『大南寔録正編』第一紀、第二紀によれば、19世紀のベトナム阮朝はチャムを慣習(アダット)に従って「蛮、占、尼、藍」に四分類した。中部、ビンディン省及びフーイエン省(平定省・富安省)のチャムはマン(蛮=山地民の意、フロイ集団 Hroi)と表記された。中部南端、パンラン・クロン・パリク・パジャイ四道=いまのニントゥアン省(寧順省)及びビントゥアン省(平順省)のチャムはバチャム(占または婆占 Bacam)及びバニー(尼または婆尼 Bani)と表記された。南部、タイニン省(西寧省)及びアンザン省(安江省)チャウドック地方のチャムはラーム(藍、おそらくは伊斯藍の略、今のシャーフィイー)と表記された。1695-1832年まで存続したチャム最後の王朝「順城鎮」では、ラグライなどの山地民(同様に蛮と表記されたが、フロイではない)と、占、尼が「順城民」としてチャム王(順城鎮王)の臣民とされた。チャム・ベト族のクレオールであるキンキュウ(京旧 Kinh Cựu)も順城民とされ、阮朝直轄領のベト族(18世紀「占婆王府档案」上の漢字表記は華民、漢民または安南民)と比べ、税制上若干の優遇があった。鄭懐徳 Trịnh Hoài Đức の『嘉定城通志』(1820)によれば、南部、タイニンの山地民および平地民も順城民としてチャム王(順城鎮王)の統治下にあった。当時のタイニンの平地民がバニーであったかラーム(シャーフィイー)であったかはよくわからない。現在、タイニンの平地少数民族(チャム)はすべてイスラーム(シャーフィイー法学派)に属する。
ベトナム・カンボジア両国において、チャヴァクーを除くチャムは、学校や職場などの公的な空間では公用語であるオーストロアジア系のベトナム語やクメール語を話し、村落ではオーストロネシア系チャム語支のチャム語を使用する。文字として、ベトナム式ローマ字(クオックグー文字)、クメール文字のほか、アカンシャハ、フルフジャウィーなどいくつかの書体のチャム文字(インド文字及びアラビア文字)を使用する。アラビア語表記に使用する文字はアカンジャヴァーといい、フルフジャウィーとは峻別される。呪文などに使用する文字はアカンリッと呼ばれ、古ジャワ文字や、現代クメール文字のムール体に非常に近い。チャム語支にはチャムとフロイのほかジャライ、エデ、ラグライ、チュルーなどの山地民族が含まれ、チャム語支の話者人口は総勢100万人近い。このほか、チャムとのクレオールだったベト族のキンキュウ人、クメール語の方言を話すシャーフィイー法学派のチャヴァクー(ジャワクル)や、宋代に中国海南島に移住した回族(烏占人、いまはハナフィー法学派に属する)も広義のチャムである(en:Utsulの項目を参照)。前マレーシア連邦首相アブドラ・バダウィは近代に海南島から彼南島(プラウ・ペナン)に移った海南チャム(en:Abdullah Ahmad Badawiによると父方の曾祖母=父方の祖父の母)の後裔である。南タイ(パタニ県周辺)及び北マレーシア(クランタン州周辺)に、19世紀以降に移住したチャムが、1975年以降にベトナム・カンボジアから渡来したチャム難民の子孫や、2000年以降に主にカンボジアから渡来したチャム労働者たちと混ざり合って生活している。
チャムの間に最初に広まった宗教はヒンドゥー教シヴァ派である。フランス人研究者及び植民地官僚は、近代チャムの非イスラム的な信仰をブラフマニスム(バラモン教)と呼ぶが、これはヒンドゥー教と同義ではなく、チャムの創造主ポークック Po Kuk(アッラーと同一視される)がもつブラフマン的な性格に基づく命名と考えられる。ブラフマンに関するヒンドゥー教の根本文献「ブラフマスートラ」のもっとも有名な注釈者シャンカラは、自身を「わたしはシヴァ神である」と名乗っており、梵我一如の梵はシヴァをも包摂する唯一神的な神であって、イスラームとも通底する。(ブラフマン[梵、婆羅門]は、ブラフマー[梵天、婆羅門天]やブラフマナ[婆羅門祭司]の語源ではあるが、それとはまったく異なる観念である。)ヒンドゥー教の導入とほぼ同時に、上座部仏教、大乗仏教も流入した。大食(タージー、アラブ人)商人が中国への交易の途上で寄港するようになると、イスラーム教が浸透した。シヴァ神は男神ポークロンガライ Po Klaong Garay、ポーダム Po Dam (Po Adam)、ポーロメ Po Romé、ポークロンムフナイ Po Klaong Mâh Nai など王家の祖先神と同一視され、大地女神ポーイヌーヌガン Po Inâ Nâgar、ポーサハイヌー Po Sah Inâ などと共にパンラン、パリク(ニントゥアン省・ビントゥアン省)各地のチャンパ古塔において祭祀が継続されている。ポーサハイヌー王女は15世紀初めのイスラーム伝道者ポーハニインパン Po Haniim Per の妻である。現在のチャムも依然としてシヴァの象徴であるリンガを祀るが、シヴァという神名はナモーシバーヤ Namâ Sibaya などの聖句、頌句にわずかに痕跡を残すのみで、シヴァ神の名も使用されず(ポーギヌウンムチー Po Ginuer Matri と呼ばれる)、シヴァリンガは王家の祖先の象徴として祀られている。
上記のように、チャム共同体は近世以来「蛮」フロイ、「占」バチャム、「尼」バニー(含むカンボジアのカンイマムサン Kan Imam San)、「藍」イスラーム(ベトナム及びカンボジアのジャウィー化したシャーフィイーの人々を指す。海南のオチャ U-Tsatも1930年代の記録ではシャーフィイーであった)の四集団に分けられる。バチャムとバニーの信仰は、アニミズム(祖霊信仰)と習合したアッラー信仰である。非チャムの山地民であっても、チュルーやラグライなどの中には、カトリック・プロテスタントへの改宗以後も、キリスト教的な神とは別に、アニミズム的な神アッラーへの信仰を維持する人々がある。チャムであり、かつ山地民と国から認定されているフロイについては、イスラーム化した後でモン・クメール系の山地民バフナル(バナ、バナール)と共存しバフナル化する中で祖霊信仰にもどったのか、もともイスラーム化されていなかったのか不明であるが、アッラー信仰の存在は確認されていない。
『宋史』によれば、チャムの国家(チャンパ、占城)はすでに宋代(11世紀)においてイスラーム化が相当進み、朝貢使の多くがアラビア語名を持つ。チャムのイスラーム信仰においてはアリーが極めて重視される。アル・ディマシュキーの『コスモグラフィー』(1325-1327ごろ)にはヒジャーズにおけるアル・ハッジャージの追討から逃れてアッ・サンフ(チャンパ)に渡った7世紀アリーユーン派(初期シーア派)の亡命伝承が載せられている。『占皇家編年史』(チャム王年代記, Sakkarai dak rai patao Cam)や、サカヤーがパンラン Pa-nrang、パリク Parik 地方で収集した伝承では、チャムのイスラームは、ジュクに滅ぼされて南属領のパンランに逃げた旧チャンパー・アグイ王国 Bal Angueiの王族と遺民に、最初期のイスラーム伝道者ポーシワンのふたりの子、ポーハニインパン Po Haniim Per とポークロンバラウ Po Klaong Barau の兄弟が伝えたものである。
ベト族においても、パリク道(いまビントゥアン省バクビン県)のキンキュウ(京旧:チャムとベト族のクレオール)の4集落:遵教村(いま Thôn Thái Hòa - Xã Hồng Thái)、新睦村(いま Thôn Thái Bình - Xã Hồng Thái)、春光村(いま Khu Phố Xuân Quang - Thị Trấn Chợ Lầu), 春会村(いま Khu Phố Xuân Hội - Thị Trấn Chợ Lầu)では、チャムとの通婚が普通に行われる。また、パジャイ道(いまビントゥアン省ハムタン県及びハムトゥアンナム県)の2集落:扶持村(Palei Bhumi= Thôn Phò Trì)と合義村(Palei Mâli= Thôn Hiệp Nghĩa)は、宗教上はほぼ純粋なチャム集落(バニー回教)であるが、血統上はチャムとベト族のクレオール集落となっている。
1975年4月の社会主義革命以降、地方政府・党支部とチャムの諸宗教とくにイスラーム(シャーフィイー)の対立が深刻になり、中央政府・党としてシャーフィイーとの対立解消に努めたことが、ベトナム共産党の「チャム同胞に対する工作に関する指示」(1983)に看取される。政府宗教班による「バラモン教、バニー回教、イスラーム」の公認は、1970-80年代の社会主義建設にあたり共産党が民間信仰を著しく制限する中で、祭祀継続のため、政府・党側とチャム側の双方で歩み寄った末の苦肉の策という側面もあった。バチャムの信仰はバラモン教と呼ばれるが、上記のように、その命名はチャムの創造主ポークック (アッラーと同一視される)がもつブラフマン的な性格に注目したためであり、現存するバチャムの祭祀文献にはヒンドゥー教やバラモン教に関するものはほぼ皆無である。フランス植民地時代の慣習的呼称 Les Chames Brahmanistes を踏襲する形で、現在のベトナム政府も行政上の規定としてバチャムの人々を「バラモン教徒」と規定する。
ベトナム南部、タイニン省・アンザン省・ホーチミンシティーのシャーフィイー法学派集団は、アッラーに帰依し、カンボジアやマレーシア、インドネシア、ハドラマウト地方など世界のシャーフィイー・ムスリム共同体とつながりをもつ。インラサラーが収集した伝承によれば、1790年代、メッカ(マカハ、おそらくはクランタン)から来たと自称するトァアンフォー Tuen Phaow(大南寔録前編では鑚扶)がパンラン、パリクでイスラム復興運動を行い、バニーの信仰を改革しようとして当時のチャム王と阮朝に対し反乱を起こした。この復興運動はシャーフィイー法学派の正しい信仰生活を復興しようとしたものであり、戦いに敗れたトゥアンフォーは信徒のチャムや山地民とともにカンボジアに逃げた。1810年ごろのカンボジアのムスリム廷臣として同名のトゥアンフォー Tuan Pho がいるが、ふたりが同一人物であることは証明されていない。この(カンボジア廷臣であったほうの)トゥアンフォーの息子たちが1840年代に当時のカンボジア王と越軍(阮朝のカンボジア駐留軍)に対して反乱を起こしたとき、ふたりのチャム貴族、ジャ・イン Ja In とジャ・バイ Ja Bai が数千人のチャムを率いて、張明講が率いる越軍とともにカンボジアからベトナム南部(メコンデルタのチャウドック)へ退却・亡命した。
近代におけるチャムに関する言語学的・人類学的な研究は1830年代に明命帝が置いた四訳館におけるチャム語学習を嚆矢とし、Nguyễn Văn Siêu(阮文超)による漢籍チャム写本を参照した「順城遺事」(1867ごろ)があり、また Trương Vĩnh Ký(張永記)の仏文・漢文二か国語書目「士載書譜」(1898ごろ)の中に19世紀末のチャム語学習ノートが挙げられている。近代的辞書の編纂と人類学的研究はチャム女性と結婚したフランス軍人 Etienne Aymonier によって1885年ごろから始められ、Antoine Cabaton, E. M. Durand、Paul Mus, Bố Thuận (布順、Aymonier の子), Gerard Moussay, P. B. Lafont らフランス人および仏越クレオールによる写本研究と人類学調査の成果を対照した報告がある。1930年代までのフランス人言語学者・人類学者による著作は坪井九馬三、松本信広、ガスパルドヌ嘉津子(村松嘉津)によって日本でも紹介された。ベトナム人(ベト族)言語学者・人類学者として、1975年以前には Nguyễn Khắc Ngữ, Nghiêm Thẩm, Phan Lạc Tuyên, Nguyễn Văn Luận, Bình Nguyên Lộc があり、1975年以降も Trương Đình Hy, Phan An, Phan Xuân Biên, Phan Văn Dốp, Đoàn Văn Phúc, Nguyễn Văn Lợi, Bùi Khánh Thế, Hải Liên, Phan Quốc Anh らがあって、参与観察や統計分析、語音分析、音楽分析などの手法で研究を行った。
チャム出身で、チャム語・チャム文字を読むことができ、チャム写本を参照しながら人類学的な研究を進めた文献学者・人類学者として Abud-al Hamid (Dohamide / Đỗ Hải Minh), Abud-al Rahim (Dorohiem / Đô Rô Hiêm), ポーダルマー (Po Dharma, Quảng Văn Đủ), Jaya Amil Apuei (Sử Văn Ngọc), Bố Xuân Hổ (布春虎, Aymonier の孫), Nguyễn Thị Bạch Cúc, タイン・ファン (Gru Hajan, Thành Phần), インラサラー (Inrasara, Phú Trạm), Ja Samad Han (Phú Văn Hẳn), サカヤー (Sakaya / Trương Văn Món) などがある。タイン・ファン、タイン・チェー・フオン(Sing-ha, Thành Chế Phương)は祠堂や民家の復元的な研究を行っている。