弘前ひろさきはん

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津軽つがるはんから転送てんそう
弘前ひろさきはん拠点きょてんであった弘前ひろさきじょう
現在げんざい青森あおもりけん地図ちずじょう弘前ひろさきはん黒石くろいしはんぞくしていた地域ちいき黄色おうしょくしめす。

弘前ひろさきはん(ひろさきはん)は、江戸えど時代じだい陸奥みちのくこく津軽つがる地方ちほうにあったはんである。通称つうしょう津軽つがるはん(つがるはん)。現在げんざい青森あおもりけん西部せいぶりょうし、ささえはんとして黒石くろいしはんがあった。はんちょう弘前ひろさきじょう青森あおもりけん弘前ひろさき)にあった。弘前ひろさきへの改称かいしょう以前いぜん高岡たかおかはん陸奥みちのく高岡たかおかはん高岡たかおか移転いてん以前いぜん堀越ほりこしはんともいう。領地りょうち藩主はんしゅ津軽つがるから、現代げんだいでは津軽つがるはんばれることもある[1]

津軽つがる家格かかくやなぎあいだ外様とざま大名だいみょう城主じょうしゅ幕末ばくまつに10まんいしこうなおをしたことにより[2] 家格かかく向上こうじょうし、大広間おおひろまめもある国主こくしゅじゅんずるあつかいをけた。はんちょう弘前ひろさきじょう青森あおもりけん弘前ひろさき下白銀しもしろがねまち)にいた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

初代しょだい藩主はんしゅ津軽つがる為信ためのぶ

前史ぜんし[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代ときよ津軽つがるは、北条ほうじょうとくむねりょうであり、とくむね被官ひかんとしておくまれた津軽つがる曾我そがや、津軽つがるきの領主りょうしゅから地頭じとう代官だいかん抜擢ばってきされた津軽つがる安藤あんどう安東あんどう支配しはいした。

曾我そがは、南北なんぼくあさ時代じだいもとなか年間ねんかん(138092ねん)に、詳細しょうさい不明ふめいであるが根城ねじろ南部なんぶによってほろんだとされる。また、安東あんどう南北なんぼくあさ時代じだいには南北なんぼく両朝りょうちょうあいだたくみにまわ本領ほんりょう維持いじ拡大かくだいつとめたが、15世紀せいきなかごろぬかぐんから勢力せいりょくばしてきた南部なんぶわれた。

戦国せんごく時代じだい初期しょきさん南部なんぶ当主とうしゅ南部なんぶしんとき津軽つがる領国りょうごくねらって進出しんしゅつし、延徳えんとく3ねん1491ねん)に一族いちぞく南部なんぶ(大浦おおうら)光信みつのぶ津軽つがる西浜にしはま種里たねさとじょう配置はいちして安東あんどうへのさえとした。さらにあかりおう7ねん1498ねん[3] にはよんなん南部なんぶ(達子たつこ)光康みつやす外浜そとはまつつみうら配置はいちし「津軽つがるぐんだい」とした。

ぶんかめ2ねん1502ねん)、種里たねさと城主じょうしゅ南部なんぶ光信みつのぶあらたにきずいた大浦おおうらしろもりしんき、大浦おおうらもりしんは「大浦おおうら屋形やかた」としょうされ、喜田きた大浦おおうらふく鼻和はなわぐん勢力せいりょく基盤きばんとなっていく。そして、天文てんもん15ねん1548ねん以降いこうさん南部なんぶ当主とうしゅ南部なんぶ安信やすのぶおとうと南部なんぶ(石川いしかわ)高信たかのぶ石川いしかわじょうに、南部なんぶ政行まさゆき大光寺だいこうじじょう配置はいちし、強力きょうりょく支配しはい体制たいせいをきずきあげた。

津軽つがるは、もと大浦おおうらしょうし、だいひさし6ねん1526ねん)、初代しょだい光信みつのぶぼっし、嫡男ちゃくなんもりしんあといだ。以後いごさんだいもりしんむすめ婿むこ政信まさのぶよんだい政信まさのぶためそくえいろく10ねん1567ねん婿養子むこようしとしてはいった為信ためのぶ代目だいめとしてが継承けいしょうした[4]

為信ためのぶ独立どくりつだてはん[編集へんしゅう]

初代しょだい藩主はんしゅとなる津軽つがる為信ためのぶは、もとは南部なんぶ被官ひかんであり、戦国せんごく末期まっき独立どくりつすすめ、天正てんしょう18ねん1590ねん)3がつ浪岡なみおかしろかこ城代じょうだい楢山ならやま帯刀たてわきさん敗走はいそうさせた[5]。このさい南部なんぶしんただし為信ためのぶ討伐とうばつ九戸くのへ政実まさみめいじるが病気びょうきしょうして出馬しゅつばせず、久慈くじ政則まさのり櫛引くしびききよしちょうななこくらもおさえたため、津軽つがるへの出兵しゅっぺい断念だんねんすることとなり、為信ためのぶ独立どくりつ津軽つがる外浜そとはま統一とういつ達成たっせいされる。為信ためのぶは、どう天正てんしょう18ねん7がつ豊臣とよとみ秀吉ひでよし小田原おだわら征伐せいばつさんじんして大名だいみょう地位ちい公認こうにんされ、さらに、関ヶ原せきがはらたたかでは徳川とくがわ家康いえやす味方みかたしてはん基礎きそきずき、以後いご津軽つがる江戸えど時代じだいつうじて津軽つがるそとはまおさめた。

弘前ひろさきはん領地りょうち石高こくだかは、当初とうしょ陸奥みちのくこく津軽つがるりょう4まん5,000せき関ヶ原せきがはらさんじんこうによって加増かぞうされた上野うえのこく新田にったぐん大舘おおたちりょう現在げんざい群馬ぐんまけん太田おおた尾島おじま地区ちくなど)2,000せきけい4まん7,000せき元禄げんろく2ねん1689ねん)に黒石くろいし津軽つがる分家ぶんけえ、ぶんしていた1,000せきげられて4まん6,000せきとなる。このさい領内りょうないしょうじた天領てんりょう解消かいしょうするため、元禄げんろく11ねん1698ねん)に幕府ばくふとのあいだ領地りょうち交換こうかんし、大舘おおたちりょう返上へんじょうして陸奥みちのくこく伊達だてぐん秋山あきやまむら現在げんざい福島ふくしまけん伊達だてぐん川俣かわまたまちうち)を取得しゅとくした。

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

弘前ひろさきはん山鹿やまが素行そこう子孫しそん重用じゅうようしたことられ、山鹿やまがりゅう師事しじした[6] 歴代れきだい藩主はんしゅ分家ぶんけ重臣じゅうしんたちは、そうじて赤穂あこう浪士ろうしには好意こういてきではなかった[7]重臣じゅうしん乳井にゅういみつぐ元禄げんろく赤穂あこう事件じけんはげしく批判ひはんする著作ちょさく発表はっぴょうしたり、浪士ろうし同情どうじょうした北村きたむらしゅみず宝永ほうえい5ねん1708ねん)に閉門へいもん知行ちぎょう(1000せき没収ぼっしゅう厳罰げんばつしょし、供養くようとうやぶ却をめいじたりしている[8]。また家中いえじゅうには大石おおいし良雄よしお一族いちぞくもいたが、厚遇こうぐうされている山鹿やまがけい家臣かしん対立たいりつ[9]親戚しんせきしゅきゅう石川いしかわ南部なんぶ遺臣いしんくみして「津軽つがる信章のぶあき越境えっきょう事件じけん」など御家おいえ騒動そうどう発生はっせいした。

大石おおいし無人むじん赤穂あこう浪士ろうし装束しょうぞくとう遺品いひんあずかっていたが、津軽つがるでは到底とうていがた[10]長男ちょうなんであるりょう麿まろりょうにょう大石おおいし信清のぶきよ瀬左衛門せざえもん継承けいしょうしたことにより、浪士ろうし遺品いひん赤穂あこうもどされて現在げんざいでは大石おおいし神社じんじゃおさめられている[11]

その、9だいやすしおやだい文化ぶんか年間ねんかんこうなおしがあり文化ぶんか5ねん1808ねん)に10まんせきとなった。これにともなしたがえよん昇進しょうしん大広間おおひろまめがみとめられ、じゅん国主こくしゅ国持くにもちなみ大名だいみょうれっすることになった。この家格かかく向上こうじょう蝦夷えぞ現在げんざい北海道ほっかいどう警護けいごやくけることにたいしてなされたものであり、実際じっさい加増かぞうともなわないためはん負担ふたんぞうばかりをまねいた(ただし、幕末ばくまつまでに津軽つがるはんだかは28まん7せんせきし、盛岡もりおかはんだか27まん6せんせき戊辰戦争ぼしんせんそうげんふう以前いぜん[12]上回うわまわるまでにいた[13]。)

またこの家格かかく向上こうじょうにより、対立たいりつ関係かんけいにあった盛岡もりおかはんおも南部なんぶ利用りようよりやすしおや上座かみざとなり、これにたいする屈辱くつじょくから盛岡もりおか藩士はんし下斗米しもとめ秀之ひでゆきしんやすしおや暗殺あんさつ計画けいかくした相馬そうま大作だいさく事件じけんこされた。ちまた相馬そうま大作だいさくは「南部なんぶ大石おおいし内蔵助くらのすけ」ともてはやされたが、おなじく山鹿やまが素行そこう子孫しそん重臣じゅうしん登用とうようした平戸ひらどはんでは「児戯じぎるいすともうんべし」と酷評こくひょうされている[14]

弘前ひろさきはん南部なんぶはん戦国せんごく末期まっき以来いらい遺恨いこん紛争ふんそうかかえていたほか、津軽海峡つがるかいきょうへだてた蝦夷えぞ現在げんざい北海道ほっかいどう警備けいび重責じゅうせきになった。青森大学あおもりだいがく研究けんきゅうによると、弘前ひろさきはんは「早道はやみちこれしゃ」(はやみちのもの)という忍者にんじゃかかえ、南部なんぶ国境こっきょう北方ほっぽうらの情報じょうほう収集しゅうしゅう警備けいび領内りょうない治安ちあん維持いじ薬草やくそう収集しゅうしゅうなどにたらせた。うぐいすゆかかく部屋へやなどをそなえた屋敷やしき弘前ひろさき現存げんそんしている[15]

弘前ひろさきはん重臣じゅうしんとなった山鹿やまが素行そこう子孫しそんからは、長州ちょうしゅうはんなど勤皇きんのう諸侯しょこう志士しし影響えいきょうあたえた山鹿やまが素水もとみている[注釈ちゅうしゃく 1]明治めいじ元年がんねん1868ねん)の戊辰戦争ぼしんせんそうでは、当初とうしょしん政府せいふほうであったが孤軍こぐんおそ奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいぞくし、のち脱退だったい南部なんぶはんとは野辺地のへじ戦争せんそう交戦こうせんした。きゅう幕府ばくふ脱走だっそうぐんやぶれ、蝦夷えぞ松前まさきからのがれてきた松前まさきはんいちぎょう領内りょうない保護ほごしている(「はこかん戦争せんそう参照さんしょう)。戦後せんごしん政府せいふより1まんせき加増かぞうされた。

明治めいじ4ねん1871ねん)7がつ廃藩置県はいはんちけんにより弘前ひろさきけんとなる。同年どうねん9がつ黒石くろいしけん七戸しちのへけんたてけん北海道ほっかいどう南西なんせい)、みなみけん八戸はちのへけん合併がっぺい後日ごじつ県庁けんちょう青森あおもり移転いてんともな青森あおもりけん改称かいしょうされた。

御家おいえ騒動そうどう[編集へんしゅう]

津軽つがる騒動そうどう[編集へんしゅう]

慶長けいちょう12ねん1607ねん初代しょだい藩主はんしゅ為信ためのぶ死後しご為信ためのぶ三男さんなんしんまい長男ちょうなんしんけん遺児いじくませんだい藩主はんしゅ相続そうぞくあらそった騒動そうどう

くませんだい擁立ようりつしたのはしんじけん側近そっきんしんじけんしんまいいもうと婿むこである津軽つがるたてひろ旧姓きゅうせい大河内おおこうち)で、かれ幕府ばくふたいくませんだい藩主はんしゅ相続そうぞくうった本多ほんだ正信まさのぶ訴状そじょう提出ていしゅつした。訴状そじょう正信まさのぶれられくませんだい相続そうぞく決定けっていするかとおもわれたが、安藤あんどう直次なおじがこれに反対はんたいした。結局けっきょく直次なおじ主張しゅちょうれられ、慶長けいちょう14ねん1609ねん)に幕府ばくふからしんまい藩主はんしゅ相続そうぞくみとめられた。それをけ、しんまいくませんだい粛清しゅくせいし、きむしんのり自刃じじん津軽つがるけんひろらは大光寺だいこうじじょうもったが、高坂こうさか蔵人くろうど活躍かつやくによって落城らくじょうした。また、村市むらいちかんでは、くませんだい母方ははかた祖父そふいちへい庫之助くらのすけが、松野まつの大学だいがく激闘げきとうひろげた。くませんだい叔父おじ豪勇ごうゆうられたいち清三郎せいさぶろういち兵庫ひょうごじょ長男ちょうなん)はいぬいやすし自宅じたくまねかれ、だまちにころされた。

くませんだい肥後ひご加藤かとうつかえたが病弱びょうじゃくのためし、しんまいから合力ごうりょくきんけて江戸えどじゅうし、わかくして死去しきょしたとわれている。津軽つがるたてひろ津軽つがる追放ついほうめいじられ、江戸城えどじょう医師いしとしてつかえた。追放ついほう津軽つがるせい名乗なのつづけ、『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』にも弘前ひろさき津軽つがる黒石くろいし津軽つがるとともに記載きさいされている。

高坂こうさか蔵人くろうどらん[編集へんしゅう]

慶長けいちょう17ねん1612ねん)に2だい藩主はんしゅ津軽つがるしんまいと、津軽つがる騒動そうどうしんじまいがわにつき活躍かつやくした重臣じゅうしんだかざか蔵人くろうどが、1人ひとり小姓こしょううばった騒動そうどう

慶長けいちょう17ねん2がつ27にち津軽つがるしんまいのおりの小姓こしょう八木橋やぎはし専太郎せんたろう高坂こうさか蔵人くろうど久里くりきゅう兵衛ひょうえ屋敷やしきまねいたこと発端ほったんはじまる。しんまい幾度いくど命令めいれいしたにもかかわらず、八木橋やぎはし専太郎せんたろうさなかったため、しんまい激怒げきど八木橋やぎはし専太郎せんたろう弘前ひろさきじょうびつけそのちにした。そして、3月3にちしんまい久里くりきゅう兵衛ひょうえ屋敷やしきたてて、久里くりきゅう兵衛ひょうえてら切腹せっぷくしててた。さらに、高坂こうさか蔵人くろうど南部なんぶはんへの脱藩だっぱん計画けいかく発覚はっかく。その翌日よくじつ弘前ひろさきじょう挨拶あいさつ高坂こうさか蔵人くろうどいぬいやすし竹森たけもり六之助ろくのすけ東海とうかい吉兵衛きちべえ服部はっとりまごすけ兼平かねひらはじめすけころした。そのらせをき、屋敷やしきかこまれた高坂こうさか蔵人くろうど家来けらいたちは、屋敷やしきをつけ、下町したまち馬屋うまやまち戸田とだ茂兵衛もへい屋敷やしきみ、鉄砲てっぽう弘前ひろさきじょうんだため、またも屋敷やしきかこまれ、はげしいりあいのすえ一人ひとりのこらずられた。高坂こうさか蔵人くろうどはは同士どうし連判れんばん80めいあまりの家族かぞく親類しんるい縁者えんじゃ斬罪ざんざいになり、逃亡とうぼうする家臣かしん多数たすうたため、弘前ひろさきはん家臣かしんすう半分はんぶんにまでったといわれている。

船橋ふなばし騒動そうどう[編集へんしゅう]

寛永かんえい11ねん(1634ねん)、3だい藩主はんしゅ信義しんぎときこった御家おいえ騒動そうどう

2だい藩主はんしゅしんまい側室そくしつたつひめはんりょう上野うえのこく大舘おおたちらしており、3だい藩主はんしゅとなる信義しんぎ大舘おおたちまれそだった。そのとき乳母うばとなったのがきゅう宇喜多うきた秀家ひでいえ家臣かしん船橋ふなばしなかば左衛門さえもんつまである。

元和がんわ9ねん1623ねん)にたつひめ死去しきょしたため、信義しんぎ江戸えど弘前ひろさき藩邸はんていられ、しんじまい死後しご寛永かんえい8ねん1631ねん)に13さい藩主はんしゅとなった。それにともな信義しんぎ幼少ようしょうころから近侍きんじしていた船橋ふなばしなかば左衛門さえもん親子おやこ権力けんりょくがにわかに強力きょうりょくとなる。はんないでは元々もともと古参こさん譜代ふだい家臣かしん新参しんざんしゃ家臣かしんあいだ対立たいりつしょうじており、これを契機けいき新参しんざん家臣かしんらが船橋ふなばしなかば左衛門さえもんあつまって、双方そうほう対立たいりつ決定的けっていてきとなった。どう10ねん(1633ねん)10がつ信義しんぎ津軽つがる領内りょうないはつくにりしたさい船橋ふなばしきょうをし同時どうじ入国にゅうこくしたが、領内りょうないだか杉村すぎむらまで出迎でむかえた国許くにもと家臣かしんらにたいし、船橋ふなばし下馬げばもせず、挨拶あいさつもなかったため、かれらのいかりをったとつたわる。12月に船橋ふなばしは1,000せきあたえられ、一方いっぽうこれまで国許くにもと政務せいむってきた譜代ふだい家老がろうである兼平かねひら信孝のぶたか乳井にゅういたてじょう家老がろうしょく罷免ひめんされた。

寛永かんえい11ねん1634ねん)7がつ信義しんぎは3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ上洛じょうらく同行どうこうし、翌月よくげつ江戸えど藩邸はんていかえりつく。このとき譜代ふだい家臣かしん江戸えど町家まちやもり「船橋ふなばしなかば左衛門さえもんらの放逐ほうちく」をはんもとめた。はん説得せっとくにあたったが失敗しっぱい結局けっきょく幕府ばくふ介入かいにゅうして藩主はんしゅ信義しんぎ船橋ふなばし代表だいひょう譜代ふだい代表だいひょうらを喚問かんもんして騒動そうどう解決かいけつをはかった。

裁定さいていくだったのは2ねん寛永かんえい13ねん1636ねん)、信義しんぎ若年じゃくねんであり態度たいど神妙しんみょうであることからとがめはなく、喧嘩けんか両成敗りょうせいばいとして譜代ふだい中心ちゅうしん人物じんぶつ乳井にゅういたてじょう兼平かねひら信孝のぶたか長門ながともう利家としいえ船橋ふなばしなかば左衛門さえもんちょう親子おやこいぬいやすしらは伊予いよ松山まつやまはん松平まつだいら松平まつだいら定行さだゆきにおあづけとなった。

正保しょうほう騒動そうどう[編集へんしゅう]

正保まさやす4ねん1647ねん)、3だい藩主はんしゅ信義しんぎ強制きょうせい隠居いんきょ嫡子ちゃくし信政のぶまさ廃嫡はいちゃくさせ、信義しんぎ異母弟いぼてい幕府ばくふ旗本はたもと幕府ばくふおぼえも信英のぶひで藩主はんしゅ擁立ようりつしようとする主君しゅくん押込おしごめくわだてがあった。計画けいかく段階だんかい信義しんぎ密告みっこくがあり、おおきな騒動そうどうとなるまえふせがれている(この密告みっこくしゃ信英のぶひでおとうと津軽つがるひゃくじょ信隆のぶたか家老がろう北村きたむらそうひろしだとされている)。異母弟いぼてい信光のぶみつためもり大道寺だいどうじためひさし)やいもうと婿むこすらも処罰しょばつしたが、信英のぶひで身柄みがらについては、信英のぶひで本人ほんにん関与かんよあきらかでないこと、すで幕府ばくふ直参じきさん旗本はたもと身分みぶんであったために津軽つがるはん自由じゆうにはできないこと、信義しんぎ自身じしん信英のぶひで好意こういてきであったことからなにもとがめられなかった。

くわだての背景はいけいには複数ふくすう要因よういんがあったとされる。そのうちおもなものは以下いかのようなものである。

  • 信義しんぎ藩政はんせい功績こうせきがある反面はんめん酒乱しゅらんであり女性じょせい関係かんけいにも問題もんだいがあった、などと今日きょうではつたわる。それら不行跡ふぎょうせき幕府ばくふまり、はん処罰しょばつされることをおそれた。
  • 信英のぶひで幕府ばくふ小姓こしょうとしてされ大身たいしん旗本はたもとてられておりまくかくおぼえがよく、文武ぶんぶともに優秀ゆうしゅうであった。
  • 船橋ふなばし騒動そうどう前述ぜんじゅつから信義しんぎ積極せっきょくてき藩政はんせい指示しじし、藩主はんしゅ権力けんりょく強化きょうかつとめたため、既得きとく権益けんえきうしないたくない一派いっぱ反発はんぱつした。
  • 信義しんぎ長男ちょうなんだがはは側室そくしつたつひめであり、たつひめは、関ケ原せきがはらたたかいで家康いえやすたたかってやぶ刑死けいしした石田いしだ三成みつなりさんじょで、豊臣とよとみ秀吉ひでよし正室せいしつ高台院こうだいいん養女ようじょだった。すなわち信義しんぎは「豊臣とよとみえんがあり、なにより石田いしだ三成みつなりまご」にあたる。それにたいし、信英のぶひで次男じなんではあるがはは正室せいしつ満天まんてんひめであり、「徳川とくがわ家康いえやす義理ぎりまご」である(ただし信英のぶひではは満天まんてんひめではないとするせつもある)。そのため幕府ばくふ感情かんじょうへの配慮はいりょ、また幕府ばくふおもねるため、先代せんだいしんまいころから信英のぶひで擁立ようりつしたい一派いっぱ存在そんざいしていた。

関係かんけいしゃ流罪るざい切腹せっぷくとなったが、告発こくはつしたとされている一人ひとり北村きたむらはじめようよく慶安けいあん元年がんねん1648ねん)1がつ17にち弘前ひろさき城中じょうちゅう遺恨いこんった村山むらやまなな左衞門さえもん村山むらやましげるあさ)により殺害さつがいされている。村山むらやまもと信英のぶひで擁立ようりつであり、同派どうは仲間なかま処罰しょばつ切腹せっぷくさせられたさい村山むらやま介錯かいしゃくめいじられていた。

津軽つがる信章のぶあき越境えっきょう事件じけん[編集へんしゅう]

元禄げんろく2ねん1689ねん)、 4だい藩主はんしゅ津軽つがる信政のぶまさ異母弟いぼていである津軽つがる信章のぶあき津軽つがる兵庫ひょうご)は湯治とうじしょうしてはんりょうない大鰐温泉おおわにおんせん出立しゅったつ、そのまま一族郎党いちぞくろうとう53にんれて出羽でわ久保田くぼたはんとのはんさかいにあるいしとうとおり、無断むだん久保田くぼたはん越境えっきょう亡命ぼうめいないしは逐電ちくでん)をこころみた。連絡れんらくけた津軽つがる幕府ばくふ指示しじ津軽つがる兵庫ひょうご一族いちぞく久保田くぼたはんから弘前ひろさきはんへともどされ、家族かぞくわかわかれにされて生涯しょうがい蟄居ちっきょとなった。一族いちぞく待遇たいぐうめんでも経済けいざいめんでもくるしく、悲惨ひさん最期さいごげた。

越境えっきょう理由りゆうにはいくつかのせつがあるが、藩主はんしゅ信政のぶまさとの不和ふわや、山鹿やまがけい家臣かしん優遇ゆうぐうする信政のぶまさかたよった人事じんじたいする不満ふまんから、津軽つがるはん久保田くぼたはんないしは紀州きしゅうはんつかえようとした、などとわれている。

財政ざいせい再建さいけん[編集へんしゅう]

たかられき改革かいかく[編集へんしゅう]

7だい藩主はんしゅ津軽つがるしんやすしだい勘定かんじょう奉行ぶぎょうつとめた乳井にゅういみつぐ藩士はんしからのべい一部いちぶ棒引ぼうびきするとともに、豪商ごうしょうへの課税かぜい強化きょうかするなどはん財政ざいせいなおしをおこなった。このことがこうそうし、たかられき5ねん1755ねん)に発生はっせいしたたかられき飢饉ききんさいには餓死がししゃ発生はっせいおさえることに成功せいこうしんやすしより「みつぎ」のたまわった。また、どう6ねん1756ねん)には、そとはま巡視じゅんしをきっかけに津軽つがる半島はんとう海岸かいがんせん居住きょじゅうするアイヌ民族みんぞく本州ほんしゅうアイヌ)を平民へいみんあつかいとする同化どうか政策せいさく実施じっしし、その生活せいかつ地位ちい向上こうじょうさせた。一方いっぽうで、アイヌ民族みんぞく固有こゆう文化ぶんか生活せいかつ様式ようしき急速きゅうそくうしなわれ、抵抗ていこうした住民じゅうみん一部いちぶ逃亡とうぼうし、最終さいしゅうてきには弘前ひろさきはん恭順きょうじゅんしている。

ところが、藩士はんし商人しょうにん抵抗ていこうにより乳井にゅうい失脚しっきゃく藩政はんせい改革かいかく頓挫とんざ天明てんめい元年がんねん(1781ねん)からこった天明てんめいだい飢饉ききんはんだい打撃だげきあたえる。乳井にゅうい幽閉ゆうへいでは水田すいでんひらき、村人むらびと数学すうがくそろばん)や和文わぶんき、実学じつがくほかをおししたわれた。多数たすう著書ちょしょしるわし、赤穂あこう浪士ろうしはげしく批判ひはんしたことや、中華ちゅうか思想しそう朱子学しゅしがく朝鮮半島ちょうせんはんとうとのかかわりにも反対はんたい意見いけんべた[17] 論文ろんぶんなどがられる。

天明てんめい改革かいかく[編集へんしゅう]

しんじやすしあといだ8だい藩主はんしゅ津軽つがる信明のぶあきあらためてはん財政ざいせい改革かいかくす。天明てんめい4ねん1784ねん)、さい登用とうようした乳井にゅういみつぐはじめ、毛内もうないゆうみぎ衛門えもん有能ゆうのう登用とうよう不正ふせいおこなう家臣かしん商人しょうにんたいしてはきびしい処罰しょばつのぞんだ。

信明のぶあきはさらに倹約けんやくれい出費しゅっぴ大幅おおはば削減さくげんくら設置せっちによる食糧しょくりょう備蓄びちく藩校はんこう開設かいせつ教育きょういく普及ふきゅうはんほう制定せいてい年貢ねんぐ徴収ちょうしゅう方法ほうほうていめんほうから検見けんみほうあらためるなどして、着実ちゃくじつ改革かいかくおこなって財政ざいせい再建さいけんした。ところが信明のぶあきは30さい急死きゅうし、これには毒殺どくさつせつもある。

歴代れきだい藩主はんしゅ[編集へんしゅう]

津軽つがる弘前ひろさき津軽つがる

外様とざま 4まん7000せき→4まん6000せき→7まんせき→10まんせき

こう[編集へんしゅう]

津軽つがる伯爵はくしゃく(1869ねん - 1945ねん ) 

  1. えい麿まろ(ふさまろ) - 近衛このえただしぼう次男じなんこう陽成ようぜい天皇てんのう男系だんけい11せい子孫しそん

津軽つがる宗家そうけ(1945ねん - ) 

  1. 義孝よしたか(よしたか) - 徳川とくがわよしじょ次男じなん
  2. すすむ(しん) - 義孝よしたかまご養嗣子ようしし)。常陸宮ひたちのみやただしじん親王しんのう華子はなこおい
  • げん当主とうしゅ津軽つがるすすむは21世紀せいきになっても、弘前ひろさきはん津軽つがる廟所びょうしょ供養くようなどに参加さんかしている[18]

家老がろう[編集へんしゅう]

黒石くろいしはん[編集へんしゅう]

弘前ひろさきはんささえはんに、陸奥みちのくこく津軽つがるぐん黒石くろいし現在げんざい青森あおもりけん黒石くろいし)にかれた黒石くろいしはん(くろいしはん)がある。黒石くろいしはん本家ほんけ4だい藩主はんしゅ信政のぶまさ藩主はんしゅ就任しゅうにん幼少ようしょうだったため、幕府ばくふ指示しじにより叔父おじ信英のぶひで(3だい藩主はんしゅ信義しんぎおとうと)をほんはん後見人こうけんにんとすべく、あかりれき2ねん1656ねん)に信政のぶまさほんはんぐと同時どうじ弘前ひろさきはんより5000せきぶんされたのにはじまる。黒石くろいし津軽つがる8だいとなるおやあしだいいたり、文化ぶんか6ねん1809ねん弘前ひろさきほんはんよりさらに6000せき分与ぶんよがあり、1まんせき外様とざま大名だいみょうとしてやなぎあいだれつした。居城きょじょう黒石くろいし陣屋じんや黒石くろいしじょう)。

信英のぶひでぶんさい賀田よした猿賀さるか青森あおもり希望きぼうしたがかなえられず、津軽つがる為信ためのぶ時代じだい拠点きょてんひとつ、黒石くろいしはいされたとつたわる。5000せき内訳うちわけは、黒石くろいし周辺しゅうへん2000せき平内へいない周辺しゅうへんげん青森あおもりけん東津軽ひがしつがるぐん平内ひらうちまち)1000せき弘前ひろさきはん領地りょうち上野うえのこく大舘おおたち現在げんざい群馬ぐんまけん太田おおた尾島おじま地区ちくなど)一帯いったい2000せき

また、歴代れきだい当主とうしゅせい以降いこう)は、本家ほんけである弘前ひろさき藩主はんしゅ上記じょうき)からのへんいみなけている。

幕末ばくまつ戊辰戦争ぼしんせんそうでは本家ほんけ弘前ひろさきはん行動こうどうをともにした。明治めいじ4ねん1871ねん)7がつ廃藩置県はいはんちけんにより黒石くろいしけんとなる。同年どうねん9がつけんとともに弘前ひろさきけん合併がっぺいし、現在げんざい青森あおもりけん一部いちぶになった。

歴代れきだい黒石くろいし領主りょうしゅ[編集へんしゅう]

津軽つがる黒石くろいし津軽つがる

交代こうたい寄合よりあい 5000せき→4000せき

歴代れきだい黒石くろいし藩主はんしゅ[編集へんしゅう]

津軽つがる黒石くろいし津軽つがる

外様とざま 1まんせき

りゃく年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

幕末ばくまつ領地りょうち[編集へんしゅう]

弘前ひろさきはんは、明治維新めいじいしんのちに、いったん開拓かいたく使直轄ちょっかつりょうとなった後志しりべ国島くにしままきぐん一部いちぶふたた所領しょりょうくわわった。

藩邸はんてい[編集へんしゅう]

  • 弘前ひろさきはん藩邸はんてい上屋敷かみやしき)は本所ほんじょ現在げんざい墨田すみださん丁目ちょうめ北斎ほくさいどおり)。地下鉄ちかてつ両国りょうごくえき方向ほうこうすすむと「北斎ほくさい美術館びじゅつかん」がある。
  • 中屋敷なかやしきこう柳原やなぎはら現在げんざい台東たいとう鳥越とりごえいち丁目ちょうめ)にあったが、文政ぶんせい10ねん(1827)うるう(うるう)6がつ戸越とごし現在げんざい品川しながわ戸越とごしいち丁目ちょうめ)にうつされた。[21]敷地しきちやくろくせんつぼ
  • 下屋敷しもやしき日本橋にほんばし現在げんざい中央ちゅうおう日本橋にほんばし浜町はまちょう丁目ちょうめ)。いま浜町はまちょう公園こうえんとなっており、公園こうえん敷地しきちないにはほかにいちきょう徳川とくがわ牧野まきのなどの屋敷やしきがあった。

菩提寺ぼだいじ[編集へんしゅう]

弘前ひろさきにおける歴代れきだい藩主はんしゅ菩提寺ぼだいじ長勝寺ちょうしょうじおよびこうあきら神社じんじゃ江戸えど墓所はかしょ寛永寺かんえいじ山内さんないはりいん藩士はんしはかほんくだりてらなど[22]

説経節せっきょうぶし『さんせう太夫たゆう[編集へんしゅう]

津軽つがる地方ちほう山岳さんがく信仰しんこう対象たいしょうである岩木山いわきやまには「山椒さんしょう大夫たいふ」(あん寿ひさし厨子ずし王丸おうまる)に登場とうじょうするやす寿ことぶきまつられている。

説教せっきょうぶしではやす寿ことぶき拷問ごうもんによって非業ひごうげるが、彼女かのじょ酷使こくしして殺害さつがいした山椒さんしょう大夫たいふ山岡やまおか太夫たゆうらはいずれも丹後たんごこくものであったため、弘前ひろさきはんりょうに[丹後たんご人間にんげんはいるとあん寿ひさし怨霊おんりょうによって災害さいがいこって人々ひとびとくるしめるとされた。江戸えど時代じだい末期まっきになってさえ、弘前ひろさきはんでは丹後たんご住人じゅうにん忌避きひした。これは「丹後たんご日和びより」とばれた。天明てんめい8ねん (1788ねん) 7がつ江戸えど幕府ばくふ巡見じゅんけん使一員いちいんとして弘前ひろさきはんないはいった古川ふるかわ古松こまつのきは、7がつ15にち日記にっきに「丹後たんご日和びより」のことを記録きろくしている[23]。これによると、丹後たんごひと弘前ひろさきはんないはいると天候てんこうわざわいがしょうずるとされ、ゆえ丹後たんご出身しゅっしんしゃ領内りょうない一人ひとりもいない、というものだった。またおな著述ちょじゅつにより、幕府ばくふ巡見じゅんけん使江戸えど出発しゅっぱつさいして、幕府ばくふたい津軽つがるはんからいちぎょうなか丹後たんご出身しゅっしんしゃがいるかかの照会しょうかいがあり、まんいちいた場合ばあい構成こうせいいんから除外じょがいしてしいとの要望ようぼうされ、該当がいとうひといちぎょうからはずされたと記録きろくされている。古松こまつのき自身じしんは、丹後たんご日和びよりを妄説であるとべているが、津軽つがるはんから要請ようせいされた幕府ばくふはそれを拒否きょひしなかった。[24] これははん公式こうしき記録きろくにものこっている。

弘前ひろさきはんみずからの苛政かせい隠蔽いんぺいし、領民りょうみん不満ふまん丹後たんごじんけてらせようとするさくであったとするせつがある[25]

津軽つがるはんししがい対策たいさく[編集へんしゅう]

津軽つがるはん特徴とくちょうてき政策せいさくひとつとしてししがい対策たいさくがある。これは狩猟しゅりょうけた本州ほんしゅうアイヌやマタギ士分しぶんたてて、くまおおかみいのししひとしりつくして領民りょうみんししがいからまもったという。この政策せいさくにより江戸えど時代じだい津軽つがる半島はんとうからしし絶滅ぜつめつちか減少げんしょうしたわりに、ししがいかぞえるほどしか存在そんざいしなかったとわれている。

検地けんち[編集へんしゅう]

弘前ひろさきはんでは検地けんちかかわる様々さまざま文献ぶんけん現存げんそんしており、非常ひじょう正確せいかく検地けんちおこなっていたことでられる。

貞享ていきょう検地けんち[編集へんしゅう]

貞享ていきょう検地けんち(じょうきょうけんち)は貞享ていきょう年間ねんかん弘前ひろさきはん全域ぜんいきおこなわれた検地けんちである[26]。これを記録きろくした検地けんちちょう陸奥みちのくこく津軽つがるぐん検地けんちすいちょう」917さつ現存げんそんしている[27]。それ以前いぜん検地けんちくらべて非常ひじょう正確せいかく検地けんちおこなわれた[28]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 山口やまぐちけん文書ぶんしょかん には山鹿やまが素水もとみ漢詩かんしいたじく収蔵しゅうぞうされている[16]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 観光かんこう施設しせつ津軽つがるはんねぷたむら」など。
  2. ^ 津軽つがる文書ぶんしょ日記にっきかたへん』(弘前ひろさき図書館としょかんくら
  3. ^ 前代ぜんだいれき
  4. ^ 弘前ひろさき
  5. ^ 南部なんぶ根元ねもと
  6. ^ 赤穂あこうはん宗家そうけである広島ひろしまはん浅野あさの素行そこう批判ひはんした朱子学しゅしがく藩学はんがくとした。(朱子学しゅしがく以外いがい素行そこう古学こがくなどの教授きょうじゅこうがくしょへの出入でいりがきんじられた。浅野あさのこうがくしょは、現在げんざい修道しゅうどう中学校ちゅうがっこう修道しゅうどう高等こうとう学校がっこう
  7. ^ 津軽つがるはんささえはん分家ぶんけ)である黒石くろいしはん当時とうじ大名だいみょうではなく旗本はたもと)の当主とうしゅ津軽つがるまさしは、事件じけん直後ちょくごさき家臣かしんらと吉良きらていけつけ、義央よしなか遺体いたい発見はっけんしたとつたわる。松浦まつうらしずさん甲子きのえね夜話やわ』にも類似るいじ記述きじゅつあり。
  8. ^ 津軽つがる文書ぶんしょ弘前ひろさきはんちょう日記にっき』(国文学研究資料館こくぶんがくけんきゅうしりょうかんほか)
  9. ^ 山鹿やまがるい』には「おものためにいのちを棄つるはおろかなり」「諫めてもあらためぬ主君しゅくんならしんよりるべし」と「くんつかえる」を肯定こうていする箇所かしょがあり、素行そこう自身じしん実践じっせんしている。(『山鹿やまがるい君臣くんしんろん
  10. ^ 津軽つがるしんけん関ヶ原せきがはら三成みなり遺児いじ石田いしだ重成しげなり荘厳しょうごんいん救出きゅうしゅつ弘前ひろさき藩主はんしゅには石田いしだ三成みつなりをひくものがおり(津軽つがる信義のぶよし津軽つがる信政のぶまさなど)、浅野あさのはそのさんなり襲撃しゅうげきしたななしょうのひとりでもある。
  11. ^ 大石おおいし無人むじん次男じなんりょうこく津軽つがるつかえるをよしとせず出奔しゅっぽんし、讃岐さぬきこく高松たかまつはん松平まつへい仕官しかんしている。はんいね独言ひとりごとしゅう3『津軽つがる兵庫ひょうご越境えっきょう顛末てんまつ よんだい藩主はんしゅ信政のぶまさ治世ちせい裏面りめん』(田澤たざわただし北方ほっぽうしんしゃ、2007ねん)。
  12. ^ 明治めいじ政府せいふきゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょう
  13. ^ どうかくはん高並たかなみ租税そぜい調ちょうちょうおよび『はんせい一覧いちらん明治めいじ2ねん旧暦きゅうれき6がつ12にち(1869ねん7がつ20日はつか)
  14. ^ 弘前ひろさきこうやくくもうるばかり也」とすうぺーじにわたり同情どうじょうせられ、津軽つがる尊称そんしょうだが、南部なんぶてになっている(松浦まつうらしずさん甲子きのえね夜話やわ続篇ぞくへんまききゅうじゅうろくさん弘前ひろさきこう 逼塞ひっそくこと 南部なんぶはなし」)
  15. ^ 【おもてなしせどころ】弘前ひろさき忍者にんじゃ屋敷やしき青森あおもりけん弘前ひろさきかく仕掛しかけ、特命とくめいおもい『日経にっけいMJ』2021ねん3がつ22にち観光かんこう・インバウンドめん
  16. ^ 吉田よしだ松陰しょういん関係かんけい資料しりょう > 山鹿やまが素水もとみ詩文しぶん”. 山口やまぐち県立けんりつ山口やまぐち図書館としょかん山口やまぐちけん文書ぶんしょかん (1851ねん). 2020ねん2がつ8にち閲覧えつらん
  17. ^ 乳井にゅういみつぐ全集ぜんしゅう』(「志学しがくようべん」「むしろん」「王制おうせい利権りけんかたあつし」など)
  18. ^ 当主とうしゅすすむさま廟所びょうしょ参拝さんぱい」(広報こうほうあじがさわ、2013ねん3がつごう
  19. ^ 山鹿やまがりゅう兵法ひょうほう』だけでなく津軽つがるはん一刀いっとうりゅう地盤じばんかためている。
  20. ^ 国道こくどう101ごう 大間越おおまごし 青森あおもりけん幹線かんせん道路どうろ協議きょうぎかい(2021ねん5がつ3にち閲覧えつらん
  21. ^ 文政ぶんせい戸越とごしむら絵図えず』では「津軽つがる大隅おおすみまもる」としるされる(「品川しながわ区史くし附図ふずより )
  22. ^ 青森あおもりけん歴史れきし散歩さんぽ』(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2007ねん5がつ
  23. ^ 日本にっぽん庶民しょみん生活せいかつ史料しりょう集成しゅうせい さん所収しょしゅう東遊あずまあそび雑記ざっきさんいち書房しょぼう 1969ねん1がつ
  24. ^ 長谷川はせがわしげるいち近世きんせい津軽つがるりょうの「天気てんき不正ふせい風説ふうせつかんする試論しろん弘前大学ひろさきだいがく大学院だいがくいん地域ちいき社会しゃかい研究けんきゅう年報ねんぽう』5, 2008ねん,p.134-154
  25. ^ 小説しょうせつ八剣やつるぎ浩太郎こうたろう所論しょろん(『歴史れきし読本とくほんだい22かんだい11ごう特集とくしゅう 怪奇かいき日本にっぽん77不思議ふしぎ」)。
  26. ^ "貞享ていきょう検地けんちは、津軽つがるりょうにおける最大さいだい統一とういつてき検地けんちで、貞享ていきょう元年がんねん(いちろくはちよん)にはじまり、どうよんねんがつ検地けんちすいちょう完成かんせいによって完了かんりょうした。" 弘前ひろさき市立しりつ弘前ひろさき図書館としょかん. 貞享ていきょう検地けんち. おくゆかしき津軽つがる典籍てんせき. 2022-12-04閲覧えつらん.
  27. ^ "陸奥みちのくこく津軽つがるぐん検地けんちすいちょう TK611.2-1 ... 917さつ" 弘前ひろさき市立しりつ弘前ひろさき図書館としょかん. (1984). 津軽つがる文書ぶんしょそう目録もくろく. 弘前ひろさき市立しりつ弘前ひろさき図書館としょかん.
  28. ^ "きわめて正確せいかく厳正げんせい調査ちょうさ記入きにゅうされていることわかり、検地けんち条令じょうれいとおりに実施じっしされたことかんがえられる。" 花田はなた. (1962). 貞享ていきょう元年がんねん津軽つがるはん検地けんちについて. 法政大学ほうせいだいがく学会がっかい.

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
陸奥みちのくこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
- 1871ねん 弘前ひろさきはん黒石くろいしはん弘前ひろさきけん黒石くろいしけん
次代じだい
青森あおもりけん