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石本いしもとしんろく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
石本いしもと しんろく
いしもと しんろく
生年月日せいねんがっぴ 1854ねん2がつ17にち
よしみひさし7ねん1がつ20日はつか
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 播磨はりまこく姫路ひめじ
げん兵庫ひょうごけん姫路ひめじ
ぼつ年月日ねんがっぴ (1912-04-02) 1912ねん4がつ2にち(58さいぼつ
出身しゅっしんこう 陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう卒業そつぎょう
ぜんしょく 陸軍りくぐん次官じかん
称号しょうごう 陸軍りくぐん中将ちゅうじょう
したがえ
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
こうきゅう金鵄勲章きんしくんしょう
男爵だんしゃく
配偶はいぐうしゃ 石本いしもとえつ
子女しじょ 石本いしもとめぐみきち長男ちょうなん
石本いしもと憲治けんじ二男じなん
石本いしもと寅三とらぞう三男さんなん
石本いしもと巳四雄みしお四男よつお
石本いしもと五雄いつお五男いつお
親族しんぞく 瀧川たきがわ政次郎まさじろうむすめ婿むこ
安達あだちじゅうろくつまおい
安達あだちじゅうきゅうつまおい
安達あだちじゅうさんつまおい

内閣ないかく だい2西園寺さいおんじ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1911ねん8がつ30にち - 1912ねん4がつ2にち
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石本いしもと しんろく(いしもと しんろく、1854ねん2がつ17にちよしみひさし7ねん1がつ20日はつか[1][2]) - 1912ねん明治めいじ45ねん4がつ2にち[1][2])は、日本にっぽん武士ぶし姫路ひめじ藩士はんし)、陸軍りくぐん軍人ぐんじん陸士りくしきゅう1陸軍りくぐん中将ちゅうじょうせいさん勲一等くんいっとうこうきゅう男爵だんしゃく

経歴けいれき

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姫路ひめじはん石本いしもとかつ左衛門さえもんためのべろくおとことしてまれる[1][3]安政あんせい2ねん1855ねん)、安政あんせい江戸えど地震じしんちち祖母そぼうしな[4]1869ねん開成かいせいしょ姫路ひめじはんみつぎしんせいとして上京じょうきょうし、大学南だいがくみなみこうまな[1]陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう入学にゅうがく[1]西南せいなん戦争せんそう従軍じゅうぐんし、1877ねん7がつ工兵こうへい少尉しょうい任官にんかん[1][5]1878ねん12月、陸士りくしきゅう1)を卒業そつぎょうした[1][2]

フランス留学りゅうがくし、1881ねん8がつフォンテンブローほうこうこう卒業そつぎょう翌年よくねん帰国きこく[1]欧州おうしゅう差遣さけんイタリア)、参謀さんぼう本部ほんぶだい3きょくだい2課員かいん参謀さんぼう本部ほんぶだい2局員きょくいん陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむきょく工兵こうへい事務じむ課長かちょう工兵こうへい課長かちょう築城ちくじょう本部ほんぶちょうけん陸軍りくぐんほうこう学校がっこうちょうて、1898ねん3月、陸軍りくぐん少将しょうしょう進級しんきゅうした[1][2][5]

陸軍りくぐん総務そうむ長官ちょうかんて、にち戦争せんそうとき陸軍りくぐん次官じかん法務局ほうむきょくちょう兼任けんにん)として寺内てらうち正毅まさき陸軍りくぐん大臣だいじんささえた[1][2][5]1904ねん10月、陸軍りくぐん中将ちゅうじょう昇進しょうしん[1][2][5]1907ねん9月21にち男爵だんしゃく爵位しゃくい叙爵じょしゃく華族かぞくとなった[6]1911ねん8がつだい2西園寺さいおんじ公望きんもち内閣ないかくにおいて薩長さっちょう出身しゅっしんしゃ以外いがいでははじめての陸軍りくぐん大臣だいじん就任しゅうにんする[1][2][5]陸軍りくぐん師団しだん増設ぞうせつ問題もんだい懸案けんあんとなり、2師団しだん増設ぞうせつ要求ようきゅうをするが閣議かくぎ拒否きょひされ、在任ざいにんちゅう死去しきょした[2]後任こうにん陸相りくしょうには上原うえはら勇作ゆうさく就任しゅうにん

年譜ねんぷ

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  • 1877ねん明治めいじ10ねん)7がつ5にち - 少尉しょうい
  • 1880ねん明治めいじ13ねん)5がつ7にち - 工兵こうへい中尉ちゅうい
  • 1883ねん明治めいじ16ねん)2がつ28にち - 工兵こうへい大尉たいい
  • 1888ねん明治めいじ21ねん)2がつ17にち - 工兵こうへい少佐しょうさ
  • 1891ねん明治めいじ24ねん)11月7にち - 工兵こうへい中佐ちゅうさ
  • 1892ねん明治めいじ25ねん)7がつ1にち - 軍務ぐんむきょく工兵こうへい事務じむ課長かちょう
  • 1894ねん明治めいじ27ねん)1がつ10日とおか - めんけん海軍かいぐんだい学校がっこう教官きょうかん[7]
  • 1895ねん明治めいじ28ねん
    • 1がつ29にち - 工兵こうへい大佐たいさ
    • 7がつ29にち - 高等官こうとうかんさんとう兼任けんにん臨時りんじ台湾たいわんだいだいしるべ建設けんせつ事務じむかん[8]
  • 1896ねん明治めいじ29ねん
    • 5月9にち - 軍務ぐんむきょく工兵こうへい課長かちょう
    • 11月20にち - 東京とうきょう市区しく改正かいせい委員いいん[9]
  • 1897ねん明治めいじ30ねん
    • 9月15にち - 築城ちくじょう本部ほんぶちょう
    • 10月23にち - けん陸軍りくぐんほうこう学校がっこう校長こうちょう[10]
  • 1898ねん明治めいじ31ねん
    • 3月3にち - 陸軍りくぐん少将しょうしょう
    • 3がつ10日とおか - めん土木どぼくかい委員いいん[11]
  • 1899ねん明治めいじ32ねん)6がつ15にち - 築城ちくじょう本部ほんぶちょう
  • 1902ねん明治めいじ35ねん)4がつ17にち - 陸軍りくぐんしょう総務そうむ長官ちょうかんけん理事りじけん法務局ほうむきょくちょう
  • 1903ねん明治めいじ36ねん
    • 7がつ24にち - 高等官こうとうかん一等いっとう[12]
    • 12月5にち - 陸軍りくぐん次官じかんけん法務局ほうむきょくちょう
  • 1904ねん明治めいじ37ねん
    • 2がつ27にち - けん俘虜ふりょ情報じょうほうきょく長官ちょうかん
    • 7がつ9にち - けん臨時りんじ陸軍りくぐん検疫けんえき本部ほんぶちょう[13]
    • 10月13にち - 陸軍りくぐん中将ちゅうじょう
  • 1905ねん明治めいじ38ねん)12月28にち - めん法務局ほうむきょくちょう
  • 1907ねん明治めいじ40ねん)9がつ21にち - 男爵だんしゃく叙爵じょしゃく
  • 1909ねん明治めいじ42ねん
    • 9月12にち - 人事じんじ局長きょくちょう事務じむ取扱とりあつかい
    • 11月30にち - めん人事じんじ局長きょくちょう事務じむ取扱とりあつかい
  • 1911ねん明治めいじ44ねん
    • 8がつ30にち - 陸軍りくぐん大臣だいじん
    • 9月29にち - めん鉄道てつどう会議かいぎ議員ぎいん[14]

栄典えいてん

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勲章くんしょうとう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

逸話いつわ

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  • もり林太郎りんたろうもり鴎外おうがい)の上官じょうかんであり、もり於菟おと随筆ずいひつすなかれた記録きろく』(『父親ちちおやとしてのもり鴎外おうがい所収しょしゅう)に「ちちはその日記にっきによると雑誌ざっし『スバル』だいななごうのために『ヰタ・セクスアリス』をいて、明治めいじ42ねん6がつ9にち上官じょうかん陸軍りくぐん次官じかん石本いしもとしんろくかくから懲戒ちょうかいされ、雑誌ざっしは7がつ28にち内務省ないむしょう検閲けんえつかん忌諱ききれて発売はつばい禁止きんしになるというった。…りゃくちちしかりつけたこのさい石本いしもと中将ちゅうじょうかく処置しょち当然とうぜんかんがえている。」とある。
  • 軍務ぐんむかたわ姫路城ひめじじょう修理しゅうり尽力じんりょく天守閣てんしゅかく崩壊ほうかいふせぎ、一般いっぱん公開こうかいへのみちひらいた[35]

墓所はかしょ

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親族しんぞく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてんだい2はん、19ぺーじ
  2. ^ a b c d e f g h 日本にっぽん陸軍りくぐん将官しょうかん辞典じてん』72ぺーじ
  3. ^ 上田うえだただしあきらほか監修かんしゅう ちょ三省堂さんせいどう編修へんしゅうしょ へん『コンサイス日本人にっぽんじんめい事典じてん だい5はん三省堂さんせいどう、2009ねん、106ぺーじ 
  4. ^ 勢多せたぐん編纂へんさん委員いいんかい へん勢多せたぐん勢多せたぐん編纂へんさん委員いいんかい、1958ねん、928ぺーじ 
  5. ^ a b c d e 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』49ぺーじ
  6. ^ 官報かんぽうだい7272ごう明治めいじ40ねん9がつ23にち
  7. ^ 官報かんぽう』 1894ねん1がつ11にち 敍任じょにん及辭れい
  8. ^ 官報かんぽう』 1895ねん7がつ31にち 敍任じょにん及辭れい
  9. ^ 官報かんぽう』 1896ねん11月21にち 敍任じょにん及辭れい
  10. ^ 官報かんぽう』 1897ねん10がつ26にち 敍任じょにん及辭れい
  11. ^ 官報かんぽう』 1898ねん3がつ11にち 敍任じょにん及辭れい
  12. ^ 官報かんぽう』 1903ねん7がつ25にち 敍任じょにん及辭れい
  13. ^ 官報かんぽう』 1904ねん7がつ11にち 辭令じれい
  14. ^ 官報かんぽう』 1911ねん9がつ30にち 辭令じれい
  15. ^ 官報かんぽうだい2104ごう叙任じょにん及辞れい」1890ねん7がつ5にち
  16. ^ 官報かんぽうだい2551ごう叙任じょにん及辞れい」1892ねん1がつ4にち
  17. ^ 官報かんぽうだい3521ごう叙任じょにん及辞れい」1895ねん3がつ29にち
  18. ^ 官報かんぽうだい4448ごう叙任じょにん及辞れい」1898ねん5がつ2にち
  19. ^ 官報かんぽうだい5972ごう叙任じょにん及辞れい」1903ねん6がつ1にち
  20. ^ 官報かんぽうだい7495ごう叙任じょにん及辞れい」1908ねん6がつ22にち
  21. ^ 官報かんぽうだい8462ごう叙任じょにん及辞れい」1911ねん9がつ4にち
  22. ^ 官報かんぽうだい8635ごう叙任じょにん及辞れい」1912ねん4がつ5にち
  23. ^ 官報かんぽうだい1938ごう叙任じょにん及辞れい」1889ねん12月12にち
  24. ^ 官報かんぽうだい2680ごう叙任じょにん及辞れい」1892ねん6がつ6にち
  25. ^ 官報かんぽうだい3695ごう叙任じょにん及辞れい」1895ねん10がつ22にち
  26. ^ 官報かんぽうだい4029ごう付録ふろく辞令じれい」1896ねん12月2にち
  27. ^ 官報かんぽうだい4625ごう叙任じょにん及辞れい」1898ねん11月29にち
  28. ^ 官報かんぽうだい6627ごう叙任じょにん及辞れい」1905ねん8がつ2にち
  29. ^ 官報かんぽう号外ごうがい叙任じょにん及辞れい」1907ねん1がつ28にち
  30. ^ 官報かんぽうだい7272ごう授爵じゅしゃく敍任じょにん及辞れい」1907ねん9がつ23にち
  31. ^ 官報かんぽう』 1887ねん5がつ19にち 敍任じょにん及辭れい
  32. ^ 官報かんぽうだい6433ごう叙任じょにん及辞れい」1904ねん12月8にち
  33. ^ 官報かんぽう明治めいじ38ねん8がつ11にち
  34. ^ 官報かんぽう明治めいじ42ねん12月4にち
  35. ^ 千田せんだみのる華族かぞく総覧そうらん講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、2009ねん7がつ、326ぺーじISBN 978-4-06-288001-5 
  36. ^ 『蒿里あまりおん : 石本いしもと憲治けんじくん追悼ついとうろく』(石本いしもと憲治けんじくん追悼ついとうろく刊行かんこうかい、1937ねん)p.6
  37. ^ 石本いしもとめぐみよし(いしもとけいきち) 谷中たになか桜木さくらぎ上野公園うえのこうえん路地ろじうら徹底てっていツアー
  38. ^ しん軌跡きせき石本いしもと幸子さちこ朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん、2013、p385
  39. ^ 日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてんだい2はん、18ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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ぐんしょく
先代せんだい
中村なかむら雄次郎ゆうじろう
陸軍りくぐん総務そうむ長官ちょうかん
だい2だい:1902ねん4がつ17にち - 1903ねん12月5にち
次代じだい
なし
先代せんだい
中村なかむら雄次郎ゆうじろう
陸軍りくぐん次官じかん
だい5だい:1903ねん12月5にち - 1911ねん9がつ1にち
次代じだい
おか市之助いちのすけ
先代せんだい
寺内てらうち正毅まさき
陸軍りくぐん大臣だいじん
だい18だい:1911 - 1912
次代じだい
上原うえはら勇作ゆうさく
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
男爵だんしゃく
石本いしもとしんろく初代しょだい
1907ねん - 1912ねん
次代じだい
石本いしもとめぐみきち