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田辺たなべ又右衛門またえもん

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たなべ またえもん

田辺たなべ又右衛門またえもん
講道館こうどうかんを“うなぎ”と“かえる”にした田辺たなべ
生誕せいたん (1869-01-15) 1869ねん1がつ15にち
明治めいじ2ねん1がつ15にち
岡山おかやまけん長尾ながおまち
死没しぼつ (1946-01-20) 1946ねん1がつ20日はつか(77さいぼつ
昭和しょうわ21ねん1がつ20日はつか
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
職業しょくぎょう 柔術じゅうじゅつ
流派りゅうは 遷流柔術じゅうじゅつ
肩書かたが 社団しゃだん法人ほうじん兵庫ひょうごけん柔道じゅうどう整復せいふくかい初代しょだい会長かいちょう大正たいしょうじゅういちねん就任しゅうにん
だい日本にっぽん武徳ぶとくかいはん
おや 田辺たなべ虎次郎とらじろう義貞よしさだ
親戚しんせき 武田たけだ禎二ていじ義孝よしたか祖父そふ
田辺たなべ武四郎たけしろうおとうと
中山なかやま英三郎えいざぶろうおとうと
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田辺たなべ 又右衛門またえもん(たなべ またえもん、1869ねん1がつ15にち - 1946ねん1がつ20日はつか[1][2][3][注釈ちゅうしゃく 1])は日本にっぽん柔術じゅうじゅつ遷流4せい宗家そうけ)、柔道じゅうどうだい日本にっぽん武徳ぶとくかいはん)。社団しゃだん法人ほうじん兵庫ひょうごけん柔道じゅうどう整復せいふくかい初代しょだい会長かいちょう

1886ねんよく87ねん警視庁けいしちょう武術ぶじゅつ大会たいかいでの大勝たいしょういきおいとなった新興しんこう講道館こうどうかん柔道じゅうどう各地かくち根付ねつ柔術じゅうじゅつ各派かくは圧倒あっとうし、在京ざいきょう各派かくはおおくが講道館こうどうかん軍門ぐんもんくだなか、それでも一部いちぶ流派りゅうは講道館こうどうかんいどつづけてその急先鋒きゅうせんぽうわれたのが遷流出身しゅっしん田辺たなべであった[2]得意とくい寝技ねわざを以って講道館こうどうかん四天王してんのう山下やましたよしだいごう戸張とばりたき三郎さぶろうやぶるなどし、富田とみた常次郎つねじろう横山よこやま作次郎さくじろう西郷さいごう四郎しろうなど並居なみい講道館こうどうかん重鎮じゅうちんたちが田辺たなべとの試合しあいけてきた史実しじつから[5]、“講道館こうどうかんもっとおそれたおとこ”として伝説でんせつてき存在そんざいとなっている。

経歴けいれき

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遷流3せい田辺たなべ虎次郎とらじろう長男ちょうなんとして岡山おかやまけん長尾ながおまち(のちの倉敷くらしき長尾ちょうび)にまれる[1][6]。1869ねん1がつ15にち明治めいじ2ねんまれ[3]。「又右衛門またえもん」の荒木あらき又右衛門またえもんちな名付なづけられた[3]。9さいとき祖父そふである遷流2せい貞治さだはるより柔術じゅうじゅつまなび、1884ねん1がつに15さい目録もくろくよく85ねん1がつに16さい免許めんきょやく2ねんいて1886ねんの12月に17さい免許皆伝めんきょかいでんとなった[6][注釈ちゅうしゃく 2]。 このころから柔術じゅうじゅつとの試合しあい柔術じゅうじゅつ相撲すもう実戦じっせんきたげ、とうわざよりも寝技ねわざ(とりわけしぼわざ関節かんせつわざ)を得意とくいとした[5]。これは、とうわざでは検証けんしょう審判しんぱん)のさじ加減かげんによりわざ効果こうかみとめられない場合ばあいがあるが、てからのわざであれば相手あいてみずか降参こうさん意思いし表示ひょうじをすることになるので、検証けんしょう依怙贔屓えこひいき(えこひいき)がつうぜず、明瞭めいりょう決着けっちゃくがつくためだったという[5]

寝技ねわざを以ってのちらずとなる田辺たなべだったが、その技術ぎじゅつ確立かくりつされるキッカケになったのはひとつの敗北はいぼく体験たいけんであった。すなわち、17さいとき神田かんだがわというからだ田辺たなべの2ばいもある力士りきしたたかい、相手あいてからだおおぎてつかまえてもあしけてもスルスルとはずされ、ついかかされてしまったという[5]田辺たなべによれば「(この敗北はいぼくから)色々いろいろ工夫くふうかさねて“うなぎおさかた”という新手あらて考案こうあんした。うなぎきゅうおさえようとしてもツルリとげられてしまうが、うなぎにそっとけ、うごかせておいて、“ここだ”というときにしっかりおさえるとつかまえること出来できる。寝技ねわざもこの呼吸こきゅうでやるとめることぎゃくる(関節かんせつきわめる)こともできる」「へびかえることまなんだ。へびかえるときいちみにはせず、片足かたあしくわえてかえるあししびれるのをち、そこからジワジワと両足りょうあし胴体どうたいんでいく。これで絶対ぜったいかえるげられず、この要領ようりょう寝技ねわざ応用おうようした」とのこと[5]

ちち虎次郎とらじろうとも各地かくちにて柔術じゅうじゅつ指導しどうおこなったのち[6]1890ねん11月にはおなじく岡山おかやまけん出身しゅっしん竹内たけうちりゅうまなんだ金谷かなやせん十郎じゅうろう旧姓きゅうせい片岡かたおか)の推挙すいきょにより警視庁けいしちょう柔術じゅうじゅつ世話ぜわがかり着任ちゃくにん[5]金谷かなや小柄こがら体格たいかくながら独特どくとくともえとう[注釈ちゅうしゃく 3]寝技ねわざながじ、講道館こうどうかんけい警視庁けいしちょう柔術じゅうじゅつ世話ぜわがかり相手あいてにその実力じつりょく誇示こじしていたが、次第しだい形勢けいせい不利ふりになると援軍えんぐんとして自分じぶんより4,5さいわかくてらずの田辺たなべおこりたおせりゅう今井いまいゆき太郎たろう竹内たけうちりゅう大島おおしま彦三郎ひこさぶろう援軍えんぐんとしてまねいた、というのが経緯けいいであった[5][7]

東京とうきょうでの田辺たなべ初陣ういじん体格たいかく自分じぶんよりはるかにまさ講道館こうどうかん戸張とばりたき三郎さぶろうで、試合しあいでは田辺たなべ寝技ねわざさそんでしぼわざ戸張とばりまいらせ、またたに「田辺たなべ又右衛門またえもんつよし」との評判ひょうばんひろまった[5]警視庁けいしちょうには以後いご10年間ねんかん在籍ざいせきするかたわかく学校がっこうにて柔道じゅうどう教師きょうしつと[6]、このあいだ広岡ひろおか勇司ゆうじ岩崎いわさきほうけん千葉ちばへいづくりといった講道館こうどうかんせた猛者もされんまった相手あいてにせず鎧袖一触がいしゅういっしょく[5]田辺たなべはこのほかおおくの講道館こうどうかん柔道じゅうどう挑戦ちょうせんじょうたたきつけるが、“おに横山よこやま”こと横山よこやま作次郎さくじろう田辺たなべ再三さいさん挑戦ちょうせんおうぜず、西郷さいごう四郎しろう田辺たなべもとおとずれてっているが田辺たなべとの稽古けいこけ、山下やましたよし田辺たなべに1やぶれてからは再戦さいせんすることく、永岡ながおか秀一ひでかずとはけ、富田とみた常次郎つねじろう最初さいしょから試合しあい敬遠けいえんするなど、1890年代ねんだいから1900年代ねんだいけての講道館こうどうかんはそのいしずえ盤石ばんじゃくなものとしながら田辺たなべ1人ひとりくなき挑戦ちょうせんこずり、館長かんちょう嘉納かのう治五郎じごろうおおいになやませたという[5]

なお、前述ぜんじゅつ戸張とばりとは都合つごう3たたかっていずれも田辺たなべしぼわざ勝利しょうりしたが[注釈ちゅうしゃく 4]田辺たなべは「戸張とはりなど見上みあげたものだ。けてもまた挑戦ちょうせんしてきた。連中れんちゅうわたしけると二度にど試合しあいをする勇気ゆうきがなかった」と、柔道じゅうどういにしながら戸張とはりだけはその不屈ふくつ精神せいしん称賛しょうさんしている[2]

また、田辺たなべ戦績せんせきとしてとく有名ゆうめいなのが2さい年下としした磯貝いそがいはじめとの3わた勝負しょうぶであった。 1度目どめ京都きょうとおこなわれて田辺たなべわざ本位ほんい磯貝いそがい寝技ねわざんで終始しゅうし優勢ゆうせいのままけ、2度目どめ福岡ふくおかおこなわれてこれもけにわったがわずかに田辺たなべゆうのまま試合しあいえている[5]

3度目どめ勝負しょうぶ1899ねんあき岡山おかやまひらかれた武術ぶじゅつ大会たいかいであった[8][注釈ちゅうしゃく 5]今度こんどこそ磯貝いそがい仕留しとめんと自信じしんちた田辺たなべだったが、磯貝いそがい講道館こうどうかんなかでもとく寝技ねわざけたむら嘉一郎かいちろう相手あいて連日れんじつ寝技ねわざもう特訓とっくんかさねており、試合しあいもうわせたように最初さいしょから寝技ねわざ展開てんかいした。田辺たなべはいつものうなぎかえる戦略せんりゃく関節かんせつわざきわめる目論見もくろみだったが、見違みちがえるほど寝技ねわざ技術ぎじゅつ向上こうじょうさせた磯貝いそがいはこれをふせり、田辺たなべ自分じぶんみながら次第しだい窮地きゅうちおちいっていったという[8]田辺たなべあせりはだれにもあきらかで、これをていた古流こりゅう柔術じゅうじゅつたちは「検証けんしょう時間じかんがきとる。けだ!」と怒鳴どなてたが、観衆かんしゅうらはこれに「まだ時間じかんじゃない、やらせろ!」とかえして会場かいじょう白熱はくねつし、試合しあい両者りょうしゃからったまま試合しあいじょうかくからころちたところけがせんせられた[8]磯貝いそがいもう稽古けいこもさることながら、このとき田辺たなべわずらっていたこと劣勢れっせいたされた一因いちいんわれている[5]

だい日本にっぽん武徳ぶとくかい制定せいてい委員いいん面々めんめん
上段じょうだん中央ちゅうおうやや半身はんしん人物じんぶつ田辺たなべ

岡山おかやま田辺たなべまれ故郷こきょうでありその勇名ゆうめい県下けんかとどろいていたなかにあって、わか磯貝いそがい一方いっぽうてきまれて田辺たなべ苦戦くせんした評判ひょうばんが、岡山おかやまはおろかとお関西かんさいいちえん九州きゅうしゅうにまでひろまるのにおおくの時間じかんからなかった。この試合しあいのち講道館こうどうかん柔道じゅうどう益々ますます躍進やくしんするのにたい古流こりゅう柔術じゅうじゅつりをひそめていくこととなり、柔道じゅうどう柔術じゅうじゅつ歴史れきしじょう双方そうほうにとってこの試合しあい天下てんかとなったてん特筆とくひつされる[8]

ただし、田辺たなべ口述こうじゅつ筆記ひっきによると、この試合しあいは2度目どめ対戦たいせんであり、田辺たなべ寝技ねわざみながらも、審判しんぱんをしていた竹内たけうちさんすべりゅうむら正明まさあき[注釈ちゅうしゃく 6]双方そうほうつかれたからと宣言せんげんされけにされたのである[9]田辺たなべ苦戦くせんしたのは1906ねん試合しあいであり、この対戦たいせんについても、講道館こうどうかん味方みかたする雑誌ざっしがさも磯貝いそがい有利ゆうりだったようなはなしいている、田辺たなべ有利ゆうりだったと証言しょうげんするものもいた、としている[10]福岡ふくおかおこなわれたのは1908ねんで、磯貝いそがいとの最後さいご試合しあいであった。田辺たなべは「たないまでも、堂々どうどう寝技ねわざわたし正当せいとうけをるまでになった」と敬意けいいあらわしている。[11]

田辺たなべはその1906ねんだい日本にっぽん武徳ぶとくかいにおける柔術じゅうじゅつがた制定せいていさいして古流こりゅう柔術じゅうじゅつがわ代表だいひょう委員いいん14にん1人ひとりとしてこのにんたり、これはいち週間しゅうかんにもおよだい激論げきろんすえ8がつ8にち完成かんせい[12][注釈ちゅうしゃく 7]同年どうねん柔道じゅうどうきょうごうけ、1922ねんには教職きょうしょくして兵庫ひょうごけん神戸こうべ兵庫ひょうごさん川口かわぐちまちに遷武かん道場どうじょうひらいて整復せいふくじゅついとな[4]だい日本にっぽん武徳ぶとくかい兵庫ひょうごけん支部しぶ教師きょうしつとめて1927ねんにははんごうゆるされた[6]凍傷とうしょう左手ひだりていためて試合しあいからはとおざかったが[5]遷流5せいとしてのちいだ田辺たなべ輝夫てるお1931ねん講道館こうどうかん主催しゅさいだい2かい全日本ぜんにほんせんけん大会たいかいじゅん優勝ゆうしょうするなどしてのちに8段位だんいれっせられている。 柔道じゅうどう評論ひょうろんのくろだたけしは稀代きたい柔術じゅうじゅつである田辺たなべ又右衛門またえもんを「柔術じゅうじゅつ最後さいごすぐれた勝負しょうぶであった」とひょうし、講道館こうどうかん震撼しんかんさせたそのかい進撃しんげき富田とみた常雄つねお小説しょうせつ姿すがた三四郎さんしろう』では桧垣ひがき源之助げんのすけのモデルになったともつたわる[5]

接骨せっこつ

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接骨せっこつちち田辺たなべ虎次郎とらじろう神田かんだ連雀れんじゃくまち水谷みずたにいて修行しゅぎょうした[3][注釈ちゅうしゃく 8]1921ねん大正たいしょう10ねん兵庫ひょうごけん柔道じゅうどう整復せいふく試験しけんけたさいに、試験しけんかんより白紙はくし合格ごうかくせんされたほどの技術ぎじゅつっていた[3]

社団しゃだん法人ほうじん兵庫ひょうごけん柔道じゅうどう整復せいふくかい初代しょだい会長かいちょうつとめた。

おも戦績せんせき

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勝敗しょうはい 対戦たいせん相手あいて 試合しあい結果けっか 大会たいかいめい 開催かいさい年月日ねんがっぴ
永吉ながよしみや相撲すもう   岡山おかやまけん邑久おくぐん上寺うえでら大会たいかい 1882ねん明治めいじ15ねん
武田たけだおのはち遷流)     1884ねん明治めいじ17ねん
大龍おおたつ岡山おかやま相撲すもう釘抜くぎぬき部屋へや関取せきとり うでくじけうでって勝利しょうり 岡山おかやまけん河内かわちむら中島なかじま柔術じゅうじゅつ角力すもう興行こうぎょう 1885ねん明治めいじ18ねん
よっしゃ岡山おかやま相撲すもう釘抜くぎぬき部屋へや 岡山おかやまけん柔術じゅうじゅつ角力すもう興行こうぎょう 1885ねん明治めいじ18ねん
熊山くまやま岡山おかやま相撲すもう釘抜くぎぬき部屋へや 岡山おかやまけん柔術じゅうじゅつ角力すもう興行こうぎょう 1885ねん明治めいじ18ねん
神風かみかぜ岡山おかやま相撲すもう釘抜くぎぬき部屋へや 岡山おかやまけん柔術じゅうじゅつ角力すもう興行こうぎょう 1885ねん明治めいじ18ねん
× 神田かんだがわ岡山おかやま相撲すもう釘抜くぎぬき部屋へや   岡山おかやまけん柔術じゅうじゅつ角力すもう興行こうぎょう 1885ねん明治めいじ18ねん
× 中島なかじま大東だいとうりゅう柔術じゅうじゅつ   大阪おおさか半田はんだ彌太郎やたろう大東だいとうりゅう道場どうじょう 1885ねん明治めいじ18ねん
坂田さかただん   曾根崎そねざき警察けいさつしょ 1885ねん明治めいじ18ねん
片岡かたおかせん十郎じゅうろう竹内たけうちりゅう   岡山おかやま片岡かたおか平之ひらのすすむ竹内たけうちりゅう道場どうじょう 1885ねん明治めいじ18ねん
× 片岡かたおかせん十郎じゅうろう竹内たけうちりゅう   岡山おかやま片岡かたおか平之ひらのすすむ竹内たけうちりゅう道場どうじょう 1885ねん明治めいじ18ねん
片岡かたおかせん十郎じゅうろう竹内たけうちりゅう   岡山おかやま片岡かたおか平之ひらのすすむ竹内たけうちりゅう道場どうじょう 1885ねん明治めいじ18ねん
× 坂井さかいしん遷流   岡山おかやまけん邑久おくぐん宗三そうさん 1885ねん明治めいじ19ねん
坂井さかいしん遷流   岡山おかやまけん邑久おくぐん宗三そうさん 1885ねん明治めいじ19ねん
坂井さかいしん遷流   岡山おかやまけん邑久おくぐん宗三そうさん 1885ねん明治めいじ19ねん
竹野たけの鹿しか太郎たろう竹内たけうちりゅう   岡山おかやま片岡かたおか平之ひらのすすむ竹内たけうちりゅう道場どうじょう 1890ねん明治めいじ23ねん
戸張とばりたき三郎さぶろう講道館こうどうかん柔道じゅうどう   1891ねん明治めいじ24ねん
松田まつだいさお輔(貫流かんりゅう柔術じゅうじゅつ   警視庁けいしちょう 1891ねん明治めいじ24ねん
山下やましたよし講道館こうどうかん柔道じゅうどう四天王してんのう 海老えび 警視庁けいしちょう 1891ねん明治めいじ24ねん
山本やまもと欽作(戸塚とつか楊心りゅう   麻布あざぶ警察けいさつしょ 1892ねん明治めいじ25ねん
戸張とばりたき三郎さぶろう講道館こうどうかん柔道じゅうどう   警視庁けいしちょう 1892ねん明治めいじ25ねん
河野こうの神道しんとうきたまどりゅう   本郷ほんごう警察けいさつしょ 1892ねん明治めいじ25ねん
磯貝いそがいはじめ講道館こうどうかん柔道じゅうどう くびめでとすまえ磯貝いそがいから休戦きゅうせんもうまれる。 だい日本にっぽん武徳ぶとくかい 1898ねん明治めいじ31ねん
広岡ひろおか勇司ゆうじ講道館こうどうかん柔道じゅうどう あしくじ だい日本にっぽん武徳ぶとくかい 1898ねん明治めいじ31ねん
磯貝いそがいはじめ講道館こうどうかん柔道じゅうどう 審判しんぱんむら正明まさあき寝技ねわざ途中とちゅう中断ちゅうだんされけにされる。 だい日本にっぽん武徳ぶとくかい 1899ねん明治めいじ32ねん
永岡ながおか秀一ひでかず講道館こうどうかん柔道じゅうどう 審判しんぱんむら正明まさあき寝技ねわざ途中とちゅう中断ちゅうだんされけにされる。 だい日本にっぽん武徳ぶとくかい 1890ねん明治めいじ33ねん
佐藤さとうほうけん講道館こうどうかん柔道じゅうどう   兵庫ひょうごけん 1905ねん明治めいじ38ねん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ぼつ月日つきひ1がつ28にちとする文献ぶんけんもある[4]
  2. ^ 免許皆伝めんきょかいでん1891ねん9月、22さいときとする文献ぶんけんもある[2][4]
  3. ^ 金谷かなやともえとうげられた相手あいて背中せなかからたたみちるときには、相手あいてくびまってちていたという[5]
  4. ^ 3度目どめ試合しあい戸張とばりひざ関節かんせついため、以後いご試合しあいあきらめてすう年間ねんかんヨーロッパ各地かくちにて柔道じゅうどう普及ふきゅうにんたり、帰国きこく大阪おおさか拠点きょてん関西かんさい柔道じゅうどうかい重鎮じゅうちんとして活躍かつやくした[5]
  5. ^ 先立さきだこと4ねん1895ねんだい日本にっぽん武徳ぶとくかい設立せつりつされ、武徳ぶとくかい演武えんぶかいとう講道館こうどうかん柔道じゅうどうせて次第しだい武徳ぶとくかい中心ちゅうしんてき地位ちいめるようになっていくと、田辺たなべのほかおこりたおせりゅう今井いまいゆき太郎たろう双水そうずいりゅう青柳あおやぎ喜平きへいといった古流こりゅう柔術じゅうじゅつ大家たいかたち一致いっち団結だんけつしてこれに反発はんぱつし、その名誉めいよけて1900ねん5月5にち勝負しょうぶすることけた経緯けいいがあった[8]。しかし1899ねんあき岡山おかやま後楽園こうらくえん開催かいさいされた武術ぶじゅつかい磯貝いそがい武徳ぶとくかい代表だいひょうとしておもむくと、会場かいじょう磯貝いそがいつけた田辺たなべ演武えんぶがかり強引ごういんたのんで、急遽きゅうきょ磯貝いそがいたい田辺たなべ」のわせをつくってしまったという[8]
  6. ^ 講道館こうどうかん柔道じゅうどうむら嘉一郎かいちろう父親ちちおやである。流派りゅうは竹内たけうちさんすべりゅうであったが、むら嘉一郎かいちろう講道館こうどうかん柔道じゅうどう入門にゅうもんさせた。田邊たなべ又右衛門またえもん講道館こうどうかん柔道じゅうどう試合しあい審判しんぱんつとめることがおおかった。
  7. ^ この議論ぎろんかく流派りゅうはなにとか自流じりゅうすこしでもおおくわえたい一心いっしんたがいにゆずらず、あげこころ古流こりゅう戸塚とつか英美ひでみなどは自流じりゅうかたちやく400を実演じつえんしてせるほどであった。ただし戸塚とつかはこの無理むりたたって病気びょうきになり、2ねん他界たかいしている[13]古流こりゅう柔術じゅうじゅつがわから乱取らんど不要ふようろんしたが、山下やましたよし横山よこやま作次郎さくじろうがこれに応戦おうせんして口角こうかくあわばした[13]
  8. ^ 神田かんだ連雀れんじゃくまちにあったもりしん大和やまとりゅう柔術じゅうじゅつ指南しなんしょ天神てんじん楊流の分派ぶんぱ水谷みずたに正治しょうじ水谷みずたに整骨せいこついんかんがえられる。

出典しゅってん

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  1. ^ a b 嘉納かのう行光ゆきみつ川村かわむら禎三ていぞう中村なかむら良三りょうぞう醍醐だいご敏郎としお竹内たけうち善徳ぜんとく柔道じゅうどうだい事典じてん佐藤さとうせん監修かんしゅう)、アテネ書房しょぼう日本にっぽん原著げんちょ1999ねん11月21にち)。ISBN 4871522059。「田辺たなべ又右衛門またえもん -たなべまたえもん」 
  2. ^ a b c d 工藤くどうかみなりすけ『“熊本くまもと柔術じゅうじゅつ”・神戸こうべ遷流 -遷流柔術じゅうじゅつの“かいすぐる田辺たなべ又右衛門またえもん-』東京とうきょうスポーツ新聞しんぶんしゃ、1973ねん5がつ25にち 
  3. ^ a b c d e 中野なかのぎんろうちょ接骨せっこつ學會がっかい紳士録しんしろく接骨せっこつ學會がっかい事務じむきょく,1936ねん
  4. ^ a b c 加来かく耕三こうぞううなぎへび講道館こうどうかんかしたおとこ 田辺たなべ又右衛門またえもん毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1993ねん7がつ30にち 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p くろだたけし (1980ねん6がつ20日はつか). “めい選手せんしゅものがたり8 -遷流 田辺たなべ又右衛門またえもん-”. 近代きんだい柔道じゅうどう(1980ねん6がつごう)、57ぺーじ (スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ) 
  6. ^ a b c d e 野間のま清治きよじ (1934ねん11月25にち). “柔道じゅうどうはん”. 昭和しょうわ天覧てんらん試合しあい:皇太子こうたいし殿下でんか誕生たんじょう奉祝ほうしゅく、798ぺーじ (だい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ) 
  7. ^ 工藤くどうかみなりすけ (1973ねん5がつ25にち). ““熊本くまもと柔術じゅうじゅつ”・神戸こうべ遷流 -遷流柔術じゅうじゅつ秘伝ひでん-”. 秘録ひろく日本にっぽん柔道じゅうどう、113-114ぺーじ (東京とうきょうスポーツ新聞しんぶんしゃ) 
  8. ^ a b c d e f 工藤くどうかみなりすけ (1973ねん5がつ25にち). “磯貝いそがいいちまき -遷流の牙城がじょうんだ磯貝いそがい-”. 秘録ひろく日本にっぽん柔道じゅうどう、65-67ぺーじ (東京とうきょうスポーツ新聞しんぶんしゃ) 
  9. ^ 柔術じゅうじゅつ遺恨いこんけいぶんしゃ、2022ねん6がつ23にち、138ぺーじ 
  10. ^ 柔術じゅうじゅつ遺恨いこんけいぶんしゃ、2022ねん6がつ23にち、220,354ぺーじ 
  11. ^ 柔術じゅうじゅつ遺恨いこんけいぶんしゃ、2022ねん6がつ23にち、309ぺーじ 
  12. ^ 山縣やまがた淳男あつお (1999ねん11月21にち). “だい日本にっぽん武徳ぶとくかい制定せいてい柔術じゅうじゅつがた -だいにほんぶとくかいせいていじゅうじゅつかた”. 柔道じゅうどうだい事典じてん、290ぺーじ (アテネ書房しょぼう) 
  13. ^ a b 工藤くどうかみなりすけ (1973ねん5がつ25にち). “だい日本にっぽん武徳ぶとくかい柔道じゅうどう -かたち制定せいてい講道館こうどうかん古流こりゅうなな昼夜ちゅうやだい論戦ろんせん-”. 秘録ひろく日本にっぽん柔道じゅうどう、119-121ぺーじ (東京とうきょうスポーツ新聞しんぶんしゃ) 

関連かんれん項目こうもく

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