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北条ほうじょうせん

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北条ほうじょうせん
北条ほうじょうよりゆき大仏だいぶつせん菊池きくち容斎ようさい前賢ぜんけん故実こじつ』、『徒然草つれづれぐさちゅう逸話いつわより)
生誕せいたん こよみひとし元年がんねん1238ねん[1]
死没しぼつ げんとおる3ねん6月30にち1323ねん8がつ2にち[1]
改名かいめい どきちゅうはつ[1][2]せんしのぶあきら法名ほうみょう[1]
別名べつめい 大仏だいぶつせん武蔵むさし五郎ごろう通称つうしょう[1]ながえんてらしのぶあきら法名ほうみょう[1]
官位かんい 陸奥むつまもる[1]遠江とおとうみもり
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ引付ひきつけあたまじん[1]連署れんしょ[1]
氏族しぞく 北条ほうじょう大仏だいぶつりゅう
父母ちちはは ちち北条ほうじょうちょうじきはは不明ふめい
兄弟きょうだい 朝房ともふさせん多数たすう
そうせんそうやすしさだぼうさだせん
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北条ほうじょう せん(ほうじょう のぶとき)は、鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき武将ぶしょう北条ほうじょう一門いちもん鎌倉かまくら幕府ばくふ連署れんしょ大仏だいぶつ せん(おさらぎ のぶとき)ともしょうされる。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

ちち大仏だいぶつりゅう北条ほうじょうである北条ほうじょうちょうじきはじめはどきただし(ときただ、通称つうしょう武蔵むさし五郎ごろう)と名乗なのっていた[1][2][注釈ちゅうしゃく 1]が、ぶんひさし2ねん1265ねん6月11にち引付ひきつけしゅになった段階だんかいではせん改名かいめいしていたという[1]

建治けんじ元年がんねん1277ねん引付ひきつけあたまじんになる。弘安ひろやす10ねん1287ねん)に執権しっけん北条ほうじょう貞時さだとき連署れんしょつとめる。その陸奥むつまもる遠江とおとうみまもりなどを兼任けんにん正安まさやす3ねん1301ねん)に出家しゅっけ

徒然草つれづれぐさだい215だんあらわれる、わかせん最明寺さいみょうじ入道にゅうどう北条ほうじょうよりゆき)の邸宅ていたくまねかれ、しょう土器どきのこっていた味噌みそさかなしゃくをかわしたというエピソードは、当時とうじ鎌倉かまくら武士ぶし質素しっそ生活せいかつつたえるものとしてよくられている。

和歌わかにもすぐれており、『ぞく拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』、『しんせん和歌集わかしゅう』、『たま和歌集わかしゅう』、『つづけ拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』、『風雅ふうが和歌集わかしゅう』、『しん千載せんざい和歌集わかしゅう』、『しん拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』、『やなぎふう和歌わかしょう』、『ぞくげん和歌集わかしゅう』などの歌集かしゅうにゅうくびしている。

細川ほそかわ重男しげお霜月しもづき騒動そうどう背後はいごせん影響えいきょうがあり、平頼綱たいらのよりつな結託けったくしてはん安達あだち勢力せいりょく煽動せんどうし、安達あだち泰盛やすもり誅伐ちゅうばつ関与かんよしていたことを指摘してきしている。[よう出典しゅってん]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ せん以後いごそうせん維貞こうせんが、時宗じしゅう貞時さだときたかときへんいみなけているように、大仏だいぶつりゅう北条ほうじょう当主とうしゅは、将軍しょうぐん烏帽子えぼしおやとしていちあたえられるとく宗家そうけ赤橋あかばしりゅう北条ほうじょう当主とうしゅたいし、金沢かなざわりゅう北条ほうじょう当主とうしゅとともに、それよりもいちランクひくい、とく宗家そうけ烏帽子えぼしおやとするいえ位置いちづけられていたとの指摘してきがなされており[3]、「ときちゅう」の名乗なのりもその方針ほうしんしたがってとく宗家そうけ当主とうしゅ(=北条ほうじょうよりゆき?)から「」のあたえられたものである可能かのうせいがある(金沢かなざわりゅうではじつときやすしときどきかたあらわ時宗じしゅう烏帽子えぼしおやとして「」のけていることが『吾妻あづまきょう』からかっている)。ただし、「」の北条ほうじょうつうであって一族いちぞくないでも共有きょうゆうされることがおおいため、烏帽子えぼしおやについての明確めいかく史実しじつ判明はんめいしていないせん場合ばあいだと、特別とくべつとく宗家そうけからのへんいみなとらがたいところもある[4]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 奥富おくとみ敬之たかゆき ちょ北条ほうじょうせん」、安田やすだ元久もとひさ へん鎌倉かまくら室町むろまち人名じんめい事典じてん』(コンパクト)新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1990ねん、551ぺーじ 
  2. ^ a b ぐんしょ系図けいずしゅう』の北条ほうじょう系図けいずより。
  3. ^ 山野やまの龍太郎りゅうたろう ちょ鎌倉かまくら武士ぶし社会しゃかいにおける烏帽子えぼし親子おやこ関係かんけい」、山本やまもと隆志たかし へん日本にっぽん中世ちゅうせい政治せいじ文化ぶんかろん射程しゃてい思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2012ねん、182ぺーじ 脚注きゃくちゅう(27)
  4. ^ 角田つのだ朋彦ともひこへんいみなはなし」『だんかづら』さんよん、2004ねん、19ぺーじ 
先代せんだい
北条ほうじょうちょうじき
どきぼうりゅう北条ほうじょうだい3だい
大仏だいぶつりゅう2だい
次代じだい
北条ほうじょうはじめせん