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エルヴィン・フォン・ベルツ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
エルヴィン・フォン・ベルツ
生誕せいたん 1849ねん1がつ13にち
ヴュルテンベルク王国おうこくビーティッヒハイム=ビッシンゲン
死没しぼつ 1913ねん8がつ31にち
ドイツの旗 ドイツ帝国ていこくシュトゥットガルト
職業しょくぎょう 医師いし医学いがくしゃ
配偶はいぐうしゃ はなベルツ
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エルヴィン・フォン・ベルツどく: Erwin von Bälz1849ねん1がつ13にち - 1913ねん8がつ31にち)は、ドイツ帝国ていこく医師いしで、明治めいじ時代じだい日本にっぽんまねかれたやと外国がいこくじんのひとり。東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく医科いか大学だいがく前身ぜんしんとなる東京とうきょう学校がっこう着任ちゃくにんすると、病理びょうりがく生理学せいりがく薬物やくぶつがく内科ないかがく産婦人科さんふじんかがく精神せいしん医学いがくなどを担当たんとう講義こうぎだけでなくみずか病理びょうり解剖かいぼう執刀しっとうし、27ねんわた明治めいじ日本にっぽん医学いがくかい近代きんだい西洋せいよう医学いがくおしえ、医学いがく発展はってん基礎きそきずいた。滞日たいにちは29ねんおよぶ。

経歴けいれき

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家族かぞく

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  • つま戸田とだ花子はなこ (1864-1937)[3]神田かんだ明神みょうじんしたまれる[4]ちち熊吉くまきち御油ごゆ宿やど宿屋やどや戸田とだ」の子孫しそんだが、没落ぼつらくして一家いっか離散りさんし、江戸えど荒井あらい養子ようしはいり、小売こうりしょういとなんだ[4]花子はなこは1880ねんからベルツと同居どうきょはじめるが正式せいしき入籍にゅうせきわたりどく前年ぜんねん教育きょういくはないが、利発りはつうつくしかったという[4]。ベルツぼつも10ねんほどとどこおどくしたが、ドイツ国籍こくせきみとめられず、日本にっぽん帰国きこくしたままぼっした。晩年ばんねんはベルツの友人ゆうじんだったユリウス・スクリバいえ日本人にっぽんじんよめ介護かいごした[4]著書ちょしょに『おうしゅう大戦たいせん当時とうじ独逸どいつ』がある。
  • 長男ちょうなん徳之助とくのすけ (Erwin Toku, 1889-1945)、長女ちょうじょウタ (1893-1896)。子供こどもは4にんとするせつ[5]長男ちょうなんトクのまえ夭逝ようせいしただいいち、トクのあそ相手あいてとして養女ようじょギンがいた(一家いっかわたりどくまえに12さい急死きゅうし[4]。トク(国籍こくせきドイツ)は、暁星ぎょうせい学校がっこう在学ざいがくちゅうに11さい両親りょうしんとともにわたりどくし、建築けんちく専攻せんこう[6]。「とく」は中国語ちゅうごくごのドイツ(とくこく)から。父親ちちおやのこした『ベルツ日記にっき』をナチス時代じだい出版しゅっぱんし、だいさん帝国ていこくドイツでもっとも有名ゆうめい日系にっけいドイツじんとなった[7]。このときトクによって母親ははおや出生しゅっしょう両親りょうしん出会であいについてなどが『ベルツ日記にっき』から削除さくじょされたという[4]母親ははおや影響えいきょうおさないころ歌舞伎かぶきしたしみ[4]、1938ねんにはベルリンで忠臣蔵ちゅうしんぐら一部いちぶ舞台ぶたいした[8]。1940ねんから日本にっぽんらし、東京とうきょう病没びょうぼつ
  • まご徳之助とくのすけつまヘレーナのとして長男ちょうなんハット(ばと。1916-1972)、次男じなんクノー(久能くのう。1918-1943)、長女ちょうじょゲルヒルト・トーマ(1921年生ねんせい)、そのした双子ふたご男子だんしディーツとゲッツ(1925年生ねんせい二人ふたりとも1944ねん戦死せんし[4]

ベルツの日本にっぽんかん

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かれ日記にっき手紙てがみ編集へんしゅうした『ベルツの日記にっき』には、当時とうじ西洋せいようじんから明治めいじ時代じだい初期しょき日本にっぽん様子ようす詳細しょうさいにわたって描写びょうしゃされている。そのうち来日らいにち当初とうしょかれた家族かぞくあて手紙てがみなかで、明治めいじ時代じだい初期しょき日本にっぽん西洋せいよう文明ぶんめいれる様子ようすつぎのようにべている。

日本にっぽん国民こくみんは、10ねんにもならぬまえまで封建ほうけん制度せいど教会きょうかい僧院そういん同業どうぎょう組合くみあいなどの組織そしきをもつわれわれの中世ちゅうせい騎士きし時代じだい文化ぶんか状態じょうたいにあったのが、一気いっきにわれわれヨーロッパの文化ぶんか発展はってんようした500ねんあまりの期間きかんえて、19世紀せいきすべての成果せいか即座そくざに、自分じぶんのものにしようとしている(「横領おうりょうしようとしている」のわけあり)[よう出典しゅってん]

このように明治めいじ政府せいふ西洋せいよう文明ぶんめい輸入ゆにゅう政策せいさくたか評価ひょうかしその成果せいかみとめつつ、また、明治めいじ日本にっぽん文明ぶんめいてき特異とくいせい指摘してきしたうえで、のおやと外国がいこくじんたいしてつぎのような忠告ちゅうこくをしている。

このようなだい跳躍ちょうやく場合ばあいおおくの物事ものごと逆手さかてにとられ、西洋せいよう思想しそうはなおさらのこと、その生活せいかつ様式ようしき誤解ごかいしてれ、とんでもない間違まちがいがこりやすいものだ。このような当然とうぜんのことに辟易へきえきしてはならない。ところが、ふるいものからあたらしいものへとうつりわたるみち日本人にっぽんじんおしえるために招聘しょうへいされたものたちまで、このことに理解りかいである。一部いちぶのものは日本にっぽんすべてをこきろし、またべつのものは、日本にっぽんれるすべてを賞賛しょうさんする。われわれ外国がいこくじん教師きょうしがやるべきことは、日本人にっぽんじんたい助力じょりょくするだけでなく、助言じょげんすることなのだ。

文化ぶんか人類じんるいがくてき素養そようそなえていたかれは、当時とうじ日本にっぽん状況じょうきょうかんする自身じしん分析ぶんせき把握はあくもとにして、当時とうじ日本にっぽん状況じょうきょう理解りかい同僚どうりょうのおやと教師きょうしたちを批判ひはんした。さらに、かれ批判ひはん日本にっぽん知識ちしきじんたちにもおよぶ。

不思議ふしぎなことに、いま日本人にっぽんじん自分じぶん自身じしん過去かこについてはなにもりたくないのだ。それどころか、教養きょうようじんたちはそれをじてさえいる。「いや、なにもかもすべて野蛮やばんでした」、「われわれには歴史れきしはありません。われわれの歴史れきしいまはじまるのです」という日本人にっぽんじんさえいる。このような現象げんしょう急激きゅうげき変化へんかたいする反動はんどうからることはわかるが、大変たいへん不快ふかいなものである。日本人にっぽんじんたちがこのように自国じこく固有こゆう文化ぶんか軽視けいしすれば、かえって外国がいこくじん信頼しんらいることにはならない。なにより、いま日本にっぽん必要ひつようなのはまず日本にっぽん文化ぶんか所産しょさんのすべての貴重きちょうなものを検討けんとうし、これを現在げんざい将来しょうらい要求ようきゅうに、ことさらゆっくりと慎重しんちょう適応てきおうさせることなのだ。

無条件むじょうけん西洋せいよう文化ぶんかれようとする日本人にっぽんじんたいする手厳てきびしい批判ひはんべられている。また、日本にっぽん固有こゆう伝統でんとう文化ぶんかさい評価ひょうかおこなうべきことを主張しゅちょうしている。西洋せいよう科学かがく手法しゅほうけるのではなく、あまりに性急せいきゅうにそのすべてをれようとする日本人にっぽんじん姿勢しせい批判ひはんし、助言じょげんおこなっている。

また大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう制定せいていには、一般いっぱん民衆みんしゅう様子ようすを「おまつさわぎだが、だれ憲法けんぽう内容ないようらない」(趣旨しゅし)とえがくなど、冷静れいせい観察かんさつおこなっている。

一方いっぽう東京大学とうきょうだいがく退職たいしょくするさいになされた大学だいがく在職ざいしょく25周年しゅうねん記念きねん祝賀しゅくがかいでのあいさつでは、またべつ側面そくめんから日本人にっぽんじんたいする批判ひはんがなされている。

日本人にっぽんじん西欧せいおう学問がくもんちと本質ほんしつについておおいに誤解ごかいしているようにおもえる。日本人にっぽんじん学問がくもんを、年間ねんかん一定いっていりょう仕事しごとをこなし、簡単かんたんによそへはこんで稼動かどうさせることのできる機械きかいようかんがえている。しかし、それはまちがいである。ヨーロッパの学問がくもん世界せかい機械きかいではなく、ひとつのゆう機体きたいでありあらゆる有機ゆうきたいおなじく、はなかせるためには一定いってい気候きこう一定いってい風土ふうど必要ひつようとするのだ。
日本人にっぽんじんかれら(おやと外国がいこくじん)を学問がくもん果実かじつじんとしてあつかったが、かれらは学問がくもんそだてる庭師にわしとしての使命しめいかんえていたのだ。・・・つまり、根本こんぽんにある精神せいしんきわめるかわりに最新さいしん成果せいかさえれば十分じゅうぶんかんがえたわけである。

このような批判ひはん日本にっぽんきらってなされたものではない。挨拶あいさつなかでは、当時とうじ日本にっぽん医学いがくせいたちの勤勉きんべんさや優秀ゆうしゅうさをつたえる発言はつげんもなされている。また、教員きょういん生活せいかつ大変たいへん満足まんぞくできるものであった、ともべている。しかし、かれはあえて日本人にっぽんじん学問がくもんたいする姿勢しせいたいする批判ひはんおこなった。すなわち、本来ほんらい自然しぜんきわめて世界せかいなぞく、というひとつの目標もくひょうかっていとなまれるはずの科学かがくが、日本にっぽんでは科学かがくのもたらす成果せいか実質じっしつてき利益りえきにその主眼しゅがんかれているのではないか、と。そしてそのことを理解りかいすることが、日本にっぽん学問がくもん将来しょうらいには必要ひつようなことである、とかれべている。

また、このような言葉ことばのこしている。

もし日本人にっぽんじん現在げんざいアメリカの新聞しんぶんんでいて、しかもあちらのすべてを真似まねようというのであれば、そのときは、日本にっぽんよさようならである。

かれ西洋せいよう文明ぶんめい輸入ゆにゅうさいしての日本人にっぽんじん姿勢しせい批判ひはんつづけていた。これは当時とうじ廃仏毀釈はいぶつきしゃくあらしれる日本にっぽんへの危機ききかんでもあり、同様どうようかんがえを親友しんゆうでもあるハインリヒ・フォン・シーボルト同様どうようおおくの美術びじゅつひん工芸こうげいひん購入こうにゅう保存ほぞんつとめている。主治医しゅじいつとめたほど関係かんけいがあったシーボルトからは晩年ばんねんそのコレクションの管理かんりたくされるほどの信頼しんらい関係かんけいがあり(シーボルトの急死きゅうしによりそのねがいはたされずコレクションは散逸さんいつ)、公私こうしわたっての親友しんゆうであった。また、文化ぶんかめんにしても同様どうよう前述ぜんじゅつのシーボルトのさそいで歌舞伎かぶき鑑賞かんしょう出掛でかけ、またフェンシング達人たつじんでもった同氏どうしとも当時とうじ随一ずいいち剣豪けんごうであった直心ひたごころかげりゅう剣術けんじゅつ榊原さかきばらかぎきち弟子入でしいりもしている。

日本にっぽんしょくのエピソード

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ベルツが東京とうきょうから日光にっこうへの移動いどうぎわに、車夫しゃふ交代こうたいで14あいだはこんだ[9][10][11]。そのとき車夫しゃふ食事しょくじ玄米げんまいおにぎり・梅干うめぼし・味噌みそ大根だいこん千切せんぎり・沢庵たくあんで、日常にちじょうしょく玄米げんまい大麦おおむぎあわ・じゃがいもひゃくごうであったという[9][10][11]車夫しゃふ脅威きょういのスタミナにベルツはおどろき、くるまおとこにくべればさらにパワーがるか実験じっけんをしたが、車夫しゃふ疲弊ひへいした[9][10][11]日本人にっぽんじんなが歴史れきしあいだ玄米げんまい雑穀ざっこく主食しゅしょく野菜やさい海藻かいそう食事しょくじにし、西洋せいよう栄養えいようがくよりも日本にっぽんしょくったという[9][10][11]。ベルツによると欧米おうべいじんほうちょうみじかく、肉食にくしょく歴史れきしみじか日本人にっぽんじん肉類にくるい消化しょうか時間じかんかり、肉類にくるいないタンパク質たんぱくしつ脂質ししつちょうない腐敗ふはいさんどくしやすく、ながちょうない老廃ろうはいぶつ長時間ちょうじかん血液けつえきよごして細胞さいぼう組織そしき劣化れっかさせ、色々いろいろ病気びょうき発症はっしょうさせるという[9][10][11]

温泉おんせんとのかかわり

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黄八丈きはちじょう姿すがたのベルツ博士はかせ

日本にっぽん温泉おんせん世界せかい紹介しょうかいした人物じんぶつでもある。明治めいじ12ねん1879ねんごろより日本にっぽん赴任ふにんしている外国がいこくじんたちうえしゅう伊香保いかほ温泉おんせんおとずれるのが流行りゅうこうとなり、おやと外国がいこくじん教師きょうし貿易ぼうえき商社しょうしゃいん仲間なかま横浜よこはまのドイツ医師いし人力車じんりきしゃうえしゅうかい、伊香保いかほ温泉おんせんには別荘べっそうかまえて友人ゆうじん知人ちじん幾度いくどとなくたずねた[12]

  • 明治めいじ13ねん1880ねん)、べつなんじ(ベルツ)ちょ日本にっぽん鑛泉こうせんろん』(中央ちゅうおう衛生えいせいかい)を発刊はっかん各地かくち温泉おんせん衛生えいせいてき立場たちばって改革かいかくし、また箱根はこねをはじめ草津くさつ伊香保いかほなどには、西洋せいよう医学いがくをとりれた温泉おんせん治療ちりょうしょをつくるよう内務省ないむしょう建白けんぱくしょ提出ていしゅつした。
  •  明治めいじ20ねん(1887)ベルツは「皇国こうこく模範もはんとなるべき一大いちだい温泉おんせんじょう設立せつりつ意見いけんしょ」をみや内省ないせい提出ていしゅつした。「完全かんぜん無欠むけつ模範もはんとなるべき一大いちだい温泉おんせん療養りょうようしょ設立せつりつせんとして、ひさしくその場所ばしょさがしたが、ようやくこれを発見はっけんすることができた。その唯一ゆいいつ場所ばしょは、箱根山はこねやまちゅうだい地獄じごくすなわだい涌谷わくや西北せいほく涯で、目的もくてき必要ひつよう条件じょうけんをすべて具備ぐびし、じつとくはなれこうである。もし自分じぶん計画けいかく実現じつげんするならば、たん日本にっぽん寄与きよするのみならず、中国ちゅうごく、インド、アメリカはもちろん、ヨーロッパにおいても名声めいせいることは間違まちがいない。また日本にっぽん自然しぜん温泉おんせんいたれりつきせりの方法ほうほう利用りようしていることを証明しょうめいできるし、ひいては日本にっぽん文明開化ぶんめいかいか進歩しんぽを、世界せかいしめすことができる」と評価ひょうかする。このころ箱根はこね温泉おんせん同様どうようにおかか外国がいこくじん教師きょうし箱根はこねした富士屋ふじや旅館りょかん宿泊しゅくはくし、女中じょちゅうのあかぎれのれを不憫ふびんおもい、「ベルツ水べるつすい」を処方しょほう明治めいじ20ねん(1887)芦ノ湖あしのこほとり落成らくせいした箱根はこね離宮りきゅうは、病弱びょうじゃくであった皇太子こうたいし保養ほようのため、ベルツの進言しんげんによっててられたといわれている。
  • 明治めいじ23ねん1890ねん)、草津くさつやく6000つぼ土地とち温泉おんせん購入こうにゅう温泉おんせん保養ほようづくりをめざす。「草津くさつには無比むひ温泉おんせん以外いがいに、日本にっぽん最上さいじょうやま空気くうきと、まった理想りそうてき飲料いんりょうすいがある。もしこんな土地とちがヨーロッパにあったとしたら、カルルスバート(現在げんざいチェコりょう温泉おんせんカルロヴィ・ヴァリ)よりもにぎわうことだろう」と評価ひょうかする。草津くさつ温泉おんせんにはベルツのかんした「ベルツどおり」がある。
  • 明治めいじ29ねん1896ねん)、草津くさつ時間じかん研究けんきゅうした論文ろんぶんねつ水浴すいよく療論」(Behandlung mit heißen Wasserbädern)が『ドイツない科学かがくしょ』(Handbuch der speziellen Therapie innerer Krankheiten)に収録しゅうろくされる。


ベルツは大変たいへん健脚けんきゃく噴火ふんか直後ちょくご草津くさつ白根山しらねさんにも登頂とうちょうしたことがあり、そのさい手記しゅき現在げんざいでも貴重きちょう火山かざんがくてき資料しりょうになっている。

日本にっぽん天皇てんのう高官こうかん別荘べっそう葉山はやまとの関係かんけい

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澤村さわむら修治しゅうじ[13]によると、ベルツの推奨すいしょうにより、天皇てんのう日本にっぽん高官こうかん葉山はやま御用邸ごようてい別荘べっそうつことになったとある。実際じっさい葉山はやま葉山はやま森戸もりと神社じんじゃちゅうにちイタリア公使こうしマルチーノイタリアばんとベルツが当地とうち保養ほよう適当てきとう推奨すいしょうしたという石碑せきひがある[14][15]。ベルツはいわば宣伝せんでんマンとなったとある。明治天皇めいじてんのうほとん皇居こうきょないごし避暑ひしょ避寒ひかんはされなかったが、のち大正天皇たいしょうてんのうになるよしみじん親王しんのう健康けんこうおもわしくなく、侍医じいとなったベルツが転地てんち保養ほようすすめた。有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのうはイタリア公使こうしマルチーノの別荘べっそう明治めいじ22ねんおとずれている。親王しんのう明治めいじ24ねん別邸べっていつくり、皇太子こうたいしもそこにおとずれている。葉山はやま御用邸ごようてい明治めいじ27ねん1がつ完成かんせいした。

蒙古斑もうこはん

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ベルツの医学いがくてき貢献こうけんでよくられているのは1885ねん明治めいじ18ねん)の蒙古斑もうこはん命名めいめいである[16][17]

ベルツ水べるつすい

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1883ねん明治めいじ16ねん)、箱根はこね富士屋ふじやホテル滞在たいざいちゅう女中じょちゅうれているのをたのをきっかけに、「ベルツ水べるつすい」(日本にっぽん薬局方やっきょくほう:グリセリンカリえき)を処方しょほうする。

日本にっぽん美術びじゅつ工芸こうげいひん収集しゅうしゅう

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ベルツは、親友しんゆうハインリヒ・フォン・シーボルト影響えいきょうつよ蒐集しゅうしゅう活動かつどうにもむ。はな夫人ふじん(シーボルト夫人ふじんおなじ(岩本いわもと)ハナ)の協力きょうりょくながら、江戸えど時代じだいちゅう後期こうきから明治めいじ時代じだい前半ぜんはんにかけての日本にっぽん美術びじゅつ工芸こうげいひんやく6000てん収集しゅうしゅうした。とくに、絵師えし河鍋かわなべ暁斎きょうさいたか評価ひょうかし、したしくまじわった。ベルツ・コレクションは、シュトゥットガルトのリンデン民俗みんぞくがく博物館はくぶつかんどく: Linden-Museum)に収蔵しゅうぞうされた。

  • ドリス・クロワッサン、若林わかばやし操子みさこ編集へんしゅう解説かいせつ 『ベルツ・コレクション日本にっぽん絵画かいが リンデン美術館びじゅつかんぞう講談社こうだんしゃ1991ねん図版ずはんへん解説かいせつへんの2分冊ぶんさつ

ベルツしょう

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1964ねん、ドイツの製薬せいやく会社かいしゃベーリンガーインゲルハイムしゃによって、にちどく両国りょうこくあいだ歴史れきしてき医学いがく関係かんけい回顧かいこするとともに、両国りょうこく医学いがくめんでの親善しんぜん関係かんけいさらふかめて目的もくてきで「ベルツしょう」が設立せつりつされた[18]

関連かんれん文献ぶんけん

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  • トク・ベルツへん『ベルツの日記にっき菅沼すがぬま龍太郎りゅうたろうやく岩波いわなみ文庫ぶんこ上下じょうげ)、1979ねん昭和しょうわ54ねん)。改訳かいやくばん旧版きゅうばんぜん4かん
  • エルヴィン・ベルツ『ベルツ日本にっぽん文化ぶんか論集ろんしゅう若林わかばやし操子みさこ監修かんしゅう山口やまぐち静一せいいちほかやく東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい
  • エルヴィン・ベルツ『ベルツ日本にっぽん再訪さいほう 草津くさつ・ビーティヒハイム遺稿いこう 日記にっきへん若林わかばやし操子みさこ監修かんしゅう池上いけがみ弘子ひろこやく東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい
  • ゲルハルト・ヴェスコヴィ『エルヴィン・ベルツ 日本にっぽん医学いがく開拓かいたくしゃ熊坂くまさか高弘たかひろやく文芸ぶんげいしゃ
  • フェリックス・ショットレンダー『エルウィン・フォン・ベルツ 日本にっぽんけるいちドイツじん医師いし生涯しょうがい業績ぎょうせき伝記でんき E・V・ベルツ』
    石橋いしばし長英ちょうえいやく、〈伝記でんき叢書そうしょ191〉大空おおぞらしゃ1995ねん平成へいせい7ねん)。復刻ふっこくほん
  • 安井やすいひろ『ベルツの生涯しょうがい 近代きんだい医学いがく導入どうにゅうちち思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、1995ねん平成へいせい7ねん
  • 『ベルツはな鹿島かしましげるおんな鹿島かしま研究所けんきゅうじょ出版しゅっぱんかい、1972ねん
  • 『ベルツ花子はなこ関係かんけい年譜ねんぷ豊川とよかわ医師いしかい編纂へんさん委員いいんかいへん豊川とよかわ医師いしかい、1990ねん
  • 『「はな・ベルツ」へのたびシュミット村木むらき眞寿美ますみ講談社こうだんしゃ、1993ねん
  • 天皇てんのうのリゾート 御用邸ごようていをめぐる近代きんだい澤村さわむら修治しゅうじ図書としょ新聞しんぶん、2014ねん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 20世紀せいき日本人にっぽんじんめい事典じてん
  2. ^ a b 服部はっとりさとしりょう事典じてん有名人ゆうめいじん死亡しぼう診断しんだん 近代きんだいへん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん)265ぺーじ
  3. ^ Reisen, Dialoge, Begegnungen: Festschrift für Franziska Ehmcke Andreas Niehaus, Chantal Weber, LIT Verlag Münster, 2012
  4. ^ a b c d e f g h 『ベルツ花子はなこ関係かんけい年譜ねんぷ 豊川とよかわ医師いしかい編纂へんさん委員いいんかいへん 豊川とよかわ医師いしかい 1990ねん
  5. ^ Erinnerungen der Familie Bälz European Karate
  6. ^ ベルツ海外かいがい点心てんしん名倉なくら聞一 ちょ (大阪おおさか屋号やごう書店しょてん, 1927ねん)
  7. ^ Samurai and Supermen: National Socialist Views of Japan Bill Maltarich, Peter Lang, 2005
  8. ^ Beyond Alterity: German Encounters with Modern East Asi Qinna Shen, Martin Rosenstock, Berghahn Books, Jul 15, 2014
  9. ^ a b c d e 弁当べんとうはなし | 臨済宗りんざいしゅう大本山だいほんざん 円覚寺えんかくじ”. www.engakuji.or.jp. 2023ねん11月4にち閲覧えつらん
  10. ^ a b c d e うまよりすごい日本人にっぽんじん」ベルツの日記にっきより/先人せんじんたちの智慧ちえ現代げんだいに | 日本にっぽんナースオーブ”. nurseorb.com (2019ねん11月19にち). 2023ねん11月4にち閲覧えつらん
  11. ^ a b c d e ベルツを驚愕きょうがくさせた「日本人にっぽんじん体質たいしつ”. 農林水産省のうりんすいさんしょう. 2023ねん11月4にち閲覧えつらん
  12. ^ 伊香保いかほ旅行りょこう ベルツ花子はなこおうしゅう大戦たいせん當時とうじ獨逸どいつ審美しんび書院しょいん、1933。
  13. ^ 澤村さわむら[2014:19-70]
  14. ^ 澤村さわむら[2014:47]
  15. ^ 顕彰けんしょう ベルツ博士はかせ・マルチイーノ公使こうし
  16. ^ Baelz, E. Die koerperlichen Eigenschaften der Japaner. (1885) Mittheil.d.deutche Gesell. f. Natur-Voelkerkunde Ostasiens. Bd. 4, H. 32
  17. ^ Circumscribed dermal melanocytosis (Mongolian spot) (1981) Kikuchi I. Inoue S. in "Biology and Diseases of Dermatal Pigmentation", University of Tokyo Press
  18. ^ ベルツしょうについて”. 日本にっぽんベーリンガーインゲルハイム. 2019ねん10がつ29にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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