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野村のむらのぞむあずま

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野村のむらのぞむあずま
誕生たんじょう 浦野うらのもと
(1806-10-17) 1806ねん10月17にち
筑前ちくぜんこく早良さわらぐん
死没しぼつ (1867-12-01) 1867ねん12月1にち(61さいぼつ
周防すおうこく三田尻みたじり
墓地ぼち 福岡ふくおかひがし堅粕かたかす 明光めいこうてら
職業しょくぎょう 歌人かじん勤王きんのう
教育きょういく 大隈おおくま言道ことみち
代表だいひょうさくこうりょうしゅう
ウィキポータル 文学ぶんがく
テンプレートを表示ひょうじ
野村のむらのぞむひがしあまぞう
平尾ひらお山荘さんそう

野村のむら のぞむあずま(のむら もとに[1]、ぼうとうに[2][3])、文化ぶんか3ねん9月6にち1806ねん10月17にち) - 慶応けいおう3ねん11月6にち1867ねん12月1にち))は、幕末ばくまつ女流じょりゅう歌人かじん勤王きんのういえおくせい

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

文化ぶんか3ねん(1806ねん)9がつ6にち筑前ちくぜんこくうまやげん福岡ふくおかけん福岡ふくおか中央ちゅうおう赤坂あかさか)にまれる。福岡ふくおかはん浦野うらのしげるみぎ衛門えもん勝幸かつゆきさんじょで、幼名ようみょうは"モト"[2][3]幼少ようしょうより二川ふたかわ相近すけちか[4]和歌わか書道しょどうまなんだとされる[2]

文政ぶんせい元年がんねん1818ねん)、13さいときはやし左衛門さえもんいえ行儀ぎょうぎ見習みならいとしてつかえ、がくもん裁縫さいほう手芸しゅげいなど多芸たげい趣味しゅみおぼえる。

文政ぶんせい5ねん1822ねん)、17さいころに20さい年上としうえ福岡ふくおか藩士はんしぐん甚右衛門えもんとつぐものの半年はんとしほどで離縁りえん生家せいかもどって和歌わか書道しょどうなどにくわえて尊皇そんのう思想しそうまなんだ[2]

文政ぶんせい12ねん1829ねん)、24さい二川ふたかわじゅく同門どうもん福岡ふくおか藩士はんし野村のむら新三郎しんざぶろうさだぬき再婚さいこん[2]野村のむら再婚さいこんであるが、そのとの関係かんけい良好りょうこうだった[2]一方いっぽうで、4にんさずかったどもは早世そうせいしている。 二川ふたかわ相近すけちかやまいいえじゅくめると、天保てんぽう3ねん1832ねん)からはおっととも大隈おおくま言道ことみち門下もんかはいる。

ひろし2ねん1845ねん)、である次男じなん家督かとくがせおっと隠居いんきょすると、福岡ふくおか南側みなみがわ山村さんそんげん福岡ふくおか中央ちゅうおう平尾ひらお)にあった自分じぶん山荘さんそう平尾ひらお山荘さんそう)に40さい隠棲いんせいした[2]

安政あんせい6ねん1859ねん)、54さいときおっとくなり、剃髪ていはつして受戒じゅかい[2]文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん)11月、もちひがしあま福岡ふくおかち4ねんほどまえから大坂おおさか滞在たいざいしていた大隈おおくま言道ことみちもとたずねた。 その京都きょうとおもむき、よく2ねん5がつまで滞在たいざいしたが、このあいだ島津しまつ久光ひさみつ上洛じょうらく寺田てらだ事件じけんなど、騒然そうぜんとする京都きょうとちゅう様子ようす見聞みききした[2]。また、福岡ふくおかはん御用達ごようたし商人しょうにん尊皇そんのう攘夷じょうい交流こうりゅうがあった馬場ばばあやえいい、次第しだい政治せいじつよ関心かんしんつようになった。その福岡ふくおかもどったもちひがしあま平尾ひらお山荘さんそう勤皇きんのう度々たびたびかくまったり、密会みっかい場所ばしょ提供ていきょうしたりする。彼女かのじょ便宜べんぎはかってもらったなかには、勤王きんのうそうつきあきら長州ちょうしゅうはん高杉たかすぎ晋作しんさく熊本くまもとはん入江いりえはちせん兵衛ひょうえ対馬つしまはん平田ひらた大江おおえ福岡ふくおか藩士はんし加藤かとう司書ししょ平野ひらの国臣くにおみ中村なかむらまどかふとし月形つきがたあらいぞう早川はやかわようけいなどがいる。

慶応けいおう元年がんねん1865ねん)6がつ福岡ふくおかはんない尊攘そんじょう弾圧だんあつうごきがつよくなり、まご福岡ふくおか藩士はんし野村のむら助作すけづくりおっと前妻ぜんさいまご)ととも自宅じたく謹慎きんしんめいじられ、親族しんぞくあつまって今後こんご相談そうだんをしていた深夜しんやしたしく近所きんじょづきあいをしていた隣家りんか喜多きたおか勇平ゆうへい暗殺あんさつされた。もちひがしあまはん密命みつめいけて重要じゅうよう任務にんむにあたっていた喜多きたおかから様々さまざま情報じょうほうていた。禁門きんもんへんの12月、長州ちょうしゅう周旋しゅうせんげた喜多きたおかが「長州ちょうしゅう高杉たかすぎせんきょしているようだ」などともちひがしあまつたえている。

10月に姫島ひめしまげん福岡ふくおかけん糸島いとしま志摩しま姫島ひめしま)へ流刑りゅうけいとなった[3]。(おつうしごく)

よく2ねん1866ねん)9がつ晋作しんさく指揮しきにより福岡ふくおか脱藩だっぱん志士しし藤四郎とうしろう多田ただそうぞうらが姫島ひめしまから脱出だっしゅつ手引てびきをし、下関しものせき勤皇きんのう豪商ごうしょう白石しらいし正一郎しょういちろうたくかくまわれた。そのびょうたおれた晋作しんさく最期さいご看取みとこととなり、晋作しんさく「おもしろき こともなきに おもしろく」むと、もちひがしあまつづけてみなすものは しんなりけり」んだ。

もちひがしあまはその毛利もうりからにん扶持ふちあたえられ厚遇こうぐうされるが、薩長さっちょう連合れんごうぐん戦勝せんしょう祈願きがんのためにった断食だんじきたたり 、もちひがしあま体調たいちょうくずし、慶応けいおう3ねん1867ねん)11月、三田尻みたじりげん山口やまぐちけん防府ほうふ古称こしょう)で62さい死去しきょした[3]

辞世じせい雲水うんすいの ながれまとひてはな初雪はつゆきとわれふりてしょうゆなり」

山口やまぐちけん防府ほうふ大楽寺だいらくじ桑山くわやま墓地ぼち福岡ふくおかけん福岡ふくおか博多はかた明光めいこうてらはかがある。

明治めいじ24ねん(1891ねん)、せい追贈ついぞうされた[5]

逸話いつわ[編集へんしゅう]

モトは林家はやしやつかえているとき実家じっか浦野うらの火事かじとなったとらせをけて、かえったとき第一声だいいっせいが「水牛すいぎゅうかぶとはいかに」であった。近所きんじょ人達ひとたちはさすが武家ぶけむすめさんだと感心かんしんしたという。このはなしはん上層じょうそうにまでつたわり、後々あとあとまでかたぐさとなっていたという。

その[編集へんしゅう]

生誕せいたんいしぶみ

こうりょうしゅう」「上京じょうきょう日記にっき」「姫島ひめしま日記にっき」「ぼうしゅう日記にっき」などの遺稿いこう存在そんざいする[6]磯辺いそべみのる校訂こうていで、野村のむらのぞむひがしあま上京じょうきょう日記にっき 姫島ひめしま日記にっきぶんともどう書店しょてん昭和しょうわ18ねん(1943ねん)に出版しゅっぱんされている。

また、密会みっかい場所ばしょとして提供ていきょうしていた山荘さんそう現在げんざい保存ほぞんされており、山荘さんそう敷地しきち平尾ひらお山荘さんそう公園こうえんとして整備せいびされている。どう公園こうえんないには彼女かのじょ銅像どうぞう設置せっちされている。なお、福岡ふくおか中央ちゅうおう赤坂あかさか3丁目ちょうめには生誕せいたんいしぶみっている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 野村のむらのぞむあずま - 美術びじゅつ人名じんめい辞典じてんおもえぶんかくコトバンク
  2. ^ a b c d e f g h i 野村のむら のぞむひがしあま(ぼうとうに) 信念しんねんげず志士ししたちを感化かんか - 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん朝刊ちょうかん女性じょせいめん 2013ねんがつ20日はつか[リンク]
  3. ^ a b c d 平尾ひらお山荘さんそう - 福岡ふくおか文化財ぶんかざい福岡ふくおか経済けいざい観光かんこう文化ぶんかきょく文化財ぶんかざい保護ほご
  4. ^ 二川ふたかわ相近すけちか - コトバンク
  5. ^ 田尻たじりたすく へん贈位ぞうい諸賢しょけんでん 増補ぞうほばん じょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1975ねん特旨とくし贈位ぞうい年表ねんぴょう p.7
  6. ^ 井上いのうえ精三せいぞう博多はかた郷土きょうど事典じてんあし書房しょぼう 2000ねんISBN 978-4751203620 P175-176

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]