北条ほうじょうさだせん

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北条ほうじょうさだせん
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき
生誕せいたん しょう
死没しぼつ もとおう2ねん1320ねん5月
官位かんい 丹波たんばもり
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ
氏族しぞく 大仏だいぶつりゅう北条ほうじょう
父母ちちはは ちち北条ほうじょうせん(※異説いせつあり)、ははしょう
兄弟きょうだい そうせんそうやすしさだぼうさだせん
どきえいこうさださだ女子じょし
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北条ほうじょう さだせん(ほうじょう さだのぶ)は、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき武将ぶしょう北条ほうじょう一門いちもんちち大仏だいぶつりゅう北条ほうじょうせんとされるが、北条ほうじょうまさしただし(まさただ)[注釈ちゅうしゃく 1]とする系図けいずもある。

元服げんぷくときとく宗家そうけ当主とうしゅ北条ほうじょう貞時さだときよりへんいみな(「さだ」の1)をけてさだせん名乗なの[2][3][注釈ちゅうしゃく 2]。もう一方いっぽうの「せん」のせん由来ゆらいするとかんがえられる。

正宗まさむね寺本てらもと北条ほうじょう系図けいず」、佐野さのほん北条ほうじょう系図けいず」、前田まえだいくとくかい所収しょしゅうの「たいら系図けいず」による記述きじゅつ[3]と「おおやけ衡公」における正和しょうわ4ねん1315ねん)の鎌倉かまくら大火たいか記事きじで「丹波たんばまもるさだせん屋敷やしき類焼るいしょうした」とかれていることから、官途かんと丹波たんばまもるであったと推定すいていされる。にはどきえいこうさださだ女子じょしがいたとつたわる。

政治せいじてき活動かつどうとしては、正和しょうわ2ねん1313ねん)、おい北条ほうじょう維貞交替こうたい引付ひきつけあたまじん就任しゅうにん死去しきょするもとおう2ねん1320ねん5月までつとめたとされる。

ぞくせん戴和歌集かしゅう」「つづけ拾遺しゅうい和歌集わかしゅう」に、それぞれいちしゅ採録さいろくされている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ この場合ばあい系譜けいふ北条ほうじょうぼうかいりゅう大仏だいぶつりゅう)―どきもりかいりゅう)―どきけいときあらわせいちゅう(―さだせん)となる[1]
  2. ^ 貞時さだときだいには「さだ」のが「とくむね御家人ごけにん」というかたち授与じゅよされる図式ずしき成立せいりつしていたことが指摘してきされている[4]なお貞時さだときとく宗家そうけ当主とうしゅであった期間きかん1284ねん-1311ねん)の元服げんぷくということをかんがえると、はやくとも1270ねん前後ぜんごまれと推定すいていされる(さだぼうおとうとであればさだぼうまれたぶんひさし9ねん1272ねん以降いこうとなる)。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 世界せかい帝王ていおう事典じてん 北条ほうじょうときぼうりゅう
  2. ^ 紺戸こんとあつし武家ぶけ社会しゃかいにおける加冠かかんいち付与ふよ政治せいじせいについて」『中央ちゅうおう史学しがく』2ごう、1979ねん、21ぺーじ 
  3. ^ a b 細川ほそかわ重男しげお (2009ねん6がつ11にち). “しんてい増補ぞうほ鎌倉かまくら政権せいけん上級じょうきゅう職員しょくいんひょう」 その78-大仏だいぶつさだせん”. 2020ねん3がつ4にち閲覧えつらん
  4. ^ 角田つのだ朋彦ともひこへんいみなはなし」『だんかづら』さんよん再興さいこう中世ちゅうせい前期ぜんき勉強べんきょうかい、2004ねん、21ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 北条ほうじょう研究けんきゅうかい へん北条ほうじょう系譜けいふ人名じんめい辞典じてん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2001ねん、177ぺーじ