もののまぎれ

もののまぎれは、『源氏物語げんじものがたり』に記しるされた3つの事件じけんで起おこった事象じしょうを言いい、中なかでも藤ふじ壺つぼ事件じけんに伴ともなう事象じしょうを言いう。『源氏物語げんじものがたり』において重要じゅうような概念がいねんとされ、時ときに「主題しゅだいである」とされることもある語かたりである。

藤ふじ壺つぼ事件じけん

光源氏ひかるげんじが義母ぎぼである藤ふじ壺つぼと密通みっつうし、その結果けっか表向おもてむきには桐きり壺つぼ帝みかどの子こであるが実じつは光源氏ひかるげんじの子こである皇子おうじが生うまれ、その皇子おうじが冷泉れいせん帝みかどとして即位そくいし、冷泉れいせん帝みかどが自身じしんの出生しゅっしょうの秘密ひみつを知しったことにより実父じっぷである光源氏ひかるげんじに譲位じょういしようとしたが叶かなわずその代かわりに光源氏ひかるげんじを太上天皇だじょうてんのうに准じゅんずる待遇たいぐう（准じゅん太上天皇だじょうてんのう）にした。

女おんな三宮さんぐう事件じけん

柏木かしわぎが光源氏ひかるげんじの正妻せいさいである女おんな三さん宮みやと密通みっつうし、その結果けっか表向おもてむきは光源氏ひかるげんじの子こであるが実じつは柏木かしわぎの子こである薫かおるが生うまれた。

浮舟うきふね事件じけん

浮舟うきふねが薫かおるだと思おもって匂におい宮みやを迎むかえ入いれてしまった。

国語こくご的てき・辞書じしょ的てきな意味いみでの「もののまぎれ」

「もののまぎれ」という語かたりは、国語こくご的てき・辞書じしょ的てきな意味いみでは

• 物事ものごとの忙いそがしさなどにとりまぎれること（=どさくさまぎれ）
• 人目ひとめに隠かくれてひそかに事ことを行おこなうこと、特とくに男女だんじょ間あいだの公おおやけに出来できないの密会みっかいのことをそれとなくいうときに使用しようされる語かたり

の2つの意味いみを持もつとされる語かたりである。

『源氏物語げんじものがたり』の本文ほんぶん中ちゅうにおける「もののまぎれ」

「もののまぎれ」なる語かたりは『源氏物語げんじものがたり』の本文ほんぶん中ちゅうにおいても使つかわれており、「物事ものごとの忙いそがしさなどにとりまぎれること（=どさくさまぎれ）」という意味いみでは賢けん木き巻まきで「―にも左ひだりの大臣だいじんの御ご有様ありさまふと思おぼしくらべられて」と、あるいは少女しょうじょ巻まきで「上うえの御方おかたには、御簾みすの前まえにだに、もの近ちかうももてなしたまはず。わが御ご心しんならひ、いかに思おぼすにかありけむ、疎々うとうとしければ、御ご達たちなども気き遠とおきを、今日きょうはものの紛まぎれに、入はいり立たちたまへるなめり。」と、また後者こうしゃの意味いみでは若菜わかな下か巻まきにおいて「帝みかどの御ご妻つまをも過あやまつたぐひ、昔むかしもありけれど、それはまたいふ方ほう異ことなり。宮仕みやづかえへといひて、我がも人ひとも同おなじ君くんに馴なれ仕つかうまつるほどに、おのづから、さるべき方ほうにつけても、心しんを交はしそめ、もののまぎれ多たかりぬべきわざなり。」と使つかわれている。

このように『源氏物語げんじものがたり』の本文ほんぶん中ちゅうにおいて秘ひめられた男女だんじょ関係かんけいを指さす意味いみで「もののまぎれ」という語かたりが使つかわれていることは確認かくにんできるものの、用例ようれいも少すくなくまた少すくない用例ようれいの中なかで「もののまぎれ」・「ことのまぎれ」・「まぎれ」といった少すこしずつ異ことなる表現ひょうげんが混在こんざいしており、それらの異ことなった表現ひょうげんがどのように使つかい分わけられているのかは必かならずしも明あきらかでは無ない。『源氏物語げんじものがたり』の本文ほんぶん中ちゅうでの秘ひめられた男女だんじょ関係かんけいを指さす意味いみでの「もののまぎれ」等とうの語かたりは、柏木かしわぎ事件じけんのことを指さした事例じれいのみが確認かくにんできる。『源氏物語げんじものがたり』以外いがいでは『栄華えいが物語ものがたり』などの中なかにも若干じゃっかんの用例ようれいが見みられるが、これも「合意ごういの上うえでの男女だんじょの秘ひめ事ごと」を意味いみすると見みられており、本来ほんらい「もののまぎれ」という語かたりは藤ふじ壺つぼ事件じけんにおける皇統こうとうの乱みだれを意味いみするような語かたりではないとの指摘してきもある。

もののまぎれ論ろんの歴史れきし

『源氏物語げんじものがたり』を理解りかい・説明せつめいするための術語じゅつご・概念がいねんとして「もののまぎれ」が取とり上あげられたのは、主しゅとして江戸えど時代じだいと昭和しょうわ時代じだいの戦前せんぜん期きである。これらはそれぞれ儒学じゅがく・漢学かんがく的てき立場たちばからの「姦淫かんいんの書しょ」・「不義ふぎの書しょ」という批判ひはんの高たかまった時期じき、あるいは万世ばんせい一系いっけいを軸じくとした天皇てんのう制せいの立場たちばから『源氏物語げんじものがたり』に対たいする批判ひはんが高たかまった時期じきであって、「もののまぎれ」はそれらの「『源氏物語げんじものがたり』批判ひはん」から『源氏物語げんじものがたり』を擁護ようごするために唱となえられたという性格せいかくを有ゆうしているためだと考かんがえられている。

江戸えど時代じだいのもののまぎれ論ろん

『源氏物語げんじものがたり』を理解りかいするための術語じゅつごとして初はじめてこの「もののまぎれ」を取とり上あげたのは江戸えど時代じだい中期ちゅうきの国学こくがく者しゃ安藤あんどう為ため章あきらである。安藤あんどう為ため章あきらは、その著書ちょしょ『紫むらさき家か七なな論ろん』の中なかの「其その六ろく 一部いちぶ大事だいじ」（＝一番いちばん大事だいじなこと）において、藤ふじ壺つぼ事件じけんの一連いちれんの経緯けいいを取とり上あげて「もののまぎれ」と呼よび、その上うえで、『源氏物語げんじものがたり』の中なかで描えがかれているこの「もののまぎれ」は、

• 「紛まぎれ」を起おこした光源氏ひかるげんじも皇子おうじであるのだからこの「紛まぎれ」は皇統こうとうに藤原ふじわら氏しなど臣下しんかの血統けっとうが紛まぎれたのではなく、皇すめらぎ胤たねの中なかでの紛まぎれに過すぎない
• 「紛まぎれ」により生しょうじた「冷泉れいせん帝みかどの皇統こうとう」は続つづくこと無なくそこで途絶とだえ、それ以後いごは「桐きり壺つぼ帝みかど」-「朱雀すざく帝みかど」-「今こん上帝じょうてい」という本来ほんらいあるべき正ただしい皇統こうとうが続つづいている

ということから、『源氏物語げんじものがたり』の中なかで描えがかれている「もののまぎれ」は、あくまでも「文学ぶんがく的てき修飾しゅうしょく」とでも言いうべきものであって「皇統こうとうの権威けんいを犯おかす記述きじゅつである」というような大おおきく問題もんだいとするべきものではないとした。この時代じだいにこのような「もののまぎれ」という主張しゅちょうが生しょうじたのは、当時とうじの儒学じゅがく者しゃ・漢学かんがく者しゃからの『源氏物語げんじものがたり』に対たいする「姦淫かんいんの書しょ」・「不義ふぎの書しょ」という批判ひはんを受うけてのことであると考かんがえられている。

江戸えど時代じだい全般ぜんぱんで見みると、賀茂真淵かものまぶち（『源氏物語げんじものがたり新釈しんしゃく』）や萩原はぎはら広道ひろみち（『源氏物語げんじものがたり評釈ひょうしゃく』惣そう論ろん）は安藤あんどう為ため章しょうの論理ろんりを基本きほん的てきに肯定こうてい的てきな立場たちばで受うけ継ついでいった。

これに対たいし、契沖けいちゅうは安藤あんどう為ため章しょうのように藤ふじ壺つぼ事件じけん全体ぜんたいを「もののまぎれ」で説明せつめいしようとしたことを漢かん心しん（からごころ）の反映はんえいであるとして批判ひはんし、さらに本ほん居きょ宣長のりながは、『紫むらさき文ぶん要領ようりょう』や『源氏物語げんじものがたり玉だまの小しょう櫛くし』において、藤ふじ壺つぼ事件じけんのうち光源氏ひかるげんじが藤ふじ壺つぼと結むすばれる部分ぶぶんについては母ははの面影おもかげを追おい求もとめてのことであるなどとして、「もののあはれ」によって説明せつめいし、その結果けっか皇子おうじが生うまれて以降いこうのことのみを「もののまぎれ」によって説明せつめいしようとしている。

このように江戸えど時代じだい全般ぜんぱんの「もののまぎれ」についての主張しゅちょうを見みると、賀茂真淵かものまぶちや萩原はぎはら広道ひろみちのように安藤あんどう為ため章しょうを肯定こうてい的てきに受うけ継つぐ立場たちばと契沖けいちゅうや本ほん居きょ宣長のりながのように批判ひはん的てきに受うけ継つぐ立場たちばの2つの大おおきな流ながれが存在そんざいすると考かんがえられる。

昭和しょうわ初期しょきのもののまぎれ論ろん

明治めいじ政府せいふでは王政おうせい復古ふっこにより日本にっぽんという国くには「万まん世せい一系いっけいの天皇てんのうによって統治とうちされる」と理由りゆう付づけされた。そのような社会しゃかい情勢じょうせいの中なかでは、例たとえ作つくり物ものの物語ものがたりの中なかでの出来事できごとであるとしても「不倫ふりんによって出生しゅっしょうした天皇てんのうの子こではない人物じんぶつが正当せいとうな天皇てんのうの子ことして即位そくいする」というような記述きじゅつが存在そんざいする事ことは見逃みのがすことは出来できないと考かんがえられるようになっていった。

国粋こくすい主義しゅぎ的てき機運きうんの高たかまった昭和しょうわ初期しょきにおいて、『源氏物語げんじものがたり』の中なかで描えがかれている「藤ふじ壺つぼ事件じけん」について

• 光源氏ひかるげんじが皇后こうごうと不義ふぎ密通みっつうをしたこと
• 不義ふぎ密通みっつうによって生うまれた子こが天皇てんのうに即位そくいしたこと
• 臣籍しんせき降下こうかした光源氏ひかるげんじが、天皇てんのうに即位そくいした自身じしんの子こから准じゅん太上天皇だじょうてんのうの待遇たいぐうを受うけたこと

の3項目こうもくを問題もんだい視しし、『源氏物語げんじものがたり』を「大だい不敬ふけいの書しょ」であるとして教科書きょうかしょへの掲載けいさいをやめさせたり、『源氏物語げんじものがたり』を題材だいざいとした劇げきの上演じょうえんを取とりやめさせたりしており、そのような情勢じょうせいの中なかで当時とうじ出版しゅっぱんされた『源氏物語げんじものがたり』の現代げんだい語ご訳やくでは問題もんだいとなりそうな部分ぶぶんについて

• 伏ふせ字じにする（与謝野よさの晶子あきこ訳わけ）
• 全面ぜんめん的てきに削除さくじょする（谷崎たにざき潤一郎じゅんいちろう訳わけ）
• 学者がくしゃによる原文げんぶんと現代げんだい語ご訳やくが対照たいしょうとなっている本ほんでは該当がいとうする部分ぶぶんだけ原文げんぶんのみとして現代げんだい語ご訳やくを行おこなわない（吉澤よしざわ義則よしのり訳わけ）

といった対応たいおうがとられていた。

そのような時代じだいに、山口やまぐち剛つよしは『源氏物語げんじものがたり』を擁護ようごしようとする立場たちばから「もののまぎれ」なる概念がいねんを使用しようして「女おんな三宮さんぐう事件じけんが起おこって光源氏ひかるげんじが罪つみをおかされる側がわにたったことは、藤ふじ壺つぼ事件じけんで罪つみを犯おかした側がわにたった光源氏ひかるげんじに対たいする応報おうほうであり、光源氏ひかるげんじの罪つみを軽かるくするものである。」等とうと論ろんじている。。

三谷みたに邦明くにあきのもののまぎれ論ろん

『源氏物語げんじものがたり』に対たいする儒学じゅがく・漢学かんがくからの批判ひはんや国粋こくすい主義しゅぎ的てき観点かんてんからの批判ひはんが弱よわまると、その対抗たいこう的てき概念がいねんとして発生はっせいした「もののまぎれ」は、過去かこの歴史れきし的てきな概念がいねんとして取とり上あげられるだけの存在そんざいになりつつあった。そのような中なかで、三谷みたに邦明くにあきはこの「もののまぎれ」を積極せっきょく的てきに取とり上あげて、『源氏物語げんじものがたり』とは「密通みっつうの文学ぶんがく」であり、『源氏物語げんじものがたり』は、血統けっとうと血統けっとうに基もとづく身分みぶんが絶対ぜったいである時代じだいに正ただしい血統けっとうを持もたない人物じんぶつが最高さいこうの地位ちいに就つくという物語ものがたりを描えがくことによって、血統けっとうと血統けっとうに基もとづく身分みぶん、中なかでも最高さいこうの地位ちいである帝みかど（＝天皇てんのう）が絶対ぜったいである社会しゃかいに対たいする批判ひはんをおこなったものであるとして「もののまぎれ」を『源氏物語げんじものがたり』全体ぜんたいを通とおしての主題しゅだいであるとした。さらには皇統こうとうについての「もののまぎれ」が描えがかれていることについて、それは「反はん万まん世せい一系いっけい論ろん」と呼よぶべきものであるとの主張しゅちょうを行おこなった。

従来じゅうらいの「もののまぎれ」論ろんにおいては、『源氏物語げんじものがたり』の中なかで「もののまぎれ」が起おきたとされる「藤ふじ壺つぼ事件じけん」・「女おんな三宮さんぐう事件じけん」・「浮舟うきふね事件じけん」の三みっつの事件じけんのうち「藤ふじ壺つぼ事件じけん」が飛とび抜ぬけて重要じゅうようなものであり、これだけが問題もんだいとされることも多おおかったのに対たいして、三谷みたにの「もののまぎれ」論ろんにおいては、『源氏物語げんじものがたり』の主題しゅだい「もののまぎれ」が『源氏物語げんじものがたり』全ぜん帖じょうにわたって描えがかれていく中なかで「藤ふじ壺つぼ事件じけん」も「女おんな三宮さんぐう事件じけん」も「浮舟うきふね事件じけん」に行いき着つくための必要ひつようから描えがかれたものであると規定きていされている。この三谷みたに邦明くにあきの「もののまぎれ＝反はん万まん世せい一系いっけい論ろん」は広ひろい賛同さんどうを得えることは出来できなかったものの、『源氏物語げんじものがたり』の主題しゅだいを説明せつめいするための特異とくいな論説ろんせつとしてしばしば取とり上あげられている。

参考さんこう文献ぶんけん

• 三谷みたに邦明くにあき『源氏物語げんじものがたりの方法ほうほう 〈もののまぎれ〉の極北きょくほく』翰林かんりん書房しょぼう、2007年ねん（平成へいせい19年ねん）4月がつ。ISBN 978-4-87737-244-6

関連かんれん項目こうもく

• もののあはれ