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狩野かの直喜なおき

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狩野かの直喜なおき
人物じんぶつ情報じょうほう
別名べつめい あつし)、きみやまはん農人のうにんごう
生誕せいたん (1868-02-11) 1868ねん2がつ11にち
肥後ひごこくげん熊本くまもとけん
死没しぼつ (1947-12-13) 1947ねん12月13にち(79さいぼつ
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
学問がくもん
時代じだい 明治めいじ昭和しょうわ
研究けんきゅう分野ぶんや 中国ちゅうごく文学ぶんがく中国ちゅうごく哲学てつがく敦煌とんこうがく[1]
研究けんきゅう機関きかん 京都きょうと帝国ていこく大学だいがく
指導しどう教員きょういん 島田しまだ篁村こうそん根本ねもと通明みちあき竹添たけぞえ進一郎しんいちろう
おも指導しどう学生がくせい 武内たけうち義雄よしお青木あおき正児まさる小島こじまゆう本田ほんだ成之しげゆき橋本はしもと倉石くらいし武四郎たけしろう吉川よしかわ幸次郎こうじろう宮崎みやざきじょう[1]
称号しょうごう 京都きょうと帝国ていこく大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅ
おも業績ぎょうせき 考証こうしょうがく重視じゅうし京大きょうだい中国ちゅうごくがく学風がくふう確立かくりつ[1]
敦煌とんこうがく先駆せんくてき研究けんきゅう
影響えいきょうけた人物じんぶつ たま王国おうこくエドゥアール・シャヴァンヌポール・ペリオ[1]
おも受賞じゅしょうれき したがえ(1912ねん
文化ぶんか勲章くんしょう(1944ねん
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狩野かの 直喜なおき(かの なおき、1868ねん2がつ11にち慶応けいおう4ねん1がつ18にち) - 1947ねん昭和しょうわ22ねん12月13にち)は、日本にっぽん中国ちゅうごく学者がくしゃ中国ちゅうごく文学ぶんがく中国ちゅうごく哲学てつがく敦煌とんこうがく業績ぎょうせきのこす。京都きょうと帝国ていこく大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅぬるごうきみやまはん農人のうにんがある。内藤ないとう湖南こなん桑原くわばら隲蔵なら京都きょうと学派がくは東洋とうよう史学しがく創始そうししゃ一人ひとり肥後ひごこくげん熊本くまもとけんまれ。

略歴りゃくれき

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1879ねん明治めいじ12ねん)、創設そうせつまもない同心どうしん学舎がくしゃ入学にゅうがくし、明治めいじ17ねん後身こうしん済々黌せいせいこう卒業そつぎょう。その上京じょうきょうし、共立きょうりつ学校がっこう英語えいご数学すうがくまなんだのち、大学だいがく予備よびもんはい1892ねん明治めいじ25ねん)に卒業そつぎょう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく漢学かんがく入学にゅうがく同期どうき藤田ふじたゆたかはち後輩こうはい桑原くわばら隲蔵高瀬たかせ武次郎たけじろうがいた。在学ざいがくちゅう島田しまだ篁村こうそんから考証こうしょうがくけた。

1900ねん明治めいじ33ねん)には京都きょうと帝国ていこく大学だいがくへの赴任ふにん前提ぜんてい中国ちゅうごく本土ほんどきよし)の北京ぺきん留学りゅうがくするが、義和よしかずだん事件じけんまれ服部はっとり宇之きちとともに北京ぺきん日本にっぽん公使館こうしかん籠城ろうじょうした。よく1901ねん明治めいじ34ねん)には上海しゃんはい留学りゅうがくたま内藤ないとう湖南こなんい、欧米おうべい東洋とうよう学者がくしゃとも交流こうりゅうふかめた。1903ねん明治めいじ36ねん)の帰国きこく台湾たいわん総督そうとくによる『清国きよくに法制ほうせい』の編纂へんさん京都きょうと法政ほうせい専門せんもん学校がっこう(のちの立命館大学りつめいかんだいがく附設ふせつ東方とうほう学校がっこうでの講義こうぎおこなう。

1906ねん明治めいじ39ねん)にようやく新設しんせつされた京都きょうと帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく教授きょうじゅ就任しゅうにん中国ちゅうごく哲学てつがく中国ちゅうごく文学ぶんがく中国ちゅうごく語学ごがくおしえ、青木あおき正児まさる吉川よしかわ幸次郎こうじろうらの中国ちゅうごく文学ぶんがくしゃ中国ちゅうごく学者がくしゃ指導しどう育成いくせいしたほか、のちふる熊本くまもとはん細川ほそかわ当主とうしゅ細川ほそかわ護貞もりさだにもおしえている。1910ねん明治めいじ43ねん)には発見はっけんまもない敦煌とんこう文書ぶんしょ調査ちょうさのため京都きょうとみかどだいより内藤ないとう湖南こなん小川おがわ琢治たくじ富岡とみおか謙蔵けんぞう濱田はまだ耕作こうさくらと北京ぺきんおもむく。

1912ねん明治めいじ45ねん)から欧州おうしゅう留学りゅうがくし、フランスではシノロジー大家たいかシャヴァンヌペリオらと交遊こうゆう当時とうじ最先端さいせんたん文献ぶんけんがくてき方法ほうほう吸収きゅうしゅう、またフランスにかえられた敦煌とんこう文書ぶんしょ敦煌とんこうがく)の閲覧えつらん研究けんきゅうおこなった。1928ねん昭和しょうわ6ねん定年ていねん退官たいかん

また先述せんじゅつ服部はっとり宇之きちともに、義和よしかずだん事件じけん賠償金ばいしょうきん運営うんえいされたにちちゅう共同きょうどう東方とうほう文化ぶんか事業じぎょう関与かんよし、1926ねん昭和しょうわ4ねん)、東方とうほう文化ぶんか学院がくいん京都きょうと研究所けんきゅうじょげん京都大学きょうとだいがく人文じんぶん科学かがく研究所けんきゅうじょ初代しょだい所長しょちょう就任しゅうにん京都きょうと研究所けんきゅうじょ東方とうほう文化ぶんか研究所けんきゅうじょとして独立どくりつする1935ねん昭和しょうわ13ねん)までつとめた。1925ねん大正たいしょう14ねん)、帝国ていこく学士がくしいん会員かいいん[1]選任せんにん墓所はかしょきむ戒光明寺あけてら

栄典えいてん

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研究けんきゅう

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人物じんぶつ

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親族しんぞく

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著作ちょさく

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大半たいはん著作ちょさくが、遺稿いこうしゅう弟子でしたちのノートとうもとにしている
  • 中國ちゅうごく哲學てつがく岩波書店いわなみしょてん、1953ねん度々たびたび復刊ふっかん。オンデマンドばん2012ねん
  • りょうかん學術がくじゅつこう筑摩書房ちくましょぼう、1964ねん復刊ふっかん1978ねん、1988ねん
  • すすむ學術がくじゅつこう筑摩書房ちくましょぼう、1968ねん復刊ふっかん1978ねん、1988ねん
以下いかかくみすず書房しょぼう - ※おもまご狩野かのただしただし校訂こうてい

記念きねん論集ろんしゅう回想かいそう

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弟子でしらの座談ざだんかい回想かいそうで、対象たいしょう白鳥庫吉しらとりくらきち内藤ないとう湖南こなんら6めい、なお編者へんしゃ当時とうじ東方とうほう学会がっかい会長かいちょう
  • 東方とうほうがく回想かいそう先学せんがくかたる〈1〉』(かたなすい書房しょぼう、2000ねん)、いずれも座談ざだんでの回想かいそう上記じょうき新版しんぱん
  • 吉川よしかわ幸次郎こうじろう音容おんようとおし』(筑摩書房ちくましょぼう、1980ねん)、遺著いちょ先師せんしらの回想かいそう
  • しょろん だい38ごう 特集とくしゅう 狩野かのくんさん[5]杉村すぎむら邦彦くにひこ へんしょろん編集へんしゅうしつ、2012ねん遺墨いぼく図版ずはん狩野かのただしただし吉川よしかわ忠夫ただお編者へんしゃ論考ろんこう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 高田たかだ時雄ときお ちょ狩野かの直喜なおき」、砺波となみまもる へん京大きょうだい東洋とうようがくひゃくねん京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい、2002ねんISBN 978-4876984398 

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h 高田たかだ時雄ときお ちょ狩野かの直喜なおき」、砺波となみまもる へん京大きょうだい東洋とうようがくひゃくねん京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい、2002ねん5がつISBN 978-4876984398 
  2. ^ 官報かんぽうだい7640ごう叙任じょにん及辞れい」1908ねん12月12にち
  3. ^ 官報かんぽうだい126ごう叙任じょにん及辞れい」1912ねん12月29にち
  4. ^ 後半こうはん追悼ついとう論集ろんしゅう東光とうこう だいごう 狩野かの直喜なおき先生せんせい永逝えいせい記念きねん』(もとばん狩野かのくんやま博士はかせ追悼ついとうろく弘文こうぶんどう書房しょぼう昭和しょうわ23ねん・1948ねん復刻ふっこく収録しゅうろく
  5. ^ 次号じごうの『だい39ごう 特集とくしゅう 京都きょうと学派がくはとその周辺しゅうへん』にも、狩野かの吉川よしかわ論考ろんこうがある。

外部がいぶリンク

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