多田ただ神社じんじゃ

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多田ただ神社じんじゃ

拝殿はいでんくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい
所在地しょざいち 兵庫ひょうごけん川西かわにし多田院多田所ただいんただどころまち1-1
位置いち 北緯ほくい3451ふん40.6びょう 東経とうけい13524ふん9.4びょう / 北緯ほくい34.861278 東経とうけい135.402611 / 34.861278; 135.402611座標ざひょう: 北緯ほくい3451ふん40.6びょう 東経とうけい13524ふん9.4びょう / 北緯ほくい34.861278 東経とうけい135.402611 / 34.861278; 135.402611
主祭しゅさいしん 源満仲みなもとのみつなかいちみや
源頼光みなもとのよりみつみや
源頼信みなもとのよりのぶさんみや
源頼義みなもとのよりよしよんみや
源義家みなもとのよしいえみや
社格しゃかくひとし きゅうけんしゃ
別表べっぴょう神社じんじゃ
創建そうけん てんろく元年がんねん970ねん
本殿ほんでん様式ようしき 入母屋いりもやづくり
別名べつめい 多田院ただいん旧称きゅうしょう
例祭れいさい 4がつ10日とおか春季しゅんきれい大祭たいさい
10月27にち秋季しゅうきれい大祭たいさい
おも神事しんじ 神幸しんこうしき(4がつだい2にち曜日ようび
地図ちず
多田神社の位置(兵庫県内)
多田神社
多田ただ神社じんじゃ
地図
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境内けいだいくち

多田ただ神社じんじゃ(ただじんじゃ)は、兵庫ひょうごけん川西かわにし多田院多田所ただいんただどころまちにある神社じんじゃきゅう社格しゃかくけんしゃで、現在げんざい神社じんじゃ本庁ほんちょう別表べっぴょう神社じんじゃ

ろくまごおう神社じんじゃ京都きょうと京都きょうとみなみ)、壺井つぼい八幡宮はちまんぐう大阪おおさか羽曳野はびきの)とともに「源氏げんじさん神社じんじゃ」の1つ。前身ぜんしんは「多田院ただいん法華三昧ほっけざんまいてら」とごうした天台宗てんだいしゅうのち真言しんごんりつむね寺院じいんであり、境内けいだい現在げんざいでも「多田院ただいん」の名称めいしょうくに史跡しせき指定していされている。初期しょき清和せいわはじめ本拠地ほんきょちであったきゅう摂津せっつこく多田ただ[1]鎮座ちんざする源氏げんじ一門いちもん祖廟そびょうであり「清和せいわはじめ発祥はっしょう」ともばれる。

祭神さいじん[編集へんしゅう]

清和せいわはじめ興隆こうりゅういしずえきずいた源満仲みなもとのみつなかからその曾孫そうそん源義家みなもとのよしいえまでのおおやけまつる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

平安へいあん時代じだい[編集へんしゅう]

てんろく元年がんねん970ねん)に清和せいわはじめ摂津せっつもり源満仲みなもとのみつなか住吉すみよし大神おおがみ神託しんたくけて当地とうち居館きょかんかまえ、まんなか末子まっしみなもとけん開山かいさんとして天台宗てんだいしゅう寺院じいん多田院ただいん鷹尾たかおさん法華三昧ほっけざんまいてら通称つうしょう多田院ただいん)が建立こんりゅうされた。そのさい円融天皇えんゆうてんのうより「此のしろをもって禁裏きんり守護しゅごしょく武門ぶもん棟梁とうりょうまんだい居城きょじょうたるべし」との勅諚ちょくじょうたまわったとされる。このことから当地とうち清和せいわはじめ発祥はっしょうばれている。以後いごまんなかみずからの武士ぶしだん多田院ただいん御家人ごけにん)をひきいてそのかん多田院ただいん中心ちゅうしん多田ただそう開発かいはついそしんだ。

本尊ほんぞん丈六じょうろく釈迦如来しゃかにょらいぞうまんなか文殊もんじゅ菩薩ぼさつぞうまんなか長男ちょうなん源頼光みなもとのよりみつ普賢菩薩ふげんぼさつぞう次男じなんみなもとよりゆきおや四天王してんのうぞう三男さんなん源頼信みなもとのよりのぶがそれぞれ願主がんしゅとなってつくられたものである。平安へいあん時代じだいちょういさお3ねん997ねん)8がつ27にちまんなかぼっすると多田院ただいんほうむられ、あらたに廟所びょうしょまんなかぞうまつ御影堂ごえどう建立こんりゅうされた。

鎌倉かまくら時代ときよ[編集へんしゅう]

以後いご清和せいわはじめ祖廟そびょうとされたが、この代々だいだい相続そうぞくした多田ただはじめ没落ぼつらくつづ源氏げんじ将軍しょうぐんいえ断絶だんぜつにより次第しだい衰微すいびしていった。鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき鎌倉かまくら幕府ばくふ執権しっけん北条ほうじょうやすしとき多田おおたそう地頭じとうとなると、以後いごとく宗家そうけによって地頭じとうしょく相伝そうでんされた。そこで幕府ばくふ多田院ただいん社殿しゃでんだい規模きぼ復興ふっこうおこなうこととし、ぶんひさし10ねん1273ねん)に西大寺さいだいじ忍性にんしょう造営ぞうえい奉行ぶぎょうにんじて再興さいこうさせた。これにより多田院ただいん宗旨しゅうし天台宗てんだいしゅうから真言しんごんりつむねてんじ、やがては源頼光みなもとのよりみつまつるようになった。幕府ばくふせいおう6ねん1293ねん)には摂津せっつ国内こくないむねべつぜに10ぶんして多田院ただいん修築しゅうちく費用ひようてさせている。

正和しょうわ5ねん1316ねん)10がつ13にちには多田院ただいんどう供養くようおこなわれ、渡辺わたなべ能勢のせ塩川しおかわなど50すうめい多田院ただいん御家人ごけにん出席しゅっせきしている。

室町むろまち時代ときよ[編集へんしゅう]

室町むろまち時代ときよはいると清和せいわはじめである将軍しょうぐん足利尊氏あしかがたかうじ崇敬すうけいし、以後いご室町むろまち幕府ばくふ保護ほごける。のべぶん3ねん1358ねん)には2だい将軍しょうぐん足利あしかが義詮よしあきらによってたかし分骨ぶんこつ多田院ただいんおさめられ、これ以降いこう歴代れきだい足利あしかが将軍しょうぐん分骨ぶんこつ埋葬まいそうされることとなった。なお、まんなか廟所びょうしょはまれに「多田院ただいん鳴動めいどう」といってだい事件じけん前触まえぶれとしてびょうおとててふるえることがあったという。室町むろまち時代じだいだけでも、おうひさし22ねん1415ねん)、おうなが34ねん1427ねん)、ひろしただし5ねん1464ねん)、文明ぶんめい4ねん1472ねん)、文明ぶんめい14ねん1482ねん)、ちょうとおる元年がんねん1487ねん)、延徳えんとく3ねん1491ねん)、えいただし4ねん1507ねん)の8かいあったという。文明ぶんめい4ねん(1472ねん)には鳴動めいどう関連かんれんしてまんなかしたがえ贈位ぞういされている。

戦国せんごく江戸えど時代じだい [編集へんしゅう]

戦国せんごく時代じだい天正てんしょう5ねん1577ねん)には織田おだしんきよし軍勢ぐんぜいによる兵火へいかによって社殿しゃでん焼失しょうしつ以後いご荒廃こうはいしたが、江戸えど時代じだいはい姫路ひめじはんあるじ榊原さかきばら忠次ただつぐ老中ろうじゅう小田原おだわらはんあるじ稲葉いなば正則まさのり多田院ただいん御家人ごけにん子孫しそんなどによって社殿しゃでん寄進きしん修復しゅうふくおこなわれた。なかでも清和せいわはじめしょうした徳川とくがわ将軍家しょうぐんけによる崇敬すうけいおおきく、寛文ひろふみ5ねん1665ねん)に4だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家綱いえつなによって寺領じりょう500せき寄進きしんがなされ、寛文ひろふみ7ねん1667ねん)には本殿ほんでん拝殿はいでん随神かんながらもんなどが再建さいけんされた。そして分骨ぶんこつおさめた足利あしかが将軍家しょうぐんけなら歴代れきだい徳川とくがわ将軍しょうぐん位牌いはい代々だいだい本殿ほんでんおさめられることとなった。さらに元禄げんろく8ねん1695ねん)には5だい将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよしによる社殿しゃでん修復しゅうふくがなされ、その徳川とくがわとのつよむすきから「西日にしびこう」ともしょうされた。

そしてまんなかに「せいいち多田ただ権現ごんげん」のかみごうおくられると次第しだい多田院ただいんてらから神社じんじゃ色合いろあいがつよくなっていった。

明治めいじ以降いこう[編集へんしゅう]

明治めいじ時代じだいになると政府せいふによる神仏しんぶつ分離ぶんりれいにより、仏教ぶっきょう寺院じいんであった多田院ただいん従来じゅうらい源満仲みなもとのみつなか源頼光みなもとのよりみつ源頼信みなもとのよりのぶ源頼義みなもとのよりよし源義家みなもとのよしいえ河内かわうちはじめさんだいわせたおおやけまつ神社じんじゃ移行いこうした。そのさい南大門なんだいもんにあった金剛力士こんごうりきしぞう1871ねん明治めいじ4ねん)に満願寺まんがんじに、境内けいだい鐘楼しゅろう奈良ならけん西大寺さいだいじうつされるなどしている。こうして当社とうしゃけんしゃれっせられた。

戦後せんご神社じんじゃ本庁ほんちょう別表べっぴょう神社じんじゃれつされている。

境内けいだい[編集へんしゅう]

本殿ほんでんくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい
かみびょう源満仲みなもとのみつなか頼光よりみつびょう
  • 本殿ほんでん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛文ひろふみ7ねん1667ねん)に徳川とくがわ家綱いえつなによって再建さいけん桁行けたゆきあいだ梁間はりまさんあいだ入母屋いりもやづくりで、こうはいさんあいだし、屋根やねひのきがわ葺。
  • かみびょう - 源満仲みなもとのみつなか源頼光みなもとのよりみつ墳墓ふんぼ。さらにこれをかこむように足利尊氏あしかがたかうじ以下いか歴代れきだい足利あしかが将軍しょうぐん分骨ぶんこつ埋葬まいそうされる。
  • 拝殿はいでん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛文ひろふみ7ねん(1667ねん)に徳川とくがわ家綱いえつなによって再建さいけん桁行けたゆきななあいだ梁間はりまさんあいだ入母屋いりもやづくりで、正面しょうめん背面はいめんこうはいさんあいだし、屋根やねひのきがわ葺。
  • 鬼首おにこうべあらい - 源頼光みなもとのよりみつってきたさけ呑童くびあらったとされるいけ
  • 別当べっとうもん
  • 神輿しんよ
  • ぼうもん
  • 神馬しんめしゃ
  • 宝蔵ほうぞう
  • 横綱よこづなあけぼの奉納ほうのう
  • 横綱よこづな貴乃花たかのはな奉納ほうのう
  • 随神かんながらもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛文ひろふみ7ねん(1667ねん)に徳川とくがわ家綱いえつなによって再建さいけんはちきゃくもんさんあいだいちはちきゃくもん切妻きりづまづくりで、屋根やねほん瓦葺かわらぶき
  • 政所まんどころ殿どの - 1986ねん昭和しょうわ61ねん)に建築けんちくされた儀式ぎしき殿どのけん武道館ぶどうかん
  • 政所まんどころもん
  • 宝物殿ほうもつでんくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - 1929ねん昭和しょうわ4ねん再建さいけんみなもと家宝かほうがたなおにきりまる所蔵しょぞうしている。
  • 徳川とくがわ光圀みつくに奉納ほうのう
  • 遥拝ようはいしょ 1940ねん昭和しょうわ15ねん)10がつ 清和せいわはじめ同族どうぞくかい設立せつりつ記念きねんとして設置せっち
  • 社務しゃむしょ
  • 儀式ぎしき殿どの
  • きゅう多田院ただいん釈迦堂しゃかどうあと
  • 妙法みょうほう蓮華れんげけい記念きねん - 正徳まさのり2ねん1712ねん)、国家こっか安寧あんねい祈願きがんのための法華経ほけきょう読誦とくしょういちまん書写しょしゃひゃく奉納ほうのう記念きねんして建立こんりゅうされた。
  • 東門ひがしもん兵庫ひょうごけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - 徳川とくがわ家綱いえつなにより再建さいけん江戸えど時代じだい初期しょき造営ぞうえい切妻きりづまづくりで、屋根やねほん瓦葺かわらぶき
  • 西門にしもん兵庫ひょうごけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - 徳川とくがわ家綱いえつなにより再建さいけん江戸えど時代じだい初期しょき造営ぞうえい切妻きりづまづくりで、屋根やねほん瓦葺かわらぶき
  • 南大門なんだいもん兵庫ひょうごけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - のべたから4ねん1676ねん再建さいけんきゅう多田院ただいん仁王門におうもん桁行けたゆきさんあいだ梁間はりまあいだ切妻きりづまづくりで、屋根やねほん瓦葺かわらぶき

末社まっしゃ[編集へんしゅう]

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

重要じゅうよう文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 多田ただ神社じんじゃ 3むね建造けんぞうぶつ) - 1966ねん昭和しょうわ41ねん)6がつ11にち指定してい[2]
    • 本殿ほんでん 本社ほんしゃ目録もくろく 1さつむねさつ 4まい
    • 拝殿はいでん 拝殿はいでん目録もくろく 1さつ
    • 随神かんながらもん はちそくもん目録もくろく 1さつ
  • 多田ただ神社じんじゃ文書ぶんしょ(492つう) 43かんつけ 寛文ひろふみさんねん貞享ていきょうねん多田院ただいん文書ぶんしょ修理しゅうり目録もくろく3かん)(古文書こもんじょ) - 鎌倉かまくら時代じだいから桃山ももやま時代じだい文書ぶんしょ1988ねん昭和しょうわ63ねん)6がつ6にち指定してい[3]

くに指定してい史跡しせき[編集へんしゅう]

  • 多田院ただいん - 1951ねん昭和しょうわ26ねん)6がつ9にち指定してい[4]

くに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

兵庫ひょうごけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • みなみもん建造けんぞうぶつ) - 1968ねん昭和しょうわ43ねん)3がつ29にち指定してい[6]
  • 東門ひがしもん建造けんぞうぶつ) - 1968ねん昭和しょうわ43ねん)3がつ29にち指定してい[6]
  • 西門にしもん建造けんぞうぶつ) - 1968ねん昭和しょうわ43ねん)3がつ29にち指定してい[6]
  • ろくしょ神社じんじゃ本殿ほんでん建造けんぞうぶつ) - 1969ねん昭和しょうわ44ねん)3がつ25にち指定してい[6]
  • 厳島いつくしま神社じんじゃ本殿ほんでん建造けんぞうぶつ) - 1969ねん昭和しょうわ44ねん)3がつ25にち指定してい[6]

川西かわにし指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 多田ただ神社じんじゃ随神かんながらもん随神かんながら彫刻ちょうこく) - 1981ねん昭和しょうわ56ねん)1がつ28にち指定してい[5]
  • 多田ただ神社じんじゃ神輿しんよ工芸こうげいひん) - 1974ねん昭和しょうわ49ねん)3がつ30にち指定してい[5]
  • 多田ただ神社じんじゃ本殿ほんでんない宮殿きゅうでん工芸こうげいひん) - 1974ねん昭和しょうわ49ねん)3がつ30にち指定してい[5]
  • 多田ただ神社じんじゃ本殿ほんでんない厨子ずし工芸こうげいひん) - 1974ねん昭和しょうわ49ねん)3がつ30にち指定してい[5]

アクセス[編集へんしゅう]

拝観はいかん時間じかん[編集へんしゅう]

  • 拝観はいかん時間じかん : AM6:00-PM5:00/にちしゅくのみAM9:00-PM4:00(宝物殿ほうもつでん)※宝物殿ほうもつでん現在げんざい閉館へいかんちゅう

川西かわにし源氏げんじまつり[編集へんしゅう]

よんがつには、源満仲みなもとのみつなか源頼光みなもとのよりみつみなもと頼信よりのぶ源義家みなもとのよしいえから源実朝みなもとのさねともまでの歴代れきだい源氏げんじ武将ぶしょう武者むしゃ行列ぎょうれつのある「源氏げんじまつり」が盛大せいだいおこなわれ、ともえ御前ごぜん静御前しずかごぜんらの女性じょせい公募こうぼえらばれた女性じょせいたちがふんする。みなもと霊廟れいびょう性格せいかくから、みなもと個々ここ武士ぶしではなく、清和せいわはじめ武士ぶしがほぼ全員ぜんいん登場とうじょうするところが特徴とくちょう。また、『平家ひらか物語ものがたり』では鹿しかだに密告みっこくしゃとして評判ひょうばんのよくない多田ただこうつなも、当社とうしゃ源氏げんじまつりでは、みなもと頼朝よりとも源義経みなもとのよしつね源義仲みなもとのよしなかなどとおなじく源氏げんじ主要しゅよう武将ぶしょう一人ひとりとして馬上もうえ武者むしゃ行列ぎょうれつ登場とうじょうする。人気にんきがあるのは公募こうぼえらばれた女性じょせいふんするともえ御前ごぜんなどの女性じょせいじんである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 多田ただについては多田ただそう参照さんしょう
  2. ^ 多田ただ神社じんじゃ > 本殿ほんでん - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
    多田ただ神社じんじゃ > 拝殿はいでん - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
    多田ただ神社じんじゃ > 随神かんながらもん - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  3. ^ 多田ただ神社じんじゃ文書ぶんしょよんひゃくきゅうじゅうつう - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  4. ^ 多田院ただいん - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  5. ^ a b c d e 市内しない指定してい文化財ぶんかざい一覧いちらん川西かわにしホームページ)。
  6. ^ a b c d e けん指定してい文化財ぶんかざい一覧いちらん (PDF)兵庫ひょうご県立けんりつ教育きょういく研修けんしゅうしょ)。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]