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だい太刀たち

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だい太刀たち めい ただし[いえ]、14世紀せいき南北なんぼくあさ時代じだい重要じゅうよう刀剣とうけん靖国神社やすくにじんじゃゆう就館ぞう
だい太刀たちこしらえれい
くろうるしぎんどう蛭巻ひるまき太刀だち南北なんぼくあさ時代じだい東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんぞう
総長そうちょう 141.1 cm 柄長からちょう 31.6 cm さやちょう108.3 cm

だい太刀たち(おおたち、おおだち)は、日本にっぽんがたな一種いっしゅ長大ちょうだいかたな、および太刀たちのことである。 「野太刀のだち(のだち、のたち)」「背負せお太刀たち」ともばれる。また、中国ちゅうごく武器ぶきである「うまがたな(ざんばとう)」と混同こんどうされることがある(後述こうじゅつ)。

概要がいよう[編集へんしゅう]

だい太刀たちとははじめにべたように「長大ちょうだいかたな」のことであり、現代げんだい分類ぶんるいでは刀身とうしんながさが3しゃくやく90cm)以上いじょうのものをすのが一般いっぱんてきで、むかし日本人にっぽんじん平均へいきんてき身長しんちょうくらべると非常ひじょうおおきいものであることがわかる。

日本にっぽんがたなにおいて、刀身とうしんちょうによる分類ぶんるい方法ほうほうには文献ぶんけん研究けんきゅうしゃによってちがいがあり、刀身とうしんやく90cm以上いじょうのものを「野太刀のだち」(85cm以上いじょうとする場合ばあいもある[1])、刀身とうしんやく150cm程度ていどのものをだい太刀たちとすることがあるが、野太刀のだちほう大振おおぶりだとする研究けんきゅうしゃおおくいるほか、しゃく関係かんけいなく上流じょうりゅう階級かいきゅうけにつくられた豪華ごうか装飾そうしょくのものをだい太刀たち実戦じっせんけの質素しっそなものを野太刀のだちとする文献ぶんけん研究けんきゅうしゃ存在そんざいしているなど、一致いっちした解釈かいしゃくいまのところ存在そんざいしない。日本にっぽん刀剣とうけんるい区分くぶんは、文献ぶんけん研究けんきゅうしゃによっては5 - 9種類しゅるい以上いじょう分類ぶんるいをすることさえある。したがって、「だい太刀たち」という言葉ことば刀剣とうけん定義ていぎつね一定いっていというわけではない。

このように、だい太刀たち野太刀のだちかたり使つかけには確定かくていしたせつがないが、単純たんじゅん長大ちょうだい太刀たちを「だい太刀たち」、戦場せんじょう使つかうことを前提ぜんていとしたこしらえにおさめられているものを「野太刀のだち」とんでいた、というのが現在げんざいおもせつで、一般いっぱんてきには大型おおがたかたなをまとめて「だい太刀たち」とぶことが主流しゅりゅうである。南北なんぼくあさ時代じだいから戦闘せんとう激化げきかして、野戦やせんにおいては長大ちょうだいごうがたなまわすことは有利ゆうりであるから、長大ちょうだい野戦やせんよう太刀たち流行りゅうこうした[2]室町むろまち時代じだい末期まっきにはかたなし、従者じゅうしゃだい太刀たちたせた[2]

だい太刀たち南北なんぼくあさ時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけて実戦じっせん多用たようされ、野戦やせん活躍かつやくした長太ちょうたがたなである[3]

現代げんだいにおいてはだい太刀たちてきしょううまごとることができる代物しろものとし、フィクションにおける表現ひょうげんではうま胴体どうたいまたは首部しゅぶ騎乗きじょう武士ぶし一緒いっしょ豪快ごうかいなイメージをえがくが、実際じっさいにはそのような使つかかたはなく、ながいリーチをかしてうま騎乗きじょう武士ぶしからの攻撃こうげきけつつ、しゃ落馬らくばさせるか、あしねらってうまをつぶすことがおもであった。だい太刀たち刃先はさきするどかったが、にくあつく、その形式けいしきはまぐりんだ[4]。(軽量けいりょうもと寇のさいもとへいかわよろいくためにくうすめというせつもある[5])これはだい太刀たちおもしたり、よろいかぶとうえから打撃だげきあたえるために使用しようされたことを物語ものがたっている。うまあしったり、てきあたまえて気絶きぜつさせたりした。刀剣とうけんくらべて頑丈がんじょうであることが利点りてんだが、どんなだい太刀たちでも鋼鉄こうてつせいかぶとにはかなわず、戦闘せんとうちゅうれることもあった[6]

大身たいしんやりおなじく、絶大ぜつだい破壊はかいりょく武器ぶきであった[7]

歴史れきし[編集へんしゅう]

だい太刀たちこしら

鎌倉かまくら時代ときよになり武家ぶけ権力けんりょくにぎると、武人ぶじんとしてつよし腕力わんりょくがあることが名誉めいよとされるようになり、それをほこるための武具ぶぐとして、長大ちょうだい刀身とうしんをもった太刀たち戦場せんじょうられるようになった。のち日本にっぽんがたな刀身とうしんながさにより分類ぶんるいされると、こうした長大ちょうだい太刀たちは「だい太刀たち」と区分くぶんされることになった。

南北なんぼくあさ時代じだいには大型おおがた太刀たちだい薙刀なぎなたとも流行りゅうこうしたがどれも流行りゅうこうは20すう年間ねんかんという短期間たんきかんすたれている[8]

だい太刀たち短期間たんきかんすたれた理由りゆう騎馬きば武者むしゃからの攻撃こうげきへの対策たいさくとして、歩兵ほへい薙刀なぎなたやり多用たようするようになり、馬上まけでのたたかいが不利ふりになってきたからというせつがある[8]

また、だい太刀たち天敵てんてきながとげ突武だというせつもある[9]

しかし、戦国せんごく時代じだい朝倉あさくらぐん将兵しょうへいだい太刀たち織田おだぐんやりとして苦戦くせんさせているほか[10]徳川とくがわ家康いえやすちょうすんかたな効用こうようについてべた言葉ことば徳川とくがわ実紀みき記載きさいされている「いやとよすんびたるかたなは、鎗にあててもちいひんがためなり、向後きょうこうわすれまじ」(感状かんじょう[11]。この言葉ことば徳川とくがわ家康いえやす家臣かしんである伏見ふしみ太夫たゆうぼうというものさんしゃくすんかたなしゃくさんすん脇差わきざし十文字じゅうもんじしてはしまわっているのを勇壮ゆうそうだと家康いえやすおおいにめたうえで、ながかたなやりわたうのに有用ゆうようなのだからよくおぼえておくようにとったというものであるが、これは家康いえやす自身じしん武芸ぶげい愛好あいこうしゃだったためにこういうことった(ヨーロッパでは両手りょうてけん多数たすうてき相手あいてにしたり、長柄ながら武器ぶき対抗たいこうするのに有効ゆうこう武器ぶきだと認識にんしきされていた)[12]

鎌倉かまくら時代じだい後期こうき以降いこうもとぐんの「やり」になやまされた武士ぶしたちは西国さいこく中心ちゅうしん対抗たいこうさくとして「だい太刀たち」を採用さいようした[11]一方いっぽう練度れんど不十分ふじゅうぶんでもたたかえる「やり」はしたそつ武器ぶきとしてれられていく[11]

南北なんぼくあさにはだい太刀たちだい薙刀なぎなたやりほかおの、鉞、きむ砕棒などが登場とうじょうしてくる。これらは室町むろまち以降いこう戦国せんごく時代じだいにおいては有効ゆうこう武器ぶきとしてはあまり使つかわれていないが、南北なんぼくあさから室町むろまち前期ぜんきにかけてだい太刀たちだい薙刀なぎなたおの、鉞、きむ砕棒がもてはやされた理由りゆう鎌倉かまくら中国ちゅうごくにおける多彩たさい武器ぶき使用しよう影響えいきょうされたからである。「やまと寇」がそうもとへい高麗こうらいへいとのたたかいでやりはじめとする多彩たさい打物うちもの出会であったのが理由りゆうというわけである[11]

だい太刀たち南北なんぼくあさ時代じだいのち室町むろまち時代じだいにも流行りゅうこうしたというせつ[13]薙刀なぎなたちょうまきちゅうまきとも室町むろまち時代じだいまで流行りゅうこうしたというせつ[14]安土あづち桃山ももやま時代じだい流行りゅうこうしたというせつもある[15][16]

南北なんぼくあさ時代じだいもっとなが頑丈がんじょう武器ぶきだい太刀たちだったというせつがあり[6]戦場せんじょう活躍かつやく重視じゅうしされたというせつ数多かずおお[17][7][6][3][18][19][9][20]

南北なんぼく朝代あさしろほこやりみじかく、だい太刀たちくらがられやすい[20]。鉞や薙刀なぎなた武器ぶきであるため、だい太刀たちよりれやすく、それをふせぐため、だい太刀たちほどながくはなかった[20]。そのため、南北なんぼくあさ時代じだいもっと有効ゆうこう白兵戦はくへいせん武器ぶきだい太刀たちであったとするせつもある[20]。ただし、もっとなが薙刀なぎなたしゃくやく150cm)ぐらいであった[20]

また、リーチがながく、るだけではなく、とげ突や石突いしづき使用しようした突、またでの打撃だげき可能かのうなど多様たよう攻撃こうげきせる薙刀なぎなた南北なんぼくあさ室町むろまち戦国せんごくのぞく)の戦乱せんらんにおいて最強さいきょう武器ぶきだったとするせつもある[21]

南北なんぼくあさやりは「もの」「もの」として利用りようされたが、太刀たち薙刀なぎなたも「もの」「もの」として利用りようされた。ひろ半径はんけい範囲はんいてきを「つ」「く」「る」ことのできるだい太刀たち薙刀なぎなたほう南北なんぼくあさ戦乱せんらんにおいてやりより有効ゆうこうであり、利用りよう価値かちたかかった[20]

また、南北なんぼくあさには歩兵ほへい騎兵きへい平地ひらち防戦ぼうせんできるほどまとまった集団しゅうだんではなく、騎馬きば攻撃こうげきささえられない分散ぶんさんされた弱小じゃくしょう集団しゅうだんであり、南北なんぼくあさとおして、騎兵きへい一番いちばん有利ゆうり軍事ぐんじ組織そしきであった[20]一方いっぽうで、ゆみあゆみへい援護えんごなしに打物うちもの騎兵きへい突撃とつげきするのは自殺じさつ行為こういだとするせつもある[22]

しかし、「太平たいへいちゅうにおけるだい太刀たち利用りようは35れいであり、それにだい薙刀なぎなたくわえても40すうれいであり、やはりそれほどおおくはない[11]。また、ぼうきむ砕棒はわせて8れいしかない[5]

だい太刀たちかたなほうについてはかたうまあしぎ、武者むしゃどうひざる、棟方むなかたかぶとはちどうげるという記述きじゅつが「太平たいへい」にはよくられる。南北なんぼくあさひざ保護ほごする「大立おおたちきょ脛当すねあてふとももを保護ほごする「佩楯」は徒歩とほせんなによりもだい太刀たちだい薙刀なぎなた斬撃ざんげき対策たいさくかんがえられる[11]体格たいかくめぐまれた武者むしゃにとってだい太刀たちたい騎馬きば武者むしゃたいやりよう得物えものとして必然ひつぜん武器ぶきであった[11]

また瀬戸内せとうち海賊かいぞく村上むらかみ戦闘せんとうほう砲術ほうじゅつをまとめた「ごうたけ三島みしまりゅう船戦ふないくさようほう」にふねちゅうでのせんではやりでは後先あとさきがつっかえて不便ふべんであり、太刀打たちうちで船首せんしゅから船尾せんびまでってまわるべきであるとあり、河川かせん回路かいろ運航うんこうかかわりのある武装ぶそう集団しゅうだん中心ちゅうしんとして発達はったつしたのが徒歩とほ太刀打たちうち」であり、そのための「だい太刀たち」でもある[11]

そして「たんかたなほうせん」には合計ごうけい34のすべやりたいするだい太刀たちかたなほう掲載けいさいされており、あかりぐんではやり主要しゅよう白兵はくへい武器ぶきであったこととだい太刀たちはそのやりあかりへいにとって非常ひじょう脅威きょういであり、間接かんせつてき日本にっぽんでもだい太刀たちやりへの有力ゆうりょく対抗たいこう手段しゅだんだったと理解りかい可能かのうである[11]

とはいえ、南北なんぼくあさ以降いこう使用しようには体格たいかく技術ぎじゅつ両方りょうほう必要ひつよううえ量産りょうさんせいやコストになんがあり、一般いっぱんてきえるほどの武器ぶきとはならなかった。しかし、その威力いりょく示威じいのために室町むろまちから戦国せんごくいたっても一部いちぶ武者むしゃこのんで使つかったし、一部いちぶ戦国せんごく大名だいみょうだい太刀たちるう「小隊しょうたい」を編成へんせいしていた[11]

また、やりだけではなく、薙刀なぎなただい薙刀なぎなたちょうまきといったその長柄ながえ武器ぶきたいする対抗たいこうさくとしても利用りようされた[23]

江戸えど時代じだいはいって徳川とくがわ幕府ばくふかたなながさをしゃくさんすん程度ていどを「つねすん」とさだめたのも、太平たいへい時代じだい異端いたんきらうだけではなく、だい太刀たち威力いりょくおそれたからだとかんがえられる[11]

だい太刀たち長大ちょうだいぶんおもいため、太刀たちおな形状けいじょうではあつかいにくい(刀身とうしんたいしてみじかくなりぎてかまえたりったりがむずかしい)という欠点けってんがあった。これを克服こくふくするため、次第しだいながくなり(30 - 40cm)、やがてまわやすいように刀身とうしん根元ねもと部分ぶぶんたいいとかわひもきつけた「ちゅうまき野太刀のだち(なかまき のだち)」へと発展はってんした。そこから完全かんぜん長柄ながえ武器ぶきである「ちょうまき」が派生はせいすることになる[24]

そのさんしゃくえるようなだい太刀たち神社じんじゃとうへの奉納ほうのうようにも製作せいさくされるようになり、長大ちょうだいつくるためにいくつかのながさにけて鍛錬たんれんし、のち接合はぎあわして一本いっぽん刀身とうしんとした、実際じっさいに「かたな」としては使用しよう出来できない(強度きょうどてきに「る」ことが不可能ふかのう)ものも製作せいさくされた。

室町むろまち時代ときよにはだい太刀たちすり刀身とうしんみじかちぢめて仕立したてなおすこと)てかたなとすることが流行りゅうこうしたため、室町むろまち時代じだい以前いぜんのもので製作せいさく当時とうじ刀身とうしんのまま現存げんそんするものはそれほどおおくない。

だい太刀たち上杉うえすぎこのんで使用しようされ、山形やまがた上杉うえすぎ神社じんじゃには、奉納ほうのうされたおおくのふるだい太刀たちつてそんしており、当時とうじ戦法せんぽうは、てきうまあし鼻面はなづらねらい、だい太刀たちるう気概きがいせることで、てき騎馬きば武者むしゃ慎重しんちょうにさせ、自由じゆうはたらきが出来できないよういた[25]

徳川とくがわ幕府ばくふ成立せいりつ徳川とくがわ政権せいけん確立かくりつされると、刀身とうしんちょうさんしゃく以上いじょうかたな帯刀たいとうすることはかたなそうかくつばもちいることほかともきんじられ、寺社じしゃ奉納ほうのうひん大名だいみょう秘蔵ひぞうひんとして少数しょうすう後世こうせいのこるのみとなった。江戸えど時代じだい奉納ほうのうひんとしてさくがたなされたものもすくなからず存在そんざいするが、いずれも本格ほんかくてき焼入やきいれやとぎぎがおこなわれていないものがおおく、これは禁制きんせいけるための措置そちであったと推測すいそくされている。

幕末ばくまつになると勤王きんのう志士ししにはちょうすんかたなすことが流行りゅうこうし、「勤王きんのうこしらえとうしょうされるかたな様式ようしきまれたが、それらの大半たいはんさんしゃく前後ぜんこうのもので、「だい太刀たち」というほどにはながくはない。

現代げんだいのこ古流こりゅう剣術けんじゅつ居合いあいじゅつかたなわざだけではなく、だい太刀たちわざをも伝承でんしょうしている。それははこびにくいという欠点けってんはあってもだい太刀たち実戦じっせん絶大ぜつだい威力いりょく発揮はっきすることのできる武器ぶきだったからである[18]

記録きろく実在じつざい[編集へんしゅう]

平家ひらか物語ものがたりなどの軍記物語ぐんきものがたり古記こきろくなか戦場せんじょう活躍かつやくする武器ぶきとしてしばしば登場とうじょうする[17]

うけたまわ寿ことぶきひさしらんについてかれた軍記物語ぐんきものがたりである『源平げんぺい盛衰せいすい』には、畠山はたけやま重忠しげただもちいた太刀たちとして「はばよんすんやく12cm)ながさんしゃくきゅうすんやく120cm)」の太刀たちである「秩父ちちぶがかうたいら」や武蔵むさしこくつづりとう大将たいしょうである太郎たろう五郎ごろう兄弟きょうだい帯刀たいとうしていたという「よんしゃくろくすんやく140cm)の太刀たちくまかわしりさや[26]いれ」が記述きじゅつされており、当時とうじすでさんしゃくえるものがあったことがうかがわれる。

時代じだいくだって『太平たいへい』には、しゃく以上いじょう太刀たちおお記述きじゅつされ、最大さいだいきゅうしゃくさんすんやく282cm)のものが描写びょうしゃされている。しゃくやく150cm)のだい太刀たちき、さらにはちょうはちすんだい斫斧(まさかり)をってさんじんしたという長山ながやま遠江とおとうみまもる(ながやま とおとうみのかみ[27])や、しゃくろくすんやく170cm)のだい太刀たちたずさえて勇戦ゆうせんしたという大高おおだか重成しげなりななしゃくさんすんやく221cm)のだい太刀たちるって奮戦ふんせんしたという山名やまな郎党ろうとうである福間ふくま三郎さぶろう描写びょうしゃからは、ちょうすんだい太刀たち実際じっさい戦闘せんとう使つかわれていた状況じょうきょう推察すいさつできる。

南北なんぼくあさ時代じだいにはだい太刀たち象徴しょうちょうされるように太刀たち薙刀なぎなたとも戦乱せんらんなかおおいに活躍かつやくした[19]

室町むろまちさくで備州長船おさふねほうこうというだい太刀たちがあり、総長そうちょう377.6cm,ちょう226.7cmという長大ちょうだいなものであるが、歴史れきし学者がくしゃ近藤こんどう好和よしかず実際じっさいってみたところ、意外いがいちやすく、十分じゅうぶん実戦じっせん使用しよう可能かのうだという。近藤こんどうだい太刀たちだい薙刀なぎなた実際じっさいった経験けいけんからちょうすん太刀たちでも具合ぐあい状態じょうたいなどの微妙びみょう調整ちょうせい手持てもちはよくなるものだとしている[28]

つてぼくけいひつ一休宗純いっきゅうそうじゅんぞう』(奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞう)。1447ねんぶんやす4ねん)、一休いっきゅうが54さいころさくで、きょく彔に一休いっきゅうかたわらに「しゅさやだい太刀たち」をてる[29]上部じょうぶ一休いっきゅう自賛じさん

室町むろまち時代ときよそうである一休宗純いっきゅうそうじゅん自身じしん背丈せたけよりもながしゅぬりさやだい太刀たちこしし、こじり(さや先端せんたん)をりながらまちあるいた、という逸話いつわが『一休いっきゅう和尚おしょう年譜ねんぷ伝記でんきにある。このだい太刀たち刀身とうしん木製もくせい竹光たけみつ)で、「さやおさめていれば豪壮ごうそうえるが、いてみれば木刀ぼくとうでしかない」と、外面がいめんかざることにしか興味きょうみのない当時とうじ世相せそう批判ひはんしたものであったとされる。だい太刀たちたずさえた一休宗純いっきゅうそうじゅん姿すがたは「一休いっきゅう和尚おしょうぞう 自賛じさん でん曾我そがぼくけいひつ」にえがかれて現代げんだいつたえられている。

戦国せんごく時代じだいには、朝倉あさくら長尾ながお上杉うえすぎが「力士りきしたい」とばれる巨躯きょく巨漢きょかんものあつめた部隊ぶたい編成へんせいし、だい太刀たちたせてたたかわせたことが記録きろくされている。朝倉あさくら家臣かしんである真柄まがら直隆なおたか真柄まがらただしきよし兄弟きょうだいは、とも戦場せんじょうしゃくさんすんやく175cm)のだい太刀たちもちいて奮戦ふんせんし、りょうともに姉川あねがわたたかられたものの、そのだい太刀たちは「太郎たろう太刀だち」「次郎じろう太刀だち」の現在げんざいつたえられている。

江戸えど時代じだいには農民のうみんだったがこう身長しんちょうという理由りゆう士分しぶんあたえられた岡田おかだはん小田おだだいさんろうは、6しゃく体躯たいくわせしゃくよんすんという特注とくちゅう太刀たちあたえられたという記録きろくがある[30]

現在げんざいでも、神社じんじゃへの奉納ほうのうひんや、徳川とくがわなどで所蔵しょぞうされていた個人こじん所蔵しょぞうひん徳川とくがわ美術館びじゅつかん柳生やぎゅうだい太刀たち)、渡辺わたなべ美術館びじゅつかん刀剣とうけん博物館はくぶつかんなどの博物館はくぶつかんおさめられたものとう少数しょうすうではあるが現存げんそんしている。重要じゅうよう文化財ぶんかざい新潟にいがたけん弥彦やひこ神社じんじゃ所蔵しょぞうするななしゃくよんすんふんやく225cm)のだい太刀たちがある。

しん古刀ことうつうじて最長さいちょうだい太刀たちは、山口やまぐちけん下松しもまつ花岡はなおか八幡宮はちまんぐう所蔵しょぞうの「破邪はじゃ太刀たち」(ちょう345.5cm、全長ぜんちょう465.5cm、75kg)である。これは幕末ばくまつ尊皇そんのう攘夷じょうい思想しそう背景はいけいとして、氏子うじこみなみ朝方あさがた刀匠とうしょうであった延寿えんじゅ末裔まつえいである延寿えんじゅこくむらじゅうななだい国綱くにつなくにしゅんあらためめい)に特注とくちゅうした奉納ほうのうがたなである。砂鉄さてつ300かんもちい、かわきとめれをおこなひとしだい太刀たち製作せいさくまつわる逸話いつわのこされているてんでも貴重きちょうである。

実用じつよう[編集へんしゅう]

使つかかた[編集へんしゅう]

姉川あねがわ合戦かっせん屏風びょうぶ
このでは真柄まがら直隆なおたかとみられる騎馬きば武者むしゃ馬上まけながだい太刀たち両手りょうてるっている

だい太刀たち長大ちょうだいなものではあっても「太刀たち」であり、太刀たち馬上まけでのたたかいを想定そうていして発展はってんしたものであるために、本来ほんらい騎馬きば武者むしゃ馬上まけもちいるものであった。

通常つうじょう太刀たち中程なかほどにぎり、柄頭つかがしら一番いちばんはし部分ぶぶん)にけられたぬきいとぐち(てぬきお)とばれるひも手首てくびとおして脱落だつらく防止ぼうしとしたが、だい太刀たち場合ばあい鍔元つばもとちか部分ぶぶんにぎり、ぬきいとぐちひじ部分ぶぶんとおしてめ、こぶしひじ箇所かしょ保持ほじし、かたなおもさをささえる。かたなさいひじからさき前腕ぜんわん一体いったいとしてり、通常つうじょう太刀たちかたなのように手首てくびうごかすことはしない(そのようにするとかたなおもさをささえられないばかりか、手首てくびいためてしまうことになる)。
このようにかまえただい太刀たちは、「かたな」というよりは薙刀なぎなたやりなどの長柄ながえ武器ぶきちかいものであり、武士ぶし同士どうし馬上もうえ決戦けっせんでのきやはらい、または馬上もうえから足軽あしがるけてのきやばらいをおこなった。落馬らくばした、もしくは下馬げばしたさいにも地面じめんから馬上もうえてきねらきやばらいをするものとしてあつかった。

しかし、歴史れきし学者がくしゃ近藤こんどう好和よしかずだい太刀たち薙刀なぎなたやりぼうなどの長物ちょうぶつであっても馬上まけ片手かたて使用しようするとはかぎらないとしている[31]

弓矢ゆみや両手りょうてあつかうもので、騎射きしゃでは手綱たづなたないわけだから馬上まけ手綱たづなからはな長物ちょうぶつ両手りょうて使用しようすることもなん不自然ふしぜんではないとしている[31]

なお、当時とうじ騎馬きば武者むしゃえがいた絵図えずには、抜身ぬきみだい太刀たちにぎったかたたかさまでげて刀身とうしんかたせている姿勢しせいえがかれているものがあるが、これは一旦いったんいてかまえただい太刀たち保持ほじつづけることは重量じゅうりょうてきめん体勢たいせいてきくるしいため、かたせることで重量じゅうりょう軽減けいげんし、疲労ひろううでいためることをふせぐためのものであったとかんがえられている。

本来ほんらい馬上まけでのたたかいを想定そうていして発展はってんしたものであるが、合戦かっせんでのおも戦闘せんとう方法ほうほう騎馬きば武者むしゃ主体しゅたいしょう人数にんずう戦闘せんとうから足軽あしがる主体しゅたいせん(かちいくさ[32])にうつっていくにしたがい、だい太刀たちも、体力たいりょくがあるもの体格たいかくものといったかぎられたものあつかうものではあるが、馬上まけではなく地上ちじょう使つかわれるものになり、両手りょうてってあつかうことが容易よういなようにながくなっていった。こうしてだい太刀たち野太刀のだち)は「ちゅうまき野太刀のだち」、やがて「ちょうまき」へと発展はってんしてゆく。

だい太刀たちなが武器ぶきであるために、こまかなうごきをしからく、もちいるさいには周囲しゅうい味方みかたまないようにたたか必要ひつようせいてくる。武術ぶじゅつにはだい太刀たち使つかったせん戦闘せんとう技術ぎじゅつのこっており、合戦かっせんなどで技術ぎじゅつ研鑽けんさんされてきたせん戦場せんじょう武器ぶきともえる。

よんしゃくあまりのだい太刀たちであっても片手かたてではあつかいづらい、あまりにもおおきいだい太刀たち片手かたて使用しよう不可能ふかのうなため(近藤こんどう好和よしかずいわくバランスがよく意外いがいちやすいとのことだが)馬上まけだい太刀たち使用しようしなかったというせつもある[33][11]。しかし、おおきくておもだい太刀たちほど騎馬きば優位ゆういせい発揮はっきするために馬上まけ使つかったとかんがえられ、極端きょくたんながおもだい太刀たち徒歩とほせんつづけるほう困難こんなんかんがえられる[33]

ながだい太刀たちちょうまきおもいためにテレビドラマや映画えいがのように片手かたて手綱たづないてうまめ、もう片方かたがたっていたとはかんがえにくい[34]日本にっぽん在来ざいらいはポニーだが完全かんぜん武装ぶそう騎馬きば武者むしゃせて最高さいこう時速じそく40キロメートルはるため[33]現代げんだいせんにおける戦車せんしゃおなじくつね素早すばやうごけることが最大さいだい武器ぶきであり、まっていたらただのおおきな標的ひょうてきとなる。また、日本にっぽん武具ぶぐりょう手持てもちが可能かのうなためにこちらがかた手打てうちをしたのでは力負ちからまけする。ここぞというとき片手かたて手綱たづなをはなし、りょう手持てもちの薙刀なぎなただい太刀たちちょうまきいちげきくわえたとかんがえられる。てきってもれなくても、ふたたちがい、そのいちげきだけで旋回せんかい格闘かくとうせんえんじたとかんがえられる[33]

携行けいこう方法ほうほう[編集へんしゅう]

野太刀のだち背負せおかたしめした江戸えど時代じだいえがかれたもの)

通常つうじょう場合ばあい背負せおうか従者じゅうしゃたせて携行けいこうしていた。鎌倉かまくら時代ときよ末期まっきから戦国せんごく時代じだいすえにかけてえがかれた数々かずかず絵図えずでは、こしげる(く)もの、こしすもの、背負せおうもの、従者じゅうしゃたせるもの、諸々もろもろだい太刀たち携行けいこう方法ほうほうることができる。

みずからの場合ばあい
みずからのってはこぶ。この場合ばあいはかなりながだい太刀たちくことが可能かのうである。またたたかいのはじまるまえにはさやてることもある。
従者じゅうしゃたせる場合ばあい
従者じゅうしゃはこぶ。だい太刀たちさいには従者じゅうしゃさやたせて、うまった武者むしゃくか、または徒歩とほ武者むしゃく。この場合ばあいかなりながだい太刀たちくことが可能かのうである。だい太刀たち身分みぶんたか武士ぶしあつか武器ぶきであるため従者じゅうしゃたせるのが本来ほんらい所持しょじ方法ほうほうである。
こし携行けいこうする場合ばあい
ひだりこしだい太刀たち携行けいこうする流派りゅうはもある。しかしこし携行けいこうする場合ばあいだい太刀たちながさのためくのには容易よういではない。そのためにはかなりの熟練じゅくれんしたわざ必要ひつようである。
通常つうじょうひだりこし携行けいこうする場合ばあい太刀たちしたにして携行けいこうするが、流派りゅうはによりうえけてひだりこし携行けいこうする場合ばあいもある。
背負せお場合ばあい
だい太刀たち背負せお場合ばあい架空かくう物語ものがたり漫画まんがなどのイラストではみぎきのだい太刀たち使づかいは右肩みぎかたからひだりこしだい太刀たち背負せおっている。しかしこの背負せおかたではだい太刀たちけない。太刀たちかたなはまず鯉口こいぐちらなければけず、また右肩みぎかた鯉口こいぐちがあり右手みぎてだい太刀たちくにはあまりにもだい太刀たちながいためにながさがりない。よって通常つうじょう左肩ひだりかたからみぎこし背負せお場合ばあいおおい。
みぎきの場合ばあいだい太刀たちさい左手ひだりて左肩ひだりかたからている鍔元つばもとつかみ、うえけ、鯉口こいぐち相手あいて正面しょうめんがわける。そして右手みぎてって鯉口こいぐちり、右手みぎてまえばしながらだい太刀たちく。
にんがたな携行けいこう方法ほうほうだい太刀たち背負せお場合ばあい携行けいこう方法ほうほうており、鯉口こいぐち左肩ひだりかたがわ背負せおう。

日本にっぽんがたなこしらえ外装がいそう)の場合ばあい太刀たちにはくためにこしわえるためのひも(佩緒(はきお)とぶ)をむすぶためのおび金具かなぐあしかわおよあし金物かなもの)があり、かたなにはこししたさいおびわえるためのひもしもいとぐち(さげお)とそれをむすぶための部品ぶひんぐりがた)があるが、だい太刀たち場合ばあい従者じゅうしゃもしくは自分じぶんってはこぶことがおおく、それらにはあし金物かなものぐりがたともにないものが通例つうれいである。

現存げんそんするだい太刀たち[編集へんしゅう]

青江あおえだい太刀たち(あおえのおおたち)
ちょう103cm、おもさ1.5kg。
真田さなだ宝物ほうもつかん長野ながのけん長野ながの松代町松代まつしろまちまつしろ4-1)が所蔵しょぞう
こころざしだい太刀たち(しだのおおたち)
志田しだだい太刀たち」と場合ばあいもある。
弥彦やひこ神社じんじゃ新潟にいがたけん西蒲原にしかんばらぐん弥彦やひこむら)が所蔵しょぞうとう神社じんじゃにはさんいえ正吉まさよしさくのものとわせ、2ほんだい太刀たち所蔵しょぞうされている。
だい太刀たち かわいちくち 大字だいじ弥彦やひこ 弥彦やひこ神社じんじゃ
ちょう220.4cm(ななしゃくすんはちふんりん)、くきちょう101.8cm(さんしゃくさんすんふん)、全長ぜんちょう322.2cm。
だい太刀たち こしらえども さんいえ正吉まさよしさく弥彦やひこ神社じんじゃぞう
(2019ねん10がつ16にち撮影さつえい
だい太刀たち こしらえども さんいえ正吉まさよしさく いちくち 大字だいじ弥彦やひこ 弥彦やひこ神社じんじゃ
ちょう ななしゃくよんすん(224cm)、くきちょう さんしゃくいちすん(93cm)
だい太刀たち めいしんこく
全長ぜんちょう209.1cm。
八幡宮はちまんぐう新潟にいがたけん三条さんじょう)が所蔵しょぞう
八幡宮はちまんぐう神宝しんぽう熱田あつた八剣やつるぎ文字もじ作者さくしゃとみられる「しんこく」のめいがある。室町むろまち時代じだい初期しょきやく600ねんまえ)のさくとみられる。
めしおか八幡宮はちまんぐうだい太刀たち
全長ぜんちょう163cm、ちょう130cm、り3.5cm。
めしおか八幡宮はちまんぐう(千葉ちばけん市原いちはら)が所蔵しょぞう
三嶋みしま大社たいしゃだい太刀たち
全長ぜんちょう161.5cm、ちょう114.3cm、くきちょう47.5cm、り5.0cm。
三嶋みしま大社たいしゃ静岡しずおかけん三島みしま大宮おおみやまち)が所蔵しょぞう
やま金造きんぞうなみぶん蛭巻ひるまきだい太刀だち(やまがねづくりはもんひるまきのおおだち) ごう 祢々きりまる(ねねきりまる)
ちょう2.2m(ななしゃくいちすんふん)、全長ぜんちょう3.4m(いちたけいちしゃくさんすんふん)、おもさ22.5kg。
日光にっこう二荒ふたあらさん神社じんじゃ栃木とちぎけん日光にっこう)が所蔵しょぞう。 
二荒ふたあら山神さんじんしゃかみがたなひとつである。しょ金具かなぐやま金造きんぞう蛭巻ひるまきとそのあいだ余地よちうえには全体ぜんたいいろうるしあつり、刷毛はけ波状はじょうぶんえがく。
別名べつめい由来ゆらい日光にっこう山中さんちゅうのねゝがさわんでいたものの「祢々(ねね)」である。ごう由来ゆらいはこの太刀たち自然しぜんさやからけ、祢々を退治たいじしたということからである。
だい山祇やまずみ神社じんじゃだい太刀たち
ちょう180.0cm、くきちょう58.5cm、はん5.4cm。
だい山祇やまずみ神社じんじゃ愛媛えひめけん今治いまばり大三島おおみしままち宮浦みやうら)が所蔵しょぞう
だい太刀たち無銘むめいである。(でん豊後ぶんご友行ともゆきかわつつみだい太刀たちこしらえづけ
破邪はじゃ御太刀みたち(はじゃのおんたち)
ちょう345.5cm、くきちょう120cm、はん28cm、身幅みはば13cm、かさね3cm、重量じゅうりょう75kg。
花岡はなおか八幡宮はちまんぐう山口やまぐちけん下松しもまつ)が所蔵しょぞう
しん古刀ことうつうじて日本にっぽん最長さいちょうだい太刀たちである。安政あんせい6ねん(1859ねんひがしこえ菊地きくち延寿えんじゅこくむら27だい末孫ばっそん三光軒北辰子国綱が、門弟もんてい5めい手伝てつだい2めいしたがえて、砂鉄さてつ300かんきたえ、かわきとめ、きをれてつく奉納ほうのうしたものとつたえられている。
だい太刀たち めい まつ青江あおえ太郎たろう太刀だち
(2012ねん6がつ30にち撮影さつえい
真柄まがらだい太刀たち太郎たろう太刀だち / 次郎じろう太刀だち
熱田あつた神宮じんぐう愛知あいちけん名古屋なごや熱田あつた)が所蔵しょぞう / 白山はくさん咩神しゃ石川いしかわけん白山はくさん三宮さんぐうまち)が所蔵しょぞう。  
真柄まがら直隆なおたかもちいたとつたえられるかたな。なお、“真柄まがら(の)だい太刀たち”とされる刀剣とうけん熱田あつた神宮じんぐう奉納ほうのうぶん白山はくさん咩神しゃ奉納ほうのうぶん収蔵しゅうぞうひんとしてけい3りがあり、このうち太郎たろう太刀だち次郎じろう太刀だちわってつたわっているとのせつもある。
  • 熱田あつた神宮じんぐう所蔵しょぞう
だい太刀たち めい まつ青江あおえ太郎たろう太刀だち
ちょう221.5cm り3.4cm 全長ぜんちょう303cm(こしらふくめ 340cm)重量じゅうりょう やく6kg(刀身とうしんのみ、こしらふくやく10kg)
だい太刀たち めい せんだいつる國安くにやす次郎じろう太刀だち
ちょう166.7cm り2.6cm 全長ぜんちょう244.6cm(こしらふくめ 267cm)重量じゅうりょう やく5kg(刀身とうしんのみ、こしらふくやく8kg)
  • 白山はくさん咩神しゃ所蔵しょぞう
太刀たち めい行光ゆきみつ太刀たち めい加賀かがこく金沢かなざわじゅうけんまきさく
ちょう186.5cm 身幅みはば5.0cm り3.3cm
陰陽いんようまる
刀身とうしんちょう280cm、くきちょう88.5cm。全長ぜんちょう368.5cm
熱田あつた神社じんじゃ東京とうきょう台東たいとう)が所蔵しょぞう
ひろし4ねん(1847ねん)、刀工とうこう川井かわい久幸ひさゆき制作せいさくし、熱田あつた神社じんじゃ奉納ほうのうしたもの。
安政あんせい5ねん(1858ねん)コレラ流行りゅうこうとき疫病えきびょうはらうため浅草あさくさ鳥越とりごえまち巡行じゅんこうした。
都萬つまだい太刀たち
総長そうちょうやく3.54m、ちょうやく2.46m、おもやく63.75kg
宝徳ほうとく2ねん(1450ねん)、つままち付近ふきん鹿野田かのだ住人じゅうにん日下部くさかべ成家なりいえ備前びぜんのりらにきたえさせ、都萬つま神社じんじゃ奉納ほうのうしたもの。現在げんざい宮崎みやざきけん都萬つま神社じんじゃ所蔵しょぞう
柳生やぎゅうだい太刀たち
ちょう143.3cm 身幅みはば4.2cm かさね(刀身とうしんあつみ)1.5cm 総長そうちょう227.5cm 柄長からちょう69.6cm
室町むろまち時代じだい刀工とうこうである出雲いずもまもるながそくさくとされるが真偽しんぎさだかではない。しんかげりゅうである上泉かみいずみ信綱のぶつなから柳生やぎゅう宗厳むねよし継承けいしょうされたといういいつたえがあり、慶長けいちょう10ねん(1605ねん以来いらいだい柳生やぎゅう宗家そうけがれ、幕末ばくまつ以降いこう徳川とくがわ所有しょゆうとなった。現在げんざい名古屋なごや徳川とくがわ美術館びじゅつかん所蔵しょぞうしている。

うまがたなとの混同こんどう[編集へんしゅう]

だい太刀たちして「うまがたな(ざんばとう)」と呼称こしょうされることがある。しかし、本来ほんらいの「うまがたなけん)」とばれていた、中国ちゅうごく大陸たいりくもちいられていた武器ぶき後述こうじゅつ)と日本にっぽんだい太刀たちは、まったくの別物べつものである。

このような混同こんどう原因げんいんは、現代げんだい漫画まんがなどの創作そうさくぶつ発端ほったんだといわれ、1973ねんから1974ねんにかけて連載れんさいされていた永井豪ながいごうさく漫画まんがバイオレンスジャック』において、登場とうじょう人物じんぶつのスラムキングのだい太刀たちが「うまがたな」と呼称こしょうされているれい存在そんざいする[35]

また、1990年代ねんだいえがかれたがつ伸宏のぶひろさく漫画まんがるろうにけんしん -明治めいじ剣客けんかく浪漫ろうまんたん-』の登場とうじょう人物じんぶつ相楽さがらひだりすけ使用しようした武器ぶきも「うまがたな」という呼称こしょうもちいられ、日本にっぽん室町むろまち時代じだい存在そんざいした武器ぶきという解説かいせつがなされた[36]。この「うまがたな」は巨大きょだい両刃りょうばけんのような武器ぶきとしてえがかれているが、日本にっぽん歴史れきしじょう、このような「うまがたな」なる武器ぶき存在そんざいしめ文献ぶんけん確認かくにんされていない。のちえがかれた、『るろうにけんしん 完全かんぜんばんだい5かんにおける企画きかくページ[37]である「けんこころさいふで」では、うまがたな日本にっぽんがたな形状けいじょうのものとしてさい設定せっていされており、添文では

2mきょうだい太刀たちうまがたな)。しり紅白こうはくぼう一対いっつい

かれている。この「だい太刀たちうまがたな)」はイラストではちゅうまき野太刀のだちのように鍔元つばもとからものちにかけての部分ぶぶん糸巻いとまきがほどこされたデザインになっており、

より多彩たさいまわせるよう、鍔元つばもとちょうハバキをけ、そのうえきをほどこすように細工ざいく

との一文いちぶんえられている[38]

このほかにも「うまがたな」もしくは「うまけん」という名称めいしょう武器ぶき登場とうじょうする創作そうさく作品さくひんはいくつかあるが、いずれもだい太刀たち中国ちゅうごくにおける「うまがたなけん)」とはことなる、創作そうさくじょうのデザインである。

中国ちゅうごくにおける「うまがたな[編集へんしゅう]

みどり營斬がたな

本来ほんらいの「うまがたなけん)」は古代こだい中国ちゅうごく使用しようされていた武器ぶき名称めいしょうで、前漢ぜんかん時代じだいには「うまけん」とばれる長柄ながえ武器ぶき文献ぶんけんのこされている。これは両刃りょうばけんながけたもので、とう時代じだいにはさらになが身幅みはばひろ片刃かたは刀身とうしんけたものに発展はってんし、「大刀たち」(日本にっぽんかたなの「大刀たち」とはべつのもの)とばれるようになった。大刀たちのちはばひろ刀身とうしん比較的ひかくてきみじかいものと、はばはそれほどでもないが刀身とうしんながいものとに分岐ぶんきして発展はってんし、後者こうしゃは「まゆとんがかたな」とばれるようになった。


とうだいには、ながくほとんどりのない片刃かたは、もしくは両刃りょうば刀身とうしん両手りょうてつに十分じゅうぶんながさのがあるものが「陌刀」のもちいられ、あきらだいにはやまともちいていた野太刀のだち長刀ちょうとう)をはじめとする日本にっぽんがたな[39]中国ちゅうごくでもれられて模倣もほうされ[40][39]やまと寇や北方ほっぽう騎馬きば民族みんぞくモンゴル)とのたたかいで一定いってい軍事ぐんじてき効果こうかをあげた[39]やまと寇がもちいていた野太刀のだち中国ちゅうごくへいもちいていた長柄ながえ武器ぶきとしてしまううえに、たん武器ぶきよりもながかったために火縄銃ひなわじゅうよりもおそれられた[41]

これら「大刀たち」や「まゆとんがかたな」、または「陌刀」や「やまとがたな」、「なえがたな」は騎馬きばへいたたかうためにももちいられたことから、「うまがたな」とも呼称こしょうされた。うまがたな」とは、本来ほんらいはこれらの長柄ながえ武器ぶき、もしくはその通称つうしょうされた大型おおがた刀剣とうけん言葉ことばである

なお、「大刀たち」は日本にっぽんつたえられて薙刀なぎなたになったともされる。「まゆとんがかたな」は日本にっぽんにも形状けいじょう武器ぶき存在そんざいし、おなじく「まゆとんがかたな」とばれているが、日本にっぽんのものは中国ちゅうごくにおける「まゆとんがかたな」とくらべると刀身とうしん大身たいしんはばひろく、ふくめた全体ぜんたいながさがみじかい。このため、「日本にっぽんしきまゆとんがかたな」とける場合ばあいもある。この「(日本にっぽんしきまゆとんがかたな」は、現存げんそんする流派りゅうはではもと戸隠とがくしりゅう忍術にんじゅつ)の武神ぶしんかん使用しようしている。

脚注きゃくちゅう出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 戸田とだふじしげる武器ぶき防具ぼうぐ<日本にっぽんへん>』しん紀元きげんしゃ、113ページ。
  2. ^ a b ささあいだ良彦よしひこ図説ずせつ 日本にっぽん合戦かっせん武具ぶぐ事典じてん柏書房かしわしょぼう、123ぺーじ 
  3. ^ a b 図説ずせつ日本にっぽん武器ぶき集成しゅうせい学研がっけん、55ぺーじ 
  4. ^ 図説ずせつ戦国せんごく時代じだい武器ぶき防具ぼうぐ戦術せんじゅつ百科ひゃっかはら書房しょぼう、102ぺーじ 
  5. ^ a b 近藤こんどう好和よしかず騎兵きへい歩兵ほへい中世ちゅうせい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、116,117,107ぺーじ 
  6. ^ a b c トマス・D・コンラン『図説ずせつ 戦国せんごく時代じだい武器ぶき防具ぼうぐ戦術せんじゅつ百科ひゃっかはら書房しょぼう、102ぺーじ 
  7. ^ a b まき秀彦ひでひこ図説ずせつ けんわざ剣術けんじゅつしん紀元きげんしゃ、239,254ぺーじ 
  8. ^ a b 得能とくのう一男かずお日本にっぽんがたな図鑑ずかん 保存ほぞんばんひかりげい出版しゅっぱん、48,47ぺーじ 
  9. ^ a b 東郷とうごうたかし戦国せんごく武士ぶし合戦かっせん心得こころえ講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ、18ぺーじ 
  10. ^ 加来かく耕三こうぞう日本にっぽん武術ぶじゅつ武道ぶどうだい事典じてんつとむまこと出版しゅっぱん、292ぺーじ 
  11. ^ a b c d e f g h i j k l 日本にっぽんがたなかた歴史れきし文化ぶんか雄山閣ゆうざんかく、116,117,103,131,132,134,137,139,140,144ぺーじ 
  12. ^ 長田ながた龍太りゅうたぞく中世ちゅうせいヨーロッパの武術ぶじゅつしん紀元きげんしゃ、83ぺーじ 
  13. ^ かたな真剣しんけん勝負しょうぶ 日本にっぽんがたな虚実きょじつ』ワニ文庫ぶんこ、180ぺーじ 
  14. ^ 『イラストでわかる武士ぶし装束しょうぞく玄光社げんこうしゃ、58,66ぺーじ 
  15. ^ 武器ぶき防具ぼうぐ 日本にっぽんへんしん紀元きげんしゃ、113ぺーじ 
  16. ^ 日本にっぽん武器ぶき甲冑かっちゅうぜん辰巳たつみ出版しゅっぱん、58,59ぺーじ 
  17. ^ a b 戸田とだふじしげる武器ぶき防具ぼうぐ 日本にっぽんへんしん紀元きげんしゃ、113ぺーじ 
  18. ^ a b まき秀彦ひでひこ図説ずせつ けんわざ剣術けんじゅつしん紀元きげんしゃ、16ぺーじ 
  19. ^ a b 戸部とべ民夫たみお日本にっぽん武器ぶき甲冑かっちゅうぜん辰巳たつみ出版しゅっぱん、58-60ぺーじ 
  20. ^ a b c d e f g トマス・D・コンラン『日本にっぽん社会しゃかい史的してき構造こうぞう 古代こだい中世ちゅうせい 南北なんぼくあさ合戦かっせんいち考察こうさつ思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、428-430,421ぺーじ 
  21. ^ 樋口ひぐち隆晴たかはる図解ずかい 武器ぶき甲冑かっちゅう』ワンパブリッシング、62ぺーじ 
  22. ^ 図解ずかい 武器ぶき甲冑かっちゅう』ワンパブリッシング、51ぺーじ 
  23. ^ まき秀彦ひでひこけんわざ剣術けんじゅつさん 名刀めいとうでんしん紀元きげんしゃ、346,347ぺーじ 
  24. ^ 西洋せいよう両手りょうてけんにも同様どうよう改良かいりょうおこなわれたものがられ、ツヴァイヘンダーの「リカッソ」が代表だいひょうてきである
  25. ^ 陸軍りくぐん戸山とやまりゅう検証けんしょうする日本にっぽんがたな真剣しんけんり』並木なみき書房しょぼう、121ぺーじ 
  26. ^ 太刀たちさやかぶせてもちいる毛皮けがわせいおおいで、実用じつよう装飾そうしょく用途ようとでももちいられた
  27. ^ 土岐ときよりゆきもと(とき よりもと、頼元よりもととも)。土岐ときよりゆきとお兄弟きょうだいとされる人物じんぶつ赤松あかまつ氏範うじのりとのいち逸話いつわられる
  28. ^ 近藤こんどう好和よしかず. 騎兵きへい歩兵ほへい中世ちゅうせい. 吉川弘文館よしかわこうぶんかん 
  29. ^ 一休宗純いっきゅうそうじゅんぞう - 奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん、2020ねん4がつ8にち閲覧えつらん
  30. ^ 永井ながい義男よしお剣術けんじゅつ修行しゅぎょうたび日記にっき 佐賀さがはん葉隠はがくれ武士ぶしの「諸国しょこくまわりれきろく」をむ』 朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん 2013ねん p.87.
  31. ^ a b 近藤こんどう好和よしかず騎兵きへい歩兵ほへい中世ちゅうせい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、121ぺーじ 
  32. ^ 徒歩とほおこな戦闘せんとう
  33. ^ a b c d 騎馬きば武者むしゃ サムライの戦闘せんとう騎乗きじょうしん紀元きげんしゃ、96,13ぺーじ 
  34. ^ 騎馬きば武者むしゃ サムライの戦闘せんとう騎乗きじょうしん紀元きげんしゃ、89ぺーじ 
  35. ^ 永井豪ながいごうちょ完全かんぜんばん バイオレンスジャック」 だい2かん 207ぺーじ
  36. ^ がつ伸宏のぶひろちょ 「るろうにけんしん明治めいじ剣客けんかく浪漫ろうまんたんまき1 160ぺーじ
  37. ^ 「るろうにけんしん明治めいじ剣客けんかく浪漫ろうまんたん (05)」カバー
  38. ^ 実際じっさいだい太刀たちをよりまわしやすいように鍔元つばもときをほどこした「ちゅうまき野太刀のだち」は、ちょうハバキとしてそのうえきをほどこしているわけではない(まき刀身とうしんのついていない部分ぶぶん直接ちょくせつかれている)ので、このデザインは創作そうさくもとづくものである。
  39. ^ a b c はやしはくばら中国ちゅうごく武術ぶじゅつ技藝ぎげいしゃ、392-398ぺーじ 
  40. ^ 平上たいらかみ信行のぶゆき笹尾ささお恭二きょうじ. 対談たいだん 秘伝ひでん剣術けんじゅつ 極意ごくいがたなじゅつ. BABジャパン 
  41. ^ 篠田しのだ耕一こういち武器ぶき防具ぼうぐ 中国ちゅうごくへんしん紀元きげんしゃ、43ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]