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北条ほうじょうはじめせん

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北条ほうじょう はじめせん / 大仏だいぶつ はじめせん
勇猛ゆうもうひゃくにんいちしゅより「よんきゅう ひらむねせん朝臣あそん
わすぐさ こころなるべき たねだにも
わがになどか まかせざるらむ」
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき
生誕せいたん せいもと元年がんねん1259ねん[1]
死没しぼつ 正和しょうわ元年がんねん6月12にち1312ねん7がつ16にち[1]
改名かいめい そうせん法名ほうみょうじゅんあきら[1]、または須昭・じゅんにん
別名べつめい 五郎ごろう通称つうしょう
官位かんい 雅楽ががくまこと式部しきぶしょうすすむしたがえ上野うえのかいしたがえじょうせい陸奥むつまもる[1]したがえよん[2]
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ引付ひきつけしゅ評定ひょうじょうしゅ越訴えっそ奉行ぶぎょうしょうさむらい奉行ぶぎょう引付ひきつけあたま寄合よりあいしゅうけんきょう奉行ぶぎょうろく探題たんだい南方みなかた官途かんと奉行ぶぎょう[1]連署れんしょだい11だい執権しっけん[2]
主君しゅくん 将軍しょうぐん久明ひさあき親王しんのうまもりくに親王しんのう
とくむね北条ほうじょう時宗じしゅう貞時さだときたかとき
氏族しぞく 北条ほうじょう大仏だいぶつりゅう
父母ちちはは ちち北条ほうじょうせんはは北条ほうじょうひろむすめ[2]
兄弟きょうだい そうせんそうやすしさだぼうさだせんひろしさとし
つま 正室せいしつ北条ほうじょうしげるむすめ
継室けいしつ宇都宮うつのみやけいつなむすめ
維貞(貞宗さだむねむすめ北条ほうじょうしつ
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北条ほうじょう はじめせん(ほうじょう むねのぶ)は、鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき北条ほうじょう一門いちもん大仏だいぶつ はじめせん(おさらぎ むねのぶ)ともしょうされる。鎌倉かまくら幕府ばくふだい11だい執権しっけん在職ざいしょくおうちょう元年がんねん10月3にち1311ねん11月13にち) - 正和しょうわ元年がんねん5月29にち1312ねん7がつ4にち))[1]

生涯しょうがい

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北条ほうじょうせん大仏だいぶつせん)の大仏だいぶつ総領そうりょうとして、おとうとらとともに、幕府ばくふ要職ようしょく歴任れきにんした。元服げんぷくときとく宗家そうけ当主とうしゅ北条ほうじょう時宗じしゅうよりいちたまわり、そうせん名乗なの[3]

弘安ひろやす9ねん1286ねん)に引付ひきつけしゅえいひとし5ねん1297ねん)からろく探題たんだい南方なんぽう就任しゅうにんし、いぬいはじめ元年がんねん1302ねん)まで在京ざいきょうよしみもとらんにおいてはとくむね北条ほうじょう貞時さだときだい9だい執権しっけんぜん執権しっけん)、時宗じしゅう)の命令めいれい北条ほうじょう宗方むなかたった[2]

よしみもと3ねん1305ねん)7がつ22にち、その戦功せんこうにより連署れんしょとなる[2]おうちょう元年がんねん(1311ねん)9がつ22にち執権しっけんであった北条ほうじょう死去しきょにより、10月3にち連署れんしょから昇格しょうかくしてだい11だい執権しっけん就任しゅうにんした[2][4]。しかし幕政ばくせいうち管領かんりょう長崎ながさきえん実権じっけんにぎられ、政治せいじをみることができなかった[2]正和しょうわ元年がんねん(1312ねん)、執権しっけんしょく北条ほうじょうひろしときゆず出家しゅっけした。正和しょうわ元年がんねん1312ねん)6がつ12にち死去しきょ[2]享年きょうねん54。

しんせん和歌集わかしゅう』、『たま和歌集わかしゅう』、『つづけ千載せんざい和歌集わかしゅう』などに、23しゅうた収録しゅうろくされている[2]

異説いせつ

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細川ほそかわ重男しげおよしみもとらん背景はいけいむねせん蠢動しゅんどうがあったことを指摘してきし、そうせん貞時さだとき反抗はんこうてきであったという論陣ろんじん展開てんかいしている。この理由りゆうかんしては大仏だいぶつ始祖しそだい3だい執権しっけんである北条ほうじょうやすしとき叔父おじたる北条ほうじょうぼうにまでさかのぼり、ときぼうたい補佐ほさする連署れんしょとして幕政ばくせいおもきをしたが、そのどきよりゆき時宗じしゅう貞時さだときとく宗家そうけ3だいにわたって幕政ばくせいかるんじられた存在そんざいあまんじていたので、よしみもとらん契機けいきとして大仏だいぶつりゅうかえしを目論もくろんで貞時さだとき対立たいりつしたとしている[5]。これにたいしては鈴木すずき宏美ひろみ反証はんしょうしている[6]。しかし、ときぼうあさじきたいむすめつまとしたことで北条ほうじょう一族いちぞくのなかでおもんじられていたとする[7]が、実際じっさい伊賀いが事件じけんともなやすし意向いこう屈服くっぷくして愛妻あいさい前妻ぜんさい伊賀いがひかりむねむすめ)との離縁りえん余儀よぎなくされているようであり(あさじき当初とうしょたい意向いこう反対はんたいしていたことが史料しりょうにみられる[8])、あさちょく以降いこう大仏だいぶつりゅう北条ほうじょう当主とうしゅも、代々だいだい幕府ばくふ政治せいじ要職ようしょくくことはできた[7]ものの、将軍しょうぐん烏帽子えぼしおやとしていちあたえられるとく宗家そうけ赤橋あかばしりゅう北条ほうじょう当主とうしゅたいして、家格かかくてきにはそれよりも一段いちだんひくい、とく宗家そうけ烏帽子えぼしおやとするいえ位置いちづけられていたことが指摘してきされている[9]そうせんのち貞宗さだむね(のち維貞)―こうせんおなじくとくむねへんいみなけている[9]ことから、要職ようしょくにはけるわりにむねへの臣従しんじゅう余儀よぎなくされていた可能かのうせいがあり、うち管領かんりょう平頼綱たいらのよりつな排除はいじょした(ひら禅門ぜんもんらん貞時さだときとく宗家そうけへの権力けんりょく集中しゅうちゅう目指めざした政治せいじおこなった[10]ことにそうせん反感はんかんいていた可能かのうせい否定ひていはできない。

経歴けいれき

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日付ひづけ旧暦きゅうれき

  • 1282ねん弘安ひろやす5ねん)2がつ28にち雅樂ががくまこと任官にんかん。 3月13にち式部しきぶしょうすすむ転任てんにん。8月6にちしたがえ叙位じょい式部しきぶしょうすすむ如元。
  • 1286ねん弘安ひろやす9ねん)6がつ幕府ばくふ引付ひきつけしゅ就任しゅうにん
  • 1287ねん弘安ひろやす10ねん)10がつ評定ひょうじょうしゅ異動いどう
  • 1288ねんせいおう元年がんねん)10がつ7にち上野うえのかい転任てんにん
  • 1293ねんえいひとし元年がんねん)5がつ20日はつか越訴えっそあたまじん兼帯けんたい。7月、しょうさむらい奉行ぶぎょう兼帯けんたい。10月20にち執奏しっそう一員いちいん選定せんてい
  • 1294ねんえいひとし2ねん)8がつ3にちしたがえじょう昇叙しょうじょ上野うえのかい如元。 10月24にち執奏しっそう辞職じしょく
  • 1296ねんえいひとし4)1がつ12にちよんばん引付ひきつけあたまじんと就る。10月、寄合よりあいしゅうきょう奉行ぶぎょう兼帯けんたい
  • 1297ねんえいひとし5ねん)3がつ6にち越訴えっそあたまじん辞職じしょく。 7がつ10日とおかろく探題たんだい南方なんぽう異動いどう
  • 1300ねん正安まさやす2ねん)10がつ1にちせい昇叙しょうじょ上野うえのかい如元。
  • 1301ねん正安まさやす3ねん)9がつ27にち出家しゅっけしたちちせん後任こうにんとして、陸奥むつまもる転任てんにん
  • 1302ねんいぬいはじめもと)1がつ17にちろく探題たんだい退任たいにん。2月18にち一番いちばん引付ひきつけあたまじん就任しゅうにん。 8がつ官途かんと奉行ぶぎょう兼帯けんたい
  • 1303ねんよしみもと元年がんねん)8がつ27にち越訴えっそ奉行ぶぎょう兼帯けんたい
  • 1305ねんよしみもと3ねん)7がつ22にち連署れんしょ異動いどう
  • 1308ねんのべけい元年がんねん)7がつ19にちしたがえよん昇叙しょうじょ陸奥むつまもる如元。
  • 1311ねんおうちょうもと)10がつ3にち執権しっけん就任しゅうにん
  • 1312ねん正和しょうわもと)5がつ29にち執権しっけん退任たいにん出家しゅっけ。6月12にち卒去そっきょ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f 奥富おくとみ 1990, p. 554.
  2. ^ a b c d e f g h i 奥富おくとみ 1990, p. 555.
  3. ^ 山野さんや 2012, p.182 脚注きゃくちゅう(27). なお、「せん」のちちせんよりいだものとみられる。
  4. ^ 永井ながい 2003, p. 73.
  5. ^ 永井ながい 2003, p. 43.
  6. ^ 北条ほうじょう研究けんきゅうかい へん北条ほうじょう系譜けいふ人名じんめい辞典じてん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2001ねん 
  7. ^ a b 高橋たかはしまき一朗いちろう ちょ大仏だいぶつあさじき」、朝日新聞社あさひしんぶんしゃ へんちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん』1994ねんhttps://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%9C%9D%E7%9B%B4-1063208 
  8. ^ 明月めいげつ』2がつ22にちじょう
  9. ^ a b 山野さんや 2012, p.182 脚注きゃくちゅう(27).
  10. ^ 湯浅ゆあさ 2012, p. 196, 「北条ほうじょう貞時さだときによるとくむね専制せんせい政治せいじ」.

参考さんこう文献ぶんけん

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書籍しょせき
  • 永井ながいすすむ金沢かなざわさだあらわ吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、2003ねんISBN 4-642-05228-3 
  • 奥富おくとみ敬之たかゆき ちょ北条ほうじょうはじめせん」、安田やすだ元久もとひさ へん鎌倉かまくら室町むろまち人名じんめい事典じてん』(コンパクト)新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1990ねん、554-555ぺーじISBN 978-4-404-01757-4 
  • 湯浅ゆあさ治久はるひさこうむ合戦かっせん鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼう吉川弘文館よしかわこうぶんかん動乱どうらん東国とうごく3〉、2012ねんISBN 978-4-642-06442-2 
  • 山野やまの龍太郎りゅうたろう ちょ鎌倉かまくら武士ぶし社会しゃかいにおける烏帽子えぼし親子おやこ関係かんけい」、山本やまもと隆志たかし へん日本にっぽん中世ちゅうせい政治せいじ文化ぶんかろん射程しゃてい思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2012ねんISBN 978-4-7842-1620-8 
史料しりょう
先代せんだい
北条ほうじょうせん
どきぼうりゅう北条ほうじょうだい4だい
大仏だいぶつりゅう3だい
次代じだい
北条ほうじょう維貞