(Translated by https://www.hiragana.jp/)
水原抄 - Wikipedia コンテンツにスキップ

水原みずはらしょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

水原みずはらしょう』(すいげんしょう)は、鎌倉かまくら時代ときよかわ内方ないほうによってあらわされたとされる『源氏物語げんじものがたり』の注釈ちゅうしゃくしょである。『原中はらなかさいしょう』の奥書おくがきのように「水原みずはら鈔」(「しょう」の手偏てへん金偏かねへんになっている)と表記ひょうきしているものもある。「水原みずはら」とは『源氏物語げんじものがたり』の「みなもと」の一文字ひともじを「へん(サンズイ)=みず」と「つくりはら」に分割ぶんかつしたものであるとされる[1]

概要がいよう

[編集へんしゅう]

本書ほんしょは、13世紀せいき中頃なかごろみなもとちかしぎょうによってあらわされたとされており、いわゆる河内かわうち学派がくはによる注釈ちゅうしゃくしょとしてもっと成立せいりつ時期じきふるいものである。ぜん54かん(『せんげんしょう』によると「じゅうかん」)あったとされており、この巻数かんすう現在げんざいの『源氏物語げんじものがたり』54じょう対応たいおうしているとかんがえられている。この「ぜん54かん」という巻数かんすうからみての「むらさきあきらしょう」(ぜん10かん)や「かわうみしょう」(ぜん20かん)とくらべても非常ひじょう大部たいぶのものであったとかんがえられている。『原中はらなかさいしょう』では、『源氏物語げんじものがたり』についての河内かわうち学派がくはおしえは「源氏物語げんじものがたり54じょう河内かわうちほん源氏物語げんじものがたり)、水原みずはらしょう54かん原中はらなかさいしょう上下じょうげ2かん文書ぶんしょされない口伝くでんから構成こうせいされる」としている。またここで「54じょう」と「54かん」が明確めいかく区別くべつされていることから、本書ほんしょ巻子本かんすぼんであったとかんがえられている。

本書ほんしょは、『原中はらなかさいしょう』や『むらさきあきらしょう』といった河内かわうち学派がくはのものだけでなく、『かわうみしょう』、『珊瑚さんごしょう』、『花鳥かちょう余情よじょう』といったこれ以後いごおおくの注釈ちゅうしゃくしょ、またなな毫源東山ひがしやま文庫ぶんこくら)のような写本しゃほんまれた注釈ちゅうしゃくなか数多かずおお引用いんようされている。これらのうち、「水原みずはらしょうから」と明記めいきして引用いんようされているものだけでもやくひゃく箇所かしょのぼり、そのにも「おやぎょううん」「おやぎょうせつ」「光行みつゆきうん」などとして引用いんようされる記述きじゅつもこの『水原みずはらしょう』のものではないかとかんがえられている。このようにひろられた本書ほんしょであったが、室町むろまち時代じだい中期ちゅうき一条いちじょう兼良かねらが『花鳥かちょう余情よじょう』で引用いんようして以後いごだれたことのないまぼろししょになってしまった。

成立せいりつ

[編集へんしゅう]

原中はらなかさいしょうとう記述きじゅつによれば、本書ほんしょみなもと光行みつゆき1163ねんちょうひろし元年がんねん) - 1244ねんひろしもと2ねん))が

らと合力ごうりょくしてつくげたものであるとされている。また、みなもと光行みつゆき完成かんせいするまえ死去しきょしてしまったために、光行みつゆきみなもとちかしぎょうのこされた草稿そうこうもと完成かんせいさせたものであるとされている。合力ごうりょくしたとされるこれらの人物じんぶつみなもとちかしぎょうとのあいだには、藤原ふじわら定家さだいえみなもとちかしぎょうとのあいだのように手紙てがみのやりとりやほんりなどをおこなった記録きろくみとめられる場合ばあいもあるものの、年齢ねんれい活動かつどう期間きかんがそれぞれかなりことなる人物じんぶつ同士どうしあいだでどの程度ていどの「合力ごうりょく」があったのか疑問ぎもんていする見解けんかいもある。

なお、『水原みずはらしょう』よりのち成立せいりつしたとされる『むらさきあきらしょう』には、こののちこった河内かわうち学派がくは主導しゅどうけんあらそいのなかでことさらにこの『水原みずはらしょう』にかれているせつこととなえているめんられることもあるとされるが、『水原みずはらしょう』のなかにもぎゃくに『むらさきあきらしょう』でとなえられたせつこととなえているとえる部分ぶぶん存在そんざいするため、『水原みずはらしょう』は一時いちじ完成かんせいしたのではなく、一度いちど完成かんせいしたのちもある程度ていど期間きかんにわたってくわえられていったのではないかとされている。

水原みずはらしょうさい発見はっけん

[編集へんしゅう]

昭和しょうわはいってから発見はっけんされ、河内かわうちほん系統けいとう写本しゃほんひとつとして『校異こうい源氏物語げんじものがたりおよび『源氏物語げんじものがたり大成たいせい 校異こういへん』に写本しゃほん記号きごううみ」、「源氏げんじちゅう なな海兵かいへい吉蔵よしぞう」としてその校異こうい採用さいようされた「あおいまき一部いちぶについてのだいされていない詳細しょうさい注釈ちゅうしゃくされた写本しゃほん七海ななうみ兵吉へいきち所蔵しょぞう、のち七海ななうみ吉郎よしろう所蔵しょぞうのいわゆる「七海ななうみほん」)が、しょしょ引用いんようされた『水原みずはらしょう』の逸文いつぶんていることから、これこそ『水原みずはらしょう』ではないかとして池田いけだ亀鑑きかんによって紹介しょうかいされた[2]。これについては賛成さんせいする意見いけんたものの、重松しげまつ信弘のぶひろどういち項目こうもくについておな河内かわち注釈ちゅうしゃくしょ秘伝ひでんしょ)である『原中はらなかさいしょう』の記述きじゅつ比較ひかくしたときに、てはいるもののまった同一どういつではなく、ちがいが存在そんざいすることから『水原みずはらしょう』とはいえない、とする見解けんかいべたため[3][4]池田いけだ一時期いちじき主張しゅちょうをトーンダウンさせることになった[5]。そのもこの写本しゃほんについて水源すいげんしょうであろうとする見解けんかい[6]水源すいげんしょうではなかろうとする見解けんかい[7]とが並立へいりつする状況じょうきょうになった。その、これにつづくとおもわれる写本しゃほん遠藤えんどうたけし所蔵しょぞうまたは弘文こうぶんそう反町そりまち茂雄しげお所蔵しょぞう、のち吉田よしだ幸一こういち所蔵しょぞうのいわゆる「吉田本よしたほん」)も発見はっけんされた[8]寺本てらもと直彦なおひこは、「みなもとちゅうさいしょう水原みずはらしょうたいして「秘説ひせつ」と位置いちづけられるべきものであるから、この両者りょうしゃまったおな文言もんごんでないのはむしろ当然とうぜんのことであり」[9]みなもとちゅうさいしょうとこの写本しゃほん比較ひかくしたときにこの写本しゃほん水原みずはらしょうであるとすることになん問題もんだいはないとの見解けんかい提出ていしゅつされ[10]以後いご主流しゅりゅう見解けんかいとなっている[11]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 田坂たさか憲二けんじ「「水原みずはらしょう」から「むらさきあきらしょう」へ」実践女子大学じっせんじょしだいがく文芸ぶんげい資料しりょう研究所けんきゅうじょへん実践女子大学じっせんじょしだいがく文芸ぶんげい資料しりょう研究所けんきゅうじょ叢書そうしょ I 源氏物語げんじものがたり注釈ちゅうしゃく世界せかい 写本しゃほんから版本はんぽんへ』汲古書院しょいん、1994ねん平成へいせい6ねん)3がつ、pp.. 163-187。 ISBN 4-7629-3297-3

翻刻ほんこくほん

[編集へんしゅう]
  • 紫式部むらさきしきぶ学会がっかいへん源氏物語げんじものがたり研究けんきゅう資料しりょう 古代こだい文学ぶんがく論叢ろんそうだい1輯』武蔵野むさしの書院しょいん、1969ねん昭和しょうわ44ねん)6がつ

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 水原みずはらしょう伊井いい春樹はるきへん源氏物語げんじものがたり 注釈ちゅうしゃくしょ享受きょうじゅ事典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2001ねん平成へいせい13ねん)9がつ15にち、pp. 412-413。 ISBN 4-490-10591-6
  2. ^ 池田いけだ亀鑑きかん水原みずはらしょうたして佚書いっしょか」『文学ぶんがくだい1かんだい7ごう、1933ねん昭和しょうわ8ねん)10がつ、のち池田いけだ亀鑑きかん選集せんしゅう物語ものがたり文学ぶんがくⅡ』至文しぶんどう、1969ねん昭和しょうわ44ねん)、pp.. 105-143。
  3. ^ 重松しげまつ信弘のぶひろ源氏物語げんじものがたり研究けんきゅうかたなこう書院しょいん、1937ねん昭和しょうわ12ねん)5がつ
  4. ^ 重松しげまつ信弘のぶひろしん攷源物語ものがたり研究けんきゅう風間かざま書房しょぼう、1961ねん昭和しょうわ36ねん)3がつ
  5. ^ 池田いけだ亀鑑きかん河内かわうちほん性格せいかく - 河内かわうち学派がくは本文ほんぶん研究けんきゅう水原みずはらしょう」『源氏物語げんじものがたり大成たいせい 研究けんきゅうへん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1985ねん昭和しょうわ60ねん)、pp.. 151-169。
  6. ^ 松田まつだ武夫たけお源氏物語げんじものがたりふるちゅう解題かいだい紫式部むらさきしきぶ学会がっかいへん源氏物語げんじものがたり研究けんきゅう資料しりょう 古代こだい文学ぶんがく論叢ろんそうだい1輯』武蔵野むさしの書院しょいん、1969ねん昭和しょうわ44ねん)6がつ
  7. ^ 研究けんきゅう通観つうかん-概観がいかん阿部あべ秋生あきおおか一男かずお山岸やまぎし徳平とくひらへん増補ぞうほ 国語こくご国文学こくぶんがく研究けんきゅう資料しりょう大成たいせい3 源氏物語げんじものがたりじょう三省堂さんせいどう初版しょはん1960ねん昭和しょうわ35ねん)、増補ぞうほばん1977ねん昭和しょうわ52ねん),、PP.. 5-14 とくにP. 7。
  8. ^ この「吉田本よしたほん」について、源氏物語げんじものがたり大成たいせいには「弘文こうぶんそうぞう」とあり、『源氏物語げんじものがたり研究けんきゅう資料しりょう 古代こだい文学ぶんがく論叢ろんそうだい1輯』には「遠藤えんどうたけしきゅうぞう吉田よしだ幸一こういち所蔵しょぞう」とある。この両者りょうしゃおな現在げんざい吉田本よしたほんばれているものをしているとられるが、遠藤えんどうたけしから弘文こうぶんそう吉田よしだ幸一こういち所蔵しょぞうになったのか、それとも弘文こうぶんそうから遠藤えんどうたけしわたり、その吉田よしだ幸一こういち所蔵しょぞうになったのかは不明ふめいである。
  9. ^ 寺本てらもと直彦なおひこ「「水原みずはらしょう」と「原中はらなかさいしょう」との関係かんけい--源氏物語げんじものがたり註葵まき考察こうさつ前提ぜんていとして」『国語こくご国文学こくぶんがくだい62かん6ごう、1985ねん昭和しょうわ60ねん)6がつ。 のち『源氏物語げんじものがたり論考ろんこう 注釈ちゅうしゃく受容じゅよう風間かざま書房しょぼう、1989ねん平成へいせい元年がんねん)12月、pp.. 73-92。
  10. ^ 寺本てらもと直彦なおひこ七海ななうみほん 吉田本よしたほん 源氏物語げんじものがたり註葵まきは『水原みずはらしょう』のれい簡か」『國語こくご國文學こくぶんがくだい63かん1ごう、1986ねん昭和しょうわ61ねん)1がつ。 のち『源氏物語げんじものがたり論考ろんこう 注釈ちゅうしゃく受容じゅよう風間かざま書房しょぼう、1989ねん平成へいせい元年がんねん)12月、pp.. 93-116。
  11. ^ 田坂たさか憲二けんじ河内かわうちほん注釈ちゅうしゃく伊井いい春樹はるき監修かんしゅう講座こうざ源氏物語げんじものがたり研究けんきゅう だい3かん 源氏物語げんじものがたり注釈ちゅうしゃく』おうふう2007ねん平成へいせい19ねん)2がつISBN 978-4-273-03453-5

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]