山内やまうちりゅう

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山内やまうちりゅう(やまうちりゅう、やまのうちりゅう)は、大分おおいたけん臼杵きゅうしょつたわる日本にっぽんおよげほう流派りゅうはのひとつ。臼杵うすき山内やまうちりゅうともばれる。日本にっぽん水泳すいえい連盟れんめい認定にんていする13流派りゅうはのうちのひとつである[1]。また、1966ねん昭和しょうわ41ねん3月22にち大分おおいたけん無形むけい文化財ぶんかざい指定していされた。

概要がいよう[編集へんしゅう]

豊後水道ぶんごすいどうめんする臼杵きゅうしょはんでは、すで16世紀せいき大友おおとも義鑑よしあき治世ちせい水練すいれんはじめられたとつたえられ、ふるくから水練すいれんじゅつさかんであったが、江戸えど時代じだい後期こうき1822ねん文政ぶんせい5ねん)にかみつたえりゅうおさめた松山まつやまはん山内やまうち久馬きゅうま勝重かつしげから臼杵うすき藩士はんし稲川いながわきよし勝重かつしげりゅうしょうするあらたなおよげほう伝授でんじゅされると、以後いご臼杵きゅうしょはん代表だいひょうてきおよげほうとなった[2]一時いちじ衰微すいびしたが、1892ねん明治めいじ25ねん)に当時とうじ臼杵きゅうしょまちちょうであった宇野うのおさむひかりらの尽力じんりょくにより町営ちょうえいとなり、そのさいながれめい統一とういつして山内やまうちりゅうさだまった[3]

1930ねん昭和しょうわ5ねん)に全国ぜんこくてきおよげほう流派りゅうは加盟かめいする日本にっぽん游泳ゆうえい連盟れんめい設立せつりつされ、規約きやく岩倉いわくらりゅう踏水じゅつ小堀おうほりりゅうかん海流かいりゅう向井むかいりゅう野島のじまりゅう山ノ内やまのうちりゅうかみつたえりゅう水府すいふりゅう太田おおた加盟かめいし、設立せつりつ加盟かめい団体だんたいとなった(規約きやくでは「山ノ内やまのうちりゅう」)[4]

山内やまうちりゅうおよげほう基本きほんはすよこおよげたておよげである。はすよこおよげ遠泳えんえいてきしたおよげほうで、あたま正面しょうめんたいはすよこにして、手繰たぐあしさんせつおうぎあしおよぐ。たておよげつぎおうぎあしで、あしだけでおよぎをしながら、おおきなはたったり、弓矢ゆみやいたり、書道しょどうをするといった妙技みょうぎ有名ゆうめいである。これらは本来ほんらい水中すいちゅうおよぎながらせんまじえるための武術ぶじゅつであった[5]

現在げんざいでは、毎年まいとし7がつ21にちから20日間にちかんにわたって中津浦なかつうらこいらいはま游泳ゆうえいしょひらかれて、地元じもと児童じどうなどにじゅつ伝授でんじゅされ、その最終さいしゅう8がつ10日とおかにはおよげほう披露ひろうおこなわれてた[2]

また、1980年代ねんだいから、毎年まいとし1がつ3にちには同所どうしょ寒中かんちゅう水泳すいえい大会たいかいひらかれていたが、30かいむかえた2016ねん平成へいせい28ねん)をもっていったん休止きゅうししており、2017ねん平成へいせい29ねん)からは有志ゆうしによるはつおよぎがおこなわれている[6]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 流派りゅうは一覧いちらん (PDF) - 日本にっぽん水泳すいえい連盟れんめい
  2. ^ a b 山内やまうちりゅう - 臼杵きゅうしょ
  3. ^ 山内やまうちりゅうおよげほう(やまのうちりゅうえいほう)”. 2002ねん1がつ11にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2008ねん1がつ7にち閲覧えつらん - 大分おおいた歴史れきし事典じてん大分放送おおいたほうそう
  4. ^ 中森なかもり一郎いちろう日本にっぽんおよげほうかみみつるりゅう伝承でんしょう史的してき実相じっそうかんする調査ちょうさ研究けんきゅう - 判明はんめいした成果せいか課題かだい -」『真宗しんしゅう総合そうごう研究所けんきゅうじょ研究けんきゅう紀要きようだい32ごう大谷大学おおたにだいがく真宗しんしゅう総合そうごう研究所けんきゅうじょ、2013ねん、p27-73、ISSN 1343-2753 
  5. ^ 日本にっぽんおよげほう概説がいせつ (PDF) - 日本にっぽん水泳すいえい連盟れんめい
  6. ^ ひとまずおわか臼杵きゅうしょ山内やまうちりゅう寒中かんちゅう水泳すいえい大会たいかい 大分おおいた合同ごうどう新聞しんぶん、2017ねん1がつ11にち

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]