玉乃 世履
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生涯 [編集 ]
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5a/Eto_Shimpei_and_high_officials_under_him_at_beginning_of_Meiji_era.png/220px-Eto_Shimpei_and_high_officials_under_him_at_beginning_of_Meiji_era.png)
- 1825
年 (文政 8年 ) -岩国 領主 吉川 家 家臣 桂 脩 助 の子 として生 まれる。 - 1851
年 (嘉 永 4年 ) -藩校 の養老 館 学頭 であった玉乃 九華 の養子 となる。 - 1866
年 (慶応 2年 )3月 -農民 からなる「北門 団 」を組織 し、洋式 操 練 を施 す。北門 団 は四 境 役 に出征 している。 - 1867
年 (慶応 3年 ) -日新 隊 を組織 し、12月9日 上洛 。翌年 1月 3日 から始 まった鳥羽 ・伏見 の戦 いの後 、同月 末 に岩国 に帰 る。 - 1868
年 (慶応 4年 )7月 -岩国 藩 公儀 人 を命 ぜられる。 - 1869
年 (明治 2年 )2月 -会計 官 判事 試補 となる。 - 1869
年 (明治 2年 )5月 -民 部 官 判事 試補 、次 いで民 部 官 の聴訟司 知事 となる。 - 1869
年 (明治 2年 )7月 - 聴訟権 正 、次 いで民 部 少 丞 となる。 - 1871
年 (明治 4年 )7月 -廃藩置県 により、判事 として司法省 に入 る。 - 1871
年 (明治 4年 )11月 -司法 権 大 判事 となる。 - 1872
年 (明治 5年 )8月 の早朝 神田 橋 に差 し掛 かったところ、代言 人 で深川 の大川 端 町 で油 問屋 を営 む服部 喜平治 に短刀 で右肩 を斬 り付 けられた。玉乃 は「狼藉 者 !ポリス!!」と叫 んで警察官 を呼 び、暗殺 未遂 となった。服部 はその場 で捕縛 され、同年 9月 に、首切 り役人 山田 浅 右 衛門 の9代目 (最後 の首 斬 役 )吉 亮 により斬首 刑 に処 された。 - 1875
年 (明治 8年 )4月 - ギュスターヴ・エミール・ボアソナードが拷問 現場 を目撃 して狼狽 しているところに偶然 通 りかかり、名村 泰 蔵 とともに三 人 で司法 卿 大木 喬任 に談判 する。 - 1875
年 (明治 8年 )5月 4日 -同年 4月 14日 の大審院 の設置 に伴 い、三 等 判事 に任 じられる。 - 1875
年 (明治 8年 )5月 12日 -二 等 判事 として大審院 長 代理 となる(院長 は欠員 )。 - 1878
年 (明治 11年 )9月 13日 -正式 に初代 大審院 長 となる。紀尾井 坂 の変 に伴 い臨時 裁判所 が開設 、司法 卿 より任命 され判決 案 を作成 。 - 1879
年 (明治 12年 ) -大審院 を離 れて司法 大輔 となり、元老 院議 官 も兼 ねる。 - 1879
年 (明治 12年 )12月 -治 罪 法 草案 審査 委員 を命 ぜられる。 - 1881
年 (明治 14年 )7月 27日 -再 び大審院 長 (第 3代 )となる。 - 1883
年 (明治 16年 ) -福島 事件 裁判 の高等法院 裁判 長 を務 める[5]。政府 側 の圧力 があったが、大 部分 の被告 を無罪 とし、大物 数 名 のみを内乱 罪 の最 も軽 い刑 で処理 した。楠 精一郎 はこの判決 を「司法 権 の独立 がまだ確立 せず大審院 の地位 が低 い時代 に、玉乃 が藩閥 政府 に対 して試 みた司法 権 確立 のためのぎりぎりの抵抗 」と評価 している[6]。 - 1885
年 (明治 18年 )春 -大審院 を休職 し熱海 で転地 療養 。 - 1886
年 (明治 19年 )8月 8日 深夜 -大審院 長 在職 中 、神田 雉子町 (現在 の神田 小川 町 1丁目 1-11)の自宅 2階 に於 いて、刀 で自殺 (享年 62)。自殺 の動機 は不明 で、糖尿 病 、鬱 病 、大官 の罪 をあばくに忍 びなかったなど諸説 あり[7]谷中 霊園 に葬 られる。[8]。墓 の近 くには石碑 「大審院 長 玉乃 君 碑 」がある[9]。
栄典 [編集 ]
家族 [編集 ]
実父 ・桂 脩 助 -岩国 領主 吉川 家 家臣 養父 ・玉乃 九華 -藩校 養老 館 学頭 妻 ・光子 長女 ・ふみ -陸軍 少将 皷 包 武 (岸 信介 、佐藤 栄作 の祖父 ・佐藤 信彦 の弟 )の妻 [12]長男 ・玉乃 一 熊 - ビリアードの名人 として知 られ、著書 もある[13]。大野 毛 利家 出身 の妻 との間 に二男 を儲 けたが離婚 。のち再婚 し一 男 三 女 を儲 けるが、地方 で一 稼 ぎしてくると家 を出 たのち消息 不明 となった事 もある[14]。牛込 区 河田 町 でビリアード場 を営 んだ[15]。孫 ・玉乃 由理 -一 熊 の長男 。滝野川 区 田端新 町 に「木炭 瓦斯 工業 所 」を開 き、ガソリン車 に代 わる非常時 用 木炭 瓦斯 自動車 の発明 研究 に勤 しんだ[15]。両親 の離婚 後 祖母 光子 に引 き取 られたが、13歳 で祖母 が亡 くなり、再婚 した父 のもとに戻 り、攻 玉 社 中学 に進学 。同校 中退 後 、家 を出 て18歳 で瓦斯 工業 協会 の製図 見習 工 となり、以降 築地 工手 学校 、早稲田 工手 学校 などを転々 としたのち、25歳 で中央工学校 を卒業 。自動車 修繕 工場 を転々 とし、自 ら経営 もした[15]。
脚注 [編集 ]
出典 [編集 ]
- ^ 「せいり」と
読 まれる事 も多 い - ^
朝 日 日本 歴史 人物 事典 「玉乃 世履 」 - ^
山口大学 附属 図書館 庶民 資料 展 - ^
的野 半 介 『江藤 南 白 上 』南 白 顯彰 会 、1914、p643 - ^
福島 事件 高等法院 裁判 言渡 書 :写真 肖像 入 清 宝 堂 、1883年 - ^
玉乃 世履 (読 み)たまの・よふみコトバンク - ^
吉岡 達生 『初代 大審院 長 玉乃 世履 』(2002年 ) - ^
玉乃 世履 (たまのせいり)谷中 ・桜木 ・上野公園 路地 裏 徹底 ツアー - ^
法務 史料 展示 室 だより第 25号 歴史 の壺 -法務省 - ^ 『
官報 』第 678号 「賞 勲 叙任 」1885年 10月 2日 。 - ^ 『
官報 』第 933号 「叙任 」1886年 8月 10日 。 - ^
皷 包 武 『人事 興信録 』初版 [明治 36(1903)年 4月 ] - ^
玉乃 一 熊 著作 集 国立 国会図書館 デジタルコレクション - ^
東京 朝日新聞 1927年 8月 20日 - ^ a b c
町内 侠気 の推進 力 誉 れの竜巻 流 式 中外 商業 新報 1937.2.9 (昭和 12)
参考 文献 [編集 ]
吉岡 達生 『初代 大審院 長 玉乃 世履 』(2002年 )- 『
明治 四 年 久留 米 藩 難 記 』川島 澄 之 助 著 、金文 堂 書店 、明治 44年 (私家版 )384ページに、久留 米 藩 難事件 で逮捕 された国事犯 が猛暑 の獄中 に長期間 収監 され、入浴 を何 度 も請 うたが「玉乃 という掛 り役人 は実 に無情 極 まった者 でどうしても取 り合 ってくれぬ」の記述 。また361ページには、玉乃 の取 り調 べを受 けたが拷問 もされず刑 も軽 く済 んだ横枕 覚 助 の、玉乃 との問答 を詳細 した記述 がある。
玉乃 世履 を演 じた俳優 [編集 ]
関連 項目 [編集 ]
自殺 ・自決 ・自害 した日本 の著名 人物 一覧 横田 秀雄 - 「大正 の大岡 」と賞賛 された。
外部 リンク[編集 ]
玉乃 世履 (岩国 藩士 )- デジタル
版 「実験 論語 処世 談 」(33) /渋沢 栄一 -空 米 相場 の許否 論 を巡 って渋沢 に反対 していた玉乃 がボアソナードに論破 され、自 らの間違 いを謝罪 に来 た話 - 『
近世 自殺 者 列伝 』玉乃 世履 宮武 外骨 、1931年
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