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里見さとみ義成よしなり

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里見さとみ義成よしなり
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
生誕せいたん もと2ねん1157ねん
死没しぼつ ぶんれき元年がんねん11月28にち1234ねん12月20にち
官位かんい 伊賀いがもりしたがえ
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ
主君しゅくん みなもと頼朝よりともよりゆきじつあさ
氏族しぞく 里見さとみ
父母ちちはは ちち里見さとみよししゅん
兄弟きょうだい おとうと田中たなか義清よしきよ
つま 足利あしかが義清よしきよむすめ
里見さとみよしもとだい井田いだ義継よしつぎ鳥山とりやま時成ときなり豊岡とよおか義行よしゆき里見さとみ義直よしなお美濃みの里見さとみ
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里見さとみ 義成よしなり(さとみ よしなり)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよにかけての上野うえのこく武将ぶしょう里見さとみよししゅん里見さとみ)のみなもと義重よししげまごつま足利あしかが義清よしきよむすめ

生涯しょうがい

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上野うえのこく碓氷うすいぐん里見さとみさと現在げんざい群馬ぐんまけん高崎たかさき)を本拠ほんきょとした。うけたまわ4ねん1180ねん)8がつみなもと頼朝よりとも挙兵きょへいしたさい祖父そふ新田にった義重よししげ寺尾てらおじょう軍勢ぐんぜいあつめて自立じりつ姿勢しせいしめし、その日和見ひよりみ態度たいどつづけたが、きょうにいた義成よしなり頼朝よりともしたが決意けついをして「祖父そふとともに頼朝よりともつため、上野うえのかえる」といつわって京都きょうと脱出だっしゅつ鎌倉かまくらさんじた。このことにより頼朝よりとも信頼しんらいて、鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ新田にった一門いちもん冷遇れいぐうされるなか義成よしなり御家人ごけにんとして重用じゅうようされた。

たてひさ4ねん5月15にち1193ねん6月15にち)、頼朝よりとも富士ふじ巻狩まきがりでのかり休日きゅうじつ(そのかわり1にちちゅう酒宴しゅえんおこなっていた)のさい地元じもと手越てごし黄瀬川おうせがわ遊女ゆうじょたちが問題もんだいこしたために、頼朝よりともから「ゆうくん別当べっとう」ににんぜられて遊女ゆうじょ選抜せんばつから彼女かのじょたちの訴訟そしょう一般いっぱんまでをあつかわせたとう(『吾妻あづまきょう』)。これは、義成よしなり拠点きょてんとしていた碓氷うすいぐん東山ひがしやまみち交通こうつう要所ようしょで、義成よしなり宿駅しゅくえき管理かんりれていたからだとかんがえられている。また、ゆみ名手めいしゅとしてもられ、たてひさ6ねん8がつ16にち1195ねん9月21にち)の鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうでの流鏑馬やぶさめでは2番手ばんて射手しゃしゅえらばれている(『吾妻あづまきょう』)。

元久もとひさ元年がんねん4がつ13にち1204ねん5月14にち)には伊賀いがもりしたがえにんじられている。藤原ふじわら定家さだいえの『明月めいげつ』(同年どうねん4がつ14にちじょう)には、これは京都きょうと守護しゅご平賀ひらがちょうみやびとしきゅうであったとされる。当時とうじ朝廷ちょうていではさんにちたいららん対応たいおうするため、本来ほんらい公卿くぎょう寺社じしゃにんじられていた知行ちぎょう国主こくしゅ武家ぶけであるあさみやびにんじられており、伊賀いがまもる任命にんめい伊賀いが国内こくない鎮圧ちんあつ目的もくてきとしていることから、当時とうじ義成よしなり京都きょうと滞在たいざいしてただちに同国どうこくはいった可能かのうせいたかい。また、近年きんねんになってあさみやび前任ぜんにん京都きょうと守護しゅご義成よしなりである里見さとみ義直よしなお美濃みの里見さとみ)であったとする『ろく守護しゅご次第しだい』という文書ぶんしょ[1]発見はっけんされており、それが事実じじつとすれば、義直よしなお補佐ほさのために上洛じょうらくしていたともかんがえられる。なお、里見さとみふく新田にった信濃しなのはじめである平賀ひらが勢力せいりょくけん地理ちりてき近接きんせつして婚姻こんいん関係かんけいなどでつうじていたとかんがえられており、あさみやび義成よしなり親交しんこうがあったとみられる。当然とうぜんことながら、よくもとひさ2ねん1205ねん)に発生はっせいしたまき事件じけんによる平賀ひらがちょうみやび誅殺ちゅうさつ義成よしなりにもおおきな影響えいきょうあたえ、伊賀いがまもる解任かいにんされて政治せいじてき失脚しっきゃくすることになる。『吾妻あづまきょう』において頼朝よりとも没後ぼつご義成よしなりられないのは、上洛じょうらくまき事件じけんへの連座れんざともな政治せいじてき失脚しっきゃく影響えいきょうであるとかんがえられている。

ぶんれき元年がんねん(1234ねん)11月28にち、78さい死去しきょした。義成よしなり死去しきょしるした『吾妻あづまきょう』の記事きじには、「これ幕下まくした将軍家しょうぐんけ頼朝よりとも)のちょうなり。親疎しんそしまざるものなし」と記述きじゅつされている。

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 熊谷くまがい隆之たかゆきろく探題たんだい任命にんめいこう -『ろく守護しゅご次第しだい』の紹介しょうかいとあわせて-」(『りん』86かん6ごう、2003ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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