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槍術そうじゅつ

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槍術そうじゅつ
そうじゅつ
「月百姿 鳶巣山暁月 戸田半平重之」 月岡芳年画 明治20年(1887年)6月
つきひゃく姿すがた とんび巣山すやまあきらがつ 戸田とだ半平はんぺん重之しげゆき
月岡つきおか芳年よしとし 明治めいじ20ねん1887ねん)6がつ
別名べつめい やりじゅつ
使用しよう武器ぶき やり
発生はっせいこく 日本の旗 日本にっぽん
発生はっせいねん 鎌倉かまくら時代ときよ
流派りゅうは 多数たすう流派りゅうは
派生はせい種目しゅもく 銃剣じゅうけんどう やりどう
主要しゅよう技術ぎじゅつ とげ
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槍術そうじゅつ(そうじゅつ)は、やりたたか武術ぶじゅつである。やりじゅつ鎗術ともく。

歴史れきし

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起源きげん

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日本にっぽんでは、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき以降いこう主流しゅりゅうだった薙刀なぎなたのちうようなかたち鎌倉かまくら時代ときよ末期まっきから南北なんぼくあさ時代じだいにかけてやりまれ、雑兵ぞうひょう足軽あしがるようとして発達はったつしていたが、応仁おうにんらんのち次第しだい武将ぶしょう使つかうようになり、武芸ぶげいとしての槍術そうじゅつ発達はったつしていった。

また武将ぶしょう使つかなかで、やり自体じたい使つかこのみによって改良かいりょうかさねられ、普通ふつう素槍すやりいち種類しゅるいから、)がなが大身たいしんやり根元ねもと分岐ぶんきしているかまやり分岐ぶんき形状けいじょうによって、かたかまやりや「十文字じゅうもんじやり」とばれることおおりょうかまやりなどに分類ぶんるいされる)、上部じょうぶ鉄製てつせい横手よこてがあるかぎやり可動かどうせいかん装着そうちゃくして、「しごく」ようなうごきでやすくしたかんやりゆみの弭(はず)にかぶしき装着そうちゃくした弭槍みじか突槍など、さまざまな種類しゅるいまれた。

安土あづち桃山ももやま時代じだい

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槍術そうじゅつ初期しょきでは、兵法ひょうほういちとしてやり使用しようしている。代表だいひょうてきなのはしん当流とうりゅうで、めししのもりちかによりひろめられている。安土あづち桃山ももやま時代じだいはいるとやり薙刀なぎなたよりもひろ普及ふきゅうはじめ、槍術そうじゅつせん門流もんりゅうはじめた。素槍すやりでは無辺むへんりゅうつぼりゅう岐流ほんあいだりゅう大島おおしまりゅう竹内たけうちりゅうかまやり宝蔵ほうぞういんりゅうかぎやり内海うつみりゅう佐分利さぶりりゅうかんやり創始そうしした伊東いとうりゅうなどである。

江戸えど時代じだい

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江戸えど時代じだいはいるとやり武士ぶし家門かもんあらわ道具どうぐとなり、槍術そうじゅつ飛躍ひやくてき発達はったつしん流派りゅうは勃興ぼっこうした。元和がんわ年間ねんかんから寛文ひろふみ年間ねんかんにかけて、おも流派りゅうは出揃でそろっていった。しかし元禄げんろく以降いこう槍術そうじゅつ古格こかくおもんじて閉鎖へいさてき守勢しゅせいてき状況じょうきょうになり、流派りゅうは形式けいしき存続そんぞくさせることに主眼しゅがんかれ、独自どくじ技術ぎじゅつしん流派りゅうは発展はってんられなくなった。この時期じき剣術けんじゅつ同様どうよう稽古けいこよう防具ぼうぐ製作せいさくされたが、実践じっせんてき稽古けいこ使つかうものではなかった。また他流たりゅう試合しあいかった。

この風潮ふうちょう変化へんかするのはせい以降いこうである。実用じつようそく習がおもんじられ、そうめん仕合しあいばれる双方そうほう防具ぼうぐける形式けいしき普及ふきゅうして、他流たりゅう仕合じあい頻繁ひんぱんおこなわれた。だがこの風潮ふうちょうはそれまでの流派りゅうは保持ほじしていた伝統でんとう特色とくしょくうすめることとなった。

明治めいじ以降いこう

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明治維新めいじいしんにより江戸えど幕府ばくふたおれると、武芸ぶげいおなじく槍術そうじゅつ打撃だげきけたが、その影響えいきょうとく深刻しんこくであった。武士ぶし名誉めいよあかしとなっていたやりは、武士ぶし消失しょうしつとともにその立場たちばうしない、さらに長大ちょうだい得物えもの体育たいいく実技じつぎとして不向ふむきで無用むよう長物ちょうぶつとされ、一般いっぱんひろ普及ふきゅうしなかったのである。また、槍術そうじゅつはその戦闘せんとうりょくたかさからしゅとして上級じょうきゅう武士ぶしたしなみとされ、相対そうたいてきに習伝しゃかずすくなかったという理由りゆうもある。だい日本にっぽん武徳ぶとくかいにも多数たすう参加さんかしていたが、指導しどうしゃ高齢こうれいのため槍術そうじゅつ中心ちゅうしん流派りゅうはは、明治めいじから昭和しょうわにかけておおくがしつでん断絶だんぜつした。現代げんだいのこったのは、貫流かんりゅう尾張おわり貫流かんりゅう)、佐分利さぶりりゅうふうでんりゅう宝蔵ほうぞういんりゅう高田たかだひとしのみであった。

ただし、槍術そうじゅつ中心ちゅうしんではないものの、槍術そうじゅつふく総合そうごう武術ぶじゅつ流派りゅうは香取かとり神道しんとうりゅう馬庭まにわねんりゅうなどがのこっている。

また槍術そうじゅつ銃剣じゅうけんじゅつれられた。明治めいじ20ねん1887ねん)、日本にっぽん陸軍りくぐんは、宝蔵ほうぞういんりゅう佐分利さぶりりゅうなどの日本にっぽん伝統でんとうてき槍術そうじゅつもとにした日本にっぽんしき銃剣じゅうけんじゅつ制定せいていし、それまでおこなわれていたフランス陸軍りくぐんしき銃剣じゅうけんじゅつはいした。きゅう日本にっぽんぐん銃剣じゅうけんじゅつは、太平洋戦争たいへいようせんそうのち競技きょうぎ武道ぶどう銃剣じゅうけんどうとなり、現在げんざい陸上りくじょう自衛隊じえいたい航空こうくう自衛隊じえいたいにおいて、自衛隊じえいたい銃剣じゅうけん格闘かくとうとともに訓練くんれんされている。

なお、三国志さんごくしでは、ちょうくもが『涯角やり』というきゅうしゃくにわたるやり名手めいしゅとしていいつたえられている。

流派りゅうは

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素槍すやり直槍すやり)をつか流派りゅうは
流派りゅうはおもて武器ぶきじゅつ以外いがい素槍すやりがあるもの
かまやり十文字じゅうもんじやり)をつか流派りゅうは
かぎやりつか流派りゅうは
かんやりつか流派りゅうは
流派りゅうはおもて武器ぶきじゅつ以外いがいかんやりがあるもの

やり有名ゆうめい人物じんぶつ

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賤ヶだけななほんやり

その

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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