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庭師にわし

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イギリスしき庭園ていえん花壇かだん一部いちぶ
庭師にわし
王室おうしつ庭師にわし John Rose と国王こくおう Charles II(Hendrick Danckerts さく、1675ねん

庭師にわし(にわし)とは、にわつくひとのこと。ふるくは園丁えんてい(えんてい)やガーデナー[1]ばれる。庭石にわいし樹木じゅもくいけ水路すいろからしばなどをふくめて、にわひとつの造形ぞうけい空間くうかんとして設計せっけい施工しこう製作せいさくするひと、またその樹木じゅもくなどの植物しょくぶつ生育せいいく管理かんりし、定期ていきてき剪定せんていしたりする管理かんり仕事しごともする専門せんもんである。

庭師にわし造園ぞうえん[編集へんしゅう]

日本語にほんごけんではたとえば小川おがわおさむ兵衛ひょうえのようににわかんする事項じこう全般ぜんぱん施工しこうから手入ていれなどをおこなうほか、設計せっけいおこなうことになるため、庭師にわし造園ぞうえんさくにわわれる場合ばあいがある。しかしじゅうもりさんれいのような庭園ていえん研究けんきゅうしゃ官庁かんちょうつとめる造園ぞうえん技師ぎし名園めいえんさくにわする場合ばあいおおく、造園ぞうえんさくにわはそうした人物じんぶつらをふくめた総称そうしょうである。

イギリスのランスロット・ブラウン庭師にわしでもあったがさくにわでもある。英語えいごでは「gardenerガーデナー」と「garden architectガーデン・アーキテクト」はことなる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

すでに古代こだいにおいて造園ぞうえん技術ぎじゅつ発達はったつし、バビロンの空中くうちゅう庭園ていえんやローマのドムス・アエリアやハドリアヌス庭園ていえんヴィラ・アドリアーナ)など、だい規模きぼ庭園ていえん造営ぞうえいされたことがられている。しかし機械きかいてき技芸ぎげい一般いっぱん軽視けいしした古代こだい社会しゃかいにおいては、にわつくもの地位ちい一般いっぱんひくかったとされる。オスマン帝国ていこく宮廷きゅうてい庭師にわしは、首切くびき役人やくにん兼任けんにんしていたほか、身分みぶんたかもの裁判さいばん死罪しざい判決はんけつくだされたさい死刑しけい判決はんけつ被告ひこく徒競走ときょうそうおこない、被告ひこくがその競争きょうそうけた場合ばあい即刻そっこく死刑しけい執行しっこう被告ひこくった場合ばあい国外こくがい追放ついほうといった職務しょくむにも従事じゅうじしていた。

トルコではほか16世紀せいきなかチューリップ交配こうはいさかんになり改良かいりょう新種しんしゅ次々つぎつぎまれた時代じだいにはチューリップせんもん庭師にわし誕生たんじょうしているが、当時とうじのイスラム長官ちょうかんエブスード・エフェンディまでもが「楽園らくえんひかり」とづけたあたらしいチューリップをつくっていることがしられている。トルコはまたインド侵略しんりゃくしたさいパプリカかえるが、そうした蔬菜そさい宮廷きゅうてい庭師にわし栽培さいばいさせていたことがハンガリーつたわる唐辛子とうがらしにまつわるいいつたえからられる。

中世ちゅうせいヨーロッパでもスペインなどで造営ぞうえいされたイスラム庭園ていえんとくみずきれ、噴水ふんすいなどを駆使くししたアルハンブラ宮殿きゅうでんヘネラリフェ庭園ていえん有名ゆうめいであるが、どう時代じだい修道院しゅうどういん宮廷きゅうていでは菜園さいえん庭園ていえん区別くべつはあまり発達はったつせず、むしろ蔬菜そさいえんねた中庭なかにわ主流しゅりゅうであった。ただしこの時代じだいかんしてのこされている史料しりょうからは宮廷きゅうてい庭師にわしたちが国王こくおう貴族きぞくしたはたらいていた記録きろくがあり、実用じつようてきかつうつくしさにも配慮はいりょした園芸えんげい作業さぎょう従事じゅうじしていたことがわかっている。フランク王国おうこくのカール(シャルルマーニュ)大帝たいてい邸宅ていたく庭園ていえんもちいられた植物しょくぶつリストにはりんごセイヨウナシなどの果樹かじゅのほか、ユリバラアイリスセージなどがえられていたことが記載きさいされ、視覚しかくてきなことだけでなく芳香ほうこう植物しょくぶつなどかおりも重視じゅうししていたとされる。

宮廷きゅうてい庭師にわし蔬菜そさい栽培さいばいかんする記録きろくはほかにもおおく、フランス13世紀せいきころしょくされていたアスパラガス貴族きぞく野菜やさいしょうされるほど高価こうかなものとされるが、とくルイ14せい宮廷きゅうてい庭師にわしに、一年中いちねんじゅうべられるように温室おんしつ栽培さいばいめいじたというし、1593ねんイベリア半島はんとう旅行りょこうしたマクシミリアン2せい宮廷きゅうてい植物しょくぶつ学者がくしゃシャルル・ド・レクリューズカスティリア(スペイン)で、庭師にわし主婦しゅふまでもがカプシクム(唐辛子とうがらし)を丁寧ていねい栽培さいばいしていると報告ほうこく。またイタリアトマト栽培さいばい裕福ゆうふくそう観賞かんしょうようとしてものから食用しょくよう移行いこうするのは、ナポリ宮廷きゅうてい庭師にわしなえ自分じぶんいえかえ食用しょくようにしたからといわれている。宮廷きゅうてい庭師にわしミヒャエル・ハンフらは16世紀せいき果樹かじゅ野菜やさい栽培さいばいする実用じつようえんとしてつくられていたルストガルテンを1647ねんブランデンブルクせんみかどこうフリードリヒ・ヴィルヘルムいのちによりオランダ庭園ていえん改造かいぞうしたことがられる。17世紀せいきにはジャガイモやトマトなどが観賞かんしょうようから食糧しょくりょうとしての経済けいざいてき有用ゆうようせいみとめられるようになり、イギリスなどは食糧しょくりょう大量たいりょう生産せいさんするという目的もくてきで、それら蔬菜そさい苗木なえぎ植民しょくみん栽培さいばいはじめる。

ルネサンスからバロックはいると水利すいり技術ぎじゅつ駆使くしした庭園ていえん発達はったつし、メディチそう建設けんせつコジモ1せい依頼いらいした水利すいり技術ぎじゅつしゃであり建築けんちくそして彫刻ちょうこくとしてられるニッコロ・トリボロのような人物じんぶつさくにわたり、また庭園ていえん設計せっけい理論りろんさかんに著述ちょじゅつされるようになっていくが、このことはヨーロッパにおける庭園ていえん発達はったつおおきな変革へんかくをもたらし、ヴェルサイユ宮殿きゅうでんられるだい規模きぼ庭園ていえん造営ぞうえいにおいて、造園ぞうえん農芸のうげい専門せんもんという立場たちばから、芸術げいじゅつとしてのあつかいをけていき、厚遇こうぐうされるようになっていく。ラファエロは『うつくしきおんな庭師にわし』をえがき、モーツァルト歌劇かげきにせおんな庭師にわし」は1775ねん1がつ、ドイツミュンヘン初演しょえんされる。アンドレ・ル・ノートルいえはパリにある王室おうしつ所有しょゆうテュイルリー庭園ていえん代々だいだいはたらいていた造園ぞうえん家柄いえがらとしてられるし、ドイツマクデブルクのフリードリッヒ・ウィルヘルムスパルクをがけたペーター・ヨセフ・レンネ宮廷きゅうてい庭師にわし家柄いえがら出身しゅっしんである。

ジョン・トラデスカント親子おやこチャールズ1せいかかえの庭師にわしとなり、17世紀せいきちゅうごろから18世紀せいきにかけてヨーロッパ大陸たいりく・アルジェリア・アメリカからめずらしい植物しょくぶつ採集さいしゅうしてくる「プラントハンター」とばれる職能しょくのうとして活躍かつやくする。かれらはサクランボ・オレンジ・チューリップなどをイギリスにんだ。またおなじく諸国しょこくまわったロバート・フォーチュンもエジンバラ王立おうりつ植物しょくぶつえん英語えいごばん園芸えんげいおさめ、ロンドン園芸えんげい協会きょうかい庭師にわしであった。イギリスではほかにハンプトンコートなどの庭師にわしジョージ・ロンドン英語えいごばんヘンリー・ワイズかれらのもとではたらいていたスティーヴン・スウィツァーアン女王じょおうのおかか庭師にわしロジャー・ルッカーらがられる。かれらは庭園ていえん維持いじ管理かんりおさむけい担当たんとうする王室おうしつ園芸えんげいかんとして活躍かつやくする。

日本にっぽんではふるくはえん管理かんりする園池そのいけつかさなどの管制かんせい明治めいじ開拓かいたく使園芸えんげいとして外国がいこくじんやとっていることがられるが、にわ施工しこうするもの意味いみでの「庭師にわし」という意味いみかたり江戸えど時代じだい定着ていちゃくしたものである。

ほかににわつくもの平安へいあん時代じだい末期まっきからの「石立いしだてそう」、室町むろまち時代じだい善阿弥ぜんなみなど「山水さんすい河原者かわらもの」があり、実際じっさいにわつく人物じんぶつ身分みぶんあらわれている。

室町むろまち以降いこう枯山水かれさんすいなどのこころみはひろおこなわれるようになっていくが、これは禅宗ぜんしゅう影響えいきょう雪舟せっしゅうゆめまどうとせきのような「石立いしだてそう」が台頭たいとうしていったことがあるが、現在げんざいでも深谷ふかやひかります俊明としあきなど僧侶そうりょさくにわとなるケースはある。

江戸えど回遊かいゆうしき庭園ていえん形式けいしき発達はったつし、とき徳川とくがわ幕府ばくふさくにわ責任せきにんしゃ将軍家しょうぐんけ庭師にわしとともに御用ごよう庭師にわしにあたるにわかけなどをさだめ、庭園ていえん管理かんりつとめさせている。江戸えどには、さだかんえん改修かいしゅう参画さんかくした幕府ばくふのおかか庭師にわしであったきゅうだんひとしみぎ衛門えもん藤井ふじい友之ともゆきすすむちぢみけいえん築造ちくぞうばれた京都きょうとからの庭師にわし清水しみず七郎しちろうみぎ衛門えもん清水しみずえん新発田しばたはん)にかかわった幕府ばくふかか庭師にわしけんそうともみやりょう殿どのない和風わふう枯山水かれさんすい庭園ていえんさくにわしたくびさと庭師にわし城間しろまちかし雲上うんじょうなどがいた。駒込こまごみむら枝郷えだごう染井そめいむらには江戸城えどじょうない庭師にわしもつとめた植木うえき伊藤いとうなどがあった。

近代きんだいからは植木うえき職人しょくにん樹木じゅもく園芸えんげいしゅそだてる農家のうか屋号やごうをもって建設けんせつぎょう造園ぞうえんぎょう石材せきざいぎょういとなむようになっていくが、このなか小川おがわおさむ兵衛ひょうえうえなど、今日きょうにものこ老舗しにせといわれる植木うえきしょう造園ぞうえん業者ぎょうしゃ発展はってんしたものや出入でいぎょう家業かぎょういで発展はってんしたものがおおく、また戦前せんぜんごろから大学だいがくそつ学士がくしなどが修行しゅぎょう独立どくりつするケースもみられていく。近代きんだいでは、大河内おおこうち山荘さんそう築造ちくぞうした広瀬ひろせ利兵衛りへえ殿しんがり谷戸たんど庭園ていえん築造ちくぞうした仙石せんごくみずからの合浦がつぽ公園こうえん造成ぞうせい開始かいししたきゅう弘前ひろさきはん庭師にわし水原みずはらまもるさく迎賓館げいひんかん築造ちくぞうした佐野さのふじみぎ衛門えもん岩城いわきわたる太郎たろう柴又しばまた帝釈天たいしゃくてん邃渓えん築造ちくぞうした向島むこうじま庭師にわし永井ながい楽山らくざんなどがいる。

現在げんざいでは幾多いくた名園めいえん企業きぎょう公共こうきょう団体だんたい管理かんりするものが主流しゅりゅうめ、中根なかね金作きんさくのように京都きょうとなど自治体じちたい技師ぎし文化庁ぶんかちょう環境省かんきょうしょうなどくに技官ぎかんとして任用にんようされるケースもある。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

庭師にわしでもあった人物じんぶつ[編集へんしゅう]

家業かぎょうおや)が庭師にわし人物じんぶつ[編集へんしゅう]

庭師にわし関係かんけいする作品さくひんをもつ作家さっか[編集へんしゅう]

庭師にわし関連かんれん作品さくひん架空かくう庭師にわし[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ えい: gardener由来ゆらいする。
  2. ^ えい: The Spanish Gardener
  3. ^ ふつ: Les Jardiniers
  4. ^ ふつ: Le jardinier de Samos

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 世界一せかいいち庭師にわし仕事しごとじゅつ WAVE出版しゅっぱん 石原いしはら和幸かずゆき 2009ねん ISBN 9784872903966
  • 名人めいじん庭師にわし 剪定せんていせい姿すがた知恵袋ちえぶくろ 講談社こうだんしゃプラスアルファ新書しんしょ 吉村よしむら 隆一りゅういち
  • 平野ひらの泰弘やすひろ 編著へんちょ名人めいじん庭師にわしとっておきの知恵袋ちえぶくろ講談社こうだんしゃ
  • スペインの庭師にわし A.J.クローニン さんかさ書房しょぼう 竹内たけうち道之みちゆきじょ 1957