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皇甫 謐(こうほ ひつ、215年 - 282年)は、中国の三国時代から西晋にかけての学者。字は士安、号は玄晏先生。
皇甫謐は、後漢の武将として有名な皇甫嵩の曾孫である。安定郡朝那県(現在の寧夏回族自治区固原市彭陽県)の出身。
官職には就かず、著述に専念した。寝食を忘れて書を読み、「書淫」と呼ばれたという[1]。
西晋の武帝は何度も皇甫謐を招いたが、皇甫謐は仕官を断った。皇甫謐が武帝に対して本を借りたいと申し出たとき、武帝は車いっぱいの本を与えた。
左思が「三都賦」を書いた当初、左思が無名のためもあり評判はよくなかったが、皇甫謐が序文を書いたとたんに皆が褒めるようになったという[2][3]。この序は『文選』に収められている。
皇甫謐が当時流行の寒食散(五石散)を服用して苦しんだことは、魯迅の「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」に記されている。
皇甫謐には多くの著作があるが、大部分は失われた。しかし、逸文がしばしば他の書に引用されて残っている。
『隋書』経籍志は、ほかに『朔気長暦』『雑漏刻法』のような暦算の書、寒食散の処方に関する書、『鬼谷子』の注などを皇甫謐の著とする。
- ^ 『晋書』皇甫謐「耽玩典籍、忘寝与食、時人謂之書淫。」
- ^ 『世説新語』文学
- ^ 『晋書』文苑伝・左思
- ^ 『晋書』皇甫謐列伝にはこの書について記さず、また『隋書』経籍志では『黄帝甲乙経』の書名を掲げるが著者名を記していない。現行本には皇甫謐の自序が付されており、また唐の楊玄操「集注難経」序に「昔皇甫元晏総三部為甲乙経」とあることなどから、皇甫謐の著であると考えられている
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