム労働ろうどうしゃたちとざりって生活せいかつしている。

近代きんだいにおけるチャムの独立どくりつ運動うんどう

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チャンパ中央ちゅうおう高地こうち共和きょうわこく臨時りんじ政府せいふ使用しようしたはた

チャムは10世紀せいきごろからイスラームきょう受容じゅようし、現在げんざいはベトナムやカンボジアの少数しょうすう民族みんぞくとして存続そんぞくしている。近代きんだいにおけるチャムの独立どくりつ運動うんどうとして、ベトナム戦争せんそう最中さいちゅう存在そんざいしたチャンパ解放かいほう戦線せんせん英語えいごばん1962ねん1964ねん)、およFULRO(ベトナム・カンボジア抑圧よくあつしょ民族みんぞく闘争とうそう統一とういつ戦線せんせん中部ちゅうぶ高原こうげん方面ほうめんぐんイーバム・エニュオル議長ぎちょう樹立じゅりつした「チャンパ中央ちゅうおう高地こうち共和きょうわこく臨時りんじ政府せいふ」(1964ねん - 1965ねん)がある。チャムささえやバナささえぞくする、複数ふくすうことなる言語げんご宗教しゅうきょう信仰しんこうをもつ人々ひとびと大同団結だいどうだんけつしてたたかった。FULRO 中部ちゅうぶ高原こうげん方面ほうめんぐん本隊ほんたい1969ねんみなみベトナム大統領だいとうりょうグエン・ヴァン・ティエウに投降とうこうし、イーバム議長ぎちょう(エデぞく、カトリック)も1975ねんポル・ポト殺害さつがいされた。しかし、中部ちゅうぶ高原こうげん方面ほうめんぐんカンボジア残存ざんそん部隊ぶたいのペン・アユンは1992ねん国連こくれんカンボジア暫定ざんてい統治とうち機構きこう (UNTAC) 事務じむ総長そうちょう明石あかしやすし投降とうこうするまで、ベトナム残存ざんそん部隊ぶたいトゥーニット・デン(コホーぞく、プロテスタント)は1995ねんにベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく国家こっか主席しゅせきレー・ドゥク・アイン投降とうこうするまで、20ねんにわたりゲリラせん継続けいぞくした。

宗教しゅうきょう

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ヒンドゥーきょう

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チャムのあいだ最初さいしょひろまった宗教しゅうきょうヒンドゥーきょうシヴァである。フランスじん研究けんきゅうしゃおよ植民しょくみん官僚かんりょうは、近代きんだいチャムのイスラムてき信仰しんこうをブラフマニスム(バラモン教ばらもんきょう)とぶが、これはヒンドゥーきょう同義どうぎではなく、チャムの創造そうぞうぬしポークック Po Kuk(アッラーと同一どういつされる)がもつブラフマンてき性格せいかくもとづく命名めいめいかんがえられる。ブラフマンにかんするヒンドゥーきょう根本こんぽん文献ぶんけん「ブラフマスートラ」のもっとも有名ゆうめい注釈ちゅうしゃくしゃシャンカラは、自身じしんを「わたしはシヴァしんである」と名乗なのっており、梵我一如いちにょの梵はシヴァをも包摂ほうせつするただいちかみてきかみであって、イスラームともつうそこする。(ブラフマン[梵、婆羅門ばらもん]は、ブラフマー[梵天ぼんてん婆羅門ばらもんてん]やブラフマナ[婆羅門ばらもん祭司さいし]の語源ごげんではあるが、それとはまったくことなる観念かんねんである。)ヒンドゥーきょう導入どうにゅうとほぼ同時どうじに、上座かみざ仏教ぶっきょう大乗だいじょう仏教ぶっきょう流入りゅうにゅうした。大食たいしょく(タージー、アラブじん商人しょうにん中国ちゅうごくへの交易こうえき途上とじょう寄港きこうするようになると、イスラームきょう浸透しんとうした。シヴァしん男神おかみポークロンガライ Po Klaong Garay、ポーダム Po Dam (Po Adam)、ポーロメ Po Romé、ポークロンムフナイ Po Klaong Mâh Nai など王家おうけ祖先そせんしん同一どういつされ、大地だいち女神めがみポーイヌーヌガン Po Inâ Nâgar、ポーサハイヌー Po Sah Inâ などとともにパンラン、パリク(ニントゥアンしょう・ビントゥアンしょう各地かくちのチャンパいにしえとうにおいて祭祀さいし継続けいぞくされている。ポーサハイヌー王女おうじょは15世紀せいきはじめのイスラーム伝道でんどうしゃポーハニインパン Po Haniim Per のつまである。現在げんざいのチャムも依然いぜんとしてシヴァの象徴しょうちょうであるリンガをまつるが、シヴァというかみめいはナモーシバーヤ Namâ Sibaya などのひじり、頌句にわずかに痕跡こんせきのこすのみで、シヴァしん使用しようされず(ポーギヌウンムチー Po Ginuer Matri とばれる)、シヴァリンガは王家おうけ祖先そせん象徴しょうちょうとしてまつられている。

イスラームきょう

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上記じょうきのように、チャム共同きょうどうたい近世きんせい以来いらい「蛮」フロイ、「うらない」バチャム、「あま」バニー(ふくむカンボジアのカンイマムサン Kan Imam San)、「あい」イスラーム(ベトナムおよびカンボジアのジャウィーしたシャーフィイーの人々ひとびとす。海南かいなんのオチャ U-Tsatも1930年代ねんだい記録きろくではシャーフィイーであった)のよん集団しゅうだんけられる。バチャムとバニーの信仰しんこうは、アニミズム(れい信仰しんこう)と習合しゅうごうしたアッラー信仰しんこうである。チャムの山地さんちみんであっても、チュルーやラグライなどのなかには、カトリック・プロテスタントへの改宗かいしゅう以後いごも、キリストきょうてきかみとはべつに、アニミズムてきかみアッラーへの信仰しんこう維持いじする人々ひとびとがある。チャムであり、かつ山地さんちみんくにから認定にんていされているフロイについては、イスラームしたのちでモン・クメールけい山地さんちみんバフナル(バナ、バナール)と共存きょうぞんしバフナルするなかれい信仰しんこうにもどったのか、もともイスラームされていなかったのか不明ふめいであるが、アッラー信仰しんこう存在そんざい確認かくにんされていない。

そう』によれば、チャムの国家こっか(チャンパ、うらないじょう)はすでにそうだい(11世紀せいき)においてイスラーム相当そうとうすすみ、朝貢ちょうこう使おおくがアラビアめいつ。チャムのイスラーム信仰しんこうにおいてはアリーきわめて重視じゅうしされる。アル・ディマシュキーの『コスモグラフィー』(1325-1327ごろ)にはヒジャーズにおけるアル・ハッジャージの追討ついとうからのがれてアッ・サンフ(チャンパ)にわたった7世紀せいきアリーユーン初期しょきシーア)の亡命ぼうめい伝承でんしょうせられている。『うらないすめらぎ編年史へんねんし』(チャムおう年代ねんだい, Sakkarai dak rai patao Cam)や、サカヤーがパンラン Pa-nrang、パリク Parik 地方ちほう収集しゅうしゅうした伝承でんしょうでは、チャムのイスラームは、ジュクにほろぼされてみなみ属領ぞくりょうのパンランにげたきゅうチャンパー・アグイ王国おうこく Bal Angueiの王族おうぞくのこみんに、最初さいしょのイスラーム伝道でんどうしゃポーシワンのふたりの、ポーハニインパン Po Haniim Per とポークロンバラウ Po Klaong Barau の兄弟きょうだいつたえたものである。

1930年代ねんだい調査ちょうさでは、13世紀せいきまつうらないじょうから海南かいなん移住いじゅうしたとの伝承でんしょう海南かいなんチャム(オチャ U-Tsat)はシャーフィイーであったため、そうだい明代あきようらないじょうのイスラムもシャーフィイーだったとかんがえられる(現在げんざい海南かいなんチャムはハナフィー集団しゅうだんぞくする)。ポーシワンの「シワン」Siwan はNursawan, Nursiwan の表記ひょうきであり、イランの英雄えいゆうおうホスローの別名べつめいアヌシルワン Anusirvan が変化へんかしたもので、イランまたは中央ちゅうおうアジアの出自しゅつじかんがえられるため、これをジャワの初期しょきイスラム伝道でんどうしゃスナン・グレシク(Sunan Gresik, Asmarakandi、中央ちゅうおうアジア・サマルカンドの出身しゅっしんかんがえられる)とどう一人物いちじんぶつ比定ひていする意見いけんもある。宗教しゅうきょう職能しょくのうしゃとして、祖先そせん祭祀さいしつかさどるバチャムのアヒイン Ahiér < akhir(最後さいご人々ひとびとかく職階しょっかいと、アッラー祭祀さいしつかさどるバニーのアワン Awal < awwal(最初さいしょ人々ひとびと)のかく職階しょっかいがある。アワンのかく職階しょっかいはイムム(イマーム)など一般いっぱんてきなイスラームの職階しょっかい共通きょうつうするものがおおい。

ことなる信仰しんこう宗教しゅうきょう共同きょうどうたいあいだでのつうこん

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ベトナム政府せいふ宗教しゅうきょうはんの「公認こうにんされたかく宗教しゅうきょう組織そしきめいさつ」(2020.3.1更新こうしん)は、フロイをのぞくチャムのしょ集団しゅうだんを、バラモン教ばらもんきょう、バニー回教かいきょう、イスラームにさん分類ぶんるいする。これは阮朝のチャムにたいするよん分類ぶんるい「蛮、うらないあまあい」(マン、バチャム、バニー、ラーム)から蛮をのぞいたものとほぼひとしい。かつてはチャムとベトぞく(キン)のつうこんや、チャム内部ないぶでもバチャムとバニーのつうこんはタブーとされていたが、現在げんざいではチャム内部ないぶつうこんはむしろ歓迎かんげいされる。しかしバニーとイスラーム(シャーフィイー)のつうこんはいまもむずかしい。一方いっぽう民族みんぞくとはいえ、山地さんち民族みんぞく同胞どうほうかんがえられており、経済けいざい文化ぶんか格差かくさによる差別さべつはあるものの、つうこん問題もんだいないとされる(チャムがラグライなどを養子ようしにする伝統でんとうもある)。フロイは居住きょじゅうがほかのチャム(バチャム、バニー、イスラーム)からはなれているためどおりこん交渉こうしょうはあまりない。

ベトぞくにおいても、パリクどう(いまビントゥアンしょうバクビンけん)のキンキュウ(きょうきゅう:チャムとベトぞくのクレオール)の4集落しゅうらく:遵教むら(いま Thôn Thái Hòa - Xã Hồng Thái)、しんむつみむら(いま Thôn Thái Bình - Xã Hồng Thái)、春光しゅんこうむら(いま Khu Phố Xuân Quang - Thị Trấn Chợ Lầu), はるかいむら(いま Khu Phố Xuân Hội - Thị Trấn Chợ Lầu)では、チャムとのつうこん普通ふつうおこなわれる。また、パジャイどう(いまビントゥアンしょうハムタンけんおよびハムトゥアンナムけん)の2集落しゅうらく扶持ふちむら(Palei Bhumi= Thôn Phò Trì)とごうよしむら(Palei Mâli= Thôn Hiệp Nghĩa)は、宗教しゅうきょうじょうはほぼ純粋じゅんすいなチャム集落しゅうらく(バニー回教かいきょう)であるが、血統けっとうじょうはチャムとベトぞくのクレオール集落しゅうらくとなっている。

1975ねん4がつ社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめい以降いこう地方ちほう政府せいふとう支部しぶとチャムのしょ宗教しゅうきょうとくにイスラーム(シャーフィイー)の対立たいりつ深刻しんこくになり、中央ちゅうおう政府せいふとうとしてシャーフィイーとの対立たいりつ解消かいしょうつとめたことが、ベトナム共産党きょうさんとうの「チャム同胞どうほうたいする工作こうさくかんする指示しじ」(1983)に看取かんしゅされる。政府せいふ宗教しゅうきょうはんによる「バラモン教ばらもんきょう、バニー回教かいきょう、イスラーム」の公認こうにんは、1970-80年代ねんだい社会しゃかい主義しゅぎ建設けんせつにあたり共産党きょうさんとう民間みんかん信仰しんこういちじるしく制限せいげんするなかで、祭祀さいし継続けいぞくのため、政府せいふとうがわとチャムがわ双方そうほうあゆったすえ苦肉くにくさくという側面そくめんもあった。バチャムの信仰しんこうバラモン教ばらもんきょうばれるが、上記じょうきのように、その命名めいめいはチャムの創造そうぞうぬしポークック (アッラーと同一どういつされる)がもつブラフマンてき性格せいかく注目ちゅうもくしたためであり、現存げんそんするバチャムの祭祀さいし文献ぶんけんにはヒンドゥーきょうバラモン教ばらもんきょうかんするものはほぼ皆無かいむである。フランス植民しょくみん時代じだい慣習かんしゅうてき呼称こしょう Les Chames Brahmanistes を踏襲とうしゅうするかたちで、現在げんざいのベトナム政府せいふ行政ぎょうせいじょう規定きていとしてバチャムの人々ひとびとを「バラモン教徒きょうと」と規定きていする。

宗教しゅうきょうべつ人口じんこう

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すべてのベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく公民こうみん地方ちほう公安こうあんきょくから人民じんみん証明しょうめいしょまたは人民じんみんあししょ交付こうふされ、本人ほんにん両親りょうしん既存きそん情報じょうほう本人ほんにん申告しんこくもとづいて、氏名しめい性別せいべつ生年月日せいねんがっぴ出生しゅっしょう民族みんぞく信仰しんこうする宗教しゅうきょう身体しんたい特徴とくちょう、ほくろ、指紋しもんなどの認証にんしょう情報じょうほう登録とうろくされている。フロイと共産きょうさん党員とういんのぞくチャムは、たいていの場合ばあい宗教しゅうきょうらんバラモン教ばらもんきょう、バニー回教かいきょう、イスラームのいずれかを申告しんこくする。ベトナムの宗教しゅうきょうべつ人口じんこう国勢調査こくせいちょうさによるものが公開こうかいされているが、ベトナム公安こうあんしょうおよび政府せいふ宗教しゅうきょうはんじたいは人民じんみん証明しょうめいしょ台帳だいちょうもとづくベトナム宗教しゅうきょう人口じんこう統計とうけい公表こうひょうしていない。バチャムとバニーはもともとほぼ同数どうすうかんがえられるが、1999ねん人口じんこう住居じゅうきょセンサスにおける宗教しゅうきょうべつ人口じんこう統計とうけいは、バチャム(宗教しゅうきょうらんじょうバラモン教ばらもんきょう)の人々ひとびとから大量たいりょう宗教しゅうきょう申告しんこくしゃたために、そこから推測すいそくされるバチャムとバニー+シャーフィイーの比率ひりつは3:7であった。2019ねん人口じんこう住居じゅうきょセンサスにおける宗教しゅうきょうべつ人口じんこう統計とうけいでは、宗教しゅうきょう申告しんこくしゃ大幅おおはばったとおもわれ、推測すいそくされるバチャムとバニー+シャーフィイーの比率ひりつは48(64,547にん):52(70,934にん)である。ベトナムにおけるバニーとシャーフィイー、およびカンボジアにおけるカンイマムサン(バニー)とシャーフィイーの人口じんこうあるいは人口じんこう比率ひりつ公表こうひょうされていない。

ふたりのトゥアンフォーによる反乱はんらん

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ベトナム南部なんぶ、タイニンしょう・アンザンしょう・ホーチミンシティーのシャーフィイーほう学派がくは集団しゅうだんは、アッラーに帰依きえし、カンボジアやマレーシア、インドネシア、ハドラマウト地方ちほうなど世界せかいのシャーフィイー・ムスリム共同きょうどうたいとつながりをもつ。インラサラーが収集しゅうしゅうした伝承でんしょうによれば、1790年代ねんだい、メッカ(マカハ、おそらくはクランタン)からたと自称じしょうするトァアンフォー Tuen Phaow(大南おおみなみまことろく前編ぜんぺんでは鑚扶)がパンラン、パリクでイスラム復興ふっこう運動うんどうおこない、バニーの信仰しんこう改革かいかくしようとして当時とうじのチャムおうと阮朝にたい反乱はんらんこした。この復興ふっこう運動うんどうはシャーフィイーほう学派がくはただしい信仰しんこう生活せいかつ復興ふっこうしようとしたものであり、たたかいにやぶれたトゥアンフォーは信徒しんとのチャムや山地さんちみんとともにカンボジアにげた。1810ねんごろのカンボジアのムスリム廷臣ていしんとして同名どうめいのトゥアンフォー Tuan Pho がいるが、ふたりがどう一人物いちじんぶつであることは証明しょうめいされていない。この(カンボジア廷臣ていしんであったほうの)トゥアンフォーの息子むすこたちが1840年代ねんだい当時とうじのカンボジアおうえつぐん(阮朝のカンボジア駐留ちゅうりゅうぐん)にたいして反乱はんらんこしたとき、ふたりのチャム貴族きぞく、ジャ・イン Ja In とジャ・バイ Ja Bai がすうせんにんのチャムをひきいて、ちょうあきらこうひきいるえつぐんとともにカンボジアからベトナム南部なんぶ(メコンデルタのチャウドック)へ退却たいきゃく亡命ぼうめいした。

バニーとシャーフィイーの関係かんけい

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ベトナム中部ちゅうぶ、ニントゥアンしょう・ビントゥアンしょうのバチャム、バニーおよびチャムのチュルー、ラグライは、上記じょうきのアッラー信仰しんこうつが、バニーをのぞ帰依きえ儀礼ぎれい割礼かつれいおこなわない。バチャム集団しゅうだんでは自身じしんによるムスリムてき儀礼ぎれいはほとんどおこなわれず、バニー集団しゅうだん儀礼ぎれい参与さんよするかたちをとる。そのバニー集団しゅうだんにおいても一般人いっぱんじんろくしんぎょうなどのイスラム信仰しんこう実践じっせんおこなうことがすくなく、さけ豚肉ぶたにくもある程度ていど許容きょようされ、アワンとばれる宗教しゅうきょう職能しょくのうしゃ階層かいそうだけがろくしんぎょう比較的ひかくてき厳格げんかく実行じっこうする。カンボジアには上記じょうきのように民族みんぞくべつ人口じんこう統計とうけいいが宗教しゅうきょうべつ人口じんこう統計とうけいがあり、ぜん人口じんこうやく1.1%がイスラムで、これがほぼカンボジア・チャムに相当そうとうし(ふくむ、ムラユとチャヴァクー)、うち、90%がシャーフィイー、10%がバニー(カン・イマム・サン)とかんがえられている。ベトナムでは、トゥアンフォーによる宗教しゅうきょう改革かいかくやく200ねん、1960~70年代ねんだいのパンラン、パリク(ニントゥアンしょう・ビントゥアンしょう)で、外部がいぶからたチャムや外部がいぶ接触せっしょくしてシャーフィイーにもどったチャムにより、ふたたびバニーからシャーフィイーへの改宗かいしゅう運動うんどうおこなわれて、一定いっていすう信者しんじゃ獲得かくとくした(バチャムにたいしては改宗かいしゅう運動うんどうおこなわれなかった)。パンラン、パリクのおおくの集落しゅうらくで、バニーの聖堂せいどうとシャーフィイーの聖堂せいどう別個べっこ存在そんざいし、両方りょうほう信者しんじゃたち(そのおおくは本来ほんらい親戚しんせき同士どうしである)の関係かんけい緊張きんちょう状態じょうたいにある。カンボジアでは、はげしい宗教しゅうきょう弾圧だんあつおこなった民主みんしゅカンボジアのポル・ポトクメール・ルージュ政権せいけんおおくのチャムが虐殺ぎゃくさつされたが、犠牲ぎせいになったチャムは多数たすうシャーフィイーであり、少数しょうすうバニー(いまのカンイマムサン)の人々ひとびと不信心ふしんじんしゃなされて、虐殺ぎゃくさつまぬかれたといわれる。

文化ぶんか

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チャムはオーストロネシアけいインドネシアけい、マレーけい)の言語げんごはなし、その形質けいしつつ。おなじオーストロネシアけい言語げんご話者わしゃなかでは、メラネシアひと形質けいしつてきにはパプアにちかい)やミナンカバウひと母系ぼけい制度せいどることでられる。チャムおよびチャムささえ話者わしゃもまた、すべて母系ぼけい制度せいどる。いえ財産ざいさんまもるのは女性じょせい役目やくめである。結婚けっこんは、おっとつまかた住居じゅうきょはいる。したがって、家督かとく母系ぼけい氏族しぞくめい王族おうぞくはじめとして女性じょせい子孫しそんぐ。ただし、ベトナム阮朝が1832ねん以降いこう普及ふきゅうさせた漢字かんじせい継承けいしょうについては、1975ねん社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめい以前いぜんそうけいせいおとこちちせいを、おんなははせいぐ)であり、いま漢字かんじせい継承けいしょう父系ふけいせい普通ふつうである。たとえば、王族おうぞくせい本来ほんらいグエン(阮氏)であり、王家おうけ次期じき当主とうしゅ彼女かのじょちちはは女王じょおうおっと)のせいであるロー()をぐ Lư Nguyễn Hương Diễm(阮香つや王女おうじょである。このように、漢字かんじせいだけをると王家おうけ交替こうたいしたようにえるが、母系ぼけい相続そうぞく不変ふへんであるため、王家おうけがポークロンムフナイという母系ぼけい氏族しぞくであることにわりはい。チャム文化ぶんか中心ちゅうしん祭祀さいし文化ぶんかであり、そのための絵画かいが音楽おんがく舞踊ぶようしょく文化ぶんか香料こうりょう薬草やくそう焼物やきもの(サカヤーおよ平野ひらの裕子ゆうこによる研究けんきゅう)、織物おりもの(タイン・ファンおよ岩永いわなが悦子えつこによる研究けんきゅう)など、高度こうど有形ゆうけい文化ぶんか無形むけい文化ぶんか維持いじする。彫刻ちょうこく建築けんちく近代きんだいにいったんすたれたが、塑像そぞう焼物やきものむらにおけるテラコッタなどを中心ちゅうしん復興ふっこうされ、建築けんちくにおいてもタイン・チェー・フオンによる復興ふっこうこころみがある。

研究けんきゅう

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近代きんだいにおけるチャムにかんする言語げんごがくてき人類じんるいがくてき研究けんきゅうは1830年代ねんだいあかりいのちみかどいたよんやくかんにおけるチャム学習がくしゅう嚆矢こうしとし、Nguyễn Văn Siêu(阮文ちょう)による漢籍かんせきチャム写本しゃほん参照さんしょうした「じゅんじょうのここと」(1867ごろ)があり、また Trương Vĩnh Ký(ちょうひさし)の仏文ふつぶん漢文かんぶんこく書目しょもくしょ」(1898ごろ)のなかに19世紀せいきまつのチャム学習がくしゅうノートがげられている。近代きんだいてき辞書じしょ編纂へんさん人類じんるいがくてき研究けんきゅうはチャム女性じょせい結婚けっこんしたフランス軍人ぐんじん Etienne Aymonier によって1885ねんごろからはじめられ、Antoine Cabaton, E. M. Durand、Paul Mus, Bố Thuận (ぬのじゅん、Aymonier の), Gerard Moussay, P. B. Lafont らフランスじんおよびふつえつクレオールによる写本しゃほん研究けんきゅう人類じんるいがく調査ちょうさ成果せいか対照たいしょうした報告ほうこくがある。1930年代ねんだいまでのフランスじん言語げんご学者がくしゃ人類じんるい学者がくしゃによる著作ちょさく坪井つぼいきゅうさん松本まつもと信広のぶひろ、ガスパルドヌ嘉津子かつこ村松むらまつよしみ)によって日本にっぽんでも紹介しょうかいされた。ベトナムじん(ベトぞく言語げんご学者がくしゃ人類じんるい学者がくしゃとして、1975ねん以前いぜんには Nguyễn Khắc Ngữ, Nghiêm Thẩm, Phan Lạc Tuyên, Nguyễn Văn Luận, Bình Nguyên Lộc があり、1975ねん以降いこうも Trương Đình Hy, Phan An, Phan Xuân Biên, Phan Văn Dốp, Đoàn Văn Phúc, Nguyễn Văn Lợi, Bùi Khánh Thế, Hải Liên, Phan Quốc Anh らがあって、参与さんよ観察かんさつ統計とうけい分析ぶんせきかたりおん分析ぶんせき音楽おんがく分析ぶんせきなどの手法しゅほう研究けんきゅうおこなった。

チャム出身しゅっしんで、チャム・チャム文字もじむことができ、チャム写本しゃほん参照さんしょうしながら人類じんるいがくてき研究けんきゅうすすめた文献ぶんけん学者がくしゃ人類じんるい学者がくしゃとして Abud-al Hamid (Dohamide / Đỗ Hải Minh), Abud-al Rahim (Dorohiem / Đô Rô Hiêm), ポーダルマー (Po Dharma, Quảng Văn Đủ), Jaya Amil Apuei (Sử Văn Ngọc), Bố Xuân Hổ (ぬのはるとら, Aymonier のまご), Nguyễn Thị Bạch Cúc, タイン・ファン (Gru Hajan, Thành Phần), インラサラー (Inrasara, Phú Trạm), Ja Samad Han (Phú Văn Hẳn), サカヤー (Sakaya / Trương Văn Món) などがある。タイン・ファン、タイン・チェー・フオン(Sing-ha, Thành Chế Phương)は祠堂しどう民家みんか復元ふくげんてき研究けんきゅうおこなっている。

日本人にっぽんじん日系にっけいじんによるチャム写本しゃほん研究けんきゅうとして、石澤いしざわ良昭よしあき「チャム写本しゃほん分類ぶんるい」(1980)があり、チャムテキスト・辞書じしょとして、川本かわもと邦衛くにえ「チャム階梯かいてい」(1970)、サカヤーおよびしんこう利彦としひこ「チャム教程きょうてい」「チャム語彙ごいしゅう」(2014-2015)があり、本多ほんだまもるによるチャム神話しんわ翻訳ほんやく田添たぞえ暢彦のぶひこによる海南かいなんチャムかいてるばなし)の民話みんわ類別るいべつ研究けんきゅうがある。また、中村なかむら理恵りえ平野ひらの裕子ゆうこ吉本よしもと康子やすこ大川おおかわ玲子れいこ岩永いわなが悦子えつこ、エミコ・ストック、カオリ・ウエキ、ムツミ・オオイらによるベトナムおよびカンボジア・チャムの言語げんごがくてき人類じんるいがくてき研究けんきゅうがある。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ The Joshua Project
  2. ^ Ethnolgue, 1996

関連かんれん項目こうもく

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