(Translated by https://www.hiragana.jp/)
玉乃世履 - Wikipedia コンテンツにスキップ

玉乃たまの世履せいり

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
玉乃たまの 世履せいり
生年月日せいねんがっぴ (1825-09-03) 1825ねん9月3にち
出生しゅっしょう 周防すおうこく玖珂くがぐん
ぼつ年月日ねんがっぴ (1886-08-08) 1886ねん8がつ8にち(60さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう
称号しょうごう したがえさんくんとう

在任ざいにん期間きかん 1878ねん9月13にち - 1879ねん10月25にち
元首げんしゅ 明治天皇めいじてんのう
在任ざいにん期間きかん 1881ねん7がつ27にち - 1886ねん8がつ8にち
元首げんしゅ 明治天皇めいじてんのう

在任ざいにん期間きかん 1879ねん11月17にち - 1881ねん7がつ27にち
テンプレートを表示ひょうじ

玉乃たまの 世履せいり(たまの よふみ[1]文政ぶんせい8ねん7がつ21にち1825ねん9月3にち) - 1886ねん明治めいじ19ねん8がつ8にち)は、日本にっぽん司法官しほうかん[2]剛毅ごうき果断かだん清廉せいれん潔白けっぱく精神せいしんぬしで、裁判官さいばんかんとしての公正こうせいさばきにより、「明治めいじ大岡おおおか」と賞賛しょうさんされた[3]ごう五龍ごりゅう大審院だいしんいんちょう在職ざいしょくちゅう自殺じさつした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

司法省しほうしょうけんだい判事はんじ時代じだい玉乃たまの世履せいり前列ぜんれつひだり)。前列ぜんれつひだりより、玉乃たまの福岡ふくおか孝弟こうてい大輔だいすけ江藤えとう新平しんぺい司法しほうきょう楠田くすだ英世ひでよあかりほうけんあたま渡辺わたなべしょうすすむ後列こうれつひだりより、丹羽にわけんしょうすすむ島本しまもと仲道なかみち警保あたま松岡まつおかかんあつしななとう出仕しゅっし松本まつもととおるけんだい判事はんじもと壬生みぶはんてん石崎いしざきまことあん)、尾崎おざき忠治ただはるちゅう判事はんじ阪本さかもとまさしひとし警保すけ。1872ねん[4]
  • 1825ねん文政ぶんせい8ねん) - 岩国いわくに領主りょうしゅ吉川よしかわ家臣かしんかつらおさむすけとしてまれる。
  • 1851ねんよしみなが4ねん) - 藩校はんこう養老ようろうかん学頭がくとうであった玉乃たまの九華きゅうか養子ようしとなる。
  • 1866ねん慶応けいおう2ねん)3がつ - 農民のうみんからなる「北門きたもんだん」を組織そしきし、洋式ようしきみさおねりほどこす。北門きたもんだんよんさかいやく出征しゅっせいしている。
  • 1867ねん慶応けいおう3ねん) - 日新にっしんたい組織そしきし、12月9にち上洛じょうらく翌年よくねん1がつ3にちからはじまった鳥羽とば伏見ふしみたたかのち同月どうげつまつ岩国いわくにかえる。
  • 1868ねん慶応けいおう4ねん)7がつ - 岩国いわくにはん公儀こうぎひとめいぜられる。
  • 1869ねん明治めいじ2ねん)2がつ - 会計かいけいかん判事はんじ試補しほとなる。
  • 1869ねん明治めいじ2ねん)5がつ - みんかん判事はんじ試補しほいでみんかんの聴訟知事ちじとなる。
  • 1869ねん明治めいじ2ねん)7がつ - 聴訟けんただしいでみんしょうすすむとなる。
  • 1871ねん明治めいじ4ねん)7がつ - 廃藩置県はいはんちけんにより、判事はんじとして司法省しほうしょうはいる。
  • 1871ねん明治めいじ4ねん)11月 - 司法しほうけんだい判事はんじとなる。
  • 1872ねん明治めいじ5ねん)8がつ早朝そうちょう神田かんだきょうかったところ、代言だいげんじん深川ふかがわ大川おおかわはしまちあぶら問屋とんやいとな服部はっとり喜平治きへいじ短刀たんとう右肩みぎかたけられた。玉乃たまのは「狼藉ろうぜきしゃポリス!!」とさけんで警察官けいさつかんび、暗殺あんさつ未遂みすいとなった。服部はっとりはその捕縛ほばくされ、同年どうねん9がつに、首切くびき役人やくにん山田やまだあさみぎ衛門えもんの9代目だいめ最後さいごくびやくよしあきらにより斬首ざんしゅけいしょされた。
  • 1875ねん明治めいじ8ねん)4がつ - ギュスターヴ・エミール・ボアソナード拷問ごうもん現場げんば目撃もくげきして狼狽ろうばいしているところに偶然ぐうぜんとおりかかり、名村なむらやすしぞうとともにさんにん司法しほうきょう大木おおき喬任たかとう談判だんぱんする。
  • 1875ねん明治めいじ8ねん)5がつ4にち - 同年どうねん4がつ14にち大審院だいしんいん設置せっちともない、さんとう判事はんじにんじられる。
  • 1875ねん明治めいじ8ねん)5がつ12にち - とう判事はんじとして大審院だいしんいんちょう代理だいりとなる(院長いんちょう欠員けついん)。
  • 1878ねん明治めいじ11ねん)9がつ13にち - 正式せいしき初代しょだい大審院だいしんいんちょうとなる。紀尾井きおいざかへんともな臨時りんじ裁判所さいばんしょ開設かいせつ司法しほうきょうより任命にんめいされ判決はんけつあん作成さくせい
  • 1879ねん明治めいじ12ねん) - 大審院だいしんいんはなれて司法しほう大輔だいすけとなり、元老げんろう院議いんぎかんねる。
  • 1879ねん明治めいじ12ねん)12月 - ざいほう草案そうあん審査しんさ委員いいんめいぜられる。
  • 1881ねん明治めいじ14ねん)7がつ27にち - ふたた大審院だいしんいんちょうだい3だい)となる。
  • 1883ねん明治めいじ16ねん) - 福島ふくしま事件じけん裁判さいばん高等法院こうとうほういん裁判さいばんちょうつとめる[5]政府せいふがわ圧力あつりょくがあったが、だい部分ぶぶん被告ひこく無罪むざいとし、大物おおものすうめいのみを内乱ないらんざいもっとかるけい処理しょりした。くすのき精一郎せいいちろうはこの判決はんけつを「司法しほうけん独立どくりつがまだ確立かくりつせず大審院だいしんいん地位ちいひく時代じだいに、玉乃たまの藩閥はんばつ政府せいふたいしてこころみた司法しほうけん確立かくりつのためのぎりぎりの抵抗ていこう」と評価ひょうかしている[6]
  • 1885ねん明治めいじ18ねんはる - 大審院だいしんいん休職きゅうしょく熱海あたみ転地てんち療養りょうよう
  • 1886ねん明治めいじ19ねん)8がつ8にち深夜しんや - 大審院だいしんいんちょう在職ざいしょくちゅう神田かんだ雉子まち現在げんざい神田かんだ小川おがわまち1丁目ちょうめ1-11)の自宅じたく2かいいて、かたな自殺じさつ享年きょうねん62)。自殺じさつ動機どうき不明ふめいで、糖尿とうにょうびょううつびょう大官たいかんつみをあばくにしのびなかったなど諸説しょせつあり[7]谷中たになか霊園れいえんほうむられる。[8]はかちかくには石碑せきひ大審院だいしんいんちょう玉乃たまのくん」がある[9]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

家族かぞく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 「せいり」とまれることおお
  2. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん玉乃たまの世履せいり
  3. ^ 山口大学やまぐちだいがく附属ふぞく図書館としょかん庶民しょみん資料しりょうてん
  4. ^ 的野まとのはんかい江藤えとうみなみしろ うえみなみしろ顯彰けんしょうかい、1914、p643
  5. ^ 福島ふくしま事件じけん高等法院こうとうほういん裁判さいばん言渡いいわたししょ : 写真しゃしん肖像しょうぞういれきよしたからどう、1883ねん
  6. ^ 玉乃たまの世履せいりみ)たまの・よふみコトバンク
  7. ^ 吉岡よしおか達生たつお初代しょだい大審院だいしんいんちょう 玉乃たまの世履せいり』(2002ねん
  8. ^ 玉乃たまの世履せいり(たまのせいり)谷中たになか桜木さくらぎ上野公園うえのこうえん路地ろじうら徹底てっていツアー
  9. ^ 法務ほうむ史料しりょう展示てんじしつだより だい25ごう歴史れきしつぼ-法務省ほうむしょう
  10. ^ 官報かんぽうだい678ごうしょうくん叙任じょにん」1885ねん10がつ2にち
  11. ^ 官報かんぽうだい933ごう叙任じょにん」1886ねん8がつ10日とおか
  12. ^ つづみつつみたけし人事じんじ興信録こうしんろく初版しょはん [明治めいじ36(1903)ねん4がつ]
  13. ^ 玉乃たまのいちくま著作ちょさくしゅう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  14. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん 1927ねん8がつ20日はつか
  15. ^ a b c 町内ちょうない侠気おとこぎ推進すいしんりょくほまれの竜巻たつまきりゅうしき中外ちゅうがい商業しょうぎょう新報しんぽう 1937.2.9 (昭和しょうわ12)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 吉岡よしおか達生たつお初代しょだい大審院だいしんいんちょう 玉乃たまの世履せいり』(2002ねん
  • 明治めいじよんねん久留くるべいはんなん川島かわしまきよしすけちょ金文きんぶんどう書店しょてん明治めいじ44ねん私家版しかばん384ページに、久留くるべいはん難事件なんじけん逮捕たいほされた国事犯こくじはん猛暑もうしょ獄中ごくちゅう長期間ちょうきかん収監しゅうかんされ、入浴にゅうよくなんうたが「玉乃たまのというがか役人やくにんじつ無情むじょうきわまったものでどうしてもってくれぬ」の記述きじゅつ。また361ページには、玉乃たまの調しらべをけたが拷問ごうもんもされずけいかるんだ横枕よこまくらさとしすけの、玉乃たまのとの問答もんどう詳細しょうさいした記述きじゅつがある。

玉乃たまの世履せいりえんじた俳優はいゆう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
新設しんせつ
日本の旗 高等法院こうとうほういん裁判さいばんちょう
1882ねん - 1886ねん
次代じだい
尾崎おざき忠治ただはる
先代せんだい
山田やまだあらわよし(→欠員けついん
日本の旗 司法しほう大輔だいすけ
1879ねん - 1881ねん
次代じだい
細川ほそかわじゅん次郎じろう