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伊賀いが事件じけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

伊賀いが事件じけん(いがしじけん)は、鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんきさだおう3ねん1224ねん)6がつからうるう7がつにかけて伊賀いがによってこった鎌倉かまくら幕府ばくふ政変せいへん伊賀いがへんともいう。

経過けいか

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さだおう3ねん(1224ねん)6がつ13にちだい2だい執権しっけん北条ほうじょうよしとき急死きゅうし当時とうじ長男ちょうなんやすしときおとうとどきぼうろく探題たんだいとしてきょうにいた。訃報ふほうは16にちきょうつたえられ、たいは17にちに、ときぼうは19にちきょう。26にち鎌倉かまくらはいったが、たいはまず由比ヶ浜ゆいがはま宿やどをとり、よく27にち自邸じていもどっている[1]。そのあいだの18にち葬儀そうぎおこなわれ、そのさい兄弟きょうだい序列じょれつあさときおもときせいむらじつよしゆうじゅんとなっており、後妻ごさいやすし継母けいぼ)・伊賀いがほう長子ちょうしであるせいむら嫡子ちゃくしではなく庶子しょし一人ひとりとしてあつかわれている[2]。なお、『吾妻あづまきょう』ではたい鎌倉かまくら到着とうちゃくまで10日とおかようしており緊急きんきゅう事態じたいにしてはおそいが、『れきあいだ』ではたいはしばらく伊豆いず逗留とうりゅうし、ときぼうがまず鎌倉かまくらかえって安全あんぜん確認かくにんしたのちたい鎌倉かまくらはいったとある[1]

たいは、28にち鎌倉かまくら殿どの後見こうけんである北条ほうじょう政子まさこ御所ごしょまねかれた。政子まさこたい執権しっけん任命にんめいすることをめ、大江広元おおえのひろもともそれに賛同さんどうしている。だが当時とうじ鎌倉かまくらではたいせいむらつといううわさながれ、せいむら周辺しゅうへん騒然そうぜんとなっていた。また伊賀いがほうたい家督かとく継承けいしょう反対はんたいしているといううわさながれ、風聞ふうぶんによれば伊賀いがほう実子じっしせいむら執権しっけんしょくけて、あに伊賀いがひかりむね後見こうけんさせ、むすめ婿むこ一条いちじょうみのるみやび将軍しょうぐん擁立ようりつしようとしているということだった[3]

7がつになると、ひかりむねとそのおとうとたちは鎌倉かまくら御家人ごけにんなかでも実力じつりょくがありせいむら烏帽子えぼしおやである三浦みうらよしむらやしきにたびたび出入でいりした。まんいちよしむらせいむらひかりしゅうしゅむすべば幕府ばくふ転覆てんぷくしかねないと憂慮ゆうりょした政子まさこは、17にち深夜しんやにひそかによしむらたずね、せいむらひかりしゅうとの関係かんけい詰問きつもんし、ひかりむねらと謀反むほんくわだてているのでなければ事態じたい収拾しゅうしゅう協力きょうりょくせよとせまった。よしむらせいむら謀反むほん気持きもちはないと弁明べんめいするとともに、ひかりむね兄弟きょうだい暴走ぼうそう制止せいしするとちかった[3]

うるう7がつ1にち政子まさこさんとられてたいていはいり、よしむら以下いか宿老しゅくろう招集しょうしゅう政子まさこ謀反むほん計画けいかく存在そんざいかたり、謀反むほんふせぐために協力きょうりょくしてほしいとびかけた。御家人ごけにんたちがたい支持しじしたことで大勢おおぜいけっし、伊賀いがほう伊豆いず北条ほうじょうへ、ひかりむね信濃しなのへ、ひかりむねおとうとあさぎょう光重みつしげ九州きゅうしゅう配流はいるとなり、公卿くぎょうであるじつみやび朝廷ちょうてい配慮はいりょして京都きょうと送還そうかんされたのち越前えちぜん配流はいるとなった[3]

しかしかれらにかつげられそうになったとうせいむら処罰しょばつまぬか[3]のち評定ひょうじょうしゅ引付ひきつけあたまじん連署れんしょなど要職ようしょくだい7だい執権しっけん就任しゅうにんし、終生しゅうせいとく宗家そうけ忠実ちゅうじつ姿勢しせいつらぬいた[4]。また、主犯しゅはんとして処罰しょばつけたひかりむねやそのおとうとあさぎょう光重みつしげも、よくよしみろく元年がんねん1225ねん)7がつ政子まさこ死後しごもなく8がつから12月に幕政ばくせいへの復帰ふっきゆるされるなど、寛大かんだい措置そちられた。『明月めいげつ』によるとじつみやびつまだったよし伊賀いがほうむすめも、同年どうねん11がつ以降いこう公家くげ唐橋からはしとおるとき再婚さいこんするため入京にゅうきょうしている。伊賀いがほうについても、よしみろく3ねん1227ねん)2がつじつみやびつまいもうときょう公家くげ西園寺さいおんじみのるゆう結婚けっこんしており[5]、その前年ぜんねんにそのはは入京にゅうきょうしていることから、そのはは伊賀いがほうとする見解けんかいもある[6][7]

これについては、まだ幕府ばくふ黎明れいめい体制たいせい安定あんていしておらず、あまりにも厳重げんじゅう処分しょぶんくだせば波紋はもんひろがり幕府ばくふ基盤きばんらぐという憂慮ゆうりょもとづく裁定さいていだったとする解釈かいしゃく[8]や、将軍しょうぐん後継こうけいとしてきょうよりむかえられたさんとら九条くじょうよりゆきけい側近そっきんむすめ婿むこでもあった一条いちじょうみのるみやびすで鎌倉かまくら内外ないがい御家人ごけにんつよ人脈じんみゃく形成けいせいしており、たい武力ぶりょく衝突しょうとつ回避かいひはんたいあぶしの意味いみふくめて慎重しんちょう対応たいおうつづけたとする見方みかたもある[9]

一方いっぽうで、通説つうせつ幕府ばくふ編纂へんさんしょ吾妻あづまきょうさだおう3ねん6がつ28にちじょうしるされた伊賀いが謀反むほんの「風説ふうせつ」を事実じじつ認定にんていしたうえでのせつだが、『吾妻あづまきょう』の記事きじちゅうでは伊賀いが謀反むほんくわだてたとはいち明言めいげんされておらず、鎌倉かまくらりのまえ事前じぜん調査ちょうささせたやすしによって「謀反むほんうわさ事実じじつではなく、さわてるな」と伊賀いが謀反むほん否定ひていされており、政子まさこ伊賀いが処分しょぶんされたことのみがしるされている。そのため、この事件じけんはすでに将軍家しょうぐんけとの血縁けつえんもなく、北条ほうじょう本家ほんけとの関係かんけい希薄きはくとなって影響えいきょうりょく低下ていかおそれた政子まさこまき事件じけんおな構図こうずつくげて、後家ごけとしてつよ立場たちばことになる伊賀いがほう強引ごういんつぶせそうとして仕掛しかけたでっちげで、たい政子まさこ画策かくさくにはらずに事態じたい沈静ちんせいさせたとするせつとなえられている。北条ほうじょう家督かとく問題もんだい本来ほんらい後家ごけである伊賀いがほう中心ちゅうしんとなって解決かいけつされるべき問題もんだいであり、あねとはいえ頼朝よりともとつ北条ほうじょうはなれた政子まさこ介入かいにゅう不当ふとうなものであったとしている[10][2]。このせつについては、言及げんきゅうしつつも「通説つうせつもなお傾聴けいちょうすべきであろう」として、その推測すいそくあやぶむ見方みかたもあるが、とくにその根拠こんきょしめされていない[11]一方いっぽうで、陰謀いんぼうがあったかはともかくとして冤罪えんざいだった可能かのうせいたかいとして支持しじする見方みかたもある[3]

なお先妻せんさい正室せいしつひめまえ長子ちょうしであるあさはこの事件じけんさいにはうごかなかったものの、『たたえ睿説そう』に収録しゅうろくされているあさよんじゅうきゅうにち仏事ぶつじおこなったさい仏前ぶつぜんみあげられた言葉ことばしるした「慈父じふよんじゅうきゅうにち表白ひょうはく」には日付ひづけうるう7がつ2にちとあり、『吾妻あづまきょう』に7がつ30にちおこなわれたとある公的こうてきよんじゅうきゅうにち仏事ぶつじとはべつあさ自身じしん施主せしゅとしたよんじゅうきゅうにち仏事ぶつじおこなっている[12]。また後年こうねんには評定ひょうじょうしゅへの就任しゅうにん辞退じたいするなど、たい対抗たいこうするうごきをせている。

事件じけんよくよしみろく元年がんねん(1225ねん)6がつには大江広元おおえのひろもとが、7がつには北条ほうじょう政子まさこ死去しきょしており、たい主導しゅどう体制たいせいかたまるまでにはなおも時間じかんようすることになる。

事件じけんおもなが

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とく注記ちゅうきのないものは『吾妻あづまきょう』による。日付ひづけすべさだおう3ねんげんひとし元年がんねん)(旧暦きゅうれき)による[9]

  • 6月13にち 北条ほうじょうよし急死きゅうしただちにろく探題たんだいにいる北条ほうじょうやすしぼうたいして使者ししゃされる。伊賀いがほう出家しゅっけ
  • 6月16にち 鎌倉かまくらからの使者ししゃろく探題たんだいのある京都きょうと到着とうちゃく
  • 6月17にち やすし未明みめいうしこく)にろく出立しゅったつして鎌倉かまくらかう。
  • 6月18にち 葬儀そうぎおこなわれる。葬儀そうぎさい兄弟きょうだい序列じょれつは、北条ほうじょうちょうじゅうせいむらじつよしゆうじゅん
  • 6月19にち ぼうろく出立しゅったつして鎌倉かまくらかう。
  • 6月26にち やすしときぼう足利あしかがよしとも鎌倉かまくらはいるが、この由比ヶ浜ゆいがはま別邸べっていまる。なお『れきあいだ』によると、たい鎌倉かまくらへの下向げこう途中とちゅう伊豆いずこく本領ほんりょうのある北条ほうじょうか)に逗留とうりゅうして、ときぼうをまず鎌倉かまくらりさせ、安全あんぜん確認かくにんしたのちにこの鎌倉かまくらりしたとしている。
  • 6月27にち やすし鎌倉かまくら本邸ほんていはいる。
  • 6月28にち やすし北条ほうじょう政子まさこていされてときぼうともに「軍営ぐんえい後見こうけん」(執権しっけん別名べつめい)ににんぜられる[注釈ちゅうしゃく 1]たいせいむらつといううわさながれ、せいむら周辺しゅうへん騒然そうぜんとなる。またせいむら外戚がいせき伊賀いがひかりそう兄弟きょうだい執権しっけんのことについていきどおり、伊賀いがほうむすめ婿むこ一条いちじょうみのるみやび将軍しょうぐんに、せいむら執権しっけんにして、伊賀いが兄弟きょうだい政治せいじおこなわせることをひそかにくわだてているといううわさながれる。たいかた人々ひとびとがそのうわさたいげるが、たいはそのようなうわさ事実じじつではないとべて、おどろいたりさわいだりせず、必要ひつようのあるもの以外いがいたいていさんじることをきんじた。
  • 6月29にち 北条ほうじょうもりときぼう長男ちょうなん)・北条ほうじょうやすし長男ちょうなん)が上洛じょうらく両人りょうにん世間せけんうわさいて鎌倉かまくらにいるべきではないかとったが、たいぼううながして上洛じょうらくさせた。
  • 7がつ5にち 伊賀いが兄弟きょうだい三浦みうらよしむらかん出入でいりし、人々ひとびとなに密談みつだんをしているのではないかとあやしむ。伊賀いが兄弟きょうだいよる伊賀いがほうのいるきゅうていあつまりなにかをえないことをちかっていたと女房にょうぼうたいげるが、たい動揺どうようせず兄弟きょうだいわらないことをちかうのは神妙しんみょうなことだとう。
  • 7がつ13にち明月めいげつ』によると、この時点じてんときぼうさい入京にゅうきょうしており、よくよしみろく元年がんねん(1225ねん)6がつ15にちまでろく探題たんだいとして在京ざいきょうして活動かつどうしている。
  • 7がつ17にち 鎌倉かまくら近郊きんこうものどもがあつまり騒動そうどうとなる。政子まさこむらてい直接ちょくせつ訪問ほうもんして事実じじつ関係かんけいいただす。よしむらなにらないとこたえるが、政子まさこはなおもめ、よしむらせいむらにはまった反逆はんぎゃくしんはないがひかりむねらはなにかんがえがあるようなのでわたし制止せいしするとい、政子まさこかえらせる。
  • 7がつ18にち よしむらたいてい訪問ほうもんして釈明しゃくめいする。たいは、自分じぶんせいむら敵意てきいっていないとこたえる。
  • 7がつ30にち よんじゅうきゅうにち仏事ぶつじおこなわれる。よる騒動そうどうとなり御家人ごけにんはた甲冑かっちゅうきそはしるが、実際じっさいには合戦かっせんなどこってないので夜明よあけにはしずまる。
  • うるう7がつ1にち さんとら政子まさこ臨席りんせき宿老しゅくろう会議かいぎたいていにて開催かいさい。そのむら召喚しょうかんされ、事実じじつじょう軟禁なんきんされる。葛西かさい清重きよしげ中条ちゅうじょう家長かちょう小山こやま朝政ともまさ結城ゆうき朝光ともみつらも召集しょうしゅうされ、あらためて一同いちどう二心ふたごころいことが確認かくにんされる。
  • うるう7がつ2にちたたえ睿説そう収録しゅうろくの「慈父じふよんじゅうきゅうにち表白ひょうはく」によると、あさ自身じしん施主せしゅとしたよしよんじゅうきゅうにち仏事ぶつじおこなう。
  • うるう7がつ3にち やすしていでの宿老しゅくろう会議かいぎにおいてときぼう[注釈ちゅうしゃく 2]大江おおえ広元ひろもと同席どうせきうえで、伊賀いがほう伊賀いが兄弟きょうだい処分しょぶん決定けっていされる。ひかりむねらがじつみやび将軍しょうぐんにしようとする陰謀いんぼう露見ろけんしたとして、じつみやび公卿くぎょうのため幕府ばくふ勝手かって処分しょぶんできないため京都きょうと送還そうかん朝廷ちょうてい処分しょぶんゆだね、伊賀いがほう伊賀いが兄弟きょうだい流罪るざいとし、そのものつみわないとされる。
  • うるう7がつ23にち じつみやび京都きょうと送還そうかんおこなわれ、伊賀いがちょうゆき光重みつしげ兄弟きょうだいひかりむね宗義しゅうぎおいひかりもり同行どうこうゆるされる。みなもとちかしぎょう伊具いぐ盛重もりしげおおせによらず私的してき扈従こしょうしたため、のちにそのことがつみわれて出仕しゅっしめられ、所領しょりょうはなたれている。
  • うるう7がつ29にち こうむね政所まんどころ執事しつじしょく解任かいにんし、所領しょりょう52かしょ没収ぼっしゅうする。母方ははかた叔父おじ二階堂にかいどうこうむら囚人しゅうじんとしてあずかる。
  • 8がつ22にち じつみやびが16にちきょういたとのらせがもたらされる。
  • 8がつ27にち こうむね処刑しょけいされるとのうわさなが騒動そうどうとなるが、事実じじつではなかったのでもなくしずまる。
  • 8がつ28にち皇帝こうていしょう』によると、きょう騒動そうどうがありあさぎょう光重みつしげろくめられる。
  • 8がつ29にち 伊賀いがほう伊豆いずこく北条ほうじょうぐんひかりむね信濃しなのこくにそれぞれ配流はいるされる。あさぎょう光重みつしげときもりどき囚人しゅうじんとしてあずかり、きょうから九州きゅうしゅうへの配流はいる決定けっていする。
  • 10がつ10日とおか 朝議ちょうぎにてじつみやび越前えちぜんこくへの配流はいる決定けっていじつみやび公卿くぎょうであるため、幕府ばくふ奏請そうせい朝廷ちょうていがそのままれて朝議ちょうぎ決定けっていとするかたちられた)。
  • 10月29にち じつみやびかいかんされ越前えちぜんこく配流はいる
  • 11月9にち きょうかれていたあさぎょう光重みつしげ九州きゅうしゅう配流はいるされる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 明月めいげつ』などによると、7がつ13にち時点じてんときぼうさい入京にゅうきょうしており、よくよしみろく元年がんねん(1225ねん)6がつ15にちまでろく探題たんだいとして在京ざいきょうして活動かつどうしている。そのあいだ時期じき関東かんとう下知げじじょうたい単独たんどくしょばん発給はっきゅうされており、ときぼうたいならんで連署れんしょおこなうのはよしみろく元年がんねん鎌倉かまくら下向げこうしてからのことであるため、ときぼう連署れんしょふく執権しっけん就任しゅうにん実際じっさいにはよしみろく元年がんねん6がつ以降いこうかんがえられる[13]
  2. ^ 明月めいげつ』などによると、7がつ13にち時点じてんときぼうさい入京にゅうきょうしており、よくよしみろく元年がんねん(1225ねん)6がつ15にちまでろく探題たんだいとして在京ざいきょうして活動かつどうしているため、『吾妻あづまきょう』の記述きじゅつあやまりとかんがえられる[13]

出典しゅってん

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  1. ^ a b 山本やまもとみなみ史伝しでん 北条ほうじょうよし小学館しょうがくかん、2021ねん、263ぺーじ 
  2. ^ a b 永井ながいすすむ鎌倉かまくら幕府ばくふ転換てんかんてん 吾妻あづまきょう」をみなおす日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい、2000ねん、135-159ぺーじ 
  3. ^ a b c d e 呉座ござ勇一ゆういち頼朝よりともよしとき 武家ぶけ政権せいけん誕生たんじょう講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、2021ねん、316-317ぺーじ 
  4. ^ 高橋たかはしまき一朗いちろう北条ほうじょうよりゆき吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、2013ねん、151ぺーじ 
  5. ^ 明月めいげつよしみろく3ねん(1227ねん)2がつ8にちじょう
  6. ^ 近藤こんどうしげるいち鎌倉かまくら幕府ばくふ朝廷ちょうてい岩波いわなみ新書しんしょ、2016ねん、44ぺーじ
  7. ^ 近藤こんどうしげるいち執権しっけん 北条ほうじょうよし三笠みかさ書房しょぼう 知的ちてききかた文庫ぶんこ、2021ねん、189-190ぺーじ
  8. ^ うえ横手よこてまさたかし鎌倉かまくら時代じだい そのひかりかげ吉川弘文館よしかわこうぶんかん歴史れきし文化ぶんかライブラリー〉、1994ねん、198ぺーじ 
  9. ^ a b 石井いしい清文きよふみ鎌倉かまくら幕府ばくふ連署れんしょせい研究けんきゅう岩田いわた書院しょいん、2020ねん、41-50ぺーじISBN 978-4-86602-090-7 
  10. ^ 永井ながいすすむ伊賀いが事件じけん歴史れきしてき意義いぎ」『金沢かなざわ北条ほうじょう研究けんきゅう八木やぎ書店しょてん、2006ねん原著げんちょ1997ねん)、59-83ぺーじ 
  11. ^ 目崎めさき徳衛とくえ史伝しでん 後鳥羽ごとばいん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2001ねん、249ぺーじ 
  12. ^ 山本やまもと史伝しでん 北条ほうじょうよし小学館しょうがくかん、2021ねん、254-258ぺーじ・265-268ぺーじ
  13. ^ a b 川合かわいやすし日本にっぽん中世ちゅうせい歴史れきし3 源平げんぺい内乱ないらん公武こうぶ政権せいけん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2009ねん、266-267ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 永井ながいすすむ伊賀いが事件じけん歴史れきしてき意義いぎ」『金沢かなざわ北条ほうじょう研究けんきゅう八木やぎ書店しょてん、2006ねん原著げんちょ1997ねん
  • 永井ながいすすむ鎌倉かまくら幕府ばくふ転換てんかんてん 吾妻あづまきょう」をみなおす日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい、2000ねん
  • 川合かわいやすし日本にっぽん中世ちゅうせい歴史れきし3 源平げんぺい内乱ないらん公武こうぶ政権せいけん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2009ねん
  • 近藤こんどうしげるいち鎌倉かまくら幕府ばくふ朝廷ちょうてい シリーズ 日本にっぽん中世ちゅうせい岩波いわなみ新書しんしょ、2016ねん
  • 石井いしい清文きよふみ鎌倉かまくら幕府ばくふ連署れんしょせい研究けんきゅう岩田いわた書院しょいん、2020ねん
  • 呉座ござ勇一ゆういち頼朝よりともよしとき 武家ぶけ政権せいけん誕生たんじょう講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、2021ねん
  • 近藤こんどうしげるいち執権しっけん 北条ほうじょうよしとき 危機きき武家ぶけ政治せいじいしずえきず三笠みかさ書房しょぼう 知的ちてききかた文庫ぶんこ、2021ねん
  • 山本やまもとみなみ史伝しでん 北条ほうじょうよしとき 武家ぶけ政権せいけん確立かくりつした権力けんりょくしゃ実像じつぞう小学館しょうがくかん、2021ねん

関連かんれん項目こうもく

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