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みなもとちかしぎょう

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みなもとちかしぎょう
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん 不明ふめい[1]
死没しぼつ 不明ふめい
別名べつめい さとしいん
官位かんい したがえ河内かわうちまもる式部しきぶ大夫たいふ
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ
主君しゅくん 源実朝みなもとのさねとも藤原ふじわらよりゆきけい宗尊親王むねかたしんのう
氏族しぞく 河内かわうちはじめ
父母ちちはは ちちみなもと光行みつゆきさびいん
兄弟きょうだい おやぎょうさび宣行のぶゆきなかこう建礼門院けんれいもんいん美濃みの
やしなえ兄弟きょうだい光重みつしげ
義行よしゆきひじりさとしくだりおもねみなもと知行ともゆき)のちち
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みなもと ちかしぎょう(みなもと の ちかゆき)は、鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき文人ぶんじん政治せいじ古典こてん学者がくしゃ歌人かじん。いわゆるかわ内方ないほう一人ひとり大和やまとまもるみなもと光行みつゆき清和せいわはじめ義忠よしただりゅうみなもと義行よしゆき

略歴りゃくれき

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ちちのちいで家業かぎょうである『源氏物語げんじものがたり』の研究けんきゅうすすめ、う「河内かわうちほん」を大成たいせいさせた。朝廷ちょうていからは河内かわうちまもる式部しきぶ大夫たいふ任官にんかんされ、きょくしたがえであった。鎌倉かまくら幕府ばくふ政所まんどころ別当べっとうであったちち交替こうたい鎌倉かまくら下向げこうし、源実朝みなもとのさねとも藤原ふじわらよりゆきけい宗尊親王むねかたしんのうさんだいつかえ、歴代れきだい和歌わか奉行ぶぎょう担当たんとううけたまわひさし3ねん1221ねん)の承久じょうきゅうらんではちち光行みつゆきいんかたさんじんしていたが、その助命じょめい嘆願たんがんしてゆるされた。さだおう3ねん1224ねん)の伊賀いが事件じけんにおいて一条いちじょうみのるみやび京都きょうと送還そうかんおこなわれたさいに、おおせによらず私的してき扈従こしょうしたため、のちにそのことがつみわれて出仕しゅっしめられ、所領しょりょうはなたれている。

おも交友こうゆう関係かんけい

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藤原ふじわら定家さだいえ源実朝みなもとのさねとも藤原ふじわらよりゆきけいみなもとなかあきらみなもとおやみなもとなかけん西行さいぎょう

おも著書ちょしょ

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おも作品さくひん

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  • さみだれのくもゐるやまの時鳥ほととぎすれぬおもえおとをやくらむ(『ぞく拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』)
  • ゆうさればなみだやあまるさをしかの入野いりののをばなそでつゆけき(『ぞく拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』)
  • いたずらにおもひこがれてとしもへぬひとをみぬめのうらしほ(『ぞく拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』)

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 文治ぶんじ年間ねんかん1185ねん - 1189ねんごろまれと推察すいさつされ、ぶんひさし年間ねんかん1264ねん - 1274ねんごろまで史料しりょうじょう所見しょけんがある。